第23話 義一(序)

「いやぁ…」

と、感心なんだか呆れてなのか、側からは判断が難しい声を漏らして、目の前に座る絵里は手元の新書サイズの本を開いて、その中身に目を落としていた。

「あやつが本当に、こんな本を書いて、しかも出版するだなんてねぇ…」

「ふふ」

と向かいに座る私も、もう何度か読み返したせいで、すっかり開きグセのついた、これは自分で勝手に身に付いてしまったクセだが、重要な事が書かれている、もしくはそう判断したページの端を折っていたが為に、そこら中が”ドッグイヤー”だらけになってしまった、今絵里が手にしているのと同じ新書を同じ様に開いたまま、顔だけ上げて、その表情の絵里の様子を微笑ましく眺めた。

あれから二週間弱経った一月の最終土曜日。私は絵里のマンションに来ている。午前で授業が終わりなのだが、律たちが今日はそれぞれに用事があるとかで、学校を出るとそのまま別れたのだった。

この事は事前に知っていたので、あんな事がなくても、元から今日という日に遊びに来る予定を立てていた。約束もしていた。

当然この日に一緒に行こうと裕美を誘ったのだが、裕美にも断られた。…まぁそれでも、地元までは一緒に下校したのだが。

というのも、裕美は去年の五月の大会での雪辱を晴らすべくというので、今年は一ヶ月のうちの第二、第四の土日はクラブに入り浸って練習に励むつもりだと宣言を受けていた。私は勿論それほどまでに熱心に本腰を入れて特訓をしている、そんな裕美を励まし応援しようと思い、それなりに自分ではしているつもりなのだが、それとは別に最近になってある意味初めて知った事実があった。

それは…私という人間の本性の中に、『恋をしている人間を茶化したくなる』病というものだ。勿論この件についても、裕美を全面的に応援する気持ちではいた。…まぁ、何故かこの事を思い出すたびに、毎回不意に胸の奥のどこかがむず痒くなるというか、例の”ナニカ”とはまた違った違和感を覚えはしていたのだが…。

まぁそれは”ナニカ”から派生した迷いだろうと結論を出して、気にしない事にして、そんな裕美に対してついついからかいたくなる衝動に”ごく稀に”襲われるのだった。

話を戻すと、この場合で言えば、水泳の大会に向けて練習にのめり込む裕美に、「そうよねぇ…勿論都大会で毎回三位になるというのも凄いとは私は思うのだけれど。でもそろそろ…また一位になる所を見せたいよねぇー…ヒロに?」とニヤケ顔を抑えられないままに言ってしまうのだった。それに対して、大体裕美のパターンは決まっていて、まずアタフタと毎度毎度顔を赤くして狼狽えて見せて、でもその直後には、私のニヤケ顔が気に食わないと、ジト目で文句を返してくる、それで私が平謝りをする、それを見てため息交じりに苦笑で返す…と、ここまでが一連の流れだった。一応今の所は裕美も心広く寛大に私の軽口を許してくれている。

…が、そろそろ爆発しないとも限らないので、自重するべきだろう。

…って、こんなことを話すつもりじゃなかったのに、いつもの様にまた長々と余計なことを話してしまった。本筋に戻そう。

なので今日は私一人で絵里のマンションに遊びに来たという訳だ。

…ふふ、もう初めの方で気づかれた方もおられる事だろう。…絵里の手元に例の本がある事を。

そう、これは言うまでもなく、義一の処女作、『自由貿易の罠 黒い協定』だった。約束通り私は発売日の二、三日前に、義一のいる宝箱まで出向いて受け取っていたのだが、それでもやはり何だか気になって、本来の発売日、今週の木曜日の放課後に、よく立ち寄ってる数件の本屋を試しに一人で覗いてみた。

…また少し話がそれるが、その時の私は『どうせ何も世間に知られていない義一さんの本なんか、仮に置かれていたとしても隅の方だろうなぁ…』と、まぁ義一なら怒らないし嫌な気にもならないだろうが、一般的には凄く失礼な事を想像しながら行ってみた。…のだが、行ってみて正直驚いてしまった。

何故なら…本屋の正面玄関前、当然そこは一番目立つ、店内に入った人の目に真っ先に付く場所に、一応チョコンと置かれていたからだった。勿論その周りには、私は一度か二度くらい読んでもう読まなくなった、今流行りらしい作家たちの本が場所を大部分占めてはいたのだが、それでも、その中でも一応義一の処女作は、自分の場所を確保していた。そんな事で、しかも自分の事でもないのに異様に感動してしまった私は、テンションを一人変に上げていたせいか、今思い返すと中々に頭の悪い事をしたものだと苦笑もんだが、その平積みスペースに置かれた義一の本にピントを合わせて写メを撮ったのだった。そことは別の本屋にも行って、同じ様に平積みされてるのを見たら、それも当然の様に写メを撮った。

時系列が前後するが、これを後に義一に見せると、ただただ始終照れ笑いを浮かべるのみで、良いとも悪いとも返さなかった。…さて、話を戻そう。

発売日に本屋で見かけたという話は、その日のうちに、”数寄屋関係”の面々に知らせた。やはりというか当然というか、皆も義一に事前に貰っていたらしく、もうみんな読破してしまった様で、それぞれがそれなりの感想を返してくれたその中で…当然数寄屋、オーソドックスのメンバーではないが、この時に流れで絵里にも送っていたのだが、やはりというか想像通り、絵里一人だけが苦笑交じりの何とも言えない、あくまで抽象度の高めな返信をくれた。ケ・セラ・セラといった感じだ。ただそれでも、その文面があらかじめ知ってた風を滲ませてはいたので、「絵里さんも義一さんの本持ってる?持ってたら、もう読んだ?」といった内容を吹っかける意味も込めて試しに送ると、「その続きは土曜日にね?」と流されてしまった。それで今日となる。

家に寄らずにそのまま来たので、制服姿のままの私は、慣れた調子でいつも座っている小洒落たあのテーブルの近くに座ろうとしたその時に、その上に例の本が置かれているのを見つけた。本当はこの話をする前に雑談からとも考えていたのだが、これ見よがしに目のつきやすい所に置いてあるし、それに…もうすでに読み終えた様子が見て取れたので、ついつい自分の事のように嬉しくなってしまい、私や裕美が来た時にまずしてくれる、お茶の準備をして戻ってきた絵里に、もう抑えられなくなっていた私は今朝からカバンの中に忍ばせていた義一の本を取り出して、絵里のヤツの近くに自分のを置き、すぐさまこの話題を振った…とまぁ、そんな訳だった。それで一番最初に戻る。


「…絵里さん、やっぱり義一さんの本をもう手にしてたんだね?」

と私が意味深に笑みを浮かべつつそう聞くと、ちょうど紅茶を飲もうとしていた絵里は吹き出しそうにしてから、まずカップをテーブルに戻して、それから苦笑交じりに答えた。

「…ふふ、何よその”やっぱり”っていうのはぁ…?」

と言い返すと、視線だけ自分の”義一本”に向けつつ続けた。

「まぁ…手にしたっていうか…手にさせられたっていうか…」

「…ふふ」

と、今度は私が思わず吹き出してから

「なーに、その”手にさせられた”っていうのは?」

と聞くと、絵里は何だかバツが悪そうに苦笑い調の笑みを零しつつ、視線を正面の私から少し逸らし気味に返した。

「んー…その、ね?なんていうかー…まぁ事実だけ言うとね、今週の月曜日だったかなぁ?夕方頃、私が図書館から帰ってきたくらいの時にね、急に珍しくギーさんから電話が来たんだ。あまりにも珍しいからさ、何だろうと少し身構えてそれを取ったらさ…『今家にいる?』って聞いてきたのよ」

ここで絵里が義一のモノマネを始めたのは勿論だ。

「『え、えぇ…まぁ、今帰ってきた所だけれど?』って答えたらさ、『ちょっと渡したい物があるから…今から行っていい?』って聞かれてねぇ…」

と絵里は言うと、ふと壁に掛かっている時計に目を向けつつ続けた。…相変わらず絵里の話、特に義一関係の話の再現度の高さが光って、まるで目の当たりにするかの様な心持ちで”見聞き”していた。

「私は一瞬何事かと、約束した覚えも無かったから、その身に覚えの無い唐突な提案をされて一瞬戸惑っちゃった…。何せ、確かあの時は、夜の八時に差しかかろうとしていた頃だったしね?たまーに、いや、”本当に”たまーにここに来る事があったけど、それでも夜に来る事は無かったから少し迷ったけれど…でもまぁ、何だか引く気配も感じられなかったから、そのー…『…まぁ、良いけど』って返したんだ。したらね、電話でだったから直接は見えなかったけど、それでも声色から若干の喜びをみせてね、『じゃあ待っててね』って言って、それですぐに切っちゃったんだ」

私はここまで黙って絵里の様子を眺めていたのだが、何だか途中から微妙に照れを隠そうとするかの様にぶっきら棒に話すので、何だかその様子が微笑ましく、自分でも分かる程に口元を緩めつつ話を聞いていた。

「でまぁ…あまりに急だったんで、しばらく電話をジッと眺めてたんだけれど…ふと、はたと気づいてね、これは大変だとちょっと慌てちゃったんだ」

「…何で?」

と、ここがタイミングだろうと、私はニヤケ面を晒しつつ、口調もそれに合わせて聞いた。

すると絵里は当初は何を聞かれているのか分からない様子だったが、ふと突然まだアワアワし出したかと思うと、口調も慌て調のまま答えた。

「え?…え!あ、いやいやいやいや!違う、違う!そうじゃなくってー…ほ、ほら、私さ、帰ってきたばかりって言ったでしょ?もう部屋着に着替えてたんだけれど、それでも昼間に来ていた服を脱ぎ散らかしててさ?それをー…ほら、男であるギーさんに見られる訳にもいかないでしょ?だ、だからそのー…それで慌てちゃったの」

「ふーん…」

と私は一応の納得をした風に見せたが、意味深な笑みは忘れなかった。

「…絵里さんって、ギーさんをキチンと”男”として認識してるんだ?」

特に意味の無いところに我ながら噛み付いたと思ったが、どうも最近裕美からの”告白”があったせいか、それ以降なんだかんだで私の思考回路が”恋愛脳”になっていたらしい。…いや、世間で言うのとは少し違うかも知れないが、ついつい、裕美に対してと同じ様に、絵里に対しても何かしらの意地悪をしたくなってしまったのだった。案の定、こんな大した意味の無い揚げ足取りにも、見事に絵里は引っかかり、またアタフタとして見せていたが、ふと肩を大きく落とすと、力無げに「もう勘弁してぇ…」と、こちらに恨みがましげな視線を向けてきつつ言うので、「ふふ、ゴメンね絵里さん」と私は満面の笑みで謝った。

それを見た絵里は、苦笑交じりに「もーう…」と呟くと、テンションを整えてからまた続きを話した。

「…あ、でね、それで一応軽く整理をし終えたその時に、インターフォンが鳴らされてさ、見たらギーさんだったから、何も言わずにオートロックを開けたの。で、しばらくして今度は玄関のチャイムが鳴らされたから、これにも直接には出ずに、そのまま玄関を開けたの。そこにはギーさんが立っていたわ。…まぁ寒かったっていうのもあって、ロングダウンコートを羽織ってね。私は一度なんとなく何も言わずにギーさんの全身を眺めてから聞いたわ。『どうしたのギーさん、こんな時間に…?珍しいじゃない?』ってね。そしたらギーさんは『え?…あ、うん、確かにそうだね』だなんて、少し馬鹿真面目に記憶を辿って見せてから、ニコッと笑いつつ返したんだ。…これを見た瞬間にさ、あまりにいつもの調子と変わらないから、何だか…気が抜けちゃったよ」

と呆れつつ絵里は言っていたが、どこか嬉しげに見えたのは私の見間違いではないだろう。

「何事かと思ってたからさ、どんな大ごとが起きたのかって思ってたんだけど、この瞬間にそれほどの事じゃないって気づいて、今みたいにため息交じりに聞いたんだ。『もう…で?』『ん?』『いや、だから…今日は何の用事だったの?…独り暮らしの女性の元に、こんな夜分に来て』『…え?それって…』とここでね、またギーさんが余計な軽口を叩こうとしてたからさ、私は慌ててね…」

と絵里はここで、自分の両腕を交差させて、上腕をさする様にして見せながら続けた。

「『取り敢えずさ…ギーさん、寒いからそのドア閉めて、入って来てくれない?』って言うとね、『あ、うん』って今更私が部屋着のままなのに気づいて、それでハッとした面持ちのまま閉めたんだ。『上がってく?』と、なんか…今思えば大胆なことを言っちゃったんだけれど、何気なくそう聞いたらね?ギーさんの方は何の感想も持っていない感じで『あ、いや、今日はすぐに帰るよ』って答えたんだ。…まぁ、それに対して私は『あ…っそ』って返したんだけれど…」

