第10話 コンクール(終)後編

「でね、いよいよ明日な訳だけれど、この子の応援に来てくれる人で大所帯になりそうなの」

「ほう」

今日はあれから次の日の火曜日。明日の水曜日はいよいよ全国大会だ。

今は久し振りにお父さんが早めに帰って来たので、こうして親子水入らず夕食を摂っていると言う次第だ。

話題は当然のように、明日の事に終始していた。

「で…」

とお父さんは、お母さんの隣に座る向かいの私に話しかけてきた。

「その大所帯というのは、具体的にはどれ程の人数なんだ?」

「え?えぇっとねぇ…」

お母さんが事前に大所帯だなんて言うもんだから、お父さんがどれくらいの人数を想定しているのか分からず、別にどうでも良いといえばどうでも良いのだが、本当に大所帯なのか自分でも確認したくなり、馬鹿正直に数えてみる事にした。因みに、最初の頃は裕美一人が見に来ることすらあれ程アレコレ悩んでいたのだが、この段階まで来ると、良くも悪くも開き直れていた。

えぇっと…まずお母さんと師匠でしょ?それに裕美、それから律、藤花、紫…あぁ、後土曜日に来られた京子さん。後は…あ、そうそう、直前で決まった絵里だ。

「んー…お母さんと師匠、そして京子さんを含めると…七人かな?」「京子さん…?」

とお父さんが疑問を呈すると、

「ほら貴方、沙恵さんのご友人で、ヨーロッパで活動していらっしゃる…」

とお母さんがすかさず説明を入れた。

それを聞いたお父さんはすぐに思い至ったらしく、「あぁー…」とボソッと漏らしてから、私とお母さんを同時に視界に入れる様な視線を向けながら

「ほーう…それで八人もか」

と、食事を終えて熱い緑茶を啜っていたお父さんは、心なしか感心したかの様に口にした。

「ね?結構な人数でしょ?」

と何故かお母さんは誇らしげに胸を張らんばかりに言った。

「この子、昔から自分から進んで人付き合いをする様な子じゃなかったから、こういう時にはどうだろうと思ってたんだけれど、いざそうなってみると、意外や意外に、こうして時間を割いてまでこの子の応援に来てくれる友達がこんなにもいるっていうんだから、有難いよねぇ」

「もーう、うるさいなぁ」

私は不機嫌な様子を作りつつ拗ねて見せると、「ごめんごめん」とお母さんも態とらしく慇懃に謝ってくるのだった。

「ふふ…あ、そういえば」

とお母さんは何かを思い出したらしく、少しだけ目を大きく見開きながら話しかけてきた。

「その人数には、絵里さんも入ってるのよね?」

「え?あ、あぁ…うん、もちろん」

絵里の名前が出た瞬間ギクッとして、チラッとお父さんの顔を覗き見つつそう返した。

絵里が来るというのはだいぶ早めに決まった。何せ、絵里とお母さんが初めて出会ったあの日の夜、寝支度をすませて、まだ目が冴えていたから義一から借りた本を読もうとした所、絵里から正式に行くという電話を貰ったのだった。

前回のことを覚えておいでの方は、今更と思われるかも知れない。何せマンションの前での別れ際、絵里がコンクールの観覧時の衣装について聞いてきたのだから。だがあの後は「結婚式だとか、その辺りのレベルの正装で良いと思うよ」と軽く話しただけで終わったのだ。だから正式にという訳では無かった。絵里なら進んで観に行くと言ってくれるものだと心の片隅では期待していたのは事実だったが、それでも繰り返す様だが急も急だしどうかと心配していたのだ。それがこの結果だ。電話口で、驚きと喜びのあまり、調子が外れてしまうのを押さえるのが大変だった。こういう時は、お互いの顔が見えない電話というのは有難い。後は軽くまた衣装の話をして、参考にしたいからと私の演奏時の衣装が見たいというので、渋々ながら幾つか送ってあげる約束をして切ったのだった。因みにというか、裕美のお母さん、そして律のお母さん達まで、私の応援、それにコンクールという中々普段生活している中では味わえない特殊な空間に出向いて見たいという好奇心を含めて、行きたいという話になっていた様だったが、流石にそれだと十人を超える人数になってしまうというので、”今回”ばかりは自重して頂く事になった。…”今回は”というと、次回があるみたいだけれど。

話を戻そう。

この時ちょうど私とお母さんも綺麗に食べ終えたので、またお父さんの号令のもと、ご馳走様でしたの挨拶をして、お母さんが鼻歌交じりに片付けをしている間、ふとお父さんが私に話しかけてきた。

「そういえば…絵里さんって誰だ?」

「えっ!」

何とかあのまま何となしに流れると思って安心していた所で、不意に、しかもお父さんの口から絵里の名前が飛び出したので、さっきとは比べ物にならない程に驚いた。

でもそれは何とか持ち前の”演技力”を屈指して、動揺を悟られない様に気を落ち着かせようと苦心していたその時、洗い場からお母さんが会話に入ってきた。

「ほら貴方、前に話したけれど覚えてない?琴音が小学生の頃、この子、良くあの区立図書館に行ってたでしょ?まぁ今も良く行ってるけど」

「あぁ…で、それが?」

「ほら、この子、そこの司書さんの一人と仲良くしてるって話をしてたじゃない?それが絵里さんなのよ」

「ほーう…それが例の司書なのか。で、どんな人なんだ?」

「え?えぇっとねぇ…」

間にお母さんが割って入ってきてくれたお陰で、心を落ち着かせる時間を稼げた私は、まだ少しぎこちなさが残るものの、何とか平静を装って答えようとしたのだが、私たちを背に洗い物をしていたお母さんには、お父さんが私に質問したのが分からなかったらしく、私に代わって答えるのだった。

「可愛い人だったわよー。何というか、顔は小動物系って感じでね、でもその可愛らしさの中に、どこか清廉された綺麗さを秘めてる様な一瞬を見せてね、それが上手いこと混ざり合って良い効果を生み出していたの」

と、絵里がこの場にいたら顔を赤くしてモジモジとしそうな言葉を淀みなくツラツラ話したお母さんは、洗い物が終わったのか、トレイに私と自分の分のお茶を乗せて、私たちのいるテーブルに戻ってきた。

「それが絵里さん。…ね?」

とお母さんがお茶を私と自分の席の前に置き、そして急須からお父さんの陶器の湯呑みにお代わりを注ぎ入れながら話しかけてきたので、「はは…ま、まぁ…ね」と苦笑まじりに返す他無かった。

「あぁ、ありがとう…」とお父さんはお母さんにお礼を言ってから続けて言った。

「でもまぁ、瑠美がそう言うのなら、よっぽどの女性なのだろうな」「えぇ、本当に美人さんでしたよ。ただ…」

とここでお母さんは自分の席に着くと、ニヤッと意地悪く笑いながら、私に顔を向けつつ言った。

「折角の美人さんだというのに、髪型がねぇ」

「髪型?」

「ね?琴音?」

「え、あ、うん…まぁね」

と相変わらず苦笑のままの私はそのまま返した。

「どういう事?」

とお父さんが聞いてきたので、

「頭にね…キノコを乗せてるの」

と私は言いながら、自分の頭を触って見せた。

それを聞いたお父さんは珍しく大きなリアクションを取りながら

「キノコ…?」

とだけ呟いた。そんな私のセリフを聞いたお母さんは、少し間をおいてから、その後に「あははは!」と大きく笑い出し、口調もそれに乗っからせる様にして言った。

「『キノコを乗せてる』ねぇー。面白い表現するじゃない琴音」

「ふふ、これってね、実は裕美が絵里さんを初めて見た時に、私に言ってくれたセリフなの」

「あぁ、そっかぁ、裕美ちゃんも絵里さんの事知ってるんだもんね」「うん」

そう、裕美も絵里の事を知ってるという話は、初めの方の雑談の中で出たことだった。

「なるほどな…」

とお父さんはすぐにいつも通りの冷静な様子に戻ると、一度お茶をズズッと啜ってから言った。

「結構変わっている人らしいが、それでも琴音が好きだというのなら、悪い人ではないのだろう」

「うん」

お父さんの言い回しに何か引っ掛からなかったかと問われたらないとは言えなかったけれど、それでも少なくとも悪い印象は持たれていなかったという点でホッとしていた。

…いや、もっとホッとしていたのは、絵里という名前が出た時に、お父さんが何も引っかからなかった点だった。これは言わずもがなだろう。絵里は確かにあの後二人でマンションまで歩いていた時に、ほんの一瞬顔を合わせただけで、自己紹介すらロクにしなかったと言っていたから、それなりにそれを信用して安心していたのは事実だったけれど、それでもやはりこうして実際にお父さんの前でその様な話題になったとなると、緊張が増すのは当然の摂理だ。

だがそれも心配はいい意味で徒労に終わった様だ。何せ、絵里と私の関係についての話題はこれでお開きとなり、それからはずっと、実は絵里が自分の通っている目黒の日舞教室のお嬢さんで、しかも名取だったという話を、お母さんが延々とお父さんにしていたからだ。これには流石のお父さんも、”キノコ”とは比べものにならない程に驚いて、お父さん自身も興味深げにお母さんの話を聞いていた。お母さんが「あの清廉さは、間違いなく日舞から来てるわよね?」だとか何だとか、一々私に確認を取ってくるので、また私はずっと苦笑まじりに同意する他になかったが、そうしつつも実は私自身、絵里と出会ってからずっと、何だか話そうとしてもすぐに義一を連想してしまい、勝手にブレーキがかかって、なかなか切り出せなかったのが実情だったが、こうして家族で絵里について和気藹々と会話が出来る事に、大げさに聞こえるかも知れないが、喜びを感じていた。こうして全国大会前日の晩は、何だかんだリラックスして過ごす事が出来たのだった。


本番当日の朝。時刻は六時半少し前。

自分で思っていたよりも緊張していたのか、普段から目覚めは良い方なのだが、いつも以上に早起きをしてしまった。二度寝しようかと一瞬頭を過ぎったが、すぐにその考えを捨てて、ベッドから抜け出て大きく伸びをした。厚手のカーテンを引くと、まだ日も昇ってそんなに時間が経っていないだろうに、もう既にその日差しからは容赦の無い熱量を感じていた。

身体が気持ち硬くなっている様に感じていた私は、ただの伸びから、本格的なストレッチに移行していった。そう、京子から師匠経由に伝わった例の方法だ。予選や本選時にもしたが、確かに肉体だけではなく、心をもほぐしてくれるのに貢献してくれた。

「さてと…」と誰に言うでもなく一人ごちると、何となしに自室を出た。

出た瞬間、耳に小気味良い音が聞こえてきた。どうやら階下、一階から聞こえてきているらしい。どうやら包丁で何かを切っている音だ。もうお母さんはとっくに起きていたらしく、言うまでもないが、朝食の支度をしている様だ。階段をゆっくりと降りて行く度に、徐々に鼻腔を、かつおダシ特有の食欲をそそる香りが刺激してきた。同時に味噌の香ばしい匂いも漂っている。

居間に入ると、お母さんは割烹着を着て忙しなく、しかしあくせくと言うよりも手慣れた感じで優雅に見えるほどの手際でこなしていた。

ほんの数秒ほどその様子を眺めていたが、ワザと少し気怠げな口調で声をかけた。

「おはよー…」

「あ、おはよう。今日は早めね?」

お母さんは一度手を止めると、顔だけ後ろに振り返りつつ私に挨拶をした。

「うん…まぁね」

と私はまだ気怠げな様子を続けつつ、冷蔵庫に近寄り、中から牛乳を取り出すと、作業をしているお母さんの背後を器用に通り抜け、食器棚からコップを取り出すと、その中に今取った牛乳を流し込んだ。

