第3話 数寄屋 B

「さて行くか」

「うん」

聡の声に、私と義一が同時に返事をした。それと共に、聡の車は義一の家の前を出発した。

今日はコンクールから十日後の八月頭の土曜日、いつも通りというか、お父さんとお母さんが例の慰安旅行に行っているので、こうしてまた”懲りずに”自分から進んで数寄屋に行きたがり、車中の人となっている。

「そういやまだ言ってなかったな…」

聡はふと、運転をしながらだったので前方を見つつだったが話しかけてきた。

「琴音…決勝進出おめでとう」

「…うん、ありがとう」

普段のガサツな口調ではなく、ある種情感のこもった声音で言われたので、少し戸惑いつつも、素直に感謝の念を返した。助手席に座る義一は、後ろを振り向きニコッとただこちらに微笑んでいた。

…不意に聡に”ネタバレ”をされてしまったが…そう、自分でもビックリなのだが、何とと言うか…無事に全国大会に、東京東地区代表として進出する事と相成った。…コンクールに初出場で、しかも決勝進出だなんて、そんな小説の様な旨い話があるのかと突っ込まれそうだが、当人の私ですらそう思っても、事実は小説よりも奇なりって事なのか、何と言われようとこの現実が事実なのだから仕方がない。今だに、私自身がその事実を受け入れられずにいた。だから、今の聡のように祝られても、自分の事のようには深くは喜べないのだった。

ここで、前回の続きを述べたほうがいいだろう。与えられた四十分ばかりの持ち時間を丁度全て使い切るように弾ききった後、控え室に戻って、着替える事なく他の参加者の演奏に耳を傾けていた。ここでもまず直ぐに気付いたのは、本選まで勝ち進んだ参加者たちの殆どが、予選の時のように途中で演奏を切られていた事だった。そしてこれも同様に、参加者たちはそれに対して何も思わないといった風な無表情で、ただ淡々と課題曲をこなしていくのだった。結局演奏を止められずに弾ききれたのは、私と、予選で一緒だったあの男の子と、あと一人か二人程度だった。全ての参加者の演奏が終わると、係員の指示に従ってまた舞台へと上がった。演奏の時とは違って、客席の照明が点けられていた。チラッと見ただけだったが、今回は直ぐにお母さんたちの姿を見つけた。何故なら、裕美がこちらに向けて、何度か手を胸の前で振っていたからだ。会場の中で、手を振っているのは裕美だけだったので、いくら控えめだったとしても舞台上からは軽く目立っていた。私も一度軽く手をあげて見せて、それに応えた。舞台上には、演奏中には無かったパイプ椅子が、ピアノの後ろに人数分ズラッと並べられていた。演奏順に行儀よく並んでここまで来たので、必然的にその順で端から座った。客席から見て、右端から五番目が私の座り位置だった。それから恐らくお偉いさんなのだろう、フォーマルな格好をした膨よかなオールドミスが、マイクスタンドの前で何やら在り来たりな挨拶をした後、その直ぐ後に、そのまま受賞者の発表となった。本選からは賞が三つほど用意されていて、一番上が決勝進出賞、次に優秀賞、そして奨励賞となっていた。

係員が何人かで準備をしていた。具体的にはテーブルを出したり、その上に何やらゴチャゴチャと物を置いたりしていた。そして女性の側には、いつの間にやらこれまたスーツでビシッと決めた壮年の男性が立っており、指示をジッと待っていた。女性はまず奨励賞の発表からする旨を言った。下から順に発表するらしい。…まぁ、下からと言っても、三位なのだから上位には違いないのだけれど。

数秒ほど間を空けてから、所属の教室名と名前を読み上げられたのは、最後の方で演奏をしていた女の子だった。その子は明るく返事をすると席から立ち上がり、ツカツカっと女性の前に出て行った。その間、客席からは拍手が沸き起こっていた。参加者の方でもみんなで拍手をしていたので、私も見よう見まねで拍手した。暫くして鳴り止むと、女性は男性がおもむろに静々と手渡してきた賞状を受け取ると、それを淡々と読み上げた。そして、それを手渡すと、女の子は深々とお辞儀しつつ両手で受け取った。そしてその後は、流れるように男性が盾やらトロフィーやら渡してきたのを、女性はそのまま丁寧に女の子に笑顔で渡していった。女の子の手元は一杯になり、抱えるような格好になっていたが、それでも満足そうな笑みを浮かべていた。そして客席の方を向くと、受け取ったものが落ちないようにしながらだったので、ちょっと不恰好だったが、深々とお辞儀をして、そして自分の席に戻って行った。そして次に女性は、優秀賞を発表する旨を宣言した。今度は十秒ほど間を空けて見せて、それから名前を読み上げられたのは、あの同じ予選を勝ち抜いてきた、あの男の子だった。

拍手の音と共に、ゆっくりとした動作で立ち上がった男の子の表情は、無表情ながらも、少し上気している様に見えた。 それは何も、照明で熱せられただけのものでは無かっただろう。それからは、男の子は前の女の子と同じ様に、賞を含む記念品を受け取り、客席にお辞儀をし、そして席の戻って行った。記念品は、先ほどのものよりも、一回りか二回りほど大きかった。そして次にまた女性は…今度はこの時点から少し間を空けて勿体ぶって見せてから、決勝進出者の発表をする旨を宣言した。客席の方でも、ここで軽く拍手が沸き起こった。鳴り止むと、女性は今度は二十秒近く溜めたので、その間は会場を沈黙が支配した。全体の緊張感が一気に高まるのを、ヒシヒシと感じた。そして読み上げられた名前は…っと、ここで別に溜めることはないだろう。そう、もう既に聡がバラしてしまった様に、初めに”無所属の”という枕詞を付けてから、私の名前が読み上げられた。その瞬間、今日一番の拍手が沸き起こった。参加者たちも一斉に、先ほど受賞した女の子と、あの男の子も合わせて私の方を見て、それから笑顔で拍手をしてきた。みんな好意的な顔を見せてくれていたが、当の本人である私としては、何が起きているのか分からず、端的に言えば頭が真っ白になっていた。まさか、自分の名前が読み上げられるとは思っても見なかったからだ。それは初めの方でも話したから、分かるだろう。『ほら、行かないと』と、右隣の、私と同じく無所属で出場した参加者の女の子が、微笑みつつそう話しかけてきたので、私は自分でも分かる程にぎこちなく立ち上がると、まるで薄氷の上を歩くかの様に慎重にゆったりと女性の前まで行った。まるで自分の体の様な感覚は薄れて、何かロボットでも操縦しているかの様な錯覚に陥っていた。女性の眼の前まで来ると、女性は男性からまず賞を受け取り、それから客席に向かって話し始めた。

「今年の審査は、困難を極めました。ご存知の通り、我々のコンクールは採点式で、それぞれの項目で加点していくのですが、進出者の望月さん、優秀賞の〇〇さん、規定で点数は言えませんが、この二人でとてもせっていて、ギリギリの攻防でした。何が言いたいのかといいますと、望月さん、彼女は只今紹介しました通り、無所属で参加されまして、その無所属の方が決勝に上られるのは、我らがコンクールの過去の歴史で見ても珍しく、少なくとも東京エリアから出るのは、約二十年振りという快挙なのです。 ご本人、または親御さん方、そして、表には出てきてくれていませんが、彼女の様な素晴らしいピアニストを育てて下さいました指導者の方を前にして恐縮ですが、こうして紹介がてら、賞賛の言葉を述べさせて頂いた事をお許し頂けると有難いです。…では改めて」

とここで、女性は器用にマイクから口を離さない様に私に振り向きつつ、「望月琴音さん、決勝進出おめでとう」と笑顔で言うと、また客席から拍手が起きたので、この手のマナーを知らない私でも察し、取り敢えずその場で立ち上がり、ペコッと大きくまた深々とお辞儀をしたのだった。

それから皆して控え室に戻ると、今回の参加者全員が私の周りを取り囲み、決勝進出を祝ってくれた。男の子は握手を求めてきたり、女の子に至っては、握手だけではなく、中には抱きついてくる者もいた。その抱きついて来たのは、先ほど舞台で私にアドバイスしてくれた無所属枠のあの子だった。そして最後の方になると、まず奨励賞を貰った女の子からは、演奏の良さを褒められたので、私も同じ様な返しをした。…まぁ、ここだけの話、彼女の演奏はよく聞いていなかったのだけれど、でもそれでも褒めてくれた分のお返しはした。そして一番最後に優秀賞を獲った例の男の子。彼は私の前に来ると、一瞬眉間に皺を寄せたかに見えたが、次の瞬間、今まで…と言っても今日で二度しか会っていないから知ったかぶるのはどうかと思うが、見たこともない様な笑みを浮かべて握手を求めてきた。私がそれに応じると、奨励賞の子と同じ様に演奏を褒めてくれたが、少し違ったのは、その後に師匠の事を褒めてきた事だった。私はそれに対してもお礼を返していたが、師匠の名前が出た瞬間、場にいた参加者全員が、眼の色を変えてこちらを見てきた。その変貌ぶりに驚いていると、その時控え室の扉が開けられて、その直後には参加者の関係者がなだれ込んで来た。入るなりそれずれの元へと一目散に向かい、ほうぼうで健闘を讃えていた。最後の方になって、お母さん、師匠、そして裕美の順に入って来た。そして私の姿を認めると、三人とも笑顔を見せて、そしてゆっくり近づいて来るかと思いきや、途端に裕美が私の元へ駆け寄って来た。そしてそのまま私にガバッと抱きついた。

私はそのあまりの勢いによろけてしまい、たまたま壁を後ろにしていたのが幸いして、何とか倒れずに済んだくらいだった。

「ちょ、ちょっと裕美…?」

と、壁に押し付けられる様な形で、思わず苦笑いを浮かべつつそう漏らすと、身長差的に胸に顔を埋める形になっていた裕美は、顔を勢いよく上げると、私の両肩に手をかけて腕の力で勢いよく体勢を戻すと、今度はその掴んだままの肩を大きく揺らしながら「やったね!琴音!」と声を張り上げていた。

「あ、ありがとう」私はそのハイテンションに戸惑いつつ返しつつも、視界の端に見えていた、他の参加者と関係者がこちらに向けて来る微笑ましげな表情に恥ずかしくなり、何とか抑えようとしたが、無駄だった。

「凄いじゃない!決勝進出よ!」

「ちょ、ちょっと、裕美?それくらいにして…」

他の参加者が気を悪くするんじゃないかと気が気では無かったが、周りを見渡してみると、そうでもないらしい。相変わらず苦笑気味だったが、微笑んでいるのには違いなかった。奨励賞の子と優秀賞の子も同じだった。

他の人が良いならいいかと、しばらくそのままにされるがままでいた。

裕美が落ち着くと、それを待ち構えた様に、今度はお母さんが私に抱きついてきた。裕美と違い、お母さんは私よりも身長が高いので、今度は私の方がお母さんの胸に顔を埋める形になった。

