第18話 雨師

1


「鈴太よ。今のは? おぬしから飛び出した今のあれは何じゃ?」

「天子さん。小青しゃおちんだよ!」

「しゃおちん?」

水虎すいこだよ、水虎がついにやったんだ!」

「水虎? まさか、家の神棚の横に祀ってあった、水虎の形見か?」

「そうだよ。水虎はむかし、風伯ふうはくには吹き散らされて悔しい思いをしたっていうじゃないか。ついにかたきを取ったんだよ」

「おお」

「長壁」

「はい、法師さま」

「風伯は、消えたのか?」

「はい。消えましたです。妖気の残滓がありますが、大した量ではありませんです」

「残滓が? ふむ」

「法師どの、まこと風伯は消滅したのであろうか?」

「いや、消滅したわけではなかろうな」

「というと?」

「風伯は風じゃ。実体があるようで、ない。ないようで、ある。形のある攻撃では、完全に滅することはできんじゃろうなあ」

「風伯はどうなったのじゃ?」

「あの強力な虎の手で押しつぶされたのじゃ。四散してしもうたのじゃろう」

「ということは、どうなる?」

「いったん完全に形を失ってしもうたわけじゃ。実体を取り戻すには、何日も、あるいは何年もかかろうよ」

「では、倒したと同じことじゃ」

「そうじゃ。そうでなくても、天逆毎に、もう一度風伯を顕現させるような余力があろうはずもない。わしらは勝ったのじゃ」

 勝った。

 そう言われてみて、よろこびがにじみ出てきた。

「鈴太。何を泣いておる」

「あらあ。そこは気づかないであげるのが、女のやさしさよお」

「ははは。ついに終わったのう。雨師うしは消え去り、風伯は散り散りとなって消し飛んだ。天逆毎あまのざこは結界のなかには入って来ることができん。わしらは勝ったのじゃ」