「…ふふ」

絵里の最初の方のセリフに、この手の話には同年代の女子と比べても圧倒的に恋愛偏差値の低い私ですら、その…言っては何だが年相応ではない感想を聞いて、これまた何だか自分を棚に上げて可愛らしいなどという感想を覚えたのだが、極め付けに、最後の方で何だかウンザリなのか、それとも…むしろ残念がっていたのか、そんな風に直感的に思った直後に、我知らずに笑みが溢れてしまったのだった。

それを見た絵里は、何だか不思議そうな、納得の行かなそうな表情で少し笑みを浮かべて見せつつ、しかしそれに対しては何も突っ込まないままに話を続けた。

「?…あ、でね、そんなことを言って、なかなか話を始めないから、もう焦れったくなってね…『で?何の用?』ってつっけんどんに聞いたんだ。そしたらね、ギーさん…何やらダウンのポケットから一冊の本を取り出して、それをまずは何も言わずに私に手渡してきたんだ。それが…」

とここで絵里はおもむろに”自分の”本を手に取ってから続けた。

「この本だったの。『え…?』と私はあまりに予想外の事で呆気にとられつつ本を眺めたわ。…あ、いや、今までにもね、そのー…さっきというか、もう何度かあなたとの会話の中でも出してると思うけれど、ギーさんはここにもよく来てるんだけれど…うん、まぁ誤魔化さずに言うとさ、本の貸し借りや何やと、それで来る事はよくあったからさ、別に特段珍しいことでは無かったんだ…けれど、やっぱり遅い時間に来たのは初めてだったから、それで…うん、驚いちゃったの。『これって…あ!』とね、まずこれが何かを聞こうとしたその時にさ、表紙に見慣れた人の名前が出てたからね、思わず声を上げてからさ、『これって…ギーさん?同姓同名じゃ…無いよね?』って聞いたのね。そしたらギーさん、さっきまで呑気な笑みを浮かべてたのが、急に照れ臭そうに頭を掻いて見せつつさ、『うん…まぁね』って答えたんだ」

絵里はここで一度区切ると、紅茶をズズッと啜ってから溜息と共に続けた。

「とまぁ、そんな訳でね、後は色々と、何で本を書く事になったのか、あれやこれやと根掘り葉掘り聞こう…としたんだけれど、『よかったら、ちょっとそれ読んでみてよ。発売日はあさってくらいなんだけれど…今日の昼間に僕の手元に届いたからさ、他のみんな…さっきは琴音ちゃんにもあげたんだけれど、そのー…そんな中で、絵里にだけあげないというのもなんか違うと思ってさ?それにー…あらかじめね、人にあげる分は頼んでいたから、余っても何だと思ってさ…』ってね、何だか急に捉えどころの無い、まぁギーさんにありがちなセリフを吐き始めたからさ、『…?』って不思議に思ったんだけれど…」

とここで絵里は、何故か急に照れ笑いと微笑みを混ぜたような、そんな笑みを小さく浮かべたかと思うと、その表情のまま、少し口調も愉快げに続けた。

「まぁ…もう十五年以上の付き合いだからねぇー…ギーさんが何が言いたいのか分かっちゃってさ、私は一度クスって笑ってからね、やれやれ仕方ないなって思いつつ、それを態度に表しながらね『…うん、わざわざありがとう。…仕方ないなぁ、あの雑誌の次は、今度はギーさん自身の本か。…良いよ、読んであげる』ってね、最後にこんな笑顔を見せてあげたの」

と絵里が実際に見せてくれたのは、自分で自覚があるかどうか知らないが、とても可愛らしい、どこか子供っぽい気配の残る悪戯っぽい笑顔だった。

「…ふふ」

「『何だよそれー』ってギーさんも苦笑いで返してきたけれどね、まぁ後は…特にこれといった大した会話をしないで、それから数分後にはギーさんは帰ったの。…んー」

とここまで一人で長いこと話した疲れが出たのか、絵里は座ったまま大きく伸びをすると、それからまた私に話しかけてきた。

「でまぁ、ギーさんが帰った後は、その受け取った刷り上がったばかりの本はこのテーブルの上に取り敢えず置いといて、色々寝支度をしてから、それから改めてまぁ…折角だし、そこまで気を使うことも無いんだけれど、ギーさんにも悪いし、取り敢えずチラッと眺めてみたんだ」

絵里は、私が聞いてもないのに、流れ上でか、義一の本に関する感想を述べ始めた。…まぁ、そもそもそれも聞く予定だったから、こちらとしては何の不満もなく、結果オーライだった。

むしろ…そう自分から義一関連で話そうとするのが珍しかったし、この時点で意気揚々と口火を切っていたのが、何というか…例えが難しいのだが、んー…漠然とだけど、”嬉しい”というのが一番近いのかもしれない。

絵里はふと先程来手に持っていた本の、その表紙を眺めつつ話した。「まぁこれは…琴音ちゃん、あなたがこないだ言ってたように、ギーさんにとっての処女作な訳だけれど、それが随分と何というか…率直な感想としてね、意外に思ったのよ。普段から例の雑誌の中では、よく経済学というものに対してボロクソに書いてるでしょ?近づくのも嫌って感じで書いてるのにさー…そんな人が、こんなど真ん中に突っ込んでいくような内容で本を出すなんてってね」

「…ふふ」

絵里の話を聞きながら、ふとあることを思い出していた。

それは、絵里と初めて数寄屋に行った晩の事だった。その時に絵里に言われたセリフ、『あまりあなたが彼らのような面々と親しくなったり、その深みに嵌っていくことに対してはどうかと思う』といった内容だった。前々から勿論察していたし、だから直接面と向かって言われても、特段ガッカリしたりとかイラついたりという感情は一切起きなかったのだが、…あ、いや、今それについて何かを言いたいんじゃなく、ただこの時思ったのは『…ふふ、なんだかんだ言って、まぁ実際にチラッと言ってはいたけれど、こうしてキチンと、少なくともあの雑誌の義一さんの文章だけは読んでるんだなぁ』というもので、それで思わず笑みをまた零してしまったのだった。

と同時に、冷静に絵里の話を聞いて、それもそうだという感想も同時に持った。…もしも事前に、神谷さんを交えたあの宝箱での件が無ければ、私も絵里と同じ感想を持った事だろう。

絵里は私が笑みを零した事については特に触れずに、そのまま話を続けた。

「もうね、読んであげようとは思ったんだけれどー…まずこの題名でね、既に挫折しそうになっちゃった。だって…私は文学部の出身だし、経済や政治のことなんか微塵も分からないんだからねぇ…。当初これを見た時に、この頭を使いそうな題名の時点で、『ギーさんらしい』とその点では思ったのと同時にさ、…ふふ、”理性の怪物、その面目躍如だとまず思ったの」

”理性の怪物”…これを覚えておられる方はいるだろうか?…そう、初めて義一と絵里、そして私を交えて例のファミレスに行って会話した中で、教えて貰った、義一本人は知らない…だろう、大学時代のアダ名だった。発信元は、義一と絵里の共通の担当教授らしいが、その教授にして、どんな小さな事でも自分が納得いくまで緻密に分析せずにはいられない、最初の感情に基づく直感を、そのままにはして置かずに、そこから、周りから見ると病的に見えるほどに理性的に追い求め続ける、そんな義一の態度を見て、そう付けられたのだった。

このアダ名を絵里の口から聞くのは本当に久しぶりだったが、それでも中々に義一の本質を突いてるなと今だに思う。

…それだからか、今こうして聞いた瞬間に思わず知らず軽く吹き出してしまったのだった。

「…ふふ、確かに。理性の怪物らしい本の名前だよねー?まぁ、題名自体は担当とも協議したって言ってたけど」

と言うと、絵里もとても愉快げに「あはは、本当だよねー?」と返してきたが、その直後にまた手に本を取ると、何だか少し悔しげな苦笑を滲ませつつ続けた。

「…まぁでもさ、それでその晩にペラペラとページを捲っていたらねぇー…いや、確かに内容も小難しい事がたくさん書かれてたんだけれど、でも…んー、ギーさん相手に褒めてあげたくないんだけれど、何だか気づいたらのめり込んじゃって、それでー…」

とここで絵里はふと時計の目を向けて言った。

「次の日も仕事だったってのに、んー…一気に最後まで、あとがきも含めて読みきっちゃった」

そう絵里は言い終えたが、その表情が本当に悔しげだったので、「ふふ」と私はまた笑みを零して、それからは「確かにー」と同意の気持ちを表明した。

「私もだよ。そのー…多分、今話を聞いた感じだと、まず私がほんの少し絵里さんよりも先にこの本を渡されたと思うんだけれど…ふふ、私もね、少しだけ目を通すくらいにしておくつもりだったのに、一気に最後まで読んじゃった」

と私は顔の前に自分の本を持ち上げて、それで口元を隠すようにして見せつつ、その裏では思いっきりニコッと笑って見せた。

先ほどもチラッと言ったが、私の本は例に漏れずに、面白い箇所、勉強になった箇所、その他諸々のページの端を折る、いわゆる”ドッグイヤー”を、それこそ沢山してしまって、絵里の本よりも見るからに幅が膨らんでしまっていたのだが、それを含めて見た絵里は、何だか呆れに近い笑いを浮かべて返した。

「まぁねー…いつだったか…あ、そうそう、その雑誌の話をした時にも言ったと思うけど、次から次へと延々と理屈の嵐だからさぁ…本当だったら読んでて疲れちゃって、終いには最後まで読めずに終わるのが普通だと思うんだけど…悔しいことに、あやつの文章は、何だか人を惹きつけるというのか、んー…まぁ、たまには褒めてやると、下手に文才があるせいでねぇー…読んじゃうのよねぇー…」

と絵里は途中から、正面に座る私から徐々に視線を逸らしていき、言い終えた時には顎に手を当てて、真横を向いてしまっていた。

これが絵里の照れ隠しの態度なのはとっくに知っていた私は、ただそれをクスッと微笑みつつ、この時は静かに紅茶を啜ったのだった。


それから少しばかり”何事も無く”月日が経った二月の中旬の第三日曜日。午後四時半前。私は地元の駅前広場にある、例の時計台の下で、この寒空の中、マフラーの顔を埋めつつ本を読んでいた。というのも、今日は裕美に呼び出されていたからだった。

今日は私は師匠の元でレッスンを受けていたのだが、この後で何やら用事があるとかで、普段よりも一時間早めに終わったのだった。これは事前に知らされていたので、この日のレッスン後に顔の前で両手を合わせて謝ってくる師匠に対して、私の方も恐縮しつつ、しかし苦笑気味に「気にしないでください」的な返答をしたのだった。その話を先週のレッスン時に聞いていたので、それを何気なく裕美に話すと、「私もその日練習だけれど、大体同じ時間に終わりそうだから、その後で軽く会おうよ」と誘われて、それで今に至る。

他にロクな遊び場がないせいか、いつもこの駅前というのは人で溢れかえっていたが、それでも私は周りに気をとられる事なく読書に集中していた。

と、ここでふと雑談をさせて貰うのを許して頂きたい。ついで…裕美の来るまでの間だけだ。

コホン、私は普段から、どこかしらにいつも本を忍ばせていた。通学鞄や、今日の様なレッスン用のトートバッグの中にもだ。前もチラッと触れたが、クラスが分かれてしまったというのもあって、裕美とは一緒に通学するのが、一年時と比べると半分に減っていた。具体的には週に二、三度といった頻度だ。…まぁ、見る人によっては、それでも多いと思うかもだけれど。で、そんな時のためにって事ではないが、通学時、学園の最寄りの四ツ谷まで、掛かって四、五十分ほどする時間を、無駄にするまいとこうして本を一、二冊入れているのだった。勿論それらには、全てに、合格祝いにお父さんにプレゼントして貰った、純革製のブックカバーを付けてだ。

ついでに話すと、これも以前に軽く触れたが、それ以上に今私の自室の本棚は、そろそろ一つの壁を占めようとするほどに増えていた。残りの一つ以外の本棚はすでにパンパンの状態だ。というのも、義一から借りた本の中には、文庫などで再販されているものもあったりするので、それをワガママ言って両親に新たに買って貰っていたのだ。いわゆる東西問わない古典文学だ。どうでもいい話だが、自分で言うのは恥ずかしいが、普段から滅多に何かモノをねだる事が少ない私だからか、それに加えて、そもそも本に限ることのお陰か、頼めばそれらは全て買ってくれたのだった。この本棚に本が埋まっていく、大げさに誤解を恐れずに言えば”快感”の様なもの…これは読書家の皆さんなら共感してくれるだろう。