「おめでとう琴音!本当におめでとう!」

私から体を離してそう言うお母さんの目は、若干潤んでいる様に見えた。…いや、もしかしたら一度既に涙を流した後なのかも知れない。そうだろうとは思ったが、それについてなにか言うほど、それ程には無粋では無かったので、それには触れず「うん」と短く、でも飛び切りの笑顔で返した。お母さんも笑顔でうんと頷くと、チラッと後ろを振り向いた。そこには師匠が黙って立っていた。キチンと(?)マスクをしたままだ。お母さんが何も言わずに笑顔で横にずれると、師匠はゆっくりと私の前に出た。

師匠はほんの数秒ほどだったが、何も言わずに私をただ見つめてくるのみだったので、私も同じ様に見つめ返していた。今までにないパターンだったので、この師匠の様子にどう対応したらいいのか思い倦ねていると、不意に師匠は前触れもなくマスクを外した。そこには、柔和な笑みを浮かべた師匠の顔があった。私もつられる様に微笑み返そうとしたその時、ふと師匠の両目に涙が溜まってきたかと思うと、その涙が溢れるか溢れないかというその瞬間、ガバッと私に抱きついてきた。 そして押し込んだ様な小さな声で、「よくやったわね…よくやったわね…おめでとう」と繰り返し耳元で囁くのだった。師匠はお母さんよりも更に大きかったので、似た様な状況になったが、その涙を見たせいか、私の目にも自然と涙が溜まって行くのを感じた。私からも師匠の背中に腕を回し、同じ様に小さな声で「はい」とだけ返すのだった。これは後でお母さんに聞いた話だが、その様子を見て、自分と裕美が涙ぐんでしまい、ふと二人目が合うと、照れ臭そうに笑い合っていたらしい。とまぁ、この時ばかりは先ほどと違って、周りの目が気にならないほどに、色んな意味で一杯になったのだった。

それからは予選の時と同じ様に、軽く雑談などをしていたのだが、結局師匠は他の参加者や関係者に囲まれてしまっていた。師匠は私から離れるなりまたマスクをしたのだが、それでも例の男の子が私の師匠をバラしてしまったが為に、変装しても無駄になってしまった。この時の師匠は、その経緯を知らなかったので、何でバレたのか訳が分からないといった調子でオロオロと狼狽えて、私の方を見て助けを求めるかの様な視線を送ってきていたが、弟子だというのにそんな師匠の様子を面白おかしげに、微笑ましくただ見ていたのだった。隣にいた裕美も同じくその光景を見ていたが、何のことだか当然分かっていなかったので、呆然と見てはいたが、それでもどこか好奇心に満ちている様な、何とも言えない笑みも覗かせていた。ふとお母さんの方を見ると、丁度私と目が合い、一瞬ただ見つめ合ったが、その直後にはお互いに微笑み合うのだった。

後は参加者みんなと挨拶して、励ましの言葉を貰いつつ一番先に部屋を後にし、決勝進出者はこの場でエントリーをしなくちゃいけないというんで、まず衣装を着替えてからその後受付に向かい、エントリーシートに名前を書いたのだった。ちょうどその時、舞台で賞を渡していた女性が受付に顔を見せて、私に気づくと改めて、今度はくだけた調子でお祝いの言葉をくれた。それに対して感謝の言葉を返すと、激励の言葉もくれたので、それにまた応じると、不意にシートに書き込む私の背後に立っていたお母さんたちに視線を移すと、笑顔で深々とお辞儀をして、私に掛けてきた言葉と同じ様な内容を掛けていた。

それに対し、裕美も含めた三人が私とこれまた同じ様な返しをしていたが、ふと女性がお母さんに 「あなたが師匠さんですか?」と聞いたので、お母さんは「いえいえ、私はこの子の母親です」と返した。それに対して女性は勘違いを詫びつつ改めてお祝いを述べると、お母さんはそれに対してまた繰り返し感謝を述べた。それから私の友達だと裕美を紹介したので、裕美が軽く笑顔で一度お辞儀をすると、今度は師匠の肩に軽く手を触れつつ「この方が、娘の師匠ですわ」と紹介した。この時には紙に必要事項を書き終えていたので、係りの人に内容を確認してもらっている間、振り向き師匠の方を見た。師匠は紹介されると、少し気まずそうに、本人もあまり意味がないことは知っていただろうが、マスクを気持ち上に上げた。それを見て、思わずにやけそうになるのを我慢して、事の成り行きを黙って見ていた。「あぁ、あなたがそうでしたかー」と女性はここで一番テンションを上げて師匠に握手を求めた。師匠はマスク越しでも分かる程に苦笑いしつつ応じた。女性は手を離すと、まず私の事を褒め称えつつ、その指導についても褒め称えた。それに対して、相変わらず押され気味に戸惑いつつ返していたが、この時ばかりは少し口調もハッキリ目に「いえいえ、私は何もしていません。全てはこの子の力ですよ」と返していた。それを聞いていた私の気持ちは、言わなくても分かるだろう。女性はそんな謙遜な態度をまた褒めつつ、調子を変えないまま、「何故指導者登録をなさらないのですか?」と聞いていた。私自身、この時まで知らなかったが、このコンクールには”指導者賞”というものもあるらしい。これは、教え子が優秀な成績を残すと、それと同時にその指導者にも褒賞を与えるというものだった。一口に言ってしまえば、賞金が出るのだ。下世話な話だが、ここまで話したのだから仕方ない、具体的な金額を言えば、五万円ほどだった。これについて、高いと思うのか安いと思うのかは、聞いて下さっている方々にお任せする。

それはともかく、そう聞かれた師匠は、うーんと軽く悩んで見せたが、これは長い付き合いの私には分かった。何も今この瞬間に考えているのではなく、話そうかどうしようか悩んでいる様子だった。だが、結局マスクをしたままだが、視線をハッキリと女性に向けつつ、また少し意志を示す様にハッキリとした口調で返した。

「先ほども申し上げました通り、この結果は全てこの子の実力で得られたモノなので、 一介の私ごときがこの子の努力の結果に乗っかる形で出しゃばるのは、そのー…私の主義ではないので、それで届け出てないのです。…あ、いや、別にこちらのコンクールにケチをつけたいのでは無いんですが…」

途中から少しマズイと判断したのか、師匠の口調に焦りが混じったまま言い終えた。その間、女性は無表情で師匠の事をまっすぐに見つめていたが、話し終えた後、ほんの数秒ほど何も言わずに黙っていたが、途端にまた先ほどまでの笑みを戻したかと思うと、今度は断りも無く不意に師匠の手を握ると、明るく話しかけた。

「いやー、素晴らしい!今時そんな考えを持った方がいらっしゃったんですね!いやー、今時ない様な師弟関係です。感銘いたしました」

「あ、いや…」

私から見てもそうだったが、師匠からしても意外だったらしく、見るからに戸惑っていたが、それには関心が無い様子で、その後もツラツラと師匠の事を褒めちぎっていた。

それからしばらくしてようやく解放されると、四人揃って会場を後にした。夕方の四時ごろだった。その後は四人で適当なお店を見つけて入り、そこで夕食を摂ると、地元に帰り、今日はみんなお疲れだからという事で、裕美のマンション前で裕美と別れ、その後は師匠を師匠宅まで送るという、予選の時と同じ流れに相成った。別れ際、師匠に対して、女性に投げかけていた言葉に対して、何か自分でもハッキリとはしなかったが、無性にお礼を言いたかったのだが、心情に当たる言葉を見つけられず、そのまま無理に言葉にしても、嘘になり、かつまた不要に軽くなってしまうのを恐れた私は、最後に玄関前で大きく深くお辞儀をして、「今日は有難う御座いました」と誠意を示すために、これ以上ないくらいな挨拶をした。師匠はそんな私の仰仰しい態度に苦笑いを浮かべたが、師匠の方でも深々と頭を下げて、そして顔を上げてから笑顔で「どういたしまして。…こちらこそ有難う」としみじみ言うので、これには少し動揺してしまったが、その直後にクスッと笑って見せたので、私も合わせる様に笑い返すのだった。

…とまぁ、相変わらず長すぎる回想を述べてしまったが、これが事の顛末だ。ついでに話すと、その週の土曜日、今度は裕美のお母さんを合わせた五人で会って、私のお祝いと称して、予選を突破した時にも行った地元の焼肉屋さんに行ったのだった。それでその次の週の土曜日…一番最初に戻る。

最初に自分から進んで数寄屋に向かう車中の人とは言ったが、軽くネタバラシをすると、厳密には違っていた。コンクールを終えた日の晩、私は早速義一、絵里、美保子、百合子に結果を報告した。皆して前回と同じ様に手放しで喜んでくれて、わざわざ電話をくれたのだった。美保子に至っては、アメリカにいたというのにだ。シカゴは朝の七時だったらしい。ちょうど来週に日本に戻るというんで、その流れでお祝いをしたいと言ってくれた。私は初めは「別にいいよ」と返したのだが、有り難く好意に甘えることにした。それからはなし崩し的に話が進み、義一や百合子にも話が通り、最初にも言ったがちょうど両親が慰安旅行に行く日とも重なって、それで今日数寄屋に行くことになったのだ。これは聡に聞いたが、今日はたまたま私がまだ面識の無い他のメンツも来るというんで、それでも良いかと珍しく不安げに聞かれたが、それはそれで私にとっては願ったり叶ったりだったので、快く返したのだった。それで今に至る。

「…ちょっとー」

ふと、車に乗ってから静かだった私の隣に座る女性が、漸く口を開いたかと思えば、明らかに不満げな口調で声を漏らした。

「後どれくらいで着くのよぉ?」

「ふふ、どれくらいって…」

義一はわざわざ体を捻って、真後ろに座る女性に向かって苦笑いを向けた。

「絵里、まだ出発したばかりじゃないか」

「だってぇ」

「…あははは!」

と今度は聡が愉快げに豪快に笑いつつ言った。

「相変わらず堪え性のない、落ち着きの無いお嬢さんだ」

「…ふん、おっさんは黙っててよ」

「おっさんかぁ…ひどい事言うなぁ」

そう返す聡の口調からは、落ち込んだ様子は微塵も見られない。

そのアンバランスさに私が思わず「ふふ」と笑みをこぼすと、絵里はこちらを見て、これまた今にも溜め息つきそうな笑みをくれるのだった。

…ここで、何で数寄屋に行く車中に絵里も同行しているのか、当然説明がいるだろう。また軽く触れるはずが長くなってしまうかも知れないことを予め謝っといてから、訳を話そうと思う。

発端はかなり最近の事、幸いにも夏休み中だというんで、平日の水曜日の昼間に”宝箱”を訪れたのだった。

普段の事もあったが、この時は勿論コンクールの結果を直接話すためでもあった。この時も、予選の結果を話したときと同様に、絵里も来ていた。駅前でスイーツを買ってきてくれたのまで同じだ。全体の内容もほぼ同じだ。お母さんにスマホに送ってもらった写真を、三人で仲良く一緒に小さな液晶を覗き込みつつ見た。義一も絵里も、それぞれ個性のある表現をしてくれた。絵里の事で言えば、取り敢えず始終「可愛い!」といった感じだ。…自分で言ってて恥ずかしい。