「勝った。勝ったんですね。俺たちは、守りきったんですね」

「鈴太よ、ようやった」

「ありがとう、天子さん」

「これ、妖婦。何をしようとしておる」

「あら、とめないでえ。祝福のキスよ」

「させるか」

「ははは。鈴太よ、あのかたのごようすをみてきてくれんか」

 和尚さんが自分で行けばいいのにと一瞬思ったけど、やっぱり近づきにくいんだろうなと思い直した。

「はい。……あれ?」

「あらん」

「うん? また雨が降ってきたのう」

「法師どの。しかたあるまい。台風じゃ」

「そうか。台風であったなあ」

「台風がそのままあやかしという、とてつもない神霊であったが、台風そのものは、自然に生じたものなのであろうの」

「それはそうじゃ。天狐よ、いかに神霊とはいえ、無から有を生み出すのはおおごとじゃ。じゃから、太平洋から小さな台風を大きくふくらませて持ってきたのじゃ」

「この雨、何かいやな匂いがするわあ」

「匂い、じゃと? そういえば」

「この雨、邪気のかたまりなのです……でも、それよりも」

「ちみっこ。どうした?」

「何かが」

「うん?」

「この上空で、何かが起きてるです」

 俺は雲に覆われた暗い空をみあげた。

 渦巻く台風の雲以外、何もみえない。

「何もないぞ?」

「段々、気配が強くなってるです」

 降る雨に打たれながら、手をかざして空をみあげる。

 やはり雲と雨しかみあたらない。

「ちびっこ。気のせいじゃ……」


 はははははは


 笑い声が響く。

 遠い遠い空の果てから、笑い声が響く。

 鼓膜の奥がびりびりするような、とてつもない笑い声だ。

「法師どの! これは?」

「何が起こっておる? まさか?」

「来ます! 上空約二百メートルに、何かが出現しますです!」


 はははははは


 またも笑い声が響く。

「これは、この気配は! 雨師なのです!」

「なにっ」

「まさかっ」

「消えたんじゃなかったのか?」

 虚空にもやもやとしたものが現れ、次第に色濃くなってゆく。

 だが。

 だが、この大きさは。

「何? なんなのよう、この大きなものは」

 そして、ぼおん、と空間が地響きを起こし、雨師が姿を現した。

 距離は先ほどの風伯より、ずっと離れている。

 そうであるのに、目に映る雨師の姿は、風伯よりも、はるかに大きい。

 身の丈百メートルを超える巨大な神霊。

 それが雨師だった。

 伸び上がった長い頭の頂上付近には髪がない。

 体には仙人の着るようなさらさらの長衣をまとっている。

 白い雲に乗っており、ぐねぐね曲がった長い木の杖を右手に持っている

 白い口ひげと顎髭が上品だ。

 長い口髭は、まっすぐに垂れ下がり、腰のあたりまで届いている。

 やせた老人のような風貌で、表情はやさしい。やわらかな笑みさえ浮かべている。

 だが、この老人こそが、最強の神霊なのだ。

 いったん消えたから、もう現れないんじゃないかと、いつのまにか思い込んでいた。いや、そう期待していた。

 だけど現実は、そんなに甘くなかった。

 同時には出せないから、風伯を出すために、一度雨師を引っ込めた。

 だけど雨師は消滅したわけじゃなかった。ただ引っ込んでいただけだったんだ。

 だから風伯が消えた今、雨師は姿を現した。

 俺は、仲間たちをみわたした。

 片腕を失った和尚さん。

 法術攻撃をしようにも、あの高さじゃ届かないだろう。

 立つのもやっとの天子さん。

 爪の攻撃は使ってしまったから、もう何の攻撃能力も残っていない。そして切り札の障壁も、さっき風伯に破られた。もう強い障壁を張ることはできないだろう。張っても、この巨大神霊に太刀打ちできるとは思えない。

 びしゃんと大きな音がしたので振り向くと、和尚さんがぬれた大地に座り込んでいた。

 その目には、もう力がない。

 やっぱり右腕を失ったことは、大きな痛手だったんだ。だけど無理やりに平気な顔をして、みんなを励まし指揮を執ってきた。でも、その頑張りも、もう限界なんだ。

 天子さんの顔にも、もう燃え立つような気迫はない。悲しげで苦しげだ。

 童女妖怪は、とあたりをみたけど、童女妖怪がいない。

 いったいどこに消えたんだろう。

 雨が降り始めた。

 少しずつ勢いが強くなってゆく。

 雨師は静かに笑っている。

 その目線が屋根のない社殿に向いた。

 ひでり神さまをみてる。

 雨師にとっても、ひでり神さまは仇敵だ。

 その仇敵の上に、蕭々と雨を降らしている。

(この雨)

(この雨はおかしいぞ)

(体が)

(体がだるい)

 物音がしたので振り返ると、山口さんが倒れていた。

 この雨のせいだろうか。

 この雨には、命の力を奪うような、あるいは生き物を毒するような性質があるんだろうか。

 くらっとした。

 この雨の効果は、俺をもむしばんでいるようだ。

 雨師が笑っている。

 にこにこと笑っている。

 すうっと巨大な右手を差し伸べた。

 ひらひらと、長いたもとが揺れている。

 にぎった杖から、まばゆい光のようなものが生じた。

 水流だ!

 まるでさっきの水の竜のような。

 その水流は、転輪寺が吹き飛ばされた跡に着弾し、被害を受けていた転輪寺の跡を、さらに吹き飛ばした。

 なんという威力だろう。

 そしてこの巨神は、同じ攻撃を何度できるんだろう。

 もてあそんでいるんだ。

 いつでもお前たちを殺せるのだとみせつけて。

 次第に弱ってゆき、絶望してゆく俺たちをみおろして。

 愉悦をかみしめているんだ。

 毒の雨は、ますます強くなる。

 もう、立っているのもやっとだ。

 建物のなかに駆け込もうにも、もう屋根もない。

 どこにも行く場所はない。

 何もできることはない。

 これで終わりなんだ。

 そう思ったとき、俺の心に怒りが湧いた。

(ふざけるなよ)

(これで終わりだって?)