「早めに起きて身体を起こしてあげた方が、本番までに調子を持って行きやすくなるからねー」

と私はその場で立ちながら、たまにお母さんの手元を見つつ、もっともらしい言葉を吐いて見せた。

「ふふ、そうなんだ」

とお母さんは手元に視線を置きつつ、何だか面白げな様子を見せつつ言った。

「まぁ…師匠の受け売りだけれどね」

と私も今度は悪戯っぽく言ってから、流し桶の中に空になったコップを入れて、それから何か言われる前に習慣として、今度はお皿なりの準備をした。

今はまだ姿が見えないが、今日はお父さんが一緒に朝食を取れるというので、三人分の支度をした。

テーブルの上に普段通りにすませたその時、ちょうど何処からかお父さんが居間に入ってきた。お父さんも寝る時は寝巻きなのだが、すでにスーツをビシッと着込んでいた。いつでも出勤できる態勢だ。

他のお医者さんがどうかは知らないが、少なくともお父さんに関して言えば、こうして自分の物である病院に出勤する時には、いつもこうして綺麗にクリーニングされたスーツをビシッと身に付けて出勤するのが普通だった。だらしない格好を見た事が、少なくとも私は今までにない。『先輩がこんなキマった格好で来るもんだから、我々としても気を抜いて普段着で行けないんだよ』と冗談交じりにボヤいていたのは、大学時代からの付き合いだという、私が受験する事になった遠因の橋本さんの弁だ。

「あ、お父さん、おはよう」

と自分の仕事が終わった私が自分の定位置に腰を下ろしつつ声を掛けると、お父さんは何故か一度私の事をジロジロと眺め回してから、これまたいつもの様に気持ち目元と口元を緩めつつ「あぁ、おはよう」と低い声で返し、そしてスタッと椅子に座った。

「…?」

私は普段の流れの中で、ほんの少し違う事があったのに気付き、思わず今度は私からお父さんをじーっと見つめてしまっていたのだが、その様子を、今度は出来上がった朝食を大皿に乗せて持ってきたお母さんが勘づき、聞くまでもなくその理由を、テーブルの上に並べつつ説明しだした。

「…ふふ、琴音、あなた今日はまだ家を出るまで時間があるでしょ?」

「え?あ、うん」

と私はお母さんが並べるのを手伝いつつ返事した。

因みにお父さんがいる時は、まず最初にお父さんから支度をするのが習わしになっていた。他の家庭が見たらどう思うか知らないが、いくら今時古風にも程があると言われようと、これが我が家での普通なのだから仕方ない。

「ふふ、お父さんたらね」

と不意にお母さんは、お父さんに目配せをしつつ、ニヤケながら言った。

「本選の時は朝早かったから、おめかしをした琴音の写真を撮れると喜んでいたのに、今日は午前にゆとりがあるからって説明したら…ふふ、お父さんったら見るからにガッカリしてたのよ」

「おいおい、お母さん?」

とお父さんにしては珍しく、若干狼狽して見せながら口を挟んだ。

「そんな事、話さないでくれよー…」

「あらあら、お父さんったら、照れちゃって」

とそんなお父さんの様子を面白がりつつ、お母さんは私の隣に座った。いつの間にか割烹着は脱いでいた。

「そうだよ、お母さん」

と私もすかさず突っ込んだ。勿論、苦笑交じりだ。

「その話…何気に私まで辱めてるじゃないの?」

「あら、そう?…もーう、親子揃って恥ずかしがり屋なんだから」

「そういう問題?」

と私が突っ込みつつ向かいのお父さんと顔を合わせると、次の瞬間にはお互いにやれやれと首を横に振りつつ呆れ笑をするのだった。

そんな様子を見て、お母さんただ一人だけが愉快げに明るく笑うのだった。

その後はまた普段通りに戻り、お父さんの合図の元、朝食を取った。食べ終えると、私は後片付けを手伝ったりしていたが、お父さんの出勤時間になると、私とお母さんは揃って玄関までお父さんを見送った。因みにというか、これは毎度というわけではない。毎度なのはお母さんのみだ。今回は何となく私も見送る事にしたのだ。ただの気分だ。

「では、行ってくるよ」

「はい、いってらっしゃい」

「いってらっしゃーい」

お母さん、私の順に声をかけると、お父さんは何も言わず一瞬微笑みを見せたかと思うと、玄関の取っ手に手をかけた。

そのまま出るのだろうと思っていたその時、中々お父さんがそのまま出ないので、少し訝しげにお父さんの背中を眺めていたのだが、ふとお父さんは一度私たちの方に振り返り、そして何だか心配げな様子を見せるとお母さんに話しかけた。

「あ…瑠美」

「え?何?何か忘れ物?」

とお母さんが返すと、お父さんは”誰かさん”みたいに、照れた時の癖、頭をぽりぽりと掻きながら言い辛そうに言った。

「いや、忘れ物…って程では無いんだが…」

「じゃあ何ですの?」

お母さんは何故かここで少し気取って見せて返した。

ここまでお父さんとお母さんのやり取りを見ていただいた方なら感じただろうが、お母さんはその時の自身の気分で、お父さんに対して丁寧語になったり、くだけて言ったりするのだった。娘の私でもまだその”法則性”は掴めずにいたが、それでも何かしらの考えがあるのは間違いなかった。…いやどうでもいい話をしてしまった。話を戻そう。

そう返されたお父さんは、チラッと今度は私に視線を流しつつ、しかし相変わらず辿々しく言った。

「ほら…今日の琴音の、そのー…」

「…あ、あぁ!ハイハイ!アレね?」

とお母さんはハッと気づいた様子を見せたかと思うと、今度は終始にやけながら言った。

「ふふ、分かってますよ。しっかり、この子の勇姿を撮ってきますから」

とお母さんは、私の背中に手を置きつつ言った。

するとお父さんは苦笑いを浮かべて「まぁ…頼んだよ」とお母さんに返すと、今度は不意に私に近寄り、私の手をおもむろに取ると、優しげな視線を向けて来ながら「じゃあな…」とだけ、短い言葉だったが感情を練り込んだような深みのある口調で言うと、私の返事を聞く事もなく、今度はサッと外に行ってしまった。しばらくして、お父さんの愛車のエンジンかかる音がしたかと思うと、その直後には音が遠のいていくのが聞こえたのだった。

…ふふ、『じゃあな…』って…お父さんらしいや。

「ふふ」

「ん?何よー?」

と、私は不意に笑みを零したのを不振がったお母さんが声を掛けてきたのを、「何でもなーい」と間延び気味に返しつつ、そそくさと居間に戻るのだった。


それからほんの数十分ばかりノンビリと過ごしたのだが、その後はまた例の如く、お母さんの命令通りに支度を始めた。

ます自室に入り、昨夜のうちに出しておいた余所行きの服に袖を通した。聞いておられる人はどう思うか…まぁどうでも良いと思っている人が大半だと思うが、一応念のために言うと、予選、そして本選の時と変わらぬ服装に落ち着いた。例の、光沢のある白いシャンタン生地の上に黒のレース生地を合わせた、大人っぽいドレスだ。本来は…特にお母さんが、折角決勝まで行ったのだから、新たにそれなりの服を用意したかった様なのだが、本選から決勝までの時間があまり無かったというのもあって、結局渋々と同じ服装に収まった。私としてはどっちでも良かったのは言うまでもない。と言っても、結局本番時に着るドレス自体は、少ない時間の中で暇を見つけて、新たに一緒に買いに行かされたのだから、お母さんも少しは妥協してくれないと困る。…って、これも当人の吐くセリフでは無いのだろうけど。

それはともかく、もう何度か…そう、予選、本選の時だけではなく、例のお父さんの社交仲間との食事会に引っ張り出された時などによく着ていたので、もう慣れたものだった。

着替え終えると、またこれも慣れたもので、お母さんにパウダールームに連れて行かれて、そこでお化粧なり髪型のセットなりをされた。

お母さんは今回に関して、髪型について一番頭を悩ませていたらしいが、今日着るドレスに合わせて、予選の時と同じ、右下辺りで結んで、髪を肩から前に垂らすだけのシンプルなものになった。

私の支度が終わると、お母さんが自分の支度をすると言うので、その間に、私は一旦自室に戻り、これまた昨晩のうちに準備をしておいた持ち物を持って居間に戻り、そこでお母さんの準備が終わるのを待った。時刻は九時半になっていた。


「いやぁー、あっつい」

外に出た瞬間思わず口から飛び出したセリフがそれだった。

上を見上げると、雲一つないまさに晴天日和だった。青がどこまでも突き抜けていってるように見える。

「本当に暑いわねぇ」

と鍵を閉めたお母さんも思わず声を漏らした。そしてその言葉のすぐ後にすかさず日傘を差すのだった。

「あなたも差しなさい」

「はーい」

と私もカバンから日傘を出して、それを差した。

お母さんが紺色ので、私のは若干桃色の入った白だった。

普段はお母さんはともかく、私は日傘など差さないのだが、今年の夏…そう、本選が終わった後、新しくドレスを買いに行くついでに、その流れでお母さんが買ってくれたのだ。私は最初遠慮していた。なんせ同年代で、日傘を差している子など見たことが無かったからだ。”お嬢様校”の生徒ですら見たことがない。しかし別にお母さんが私を困らせようと買い与えてきたわけではない事くらいは分かっていたので、今日こうして初めて外で差すのだった。

「さて、行きますか」

お母さんの言葉と共に、私たち二人は歩き出した。

今日の予定としては、まず会場が銀座にあるのだが、そこに出場者は十一時までに来るようにとの事だったので、こうしてそれなりに余裕を持って家を出た。その途中、まず本選の時と同様に、まず裕美と合流し、三人でそのまま銀座まで出る予定だった。着いたら、あらかじめ決めていた改札口で、そこで律、藤花、紫と落ち合う手筈になっていた。とここで疑問に思われる人もいるだろう。そう、師匠と、それに京子さんはどうしたのかと。本来は私の家で会う話になっていたのだが、前日に京子さんの用事に連れ回されたとかで、二人とは現地集合と相成ったのだった。


私とお母さんで軽く雑談しながら歩いていると、すぐに裕美のマンション前に近づいてきた。すでにエントランスの辺りに、見覚えのある余所行きの服装をした女の子が見えていた

私は思わず自分から”おーい”と声をかけようとしたその時、ふと裕美の横に、これまた見慣れぬ正装をした坊主頭の男の子の姿が見えた。何やら裕美と和かにおしゃべりをしている。

…まさか。

嫌な予感と共に、瞬時に分かりたくもない事の次第を察して、思わず足を止めてしまったその時、

「…あ、琴音ー!」

と裕美がこちらに顔が向いたかと思った次の瞬間、すぐさま大きく腕を振って声を掛けてきた。と、その直後、

「おー!琴音ー!」

と部活で鍛えたかなんだか知らないが、よく通る大きな声で、隣の坊主頭もこちらに向かって声を掛けてきた。

…そう、奴の為に引き延ばすことも無いだろう。察しの通り、この坊主頭の正体はヒロだった。正装はしてはしていたが、小学校の卒業式の時と同様に、着せられてる感が半端なかった。この点で、ヒロが全く成長していないという事が証明された。…まぁ、前に行った通り、背丈は抜かれてしまったけれど。

「おっせぇーじゃねぇか!」

「『おっせぇーじゃねぇか』じゃ無いわよ全く…」

と私は見るからにテンションを落として見せつつ、ため息交じりに言った。そして、さっきからニヤケっぱなしの裕美にジト目を送りつつ聞いた。

「…これって、どういう事?」

「ふふ、どういうことって…」

と裕美は、何だかしてやったり顔を私に向けてきつつ、それに伴って口元を緩めながら答えた。

「ほら…私が本選を観に行った時に話さなかったっけ?その時にヒロ君にも声をかけたって」

「…あぁ、言ってたわね」

「ふふ、その時にね、あんたには悪いけど実は一つ約束をしててさ。もし琴音が決勝にいける事になったら、その時には何とか調整して一緒に応援に行こうって。で、晴れて今日を迎えたワケよ」