それはともかく、それからは前とは違いすぐにピアノで本選そのままに、課題曲を弾いて見せた。義一も絵里も手放しで喜んでくれた。人に褒められると、それを素直に受け止めずに、その意図から考えてしまう癖のある私だが、この二人からの賞賛は素直に受け止められるのだった。これは今更言うまでも無いだろうけど。

それから暫くは歓談していた。勿論というか…まぁ言うと、先ほどの美保子の様に、お祝いしたいという内容だ。どうしたら、私みたいな面倒な境遇にいる…いや、自ら陥れている子を、何処かに連れ出して祝えるのかという事だった。まさに今話したその通りに絵里がズバッと言ったので、私も義一もただ何となく照れ臭そうに苦笑いを浮かべるしか無かったのだが、ふとその時、玄関がガラガラっと喧しい音を立てて開けられた。この時は宝箱のドアを閉めていたのだが、それでもよく聞こえた。ミシミシと廊下の古い木々を言わせながらガサツな足取りで近付いてきたかと思うと、バンとこれまた前触れもなく乱暴に開けられた。そこに立っていたのは、何と聡だった。聡はポロシャツにジーンズと、まぁ普通の格好をしていたが、少しサイズが小さめなのか、出っ張ったお腹が強調されていた。

「おーい義一来たぞー…って、あれ?」

聡はワザとらしく驚いて見せて、私たち三人の顔を見ると、声も驚きを隠せない体で言った。

「琴音じゃねぇか!なんだ来てたのか、奇遇だなぁー…っと」

聡は今度は絵里の方を見ると、ジロジロと遠慮なく舐め回すように見てから、意地悪げな笑みを浮かべつつ、口調もネットリと言った。

「琴音とここで会うとは意外だったが…もっと意外な奴が来ているな。絵里じゃねぇか」

「…久しぶりだね、聡さん」

絵里も目付きはジト目だったが、口元は若干緩めつつそう返した。

「おう、久しぶり。…なんだぁ?相変わらずその変なおかっぱ頭をしてんのかよ?折角の美人が台無しだぜ」

「ふふ、褒めてくれてありがとう。…聡さんは、ますます”おっさん”らしさに磨きをかけているね?そのお腹とか」

と絵里がお返しとばかりに聡の姿を舐め回すように見てから、大きく出たお腹に指をさしつつニヤケて言うと、聡は角刈りの頭をポリポリ掻きつつ苦笑いで答えた。

「なんだよー…こっちが褒めたんだから、お前も俺を褒めるところだろ普通ー」

「あら?褒めてなかった?」

「あのなぁ…」

「ふふ…あっ」

いきなり目の前で息の合ったやり取りを見せられて、また思わず吹き出してしまったが、当然の事として一つの疑問が湧いたので、すぐさま聞いて見ることにした。

「ねぇ、二人って知り合いだったの?」

「え?」「ん?」

私がそう言葉を投げかけると、絵里と聡はほぼ同時に私に顔を向けた。そしてお互いに顔を見合わせると、その直後にはまた揃って私に顔を向けた。でも時折お互いの方に視線を流しつつ。

「知り合いっていうか…まぁ知り合いか」

「そうね、そこにいるギーさん繋がりで」

と絵里が言いつつ義一の方を見ると、当人は我関せずといった調子で、呑気に紅茶を啜っていた。それを見た聡は見るからに呆れて見せつつ、

「そういや俺にも何か出してくれよぉ…炎天下の中歩いて来たから、喉乾いちまった」

と言うと、義一は「はいはい」と如何にもやる気無さげにゆっくり立ち上がると、大きく伸びをして見せ、そしてのっそりとした足取りで部屋を出て行った。

「やれやれ…客人に対しての態度がなっちゃいねぇんだからよ」

「誰が客人なの?」

とすかさず絵里が意地悪く突っ込むと、聡は無駄だと判断したのか、何も返さず頭をポリポリと掻くのみだった。

一連の流れをまた笑って見ていたが、さっきの続きを聞くことにした。

「三人はじゃあ長いの?」

「ん?んー…どうだったかな?」

「え?そうねぇー…まぁ少なくとも、私とギーさんが大学生だった頃からだから、長いとは言えるかもねぇ」

「そうなんだー。キッカケとかあるの?」

「キッカケ?…ってなんだっけ?」

「一々私に振らないでよぉ…んー、何だっけ?ギーさん?」

「…え?何?なんの話?」

義一はちょうど片手に氷入りのスポーツドリンクで満たされたグラスを持って戻って来たところだった。

「はい」と義一が手渡すと「お、サンキュー」と聡は呑気な声を上げつつ受け取り、すぐさまそれに口を付けた。

「アレよアレ」

「…いきなりアレって言われても」

と義一が苦笑気味に返しつつ座ると、聡が会話に横槍を入れてきた。「そういや、俺の席は無いのか?」

「聡兄さんの席?それなら…」

義一はそこで切ると、何も言わずに開け放たれて見えている廊下の方に指をさした。

「あっちにあるよ」

と悪戯っぽく笑いつつ言うと、「へいへい、自分で取ってきますよ」と不満を隠そうとしないまま、しかし口調は愉快さを滲ませつつ部屋を出て行った。

「やれやれ」

「…ちょっと、ギーさん?」

「あ、あぁ、ゴメンゴメン…。で、何だっけ?」

「もーう、アレよアレ!」

「だから…アレって言われても分からんよ」

「え?あ、あぁ、そっか…。ほら、私たち…聡さんとも長いけど、聡さんと私って、何がキッカケで知り合ったんだっけ?」

「え?あ、あぁ、その事かぁ…んー、覚えてないな」

「…なーんだ」

私は本人たちはその気はなかっただろうが、何だか話を引っ張られた挙句にこんな結末だったので、すっかり肩透かしを食らった気分になり、不満タラタラに声を出した。

「結局誰も覚えてないのね?」

「んー…そうだね」

と義一が照れ笑いを浮かべつつそう返すと、

「…まぁ、人間関係なんてそんなものなのよ!」

と絵里は逆に、妙に明るいテンションで開き直り気味に言うのだった。何だか勢いで誤魔化された気がしないでも無かったが、それでこの場は引き下がることにした。

聡が絵里のように食卓から椅子を持ってくると、正方形のテーブルの空いてる一辺の前に置いて座った。絵里の時も感じた事だったが、いつも二人で過ごしていたせいか、ほんの一人か二人が来ただけで、何だか急に部屋が狭く感じた。とても賑やかになったようだった。これは絵里と聡のキャラクターだけでは無かっただろう。

それはさておき、何だか恒例になってしまったが、絵里が急に自分のカップを手に持つと、「では、お疲れー!」と言いながら前に突き出したので、私を含む他の三人は慌ててそれに合わせて互いのグラスとカップをぶつけ合った。流石の聡も前触れもなく突然されたので、軽口で突っ込む余裕が無かったようで、そのまま付き合うのだった。

そして皆して一口飲むと、途端に聡が苦笑気味に絵里に声を掛けた。「まったく…お前のその”乾杯グセ”は相変わらずだなぁ」

「え?別にいいじゃなーい?それに、厳密には乾杯じゃないよ?杯を乾してないんだから」

「はぁーあ、減らず口も変わらねぇな。そもそも自分で『かんぱーい!』って言ったんじゃねぇか…」

そう返す聡の表情は明るかった。

と、聡はふと他の三人の手元のカップを見ると、絵里に意地悪げなニヤケ面を見せつつ言った。

「…しっかし、義一、お前も相変わらずだなぁ。こんな凝った茶器を出してもてなすなんて…どっかの誰かよりも、よっぽど女子力が高いぞ?」

「あらぁー?」

それを聞くなりすかさず絵里は、思いっきり目を細めて不満を露わにしつつ、テーブルの上にまだ置かれたままの、ケーキの残骸に目を配りつつ返した。

「ここにあるケーキは誰が持って来たと思ってるのー?私がわざわざ持ってきた物なのよ?」

「あ、これ、ケーキだったのか?」

聡もテーブルの上を見渡しつつ言った。

「なーんだ…だったらもっと早くに来るんだったぜ。そしたら俺も食べれたのに…」

「ちょっとー?ちゃんと私の話を聞いてた?」

「…ふふ」

私はまた同じように、目の前で繰り広げられていた軽口合戦に吹き出して笑ってしまった。それを見た絵里と聡、そして私と同じ様に黙ってやりとりを見ていた義一も、合わせる様に明るく笑い合うのだった。

「はぁーあ…しっかし、さっきも言ったが、ここで会うのは珍しいなぁ…お前、何で義一の所に来てんだ?…あ、まさか、お前ようやく素直に…」

「…ちょっと聡さん?何を言おうとしてるのかしら?」

絵里はすかさず口を挟んだ。字面にすると上品な感じだが、実際は若干慌て気味に、そしてドスを効かせた声音を使っていた。

「いーや、何でもねぇよー?」

とそんな絵里の様子を介する事なく、聡は呑気に間延び気味に返すのだった。絵里は誤魔化したつもりだったろうが、流石の私でも今のやり取りの意味が分かったので、横目でチラッと義一の表情を伺ったが、当人は相変わらずと言うか、先ほどの軽口合戦をしていた二人に向けていたのと同じ、和かに微笑むだけだったので、実際にはしなかったが、心の中で大きく溜息をついたのだった。

「そう、何でもないよねぇー?…って、私からも質問だけれど」

絵里はまだジト目を聡に向けたままだったが、そのまま聞いた。

「聡さん、あなたこそ何で今日ギーさんの所に来たの?タダ水を貰いに来ただけ?」

「おいおい…”タダ飯”ってのは聞いたことあるが、”タダ水”ってのは初耳だぞ?…あ、あぁそうだった。おい…」

聡は呆れ気味に絵里に返していたが、ふと何かを思い出した様で、今度は義一に話しかけた。

「そういや先生から…というよりも、浜岡さんから伝言なんだが、進捗状況を聞いてこいって言われたんだが…どうだ?」

「…え?あ、あぁ…」

とここで義一はふと書斎机の方に視線を流しつつ答えた。先ほどは触れなかったが、机の上は普段見ている時よりも乱雑になっていた。少し具体的に言うと、色んな十何冊ばかりの本が雑多に置かれており、プリントの束のような物も上部を埋め尽くすが為のように置かれていた。