(天子さんの)

(和尚さんの)

(羽振一族の)

(千二百年に及ぶ奉仕は)

(献身は)

(すべてむだだったっていうのか?)

(来る日も来る日も積み石を積み続けたひでり神さまの贖罪は)

(すべてなかったことにされるのか?)

(そんなこと)

(そんなこと)

(絶対に許さない!)

 東の空に、ちらりと光が差した。

 降る雨を通して、山の向こうのあかりがみえる。

 夜明けだ。

 日が昇ろうとしているんだ。

 ぽわっと光がともった。

 社殿の前の石の八足はっそくに光がともったのだ。

 そしてそこに、一個の白い石が生まれた。

 やわらかな光をまとっている。

(積み石だ)

(贖罪の石だ)

 一歩を踏み出そうとして、愕然とした。

 体が動かない。

 金縛りとかじゃなくて、動くだけの力がない。

 動こうとすると、関節がぎしぎしきしむ。

 それでも、俺は最後の力を振り絞って、八足に歩み寄った。

 そして積み石を右手でつかみとった。

 歩く。

 歩く。

 社殿の回りを歩いて、社殿の横に出る。

 そしてさらに歩く。

 あの角を曲がれば、社殿の裏側に出る。

 社殿の後ろには階段がある。

 その階段は、骨ヶ原こつがはらにつづく唯一の道だ。

 ひでり神さまにしかみえない階段だ。

 だけど、今の俺なら。

 真眼持ちの俺が意識を集中するなら。

 きっと階段がみえるはずだ。

 そう信じて最後の角を曲がった。

 あった。

 階段があった。

 俺は泣いた。

 そこに一しずくの希望が残されていたことを知って泣いた。


2


 俺は階段を降りた。

 どこまでも、どこまでも、降りていった。

 いつのまにか、雨はやんでいる。

 でももう、そんなことはどうでもよかった。

 歩いても、歩いても、階段は終わらなかった。

 骨ヶ原は、みえているのに少しも近づかなかった。

 それでも俺は歩き続けた。

 もう何百段、歩いたろう。

 みんなは、もう殺されてしまったんだろうか。

 そんな思いが心に去来する。

 それでも俺は、歩くしかなかった。

 鉛のように重い足を引きずって、俺は歩き続けた。

(歩かなきゃ)

(歩かなきゃ)

 自分の体が自分のものではないようだ。

 あらゆる感覚が失われている。

(歩かなきゃ)

(歩かなきゃ)

 けだるかった。

 しんどかった。

 今すぐ倒れて眠ってしまいたかった。

(だめだ)

(だめだ)

(眠っちゃだめだ)

 なんで俺は歩いているんだろう。

 こんなに苦しい思いをして歩いても、もうどうにもならないのに。

(止まったら)

(それでおしまいだ)

 そうだ。

 俺が止まったら、それでおしまいだ。

 何もかもが終わる。

 すべての希望がなくなる。

(だから)

(歩き続けるんだ)

 涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、俺は階段を踏みしめ続けた。

 そしてやっと、俺は骨ヶ原に降り立った。


3


 そこは真っ白な空間だった。

 地面は真っ白な砂利でおおいつくされている。

 その真っ白な砂利を敷き詰めた広大な広場のあちこちに、小さな石が積み上げられている。

 何十万個だったか忘れた。

 ひでり神さまは、自分が殺した人々の数だけ、罪石を積まなくちゃならない。

 その数は、何十万個という数だったはずだ。

 突然。

 俺は気づいた。

 石じゃない。

 白い砂利なんかじゃない。

 骨だ。

 粉々に砕け散った骨だ。

 その上を俺は歩いているんだ。

 ぞおっとした。

 なんというおぞましさだろう。

 そして、衝撃を受けた。

 ひでり神さまは。

 この上を歩いたんだ。

 自分が殺した無数の人々の骨の上を。

 千二百年間歩き続けたんだ。

 なんというむごい拷問だろう。

 なんという厳しい勤めだろう。

 あまりにひどすぎる。

 こんなことがあっていいんだろうか。

 こんなことが許されるのか。

 いや、そうじゃない。

 そうじゃないんだ。

 そのむごさこそが。

 ひでり神さまが抱える苦しみに引き合うんだ。

 そのひどい勤めこそが、贖罪にあたいするんだ。

 だけど、もういいんじゃないだろうか。

 ぐるりと俺は、骨ヶ原をみわたした。

 俺の身長ほどの小さな山が無数に続いている。

 小さな小さな石を積み上げた山だ。

 贖罪の山だ。

 視界の果てまで山は続き、その向こう側は立ちこめる霧でみえない。

 新しい涙が頬を伝う。

 これを一人でやってきたんだ。

 これほどのものを、一人で黙々と積み続けたんだ。

 俺は一番手近な山をみた。

 そのてっぺんに、ちょうど石一個が置ける場所がある。

 右手に握った罪石をみた。

「どうか、この一個が、最後の一個でありまように」

 俺は山の上に石を載せた。

 そして手を放して三歩下がった。

 何が起きるだろう。

 何が起きてくれるだろう。

 そう思いながら、じっと待った。

 だけど、どれほど待っても、何も起きなかった。


4


 俺は天を仰いだ。

 そして小さくつぶやいた。

「神様」

「俺の言葉を聞いていただけませんか」

「あなたの名前は知りません」

「だから何と呼びかければいいのかわかりません」

「それでも俺の言葉を聞いていただけませんか」

 言ってどうなるものでもない。

 そんなことはわかっている。

 でも、言わずにはおれなかった。

「もう充分じゃないですか」

「これをみてください」

「骨ヶ原を埋め尽くす、この積み石の山をみてください」

「数えきることもできない、積み石の山々のすべてをみてください」

 なみだがあふれて、空がみえない。

 どうせ曇った空をみても、何がみえるわけではない。

 それでも俺は、天を振り仰ぎながら、言葉を続けた。

「ひでり神さまのせいで、多くの人が死んだといいます」

「何十万人もの人が死んだといいます」

「それはそうなんでしょう」

「死んだ人たちは、ひでり神さまを恨んだかもしれません」

「死んだ人たちの妻や、夫や、こどもや、孫や」

「親や、友人や、そのほかたくさんの人も」

「ひでり神さまを恨んだかもしれません」

 声が段々大きくなってゆく。

 それとともに、感情もたかぶってゆく。

「その人たちには理由があります」

「ひでり神さまを恨むだけの理由があります」

 不思議なことだけれど、誰かが俺の言葉を聞いているような気がする。

 こんな誰も知らない場所でつぶやく、俺の言葉を、誰かが聞いているような気がする。

「でも、感謝する人もいるんじゃないんですか」

「そもそも」

「そこにいるだけで多くの人を殺してしまうほどの力を」

「ひでり神さまは何のために望んだか」

「そのことをご存じでしょう」

 俺は意識して、はっきりと言葉をつむいだ。

 誰が聞いていようといまいと関係ない。

 天地に俺の言葉を刻むんだ。

「暴虐に苦しむ人々のため」

「その人々を救わんと立ち上がった勇気ある若者を助けるため」

「ひでり神さまは力を望んだんです」

 たとえどんな悲惨で無残な結末しか訪れないとしても。

 この言葉を天地に焼き付けるんだ。

