第7話 マー君、ローマへ

課長の言うこと、もっともかもしれない。マー君は文子の後輩、私より四歳年下だ。おまけにまだ学生だし、美術修復の勉強をとても気に入っている様子がうかがえた。きっと一生かけてその分野をやっていくつもりなんだろうな。結婚しても、お金には縁のない生活になりそう。

「やっぱり私はここで働き続けるしかないのか・・・」

別に嫌じゃないけど、それが自分の運命かと思うとなんだかな。


 それから私とマー君は、一ヶ月に一、二度のペースでデートをした。普通の恋人同士に比べたら、私たちの逢瀬はとても少ないかもしれない。私も彼も忙しいことはわかっていたし、たまに会うときに自分たちの現状報告をするのが、楽しみでもあった。

彼はいつも笑顔で私に接してくれる。その笑顔を見ると、仕事で溜まった私のストレスも、霞みのごとく消えた。

あー、彼を見ていると、私の心は蕩けそう・・・。


そんな彼は、ベッドの中では相変わらず受身だった。痛みが快感に変わる、あのセックスの醍醐味は感じられないものの、私たちはいつも思いやりを感じる暖かい触れ合いに満足していた。彼の肌は白く滑らかで、撫でているだけで穏やかな気持ちになれた。彼と唇を交わすだけで、私は心の中が満足感で満たされるのだった。私はこの恋を、まるで植物のような恋愛だと思った。


「私、今マー君にはまっているの。今まで感じたことのない気持ちよ」

文子にそう告げると、彼女はうなずいた。

「彼は私のタイプじゃないけどね。私はもっと男臭い方が好みなんだ。でも真美と彼って、なんかお似合いって気がするよ」

もうこうなったら、彼を一生養う覚悟だと、ますます仕事にも力が入るのだった。



そんな幸せなある日、彼から突然、衝撃的な宣告をされてしまった。

マー君が、美術修復を学びにイタリアに留学するというのだ。

留学したいというのではなく、することに決まった、と宣告されてしまった。私と知り合う以前から国費留学生に申し込みをしていたのが、まさか本当に合格するとは思わなかったのだそうだ。それを私に告げるマー君はとても悲しそうで、これまで見たことがない表情だった。

 私の気持ちは、複雑だった。マー君には自分の選んだ道を存分に歩んでほしい、と思う反面、やはり遠くに離れ離れになるのは悲しかった。


うつむくマー君の長い睫を見ながら、やっぱり可愛いと思ってしまう自分が憎かった。私はできる限り明るく彼に言った。

「夢がかなってよかったね。もちろんあなたが遠い所に行ってしまうのは、私は辛いけど、たった二年じゃない・・・ がんばって、応援しているから」

 そうだ、奨学金が貰えるのは、たった二年なんだ。待てない長さじゃない。その時私は三十歳を超えているけれど、マー君を待たなくても三十にはなるんだし、もうこうなったら仕方ない!

「うん ・・・ 二年なんてあっという間だよね」

私があまり落ち込んでいないのを見て、安心したようにマー君は頭を上げて、いつもの笑顔を見せた。


それが八ヶ月前 ・・・ 

 

・・・・・・・


それにしても、マー君はローマに戻ってきたのかしら。

夜遅くなるみたいに言っていたから、私はシャワーを浴びて一休みし、その後近隣を散策することにした。

 地図を頼りに、ホテルからコロッセオまで歩いてみた。傾いた石畳のちょっとした隙間を見つけて、二人乗りの小型車がするりと入り込み、駐車していく。たいした運転技術だと、私は感心した。


公園の中を横切る道があり、広い公園の道を歩いていくと、円形競技場コロッセオが見えた。テレビや写真で見る姿そのままに、壮大な灰色の遺跡が目の前に現れた。その昔、猛獣を使った残酷な見世物で、ローマ市民を沸かせた遺跡が、今は近代的な道路に囲まれ、その周りを小型車やバスが走り回り、人々が普段の生活を送っている。現代の中にぽつんと取り残されたようなこの建物が、紀元80年に作られたとは信じ難い。コロッセオをもっと間近に見ようと、道路を渡った。コロッセオ前の広場には、観光客に混じってたくさんの物売りがいた。

浅黒い肌をした若い男たちはどこから来たのだろうか。皆同じような玩具やスカーフを手にして、道を行く人に声をかけている。中には、このコロッセオで猛獣と格闘した、剣闘士の扮装をしたイタリア人男性の姿もあった。鈍く色褪せた金色の防具に、濃紅のマントを翻した男たちが、手持ち無沙汰気に立ち話をしている。

「おもしろい」

 私はつい、持っていたケータイのカメラを向けた。

「??!!!」

 カメラを向けられたことに気づいた一人の剣闘士が、剣を振りかざし私に何かを叫んだ。

「きゃっ、無料じゃなかったんだわ」

 私はあわてて逃げ出した。

後ろを振り向かずに、走って、走って、気がついたらホテルとは反対側の、地下鉄コロセウム駅に来ていた。

ここまで来たら大丈夫だろう。

ほっとして立ち止まったら、後ろからいきなり腕をつかまれた。

「キャーッ!」


(続く)

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