「うん、まぁまぁってところかな?」

「そうか。…まぁ、いつも通りちゃんと間に合うようだって伝えとくよ」

「うん」

「…それって」

と私も義一に倣うように机の方に視線を流しつつ聞いた。

「毎年のアレと関係があること?」

「あ、うん、そうだよー」

義一は私に微笑みつつ答えた。

「…ちょっとー」

と今度は絵里までもが、机の方を見つつ、少し不満げな声で言った。「本はもうちょっと慎重に扱ってよねぇ?あの中に、うちから借りてるのもあるんでしょ?」

「え、あ、うん…気をつけます」

義一は悪戯が見つかった子供のような笑みを浮かべつつ返した。

すると聡が絵里に向かってニヤケつつ「まるで司書みたいだな?」と声をかけると、すかさず絵里は「司書ですけど?」と無表情で返したかと思うと、今度は絵里の方がニヤケつつ聡に「…それに引き換え、聡さんは全く教師に見えないね?」と返した。

聡は「余計なお世話だ」と苦笑気味に返すのみだった。

「…で?」

と、仕切り直しだという風に聡が一口飲んでから言った。

「今日のこの集まりは結局何なんだよ?」

「それはねぇ…」

義一は待ってましたと言わんばかりに、私に視線を向けつつ笑顔で言った。

「琴音ちゃんがピアノのコンクールで全国大会に出場する事が決まったから、そのお祝いと健闘を祈ってというんで、何か出来ないかを話し合っていたんだ」

「…へ?そうなのか?コンクール?」

「あ、う、うん…」

あ、そういえば…連絡先知っているのに、聡おじさんには何も話していなかったなぁ…

とこの時になって初めて気づき、一人で気まずい思いをしていたのだが、当の聡はそれには思いが至らなかったらしく、「なるほどなぁー…」と一人呟いていた。

「んー…あっ」

とここで不意に声を上げたかと思うと、私に話しかけてきた。

「琴音、今週って、数寄屋に来れるか?」

「え?う、うん…元々行くつもりだったけど」

その旨は義一にはすでに伝えていた。

「そっかー…んー…うん!」

聡は私に返答を聞くと、軽く考えて見せたが、ウンと大きく頷くと、今度は絵里に話しかけた。

「絵里、お前…今週の土曜日暇か?」

「え?何?藪から棒に…暇かはともかく、図書館のシフトは入ってないけれど…?」

絵里は何を聞かれているのか分からないといった風で、少し不審げに返した。それを聞いた聡は、絵里とは真逆に明るい笑顔を浮かべると、口調も明るくまた声をかけた。

「じゃあよ、大した予定も無いんだったら、お前…俺たちと一緒に数寄屋に来ないか?」

「え?」「は?」「え?」

絵里、義一、私は同時に驚きの声を上げた。聡はそんな三人の反応が面白いのか、ニヤニヤしている。

「…何言ってんの?」

まず声を出したのは義一だ。見るからに戸惑いを隠せないといった調子だ。

「それ…本気で言ってる?」

「おう、本気も本気よ」

聡は相変わらず呑気な調子を崩そうとしない。

「何でまたそんな事考えたんだよ?」

と義一が今度は目を細めて聞くと、聡は悪戯っぽく笑って見せ、まだ驚きっぱなしの私と絵里の顔に視線を流しつつ言った。

「だってよぉー…要はお前ら、琴音を祝う為の”場”が欲しいんだろ?その場なら、どこよりも数寄屋がうってつけだろうよ。料理の腕にしたって、あのマスターとママ…この二人以上っていうのは、ちょっとやそっとじゃみつからねぇし、それに何より…」

とここで聡は、顔を私に直接向けて言った。

「琴音自身、あの場が気に入ってるんだから、喜んで俺の案を受け入れてくれるだろうよ。…どうだ、琴音?」

「…え?え、あ、う、うん…」

初めは何を言い出すのかと思ったが、今の聡の話を聞くと、途端に良さげな提案に思えた。…後は、絵里がどう思うかだけだった。

すぐに答えるのも何だと思ったので、少し溜めてから返した。

「…うん、確かに悪く無い提案だけれど…」

とここで言葉を切って、ふと絵里の顔を見た。

と、絵里もこちらを見たので目が合った。絵里は相変わらず戸惑っている風な表情を浮かべていた。

「絵里さんがどう思うか…どう、絵里さん?絵里さんさえ良ければ…一緒に来てくれると嬉しいんだけれど…」

「琴音ちゃん…」

とここで不意に義一が私に声を小さく掛けてきたが、この時の私は気づかなかった。その顔に、戸惑いの表情を浮かべていた事にも。

「…んー」

私に声を掛けられて、絵里はようやく口から声を漏らした。顔も伏せ気味で、考え込んでいるようだった。とここで、絵里はチラッと義一の顔を覗くような素振りを一瞬見せた。顔色を伺うようだった。この様子はこの時にも私は気付いたが、特に深い意味があるとは思わなかった。

絵里は一度大きく息を吐くと、私にため息交じりに言った。

「はぁー…琴音ちゃん、前にここで会話した時の事覚えてる?その時の私の言い方で察してると思うけど、あまりそのー…あなたがそこに入り浸るのに対して、良いとは思ってないのよ。でも、これも言ったと思うけど、あなたが自分で進んで、そこに集う人々と付き合って、お喋りしたりして過ごしたいというのなら、その考えを尊重したいとも思っているの。…あ、いや、何が言いたいのかっていうとね?んー…」

絵里はここまで、とても言いにくそうに、普段の竹を割ったような口ぶりとは程遠い、辿々しく言葉を紡いだが、ここでフッと優しい笑みを零すと、口調も穏やかに言った。

「琴音ちゃん、あなたがどうしても一緒に来てと言うのなら…私はそれでも喜んでそのお誘いに乗るわ」

「絵里さん…」

私は、その言葉の裏にある色々な配慮を感じて、胸が一杯になるのを覚えつつ、笑顔で静かに「ありがとう」と言うのだった。

それに対して、絵里も「どういたしまして」と、今度は満面の笑みで返すのだった。

と、絵里はここで一瞬寂しげな笑みを見せたかと思うと、義一に顔を向けて言った。

「ギーさんも…私が行く事に、文句はないでしょ?」

「…文句ってほどの事は無いけど…」

声を掛けられた義一は義一で、何だか顔に影を差したような様子を見せていたが、フッと見るからに力を抜くと、静かな笑みを見せて

「…絵里、本当に良いんだね?」

と聞くと、

「えぇ、私は構わないわ。…ギーさん、あなたが良ければね?」

「…そっか」

「…?」

この一連の二人の会話を聞いて、何だか数寄屋…いや、数寄屋に関連する何かについて、この二人の間に何か大きな問題が横たわっているんじゃ無いかと、この時私は思ったが、この雰囲気の中でその中身を聞くほどには、流石に良くも悪くも肝が座っていなかったので、この場はそのまま流す事にした。

義一はフッと絵里に笑みを向けると、私にもチラッと見せて、それから聡に声を掛けた。

「まぁ…こうして二人が言うんだったら、僕は何も言う事ないよ。じゃあ今週の土曜日、四人で数寄屋に行こう」

「よし、じゃあ決まりだな!」

聡は今までの会話を聞いていたはずなのに、何だかそんな暗い空気が流れていたのを無視するかの様に明るく振る舞った。

それからはコロッと話題が変わって、私のコンクールの話を中心に雑談し、聡が自分で学が無いと断りつつも、それでも私の演奏を聴きたいと言い出したので、仕方ないなと取り敢えず予選の時の課題曲を弾いて見せたのだった。

とまぁそんなこんなで今に至る。先に断った通り、やはり長めの回想になってしまったが、ここからが本編だ。


車は毎度同じルートを辿り、都心の繁華街を抜けて例の駐車場に着いた頃には夕方の5時半になっていた。まだ勢力の強い西日が差し込み、ジッとしてるだけでも汗がじんわりと肌の上に浮き上がるのを感じた。車から降りて周りを見渡すと、見覚えのある車が何台か停まっていた。それはマスター夫婦のものと、後百合子のものだった。どうやらもう来ているらしい。絵里は初めてだからだろうか、まるで私の時と同じ様に、ただの変哲の無い駐車場だというのに、周囲を興味深げに見渡していた。…いや、ここに来る途中も、どうやら思っていたのと違っていた様で、一通だらけの住宅地の中を車が入っている時も、窓の外をジッと眺めていたのだった。

「さて…行くか」

車に鍵をした聡の一声で、私たちはゾロゾロと歩き出し、すぐ脇の数寄屋へと向かった。

店の前に着くと、絵里はまた私の時と同じ様に、「ふーん…」と声を漏らしつつ、店の外観を舐める様に見渡していた。

聡と義一は、そんな様子の絵里を苦笑い気味に微笑みつつ見ていたが、聡が不意にドアを開けたので、それを合図にまたゾロゾロと中に入って行った。絵里は私の後ろから付いて来た。最後尾だ。

「あら、いらっしゃい」

入るなり明るい声で出迎えられた。ママだ。ママはシンプルかつ洗練された例の制服に身を包み、セッセと飲み物の用意をしているところだった。

「お邪魔するぜ」

「今日もよろしく」

聡、義一の順にママに返事をしていた。私もそれに続こうとしたのだが、それは叶わなかった。何故ならママに先手を取られてしまったからだ。

「おっ、今日の主役のお出ましだ!」

ママは私の方を見ると、さっきまでの表情も笑顔だったというのに、ますますその度合いを強めて、両手をナプキンで吹いてから、ワザワザカウンターの外まで出て来て、私に握手を求めてきた。

「いらっしゃい琴音ちゃん!今言うのはアレかも知れないけれど…決勝進出おめでとう!」

「あ、ありがとう」

ママが私の手を乱暴に振りつつ言うので、若干引き気味に返してしまったが、ちゃんと笑顔で返事が出来た。

ママはウンウンと一人満足げに頷くと、いつもの様にカウンター内で何やら料理の下ごしらえを黙々しているマスターに声をかけた。

「ほーら、あなた!あなたからも何か声をかけてあげてよ?」

「…あ、あぁ…」

私の位置からは手元が見えなかったが、何やら道具を置いた音がしたかと思うと、マスターは無表情でこちらを見た。それからほんの数秒間、何も言わずにいたので軽くにらめっこしている様な形になったが、ふと口角を軽く持ち上げて見せて、「…おめでとう」とボソッと言った。

「…もーう、あなたったらぁー…ゴメンね琴音ちゃん、ウチの人があんなんで」

とママが顔をマスターに向けながら呆れ口調で言うので、

「え、あ、いえいえ!そのー…ありがとうございます」

と私が声を掛けると、作業に戻っていたマスターだったが、こちらを見ないままにコクンと頷いてくれた。私には、それだけで十分だった。

「まったく…あ、あなたは…」

ママはため息交じりにこちらに向き直ったが、ふと私の背後に視線を向けた。私も後ろを振り向くと、先ほどから店内を見渡していた様だったが、声を掛けられた絵里は丁度笑顔を軽く浮かべて挨拶するところだった。「あ、わ、私は…山瀬絵里と言います。この子…琴音ちゃんの友達です。今日はお世話になります」