…コホン、それらを買ってくれる度に、…これは別に文句でも何でもなく、しかしただ素直な感想なのだが、義一から借りる本は総じて古くてボロボロなのに対し、両親に買って貰ったのは言うまでもなく新品なので、それを見てついついテンションの上がってしまう私はまた読み返したりするのだった。

それに加えて、これはお母さん個人だが、師匠から借りた本も自分の手元に置いておきたいとねだると、お母さんは若干渋りつつもキチンと要望を叶えてくれた。まぁこれはお母さんの名誉のために付け加えると、何もこんな芸の本なんかって蔑んで渋っていたわけではない。まぁ…専門書というのは、値が張る、今はそれを言うだけに留めておこうと思う。

…ふふ、もしかしたらずっと、初めの方でわざわざ点々でワザとらしく囲った部分が気になってる人もいるかも知れない。『”何事も無く”月日が経った二月の中旬…』の部分だ。

勿論これには理由がある。…二月の中旬という単語から、すぐに察する人もいるだろう。

そう、今日までの間に例のあの日、二月十四日、そう、バレンタインデーがあったのだ。

ここで雑談に次ぐ雑談を許してほしい。裕美がまだ来てない今しか話し辛い内容だからだ。

まず初めに、私を含めた今までのバレンタインデーの過ごし方から披露しよう。…誰得とは思いつつだ。

まぁ、まさか誤解される事は万が一にも無いだろうが、実は毎年私は、話に出さない間に、ちゃっかりヒロにバレンタインにチョコをあげている。言うまでもなく義理チョコだ。いや、今風に言えば友チョコの方が近いかも知れない。これは小学校入学当初から続いている、まぁ…儀式というか習慣のようなものだった。今となってはよく覚えていないが、私の記憶が正しければ…お互いに小学一年生の頃に、私は全く意識…いや、当時は今と違って既に良い子を演じてきだした時期だったので、もしかしたら建前でも意識してたかも知れない。

それはともかく、その一年生時のバレンタインデーに、何を思ったか、ヒロがその何日か前に、私にチョコをせがんできたのだった。私はその当時からヒロに対する態度、んー…また誤解されそうな事を言えば、恐らくそれなりに心を許していたのだろう、”素”で接していたので、今とそんなに変わらずに付き合っていた相手から、そんな事を言われたので、子供ながらに驚き、その時は憎まれ口の一つや二つを言い放ったと思うが、その後で家に帰りお母さんに言うと、何を勘違いしたかその次の日の夕方には、いつの間に行っていたのか、百貨店で買ってきたらしい、素敵に包装された、小学校低学年の子が渡すにしては高級すぎるチョコの詰め合わせを手渡されたのだった。これには、当然良い子を演じていた当時の私ですら、その演技を忘れるほどに引いてしまったが、それでもお母さんの強引な押しにやられてしまい、それをバレンタイン当日に、学校に持って…行きはしたのだが、登校して早々ヒロに絡まれ、早速チョコ、チョコと煩く構ってきたのにウンザリし、結局学校では渡せなかった。

だが、そのまま持って帰るのも、そのー…多分、当時の私は、それなりに折角買ってきてくれたお母さんに対して申し訳なく…思ったのだろう、当時の良い子の私としては。なので周りの包装紙にマジックペンで『琴音』と書いて、キョロキョロと周囲に誰もいない事を確認し、それをヒロの家の郵便受けの中に投げ込むようにして入れて走り去ったのだった。

帰ってから、何度もお母さんに『どうだった?』としつこく聞かれたが、『喜んでくれたよ』的な言葉で濁すだけに終わった。

その夜、この時点で既に一年弱ほどの付き合いとなるとはいえど、そこまでまだヒロの習性を把握しきれていなかった時期だったので、何となく普段の表面的なおチャラけた部分しか見えてなかったので、恐らく明日になれば、クラスメイトの前で騒ぐんじゃないかと、気が気がじゃ無かった…のは覚えている。

だが次の日、恐る恐る重たい気分の中教室に入ると、何の変化も無かった。ヒロはこの頃から、クラスの中心にいるようなタイプだったが、周りにいたクラスメイト達とお喋りしてはいても、側から聞いている感じでは、琴音の”こ”の字も出していないようだったので、その時は取り敢えずホッとした。ただ…その日も、それからしばらくも、バレンタインについて言わないし触れもしないので、逆に不安になった。

『もしかしたら…私からって気付いてないのかな…?でも…名前を書いたしなぁ…』と、まぁ悔しいながら軽く煩悶しつつ一月ばかり過ごしたある日、その日はまぁホワイトデーだったわけだが、そんなのはすっかり忘れていた私は、夕方、食事を摂る時間になったその時、ふとお母さんがニヤケつつ、オカズの置いてないテーブルの隅に、何やら淡い水色の包装紙で包まれた立方体を置いた。『何これ?』と聞くと『ひっくり返して見なさい?』と言うので、不思議に思いつつも言われるままにひっくり返してみると、そこには、赤ペンで汚い字で『マサヒロ』と片仮名で書かれていた。その瞬間、自分がどうやってヒロに渡した…というか、ポストに投げ込んだかを思い出し、お母さんのニヤケ面が気になりつつも、それでも思わず『ふふっ』と自然に笑みを零してしまうのだった。開けてみると、そこには、可愛らしい瓶に幾つもの包装された飴が入っていた。

その後は私もヒロも、その次のバレンタインからは面と向かって、流石にお母さんに『あんなのじゃなくて、普通のにして』とは頼んだが、それをあげたり、そしてホワイトデーには、また瓶詰めの飴をヒロから貰うというのが、習慣となっていった。

…と、ここで一つ忠告しておきたいのだが、『本当によく覚えていないのか?』というツッコミは受け付けません。

…さて、しかしまぁそれも多少の変化が起きたというか、これ以降は皆さんに話してきたのと被るが、私がそう、師匠からお菓子作りを習い始めた頃から、まぁ…毒味の意味も込めて、あまり作り慣れていない菓子を中心に、手作りのをあげるように最近はなっている。…あの例の、ヒロと初めて義一の家に遊びに行って、その時に作ったチョコブラウニーをヒロが食べて、『美味しい』と屈託ない笑顔で言ってくれた…というのは、そのー…関係ない。

…コホン、まぁその習慣も中学生になった今も続いている。今年も私は何かしらを作って渡した。因みに、ヒロは何の芸もなく、相変わらず、それなりに趣向の凝らされたものではあったが、飴なのには変わらなかった。毎年だ。恐らく今度の三月のお返しも同様だろう。

…って、何故か私の話ばかりしてしまった。いけない、いけない…。そんな私みたいなどうでも良い話はこの辺りにして、ここにきてようやく裕美の話だ。裕美は私の知る限り…今までヒロにバレンタインには何も渡していない…いや、”何も”ではないか。まぁ…ありがちだろうが、駄菓子屋とかで売られている、いわゆる三十円くらいのチョコをポンと手渡してるくらいだった。言うまでもなく義理チョコだ。…まぁ、そんな様子を毎度毎度そばで見ていたので、尚更裕美の”告白”に驚いたのも無理はないだろう。

さてようやく本題だが…結論から言えば、裕美は今年は何と、その義理チョコすらあげてなかった。と、ここで慌てて裕美のフォローをすると、本来はあげる予定でいた。

…何故私が知ってるかと言うと、まぁ…私が裕美に、こう言っては何だがいたずら心もあって、『折角だったら手作り菓子を渡そうよ』とけしかけたのだ。最初は渋っていた裕美だったが、何度か押せば受け入れるだろうことは予想が出来たので、私はしぶとくせっついた。というのも、私の腕を裕美はよく知ってるという自負があったからだった。というのも、ヒロに手作りの菓子をあげるのと一緒に、裕美にも毎年あげてたのだ。違う見方から言えば、裕美の前でヒロにバレンタインという日に渡していたということになる。まぁでも、当時は当然裕美の本心なんぞ知る由も無かったし、それにむしろ、二人っきりの時に手渡すよりも、そのほうがまだマシだと、後付けだがそう思うようにした。

なので、今年の場合も、裕美の心を知った今も、敢えて裕美の前で手渡すようにした。何も言わないが、恐らく裕美は私のこの気遣いを、それなりに分かってくれてるだろうと思っている。

…と、また話が逸れた。…まぁ話が逸れたと言っても、正直これ以上話す事も無い。要は裕美に実際にお菓子作りを教えたし、綺麗にラッピングしようか段階まで来ていたのだが、そこでまぁ…言ってはなんだが、裕美は直前で日和ってしまった、そういうわけだ。

でもそれについてこれ以上私からアレコレと言うことはない…というか、言うべきでないだろう。私には”まだ”分からないが、恐らく誰かを本気で好きになる、また、その度合いが強ければ強いほど、特にこの年齢の女子からすれば、何と比べても身を裂かれるほどにキツく厳しく大変なことなのだろう。それを外野、それもド素人も良いところの私が何か言えるはずもない。ただ見守るしかないのだ。

…とまぁ、アレコレと本人がいない事に話してきた…いや、話してしまったが、でもまぁ、私自身の話もたくさん無駄に話したのだから、裕美にはそれで良しとして貰おう。

…さて、雑談と断っておいてはいながらも、それに甘えて調子に乗ってグダグダと話してきたが、丁度というかやっと裕美が来た様なので、ここで話を戻そうと思う。

「…琴音?」

「…わっ」

と私は思わず声を上げた。何故なら急にほっぺに冷たいものが触れたからだ。見ると、どうやら裕美が冷えた手で気付かない間に触ってきたからの様だ。

「びっくりしたー…」

と触られた方のほっぺに手を当てて言うと、「あははは」と裕美は明るく笑って返した。

「ごめんごめん。でもさー、さっきもあそこ辺りから声を掛けてたんだよー?」

と裕美の指差した方には、私たちの家へと続く裏道があった。

「すぐに気づくかと思うから、恥ずいの我慢して声を上げたのに、あんたはちっとも気付かないんだから…これでおあいこよ」

と裕美が目をぎゅっと瞑って返すのを見て、まず思わずクスッと笑ってしまったが、それでも今更遅いながらに不機嫌な風を見せつつ

「何がおあいこよ」と返したが、やはりうまくいかずに、それからはどちらからともなく笑い合うのだった。

それからは、何気なく二人して、新しく出来た方、お母さんがよく行くスーパーのある、ショッピングモールの方に足を向けた。

私はまぁ…想像出来るとは思うが、まずこの手の人で普段からゴッタ返すような所には自分から行かないので、何度かこうして裕美、もしくは朋子たちとぶらついたりもしないことも無いのだが、それでも今だに把握が出来ていなかった。それとは逆に、裕美はもう自分の庭だと言いたげ…いや、実際に言っているが、このだだっ広いモールの中を知り尽くしているようで、いつも私を”いい意味で”つれ回してくれるのだった。この日もそうだ。

…そうだったのだが、そういえば最近本屋に足を向けていない事に気付き、この中にも本屋があるのを何となく知っていたので、それをまず裕美に言うと、「本当にアンタは本の虫なんだからー」と呆れ笑いをしつつも率先して本屋を探してくれた。

モールの中では一番端の一角にその本屋はあった。中々に広いお店だった。全国にチェーン展開している本屋さんだった。

後々の話の為に、この場で予め言い訳をさせて頂くと、この時はたまたま、正面からではなく、裏(?)というか、もう一方の方から店内に入った。というのも、正面のすぐ脇にはレジがあり、そこには列が出来ていて人の往来が激しかったから、それを避ける意味でそこから入ったのだった。

これが初めてではなく、それこそ小学生の頃からこうして付き合って貰っていたので、私は入った瞬間手前から、実用書から専門書など、 ジャンルを問わずに一つ一つの本棚を縫うように練り歩くのを、ろくに振り返って見たことはないが、恐らくは呆れ笑いを浮かべつつ後についてきてくれていた。

…と、ここで、まず白状しておかなければならないだろう。何故こうして裕美を連れ立って、せっかく会ったというのにまず本屋に立ち寄ったのかを。

ここで慌ててまた言い訳をさせて貰うと、別に裕美とは正直全く関係が無かった。ただ単に…そう、先ほども言ったように、普段は立ち寄らないが、それでも自宅の近所にあるこの本屋には、果たして義一の本が売られているのか…それについてふと思うところがあり、裕美がいるというのにその衝動に”抗わず”、その思いつきにただ付き合って貰った、そういう次第だった。

もう一つ言い訳をさせて貰うと、さっき人混みが多くて、それで裏から入ったと言ったが、勿論それもあるのだが、それだけではなく、発売されてからもう一、二週間で一ヶ月が経とうとしていたので、もうどこか本棚の隅にでも追いやられているだろうと、本人がそう言っているから言いやすいのだが、私もそうだろうと推測し、こうして結局普段通りではあるのだが、それを頭に入れながら練り歩いていた。

だが…結局義一の本は見つけられなかった。

なーんだ…もうどこか奥にでも仕舞われちゃったのかな…?