「そういう事」

とヒロは無邪気な満面の笑みで合いの手を入れた。

「なぁー」「ねぇー」

ヒロと裕美は顔を向かい合わせて、仲良さげに声を上げていた。

「ごめんねー琴音」

とお母さんが口調を申し訳無さげに声を掛けてきたので顔を見ると、表情はとても悪戯っ子のような笑みを覗かせていた。

「私ね、実はこれも裕美ちゃんのお母さんから話を聞いてね、本当はあなたを動揺させまいと、予め話しておいたほうが良いって思ったんだけれど、その後にヒロ君に言ったら『アイツなら大丈夫です!』って言うもんだから」

「アンタ…」

と私はお母さんの話を聞くと、すぐさま又ヒロの方にジト目を向けた。が、先ほどよりかは呆れた感情が表に出ていただろう、自分で言うのもなんだが、表情自体は柔らかくなっていたと思う。

「まぁまぁ、そうカリカリすんなよ」

と当事者であるはずのヒロは、呑気に笑いながら言った。

「お前、裕美と何度か俺のチームの試合見に来てくれてただろ?なんつーか…俺だけ観られるってのも不公平だしよ、今度は俺の番って事で、観に行く事にしたんだ」

「不公平…って、これはあなたのセリフね?」

と私はすかさず裕美に声をかけると、裕美はただ何故か得意げに笑うのみだった。

そんな私を他所に、ヒロは今度は急に少し照れ臭そうに、しかし若干真面目成分を増しながら言った。

「まぁいいだろ?色々言ったけど、単純に観に行きてぇんだよ。そのー…ダチとして」

最後の方で、照れ隠しに頭を掻きつつ言うその姿が、そのー…自分で焼きが回ったかと思ったけど、何だか可愛らしく見えて思わず知らず微笑みが漏れてしまった。それをヒロに悟られるのが直後に恥ずかしくなって、それを誤魔化すが為に大きく溜息をつきつつ返した。

「はぁー…まぁいいわ、招待してあげるわよ。そのー…ダチとして」

言い終えた後に前屈みになり、悪戯っぽい笑みを向けると、「おう!」とヒロも満面の笑みで返した。

「これで決まりね!」

と裕美も明るい笑顔で言い放つと、私の肩に腕を回して来た。私はそれに対して、ただ笑顔で返すのみだった。

と、この一連の流れを微笑ましげに見ていたお母さんは、ふと腕時計に目を落とすと、空気を入れ替えるように”お母さん”らしい口調で言い放った。

「よし、では皆そろってしゅっぱーつ」


それから四人で地元の最寄り駅に向かうと、私たちにとって馴染み深い駅前の時計台の下に、これまたキメに決めた良く知る女性が佇んで立っていた。時折側を通る男性が振り返り見てるのが見える。

と、その女性は時折手首の腕時計に目を落としていたが、私がパッと腕を上げて手を振ると、視界に入っていたのか、その女性はこちらに顔を向けると途端に笑顔になって、同様に大きく振り返してきた。…ここまで引っ張る事も無かっただろうが、予想通り、そう、絵里だった。

「あ、琴音ちゃーん!おっそーい!」

「ふふ、ゴメンねー」

と、私は思わず駆け寄ってから声をかけた。

絵里はまず私の格好を執拗に何度も品定めをするかの様に見た後、途端にニヤケ面を大いに作って口を開いた。

「いやぁー…今までも可愛い格好を見てきてたけど、今日はまた格別ねぇ」

「もーう、大袈裟なんだから…。まぁ褒めてくれてるみたいだから、お礼は言っておくよ」

「あら、生意気ー」

と絵里はいつもの様に私のホッペを触ってきそうになったが、すんでの所で手を止めた。どうやら今日はお化粧をしているというのが分かったせいらしい。絵里は絵里なりに気を使ったのだろう。

私はそれに対しては特に触れず、

「何せ見ての通り、ちょっとしたサプライズがあったものだから」

と後ろを振り返りつつ言うと、「サプライズ?」と絵里は口に漏らしつつ、私の視線の先に目を向けた。

そこには数メートル離れた所で立ち止まる、裕美とヒロが突っ立っていた。顔には驚きの表情が出ていた。お母さんは当然(?)の様に笑顔でいる。

「絵里さん、おはよー…って」

裕美たちがまだ動かないでいる時、お母さんも私達のそばに近付いてきた。そして絵里の姿を上から下まで舐め回す様に見ると、明るい笑みを零しつつ言った。

「あらー、とても良いお召し物をしてるじゃない?流石ね!」

今日の絵里は、私も見た事のないお召し物をしていた。生地をふんだんに使った、動きに合わせてサラリと揺れるシフォンがとても可愛らしい、濃い紺色のパーティーワンピースだった。一色だったのでシンプルといえばシンプルだが、二つか三つばかりのパールのネックレスをしているせいか、地味すぎず、また華やか過ぎずという絶妙なバランスを生み出していた。袖は丁度二の腕が隠れるほどの長さで、結構ゆったり目のワンピースだった。

「え、あ、いやぁ…」

と絵里は自分の服に目を落としつつ照れ臭そうに返していたが、今度はお母さんの服装をお返しとばかりに褒めていた。

とその時、トントンと肩を叩かれたので振り返ると、そこには薄目で私を睨んでいる裕美の顔があった。

「ん?どうしたの?」

と私がニヤケながら惚けて見せると、裕美はその表情のまま恨めがましげに言った。

「…ちょっとー、絵里さんも来るだなんて聞いてなかったんだけれど?」

「ふふ、驚いたでしょ?これでおあいこよ」

と、一人手持ち無沙汰になっていたヒロの方に視線を流しつつ言うと、「もーう…」と裕美もヒロの方を見つつため息交じりに返した。

と、ここで裕美はまた私に一度視線を戻すと、今度はお母さんと談笑をしている絵里の方に視線を移した。

「…ところでさ、いつの間にアンタの母さんと絵里さんが知り合いになってたの?」

「あ、それはねー…」

と私が返事をしようとしたその時、

「あら、裕美ちゃーん!」

と不意に絵里が裕美に声をかけてきた。

その声に反応して二人してそっちの方を見ると、絵里がこちらに明るい笑顔を向けていた。その隣で、意外だと言いたげに、お母さんは絵里と裕美の顔を交互に見ていた。

「あらー、今日はまた普段と違った可愛い格好をしてるじゃない?」

「う、うん。ひ、久しぶり」

とまだ動揺が引かない裕美は辿々しく答えた。

「ふふ、驚いたでしょ?」

「そりゃ驚くよー」

なんてやり取りを繰り返していたが、徐々に普段の二人に戻っていった。

その様子を笑顔で見ていたが、

「あら、ヒロ君?」

とお母さんはふと、少し離れた所に立っていたヒロに声をかけた。

「ほら、そんな所に立ってないで、こっちに来たら?」

「は、はい…」

とヒロはおずおずとこちらに歩いて来た。

その姿をお母さんは和かに見ていたが、今度は絵里が目を真ん丸に見開き驚いていた。次の瞬間には私にそのまま視線を移して来た。何か言いたげだったが、私は苦笑をする他に無かった。

「ほらヒロ君、今日ご一緒してくれる一人の…」

とお母さんが手を絵里に向けたその時、

「…ひ、久しぶり…で良いのかな?」

と絵里が苦笑交じりに割り込んで言った。

絵里の言葉にまた軽く驚いた表情をお母さんは浮かべていたが、それを他所に「お、お久しぶりです」とヒロも、流石に意外だったのかバツが悪そうに返していた。

「どうなってるの?これは…」

とお母さんは一人狸にでも化かされたと言いたげな表情でいたから、仕方なしと私が皆の代わりに答えた。

「まぁ…これもお母さんに言ってなかったけど、実はヒロも絵里さんの事は知ってるの。…あ、いや、ヒロはこれでまだ二度目かな?」

と私が振ると、少し考えて見せたが「おう」と、裕美ほどの衝撃はなんだかんだ言ってなかったらしく、平静のまま答えた。

「あらま…」

とそれを聞いたお母さんは、一瞬訝しげな表情を見せたが、すぐに苦笑を浮かべると「世間は狭いわねぇ」とつぶやく様に言った。それに対して、私と絵里は顔を見合わせつつ、同じ様に苦笑いをするのみだった。

…これが普段だったら、もしかしたら根掘り葉掘り聞かれてたかも知れない。それだとちょっと危なかったと、内心冷や汗をかいていたのは本当だ。実は今日の事について、予め絵里と軽く打ち合わせはしていた。何についてかというと、『何で裕美ちゃんと絵里さんが知り合いなの?』と聞かれた時の対処についてだ。予定では、今さっき言った様な事から初めて、それで済まなかったとしたら、軽くあの去年の花火大会の事について触れる予定だった。あの時も家を出る時に、『友達と見に行ってくるね』と言っただけだったから、そこには裕美以外の友達が来る余地が生まれていたので、後からその場に絵里がいたと分かったとしても、お母さんが深くアレコレ細かく聞いてくる心配は無いと、我が母ながら分かっていたのだ。最悪、絵里の家で見たというのも、大きな嘘をつく上では、小さな嘘がバレても仕方ないと判断していた。それがまさか、ヒロというイレギュラーがあるとは考えても見なかったので、それで少し…いや、もしかしたら大きく予定は狂ったのだが、結果としてみると、今の所はさざ波程度で済んだ様だ。

それからは、ある種絵里が色々と察して空気を読んで、お母さんの詮索が裕美とヒロに及ばない様にするためか、進んでお母さんと二人っきりになっていた。その姿をチラチラ見つつ、絵里が同行する件について色々と裕美とヒロから質問攻めにあっていたのだが、その間、心の中は絵里への感謝の気持ちで一杯だった。同時に当然として、大きな罪悪感を覚えていた。

考えてみたら、ある意味ここまで危ない橋を渡るのは、義一との再会以来初めてだった。例の、たまに私の胸に存在感を表し、ズンと物理的に息苦しくなるほどに重さを増してくる”ナニカ”とはまた別種の、胸がキュッと締め付けられる様な感覚に陥っていた。


挨拶もし終えると、それから一人加わった五人は駅構内に向かい一路線しかない電車に乗ると、約三十分ばかり揺られていた。…いや、平日とはいえ、もう朝ラッシュはとうに終わっていたので、片方には絵里とお母さん、もう片方には裕美、私、ヒロといったフォーメーションで仲良く横並びに座って行けた。

車中はずっと私たち子供三人で近況報告をし合っていた。久しぶりと言うほどでもなかったが、当然学校が違うので、しょっちゅう会うということは無くなっていたので、何となく久々感があり、それで結構話し込んでしまっていると、気づけば銀座に到着していた。

ホームに降り、会場に一番近い方の改札に向かうと、流石に都心というせいか、正午でもないというのに人でごった返していたが、それでも改札の向こうで、これまた他所行きの服に身を包んだ一群の少女たちの姿が見えた。すぐに誰だか分かった。そう、律たちだった。

向こうでも私たちに気づいてあからさまにハッとした表情をこちらに向けて来ていたが、軽く笑みを向けてから、周りの人の流れの邪魔にならないように、まずはスムーズに改札を出る事に注意した。

まず私が改札外に出ると、まず紫が駆け寄って来た。顔はすでにニヤケ面だ。視界の端で、後を追うように藤花と律が近寄ってくるのが見えた。

「おっそーい!少し遅れてるじゃないの」

紫はジト目気味に時折手首に目を落としつつ言った。実際にはしてなかったが、腕時計を見ている体らしい。

「いくらお姫様だからって、遅刻は許されないんだからねぇー」

「姫はやめてってばー。…ふふ、ごめんごめん、ちょっとした”イレギュラー”があってね」

と私は苦笑しつつ、本物の(?)自分の腕時計に目を落としながら言った。

「イレギュラー?」

と紫は訝しげに声を漏らしたが、その直後には藤花と律がすぐそばまで来ていたので、二人にも挨拶をした。二人が来たタイミングで裕美も加わり、私と同じく挨拶を交わした後、それぞれお互いに服装を褒めあったのだった。

一応というか何というか、折角のお洒落を皆して着て来たのだから、紹介してあげようと思う。

まず裕美から。裕美は本選を観に来た時のと同じ格好だった。ハリのある生地で、光の当たり具合によっては濃いブルーにも見えるような光沢の美しいネイビーのドレスだ。腕にはこれまた前回と同様の純白のミニバッグを下げていて、ショートボブの髪もアップに纏めていた。