そう言い終えると、頭を一度深く下げるのだった。

「あらあら、これまたご丁寧に。…ゆっくりしていってね?」

ママは何だか大袈裟に驚いた様な動きを見せていたが、すぐに柔和な笑みを浮かべて言った。

「はい」と絵里も同じ様な笑みで返すのだった。

それからはすぐに店の奥、濃い赤色のカーテンをズラし、そこに現れた両開きの磨りガラスの扉を聡が開けたその後を、また順に入って行った。

と、中に入るなり聞き覚えのない男の声が聞こえてきた。

「おっ、義一じゃないか!久し振りだなぁ」

「武史も元気そうだ」

背中越しだったので分からなかったが、心なしか義一の声から少しオフザケムードが漂っていた。どうやら心安い間柄らしい。

義一がそんな挨拶を交わしつつずっと動かないままでいたので、横にスッと動いて前を見た。例のテーブル席、向こう側の定位置には美保子と百合子が座っていたが、以前に聡が座っていた辺りには、スーツ姿の見慣れぬ男性が座っていた。普通に座っていたらドアを背後にする形だったので、わざわざ体を捩りつつコチラに顔を向けて、義一にニヤケ面を見せていた。座っていたので、この時はどれほどの体格の持ち主かは分からなかったが、顔は義一とはまた別のタイプの童顔で、義一を女顔タイプだと分類すると、この男性はあえて例えるなら、何だか小動物系…もっと具体的に言うと、リスに似ていた。目がくりくりしている所なんかもソックリだった。

それからは聡がまず動きだし、

「おぉー、久し振り…って、そこは俺の席じゃねぇか」

「えぇ…別にいいじゃないですか」

そう言いながら男性は約一人分のスペース分横にズレた。聡は普段から座っている辺りに腰を下ろし、それから美保子たちにも挨拶を交わした。

聡と男性のやり取りの間、義一はじっとしていたわけではなく、何も言わずに、男性が一人ぶん横にズレた為に、義一も一人分横にズレた位置に座った。細かく言えば、聡、男性、義一の順だ。

私も何気なく義一の後に付いて行こうとしたが、「琴音ちゃーん」と不意に大きな声で話しかけられた。その声の方を向くと、すでにその時には、豊満でふくよかな身体に捕らえられていた。つまりは抱きつかれたのだ。そう、言うまでも無いだろう。美保子だった。

「おめでとーう!良くやったわね!」

「く、苦しい…」

私は冗談ぽく呻き声をあげて見せた。まぁ…実際に息苦しかったのは内緒だ。

「あははは!ゴメン、ゴメン!」

そんな私の声を聞くと、途端に勢いよく私から体を離すと、底抜けに明るい笑顔で、豪快に笑いつつ言った。

私はやれやれと苦笑いを浮かべて首を横に振ったが、そのすぐ後で優しく微笑みつつ「うん、ありがとう」と返した。

美保子はそれには何も返さず、ウンとそのままの笑顔で頷くのみだった。

美保子は私の腰に手を当てて席に連れて行こうとしたが、その時ふと後ろを振り返った。私も振り向くと、そこには当たり前だが絵里が立っていた。因みにここで言うのもなんだが、絵里にしてはかなりラフな格好をしていた。私と同じ様な格好だ。上が無地のTシャツに、下がスキニータイプの七分丈のジーンズ姿だった。聡に宝箱での会話の後、最後に絵里のその時の格好を見て、「数寄屋に行くときは、変にオシャレして来ないでくれよ?簡単な格好で来てくれ」と言われたのに対して、忠実に守った結果らしい。ついでと言っては何だが、美保子も、そして向こうにいる百合子も相変わらずラフな格好で来ていた。百合子は私と似た様なものだったが、流石に美保子には無理だったのか、ダボダボのヨレたTシャツに、ブカブカのパンツ姿だった。…失礼な物言いに聞こえたかもだが、これは私と美保子の間だから許される言い方だ。

それは置いといて、相変わらずまた部屋に入るなり辺りを見渡していた絵里だったが、ふと美保子と目が合うと、自然で静かな笑みを浮かべつつ、小さくぺこりと頭を下げた。美保子も釣られるように一度頭を下げた。それからほんの数秒間、美保子はおもむろに絵里の様子を上から下、下から上と視線を何往復かさせつつ見ていたが、なぜかここでニコッと笑うと、

「…なるほど、あなたが絵里さんね?」

と声を掛けた。

「…え?え、あ、は、はい、そうです…けどぉー…何で」

知ってるんですか?と言い終える前に、美保子が今度はにやけつつ口を挟んだ。

「何で知ってるのかって?それはねー…」

美保子はここでもう着座して何やら男性と談笑している義一の方をチラッと見てから続けた。

「…”誰かさん”に何度も話を聞かされているからね!」

「は、はぁ…」

絵里は納得いくようないってないような生返事をしつつ、軽く義一の後頭部に視線を流した。と、絵里はここで少し慌てつつ、また一度軽く頭を下げつつ、

「…あっ、私は山瀬絵里と言います。琴音ちゃんの友人です」

と最後に、側で突っ立ったままの私に視線を向けつつ言った。

美保子もそれに釣られるように一度私を見たが、すぐに顔を絵里に戻し、少し苦笑気味に返した。

「…ふふ、そんなに畏まらなくても良いよ?なんて言われてここに連れて来られたのか知らないけど。…ここでは歳の差とか肩書きとか、厳密にはそんなの関係無いんだから。…まぁ、親しき間にも礼儀ありって事で、最低限の節度さえ守ってくれたら、それで良いんだから。…おっと、そう言う私も、自己紹介されたのにいつまでも返さないのは、礼儀違反ね?いかんいかん…コホン、私の名前は岸田美保子。いわゆる”ジャズ屋”をしていて、あなたと同じ様に琴音ちゃんの友達よ、よろしくね!」


「…ちょっと?」

とここで、ふとテーブルの向こうから声を掛けてきた者がいた。百合子だ。百合子は普段から薄目がちだったが、それとは別にジト目を美保子に向けつつ言った。

「美保子さん…何で勝手に自己紹介をしちゃうかなぁー」

「ふふー、早い者勝ちよ!」

「何が早い者勝ちよ」

と百合子が呆れ笑いを浮かべると、美保子はただニコッと笑い、その直後には不意に素早い動きで私と絵里の背後に回ると、片手ずつ私たちの背中に手をやり、そして席まで押していくのだった。

「さぁお二人さん、好きに座って」

そう声をかけると、美保子は定位置の百合子の隣に座った。

「…ふふ。ほら絵里さん、絵里さんは私の隣に座って」

と私が義一の隣に腰を下ろしつつ言うと、「う、うん…」と戸惑いつつ、私の右隣に座った。一番端に座る形で、向かいには百合子がいる。

「お、二人とも、今頃になってようやく座るなんて、今まで何をしてたんだい?」

と、今の今まで男性と談笑していた義一は、不意にこちらに顔を向けると、そう聞いてきた。義一の顔の向こうに、男性の顔が覗いていた。何やら興味津々といった調子の笑みを向けてきていた。

「何って…熱烈な歓迎を受けていたところよ」

「…ん?あははは!」

絵里が視線だけを向かいの美保子に向けつつ、苦笑交じりにそう答えると、美保子は豪快に笑って見せるのだった。

「さてと!」

タイミングを計るならここだと思ったのか、不意に聡は明るく声を上げた。そして一同を軽く見渡してから先を述べた。「まだ約一名来てないけれど…乾杯をしてしまうか!」

「さんせーい!」

男性と美保子がほぼ同時に賛意を示した。絵里と私以外も、それに同調する様に和かに頷いた。

…あれ?そういえば…

私も聡と同じタイミングで見渡したが、確かに一名いない事に気付いた。そう、神谷さんだ。

義一の話では、どんな集まりでも、少なくとも数寄屋での事ならば来てる様なことを聞いていたので、意外に思っていたのだが、今の聡の発言を聞いて疑問は解消された。

…そうか、先生は少し遅れて来るのね。

「じゃあ…」

チリーン

普段は神谷さんが座っている目の前に置かれている呼び鈴を聡が鳴らすと、そのすぐ後に扉が開けられ、ママが顔だけ覗かせて来た。

「聡君、飲み物?」

とママが笑顔で第一声に聞くと、聡も笑顔で「おう、お願いするよ」と返していた。

ママはコクっと頷くと、一瞬はけたかと思えば、次の瞬間には手に”喫茶店”のメニューと、高級感溢れる赤茶色の革表紙のメニューを抱えて入って来た。そして喫茶店の方を私に、無地の革表紙の方を絵里に渡した。

「二人とも、好きな物を頼んでね?」

とママが無邪気な笑みで言ったので、絵里は「あ、ありがとうございます…」と戸惑いつつもゆっくりとメニューを開いた。私はもう決めていたので、開く事なく「アイスティー下さい」と言った。それを聞いたママは、「何でー?別に他のを頼んでも良いのよ?今日はあなたが主役なんだから」と何故か不満げに見せてきたが、「ありがとうございます。でも私は、これで良いんです」と笑顔で返した。

「そーお?まぁ、琴音ちゃんがそう言うのなら、私は別に構わないけれど…で?」

ママは仕切り直しといった感じで声音を代えると、今度は絵里の方に顔を向けた。

「どうお嬢さん?何か飲みたいもの、もしくは気になるものとかあった?」

「あ、は、はい…いやぁ、種類が多すぎて何が何やら…」

絵里は苦笑いを浮かべてホッペを掻いていた。

考えてみたら、この店に来て初めて、お酒のメニューをじっくり見てる人を見た。まぁ私もまだ此処に来るのはこれでまだ三度めだが、それでもみんなはもう飲むものが決まっているらしく、メニューを見ることもなく注文…いや、もう勝手にママが聞かないうちにもう出しているといった調子だったので、何だか新鮮だった。このお酒のメニューも、私が初めて来た時に、ママが私に出して来た時に見て以来だった。

「ふふ、わからない事があったら遠慮せずにママに聞いてね?」

ウンウン言いながらメニューを睨み込んでいる絵里に向かって、不意に美保子が明るい調子で声を掛けた。

「ママは”ちゃんとした”修行を積んで、格式高い所で勤めていたソムリエさんだったんだからー」

「”ちゃんとした”は余計よ」

とママはすかさず悪戯っぽく笑いながら突っ込んだ。美保子はただニヤニヤ笑っている。

「そ、そうなんですかぁ…えぇっと」

そう言われても絵里はまだ煮え切らない様子だったが、ふと一同を軽く見渡したかと思うと、誰に言うでもない感じで声を出した。

「皆さんは何を飲まれるんですか?」

「え?何でそんなことを聞くの?」

と途端に返した美保子の顔は、笑顔のままだったが、不思議だと言いたげな表情も混ざっていた。隣にいた百合子も同様だ。私は試しに男性陣の方を見てみたが、こちらは何も変化がなかった。

「え?えぇっと…」

『何で?』と聞かれるのは想定外だった様で、絵里はすぐには答えなかったが、絵里も何故こんなことを聞かれるのかと言いたげな表情を浮かべつつ返した。

「いや…皆さんと同じ様なお酒を頼めば、皆同じ様に楽しめると…思いまして?」

と最後は自分で言ったのにもかかわらず、何故か疑問調になっていたのが証拠だ。それを聞いた美保子と百合子は一度顔を見合わせたが、どちらからとも無くクスッと笑うと、二人揃って絵里に笑顔を向けてきた。そしてやはりというか、美保子が笑顔のまま話しかけた。