と一人心の中で、自分のことでも無いのに、いや、本人がこれまた一切他人事のように気にしないので、その代わりも含めてガッカリした。

と、そんな様子が表に出ていたのか、

「…ちょっと琴音?アンタ…大丈夫?」

と顔を覗き込むように聞いてきたので、

「え?何が?…ふふ、大丈夫よ。ってか、何も無いでしょ?」

フフっと最後に自分なりには明るい笑みを浮かべて、「もう行こっか」と店内を一周したので、今度は正面から出ようとしたその時、ふと何気なく目がいった平積みゾーンを見て、私は思わず足を止めた。

恐らくわざとだろうが、後ろを歩いていた裕美は私の背中に自分の体をぶつけてきてから「何よー?急に立ち止まらないでよー?」と不満げな声を上げていたが、この時の私はその声が耳にほとんど届いていなかった。それくらいに、その平積みにされている本に目が行ってしまっていた。

そこにあったのは何と『自由貿易の罠 黒い協定』だった。そう、義一の本だ。まぁ…これだけ目をまん丸に見開いて驚いた理由として、勿論まだこうして平積みされているのもそうなのだが、それ以上に…何と、そのゾーンが発売日に見た時とは比べ物にならない程に増えていた事だった。前に言った様に、義一の本は精々一列に何冊か積み重ねられていた程度だったが、今は…この本屋で言うと、その棚の三分の一を義一の本で占められていた。そして、これは私が以前は見落としていたのかも知れないが、今回は何やら恐らく店員が書いたものだろう、手書きのPOPが側に複数置かれていた。そこには『彗星の如く現れた、未だ正体不明だが、舌鋒鋭い新鋭の論客の作家』というものと、『今話題の新たな自由貿易協定。その賛成論者たちに真っ向から立ち向かう』などなどと、カラフルなペン使いで書かれていた。因みに、これまた私としては意外だったのだが、初めの方で本屋で見かけた時は、ごくシンプルな帯しか無かったのが、今目の前に置かれているその本の帯は、今触れたPOPに書かれていた煽り文句が、少しアレンジが入った…いや、POPの方がアレンジしてるのかも知れないが、それはともかく、同じ様なのが書かれており、その帯の幅自体も、本の半分を覆うほどに太くなっていた。…因みに、最初の帯には推薦文が一行書かれていたのだが、それは神谷さんのものだった。

…ふふ、正体不明って…その通りだわ。

と一人愉快げに思わず口元を緩めていると、その脇を人が義一の本を取って行っていた。そしてレジに並ぶのを、何となく眺めているのだった。

私は、聞いてる方は大げさに思われるかも知れないが、この思わぬ事態にロクに頭が働いていなかったが、「何見てるの?」という裕美の暢気な声で現実に戻された。

「なになにー…」

と裕美は私が見ていたPOPを眺めた後で、何気なく一冊本を手に取って見た。

「『自由貿易の罠 黒い協定』…?これまた何だか小難しそうな本ねー?でも…これだけ並べられてるんだから、結構売れてるのかな?…ん?」

と、そう独りごちつつ本の表紙を眺めていた裕美は、ふと”何か”に気付いた様子を見せた。

そして裕美はハッと顔を上げると、先ほどの私と同じ様に目をまん丸に開けて、口調は慎重に期する風に声をかけてきた。

「ねぇ…ここに書いてある名前…って、もしかして…もしかすると、まさかアンタの…おじさん?」

「んー…」

と私は不意に口元がにやけそうになるのを抑えつつ、声のトーンも上擦りそうになっていたので、そこは何とか慎重になりつつも、最終的にはニヤケ混じりの微笑を湛えながら答えた。

「どうやらー…そのようね?」

「え?…って、えぇーーー!」

と裕美が声を上げたので、一気に店内にいる人々の視線を感じた私は一度周囲を見渡して裕美を制した。

「ちょ、ちょっと裕美!声が大きい!」

「あ、あぁ、うん…」

と、まだ表情は興奮が冷めやらぬといった様子で、しかし一度周囲にペコっと恥ずかしげにお辞儀をして見せてから、今度は打って変わって小声で言った。

「ちょ、ちょっと琴音、これって…どういう事?」

「んー…どういうことって言われてもねぇ…」

と私も小声で返しつつ、そっとまた周囲を見渡したが、やはりと言うか、店内の人々の好奇な視線が止む気配が無かったので、私は一度ニコッと笑ってから、心なしか気持ちが上擦ったまま返した。

「…あのさ、誰かさんのせいで何だかここに居づらくなっちゃったから、さ?取り敢えずここを出てー…あ、そうだ。裕美、あなたのよく行くっていう喫茶店に行きましょ?そこでなら…話してあげる」


「誰かさんのせいって…何よその言い草ー?」

と不満を露わにしながらそう返してきたが、それでも気持ちは同じだったようで、次の瞬間にはいそいそと本屋を後にした。

そしてそれからの道中はこれといった会話をする事もなく、自分達でも不思議だったが気持ち早足で、一軒の喫茶店に入った。そこはチェーン店で、まず都内で見ないことはない程に見慣れたお店だった。

入ると流石というか混み合ってはいたが、運良く外を見るカウンター席が二人分ちょうど空いた時だったので、何も言わずとも、裕美に並んでいて貰い、そのまま私の分の注文まで取ってもらい、その間に私は裕美の荷物を預かり、そして今空いたばかりの席にそそくさと座った。

まぁこれは、長年の付き合いで生まれたフォーメーションの一つだった。どうでもいい事を話すと、初めのうち、まだこうして作戦が固まっていなかった時などは、私が注文に回る事もあったのだが、何せ自分で言うのも何だがこの手の事には同年代の子たちと比べ物にならない程に疎い私は、何度も裕美に頼まれた注文が出来ないのが続いた。なので、結局はこうして私が荷物番に落ち着いたのだった。

こういう時は、最近の私の注文はホットコーヒーと決まっていたので、そのまま裕美が持ってきて、 そして取り敢えず、混み合う店内というので肩身を狭くしながらも「かんぱーい」と小さく言い合いながら、カツーンとそっとお互いのカップをぶつけ合い、それから一口ずつ飲むのだった。

因みに裕美はホットレモンティだった。

「はぁ…で?」

と一息入れる間も無く、裕美は何だか見るからに待ちきれないといった様子で口を開いた。

「まずまた確認するけど…アレってやっぱりアンタの叔父さん…なんだよね?同姓同名…ってわけじゃなく」

「えぇ、そうよ」

と私はまだ心なしか、”何故か”誇らしげな気分のまま答えた。

「えぇー…って、ちょっと待って?」

と裕美はおもむろにスマホを取り出すと、素早い手つきで何やら打ち込んでいたが、ふと手を止めると、液晶をこちらに向けてきながら言った。

「さっきの本って…コレだよね?」

「ん?」

と私はわざわざ息がかかるほどの距離まで顔を近づけてみた。

それはとあるネットのページで、全世界的に知られたネット通販のサイトだった。確かにそこには義一の本が出ていた。

私は一度顔を離し、体勢を戻してから答えた。

「…えぇ、そう、その本よ」

「はぁー…」

裕美は、何とも捉えようのないため息を吐きつつ、出ているページをしげしげと眺めていた。

「ふーん…って、へぇー、この本のレビュー、全部が五つ星じゃない」

と裕美はまたこちらに液晶を見せてきたが、今回はチラッとだけで、また自分一人で見ていた。

…先ほど私は、全世界で有名がどうのと紹介したが、それは裕美含むその他の人に聞いただけで、普段からネット自体ろくに見ない私からすると、イマイチよく分かっていなかった。

「へぇ…って、それってどんな事を意味してるの?」

と素直に他意なく聞くと、裕美は一瞬キョトンとして見せたが、その直後には苦笑まじりに返した。

「…まったく、アンタは本当に現代人か、たまーに…いや、しょっちゅう疑問に思うよ」

「うるさいなぁ…で、どうなの?」

「んー…って、私もこれに関しては、よく分かってないんだけれど」

と裕美は最後に照れ笑いを浮かべたので「なーんだ」と私が今度は呆れ笑いを見せたが、でもすぐに裕美はまた画面に目を落としつつすぐに返した。

「んー…でもさ、少ししか見てないけれど、最低でもここにわざわざコメントしている人は、この本を良い本だって思ってるみたいだよ」

「へぇー…そう?」

と私は何の気なし風に返したが、内心はまた何だかほっこりとする様な心持だった。

そんな私には気を止めずに、それから少しばかりレビューや、他の紹介などを眺めていたが、画面をそのページにしたままテーブルに置くと、一度レモンティーを飲んでから口を開いた。

「…で、だからこれって…なんて質問したら良いのか迷うけれど…これってどういう事?」

「…ふふ」

何だか口調は不満げなのに、顔の表情は困り顔だったので、そのアンバランスさに思わず笑みを零してしまったが、それを見た裕美は何だか力が抜けた様子で、今度は苦笑を浮かべつつ続けた。

「はぁ…ってかさ、何だかさっきこの本を見た時に、アンタはそんなに…いや、驚いてはいたみたいだけれど、なんかすぐに今度はテンション上げてたよね?それって…細かいことはともかく、この本の存在自体は知ってたって事?」

…鋭い。

この様に、たまに鋭い洞察を見せる裕美の長所を見せられて、トントンと液晶画面を指で軽く叩いて見せている裕美に対して、またまた笑みを零してから、今度はそれで終わらさずに答えた。

「…ふふ、流石裕美、鋭いわねぇー…」

と私は勿体ぶって一度コーヒーを啜ってから続けて答えた。

「…そう、私はもう既にね、義一さんが本を出してる事は知ってたわ。それも…まだ発売される少し前からね」

私はこれに続けて、あとでどうせ聞かれるだろうからと、そのまま例の宝箱での話を掻い摘んで話した。

もちろん、神谷さんが帰ってからの話だ。

それを、私の想い越しのフィルターがかかっているかも知れないが、心なしか裕美は興味津々に聞いてくれていた。

そして話し終えると、「ふーん」と一度声を漏らして、何気なく、スリープ状態に入って真っ暗になっていたスマホの画面を起こして、そこに出たままの義一の本を眺めつつ言った。

「なるほどー。じゃあこれがアンタの叔父さん、そのー…義一さん?その義一さんの処女作って訳なのね?ふーん…ってかさぁ?」

と裕美はまた私に視線を戻すと、意地悪げな笑みを浮かべつつ聞いた。

「何でこんな面白い話、内緒にしておくかなぁー?私だって、たった一度、あの花火大会に絵里さん家で集まった時に会っただけだけど、それでもさぁー…教えてくれても良かったじゃない?これでも見れるけれど…もう発売日から半月ちょっと経ってるし」

「えー?」

と私はなんとなく視線を外して、慌ただしく外を歩く人の流れを眺めてから、また視線を戻して答えた。

「だってー…今もあなたに話したでしょ?義一さん自身も含めて、私も言った通り全部読んだんだけれど…なんというか、おそらく世の中的には”ウケない”だろうと予想してたのよ。私はもちろん面白かったんだけれど…でもまぁ、私も義一さんも世間から見ると変わり種の部類に属するのは自覚してるからねぇ」

「あはは」

とそれを聞いた瞬間に裕美が無邪気に明るく笑って見せたので、「ちょっとー、そこは何かフォローを入れてよー?」とジト目を向けつつ不満げに突っ込んだが、その後にまた表情を戻して続けた。

「まぁだからさ、私が面白いって思うものは、んー…繰り返すけど、何となく世間受けは良くないだろうって思ってたからさ?だから…まぁ単純に言うと、あまり売れない本を書いたっていうんで、何もあなたとかみたいな、私が親しくしている人たちに知らせて、義一さんを辱めることも無いだろう…って思ったのよ。…わかる?」

と私が聞くと、「んー…なんと…なく?」と裕美は苦笑い気味に答えた。まぁこの様な反応は分かりきっていたし、慣れっこだったのでそれは流して「そっか」と笑顔で返すのみで済まして続けた。

「まぁ…それでね?さっきあなたが奇しくも言ってくれたけれど、それでも…ふふ、そりゃあ驚くわよ。だって…さ、義一さんの、…義一さんの本があんなに広く展開されて平積みされてるなんて…想像もしなかった事だもん」