お次は先に駆け寄って来た紫。黒地に小さな薔薇がたくさん散りばめられた様なワンピースだった。袖部分は裏地がついておらず肌が透けて見えて、今日の様な真夏日にはもってこいといった感じだった。この面子の中では一番良い意味で普通の女学生な紫は、普段から裕美と同じくオシャレに気を使っていたのだが、こうしたフォーマルな格好を見るのは初めてだった。それがとても新鮮で、さっきもチラッと紹介した様にシンプルではあるのだが、お世辞じゃなくよく似合っていた。 紫は元々若干の天然パーマ気味のボブヘアーなのだが、それには手を付けず普段通りにしていた。外に毛先が跳ねている髪型なのだが、それが今着ているワンピースにも合っていた。

次に藤花。藤花はこれまた自分の見た目がよく分かっているなといった服装だった。第一印象は、私が好きな昔の映画に出てくるお嬢様が着ていそうな、クラシカルな装いだった。紫と同じ様に黒地のワンピースではあったが、柄モノではなかった。胸元にはドットチュールの上にコットンレースが施されていて、その周りをフリル状にしたレースで縁取っていた。パフスリーブの袖口にもレースがあしらわれていて、藤花の背の低めな見た目からくる、キャラ通りの愛らしさとマッチしていた。背中には幅広のリボンが存在感を示していた。似合っているかどうかをここまで話した上で言うのは無粋だろう。髪の長さは私と同じ程なのだが、普段は単純に低い位置で纏めてるだけなのが、今日は高めの位置で纏めていて、簡単に言えばポニーテールにしていた。

最後に律。律もこれまたまさに見た目のキャラ通りの格好だった。上はゆったり目のノースリーブシャツに、下もこれまたゆったり目のサロペット、上下共に黒一色に纏められた、紫以上にシンプルな物だった。前にも触れた様に、律は実際の中身はこのグループの誰よりもガーリーな趣味を持っているのだが、それでも格好については冷静に自分の見た目のバランスを考えて、大人っぽい服装を普段からしていた。とはいえ、胸元にはアクセントとして白パール二連のネックレスをして、後ライトベージュの総レース袖付きストールを羽織っていた。髪型はベリーショートなので、そのままにしている感じだ。

…とまぁ、皆元から持っていたのか、それともわざわざ今回の為に短い期間の間で繕ったのか知らないが、繰り返しになるがそれぞれがよく似合っていた。

とふと簡単に挨拶し、軽くおしゃべりしていると、ふと他の人たちのことが頭を過ぎった。他人行儀な言い回しで恐縮だが、お母さんとヒロ、そして絵里だった。

ふと視線をズラすと、お母さんと絵里は先程から微笑ましげに私たちの事を見ていたが、ヒロの姿が見えなかった。どこに行ったのかと周りを見渡すと、ヒロは一つ離れた柱の下でコチラにつまらなさげな視線を送って来ていた。

「あ、こんにちわー」

とその時、会話にひと段落がついた紫たちは、まずお母さんに挨拶をした。文化祭以来、お母さんと紫たちは面識があったのだ。

「今日はよろしくお願いします」

と三人は声を揃える様にして言うと、「よろしくねー」とお母さんも明るい笑顔で返していた。

「お母さんからも、よろしくとの事でした」

の様な事をまた三者三様に言うと、「はいはい、任されましたよ」と、お母さんはまた同様な調子で返していた。

裕美含むお母さん方とは既に話が通っているらしく、それの確認だった。

「あ、そうそう!」

とここで急に裕美は絵里の元に駆け寄ると、有無を言わさず律たちの前に引っ張って来た。私と絵里含めて、皆して何事かと裕美を見ていると、裕美は絵里の手を離し笑顔で言い放った。

「みんな、紹介するね?この人が、いつも私が話している絵里さんだよ」

「え?」

と絵里がキョトン顔で声を漏らしたその時、私以外のみんなが一斉に絵里の周りに群がった。

「へぇー、この人が」なんて事を各々が口々にしていた。

と、絵里が何もリアクションを取らないのに気づいたみんなは、ジロジロと見すぎたのを反省してか、一歩づつ絵里から離れると、少しバツが悪そうにまず紫が頭を軽く下げてから口を開いた。

「あ、あぁ、すみません。いつも裕美や琴音から話を聞いていたものですから、何だか初めてお会いする気がしなくて…」

と紫がとても”いい感じ”なセリフを吐くと、「ウンウン」と藤花がすぐさま合いの手を入れた。律は黙っていたが、ウンウンと頷くのは同じだった。

「あら、そうだったの?」

と絵里はもう既にいつもの調子に戻って、普段図書館で児童を相手にする様な様子で応えていた。

それからは皆がリラックスした状態で各々お互いに自己紹介をし合っていた。絵里が「こんな私みたいなのがお邪魔してゴメンね?」だなどと言うと、藤花たちは一斉に首を振ってフォローを入れていた。そもそも裕美がチラッと言ったが、普段から確かに絵里についてよく話しており、その流れで当然絵里が自分たちの通う学園のOBだというのも既に知っていた。

話の流れでひょんなとこからそんな話になると、益々絵里は砕けた調子になり、”学園あるある”で盛り上がっていた。

絵里を含めたそんな集団を、また和かに眺めていたお母さんだったが、チラッと時計を確認すると口を開いた。

「さてと、そろそろじゃあ行きますか!…って、ほらヒロ君、そんな所にいないで、一緒に行きましょう?」

とお母さんが声を発すると、他の私たち全員が少し離れた所にいたヒロに顔を向けた。

「はいはい…」

とヒロは何だか照れ臭いのか何なのか、坊主頭を掻きつつこちらに近寄って来た。そしてこれまた何故か私の右隣に陣取り、立ち位置からすれば一番端に控えめに立っていた。

何なのこいつは…?

と普段のヒロとキャラが違うのに違和感を覚えつつ周りを見渡すと、何と裕美を除く他のみんなはヒロの事を、恐る恐る、しかし興味が尽きないといった様子で、直接じっと見ると言うよりかは、チラチラと盗み見ているといった感じだった。

…?

これはどういう事だろうと一人頭を傾げていたが、そんな私たちの様子を他所に、お母さんはズイズイと歩き始めてしまったので、私たちも慌てて後を追った。


人でごった返す地下道を、お母さん一人を先頭に二列に並んで歩いて行った。お母さんの真後ろには私とヒロ、その後ろに裕美と絵里、そしてそのまた後ろを律たちが歩くといった調子だ。歩きながらまだ裕美たちは話に夢中になっていた。

「ヒロ、今日はどうかしたの?」

と私がジト目を送りつつヒロに声をかけた。

するとヒロは顔を進行方向に向けつつ、時折視線を背後に向かわせながら、何だか煮え切らない感じで返した。

「お、俺?…いや?いつも通りだろ?」

「そう…?」

と私は訝しげつつ、ヒロが後ろに視線を向けたので、改めて私も後ろの裕美たちに顔を向けた。

視線があった裕美はこちらに笑顔を見せていたが、藤花たちは依然として何だか戸惑った様な表情を見せていた。

と、私が不思議そうな顔つきでいるのでそこから察したか、裕美が私にも聞こえる様にか口調をハッキリと口を開いた。

「どうしたのよみんなー?何だかテンション低いよ?別に今日は琴音の大会であって、みんながそこまで緊張する必要ないじゃない?」 裕美の”大会”というフレーズから、何だか体育会系の匂いを感じ、思わず私は笑みを零しつつ、裕美のその話に乗っかることにした。

「そうだよみんな。当人の私よりも、みんながそこまで緊張する必要ないじゃない?それともアレ?普段着ない服装だから、それで固くなってるの?」

と後ろ向きで歩きつつそう言うと、「いやぁー」と他の三人は顔を見合わせてそう呟いた。

が、ここでふと紫が、「だってぇ…」と苦笑いを浮かべつつ言った。「…他にも誰か来るなんて聞いてなかったからさぁ」

「そうそう」

「うん」

と紫に続く様に、矢継ぎ早に藤花と律も口を開いた。その視線は裕美にというよりも、ヒロの背後に行っていた。ヒロは後ろを振り返らなかったが、ちゃんとこの会話は聞こえているだろう。

「絵里さん…で良いんでしたっけ?」

と紫が絵里に遠慮がちに声をかけると

「モチのロンよ!」

と、当時小学五年生だった私に対してと同じ調子で返していた。

その反応に若干苦笑気味に、しかし面白そうに紫は続けた。

「絵里さん…は、まぁ裕美から色々聞いてるし…ね?」

と紫は隣を歩く藤花に話を振った。

「…え?あ、う、うん、まぁ…ね?」

と藤花も何だか煮え切らない調子だ。

「絵里さんはまぁアレなんだけど…」

「アレって何よー?」

と絵里はおどけて見せている。とその時、

「まぁ…さ」

と律があからさまにヒロの背中を直視しつつ口を開いた。

「皆驚いているんだよ。そのー…同年代の男の子が急に現れた事について」

「え?」

と私は思わず声を漏らした。この言葉に反応してか、ヒロも若干顔を横に向けていた…が、元々このような膠着状態に我慢出来るようなタチでは無いので、我慢出来ないといった調子で勢いよく後ろを振り返った。

その瞬間、紫たち三人は見るからにビクッとして見せた。

そのまた後間が空いたが、ヒロが頭をポリポリと掻きつつ照れ臭そうに口を開いた。

「いやぁー…なんかスマンネ?女ばかりの所に、俺みたいな男が急に入り込んできて。っつーかよぉ」

とここでヒロは裕美にジト目を向けつつ言った。

「何で俺も観戦に行く事を、この人らに内緒にしてたんだよ?」

「だってぇー」

と裕美はおどけて見せていた。反省の色なしだ。私はというと、ヒロの言った”観戦”というワードが何故かツボに入り、一人クスクスと笑っていた。

「『だってぇー』じゃねぇよ、全く…」

とヒロが裕美の声色を真似して言ったその時、

「そうよ裕美ー」

と紫もジト目を裕美に向けつつ言った。

「さっき律が言ったけれど、事前に何も言われないままに、急に男子が現れたら、元々共学出身の私でも驚くわ」

「うん、ホント、ホント」

と藤花も加勢に入った。が、藤花はジト目というよりも苦笑いだった。

「私も今日まで知らなかったけれど…」

とついでとばかりに私も話に入った。

「まさか他のみんなにも内緒にしてるとは思わなかったわ」

と呆れ気味に言うと、当の裕美は何も悪びれる気配を見せないままに笑顔で言った。

「まぁまぁみんな、中々みんなでこんな風にお洒落する機会なんて無いんだからさ、女子校に通う私らだけど、男っ気が合ったほうが色気があるでしょ?」

「色気って…」

と他の三人は三様に苦笑いを浮かべていたが、

「男って…こいつの事?」

と私はヒロのことを薄目で見つつ言った。

「うーん…男は男だけれど…」

「な、何だよ?」

私が屈めて下から顔を見上げるように見たので、ヒロは少したじろぎつつ声を漏らした。

と、私は体勢を元に戻すと、裕美にため息交じりに話しかけた。

「裕美…コヤツじゃその期待には添えないよ。男は男だけれど、色気要員にはどう見ても役不足だからさ」

「な、何だよー」

とヒロがあからさまに、いつものといった調子で拗ねて見せると、少し間が空いた後で、誰からともなくクスクスと皆して笑い出した。

「ちょっと琴音ー、それは失礼なんじゃなーい?」

「琴音、言い過ぎ」

「…ふふ」

藤花、紫、律はそう私に非難めいた言葉を投げかけてきたが、顔の表情や口調はとても愉快げだった。

ヒロは一瞬きょとんとしていたが、場の雰囲気が和んだのに気づくと、やれやれといった様子で笑うのだった。

「はぁーあ、ほらヒロ君」

と笑いの収まった裕美がヒロに話しかけた。

「そろそろ自分の正体を、私と琴音の学園での友達たちに自己紹介をしてあげて?」

「お、おう」

「ヒロに自己紹介なんて出来るの?」

と私がまた軽口で茶々を入れると、また藤花たちはクスッと笑みを零した。

「もうそれは良いんだよー…ったく」

とヒロは私にうんざりして見せてから、改めて自己紹介をした。

それからは、私たちの配列も入れ替わり、お母さんが先頭なのは同じだったが、その後ろに私と絵里が、その後ろを裕美とヒロに変化した。

案の定というか何というか、矢継ぎ早に堰を切ったように、私と裕美とヒロの関係について質問が飛び交っていた。

…流れでだったが、私は絵里の隣になって良かった。何せ他の三人の勢いといったら、とてつもない熱気だったからだ。自業自得とはいえ、裕美は三人の質問に答えるのにてんやわんやになっていた。まぁ仕方の無いことだ。私はその様子を、ただニヤニヤしながら眺めているのみだった。