「あははは!あぁ、いや、ごめんなさいね?笑ったりして。悪気は無いのよ。何せ…このお店に集まる人で、場の雰囲気を壊さない様に気を使う様な人なんか、一人もいないもんでね。…”外”ではあなたの心使いが普通なんでしょうけど、此処では無いからそのー…新鮮でね、意外すぎて何だか愉快になってしまったの。…ね?」

と美保子が百合子に話しかけると、百合子もコクンと小さく頷き返し、絵里の方に向くと、微笑みつつまた小さく頭を下げて「ごめんなさい」と言うのだった。

言われた絵里は「いえいえ!別に謝られる謂れは…」と慌てて返していたが、すぐに落ち着いて、何も言う言葉が無かったのか、ニコッと色んな意味を含めた笑みを向けた。それに対し、美保子と百合子もただ笑顔で返すのだった。私も自然と笑みが溢れた。

「…っと、そうだねぇ…私と百合子はいつも同じ赤ワインを頼んで…」

美保子はまだ微笑みを残しつつそう言った後、ふと義一たちの方に視線を流しつつ続けた。

「で、男どもは皆してビールを飲んでいるよ」

「そうなんですか。じゃあ…私も赤ワインを下さい。そのー…ママさんのオススメのやつを」

と絵里がメニューを渡しつつ注文すると、ママはワザとらしく”無い”自然な喜びの表情を浮かべて「はーい、では少しの間待っててね?」と陽気な声音で言いながら、部屋を出て行った。

ママが出て行った直後、美保子はふとハッとした様な表情を浮かべて、少し決まり悪そうな顔つきで絵里に話しかけた。

「…そういえば、さっきも初対面で”絵里さん”だなんて軽々しく下の名前で呼んでしまったけど…悪く思わないでね?」

「え?…ぷっ、あははは!」

そう声を掛けられた絵里は、一瞬きょとんとしたが、その直後には何故か明るい笑い声をあげたのだった。これには流石の美保子も、そして百合子、私も呆然としてしまったが、笑いが収まった絵里は微笑みに近い笑みを向けつつ「はい、私は下の名前で呼んで頂いても構いませんよ」と言ったので、美保子も合わせる様に笑顔に戻ると「そう?よかったー。じゃあよろしくね、絵里”ちゃん”」と言った。絵里は”ちゃん”付けに対しては特に何も言わなかった。まぁ、相手が歳上なのだから、ちゃん付けくらいするだろうという風に察したのだろう。

そんなこんなやり取りが終わるその頃、ママが普段通りカートを押して部屋に入って来た。「まずは主役から!」と、ママはまず私の前にアイスティーを置くと、それからはそれぞれの前にコースターを置き、その上にお酒を置いていくのだった。ママは絵里の前に赤ワインを置きながら「これ…まだそんなにお喋り出来てないから印象でしか選んでないんだけれど…」と最後まで言い切らずに言うと、絵里は顔を上げてママの方を向き、笑顔で「いえいえ、選んで下さってありがとうございます」と返した。するとママは「だからほらー…まだまだ堅すぎるってー」と苦笑気味に声を上げたが、すぐに笑顔で「どういたしまして!」と付け加えていた。

「ではごゆっくりー」

と声を掛けつつママが部屋を後にすると、それとほぼ同時に聡はビールジョッキを片手に立ち上がり、一同を軽く見渡した。

「ゴホン…では改めて、皆さん飲み物を」

「ほら、絵里さん」

「あ、うん」

絵里は私に促されるままに、右手にワイングラスを持った。

聡はまた一度周りを見渡すと、ジョッキを高く掲げて音頭を取った。「それでは…かんぱーい!」


「かんぱーい」

私たちはそれぞれ近くの人とグラスを軽くぶつけ合った。

「絵里さん…ん!」

と私がグラスを前に突き出すと、一瞬苦笑を浮かべたが、そのすぐ後には普段の明るい笑みを浮かべて「うん、かんぱーい!おめでとう琴音ちゃん!」と言いながら、ワイングラスをぶつけて来るのだった。

「うん、ありがとう絵里さん」

「おめでとう、琴音ちゃん」

と今度は右隣から、義一がジョッキをこっちに向けてきつつ笑顔で声を掛けてきた。「うん、ありがとう義一さん」私もグラスを前に突き出してジョッキに当てた。

カツーン。

当て終わると、ふと義一が私の背後に視線を向けたので、私も思わず振り向くと、そこには当然の事ながら絵里がいた。絵里も義一に静かな視線を向けていた。お互いにほんの数秒だが見つめ合ったので、何事かと挟まれた私は漠然とも思ったが、フッと力を抜く様に義一は微笑むと、「絵里もお疲れ…まぁ、来てくれて嬉しいよ。…はい」と最後の方は何だか恥ずかしげに言い、ジョッキをまた突き出した。私の顔の前に来る形だ。するとそんな様子が面白かったのか、絵里は大げさに吹き出して見せて、「…ふふ、もーう、本当よー。わざわざ付き合ってあげたんだから感謝してよね?…ん」と絵里も、何だか気恥ずかしそうにワイングラスを前に突き出した。ぶつかり合ったジョッキとワイングラスから鳴らされた音は、小気味の良い音色を出していた。

この時恐らく気付いたのは私だけだろうが、この二人の様子を、この場にいた全員が微笑ましげに見ていた。あのまだ名も知らない男性までもだ。

それからはいつも通りにことが進んで行った。聡からもお祝いのコメントと共にグラスをかち合った後、向かいに座る美保子ともグラスを当て合い、また改めて声を掛けてくれたので、また同じ様に感謝を述べた。美保子はそのままの流れで隣の絵里としている時、百合子が静かな笑みを浮かべながら、何も言わずにワイングラスを前に突き出してきたので、私も同じ様に応対した。

「…誰かさんのせいで、何だかタイミングを逃しちゃったけれど…決勝進出おめでとう琴音ちゃん」

「うん、ありがとう」

「誰かさんて誰のことよー?」

と絵里とは済ませたらしい美保子がソファーに腰を下ろしながら百合子に声を掛けた。

「さぁねー?」と百合子はとぼけて見せていたが、ふと絵里に顔を向けると、先ほど私にくれた様な静かな笑みを浮かべつつ口調も穏やかに話しかけた。

「初めまして、えぇっと…」

「あ、いや…はい、私は山瀬絵里と言います。琴音ちゃんの友人です」

絵里は来た当初と比べると大分場に慣れて来た様で、率先して自分から話そうという気持ちが見えていた。

百合子もそれが助かった様で、また微笑み度合いを強めつつ言った。「山瀬…絵里さんね?初めまして、私は小林百合子って言います。…よろしくね?」

「はい、こちらこそ…ん?小林…百合子?」

「え?どうかした?」

絵里が急にマジマジと遠慮もなく百合子の顔を見だしたので、私もその様子に驚きつつ聞いた。

「あ、いや…あのー…つかぬ事をお聞きしますが…」

「は、はい」

百合子も絵里の態度の変わり様に少し押され気味に返した。

「もしかして…女優の小林百合子さんですか?」

「は、はい…女優をしていますけれど…?」

「…わぁー!」

百合子の返事を聞いた途端、絵里は急に顔中に笑みを浮かべて声を上げた。それに対して、百合子は上体を軽く仰け反らせて引いて見せたが、それには御構い無しに絵里は続けた。

「わ、私、小林さんのファンなんです!いやぁー、こんな所で会えるなんて思いもしなかったわ!」

「そ、それはどうも…」

絵里のテンションの高さに、相変わらず引いていたが、徐々に慣れて来たのか百合子は笑顔を見せていた。

と、ここでようやく自分が一人ではしゃいでいて、浮いてしまっているのに気づいたらしく、気持ち肩をすぼめて見せながら気まずそうに声の調子も戻して言った。

「…って、あっ…す、すみません、ついついテンションが上がってしまって…」

「ふふ、良いのよ」

そう返すのは、百合子ではなく美保子だった。美保子は悪戯っ子のような笑みを浮かべていた。

「中々素直に感情を表に出すのねー…気に入ったわ!それに…ここ十年ばかりはマスメディアへの露出がゼロに等しいってのに、久々に百合子のファンを目にしたしね?」

と最後に百合子に視線を流すと、百合子も目はジト目だったが口元をニヤケさせつつ返した。

「そうねー、私のファンなんて今時絶滅危惧種だものねー?…あっ、いや、絵里さんの事をどうこう言ってるんじゃないのよ?この人が余計な事を言うもんだからー…って」

とここで百合子は、ふと一人気まずそうな表情を作ると、絵里に話しかけた。

「絵里さんって言ってしまったわ…。今更だけど…あなたの事、絵里さんって呼んでいい?」

「へ?」

絵里は隣に座る私からも分かる程に、鳩が豆鉄砲を食らったかのような表情を見せたが、途端にニコッと明るい笑みを浮かべると

「はい、勿論です!小林さんに名前でそう呼ばれるのは、光栄ですよ」

とまた先ほど見せたテンションで返したので、百合子もまた同じように「あ、ありがとう…」と苦笑を浮かべたが、こちらもこちらで途端に美保子ばりのニヤケ面を見せて返した。

「…じゃあ私も、ここでは皆に下の名前で呼ばれているから…百合子って呼んでね?」

「は、はい」

この提案に対して、絵里は意外だったのかすぐにテンションを戻したが、笑顔で返事を返すのだった。

それからは絵里、美保子、百合子の三人で軽く雑談をしていた。これには、このあと話す事情で混ざらなかったが、それでも片耳で聞こえて来ていた会話を軽く述べると、「頑なに義一の事には触れずに、執拗に琴音の友達を強調していたね?それは何で?」といったものだった。これもチラッと見ただけだったが、それを聞く美保子と百合子の表情は、何か意味深な笑みを浮かべていた。それに対し、何だかきょどりつつ、ちょくちょく義一に横目で視線を送りながら絵里は苦笑気味に相手をするのだった。

で、私はというと、義一と聡と乾杯をした後で、流れとしては当たり前だが、名も知らぬ男性に乾杯をせがまれていた。

「おめでとーう」と声を掛けてきつつジョッキを突き出してきたので、「あ、ありがとうございます」と私も合わせてグラスをそれに当てた。そしてその後、お互いに一口ずつ飲むと、男性が笑顔で話しかけてきた。