と私は言い終えると、また外の景色を何となく見ていたのだが、ふと隣から「ふふ」と笑みを零す声が聞こえた。

見ると、裕美が何だか柔和な笑みを浮かべて見せていたが、視線が合うとそのままの表情でボソッと言った。

「…ふふ、アンタ、何だか…さっきからだけれど、何だか嬉しそうだね?…やっぱそんなにあのおじさんの事が好きなんだねぇ?」

「…ぶっ!」

聞いた瞬間私は思わず吹き出してしまった。口に飲み物を含んでいなかったのが幸いだ。

私は何となく口の周りをナプキンで拭いてから、まだ動悸がおさまらないままに薄眼を向けつつ口を開いた。

「ちょ、ちょっと裕美ー…急に変なことを言わないでよー」

「あははは」

と裕美は愉快げに一人笑っていたが、そのままの調子で返した。

「別に変な事なんか言ってないじゃなーい?昔からアンタは、コレに関しては妙なトコで引っ掛かって見せるんだから」

「むぅ…」

と私も、裕美の言う事がもっともだと頭では理解しつつも、こればかりは自分でも原因がよく分からず、今の時点でも解決法が見つかっていなかったので、取り敢えず膨れて見せるしか無かった。

義一が好きかどうかなんて…そんな”恥ずい”答えは返せない。

「まぁいいわ」

と裕美は心無しか満足げな表情を浮かべると、またスマホに目を落として、サラッと軽く操作をして見せつつ言った。

「まぁでも、こうして見ると…アンタたち変わり種の二人も、この本に関して言えば、結構世の中に受け入れられてるみたいじゃない?」

「何よ、その言い草ー?」

と私は不満タラタラで返したが、しかしすぐに私の口元を見て察したらしい裕美が、何も言わずにニコッと目を瞑った笑顔を見せたので、私も一度鼻から息を吐くと、裕美に合わせた笑みを浮かべた。

それからは、さっきもチラッと触れたのだが、絵里も義一から本をプレゼントされた、しかもわざわざ寒夜にマンションまで足を運んでまでという、その話が裕美には興味深かったらしく、これ以降は義一と絵里のこれからの話に、本人たちがいない事をいいことに、好き勝手あーだこーだ言うのに終始したのだった。



その後何やかんやあって…これは後で触れるが、それから別れて家に帰ると、先ほど裕美が見せてくれたサイトに私も飛んで見た。すると、確かにいくつかレビューが書かれていたが、どれも十人十色な論評ではあったが、好意的なものばかりだった。私は一人でそれを「ふふ…」と思わず笑みを零しながら見ていたが、どうせならと、今度は検索サイトにわざわざ義一の書名を打ち込んでみた。

すると、驚いたことに、数え切れないほどの検索結果が出てきた。

これも繰り返しになるが、言い方がいくら義一さん相手とはいっても悪いが、どうせ義一の書いた本などは世間が見向きをする筈ないと思っていたところでの結果に、少なからず…いや、思わず自室にいるというのに大声を上げそうになった程だ。

この時はもう既に寝支度を済ませていたのだが、軽く覗くだけのつもりが、気づけば一時間ほどもずっと、ネット内の義一の記事、果ては個人ブログまで覗いたりした。

それで何となく、何で義一の本がここまで広まってきていたのか、何となく全容が分かってきた。

というのは、今言ったブログにしろ何にしろ、特にそういった個人の文章でよく散見できた共通の単語が出てきていたからだ。それは…義一も出演することになった、右のネット放送局と称されている、例のテレビ局の番組内で、大々的に義一の本を紹介していたのが大きいようなのだ。何度も言うように、私は神谷先生たちが出演する討論番組しか見ていなかったので、気づかなかったが、三十分ほどの時間を設けて、この番組に集う様々な肩書きを持った人々が、アレコレと、好意的に論評をしていたらしい。

…これは私の見た数あるブログの中の一人が書いていたことだが、このチャンネルというのは、今、若者に絶大な支持があるとかないとかで、その管理人が言うには、どうもこのチャンネル発進じゃないかと考えているようだった。他のも似たようなものだった。序でにその人が書かれていたのだが、その繋がりで例の年末特番に義一が出演してるというので、その動画の再生数が一気に伸びたらしい。

…ここで白状するが、今更と言われそうだが、私が見ていたこの局というのは、全世界的に知名度のある動画サイトの中にもチャンネルを持っており、以前からこのサイトで視聴していたのだが、そこには所謂コメント欄というものがあって、ログイン出来るならば誰でも書き込める形式になっていた。…のだが、私はあまり番組以外には興味が無いせいか、義一にも勧められていなかったし、たまにチラッと目に入るもの以外はロクに見て読んだことがなかった。で、何が言いたいのかと言うと、その管理人の話によれば、繰り返しになるがその回の再生数がうなぎ登りに増えていって、コメントも増えていったのだが、三時間あった番組に対する感想が、ほとんど義一、それに武史に占められていたとの事だった。まだ私はこう言ってるのにも関わらず今だに覗いていないのだが、どれも好意的だったらしい。

とまぁ話が逸れたが、私がそういう意味ではあまりにも遅れてるだけで、世間の若者…具体的な年齢層は分からないが、それでも確かに実際に本屋…といっても一件のみだが、それと、ネット通販界での最大手でのレビューを見た限り、何かしら関連がありそうにも思えたのだった。



次の日の月曜日。放課後、この日は前から予定を立てていたので、他の四人と一緒に例の喫茶店へと向かった。 皆この日はまた外が寒かったというのもあって、私と律はいつも通りホットコーヒーを、そして裕美含む他の三人は、ホットレモンティーやミルクティーを頼んでいた。

それからはまずいつもの儀式を済ませると、普段からしょっちゅうは五人全員が集まるというのは珍しいというので、それまで溜め込んできた、全員で共有すべき、もしくはしたい話題やネタを、それぞれがそれぞれ各様にここぞとばかりに振っていくのだった。

あらかた話し終えたかに見えたその時、ふと裕美が私に話を振ってきた。

「…あ、そういえば琴音、アンタ例のモノ持ってきてくれた?」

「例のモノ?」

それを聞いた瞬間、紫と藤花が同じ言葉で同時に声を出した。律も何も言わないながらも、興味を目だけで示してきていた。

「え、えぇ…」

と私は若干照れ臭く感じつつも、通学カバンの中から一冊の雑誌を取り出した。それは興味がない人でも名前くらいは聞き覚えのある、そんなメジャーな週刊誌だった。

表紙が目次代わりとでも言う風に、ワザとなのだろう、雑多に見出しがあちこちに踊っていた。その中には、よーく目を凝らさないと見つからない程だったが、ある書物の名前と、あと本当によく知る人物の名前が小さく載っていた。

「んー…?」

と私がテーブルの真ん中に置いた瞬間、裕美以外の三人は中腰になりつつ皆してその表紙を見下ろした。

そして誰からともなく座ると、まず紫が第一声をあげた。

「ただの…週刊誌、だよ…ね?これがどうかしたの?」

「えぇーっとねぇ…」

と私は一度その雑誌を手に取ると、それをパラパラとめくって見せた。…いかにも探している風だったが、もう何度も見たせいで、とあるそのページにだけ開きグセがついてしまって、そのおかげですぐにお目当のページに辿り着けた。

それは見開きのページで、そこからもう二ページ分、計四ページの特集欄だった。見出しには

『今尤も話題でホットな本を書いた、それなのにこの情報社会の中で未だ顔を表に出さない、知られていない、正体不明のこの人物について語る』

と、出ていた。

これを初めて見た時は思わず笑ってしまった。特集を組んでみたのはいいものの、どう組んだらいいのか、どう紹介したらいいのか、どう論じればいいのか、どこにも取っ掛かりがないと途方に暮れてる感が滲み出ていたからだった。

因みにこの雑誌は、あの後に買ったものだった。ふとネットの情報で、ある雑誌の最新号で特集されてるという記事を見つけた私たちは、その喫茶店を取り敢えず後にし、恥を忍んでまたあの本屋に戻ったのだった。もう日曜日だったし、正直あるか心配だったが、なんとかすぐに見つけられる位置に置かれていた。軽くパラパラと捲って見ると、それは確かにネットに出ていたものと合致していたので、早速それをレジに持って行き買ったのだった。それがコレだ。

その後また喫茶店に戻ると、もう席が無くなってしまって入れないんじゃないかと思わないでも無かったのだが、運良く、寧ろ先ほどよりも店内が空いていて、テーブル席が空いていたので、また飲み物を一品ずつ注文して、それから一時間弱ばかり二人で向かい合って、その買ったばかりの雑誌を眺めていたのだった。

この中身については…特に論じるまでもない。なんと言うか…こんな事を言うのはアレだろうけど、まぁ大衆向け週刊誌にありがちな、薄っぺらな推測が並べられてるだけの内容だった。

まぁ、その推測が一々的から外れていて、それが寧ろ面白くはあったのだが、まぁ今時間を割くほどのものでは無いので話を戻そう。

「んー…っと」

と今度は藤花がその見出しをわざわざ口に出して、幼子よろしく辿辿しげに読み上げていった。

そして最後に「なになに…」と作者名のところを、同じ調子で読み上げた。

「えっと…望月…ぎ、ぎいち?」

「え?違うでしょ?」

とすかさず、同じように座ったままの体勢でも何とか身を乗り出しつつページを眺めていた紫が、一度チラッと藤花を見てから言った。

「これって”よしかず”って読むんじゃないの?」

「え?あ、あぁ、そっかー」

と藤花は何だか間違いに気づいた子供のように、少し恥ずかしそうにしながら返していたが、「…いえ」と私は思わず苦笑まじりに口を挟んだ。

「読み方は藤花で合ってるよ。”義”に”一”と書いて”ぎいち”て読むの」

「あ、そうなんだー」

と藤花は途端に無邪気な笑顔を浮かべたが、すぐに今度は意地悪げな笑みで紫に声をかけた。

「ほらぁ、紫ー?私の方が合ってるんじゃーん」

「ほらって…」

と紫は若干照れ臭そうに笑いつつも、ジト目で藤花に視線を送りつつ返した。

「藤花、あなただって『そっかー』って間違いを一瞬認めてたじゃない?」

「間違いじゃ無かったもーん」

と藤花はここぞとばかりに、自分の見た目とマッチしてると”分かった”上での天真爛漫風に笑顔で返していた。

それによって毒気が抜けてしまったのか、紫は一度力無く笑みを溜息と共に零してから、また雑誌に目を落として、今度は私をチラッと見てから言った。

「でもさぁー、普通分からないって。だって、どう考えても普通は”よしかず”って読む、読ますでしょ?…”ぎいち“だなんて、変わってるねぇ」

「まぁね」

と私も微笑みつつ返した。

「確かに変わってるっちゃあ変わってるけれど、でも昔にそう読む人もいたのよ?大昔の総理大臣に、田中義一(ぎいち)って人がいたくらいだし」

「へぇー」

とこれには裕美も含めた他の四人が感心した風な声を漏らした。しばらくそうしていたが

「…で?」

と声をボソッと漏らした者がいた。声の持ち主は律だった。

律も他の二人と一緒で雑誌を覗き込んでいたのだが、いち早く上体をまっすぐに戻すと、私に視線を向けつつ聞いてきたのだった。

「この特集されている、んー…正体不明の人が、どうかしたの?」

「…ふふ」

と私は、昨晩からこの”正体不明”というワードが出るたびにツボに入ってしまっていたので、こうして律の口から淡々と言われてさえも、この様に思わず吹き出してしまった。

他の三人は不思議と言いたげな表情で、そんな私の様子を見てきていたが、「…琴音?」とここで裕美に、苦笑まじりに声をかけられた。

「え?」と私は隣の裕美を見たが、何も言わずにいても『私から話そうか?』と言いたげな顔つきを見て取って、私は一度首を横にゆっくりと振ってから、一度そんな様子の他の三人を眺め回して、フッと息を整えた後で、視線を見開いたページに落としつつ口を開いた。

「この正体不明の人のことだけれど…実はね、私がそのー…よく知る人物なの」

「…へ?」

と紫、藤花、そして律までもが、何だか気の抜けたような声を漏らした。私が一瞬顔をあげると、皆が一斉にこちらを、昨日の裕美の様に目をまん丸に開けて見てきていた。因みに、予め話をしていた裕美も、私のこの言葉を聞いた瞬間、表情には出さなかったが、それでも若干ビクッとしたのに気づいた。

…それだけ私の事を分かってくれているということだろう。

私は何も表には出さなかったが、心の中で裕美に対しての想いは留めておいて、表情は若干悪戯っぽく笑いつつ続けて答えた。

「実はねー…この人、私の、そのー…お父さんの弟さん、つまり叔父さんなの」

「へ?…へぇー」

と裕美を除く他の三人は声を漏らして、皆してまた雑誌のそのページを食い入るようにして見てから、今度は何だか感心した風な声をあげた。

「…って、そういえばそっか」

とここでまず一番初めに顔を上げた紫が、私に顔を向けて言った。

「この正体不明の人の名前…ここに出てるけど、”望月”って書いてるもんねー。…言われて初めて気づいたわ」

と最後に照れ臭げに苦笑いをしていたが、その直後に今度は藤花が顔を上げて続いた。

「…ふふ、確かにー。まぁ…望月って名字は、私は少なくとも琴音が初めてだったしさー、どの程度日本人で多いのか知らないけれど、でもまさかと思うから、琴音の親戚かもって所までは考えが行かないよね」

