第8話 コロッセオの赤いバラ
私は飛び上がった。振り向くとそこには、丸いサングラスをかけたイタリア人の若い男がいた。
誰、この人! いきなりナンパかしら。
言葉が出ず固まっている私に、彼は英語で語りかけた。
「ホテルに泊まっている人ですね? 何かあったんですか?」
彼があのフロントにいた男だとわかるまで、何秒か間があった。ホテルで働いている時の彼は、礼儀正しくとっつき難い雰囲気があったが、今の彼はカジュアルで、街を歩く普通の若者に見えたからだ。
「え、あの・・・」
私が何を言っていいかわからず戸惑っていると、彼は私を安心させるように、にっこり笑いかけた。
「なんだか慌てているようだったから、つい声をかけたんだ。ローマは危険な街では決してないけれど、いつも観光客がたくさんいるから、それを狙っている輩もたくさんいるからね」
「ありがとう。でも、何でもないの」
私は彼に、変に気を使わせて申し訳なくなった。
このホテルマンの名前は、ルカと言った。ローマ大学で心理学を勉強しながら、親戚が経営するあのホテルで働いているのだそうだ。私も自己紹介をした。
「今、ローマに友人が留学しているの。短い休暇を使って、その彼に会いに来たってわけ」
「へえ、そうか。その友人っていうのは、君のボーイフレンドなんだね」
「まあ、そういうことかしら・・・」
私たちはいつの間にか、二人でコロッセオを囲む公園を歩いていた。
「そういうことって、どういうこと?」
私はふふっと笑って誤魔化した。なぜか彼に、マー君をはっきりとボーイフレンドとは言えなかった。私たちは本当に恋人同士なのだろうか。その辺があいまいなのだ。ひょっとして私の片思いなのではないかと、時折思うこともある。
「ほら、このあたりはクラウディオの神殿跡だよ。向こうが古代ローマの遺跡跡、フォロ・ロマーノだ」
「すごい、こんなに古いものが街の真ん中にしっかりと残っているなんて」
紀元前一世紀頃の遺跡を縫って、つい最近手をかけられたばかりの道路に小型車やトラックが走り回っている。古代と現代が美しく調和し、共存している、夢を見ているような世界だ。古い遺跡はそのままに、新しい建物や道路はどんどん作りかえられ、現在工事中のサインさえあちらこちらに見える。
マー君が美術修復を学ぶのに、この都市を選んだのは間違いない選択だ。
「きゃっ、また剣闘士」
私が叫ぶと、彼は笑って私の肩を抱きしめた。
「大丈夫だよ。観光客を狙って、彼らはローマ中のどこにでもいるんだから」
よく知りもしない若い男性に肩を抱かれるなんて、日本ではありえないことなので、私はドキドキした。おまけに彼に体を寄せられると嗅いだことのないコロンの香りがし、いけないことをしているような気持ちになって体が固くなった。
「マダーム、ブオナセーラ」
観光客の行きかう道を、ルカと肩を並べて歩いていると、色黒の若者が声をかけてきた。
彼は腕一杯に、赤いバラを抱えている。観光客を狙うのは剣闘士だけではない。ショールやおもちゃ、土産物の類を売る物売りは、道端にたくさんいる。その多くはもっと南の国から来た外国人のようだった。日が暮れ始めると、道行くカップルに赤いバラを売り歩く物売りも現れる。
ルカはその色黒の若者にイタリア語でなにやら問答をし、最後に硬貨をいくつか渡した。思ったより安い値段で交渉成立したのだろう、若者は少し渋い顔で、大きなバラを一本ルカに渡した。ルカはそれを恭しく私に持たせた。
「まあ、すごくきれい」
深紅のビロウドのような、肉厚の花びらだった。
「今日、君に出会えた記念に・・・ じゃあ、僕は用事があるのでここから地下鉄に乗るよ。また明日ね」
ルカはそう言って人ごみの中に消えていった。
私はホテルへ向けて、コロッセオを半周して散歩した。日が暮れると遺跡は神秘的にライトアップされる。これらの建造物は、こんな夜を何度迎えたことだろう。数え切れない夜の間に、建造物はほとんど変わらず、それを取り巻く人間だけが生まれては死に、次々と入れ替わっていく。ローマの長い歴史から見ると、私が今ここでこうしていることすら、一瞬の幻に過ぎないのだろう。
(続く)
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