「義一から聞いたよー?何でもピアノのコンクールで全国大会に出るらしいじゃないか。それも、僕でも知っているくらいに大きなのに」

「は、はい…ま、まぁ…」

こういう場合、何と返せばいいのか分からずに、結果として何だか辿々しく返してしまった。

すると「ほら武史ー…」とすかさず義一が男性を嗜めるように見つつ言った。

「言ったよね?この子はそんじょそこらの子と違って、自分の功績を盾に偉ぶる様な子じゃないって。そんな褒められ方をされたら、この様に困ってしまうんだよ」

「あ、悪い悪い」

男性は義一に平謝りをすると、そのまま私にもしてきた。

私は何とも思ってない事を示すが為にニコッと微笑んで見せてから、ジト目気味に義一に言った。

「それで言うなら…今の義一さんの言い方も該当する様だけれど?」

「え?あ、…そうかな?」

と義一が惚けて見せたので、私は大きく肩を落として見せつつ

「はぁ…まぁ今に限った事じゃないけど」

とため息交じりに返した。

と、その時「あははは!」と、私たちのやり取りを見ていた男性が笑い声を上げた。

「中々に息の揃った夫婦漫才じゃないか」

「え?」

「だろう?」

私が戸惑い気味に返すその横で、義一が胸を張ってそう返すので

「何が『だろう?』なのよ…?」

と呆れ気味に返すと、そのどこが面白かったのか分からなかったが、義一と男性は顔を見合わせて笑っていた。その様子を冷めた視線を向けていたのだが、結局は絆されて一緒になって笑うのだった。

「おっと…そういえば!」

とここで、不意に聡が声を上げた。それによって今まで歓談していた一同が一斉に視線を向けた。

聡はゴクッとビールを一口やってから、男性と絵里に顔を向けてから、口を開いた。

「まだこの中で、皆が皆知ってる訳じゃない人がいるよな?…なぁ、絵里と、武史。二人には悪いが、一応この集まりの儀式みたいなもんで、軽く自己紹介をしてくれよ」

「え?」

と絵里は声を漏らしたが、男性は一度大きく息を吐くと、少し不満げに、しかし笑顔で言った。

「はぁ…やっぱしなきゃダメなんだな?”今日は”先生いらっしゃらないから、しないで済むと思っていたのに」

「…?」

ん?先生…がいらっしゃらない?

と私は今男性が言った言葉にとっさに反応したが、それは口には出さなかった。一応空気を読んだ形にはなったが、実際にはただ単純にそのすぐ後で聡が「そうは問屋が卸さねぇよ」と男性にニヤケつつ返して、それに対してまた男性が瞬時に反応したからだった。

「そっかー…改めてこんなに見知った人らの前で自己紹介するのも恥ずかしいなぁー…あのー?」

「…え?あ、私…ですか?」

急に男性が何故か絵里に声を掛けたので、掛けられた絵里はまさか話しかけられるとは思っても見なかった様で、少し慌てつつ返した。すると男性は頭を掻きつつ照れ臭そうに言うのだった。

「あ、いや、あのですね…先にあなたから自己紹介をしてくれませんか?レディーファーストという事で…」

「…何がレディーファーストなのよ?」

と途端に向かいに座る美保子からツッコミが入った。

それに対して男性は手で”どうどう”と、興奮気味の動物を宥めるような仕草をして見せつつ返した。

「まぁまぁ…」

「何がまぁまぁなのよ?」

「あ、いや、別に構いませんよ?」

このままではラチがあかないと思ったのか、絵里は笑顔を作って二人に割って入った。

「そーお?…まぁ、絵里ちゃんが良いならそれでいいけど」

美保子は相変わらず男性にジト目を向けていたが、絵里には笑みを向けていた。…一々付け加える事も無いだろうが、別に険悪な雰囲気になっていた訳ではないので悪しからず。

絵里は座ったまま一度一同を見渡してから、笑みを浮かべつつ静かに言った。

「えぇっと…この中の何人かには既に済ませましたが、改めて…私の名前は山瀬絵里と言います。しがない図書館司書をしています。ここにいる琴音ちゃんの友人です。後…」

絵里はおもむろにここで話を切ると、私を挟んだ向こうの義一に一瞥を投げてから、「…そこにいる”義一さん”の…大学時代の後輩です」とウンザリした風で付け加えた。この時ふと向かいの席を見たが、美保子も百合子も、先ほどの様な意地悪げな笑みを絵里に向けていた。絵里はその後また笑顔に戻ると、「今日はお邪魔させて頂いてありがとうございました」と言って話を締めた。と、その直後に「だから堅いってばー」と美保子がニヤケつつ突っ込むと、絵里は苦笑気味にホッペを掻きつつ照れ笑いを浮かべて、その後は一同の間で和かな笑みと共に拍手が沸き起こった。

「…あぁ、あなたが絵里さんか」

とふいに男性がふと独り言の様に言った。

「え?」

と絵里がそう漏らすと、男性は照れ臭そうに笑いつつ、隣の義一の顔を覗く様に見ながら返した。

「あ、いえね?よくこの男から君の話を聞いていたものだから、何だか初めて会う様な気がしなくてね」

「おいおい、何を言い出すんだよ?」

と義一がすぐに苦笑まじりに反応したが、それを聞いた絵里は、クスッと笑ったかと思うと、男性に返した。

「ふふ、どうせロクでも無い話でしょ?」

「いやいや、そんな事は無いよ?いつもこの男は君の話をする時…」「…武史くん?」

と、男性がまだ言いかけていたその時、声にドスを効かせて義一が割って入った。顔は笑顔だったが、声音とのギャップに、変な威厳を生じさせていた。

「もう酔っ払ってるのかな?」

という義一に対して、男性はまた「悪い悪い」と陽気な平謝りをして、その後何故か大げさに着ているスーツの身だしなみをチェックして見せてから言った。

「さて…次は僕か」

と男性はそう漏らすと、一口ビールを煽ってから、絵里に倣う様に一同を見渡し、そして最後に私に顔を止めて、ニコッと笑いながら言った。

「んんっ!えー…僕の名前は中山武史。京都の大学で准教授をしています。専門は政治思想を中心に…って、これはいらないか」

とここで、中山と名乗る男性は不意に隣の義一の肩に手をかけると、そのまま続けた。

「義一とはもう…何だ?十年くらいの付き合いになるのかな?…そっか、で、歳は今年で三十八になります…ってこれもいらないか。呼び方は、ここの慣例通り、名前呼びでいいよ!取り敢えずヨロシク!」

「は、はい…ヨロシクお願いします」

最後の方は、何だか私に向けて言われた気がしたので、ついそう返すのだった。

とその時、ふと武史の名前に聞き覚え…いや、正確には見覚えがあった。

…そうだ、こないだのオーソドックスの最新号で、対談していた中の一人だ。

私はそのまま、武史にその旨を話して見る事にした。

「…あぁ、武史さんって、あのー…シュペングラーの話をしていた…」

「え?」

と先程までニコヤカな笑みを浮かべていた武史がキョトン顔を見せたので、私は慌てて「あ、いえ…何でもないです」と返した。

すると武史はまた一転して満面の笑顔を見せて、義一に話しかけた。「…クク、義一、お前が言うように、本当にこの子は変わっているなぁー。いくら読んだからと言っても、シュペングラーなんて覚え辛い名前をポンと出すなんて、そう簡単な事じゃないよ」

「ふふ、そうでしょ?」

と義一も笑顔で、口調はどこか誇らしげに返していた。

そのやり取りを、今度は私が目を見開かせて聞いていたが、ふと武史は私に顔を向けると、笑顔で話しかけてきた。

「いやー、琴音ちゃん、僕の…ていうか”僕らの”だけど、対談をそこまで読んでくれてありがとう、嬉しいよ。でだけど…」

と武史はここで話を一旦切ると、少し俯いて見せて考えるふりをして見せたが、その直後バッと勢いよく顔を上げた。

「僕らの会話は…君の目から見てどうだった?そのー…面白かったかい?」

「…え?えぇっと…」

さっきまで笑顔だったのが、少し真剣味を帯びた表情を滲ませてきたので少し呆気に取られてしまったが、

「…えぇ、とても面白かったです。それにとても勉強になりました」と微笑みつつ答えた。すると武史もニコッと笑いながら「そっか…それは良かった」と返すのだった。

「…あぁ、確かにどっかで聞いたことがあると思ったら…」

とここで不意に隣の絵里が会話に入ってきた。

絵里はマジマジと武史の顔を見つつ続けた。

「そうそう、ギーさんから毎号貰ってる雑誌の中で、結構なページを貰っている人だ」

と何だか不躾な調子で、言いながら自分で確認するかの様に言うと、「…ギーさん?」とほぼ同時に、武史と美保子から声が漏れた。私と絵里は示し合わせたわけでもないのに、これもほぼ同時に武史と美保子の方を見た。武史も美保子も何だか興味津々な子供の様な表情を見せていた。肝心の”ギーさん”は苦笑とも照れ笑いとも何とも取れる様な、言いようのない笑みを浮かべているのみだ。

絵里は”しまった!”と慌てて口を塞ぐ様な素振りを見せたが、無かったことには出来ないとすぐに察したか、どうして義一に対してそんなあだ名を付けたのか、その経緯を少し照れ臭そうに説明した。義一の”一”部分が、伸ばし棒に見えない事も無いから、それで”ギー”と読む事にしたといった事だ。私と義一、聡の様な事の経緯を知っている人以外は、絵里のその話を興味深げに聞いていた。そして聴き終えると、まず美保子が「いいアダ名じゃない!」と一声を上げると、その後に続く様に一同が美保子に続いて口々に同意の意を示した。それを見た絵里は気を良くしたのか、今度は自分から美保子たちに向かって「やっぱり良いですよねー?」と言った調子で声を掛けていた。

私も一緒になって同調していたが、ふと当人の方を覗き見てみると、義一はやれやれといった調子で頭をゆっくり、しかし大きく横に振りながら苦笑いをしていた。

「私たちもそう呼ぼうかしら?」と美保子が意地悪な笑みを浮かべつつ言うと、「それだけは勘弁してくださいよぉ…その呼び名は絵里で十分です」と義一が疲れ果てた様子を見せつつ返したので、一同はそれで益々笑いが大きくなるのだった。

笑いにひと段落がつくと、ふと何かに気づいた様な表情を浮かべた美保子が絵里に話しかけた。

「あれ?でも今聞いた感じだと絵里さん、あなた、義一君から私達の雑誌を受け取って読んでくれてるのよね?」

「え?は、はい…まぁ一応…」

絵里は何だか歯切れ悪く答えた。

「ならさぁー…」

絵里のそんな様子には気を止めずに、美保子はまたニタァーっと悪巧みをしてる様な笑みを見せると、隣に座る百合子の肩に手を乗せて続けた。

「この集まりに、百合子さんがいる事は想定出来る事じゃなーい?だって、毎号とは言わなくても、年に二度ほどは寄稿しているんだから。小林百合子名義で」

「そういえば…」

と肩に手を乗せられたまま、百合子も通常通りの薄幸な笑みを見せつつ絵里に視線を送った。すると絵里は痛いところを突かれたと言いたげな苦笑を浮かべると、少し言い辛そうに答えた。

「いやぁー…勿論ここに集まる皆さん方というのが、あの雑誌関連である事はギーさんに教えられたりして知っていたので、そのー…その皆さんの前で言うのも何ですが…要は、そんなにちゃんと読んでいないんです」