「うん…」

と最後に律が顔を上げたが、ほんの少しの間私の顔を眺めてきたかと思うと、ニッと少しニヤケて見せて口を開いた。

「っていうか…名前が出てる時点で、そもそも正体不明じゃないけれど」

そう律がボソッと呟くと、数瞬ばかり間が空いた後で、誰からともなく最初はクスッとから、最終的には私と裕美も含めて明るく笑い合うのだった。

「…で?何?」

と笑いが収まりだした頃、ふと紫が手に顎を乗せてコチラを見てきつつ言った。

「要はこれって…ふふ、叔父さん自慢なの?」

「…え?」

と一瞬何を聞かれているのか直ぐには理解出来なかったのだが、ふと気づくと私は慌てて首を振りつつ、苦笑まじりに返した。

「…あ、いやいや!そんなんじゃ無いよ。そんなんじゃなくて、そのー…」

とここで一度裕美をチラッと見た。すると、裕美の方ではずっとコチラを見てきていたらしく、すぐに目が合ったが、次の瞬間にはニコッと柔らかな笑みを向けてきてくれたので、心の中でだけでコクっと頷き返すと、いざ言おうと思うと急に恥ずかしくなってきつつも、何とかそれを抑え込みつつ、しかし結局は照れ笑いを浮かべながら言った。

「んー…ほら、さ、もう去年になるけれど…コンクールのことさ、中々みんなに言い出せなかった…じゃない?だから今回くらいはさ、そのー…いずれバレるかも知れないと思ったから、んー…自分からキチンとアレコレと明るみに出る前に、言おうとそのー…思って、ね?だからよ」

「…」

私が言い終えた後は、裕美含む他の四人は黙っていた。私からの視点でしか言いようがないが、初めは取り敢えずそれぞれが個人で私の言葉を咀嚼していたようだった。そして次に、お互いに顔を見合わせたりしていたが、フッとまず笑みを零しつつ口を開いたのは、やはりまた紫からだった。

「…ふふ、もーう、急に何を言い出すかと思えば。私は軽いノリで聞いちゃったってのに、そんな風に重たくマジな感じで返されると、そのー…困るわぁ」

そう返す紫の表情は…笑みと言ったが、それは呆れ笑いに近かった。

「あ、いや、別に文句を言いたいんじゃないよ?」

と紫にしては珍しく…と言うと文句が来そうだが、しおらしく、しかし笑みを見せつつ言った。

「ただまぁ…今に限った事じゃないけれど、ふふ、相変わらずあなたは何に対しても、いつでもマジなんだからねぇ…それが良いところでもあるんだけど」

「紫…」

と私は何か思わず返しそうになったが、それを制するように、ふと顔を背けると、

「まったく、こんな私でもついついこんな”マジな”返しをしちゃうんだからねー…ね、裕美?」

と、私を挟んで向こうに座る裕美に視線を向けて話しかけると、裕美はすぐには返さなかったが、ふと私の方をチラッと見て、それから紫と同じ様に「うん、そうだね」と私の顔越しに返した。

「もう何度目になるか分からないけど、本当にこの子には振り回されっぱなしだよ」

「な、何よー」

と私は間に挟まれていたというのもあって、両側の二人を代わり番こに見つつ不満げな声を上げたが、次の瞬間

「本当、本当ー」

と、何となく予期はしていたが、やはりというか藤花も向かいの席から乗っかってきた。「うんうん」と律も案の定続く。

「はぁ…」と私がまぁ”いつものアレ”って事で、大げさに肩を落として見せると、また他の四人、今回は裕美も加わって笑い合うのだった。


「で、因みにさぁ」

と今度は藤花が口火を切った。

「その琴音の叔父さんの本って、どんな本なの?」

「あ、それはね…」

と、私はおもむろに椅子下に置いていたカバンを腿の上に持ってくると、中から本を取り出した。ドッグイヤーをし過ぎて妙に幅の広がった本だ。

…言うまでもないだろう、そう、これは義一の本だった。

私はそれをテーブルの中心に置くと、私がカバンを戻している間に裕美も含んだ他の四人が一斉に表に置かれた表紙を眺めた。

「へぇー」

とここで裕美は本を手に取ると、まずそれを縦にして見ていた。どうやら、まずその膨らみに興味が行ったようだ。まぁ、私の持ち物の本自体は今回初めて見るのだし、それに、地元のあの本屋で読まれる前の新品を見ていたこともあってか、その違いをこの中では一番わかるのだろう。

裕美はまたゆっくりと、まるで壊れ物を労わるようにテーブルに戻すと、私に苦笑いなのか、呆れ笑いなのか、もしくはその両方か、そのような笑みを浮かべつつ言った。

「…ふふ、話には聞いてたけど、本当に読み込んでるねぇ」

「あ、やっぱりそうなんだ」

と、私が返答する前に、今度は紫が本を手に取って、裏返したりとあまり意味のない行為をしつつ続いた。

「はー…めちゃくちゃページの端が折られてるね?これってどういう意味でしてるの?」

「あぁ、これはね…ちょっといい?」

「うん」

私は紫から本を受け取ると、ペラペラとページを捲って見せながら答えた。

「これはねー…ほら、こうしてページを折ると角が内側に向くでしょ?その先のどこかに…その折った時に重要だと思った文章なり何なりがあるって意味なの。…まぁ別に、今後もおそらく私しか読まないだろう事はすぐに予想がつくわけだけど、その読み返すであろう未来の私にね、『ここのページ内のどこかに、少なくとも角の先のどこかに、昔の私の気になった箇所があるんだけれど、果たしてあなたはどうかな?』ってね」

とここで私は適当なページを開くと、それをそのままテーブルの真ん中に置いた。そして皆が見たのを確認すると、また本を手元に戻して続けた。

「今見ての通りね、別に線とかは引かずにいるんだけれど…まぁ、ヒントは少なければ少ないほどに、想像は広がっていくから、もしかしたら気づかない事もあるだろう、でもそれも面白いってんで、まぁー…そんな理由で”色んな角度で”折ってるの」

「へぇー」

言い終えると、裕美含めて、好意的に解釈すれば感心した風に声を漏らしてくれた。

…あ、この事は裕美には話したことが無かったっけ?

とこの時の私は思っていたが、ふと今度は藤花が『次は私の番』とでも言いたげな笑みで本を手に取った。

「なるほどねぇー…でもさ、琴音?」

「ん?何?」

と聞き返すと、藤花は一番その折られたのが見えやすいように、その側面を私に向けると、その後ろでニマッと笑顔を見せつつ言った。

「あなたが凄く読書家なのは知ってるつもりなんだけれど…でも、読書家って普通は本自体を大切にするもんじゃないの?」

「え?どういうこと?」

「うん。あのねぇー…私の知ってる子でね、琴音に会うまでは一番の読書家だって思えた子が居たんだけれど…」

「…あぁ」

とここで、相槌なのか律がボソッと藤花に顔を向けて言った。

藤花は何も言わずにただニコッと笑みで律に返すと続けた。

「その子は何だか本をすごく大事にしててね、というのもさ、私自身がそんな目に逢ったからよく覚えてるんだけれど…一度その子の家に遊びに行った時にね、部屋に通されたんだけれど、その部屋の一角が本で一杯だったの。私は何か物珍しいのもあって感動してね、その子は何か飲み物か何かを準備しに出ていたから、一人で勝手に思わず一冊の本を手に取って見たの。そしたらその子が丁度入って来たんだけれど…もうね、私の事を目をこーんなに大きくして見つめてきてさ」

と藤花は自分の指で目を大きく見開いて見せた。

「『あ、ありがとー』って飲み物を持って来てくれてたからお礼を言ったら次の瞬間ね…『あ、あなた一体何をしてるの!』って怒鳴られたんだ」

「え?」

「ふふ、私も今の琴音みたいに、何を言われているのか分からずに、そう声を漏らしたんだけど、その子の勢いは止まらずにね、まぁそれでも一度冷静に手に持った飲み物だとかはテーブルに置いてだったけど、でもその後でね、ツカツカって私の元まで来たかと思うと『返して!』って言いながら、乱暴に私から本を取り上げたの。私はそんないきなり乱暴な態度をされた訳だけれど、その時は何だかずっと呆気にとられてしまってね、それからずっと取り敢えずその子の行動を眺めてたんだけど…なんかね」

とここで藤花は手に持った私の本を、上下左右と忙しなく反転させて見たり、表紙や裏表紙を空いてる手ではたいて見せたりながら続けた。

「こんな風に、何か大事な我が子かペットか、うーん…何かそんな感じで労ってるのを見てね、何だかそのー…その前からだったけど、一気に居心地が悪くなってね、その後は自分の荷物を持って、それで部屋を出る時に『ごめん…ね』って、自分でもよく分からないままに謝りつつ後にしたんだ」

とここまで話すと、藤花は一度本をテーブルに戻すと、紅茶を一口飲んでから続けた。この間、いつのまにか急に始まった藤花の思い出話だったが、おそらく私だけでなく、もしかしたら例の反応を見るに一部始終を知っている律までもが、こう言っては何だが面白がりつつ他のみんなで聞き入っていたのだった。

「それからはまぁ、後で学校でその子と会ってね、『昨日はごめんね』って素直に謝って来てくれたから仲直りしたんだけれど…でもそのおかげでね、何か読書家っていうのは、皆してその子みたいに”本そのもの”まで後生大事にするのかなって漠然と思ってたの。でも…どうやら琴音は違うみたいね?」

と藤花は一瞬また本に視線を落としてから、またすぐに私に戻すと、ニコッと天真で無邪気な笑みを向けてきた。

「んー…」と正直そんな事を考えたことも無かった私は、ふと今までの自分の本の扱い方を思い出して、

考えてみたら、義一さんから借りた本は自分なりに大事に扱ってたつもりだけれど…うん、確かに自分個人の所有本に関しては…

「…うん、確かに雑かもね」

とただ実際には苦笑まじりにそう返した。


「あはは」と何となくまた皆で笑い合ったが、ふとここで「…あっ」と、紫があからさまに何かを思い出した風に見せながら声を漏らした。その表情はニヤケ面なのだが、これは入学以来の付き合いである私だから分かるのだろう、 すぐさま何か良からぬ事だとすぐに察した。

なので私が「…どうかした?」と、この時点で若干薄眼を使って話しかけると、このような私の反応も慣れっこな紫は、ますますニヤケ度を強めて言った。

「え?あ、あぁ、いや、なに…ふふ、何か今、琴音、あなたとその読書が云々って話でね、また例の子たちが話しているのを思い出してさ」

「始まった…」

と私は思いっきり大きく溜息を吐いて、そのままに続けて言葉を漏らした。例の子たちとは、覚えておられるだろうか?…少なくとも私は別に覚えていたくはないのだが、以前に何だか私と律が一緒にいる事について、アレコレと意味が分からない調子で褒めちぎっていたという彼女らの事だ。あれ以来、味を占めたのか、紫だけに限らず、当然というか裕美からも、そして藤花からも彼女たちの、私と律に関する評価を何度か聞かされていたのだった。

この時点ではまだその子たちを実際に見ていなかったので、実はこれは紫、裕美、藤花という”二組グループ”の陰謀じゃないか、デタラメじゃないかと密かに”一組グループ”の私と律は考えていた。

…とそれはともかく、この時に私自身は実際に見ていないが、恐らく”例の子たち”というワードが出た瞬間に、毎度そうだったから今もそうだろう、律も小さくだが苦笑いを浮かべていたに違いない。

そんな私達を他所に、紫は何だか愉快げに口を開いた。

「これに関しては琴音個人のことなんだけど…」

「ほっ…」

とこの言葉を聞いた瞬間に、律は大げさに胸元に手を添えて息を吐いて見せた。

その様子を私は苦笑ながらもじっと視線を飛ばしていたが、それには構わずに紫は私にニターッと意地悪い笑みを見せつつ続けた。

「琴音、あなた…あのファン達から何て呼ばれてるか知ってる?」

「ファンって誰のことよ…?」

と私は”あえて”空気を読ますに一々話の流れを止めようとしたが、この様な力無げな調子では焼け石に水も良いところだった。紫は続けた。

「それはね…ふふ、『深窓の令嬢』って呼ばれてるらしいよ」

「…は?」

と私が呆気にとられる余りに声を漏らすと、それをどう受け取ったか「あ、意味はねー…」と紫が口を開いたので、私はジト目を向けつつそれを制した。

「…意味は知ってるわよ。なんていうか…身分の高い家に生まれた女の子の事を称する言葉でしょ?令嬢って付いてるくらいだし…。深窓っていうのは、元々家深い所って意味で、そんな所に隔離されて育てられた、何というか世間から離れて育てられたばかりに、俗世に染まっていないって意味もあったよね?…って」