「その力によって、よこしまな者は打ち破られ」

「世界に正義と平和がもたらされ」

「人が笑い合って暮らせる時代が訪れたんじゃないんですか」

 声の高まりを抑えられない。

 沸き立つ心を抑えられない。

「そのことを!」

「そのことをほめてはくださらないんですか!」

「よくやったとねぎらってはくださらないんですか!」

 だめだ。

 だめだ。

 こんな言葉では足りない。

 まったく足りていない。

 では、どう言えばいいんだろう。

 どんな言葉をつむげばいいんだろう。

「そのあとに生まれ暮らす人々は」

「ひでり神さまのことを知らないでしょう」

「自分の幸せは」

「ひでり神さまの献身の上に成り立っているのだと」

「知ることはないでしょう」

「だから感謝もしなかったはずです」

「感謝の祈りをささげることもなかったはずです」

「しかし営々と続く人の営みをみまもるあなたがたこそ」

「ひでり神さまの功績を知っておられるはずです」

「そうではないのですか」

「それでも神々は恨みの言葉には耳を傾け」

「言葉にされることのなかった感謝には耳を傾けてくださらないんですか!」

 高まった気持ちははき出されてしまい。

 俺の胸はしぼんでゆく。

 でもまだ終わりじゃない。

「欲のためではなかったんです」

「自分の利益のためではなかったんです」

「苦しむ人々を救うため」

「愛する若者を助けるため」

「ひでり神さまは力を望んだんです」

「身に余る力を得ようとしたことが罪でしょうか」

「愛のために戦ったことが罪でしょうか」

「どんな力を望むことなら許され」

「どんな力を望むことは許されないのか」

「俺にはわかりません」

「でも人を愛し」

「愛した人を助けようとすることが」

「罪になるわけがありません」

「もしもそうなら」

「この世に愛など必要ありません」

「愛に意味などないからです」

「そうではありませんか」

「ひでり神さまは一切のみかえりを求めませんでした」

「みずからは何も得ようとしなかったんです」

「だから決して欲ではなかったんです」

 まだだ。

 まだ言わなくちゃいけないことがある。

 俺は言葉を探した。

「ただいるだけでひでりをもたらす存在になってしまい」

「一番悲しんだのはひでり神さま自身です」

「だから追放を命じられたとき従容として従いました」

「愛する者をそれ以上苦しめないために」

「すべての苦しみをたった一人で背負ったんです」

「思い出の多い土地を飛び去ったひでり神さまが」

「富士山を噴火させてしまったのは」

「確かに罪にちがいありません」

「そのために多くの人々が」

「命を失ってしまったんですから」

「家族を財産を失ってしまったんですから」

「だからひでり神さまは」

「弘法大師さまのお言葉にしたがい」

「この地で積み石を積み続けたんです」

 再び激情が、俺の胸にわきあがった。

「これをみてください!」

「この積み石の山がどこまでも連なる光景をみてください!」

「たった一人で千二百年ものあいだ」

「これほどの贖罪を続けるほど」

「ひでり神さまは深く反省したんです」

「死んでしまった人たちに謝り続けたんです」

 段々と、俺の声は小さくなる。

 細くなる。

 無念さに。

 失望に。

 俺の声は小さくなる。

「その贖罪は」

「反省は」

「謝罪は」

「死んでしまった人たちには届かなかったんでしょうか」

「死んでしまった人たちは」

「千二百年にわたりひでり神さまがみずからを苦しめ続けるのをみて」

「許す」

「と言ってはくださらないんでしょうか」

 もうほとんど言うべきことは言った。

 でもあと少しだけ。

 言わなきゃならないことがある。

「そしてこれは、ささいなことではありますが」

「ひでり神さまに助けられたあやかしの子孫は」

「弘法大師さまに直訴して」

「ひでり神さまの救済を懇願しました」

「その心とひでり神さまの境遇をあわれんで」

「弘法大師はこの場所を調え」

「贖罪の道を示しました」

「その道をひでり神さまが」

「たゆむことなく怠ることなく歩み続けたことは」

「お聞きくださった通りですが」

「ひでり神様に助けられたあやかしの子孫である小さなあやかしは」

「格別の寿命を与えられ」

「ひでり神さまの修行成就を」

「千二百年にわたってみまもり続けました」

