第10話 ローマの部屋で

マー君は私の体を横にどかして、ドアの方へ歩み寄った。

「ホテルの係員ですが」

彼がドアを開けると、そこにはあのルカがいた。

マー君はルカに、パスタを温めて来て欲しいと頼んでいるようだった。彼は神妙な面持ちで客の頼みを拝聴し、ドアを閉めるときちょっとだけ私の方を見た。


「親切なホテルだね。なかなかいいところみたいだ」

 何にでも素直に感激してしまう、そんなマー君は健在のようだ。

「そうなの。あの人は今日、私に色々よくしてくれたのよ」

マー君はソファに座り、紙袋の中から炭酸入りのボトルを取り出した。

「そうか、でもイタリア人の男って、女性に手が早いからな」

 私にちょっと嫉妬してくれたのかしら。

「とにかくこのミネラルウォーターで、乾杯しよう。安いものだけど、ワインも買ってきたよ」

 彼が取り出した赤ワインは、確かにあまり小奇麗なボトルではなかった。でも開けてみると、なんとも豊穣な香りがする。

「さすがにイタリアのワインだわ」

 酒好きな私は、にんまりしてしまう。

「高いものは買えないから、ごめんね」

「そんなこと言わないで・・・」

 私たちは部屋にあったグラスで乾杯した。

 食べ物が高級だとか、そんなこと関係ないのよ。今、この奇跡のように美しい古代都市に、可愛いマー君と一緒にいる。それ以上の幸せがあると思う? 

「ねえ、こっちの大学での勉強のこととか、聞かせてほしいな」

「そうだね ・・・ まずイタリア語にはすごく苦労したよ。英語が上手な人は、大学の中にはいるんだけど、街の中じゃ、英語を解する人なんてほとんどいないから」

彼はりんごの皮を剥きながら話した。

「でも、けっこう上達しているんじゃない? すごいと思うわ」

「うん、友達がいるからね。色々教えてくれるし」

 安いくせにおいしいワインのせいだろうか。私はマー君にもっと近づきたくなった。彼の肩に腕を回し、その唇に自分の唇を合わせた。

マー君は、まるでこれが初めてのキスのように固まっていた。

「いやね ・・・ もう私のこと忘れてしまったの」

 私がせっかくここまで来てあげたのよ。もっと大胆になってもいいんじゃないかと思うんだけど。でも彼は照れくさそうな笑みを浮かべて、

「そんなことないけどさ ・・・ この一年間、勉強ばかりで、女性には全く縁がなかったから、なんか変な感じなんだよ」

と答えた。

 じゃあ今だけ、日本にいたときのことを思い出させてあげるわ。私は彼にもう一度口づけた。

その時。ドアのベルが鳴った。

「パスタができたのかな」

 彼は私の腕を引き離すと、立ち上がってドアを開けた。

「お待たせしました」

 ルカがワゴンを引きながら部屋へ入って来た。パスタはきちんとした皿に盛られ、シャンパン一本とグラスも二つずつ乗っていて、小さな果物カゴに葡萄やバナナまで盛られている。

「わあ、すごい!」

 私は率直に感激した。でも心の中では、頼んでもいない豪華なルームサービスにちょっと不安を感じていた。

「ごゆっくり」

 まるで昼間のことがなかったように、ルカは他人行儀にお辞儀をした。私にはあくまで客に対する慇懃さを保っていた。マー君はルカの手にさっと何かを握らせた。へえ、マー君やるじゃん。ちゃんとチップを用意していたのね。ここではチップは必ずしも必要でない、とガイドブックには書いてあったけど、連泊するならやはりチップをあげた方が、何かとよくしてもらえるものね。貧乏留学生に過ぎないと思っていたマー君が、意外にスマートな作法を身につけているのを知って、私は彼を見直した。

 ルカがドアを閉めるのを待って、私たちはワゴンに飛びついた。

「けっこうな安宿だと思っていたけど、こんなルームサービスをしてくれるのね」

「ここは街からちょっと外れているけど、そんな安宿とは思わなかったけど? ビジネスマンやファミリーが、よく泊まるみたいだよ」

確かに入り口の通路には、各国の旗が並んでいた。

シャンパンに似たノンアルコールのサイダーでもう一度乾杯し、きれいに食器に盛られたパスタを食べた。

「あー、なんだかリッチな気分」

私が言うと、マー君はぷっと笑った。

「真美さんって、今あるところに幸せを見つけることができるタイプなんだね」

「あらなに、それ。私たちが日本でしていたデートだって、いつもマクドナルドや居酒屋だったじゃない」

 あのせわしなさを思い出すと、今ここにある時間が夢のようだ。マー君は私の気持ちを見透かしたように言った。

「そうだね。僕もここに来てたった一年だけど、東京での生活が遠い昔のことのように感じるよ」

そう言われると、なんだか心配になってきた。

「ねえ、でもいつかは帰国するんでしょ。来年あたり」

「うん、そうだね ・・・ でも来年卒業はちょっと無理かもしれないな」

私は心の中にぽつんと暗い穴が開いたような気がしたが、マー君に暗い顔は見せなかった。

「さあ、一緒にシャワーを浴びない?」

「真美さん、眠くないの? 僕はちょっと疲れたな。クラスの皆とフィレンツェからバスで帰ってきたんだけど、道が混んでいたし、車内は暑くて、大変だったんだ。寮に着いてすぐにシャワーを浴びたから、僕はいいよ」

 そう言って彼は下着姿になり、大きなダブルベッドの片側に入り込んだ。

「そうね、私も眠いし、いいわ。」

 私がシャワーと言ったのは、汗を流したいわけじゃなくて、あなたと・・・

心の奥底にくすぶる不満を抱きながら、いつの間にか私は意識を失くし、眠りの中に落ちていた。


朝起きてみると、もうマー君はいなかった。

「え、こんな時間?」

時差と言うのは恐ろしいものだ。いつもは早起きの私なのに、時計はもう九時半を指していた。

 マー君は机の上に書置きを残していた。

「朝学校に顔を出さなくてはいけないので、失礼します」

 私を起こしたら悪いと思ったんだ ・・・ 彼らしい優しい気遣いに感謝したが、同時に悲しくなった。

 学校が大事なのはわかるけど、わざわざ遠方からやって来た私のことを一番に考えてはくれないの?


(続く)

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