第9話 マー君、ホテルに現る
ホテルの部屋に戻り、ケータイを十分ごとにチェックしてみたが、マー君から連絡はない。
「たぶん、私が彼のことを思っているほど、彼は私のことを思っていないんだわ」
淡白な彼と付き合い始めてから、何度こんな言葉をつぶやいただろう。
そんな絶望的な気持ちになってしばらく経つと、必ずマー君はメールをくれるのだった。
今回だって同じのはずだわ。
だけど、もし何も連絡がなかったらどうしよう ・・・ こんな遠くまで、わざわざ彼に会いに来たというのに。
私はベッドで寝返りを打って、テレビをつけた。
わからない言葉をまくしたてる司会者の後ろで、レオタード姿の女性が数人踊っている。
イタリアの女性ってきれいだなあ。彫りは深いし、足は長いし。
いくら日本で晩生(おくて)だったマー君だって、こんな美女に囲まれて暮らしていたら急に目覚めるってことはあるかもね。ホテルの近くの雑貨店で買ったミネラルウォーターをコップに注ぎ、パックに詰めてもらった出来合いのパスタを紙皿に移した。
そのままいつの間にか眠ってしまったらしい。時差の影響って、突然出てくるものなのだ。
チーン ・・・
夢の奥で、何かの音がした。
ここはどこだったかしら ・・・
頭は半分眠っているので、今自分がローマのホテルにいることを認識するまで、時間がかかった。
チーン ・・・
そうだ、これはドアのベルが鳴っているんだわ。
私はあわてて飛び起き、ドアを小さく開いた。
薄暗い廊下にいたのは、一年前と変わらない栗色のウェービーヘアにくるりと丸い目をした、私の記憶の中にいるマー君だった。
「ごめんね、遅くなって」
私はドアを開き、彼を部屋に招き入れると、何も言わず思い切り抱きしめた。
彼も私の背中に腕をまわし、そっと頬を寄せた。
部屋の灯りの下で見るマー君は、少し変化していた。日に焼けて、不精髭が見える。日本にいる時と比べ、身なりにあまりかまわなくなったのかもしれないが、どことなく男っぽくなったようにも感じられて、私はどきっとした。
「会いたかった ・・・ 今も夢を見ているような気がする」
やっとのことで私が声を出すと、彼も私を抱く腕に力をこめた。
「本当にローマまで来てくれたんだね」
二人は絡まりあいながら、ベッドの脇のソファに腰を下ろした。
間近に見るマー君は、あの愛らしさは基本的に変わらないものの、どこかが変わっていた。
「あなた、ちょっと変わったね。なんだかワイルドになっちゃって」
その瞳を見つめながら、正直に言ってみた。彼は笑った。
「うん、毎日勉強で忙しくて、髭もまめには剃らないし、洗濯も二週間に一回できればいい方なんだ」
私の肩にまわした腕をほどき、持参した紙袋を広げた。
「ほら、途中で食べ物を買ってきたよ。もう時間が遅いし、日本から着いたばかりで疲れているから、夜中に外出したくないだろうと思って」
「よく気がつくのね」
ついお姉さんっぽい口調になったのを、しまったと思いながら、私は自分が皿に入れたままにしていた、パスタのことを思った。
「このパスタ、ホテルの近くのレストランで買ってきたのよ。私、自分のヘタな英語が通じるかどうか、ドキドキしちゃったけど、こちらの人も英語なんてしゃべらないのね。身振り手振りだけで通じたの。メニューは指差しただけだから、どんなパスタが出てくるかもわからなかったの」
私がどんな話をしても、彼が笑顔で聞いてくれるのは変わらない。
「これはトマトソースのペンネだね。」
「私が好きなタイプのパスタでよかったわ。でももう冷たくなってる」
「ホテルの人にレンジで温めてもらえるか、聞いてみようか」
「そうね」
「僕が買ってきたのはこれなんだ」
彼はミネラルウォーターの大瓶と、日本ではあまり見かけないハムやパン、そしてバナナやりんごなど果物の類だった。
「あんまり夜遅くなると、お腹に重いものはいけないと思ってね」
この細かさ、優しさ。やっぱりマー君だ。
「だったら、このパスタも今食べてはいけないんじゃないの」
と私が言うと、
「でも、真美さん、お腹が空いているんでしょう? やっぱりルームサービスで温めてもらいましょう」
そう言って彼は電話を取り、フロントの番号を探した。
なんだか話し方が、前より他人行儀になったみたい。年上の私にいつも遠慮してはいたけど、昔はこんなに丁寧だったかしら。
「・・・・」
フロントに電話しているのを聞いて、私は感心した。イタリア語なんて全然わからないけど、彼はなかなか上手く話しているように聞こえたからだ。
「今忙しいけど、もう少ししたら部屋までパスタを取りに来てくれるそうですよ」
「ねえ、あなたイタリア語をずいぶん早く覚えたのね」
彼は照れくさそうに微笑んだ。
「いや、まだまだ用件をなんとか伝えられるぐらいだけど ・・・ この一年間でずいぶん鍛えられたからね」
私はなんだかとてもうれしくなった。やっぱりマー君は頑張り屋さんだったんだ。彼に留学を許した選択は正しかった。私は彼に寄り添い、強くその手を握った。
「ううん、すごく上手・・・」
私は彼に頬を寄せ、キスをねだった。彼は私のおでこと頬に、高く音が出るほどキスをした。その勢いで私が彼をベッドの上に押し倒した。そして今度は上から彼の唇へと私の唇を這わせた。
彼は私の唇をそっとかわし、また頬から耳下へと軽いキスをした。
どうしたんだろう、久しぶりだから照れているの?
私は彼の体に全体重を任せた。そして彼の手を私の胸に這わせた。
当然、彼は受け入れてくれると思っていた。だって、これが初めてじゃないんだもの。
マー君はあの純粋な微笑みをたたえたままで、私の手をつかんだ。
「ねえ ・・・」
彼が何か言おうとしたとき、ドアのベルが鳴った。
(続く)
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