「その心根をあわれとは思ってくださいませんか」

「人に尽くすその行いをけなげとは思ってくださいませんか」

「ほかにも法師が一人」

「ひでり神さまを守って戦い続けてきました」

「おそれながらわたくしの一族も」

「千二百年にわたって代々贖罪をお助けしてきました」

「それはひでり神さまのご功績をお慕いし」

「そのご境遇をお気の毒と思ってのことです」

「そうした思いや行いに」

「わずかでも価値があると思ってくださるなら」

「足りない石の代わりとして受け取ってくださいませんか」

 言った。

 言うべきことは、すべて言った。

 俺は深々と頭を下げて、長い長い訴願を結んだ。

「ひでり神さまのために死んでしまったかたがたに申し上げます」

「どうかひでり神さまをお許しください」

「許すと天に告げてください」

「そして天の神々に申し上げます」

「死んでしまった人たちの」

「許しの言葉をお聞きになったら」

「後悔とつぐないが意味を持つのだとおぼしめされるなら」

「ひでり神さまが天に帰ることを」

「どうかお許しください」

 言葉を終え、それが大地にしみこむほどの時間がすぎた。

 俺は頭を上げた。

 ぐらっ、と大地が揺れた。


5


 地揺れは激しくなってゆく。

 俺は立っているのもやっとだ。

 がらがらがらっと、何かが崩れるような音がする。

 驚いて音がするほうをみると、信じがたいことが起きていた。

 階段だ。

 階段が骨ヶ原から現れ、天に向かって伸びてゆく。

 そして雲を突き破り、さらに上方に伸び上がった。

 その階段をのぼってゆく者がいる。

 一人ではない。

 十人でもない。

 千人、万人、何十万人の人がのぼってゆく。

 男がいる。

 女がいる。

 おとながいて、こどもがいて、老人がいる。

 裕福そうな着物を着た人がいる。

 貧しそうな人もいる。

 その人たちがみな、天に向かって階段をのぼってゆく。

 手にはそれぞれ何かをにぎっている。

 老人も、若者も、母親に抱かれた生まれたばかりの赤ん坊も。

 小さな石をにぎっている。

 白い石をにぎっている。

 積み石だ。

 積み石は、天界へのパスポートだったんだ。

 誰もうなだれてはいない。

 顔を上げ、天に視線を送っている。

 天をみながら決然としてのぼってゆく。

 あの人たちはみな、天に着いたら言うべき言葉があるんだ。

 すべての人が上りきると、階段は霧のなかに消えた。

 ひとたび、あかりは消え果てた。

 どれほどの時間が過ぎたろう。

 黒く立ち込めた雲の一角に、ぽつり、とあかりが差した。

 雲に空いた穴はみるみる大きくなり、強い一条の光が天から地上に届き、骨ヶ原を照らし出した。

 あまりのまぶしさに、何もみえない。

 あれは何だ?

 天からひらひらと舞いながら降りてくる、あれは何だ。

 それは輝く翼を持った鳥だ。

 何百羽という鳥たちだ。

 その鳥たちは骨ヶ原に舞い降りた。

 気がつけば、骨ヶ原の大地は緑の草で覆われている。豊かな草原となっている。

 その緑の草原に、天から降りた鳥たちは吸い込まれてゆく。

 たった一羽の鳥が、俺のところに飛んできた。

 そして俺の服の襟首をくわえると、ばさばさと翼をはためかせて舞い上がった。

 あっというまに俺は宙に釣り上げられる。

 しばしの空中遊泳のあと、地守神社の裏に到着して降ろされた。

 事態の推移ついてゆけずに呆然としながら、俺は樹恩の森をみつめていた。

 暗闇に沈んだ樹恩の森の真ん中が、ぼうっと光った。

 何かが。

 何かが立ちのぼってくる。

 三山の裾野に広がる樹恩の森から、光り輝く何かが立ちのぼってくる。

 上に、上に。

 とどまることなく何かが立ちのぼってくる。

 球体だ。

 その球体は、姿を現すほどに巨大になる。

 森の中心部を埋め尽くすその広さは、直径十キロにも達しているだろうか。

 いや、球体じゃない。

 これは。

 これは。

 みまもるうちにも、その何かは上昇する。

 その頂上は、あっというまに、俺と同じ高さに達し、さらにとどまることなくのぼり続ける。

 なんという巨大さだろう。

 なんという神々しさだろう。

 これは。

 これは。

 この形は。

 頭だ。

 これは、頭だ。

 想像を絶するほどに巨大な頭部だ。

 女?