とここまでグダグダ話してきてようやく自分で気づき、

「何で私が解説してるのよ!」

と思わず突っ込んでしまった。

とそんな私の言葉にすかさず裕美がニヤケ顔で突っ込んできた。

「おっ、琴音、アンタって…ノリツッコミも出来るのねー?」

「”も”ってなによ、”も”って?」

「あはは」

とまた私以外の皆がこのやり取りの後で笑みを零していたが、その笑顔のまま紫がまた口を開いた。

「あははは。そうそう、何かそんな意味らしいよ。…ふふ、あの子達の中の一人に聞いたんだけれど、琴音、あなたと比べてどうかは知らないけれど、その子は結構な文学少女らしくてね、私はそう言われても分からなかったから、その後ですぐに意味を調べちゃったよー」

と何故か笑顔のままではいたが、恨みがましげな口調で言うので、「あはは」とただ乾いた笑いだけをしておいた。

「要は…」

と藤花はテーブルに肘をつき、両手を組んで、その上に顎を乗せてから、こちらに意味深な笑みを見せつつ言った。

「あの子達は琴音の事を…箱入り娘って言いたかったんだね」

「まぁ…それだけ聞くとそうだけどぉ…」

とここで裕美は、テーブルに肘をつき、手に顎を乗せながらこちらに視線を向けると、何だか呆れ顔で言った。

「この子は何だか”箱入り”って感じはしないんだよなぁー…。何つーか、妙なことに対して機敏に、敏感に反応して見せて、その時の行動力は凄いものがあるからねぇ…なんせこの子は」

「”なんでちゃん”だからね」

とここで、私以外の四人が、別に打ち合わせをした訳でもないだろうに、ここで急に口を合わせて、各人が各様なニヤケ顔を浮かべて私を見つつ言った。

「な、なによー…」

と毎度の事ではあるが、この手の話題ではいつも孤軍奮闘せざるを得ない私は、取り敢えず苦笑まじりにブー垂れて見せるしかなかった。

「なにも私は自分で言ってないでしょ?」

「あはは。そりゃあそうだけど」

「でもさ?」

と他の三人は許して(?)くれたというのに、一人、裕美だけは相変わらず同じ体勢でこちらにニヤケて見せながら言った。

「でもあながち箱入り娘っていうのも、見当違いではないんだよなぁ…」

「…さっき、あなた、自分でまず否定してたじゃない?」

と私がすかさずツッコミを入れたのだが、予想通りそれをスルーして裕美は続けた。

「だってさ…琴音、アンタのその『世間の流行に鈍感で、俗世間に塗れてない』っていうのはー…その通りじゃない?」

「あ、確かにー」

と藤花のひと声があった後、また私以外の皆で明るく笑い合うのだった。

これとは当然別だが、内容的にはもう何度目になるか分からない”流れ”だったので、私は少し照れ臭そうにバツが悪そうに笑いながら

「んー…まぁ、強くは否定出来ないわね」

とボソッと呟くと、ますます場の雰囲気が明るくなり、私も最後はそれに”塗れた”のだった。



この週の土曜日。放課後。私は一人で義一の家の前に立っていた。

片方の手にはミニバッグ、そしてその反対側の方には普段使いのトートバッグを提げていた。毎度のように、宝箱から借りていた本を返しにきた、今日はそれだけの用事だった。まぁ、それは、返した後で、その本についての議論も入っている。いつもながら、とても楽しみな時間だ。

ガラガラガラっと私は合鍵を使って玄関に入るなり「義一さん、来たよー」と声を張ってみたが、何の返答もなかった。

あれ…?

と私はそのまま靴を脱ごうとしたその時、ふと見覚えのない革靴が一足あるのに気づいた。

…ん?これって…

と思わず私が繁々とその革靴を眺めたことに対して、引かないで欲しい。…これは仕方ないだろう。だって…

…これって、デジャブだわ。

と感想を覚えつつ思い出したのは、そう、私にとっては前回ではないが、お話しした中では前回ここ来た時に鉢合わせた、雑誌オーソドックスの”前”編集長でこれから顧問となる浜岡と、”前”雑誌顧問の神谷さんが来ていた時と状況が瓜二つだったからだ。

ただ、思わずそれでも革靴を眺めてしまったのは、そのー…神谷さん達には失礼かも知れないが、今見ているその靴というのが、とても綺麗に手入れをされていた、見るからに高そうな品物だったからだ。当然この次に思ったのは、『客人がいるんだろうけど、前の二人ではないな』というものだった。

そんな事を考えつつ、靴を脱ぎスリッパを履いて、廊下をそのまま一番奥の宝箱まで一直線に行った。

目の前に着くと、推理どおり…とまで大袈裟には言わないが、やはりドアは閉じていた。

前回は珍しさの余りというか、何も考えずにそのまま開けてしまったが、今回は取手に手を掛けた瞬間、ノックくらいはしとくべきかと少しばかり思った。親しき仲とはいえ、また、中にいるであろう客人のことも考えると、ノックした方が良いのは分かっていたが、それでも何だかそんな礼儀正しく振る舞う自分の姿を想像した途端に恥ずかしくなってしまい、結局そのままドアを開けて入った。

「義一さん、来たよー」

と玄関先でと同じ挨拶をした途端に、ある男性と目が合った。

男性は書斎机にこちら側から腕を乗せて上体を前のめりにして何かを覗き込んでいたが、私が入ってきた瞬間に顔だけ後ろに向けた事で目が合ったのだ。男性は土曜日だというのにスーツをビシッと着ていた。

男性はすくっと起き上がると、私の方に数歩歩み寄って、それからニコッと笑顔を見せつつ声を掛けてきた。

「やぁ琴音ちゃん。久しぶりだね」

「う、うん…」

と私はまだ自分で思う以上に声を上擦らせてしまったが、それには構わず、同じように笑みを浮かべて返した。

「久しぶり、武史さん」

そう、何となくは聞いておられる方は察しておられたと思うが、この男性の正体は武史だった。

背は義一ほどではないにしろ、こないだ何かの機会に試しに計ったら170センチになっていた私の背丈よりも少し高かった。例えるなら小動物系、具体的にはリスに一番近い顔付きをしていて、何というか…初対面時にも話したかも知れないが、本人には悪いし言うべき事でもないが、何ともアンバランスな風体をしていた。ただし、そのリス顔に浮かぶ笑みは、とても人懐っこく、年齢がよく分からないという点でも義一と似ていた。

「うん、久しぶり」

「あ、琴音ちゃん」

とここで義一が、椅子に座ったままのせいか、今の今まで武史の影に隠れて見えてなかったが、ふと上体を横に倒して、武史の脇から顔を覗かせるようにしつつ、屈託のない笑顔を浮かべて言った。

「ごめんね、今日はお出迎えできなくて」

「え?あ、あぁ、いいよー、そんなの」

と私が返すと、義一はニコッと一度微笑んで返してから、

「さてと」とゆっくりと立ち上がると、

「じゃあ武史、僕はこれから琴音ちゃんの分の紅茶を淹れてくるから、ちょっと待っててよ」

と声を掛けた。「はいはい」と武史が返すと、義一はそのままノソノソと宝箱を出て行った。

その後ろ姿を私は見ていたが、「じゃあ俺は座ろうか?」と武史が声を掛けてきたので、「えぇ」と私は素直にその誘いに乗った。

例のテーブルの周りにある、すっかり定位置になった椅子に座ると、武史はそれを確認してから、”来客用の食卓椅子”に静かに腰を下ろした。

こないだの神谷さんがいた時のように、戻ってくるまで二人っきりでどうしようと一瞬頭を過ぎったが、今回はこの時点ですぐその後に義一が茶器を持って入ってきていた。

もう慣れたもので、そのまま流れ的にテーブルにそれらを置いて行くと、義一自身も席に座り、それから武史を交えて乾杯をするのだった。

武史はこの”風習”に対して特に戸惑った様子を見せなかったので、まずそのことについて質問をすると、「前々からやってる事だから」と悪戯っぽい笑みを浮かべながら返された。

「へぇー…」

とそれを聞いた時、私はふとそう声を漏らしつつ義一に視線を流した。

ふーん…義一さん、他の人ともこんな絵里さん由来の事するんだー…。

と、こんな感想を覚えていたのだが、「ん?琴音ちゃん、どうかした?」と義一に聞かれたので、私は大きく首を振り「んーん、何でもなーい」と間延び気味に返してから、目を瞑りつつ、味わうように紅茶を啜ったのだった。

「…?」

と笑顔ながらも頭に?マークを義一は浮かべていたが、それにはこれ以上突っ込まれなかったので、私は早速チラッと斜め左に座る武史に視線を流しつつ聞いた。

「…で?最近はこんな事ばっかな気がするけれど…何で今日ここに武史さんがいるの?あ、いや、何でまた例によって誰かいることを内緒にしておいたのよ?」

「あ、それはね…」

と、義一は予想に反してすぐに薄眼がちになると、その目を斜め右に座る武史に向けつつ答えてた。

「僕もまぁ…別に話しておいても良かったと思うんだけれど、先月、一月の上旬というか中旬というか、あの時の先生を交えた話をこの男にしたらさ…」

とここまで義一が話していたのを、不意に武史が意地悪な笑みを私に向けて浮かべて見せつつ引き継ぐように言った。

「だったら俺の時もそれで頼むよって頼んだんだ。そのー…仲間外れはイヤだからね」

と言い終えた後でウィンクをして見せた。

「あはは…」と私は典型的な呆れ笑いを作って見せたが、この時同時に心の中で思ったのは『数寄屋であった時と、キャラが若干違うなぁ』といったものだった。聞いておられる中でも、そう思われた方もいるだろう。でもこれは…当たり前といえば当たり前だが、すぐに、この程度の振れ幅はどの人間でもあるもんだとすぐに思い至った。

ただ…年末の討論時は別にして、公私ともに全く変わらない、例えば武史は今”俺”と一人称を使っているのだが、どんな時でも義一は”僕”呼びを止めることはなかった。これがまぁ、いくら私が仮に藤花たちが言うように、箱入り娘と称されるほどに世間知が無いとしても、それでも義一が”このような点に於いても”変わってるというのは分かっていた。話を戻そう。

「でー…あ、そうそう、何で今日俺がここに来てるかって事ね?それはね…」

と武史はふと、今年に入ってから一度も整理されてるところを見た事がないほどに何十冊もの本が重ねて置かれている書斎机の方に視線を流しつつ言った。

「オーソドックスの新生第一号の原稿が上がったから、そのチェックを受けに来たんだよ」

「へぇー、なるほどね…って」

と私も同じように書斎机に視線を向かわせていたのだが、すぐにふと思うところが出来て、すぐさま悪戯っ子な笑みを、武史だけではなく義一にも向けつつ言った。

「そのためにわざわざ京都から来たの武史さん?」

…そう、先ほど武史が宝箱にいたことについて驚いた理由の一つにコレがあった。

「私も正直分からないから、ただの知ったかで言うんだけれど…それって別にメールかなんかでもいいんじゃないの?」

私がそう言い終えると、ふと二人は顔を見合わせたが、次の瞬間クスッと笑い合うと、「そうだなぁー」と武史が和かな顔つきで口を開いた。

「確かに確かに。今君が言った通りだよ。俺もまさかわざわざそのためだけには来ないって。でもまぁ…」

とここでまたチラッと机の方に視線を流しつつ続けた。

「良い機会だからなぁー…そりゃメールでチョチョイって出来ちゃうのはありがたいけれど、でも出来るなら、やっぱサシで顔を突き合わせて生で会話した方が、中身も何だかんだ違ってくるからねぇ」

「あぁー…何となく分かる気がする。…けれどさ」

と私はまた新たな疑問が湧いてきたので、それを新たにぶつけてみる事にした。

…ってさっきから大袈裟かもしれないが、まぁ実際こんな風に思考が廻っていたので、このまま続けることにする。

「って事は、何かの用事ついでに義一さんのトコに寄ったって事?」

「んー…」

と私が聞いた瞬間、武史は腕を組み何やら考えるポーズをして見せていたが、数秒したのちにバッと顔を勢いよく上げたかと思うと、ニコッと笑顔を浮かべて

「ご名答ー!」

と言うのだった。そんなテンション高めの武史とは反対に、ただただ唖然として、そして呆れ笑いを浮かべるしか無かった私だったが、このやり取りを義一はただ静かに、何だか微笑ましげに紅茶を啜りつつ眺めるのみだった。