途中からヒロが野球部に所属している事が知れると、今度は律がヒロに強烈に興味を示し出していた。しかもだいぶ前に話しで触れたが、律とヒロの二人に運動系ってだけでは無い共通点があったのも大きいのだと思う。それは、学校のクラブだけではなく、地元の元々小さい時から所属している地域のクラブにも所属していて、それを今だに継続しているという点だ。律の勢いに最初は押され気味のヒロだったが、途中からエンジンが掛かったか、”運動バカモード”の律と対等に渡り合っていた。その間は裕美と紫と藤花は顔を見合わせて苦笑して見てるだけだった。もう色気どうこうの話では無くなった。

とまぁ何やかんやあって、地下道を歩いて行く中で皆が何だかんだ打ち解けたその頃、数多くある地上連絡口の一つから漸く地上に出た。十分も歩いてなかったはずだったが、内容が内容なだけに、もっと長く歩いた気になっていた。

地上は相変わらず”無駄に”張り切ってる太陽の光が降り注いでいて、気のせいかも知れないが、アスファルトの焼ける匂いがする気がした。

お母さんに促されて日傘を差すと、まず裕美たちにからかわれた。「流石お姫様は違う」といった類のものだ。私は勿論すかさず「誰が姫じゃ」とツッコミ返した。

「何お前、学校でお姫様やってんの?」

とヒロが思いっきり引いて見せつつ言うので、

「んなわけないでしょ…?」

とツッコミ疲れた私は力無げに答えた。

だいたい予想がつくだろうが、その直後には裕美が「そうだよー」なんて言葉を発したのを最初に、すっかり打ち解けた調子で、紫たちが”無いこと無いこと”をヒロに吹き込んでいた。「はぁ…」やれやれと一人首を振る私の姿を含めて、お母さんと絵里は時折顔を見合わせつつ笑いあっていた。

ついでにというか、後でどうでも良いことを聞かされたので、それを何となしに付け加えると、地元にいる時点でも私は日傘を差していたのだが、その時は裕美もヒロも、私を驚かすのに頭を持って行かれていて、その姿をからかう余裕が無かったらしい。因みに絵里もそんな事だったようだ。

…本当にどうでも良い事だった。話を戻そう。

何のフォローか知らないが、散々からかっていた後に、それぞれがそれぞれの言い方で、私のそんな姿を頻りに褒め出してきたので、それにもウンザリしつつやり過ごしていると、ようやく決勝の会場前に辿り着いた。


そこは日本を代表する楽器メーカーの名前を冠したビルディングだった。中央通りに面して、銀座と新橋のほぼ中間地点に位置していた。前の建物が老朽化により一時閉館、つい数年前にリニューアルオープンしたらしいが、それだけあって確かに建物の外観も近代的だった。何と表現すれば良いのか、実際にはガラスなのだが多様な色合いのタイルが、これでもかとばかりに外壁に敷き詰められているといった様相だった。私が見た第一印象は、ロマン派以降の幾何学的な模様を屈指した近代絵画のソレだった。

ビルの外でも同じだったが、内部に足を踏み入れると、その密集具合は比べ物にならなかった。私と同じように、余所行きの服装に身を包んだ同年代の男女で既にひしめき合い、実際の今いる一階のホールは、まるで何処かの一流どころのホテルのロビーと見間違うほどに絢爛としていただろうが、人が多すぎて何が何だかよく分からないというのが実情だった。そんな中ふと時計を見ると、まだ会場が開くまで二十分ばかり時間があった。

その異様な雰囲気を私含めた全員が、その熱気を前に固まって一度足を止めて眺めていると、

「おーい、琴音ちゃーん!こっちこっち!」と声をかけてくる女性の声がした。

あまりに人が多いので、すぐにはその主を見つけることが出来なかったが、ツバの大きな麦わら帽子を被る、若干背の高めの女性二人組が見えた。この時見えていたのは頭だけだったが、片や黒と白のシンプルな、片や紫にピンクの大きなリボンの付いた派手めなのだったが、ツバ広の麦わら帽子という点では共通していた。また二人とも室内だというのに、顔の半分を覆うほどのサングラスをしている。

…とまぁ今見えてる分だけ描写してみたが、すぐにこの二人が誰だか分かっていた。

「あ、師匠ー!」

と私は姿を見つけた瞬間二人目掛けて駆け出していた。

そしてすぐ近くに寄ると、派手めな帽子の方の女性にも声をかけた。

「京子さんも、こんにちわ」

「うん、こんにちわ」

とサングラス越しだからよく見えなかったが、優しげな視線を送って来てくれてるのは感じた。

「ちょっと…」

とここでシンプルな黒の麦わら帽子をした師匠が、周りをキョロキョロ伺いつつ、少しうんざりげに京子に声をかけた。

「こんな人通りの多い前で声を上げないでよぉ…。前にも、ついさっきも言ったでしょ? 表に出てない私ですら顔がバレちゃってめんどくさいのに、あなたなんか現役なんだから、もう少し控えめにしてもらわないと…」

「あらー?」

とそんな師匠とは対照的に、京子は堂々と周囲を見渡しつつ明るく返した。

「私は全然構わないわよ?元々目立つのは好きな方だし。…バレて困るのは沙恵、あなただけでしょー?」

と口元をニヤケつつそう言うと、師匠はサングラスをしてても参った様子を見せていた。タジタジだ。お母さん以外の人相手にタジタジになっているのを見るのは初めてだったので、意地悪な言い方だが新鮮で面白かった。

因みにというか、お二人の格好について軽く触れようと思う。

…とは言っても、実質紹介するのは京子だけになるのだけど。何故なら、師匠は結局予選、本選の時と全く同じ格好だったからだ。黒の、上下がひと続きの所謂オールインワンタイプのパンツドレスのアレだ。流石に今日は気温が高めというので、アイボリーカラーの八分袖ボレロジャケットは羽織っていなかった。だからノースリーブからは色白の腕が丸出しになっていた。メイクも前回と同様に普段通りのナチュラルメイクをしたが、今回は帽子をしていたせいか、クラシカルロングの髪を束ねる事なく、軽く低い位置で纏めているのみにしていた。京子も帽子の下から、緩やかなパーマ質の髪が艶っぽく流れ出ていた。京子はフレアデザインのゆったり目の黒ワンピースだった。下はノースリーブらしいが、その上からライトベージュの七分袖のボレロを羽織っていた。見た瞬間に思ったのは、よく似合っているなというのと同時に、絵里と若干被っているなという点だった。

私たち三人が軽く挨拶をしていると、少し遅れて「沙恵さーん」とこちらに声を掛けてきつつお母さんたちが近づいてきた。

「あら、京子さん!お久しぶりねー!」

「あはは、瑠美さんも相変わらずで!」

お母さんと京子は、言い方が悪いが年甲斐も無く女学生のようにキャッキャ言いながらじゃれ合っていた。直接は聞かなかったが、その様子から、京子が海外住みというのもあって仲が良くても中々会えてなかった様子がうかがえた。

と少しばかり手持ち無沙汰になった私は、ふと裕美たちの方に顔を向けると、向こうでも私と同じで、どう見知らぬ大人たちに接したら良いのか困惑している様子を見せていた。絵里やヒロですらそうだ。

と、大人の直感が働いたか、私と同様に少し暇になっていた師匠はふと裕美たちに視線を移すと、一瞬ギョッとした表情を浮かべたが、すぐに笑顔を見せつつ自分から近寄って行った。

「皆さんが琴音のお友達の皆さんね?…随分初めに聞いていた人数と、老若男女の比率が違っているけれど?」

「あはは…」

実は私もこれは想定外です…と返そうと思ったが、何と無く押し留めた。

そんな反応を示す私を置いといて、師匠は改めてヒロと絵里を含めてぐるっと見渡してから明るく声を発した。

「一、二、三…へぇー、六人もいるじゃない?四人って聞いてたけれど…お久しぶり、裕美ちゃん」

「琴音の師匠さん、お久しぶりです」

と声を掛けられた裕美は明るく笑顔で返事をした。

「今日はよろしくお願いします」

「ふふ、こちらこそ。で…あ、藤花ちゃんと…りっちゃんだよね?」と今度は藤花と律に声を掛けた。

藤花は何故か一瞬自分の胸元に目を落としてから、裕美と同種の笑みを浮かべて「はい!」と明るく返事をした。

「いつも教会に足を運んで下さって、ありがとうございます」

と藤花が軽く頭を下げると、師匠は何だか照れ臭そうにしつつ「いやいや…」と返した。

「教会にっていうか…あなたの歌を聴きに行ってるだけだから、不敬にも程があるんだけれど…」

「あはは!」

と藤花が笑うその側で、律が何も言わずにただ頭を下げた。そして頭をあげたが、その無表情に見える顔からは穏やかな笑みが見え隠れしていた。律とも何度か面識のあった師匠は、それに対して何も言わずに、同様の笑みを浮かべて「りっちゃんも、今日はよろしくね?」と話しかけていた。因みにこの”りっちゃん”は、師匠のオリジナルな呼び名だった。律もそう呼ばれて満更でもないらしい。のちに聞くと、律の小学生時代の呼び名だったようだ。だが中学生…いや、小学校高学年の時点で、背の事も含めて周囲と比べて大人びた雰囲気を身に纏い出した律に対して、気軽に”りっちゃん”と呼ぶ人が減っていったらしい。下の名前を呼び捨てにするのが、藤花を含めてデフォになっていた。それがこうして懐かしい呼び方をされて、繰り返しになるが本人も嬉しかったようだ。

「この人が、あなた達が話していた、見た事のある琴音の師匠さんなのね?って、あ…」

と紫が、恐らく頭に浮かんだままを口に出したのだろう、言い終えてしまった後すぐに自分で言うべき言葉では無かったと反省をして、「すみません…」と師匠に謝って見せていたが、顔を上げた紫に向って、師匠は首をゆっくりと横に振り、そして暗い雰囲気を払拭するが如く底抜けに明るい声を上げた。

「あははは!良く気の使える子だねぇー。良いの、良いの、別に構わないよー。あなたにはまだ自己紹介がまだだったよね?コホン、私は琴音の師匠をしています、君塚沙恵っていいます。師弟共々よろしくね?」

