第11話 私の知らないマー君
私はベッドから起き上がり、顔を洗った。
男に向かって、仕事と私、どっちが大事なの、みたいなこういう台詞って、バカそうな若い女の子しか言わないんだと思ってた。
「それで、本音じゃ男は絶対、仕事をとるのよね」
天井が高く、だだっ広いバスルームの大きな窓から、ローマの街が見える。
天気はいいが、街は煙の中にまどろんでいる。
ピンポーン・・・
部屋の呼び鈴が鳴った。
ひょっとしてマー君が戻ってきたのかしら ・・・ 急いでドアを開けると、そこにいたのはルカだった。
「グッモーニン!」
彼はドアを大きく開け、朝食の乗ったワゴンを押し込んだ。
「本来なら、宿泊客は地下のレストランで朝食をとるって決まっているんだけど、君は遅くなりそうだったから、特別にルームサービスだよ」
「まあ、びっくりした」
私はベッドに腰を下ろした。
ルカは小さなカップにコーヒーを注いでくれた。
私は彼のサプライズをありがたく受け取った。
「びっくりしたのはこっちだよ」
ルカは椅子に座り、まだパジャマ姿の私を眺めた。
深夜私に男性の訪問客があったことに、興味をそそられたのだろうか。
「君のボーイフレンドってあの男なのか」
私は一瞬、いいよどんだ。
「うん ・・・ まあね」
それを聞いたルカは大声で笑い出した。イタリア人は声が大きい。
そんなにゲラゲラと大げさに笑われたら、私はどう反応していいかわからなくなる。
一通り笑った後で、ルカは私に向き直り、真顔で言った。
「あの男、知ってるよ。何度も見たことがあるんだ」
「へえ、どこで?」
「あいつは俺のこと、覚えてないかもしれないけどさ」
私へのルームサービスだと言いながら、ルカは勝手にグラスを取って、オレンジジュースを飲んだ。
「どこで見たの?」
実際、私はローマでのマー君の生活を、詳しくは知らないのだ。
「君は可愛そうな女だよね。・・・ はっ、あんな男を自分のボーイフレンドだと思っているなんて ・・・」
そう言ってルカは、グラス越しに私にウインクした。
「まだ女性としての喜びを知らないんだよ、君は」
その言い草に、私は飛び上がった。
「会って間もないのに、よくそんなことが言えるわね。彼とどこで会ったというの」
人違いか、それともこのイタリア人ナンパ野郎が、私を騙そうとしているのではないか。私はルカに詰め寄った。
「本当だよ。俺はあの男をロベルトの所でよく見るのさ。ロベルトってのは、ローマの大きな屋敷に一人で住んでいる金持ちのゲイで、君のボーイフレンドは、彼のボーイフレンドでもあるわけだ」
私は驚きのあまり、手のカップを落しそうになった。
よくもそんな作り話をしたものだ。そう思うと同時に、どこか腑に落ちる気もした。
ルカは私の驚いた顔を、面白そうに見つめながら話を続けた。
俺の幼馴染の母親は、以前からロベルト家の家政婦をしているんだ。男手が必要なとき、俺はよく手伝いに借り出されるんだよ。幼馴染は今、ジェノバに住んでいるんでね・・・ それで週に何回か、ロベルトの屋敷に行くことがあるんだけど、間違いない、あの男だよ。
ロベルトは、アメリカ人の富豪とイタリア貴族の娘の間に生まれた一人息子で、年のころは四十、ローマ市内を見おろせるジャニコロの丘にある、広大な屋敷に一人で住んでいる。仕事は美術関係だよ。不動産もたくさん持っているらしい ・・・ よく知らないけど。」
「人違いじゃないの? 東洋人の若い男は、ここにもたくさんいるだろうし」
ルカは首を振った。
「間違いないよ、何度も見てるもの。俺だって長年ホテルに勤めているし、大学じゃ心理学を学んでいるんだ。人の観察眼は鋭いつもりだよ」
私は言葉を失ってだまりこんだ。
「マミ ・・・ って名前だったよね。俺はもう、夜勤の勤務時間が終わっているんだ。これから一緒に、ロベルトの屋敷へ行かないか」
私は彼の顔を見た。どうやら本気のようだ。
「週末だろ。あの男はきっと現れると思うよ」
もし彼の言葉が真実だったら ・・・ と思うと一瞬ためらわれたが、好奇心の方が勝った。
「わかった。私、着いていく」
ルカは頷いた。彼はどうして、私にこんなに親切にしてくれるんだろう。
「でも、あなた時間はいいの? 私のこんな私事につき合わせて、なんだか悪いわ」
「どういたしまして。俺はね、君を放っておけないんだ。じゃ、すぐに仕度して玄関まで来てくれよ」
部屋を去り際に、彼は私の方を振り返り、意味ありげにウインクした。
「言っとくけどね、ロベルトはすごく ・・・ 美しい男だよ」
(続く)
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