そんな中、私を余所に若干テンションを落としつつ武史は話を続けた。

「そう、今琴音ちゃんが言ったように、まぁ…厳密には二つばかりの用事を済ませるために、こうしてわざわざ京都の片田舎から東京まで出張って来たんだよ」

「…二つ?」

と私が相槌にも及ばない程度に声を漏らすと、武史はまたニコッと一度笑みを浮かべてから、ふと足元に置いていた、パッと見ビジネスバッグに見える手提げ鞄を取り、そしてそれを腿の上に置いたかと思うと、それからおもむろに鞄を開けて何やらゴソゴソと中を探っていた。

「んーっと…お、あった、あった」

と武史が中から取り出したのは、紐付きの茶封筒だった。…だったのだが、まぁ私の実際に今まで見た事が無かったから偉そうには言えないが、想像していた物よりも、とても小ぢんまりとしたサイズだった。言うなれば、わざわざ鞄に入れずとも、そのまま深めのポケットになら入りそうな代物だった。

「…?」

と私は何事か分からず、ただそのまま武史の一挙一動を眺めていたのだが、「はい」と武史は相変わらずに笑顔でいながら、今取り出した茶封筒をこちらに差し出してきた。

「え…?」

と私が戸惑っていると、それを余所に調子を変えないまま「はい」とだけ言って、その手を引っ込めずに、むしろ徐々に私に近付けて来るのだった。

ふと私は義一に視線を向けると、丁度目が合った義一はカップを口につけていた所だったが、そのままの体勢でコクっと一度微笑みつつ頷いて見せたので、

「う、うん…」

とまだ戸惑いが抜けないままにソレを受け取った。

手に持った感じでは、何やら本が入ってそうだというのはすぐに何となくだけれど分かった。

少しの間だけ眺めた後、顔をふと上げて「これって…?」と聞くと、武史はまた一度ニコッと笑うと

「まぁまぁ、開けて見てよ」

とだけ言うので、私はボタンに絡めて止めてある紐をグルグルと慣れない感じで解いて、封を開けて中身を取り出してみると、出てきたのは…まぁ、先ほど話した通り、想像した通りに一冊の本だった。ソレは新書サイズの本で、ふとまず思ったのは、義一の本とそっくりだなというものだった。 勿論、中身をまだ見ていないので、厳密には同じかどうかまでは言えないが…。

と、そんなクダラナイ事はともかく、しかし表紙のデザインまで義一のとそっくりだったので、『まさか義一さんの本を私に…?もう持ってるのに』などと瞬時に思ったものだったが、ふと表紙に書かれている言葉を見て、その考えはすぐに捨て去った。

表紙には『亡国のFTA』と書かれており、その下には…ここまで聞いたらもうとっくに分かった方もおられるだろう、そう、その書名の下には小さめの字で『中山武史』と出ていた。

「…あ」

と私が声を漏らしてふと顔を上げると、武史、それに義一までもが、何も言わずに似たような笑みを浮かべていた。

「これって…武史さんの本?」

「そう、その通り」

と武史は先ほどからずっと笑顔のままだったが、それでも徐々に真顔気味にシフトチェンジしていっていた。

「その本はねー…まぁ言うなれば、義一の先月出した本、『自由貿易の罠 黒い協定』と同じような内容の本なんだ。つまり…」

とここで一度義一に視線を流してから続けた。

「義一と同じでね、俺も今回の協定が大問題だと考えててねぇ?それで遅ればせながら俺も書いたんだよ。…って、あ、この本の題名に『FTA』とあると思うけれど、それは『Free Trade Agreement』の頭文字をとったものなんだ。日本語に略せば『自由貿易協定』って意味なんだけど…」

「うん、知ってるよ。…義一さんの本で覚えたもの」

と私はすぐさま、自分でも恥ずかしいほどに若干誇らしげに、視線をチラッと義一に向けつつ返した。

すると、武史は一瞬目を見開いて見せた後で「あははは」と、見た目から想像していたのとは違って、本当は字にすると『ガハハハ』に近いほどに豪快に笑ってから言った。

「そうか、そうか、知ってたかぁー。…ふふ、琴音ちゃん、いくら読んだからって、数寄屋で会話した感じでは、元々そんなに経済学的な事には興味も関心も無さそうだったってのに、よくもまぁそこまで、義一の本を読んで勉強したねぇ」

と終いにはニヤケつつ言い出したので、正直武史の言葉の本意が見えなかった私は、取り敢えず苦笑いを浮かべるのに留めておいた。

そんな私の心中を察したかどうか分からないが、私の話だというのに何故か気持ち照れ臭そうにしていた義一に一瞥を投げると、武史は和かに口を開いた。

「まぁさ、今日わざわざここに来た理由の一つってのが…それ、俺の書いた本を君にあげようと思ってね?それを京都から持ってきたんだ。…貰ってくれる?」

と最後に今までとは打って変わって柔和な笑みを浮かべて言ったのを受けて、私は手にずっと持ったままだった武史の本を一度眺めてから、別に悩むほどの事ではなく、手渡された時点で、生意気言う様だがまぁそんな事だろうと思ってたし、それと同時に迷いなく心は決まっていたので、顔を上げるとニコッと自然に笑みを零しつつ「うん」と答えた。

「勿論だよ。ありがとう」

と私が返すと、武史は目を細めるように笑みを作ると

「どういたしまして!」

と口調は明るく返すのだった。

「いやー良かったー」

と武史は座りながら両腕を大きく天井に向けて伸びをしながら言った。

「いや、義一から聞いてはいたんだけれど…普通の中学女子は、こんな事なんかに関心なんか起こさないだろうと思ってて、勿論数寄屋の夜の事とか覚えてはいるし、それ以前にも義一から色々と聞かされてはいたけれど、それでも今の今までどうかと思っていたんだが…いや、わざわざ持ってきて良かったよ」

何だか妙な言われ方をしたものだと思ったが、それでも別に微塵も嫌な気は起きなかったので、「ふふ」と短く微笑みを零すのみにしておいた。

「せっかくだから琴音ちゃんだけじゃなく、絵里ちゃんの分も持って来ようとしたんだけれどね?」

と武史は私に顔を向けつつ、視線だけは義一に流しながら言った。

「『絵里はいいよ。僕の本で一杯一杯なんだから』って言うもんだから、持ってこなかったんだ」

「まぁ仕方ないよ」

と義一はズズッと紅茶を一口飲むと、カップを置きつつ間を空けずに言った。

「自分で言うのもなんだけど、僕の書いたあの本は、いわゆる専門書では無いから、そこまで難しいとは思わないんだけれど…あれでもうウンザリって言われたからねー…。琴音ちゃん、ちょっと今回の武史の本は、僕が書いたのよりも、まぁ本人が経済学ではなく政治学出身とは言いつつも、それなりの専門性が強いから、読むのに少し骨が折れるとは思うけれど…でもまぁ」

とここで義一はチラッと武史に視線を流しつつ続けて言った。

「その本も読んであげてね?僕の本をより発展的に書いてくれてるから」

「よろしくね」

と武史もすかさず、何だか下手くそなウィンクをしてきつつ言ったので、

「…ふふ、分かったわ」

と思わず笑みを零しつつも返した。

その直後には、三人揃って和かに笑い合うのだった。


「本当は俺も同時くらいに発売予定だったんだけれどさ、ちょっと忙しくてねぇ…出遅れちゃったんだ」

と、聞いてもないのに武史が言い訳がましいことをブツブツ言っていたが、それを軽く笑みを見せるのみで流して、残った疑問をぶつけてみる事にした。

「それでさ…」

「ん?」

「うん…あと一つっていうのは?」

と私が聞くと、「んー…」と何故か義一も一緒になって唸って見せた。

…見せたのだが、武史は愉快げに、義一は何だか苦笑を浮かべて、バツが悪そうに照れ臭げと、ここでまた謎の対照的な反応をしていたのが印象的だった。

「…?」

と私は黙ったまま二人の様子を見ていたのだが、顔にハテナが沢山浮かんでいたのが分かったのだろう、武史はチラッと義一を見て、そしてまたこちらに戻して、それから口を開いた。

「まぁ何というか、ある意味この件が一番最初にあって、それに今まで話してきた事ってのが付随してきたんだけれど…」

「…ん?」

何やら小難しい言葉を並べ立てて話し出したので、『こんな所は、何となく義一さんに似ているなぁ…類友ってやつか』などと呑気な感想を覚えつつ

「要はどういう事なの?」

と堪え性のない私は、少し焦ったげに自分でも分かる程思わず薄眼がちになりつつ聞いた。

すると、相変わらず照れ臭げにしている義一をチラッと見て、「ふっ…」と小さくため息交じりに笑ったかと思うと、武史は私に何故か悪戯っ子のような、何か悪巧みをしている風な笑みを浮かべつつ言った。

「そうだなぁー…琴音ちゃん、来週の月曜日の夜の九時って時間ある?」

「え?」

思いもしなかった言葉に、思わずキョトンとしてしまったが、その直後に記憶を辿って、それから何とかといった調子で答えた。

「…う、うん、時間はある…と思うけど?」

「あ、そうかい?じゃあ…」

と武史はここでふと鞄からメモ帳を取り出すと、そこから一枚綺麗に紙を切り取り、それをテーブルに置いた。

そしてその白紙に何やら書き込んでから、それを私に手渡してきた。今度は何の気もなしに差し出されるままに受け取ると、そこには、普段からテレビをほとんど見ない私ですら知ってる、時事ネタを扱う討論バラエティー番組だった。

「…え?これって…?」

と相変わらず全く意味の分からないヒントを手渡されて、ますます疑問が湧いてくるのを覚えていたが、それを余所に、武史はまた一度チラッと義一に視線を流しつつ、先ほどの笑みのままいうのだった。

「暇だったら、その番組を見てみてよ。そこに最後の質問の答えが出ているからさ?」


当然この後も何度か詳しく説明を求めたが、二人にのらりくらりと躱されて、この日は前回、神谷さんがいた時と同様に、この後は借りてた本についての議論は取り敢えず保留して、主に義一の本の感想について、今度は武史からその内容についてどう思うかについての質問攻めにあって、それに戸惑いつつも答えるのに終始した。

ある雑談の中でも出た事だが、どうも武史は東京に出てくると、義一の家に泊まるのが常となっていた様だった。初めて数寄屋で出会った後も、私と絵里を送る意味で早退した義一だったが、朝方近くにやはりあの時も武史はこの家に来たらしい。

何が言いたいのかというと、この日”も”武史はこのまま義一の元に泊まるとの事だった。”も”を強調したのは、武史はその教えてくれない用事の為に、今週の木曜日からこっちに来ていて、今日が三泊目との事らしい。

夕方五時になったので、私が帰る旨を伝えると、義一と武史が二人して送り出しに玄関先まで出てくれた。

靴を履き、間間にあった雑談時に今回また義一に選定してもらった十冊ばかりの本の入ったトートバッグを、座りながら肩に提げ立ち上がり、二人を振り返り改めて見たのだが、私はフッと思わず笑みを零してしまった。

片やスーツをビシッと着ているのに、片や義一の方はこの時期によく着ているアラン柄の黒いセーターと、下はジーンズというカジュアルだったからだ。あまりに正反対の格好に、並んだ時のそのアンバランスさに思わず笑ってしまったという次第だ。

因みにこれも雑談で出たことだが、何も普段から武史は部屋の中でもスーツを着ている様な奇特な方ではないらしい。ただこの日は、午前中にどこかの大学の研究室にいる先生に会いに行くというので、それでスーツを着ていて、ただそのままだったとの事だった。まぁ武史には悪いけど…どうでもいい。


手を振り合い別れて家に帰り、普段と変わらず夕食をお母さんと共に食べて、お喋りし、寝支度を済ませ、自室に入った時には夜の九時半ごろになっていた。

ベッドの布団の上から座り、私は早速武史に貰った自身の本、『亡国のFTA』をまず前書き部分から読み始めた。

義一がボソッと言っていたが、確かにこの時点で、この後に専門性の高い議論が待ち構えていることが示唆されていたが、と同時にワクワクもしていた。今日は早めに自室に引き揚げたことだし、このまま読みきってしまおうかと思ったその矢先、ふと武史の言葉を思い出して、一旦本を布団の上に置くと、私はパソコンデスクに向かい立ち上げた。そして検索サイトに向かい、先ほど書いてもらったメモを手元に置いて見ながら、その番組名を打ち込んだ。

すると一秒もしないうちに検索結果が出て、その一番上に公式のサイトが出ていたので、早速それをクリックした。

その中での次回の出演者欄を見つけて、それをスクロールしていって見ると、ある人物の名前が載っていたのを見て、唖然とするとお同時に、一人で思わず苦笑交じりに呟いてしまうのだった。

「…これまたデジャヴだわ」

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