と最後に満面の笑みを浮かべると、言われた紫も緊張がほぐれたか、笑みを浮かべて自己紹介をしていた。

「あ、そうそう」

と私は絵里とヒロの手を取って、師匠の前に連れ出した。

「おいおい」「ちょっとー」

とヒロと絵里は苦笑まじりに声を上げていたが、私はワザとガン無視をした。

「師匠、今ままで何気なく話に出していた友達を紹介しますね。彼女が司書の絵里さんで、コヤツが腐れ縁のヒロです」

「コヤツって何だよー…あ、こんちわ」

と初めの方は私に薄目を向けて来ていたが、師匠と目が合うと、ペコっと視線を合わせたままお辞儀をしつつ挨拶をした。

すると師匠は顎に指を当てつつ少しだけ考えて見せていたが、ふと何か思い出したようにハッとなり、何故か意味深にニヤケつつ声を掛けた。

「…あぁー、ヒロ君ね?小学生の頃からあなたの話を、よく聞いてたよ」

「よ、よくですか?」

「…師匠ー?」

ヒロが何故か戸惑いげに声を漏らしていたが、私はというと、そんなヒロの様子には構わずに、ジト目を向けつつ師匠に言った。

「よくって…そんなしょっちゅうは話に出した事無いじゃないですか?」

「あら、そうだったっけ?」

ふふふと愉快そうに笑みを零していたが、ふと絵里に視線を移すと、今度は大人向けの穏やかな笑みを浮かべつつ声を掛けた。

「で、えぇっと…絵里さん、でしたよね?」

「え?あ、はい、そうです」

と絵里の方は笑顔を作ってはいたが、何処かぎこちなかった。

師匠はその様子を微笑ましげに見ると、今度は私に視線を向けてきつつ言った。

「絵里さん…って、気安く呼ぶのもどうかと思うんですけれど、あなたについて”も”、普段からよく話を聞いていたし、その度に”絵里さん、絵里さん”だなんてこの子が言うものだから、名字も知らずにそう言わざるを得ないんだけれども」

「”も”って何ですか?」

と私が虚しいツッコミをしている間、そんな師匠の言い訳(?)じみた話を聞いた絵里は、一瞬呆気にとられていたが、その次の瞬間には「ふふ」と明るい普段の笑みを吹き出すように漏らすと、予想通りというか何というか、絵里は急に私の背後を取り、そして両肩に手を乗せてくると意地悪げな口調で声を掛けてきた。

「琴音ちゃーん?そんな前から私の話をしてくれてたのー?」

「…ほら師匠ー?」

と私は私でされるがまま、また師匠に非難めいた薄目を向けつつ言った。

「言ったじゃないですかー?この人は、こんな風な過剰スキンシップキノコなんですよ」

「…ぷっ」

と私の声が聞こえたのか、藤花達とおしゃべりしていた裕美が吹き出す声が聞こえた。

「そんな事言ってたのー?」

と絵里は今度は目を細めて私に非難の意思を伝えてきたが、相変わらず口元はにやけたままだった。

師匠は師匠で、まだサングラスをしたままだったから断定は出来なかったが、視線はおそらく絵里の頭のキノコに向いていただろう、それからその後でクスッと小さく笑った。

が、その後、申し訳なさげにえりに話しかけた。

「…あ、ごめんなさいね?何せ、琴音から聞いた通りの、イメージ通りの女性だったものだから」

「ふふ、今の琴音ちゃんの反応を見るに、良いイメージでは無さそうですけれど」

と絵里もすっかり初対面の人に対しての緊張がほぐれたのか、軽くニヤケつつ師匠に返していた。

師匠は師匠で「いやいや、そんな事無いですよ」と笑顔を湛えつつ和かに絵里に返していた

そのままの笑顔で返した。

とその時、絵里はハッとして見せると、今度は屈託の無い笑顔を見せつつ師匠に言った。

「あ、そうだ。まだ私たち自己紹介をしてませんでしたね?私は山瀬絵里。区立図書館で司書をしています」

「あぁ、あそこの」

と師匠は知っているという意思表示を示してから、軽く佇まいを正して自己紹介をしていた。二人は私が普段から話していたせいだが、何も言わずとも歳が二つ違いでしか無いというのを知っていたので、これからはお互いにタメ口で、下の名前で呼び合うのが決められた。と、その時、

「沙恵ー?何一人で勝手に友達作ってんのよー?私にも紹介して?」と京子がいつのまにか師匠の背後に立っており、肩越しに絵里を見つつ言った。

…ここは端折ろうと思う。何せまた同じ事の繰り返しだったからだ。絵里は京子とも師匠と同じような約束事を作って、それから軽く私の目の前で私の話を三人でしだしたので、一足早くその場から抜け出し、裕美達の中に入っていった。

とその時、拡声器を持ったスーツ姿の男性がホール入り口付近に設置されていた台に乗ると声を発した。

「お待たせいたしました。出場者の皆様と保護者含む二名だけ、どうぞ受付にお進みください。その他の関係者はすみませんが、そのままもう暫く思いおもいにお過ごしください」


私と後二人だけと言うので、お母さんと師匠だけが付き添ってくれた。去り際「何だよー、俺らも行きたいよなぁ?」とヒロが、すっかりもう打ち解けた様子で律たちにそう話しかけると、「こらこら少年、我慢なさい?今は取り敢えず、これだけの美人どころを、あなた一人が独り占めに出来てる、そのハーレム感を存分に楽しみなさいな?」と、直接見た訳ではないが、恐らく京子が悪戯っぽく笑いつつヒロに言っていた。それに対してヒロは何か慌てて返していたようだが、その部分は会場の雑音に掻き消されてしまった。まぁ後で個人的に裕美あたりに聞いて見ることにしよう。

受付の前には、私たちと同じように親子と先生と思しき組み合わせが、静かに整列して順番を待っていた。後ろを振り返ると誰もいなかったので、どうやら一番最後らしい。

と、順番を待つ間、今更ながらジワジワと時間と共に緊張感が湧き上がってきていた。というのも、ここに来るまでの話を聞いてくれた方なら分かると思うが、とてもじゃないが緊張を覚えるような暇など、良くも悪くも無かったのだ。ヒロが待ち合わせ場所にいたということに始まり、数々のてんやわんやがあり、何だか今日は皆勢ぞろいで、どこかに遊びに来たかのような感覚に陥っていたのだった。それが急にコレだ。隣を見ると、お母さんは尚のこと、師匠もシンとした表情で、前方に視線を向けていた。私もまた視線を前に戻したが、ふとまたここまでの事を思い出すと、ついさっきまで体が固くなっていくのを感じていたのに、何だか肩から力が抜けていくような感覚を覚えた。

…これは後になって気づいたが、恐らくあのようなグチャグチャした出来事のお陰で、結果として必要以上に緊張せずに入られたのだろうと思う。裕美やヒロを始めとして、誰一人としてそれを狙っていた訳では無いのだろうが、取り敢えずまぁ、感謝すべき事なのだろう。

それはさておき、ついに私たちの番になると、まず番号札が渡された。見ると五十一番だった。何と最後から数えて二番目だった。

とは言っても、それほど余裕がある訳では無い。今日は午前と午後と分かれており、半分は朝早くこちらの会場に来て、順に既に決勝が行われていたのだった。一階があんなに混み合っていたのも、午前の部を終わらせた人々が外に出ず、そのまま留まっていたのも一つの原因になっていたのだ。

話を戻すと、午後の部という枠組みの中で考えると、私は実質二十五番目だった。この順番も、出場者の知らないところで大分前に決められていたらしい。

それからは受付の人からこの後の流れを聞き、そして別の係の人に促されるままに、決勝の舞台となるホールの中へと三人で踏み入れた。


中に入ると、まずその天井の高さに圧倒された。本選の時のホールにも感動したが、ここはまたひと回りもふた回りも高く見えた。先ほども触れたようにこの建物は所謂ビルディングなのだが、どうやら建物の高さの半分ほどを使っているようだ。具体的には五階分の高さがあった。いくつものライトから煌々と光が降り注がれていた。「ほー…」とおもわず声を、師匠も揃って声を漏らすと、係の人がこちらに微笑みかけてきながら、本番時は今いる客席側の照明は落とされる旨を教えてくれた。それを聞きつつ壁面を見ると、これまた凝ったつくりになっていた。壁面は全て斜め格子のウッドパネルで覆われており、これまた建物の外壁の様に近代チックで有るのと同時に、木の温もりが伝わってきそうなウッドブラウンの優しい色合いが、とても目に心地よかった。実際、何度も頻繁に取り替えられているのか知らないが、このホールに入った瞬間、芳醇な木の香りがしたのが印象的だった。この壁は舞台にまで及んでいたが、舞台自体はライトベージュといった趣で、上から注がれるライトが強いせいか、パッと見真っ白に見えた。

係員に連れられて三人でゆっくりと舞台に近付いて行くと、一番前の列に、私と同年代の男女が行儀よく横並びに客席に着席しているのが見えた。

その視線の先には、舞台を背にしてまた別の係員が立っていた。

と、その係員が私たちに気付くと、「あ、最後の方ですね?どうぞ右端にお座り下さい」と言うので、言われるがままに私一人が既に座っていた子の隣に座った。保護者はまた別に何列か離れた位置に席があるらしく、お母さんたちはそっちに座った。

それからはコンクールの流れについて説明を受けた。こう言ってはなんだが、予選、本選と比べると、格段に丁寧に説明をしてくれていた。

約三十分ほどだっただろうか、説明が終わると更衣室に案内すると言うので、そこで師匠たちと一旦分かれた。お母さんから着替えを受け取るのを忘れずに。

更衣室に入ると、ロッカーがあり、それぞれに番号が振られていた。勿論全く同じというのはあり得ないが、それでもここでは本選を彷彿とさせられた。本選の様に、自分の番号”五十二番”と書かれた場所を見つけて、ロッカーを開けた。その時ふと周りを見渡すと、どの女の子も真剣な険しい表情を浮かべて、誰にも顔を合わせんとするかの様に、黙々と視線を動かす事なく作業的に着替えていった。私もそれに倣い、早速紙袋から本番の衣装を取り出し、それに着替えるのだった。

まぁ興味が無いかもしれないが、何だかんだ予選、本選とどんな衣装を着ていたのか話してきたので、今回も話してみようと思う。

それは、スカート部分が艶やかな光沢が綺麗な濃い紺色のタフタの上に、チュール三枚を重ねて使用されたAラインロングドレスだった。そのスカートの裾部分は、これまた綺麗な三巻き仕上げだ。内部にはパニエを二段縫い付けてあるらしく、程よい広がりの華やかなシルエットを演出していた。胸元は水色に少し灰色の混ざった様な下地の上に、淡い色合いの金色の花柄が象られたレースが上品に映えて見え、優美さを醸し出していた。肩や鎖骨がガッツリと露出するベアトップ、もしくはベアショルダータイプだった。

本選の後、また師匠を伴って衣装を買いに行ったのだが、相変わらずお母さんが今来ている様な露出度高めの派手なドレスを選んだのだが、今度ばかりは師匠もこれに賛成した。以前にも軽く触れたが、本選までならいざ知らず、もう全国大会という晴れの舞台にまで進出したとならば、これだけ派手でもむしろ行くべきだと力説された。

まぁ今紹介した様に、色合い自体は落ち着いていたので、渋々試着をしたのだが、上体がかなり露出していたので、恥ずかしくてそもそも試着室から中々出れなかった。そんな状態でいるというのに、お母さんと師匠はその姿を見た瞬間、これでもかとばかりに誉めそやしてきた。あまりの勢いに押されて、仕方なしに同意をしたという経緯があった。まぁ自分には、露出が多い分動きやすいんだと理屈をつけて無理やり納得させた次第だ。でも流石にずっとこのままなのは恥ずかしいと訴えると、何とか肩の上から羽織る、スカートと同色の大判ストールも買ってもらった。着替え終えた今はそれを羽織っている。

支度が終わると、先ほど係の人から説明を受けた通りに、またさっきいた一階の広場に出て行った。

相変わらずガヤガヤしていたが、先程とは違い、明らかに空気がピリピリとしていた。

順番的にも私が一番最後に出てきてしまったが、その瞬間「琴音ー」と声を掛けられた。その方角を見るとお母さんだった。その後ろにはみんなもいて、ゾロゾロとお母さんの後をついて行く。

私の目と鼻の先に着くなり、お母さんは真剣な眼差しで上下、前後ろと何度も往復させながらジロジロと見てきたが、満足したのか背筋を伸ばすと、優しい笑みを浮かべて「よし!」と言った。

「今回のは中々着るのは難しいと思ったけれど、流石我が娘、しっかりと身に付けてるわね。…似合ってるわよ」

「うん、ありがとう」

と私も同様の笑みを浮かべて返すと、お母さんはふと「ほら琴音、これ持って行きなさい?」と言いながら、ずっと手に持っていたのか、私に常温のお茶の入ったペットボトルを手渡してきた。受け取るとそれは、私の今ハマっている玄米茶だった。