 そうだ。これは女性だ。

 女神だ。

 あり得ないほど大きな女神が、今、広大な森全体を埋め尽くして立ち現れたんだ。

 美しい顔だ。

 その顔にみおぼえがある。

 どこかでみたことがある。

(ひでり神さま?)

 そうだ。

 この女神の顔は、ひでり神さまに似ている。

 わかいころのひでり神さま。

 いや、まだひでり神となる前の姿は、こんな姿だったんじゃないだろうか。

 そうにちがいない。

 これは、ひでり神さまなんだ。

 ぐんぐんと、その巨大な体躯は森から現れ、天に向かって浮かんでゆく。

 胸が現れ、腰が現れる。

 あや絹、とでもいうんだろうか。

 ふわふわとした、虹色に輝く着物をまとっている。

 はじめはぼんやりと光ってよくみえなかったお姿が、段々鮮明になる。

 髪は結い上げられ、きらびやかな髪飾りがきらきらと輝いている。

 ひらひらと風にゆれる長い帯のようなものが何本も、首の後ろを回って体の両側に垂れ下がり、組み合わされた腕の下を通って足元でゆらめいている。

 ひでり神さまは、閉じていた目を開き、右下をみおろした。

 そこには雨師がいる。

 美しい袖に包まれたその山より大きな右手が、差し伸べられた。

 ひでり神さまは、ひょいと雨師の頭をつまみ、そのまま雨師をつかんで空に上ってゆく。

 やがて足が現れ、ついにその全身が森から浮かび上がった。

 その足が何百メートルか地上を離れたとき、そのあとを追うように、何かが森から飛び出した。

 虎だ。

 巨大な虎が空を舞い、ひでり神さまの周りをぐるぐるうれしそうに回りながら、一緒に天にのぼってゆく。

 あれはきっと水虎だ。

 何かの加護で水虎がよみがえって、ひでり神さまとともに天に迎えられるんだ。

 やがて、ひでり神さまと水虎が雲を突き破って姿を消すと、その突き破られた部分から雲は消えてゆき、気がつけば、三山と樹恩の森は、朝の光に照らされていた。

「見事な祝詞のっとであった」

 天子さんだ。

 いつのまにか、俺のすぐ横に天子さんがいた。

「〈はふりの者〉の初代も祝詞の名手であったが、おぬしもそれに劣らぬのう」

「のっと、って何?」

「神々や神霊や御霊へる祈願の文じゃ」

「和尚さん!」

「それにしても、ずいぶん神々を脅しつけておったのう。はっはっはっ」

 そう笑う和尚さんの顔は、元気そのものだ。

「お、和尚さん! 右手が」

「おお? これにはわしも驚いた。あのおかたが昇天なさるとき、体が光に包まれてなあ。気がついたら右手があったんじゃ」

 和尚さんの右手が、もとの通りに、そこにあった。

「あちしも光に包まれたです」

「おさかべ! どこに行ってたんだ?」

「風伯が神社の屋根を吹き飛ばしたとき、あちしのお社も壊れてしまったです」

「えっ?」

「お社があるうちならお守りにも移れるけど、いきなり宿り場所を破壊されては、消滅するほかないです」

「そんな」

「頑張って踏みとどまってたですけど、雨師の霊気に耐えきれず、消えてしまいそうになったです」

「だ、だいじょうぶなのか」

「ああ、これで終わりか、最後に油揚げを腹いっぱい食べたかったなあと思っていると、体が光に包まれて、お前の首のお守りに移れたです」

「えっ」

「ということで、早く次のお社を準備するです。それと、油揚げを腹いっぱい、あちしにお供えするがいいです」

「へえ、童女妖怪さんって、こんな姿でこんな声をしてるのねえ」

「山口さん!」

「あたしも光に包まれて目がさめたのよ。どうも、前はみえなかったものがみえるようになったみたいね」

 どういうことだろう。

 光に包まれて?