「ありがとう」とお礼を言うと、早速その場でキャップを開け、一口分飲んだ。

そんな私の様子を微笑みつつ見ていたお母さんだったが、ふと口を開けたかと思ったその時、

「琴音ー!」

と裕美、紫、藤花、律たちがお母さんの脇から私の前に出てきた。律も含めた四人して顔は明るい笑顔だった。

この人数の発言を一々今拾い上げるのは流石に余裕が無いので、裕美たちには悪いけど割愛させて頂く。まぁ言い方が悪くて恐縮だが、それぞれの表現の違いはあれど、皆して同様の反応だったからだ。

…自分で言うのはとてつもなく”恥ずい”のだが、四人共が私の今の見た目について、これでもかというくらいに褒めちぎってきた。…『流石姫様だね』といった様な、余計な言葉を添えて。

…まぁ、本人達には言わなかったが、そんないつものノリのお陰で、緊張が和らいだのは本当だった。これはこの会場に来たばかりの時に言った通りだ。ロッカーを出て今いる広場に出てくるまでに、やはりと言うか流石にと言うか、他の参加者の緊張が伝染したのもあるのだろう、すっかり身体が縮み上がっていたのだ。それを意図せずとも緩和してくれた事には、繰り返しになるが密かに感謝をしていた。

散々からかわれた後、裕美が不意に一歩前に出てくると、フッと力を抜いた自然な笑みを浮かべると

「でも本当に似合っているよ。…みんなで、客席で観てるから」

と途中で後ろを振り返りつつ言うので、私もその方向を見ると、さっきとは打って変わって、他の三人が三様に今の裕美の様な静かな笑みをこちらに向けてきていた。

「…うん」

と私も静かに微笑みつつそう返すと、ほんの数秒そのまま微笑みあったが、ここで不意にガラッとまた先ほどの様な”からかう空気”に一斉に戻ると、誰からともなく「ほら!」と裕美を除く三人が何やら後ろから誰かを前に引っ張り出してきた。

「おいおい…」と戸惑いつつ出てきたのは、ヒロだった。

立ち位置的には裕美のすぐ脇といった所に立った。

ヒロは私に目の前に来たのは良いものの、何も声を発しないので、いつもの軽口ばかり叩くヒロらしく無い様子を見せられ、私は私で黙って眺めていると、やれやれと溜め息をつきつつ隣の裕美が、ヒロの背中をバシンと強めに叩いた。とても良い音がなった。

それによって、気持ち半歩ほど裕美よりも私に近い形になった。

「いってー!何すんだよー?」

とヒロが大げさに背中を摩りつつ痛がって見せていたが、裕美はそれには付き合わずに、私に視線を流しつつ声をかけた。

「ほらヒロくん、いつまでもボケーっとしてないで、琴音に何か…さ?」

そう言われたヒロは、「お、おう…」と声を漏らすと、何故かこっちには体を向けず、真横を向いて中々視線を合わせてくれなかった。この時内心では、普段のスパッと気持ちのいいヒロとは真逆の様子だったので、若干イラっとしていたが、その間にふとその後ろを眺めると、これまた何故か紫達が口元をニヤかしつつこっちの様子を伺っていた。

その様子を不思議に思いつつ見ていると、ようやくチラチラと視線が合ってきたかと思うと、何だか煮え切らない調子で口を開いた。

「そのー…なんだ、琴音、今のそのー…」

「何よー?はっきり言いなさいよー?」

と私はストールがずれ落ちない様にしつつ、前屈みになって下からヒロの顔を覗いた。するとヒロは変に驚いて見せて、バッと勢いよく私から一歩分離れた。そんな予期せぬ反応にキョトンと呆気にとられていると、ヒロはなんだか照れ臭そうに頭を掻きつつ言った。

「そのー…よ、…よく似合っているぜ」

「え?何て?」

最後の方が蚊の鳴き声の様に消え入りそうな音量だったので、ガヤついている今の広間ではよく聞こえなかった。

ヒロはそんな私の返しに、今度は私に代わって呆気にとられて見せたが、「はは…」と苦笑まじりに笑みを漏らすと、途端に普段通りの悪戯っ子のような笑みを浮かべつつ言った。

「だからよー、馬子にも衣装って感じで似合ってるって言ったんだよ!」

「…アンタねぇー」

と私も”いつもの”といったノリで、腰に手を当てつつ目を細めて返した。

「アンタ、それしかボキャブラリーが無いの?前にも言ってたじゃない?」

「は?ボキャブ…ボキャブラ…?って何だ?」

と本気なのか冗談なのか見分け辛いリアクションをとってきたので、「はぁ…もう良いわよ」とため息交じりに返した。しばらくその後は互いにジト目で見つめ合ったが、大概の場合にらめっこの様になってしまい、この時もどちらからともなく吹き出して笑い合うのだった。

「はぁーあ、まぁ琴音、俺が応援してやるんだから、敵をぶちのめしてくるんだぞ?絶対に勝てよ?」

と鼻息荒く何故か自信満々にヒロが言ってきたので、

「あのねぇ…何を勘違いしているのか分からないけれど、今日のはその手のものじゃないのよ?」

と私が呆れつつそう返すと、ヒロは何だかムキになって

「わかってら!」

と返してきた。そんなヒロのムキになった表情を見ていると、益々緊張から縁遠くなっていくのを覚えつつ、それにも密かに感謝しているという意を込めて

「まぁ…ありがとうね」

と実際にはやれやれといった調子で言った。

それに対してヒロは「おう!」と先ほどの不機嫌はどこに行ったのか、小学生の頃から変わらない笑顔で応えてきた。

…余計なことかも知れないが、この一連の流れを、裕美は笑顔で見ていた。が、それは何かその裏に大きな秘密を宿している様な影を差していた類のもので、私の位置からも視界の隅にそんな裕美の様子がチラッと見えていて、何だかそれが印象的だったのを付け加えとく。

それはさておき、ようやくというか何というか、今度はまたお母さんと、そして師匠、京子が三人並んで私の前に来た。それから一歩下がった所で絵里が控えめに立っていた。そんな様子を見兼ねたお母さんに背中を押されつつ、絵里が前に出てきた。

絵里は私の顔を見ると、何だか照れ臭そうにホッペを掻いてるのみで、中々口を開かなかった。私はというと、自惚れも甚だしく聞こえるだろうが、いつものパターンからいくと、てっきりテンション高く私の見た目を褒めちぎってくるものと思っていたので、何というか拍子抜けだった。

と、そんな私と絵里の様子を見ていた京子は、不意に絵里の肩に自分の肩を軽く当てると、口調も明るく言った。

「ほら琴音ちゃーん、見てよー?何だか絵里さんと服装が被っちゃって、良く言って仲の良い姉妹、普通に言って昔の漫才師みたいじゃない?」

「ちょ、ちょっと、京子さん…?」

と絵里が苦笑まじりに声を漏らしていた。それを見た私は、自分の見ていない間に何でこんなに打ち解けてるのかと単純な疑問を持ったが、次の瞬間には「ふふ」と自然と笑みをこぼしていた。

「言い得て妙だね」

と私が笑顔で返すと、「またそんな難しい言葉使いをしてぇ」と京子を手で軽く押し退けつつ絵里が言った。京子のお陰(?)か、その顔にはもう妙な照れ臭さは無くなっていた。

「まぁ…何だろ?」

とそれでもやはりいざ口を開く時にはまだ照れが残っていた。

絵里は時折視線を何処かに流しつつ、何か言葉を探している風だったが、「はぁ…」とふいに一人溜息をつくと、こちらに微笑みを向けてきつつ口を開いた。

「いやぁ…やっぱり、気の利いた言葉を思いつけないなぁー…。まぁ、琴音ちゃん?」

「うん」

と私が合いの手を入れると、絵里は一人コクっと頷き、それから笑顔で腰に両手を当てつつ「まぁ、楽しんできてね!」と言い放った。

この時、私はまずどこか懐かしい気持ちにさせられた。なのでその直後に何でか思いを巡らせたが、その出所を思い出した。

そう、あの入試当日の朝、あの日は義一と絵里がメールをくれた訳だったが、絵里がくれたメールが今言ってくれた『楽しんできてね』の一文だったのだ。

我ながらよく覚えていて、しかもよくもまぁ瞬時に思い出せたなと感心していたが、いかにも絵里らしい物言いに、何だか心がほっこりした様な気持ちを覚え、言い終えた後に何故かバツが悪そうにしている絵里に対して「うん!」と力強く笑顔で返したのだった。

「よし!」と絵里も同じ調子で応えてくれた後、絵里は笑顔のまままた一歩後ろに下がったその時、目の前に師匠が出てきた。

相変らずつば広の帽子と、サングラスをしている。本人はバレない様に目立たない様にしているつもりらしいが、正直結構目立っていた。その証拠に、師匠自身は気付いてないらしいが、すれ違う人が時折好奇心の眼差しを向けてきているのに私は気付いていた。だが、何だかその様子が面白くて、今まで何も言わないでいたのだ。我ながら、本当に不貞の弟子だとつくづく思う。

「琴音…」

と周囲を一度確認してから、おずおずと慎重にサングラスを外した。表情は静かだったが、私の知る師匠の顔と比べると、若干強張っている様に見えた。それを脇で京子が口元を緩めつつニヤニヤして見ている。

「ほら師匠?」

と京子が師匠の背中をバシッと強めに叩くと、師匠は「何するのよまったく…?」と背中をさすりつつボヤいていたが、その顔からは強張りが消えていた。

それを自覚してるかしてないかともかく、師匠はフッと柔和な笑みを浮かべると、私の両肩に手を置き、口調も静かに言った。

「琴音…。決勝まで上ってきたあなたに、今更師匠として何か助言出来ることなんか一つも無いわ。そうね…予選と本選の時も言ったけれど、この半年間…いや、あなたが小二だった頃から数えたら約六年間、ずっと私からのムチャな指導にもキチンとブー垂れる事無く着いてきてくれて、それであなた自身の努力のお陰でここまで来た…。まずそれ自身に誇りを持ってね?」

「…はい」

「そして…これも言ったけれど、技術面で言えば、間違ったって良い…プロだって本番で間違う事あるんだから」

「そうよー?」

とここで京子が無邪気な笑顔を浮かべつつ口を挟んだ。

「私ですらね?」

「…京子?」

と師匠が呆れ笑いを浮かべつつ顔を向けると、「あ、ごめんごめん」と京子は両手を顔の前で合わせて平謝りをして見せた。

「もーう…まぁ、後はさ?」

とすっかり興を削がれた形になった師匠は先ほど京子に見せた笑みを浮かべたまま、今度は絵里をチラッと見つつ言った。

「さっき絵里さんが言ってたけれど…折角の大舞台、日本でも屈指のホールなんだから、思う存分楽しんで弾き込んで来なさい」

「はい」

と私は師匠と絵里に視線を流しつつ、微笑みを浮かべて返した。

師匠も微笑み返してくれたがその時、

「さてと…」

とさっき絵里にした様に、師匠の肩に自分の肩を軽くぶつける様にして、京子はサッとサングラスを取った。勝気そうなツリ目は若干緩んでいた。

隣で「あっ…」とサングラスを取ったのに対して師匠が目を丸くしつつ声を上げたが、それには目もくれずに京子は、一度振り返り、他の皆を見渡してから話しかけてきた。

「いやぁ、お母さんや、これだけの大勢の良いお友達、それに弟子想いの師匠…琴音ちゃん、とても恵まれてるなぁと嬉しい反面…」

とここで一度区切ると、上体だけ倒して私の顔に自分の顔を近づけると「やっぱり…どうしたって緊張するよね?」と言った。

言われた私は、癖でまずその言葉の意図を考えていたが、「は、はい…まぁ」とだけ取り敢えず相槌を打った。

それを聞いた京子は勢いよく上体を戻すと、人差し指だけを天井に向けつつ、まるで講義をする風に構えつつ口を開いた。

「だよねー?そこで、現役の私、京子先生からの一口アドバイス!」「は、はぁ…」

「始まった…」

何が何だか分からず戸惑う私の脇で、師匠が苦笑いを浮かべつつ声を漏らしていた。

と、何だか突然ちゃらけて見せた京子だったが、途端に先ほどの師匠のような柔和な笑みを見せると、口調も穏やかに言った。

「琴音ちゃん…?緊張しないように、しないようにって思うほど、ますます緊張しちゃうもんだよね?…うん、まぁ一般的には緊張はなるべくしない方が良いって言われてるし…。でもね、勿論極端には良くないけれど、程ほどには緊張した方が良いのよ?…いや、緊張出来た方が良いと言うべきか…」

「それって…どういう意味ですか?」

先ほどの謎のキャラが吹っ飛ぶほどの京子の話ぶりに惹かれて、私は前のめりになりつつ聞いた。

「それはね?さっき、あなたの師匠、沙恵があなたに言ったでしょ?今までの努力が云々かんぬん。…そう、日々そうやって努力すればするほど、上達の実感があればあるほど自信がついていくけれど、それと同時に失敗を恐れるようになる…。だって、失敗しちゃったら、じゃあ今までしてきたのは何なんだろうって思っちゃうからね?」

「…」

京子の話を聞きつつ、確かに身を以て、こうしている間にも身体がまた強張っていくのを覚えていた。

「ちょっと、京子…?」

と師匠が何かを感じたか口を挟もうとしたその時、京子はニコッと一度目を細めて笑って見せてから話を続けた。

「でもね、それはどんなジャンルでも、必死に努力してきた人には平等に訪れるものなのよ、その類いのプレッシャーってね?…私もそう。私ももうデビューしてから数え切れない程に演奏してきたけれど、今だに本番前は凄く緊張するの」

「…え?京子さんでも?」

「えぇ、京子さんでもね?…ふふ、でもその緊張ってさ、今まで話した通り、必死に努力してきた者にしか訪れないものでしょ?逆に言えば、努力をせずにグータラで生きてれば、私、それに今あなたが感じている緊張を体験出来ない訳じゃない?だからね、何だかこんなつもりじゃなかったのに長々と喋っちゃったけれど…」

とここで京子は照れ臭そうに帽子から漏れ出ていた、パーマのかかった髪を指で弄びつつ、若干苦笑気味に言った。

「まぁ何が言いたいのかっていうとさ、今感じている緊張を無理に排除しようとしないで、むしろそれを含めて楽しんでやろうって気で行こう!ってことさ」

何だか最後は早口になっていたが、本番直前とは言え、不意に現役のソリストである京子から深めの芸談を聞けて、何か大事な事を身に付けられた感覚を覚え、これは意図していなかっただろうが、京子の言葉が頭を支配したのと同時に、先ほど新たに湧いてきていた緊張が少しほぐれていた。

「はい、ありがとうございます」

と衒いもなく、軽く頭を下げて色々な意味を込めたお礼を言うと、「いえいえー」とまるで照れを誤魔化すかのごとく、京子はまたおちゃらけて見せつつ応えた。

「もーう、京子は…」

と師匠はまたさっきと同じ呆れ笑いを浮かべつつ京子に話しかけた。「これから本番に臨むって子に、そんなまた言葉をかけて…」

「えー、別に良いじゃない?」

と顔は師匠に向けたまま、視線だけ私に流しつつ返した。

「私は何も、誰も彼もこんな話をする訳じゃないわ。それに値する人に対してだけするの」


そんな京子からのアドバイスが終わった辺りで、また台に同じ係りの人が立つと、拡声器を使って出場者と保護者一組に控え室に行くように言った。それを合図に、広場で散り散りになって関係者と歓談していた出場者と付添人たちがゾロゾロと案内に従って一斉に動き始めたので、「いってらっしゃい」というような言葉を背に受けつつ、私とお母さんで控え室に向かった。

本選までは出場者のみだったが、決勝は保護者同伴と予め知らされていた。私の場合お母さんだが、お母さんは私の演奏を、控え室で聴く事となる。

入るとそこは、本選時の様な会議室のような部屋だった。が、少しだけ違ったのは、四面ある壁の一面が、照明付きの鏡で占められていた事だった。前回にもあるにはあったが、こんなに場所を取っていなかった。私たちよりも先に入室した出場者の何人かが、早速鏡の前の椅子に座って身繕いをしていた。鏡ごしに番号が見えた。どうやら早番の面々らしい。

私とお母さんは慣れない雰囲気に戸惑いつつ、軽く室内をぐるっと歩いてから、幾つか設置されている長テーブルの一つに近寄り、その端の一角にあった椅子に座った。

控え室は程よく温度調節をされていたが、重々しい空気が充満していた。保護者がそれぞれ一人ついているはずなので、単純計算で四十人ほどいるはずだったが、時折ひそひそ声が聞こえるのみで、その他に聞こえるのは天井から冷気を送り込んでいる空調音だけだった。それが尚更この場に異様さを与えて深めるのに貢献していた。とても息苦しかった。お母さんに貰ったペットボトルのお茶を飲もうにも、蓋を開ける音、それを飲むに当たって鳴る喉越しの音、体内で鳴ってる音だから本人には実際どれほどの大きさか知れないのだが、何だかそんな単純な行為ですら気を遣わせる雰囲気だった。

だが、係員が部屋に入ってきて、五、六人の出場者の番号と名前を呼び、該当者が外に出て行き、しばらくして出場者達が控え室の正面に設置された、天井から吊り下げる式の大きなモニターに映し出されて演奏が始まった時は、その音で急に賑やかになり、先ほどまでの重々しい空気は緩和されていった。


…なるほど、確かに師匠が言ってた通り、その当時と変わってなければだけど、この雰囲気の中、誰か見ず知らずの他の参加者に、しかもこうして保護者がそばにいるというのに話しかけられるとは、夢にも思わないなぁ…。

と、すでにコンクールが始まり、いわゆるライバル達が演奏を繰り広げているというのに、我ながら抜けてるというか何というか、待つ間、いつだったか、師匠が話してくれた、初めて京子と出会ったエピソードを思い出していた。

…まぁ、師匠の当時の先生も、おそらくコンクールが終わってからの事を言いたかったんだろうなぁ…京子さんというイレギュラーは、想定外だっただろうし。

隣に座ったお母さんを見ると、お母さんは姿勢をピンと真っ直ぐにしたまま、正面にあるモニターを凝視していた。一人、また一人と演奏していき、そして終わるたんびに拍手が送られているのを聞く度に、胸がキュッと締まる思いをしていた…と、後日お母さんから直接聞かされた。

そんな心中など知るはずも無い私は、相変わらず頭の中で、当時の師匠と京子の様子を勝手に妄想しながら過ごしていた。

演奏が終わった出場者達は、またこの控え室に戻って来たが、そのどの顔もやり切ったような、無表情の中にも少し明るみが差している様な、見方によっては微笑んでいる様にも見えた。

暇を持て余した私は、途中から一人で何も無い壁を見つけると、それを使って念入りに、戻ってくる彼らの表情を時折眺めつつストレッチをしていた。お母さんはそんな私の様子に一瞬戸惑いの表情を浮かべていたが、一度フッと微笑んだかと思うと、それからは私とモニターを交互に眺めていた。まだ出番が終わっていない出場者は相変わらず閉じこもっていたが、終わった人らは興味深げに私の様子をチラチラと盗み見てきていた。…というのも、お母さん情報だ。周りのそんな様子が気にならない程に、それだけ集中していた。

そしてようやく、私を含む最後の組が呼ばれた。

私は一度テーブルの前に戻り、肩に今まで下げていたストールを脱ぎ、お茶を一口飲み、それをまた戻すと、その手をふとお母さんが取ってきた。私は一瞬ビクッとしてしまったが、お母さんの顔を見ると、見た瞬間は強張って見えたが、途端にフッと微笑んできたかと思うと、次の瞬間には真顔でコクっと頷いて来たので、私もまず微笑み返してから、真剣な表情を作ってコクっと頷き返した。

そしてそっとお母さんの手を退けると、それからは後ろを振り返らず、係りの誘導に従って、他の数人と共に外に出た。

ほんの少し廊下を歩いた所で、真っ暗な場所に通された。

本選を経験しているお陰で、すぐにそこがどこだか知れた。舞台袖だった。真っ暗ではあったのだが、今通って来た廊下や舞台からの光が漏れてきていて、厳密には暗闇では無かったので、それほど周りに気を使う事は無かった。

これも本選と同じだったが、パイプ椅子が五つほど置かれていて、誘導に従い、番号順、つまりは演奏順に座らされた。

それからは一人、また一人と目の前で出場者達が舞台に出て行って演奏していくのを、流石に控え室の時の様に妄想するほどの余裕は無くなっていたらしく、我ながら神妙に耳を傾けていた。

…うん、傾けてはいたはずだったが、自分でも不思議なのだが、聞いてるはずなのに、どんな演奏をしていたのかを聞き取る事が出来ていなかった。何を言ってるのか分からないだろう。それもそのはず、こう話す私自身も今だにその時自分がどんな状態だったのか、ハッキリと断言出来ずにいた。まぁ一般論から推測するに、それだけやはり緊張していたのだろう。この時もそう自分で思ったのだが、ふと同時に、控え室に行く直前に、京子が話してくれた事を思い出していた。思い出した所で緊張は消えなかったが、背中を冷や汗が伝っている様な感覚、体温が頭から下に向けてサァーっと引いてく感覚を覚えていたのが、そのお陰か、徐々にまた血気が戻ってくる様に感じた。

私の一つ前の人が舞台に出たのと同時に、我知らず「ふふ」と小さく笑みをこぼすと、椅子から立ち上がり、これまた本選の時と同じ様に、ストレッチをした。これを話すのも何度目かになるが、このストレッチも緊張を程よく緩めるのに貢献してくれた。後から思えば、京子様様だ。

それはともかく、ブーーっとブザーが鳴ったかと思うと、舞台の方から番号と私の名前が呼ばれた。

私は最後の締めだと、腕と手首のストレッチを終えてから、ゆっくりと舞台袖から外に出た。

少しの間暗い所にいたせいか、急に照明が強くたかれた舞台上に出ると、一瞬目の前がホワイトアウトしたが、歩みは止めなかった。

ただ耳には、客席の方から割れんばかりの拍手が聞こえてきていた。モニターで見ている時より、また、袖にいる時とは比べ物にならない程の音量だった。

私は舞台中央に置かれているグランドピアノを目掛けて最短距離で近寄った。そして椅子の真横に着くと、一応頭の中で、着物を着た時の、凛としたお母さんの振る舞いをイメージして、それらしく振舞いつつ客席に身体を向けた。観客席はやはり真っ暗で、またそっちからも照明を向けられていたので、全く人々の顔は見えなかったが、それでも大勢いるという感触が、視覚以外からヒシヒシと感じた。

この時、自分でも不思議に思ったが、我ながら全く硬くなっていなかった。眩しいながらも、堂々と会場を見渡していた。緊張感はキチンとあったのだが、心はしんと静まり返っていた。言葉一つない、物心ついてから初めて『無』と呼べそうな感覚に陥った。鼓動も一定だ。これはストレッチした事や、お母さんを思い浮かべただけのお陰では無いだろう。

頭を深く下げると、客席からまた一度拍手が湧き、頭を上げると早速ピアノの前に座り、一度両手を腿の上に乗せた。

そして一度数秒ずつかけて深呼吸をしたが、その時の心境としては、先ほどの”無”とは打って変わって、早く演奏したくてウズウズしていた。要は、とてもワクワクしていたのだ。この感覚は、そう、ピアノを習い始めて、ようやく基本的な運指が出来かけてきて、今まで弾けなかった曲が弾ける様になり、それを延々と弾いていた頃のに近かった。注意してないと、思わずにやけてしまいそうになる程だ。それを抑えるためにもまた一度深呼吸をして、それからそっと鍵盤の数センチ上に両手を浮かせて、ワンテンポ置いてから慎重な手つきで第一音を鳴らした。

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