「わらわも光に包まれた。何か変化があったかどうか、よくわからぬが、体調はすこぶるよい。おぬしには、それじゃな」

「それ?」

「ほれ、足元をみるがよい」

 そこには鈴があった。

「〈和びの鈴〉!」

 俺は、大事に大事に、それを拾い上げた。

 こんなプレゼントを残していってくれるなんて、ひでり神さまもずいぶん義理堅い。


6


「それにしても、あんなに長いあいだ、よく雨師の攻撃に耐えられたね」

「長いあいだじゃと?」

「俺が社殿の後ろ側に走り込んでから、ひでり神さまが天に昇るまで、ものすごく時間がかかったでしょ」

「いや? わらわはすぐに追いかけたが、おぬしの姿はなく、祝詞を奏上する声が聞こえた。祝詞が終わるなり光の柱が立ちのぼり、ひでり神さまが天に帰られた」

「ええええっ? そんなはずはないんだけどな」

「ふむ? まあ、何があったかは、あとでゆっくり聞くとしようかの」

「それにしても、あの石が最後の一個だったんだね」

「いや、それはちがうかもしれん」

「えっ?」

「法師どのは、どう思われる?」

「うむ。たぶん、とうの昔に、石の数は足りておったんじゃないかのう」

「じゃあ、どうしてひでり神さまは、天に帰れなかったの?」

「石を積み終えたということを、天に報告しなかったからではないか、とわしは思う」

「報告?」

「わらわもそう思う。なんともうかつなことじゃった」

「もしかすると、〈はふりの者〉には最初から、その役割が与えられておったのかもしれん」

「えっ? ちゃんと報告することになってたのに、その役割が伝えられてなかったの?」

「法師どの。こうは考えられぬか。格別に役割などと決めておらずとも、〈はふりの者〉なれば、必ず石を積み終えたことを天に奏上し、許しを請願するはずじゃと、誰もが思うておったのじゃ」

「なるほど。それはあるじゃろうな。はっは。もしかすると神々は、まだ贖罪の成就を奏上してくれんのか、まだ許しを請願してくれんのかと、やきもきしながら待っておられたかもしれんのう」

「神は地上をみそなわし、人の訴願を受けてみ働きを現したまう。そんな当然のことを、わらわも法師どのも忘れておったのじゃ」

「寿命の短い人の子が、〈はふり〉などというお役目を授かったのも、考えてみればそのためであったのじゃなあ」

「じゃ、じゃあ、じいちゃんが生きてるときに、〈石は積み終えました〉って報告して、〈ひでり神さまを許してあげてください〉ってお願いすれば、満願成就してたってこと?」

「いや、気の毒じゃが幣蔵へいぞうには無理なことじゃ」

「俺にできたんだよ?」

「おぬしは特別な声の持ち主なのじゃ。それこそ初代に匹敵するほどのな」

「そうかなあ」

「はっはっはっ。鈴太よ」

「はい」

「お前が生まれてくれたこと。この里に帰ってきてくれたこと。そのこと自体に大きな意味があったのじゃ。幣蔵もお前の両親も、喜んでおろうよ」

「はい」

「それにしても、天狐よ」

「うむ」

「終わったのう」

「うむ。終わった」

 二人は並んで三山と樹恩の森をみつめている。

 千二百年に及んで取り組み続けてきたことが、無事に成就したんだ。感慨無量なんてものじゃないはずだ。その気持ちは、この二人以外、誰にもわからない。

「長かったのう」

「そうでもなかったぞ、法師どの」

「おお? そうか? もう一回やってもよいか?」

「それはごめんじゃ」

「はっはっはっはっはっ」

「ふふふふふ」

 まぶしい朝の光が、俺たちを包んでいた。

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