「…」

絵里の独白を、一同は静かな表情で見つめながら聞いていた。

絵里はその視線が痛かったのか、不意に顔を逸らし、その先にあった義一の顔を見つめると、少し落ち着いた様子を見せて、そのままの体勢で先を続けた。

「大体そのー…ギーさんの所を最初に読むんですけど、そこで力が尽きてしまい、他の皆さんの所はー…軽く読み飛ばしてしまってるんです。だからえぇっと…百合子さん、あなたがここに寄稿されてた事自体、今まで気付かなかったんです。そのー…すみません」

絵里はそう言い終えると、座ったまま深々と頭を下げた。そして顔を上げると、相変わらず一同は何も言わずにジッと絵里の方を見ていたが、沈黙に耐えきれなかったのか、「…ぷっ」と噴き出す者がいた。見ると、やはりと言うか…それは美保子だった。

美保子は吹き出した後は「あははは!」と一人で豪快に笑い声を上げたかと思うと、笑みを絶やさぬまま絵里に話しかけた。

「はぁーあ、よくまぁ私達本人の前で正直に言ってくれたねぇー?…ふふ、いや、さっきも言ったけど、パッと見常識人に見えて、結構ズカズカと言うタイプなんだねー。変わっているよ」

「ふふ、そうね」

とそれに答える形で百合子も、口元に手を添えつつ上品に笑みを浮かべていた。

「確かに!」

と次に声を上げたのは武史だ。やはり笑顔だ。

「僕たちの書く文章ってのは、無駄に内容が難しい上に、誰も彼もが良く言えば個性的、率直に言えば悪文っていう、いわば全く人に読ませる様な文章でも無いし、それを読み飛ばさず読んでくれていっても無理があるよなぁー」

「そうそう!」

とすかさず聡も同調する。義一は一人黙っていたが、表情はとても柔らかな微笑を湛えて、静かにビールを煽るのみだった。

何度かここに来て、ここに集まる人の性質をそれなりに分かっていた私は、今のこの状況は想定内だったので、ただにこやかに楽しんでいたのだが、当の絵里は当惑した表情を見せて一同を見渡していた。

「あ、あのー…」

と絵里がおずおずとした調子で小さく声を出した。小さかったのにも関わらず、皆は一斉に口を閉め、顔には笑みを浮かべつつ黙って先を待った。

「いやぁー…自分で言っておいて何なんですが…気を悪くされなかったんですか?」

「え?”気”ー?…気ねぇー…どう?」

と美保子がまた百合子に話しかけると、百合子は「んー…」と声を漏らし、可愛らしく人差し指を立てて、その先を顎に当てつつ応えた。

「別に…ねぇ?」

「ふふ、絵里さん」

と不意に武史が、優しい微笑を湛えつつ絵里に向かって口調も柔らかく言った。

「僕を含むここに集まる人種っていうのはね、言うなれば、大昔…そう、それこそ幼少期からずっと少数派として世間に受け入れられないままに生きてきたんだ。それを今更…自分たちの書いたり言ったりする事について、読み飛ばされたりしたくらいで、『まぁ、そんなもんだろう』ってな感想しか持たないんだよ。だから怒るだなんてそんな…むしろ、大体において無視されることの方が多いのに、読み飛ばすってことは、少なくても読んではくれているって事だから、むしろ感謝をしたいくらいだよ。…皮肉じゃなくてね?」

そう言い終えると、ニコッと悪戯っ子風に笑って見せた。最初の方で描写した様に、女顔の為に年齢不詳に感じる義一とはまた別の意味で、リス顏のお陰で年齢不詳の武史がそう笑うと、益々顔が幼く見えた。

武史がそう言い終えると、義一を含む一同が、絵里の方を向き、ただ黙って笑顔で頷いて見せていた。

「そ、そうなんですか…」

「…ふふ、絵里さん?」

とまだ一人納得がいってない様子の絵里に向かって、百合子が小さく微笑みつつ言った。

「次からは…私を含む他の人のも読んで欲しいな?」

「は、はい」

と相変わらず動揺が隠せない様子だったが、それでも絵里は笑顔を見せてそう返した。とその時、ふと美保子がまた口を開いた。

「そんなことよりもさぁー?」

その表情は、また意地悪げな笑顔だ。

「それでも義一くんのパートは、ちゃーんと読んでいるのよね?…それは何で?」

「…え?」

と絵里はさっきとは違った意味で戸惑いつつ、ただそう漏らすと、それを聞いた百合子もウンウンと頷き、美保子と同じような笑みを浮かべて、黙って答えを待っていた。

「…あっ!」とここで何かを察したか、絵里は急に声を上げると、義一に横目で視線を送りつつ、「いやいやいやいや!」と両手をバタバタ振りながら返した。

「み、皆さんが思われている様な理由ではありませんから!」

「皆さんが思われてるって?」

とここで何故か義一が、呑気な声音で横から入ってきた。

「皆んなが何を思うって言うんだよ?」

と義一が言うと、「え、あ、いや、その…」と直後には相変わらずアタフタと慌てて見せていたが、しばらく義一の顔を見ていると、その呑気さが影響してきたのか、徐々にテンションが落ち着いてきて、終いには顔に呆れた感情を見せたかと思うと、口調もそれに合わせる様に言った。

「はぁー…あなたには一生分からないわよ。朴念仁にはね?」

「朴念仁か…」

それに瞬時に反応を示したのは武史だった。武史も絵里に合わせてなのか、顔に呆れ笑いを浮かべつつ、義一に視線を流しつつ「違いない」とだけ言った。その直後、ドッとまた一同が同時に笑い声を上げた。わたしもつられる様に笑った。隣を見ると、絵里も明るく笑っていた。「何だよ皆んなしてー…」と義一一人が不平を漏らしていたが、顔には笑みを覗かせるのだった。

まだ笑いが収まりきらないその時、不意に部屋のドアが開けられた。

ドアを開けて入って来たのは、ジャケットにネクタイとカジュアル気味の正装をした老齢の男性だった。真夏日だというのに、その老人はジャケットの下に同色のベストを身に付けていた。年齢はおそらく六十を越えてはいるのだろうが、頭髪は豊かで、ロマンスグレーを真ん中で分けていた。これだけ聞くと、何だか初めて来た時にお見かけした小説家の勲とそっくりに感じるだろうが、実際はかなり違っていた。勲は目をギョロつかせる様な、ある種異様な雰囲気を醸し出していて、言ってはなんだが近寄りがたいオーラを身に纏っていたが、こちらの老人は目元がずっと緩みっぱなしで、目の周りのシワが良い具合に強調されて、神谷さんとはまた別の種類の好々爺といった風情だった。髪型も、勲さんはストレートのお陰か頭蓋骨の形そのままにピタッとしていたが、少し癖っ毛なのか、この老人の場合は何とか撫で付けてるつもりなのだろうが、少しふっくらと膨らみを見せていた。とまぁ、そんな外見だった。

もちろん初めて見た人だったので、思わずジーッと老人の一挙一動を見守っていた。

老人は座る一同を軽く見渡すと、やれやれと笑顔で顔を横に振りつつ声を出した。

「やれやれ…いや、ごめんなさいねぇー?もっと早く用事が済むはずだったんだけれど、何だか長引いちゃってねぇ」

そう話す老人の声は、外見からも明るい人なんだろうとは予測していたが、実際はそれ以上に声のトーンが高く、そして所々で裏返ってしまっていた。声帯はそんなに強くないらしい。

「おぉー、久し振りですな寛治さん」

聡はおもむろに立ち上がると、手招きしながら老人を呼び寄せた。

老人は笑顔を絶やさぬまま、聡に促されるままにこちらに近づいてきて、そして聡の左隣、いつもなら神谷さんが座っている位置から一席分ズレた位置に座った。そこがおそらく普段からの座り位置なのだろう。

老人は座ると、まだ笑顔のまま聡に返した。

「うん、久し振りだねぇー。僕自身、なかなか日本に帰って来れないせいなんだけど…あっ!」

と老人は、ふと美保子の方を見ると、ますます笑顔の度合いを強めて声をかけた。

「おやおや、美保子さんも来てたんだぁ。お互い普段はアメリカにいるとは言え、なかなか会うこともないからねぇ」

「…ワザとらしい」

とそう返す美保子の顔は、悪戯っぽい笑みで満たされていた。

「私が今日ここに来る事は、事前に話してたじゃないですかぁー」

「あれ?そうだっけ?忘れてたよぉー」

「まったくー」

と、こんな具合なやり取りを見せられつつ、やはり第一印象通り、なかなかに茶目っ気のある老人だなぁ、といった様な感想を抱いていると、ふと老人が私と絵里の方に視線を向けてきた。

そして数秒間私と絵里の顔を見比べていると、不意に義一に話しかけた。

「で、えぇっとー…?見知らぬうら若き女性が二人もいるけれど…どちらが噂の琴音ちゃんかな?」

「え?」

急に”噂の琴音ちゃん”だなどと名指しされてしまったので、すぐには何だか名乗る気になれずに、ふと隣の絵里に顔を向けたが、その時丁度絵里の方でも私の方を見てきていた。おそらく私もだろうが、絵里もキョトン顔をしていた。

「あはは。琴音ちゃんは…」

義一は軽く笑って見せてから、ふと私の背中に手を触れて、

「…彼女ですよ」

と顔を老人に向けたまま答えた。

「へぇー…この子がねぇ」

先程までとは打って変わって、目を大きく見開きつつ、手で顎をさすりながら、遠慮もなしに私のことをマジマジと見てきた。私は何だかデッサンされている様な気にさせられたので、微動だにせずにいたが、老人は満足そうに笑顔を浮かべてウンウン頷いて見せると、私と義一の中間辺りに顔を向けつつ言った。

「なるほど。いや、神谷先生には事前に年齢の事だとか聞いてはいたんだけれど…お二人とも何だか歳がパッと見では分からなかったから、すぐに気付けなかったよ」

「いやいや、そんなぁー」

とここで絵里が照れ臭そうにホッペを掻きつつ声を漏らした。私個人の見解だが、ここにきてようやく絵里の緊張の糸が緩んだ様だった。その証拠に、こうして初対面の老人に対して自分から話しかけたからだ。

「お世辞がお上手ですね?中学生の彼女と、三十路の私なんかで迷われただなんて」

「いやいや、お世辞じゃないよ…って三十路?」

「はい」

老人のその様な問いかけに、絵里は満面の笑みで答えた。

一般的にはこんな事を聞かれては、少なくとも良くて苦笑くらいは浮かべるところだろうが、普段から義一と付き合っているせいか、もしくはここの不文の仕来りや空気に慣れてきたのか、もしくはその両方か、まぁ元々気にするタイプではないのだが、満面の笑みで答える絵里の様子を見て、何故だか心の中に嬉しさとしか言いようのないものが溜まるのを感じた。

そう返された老人は、何かを察した様で、ふと義一に顔を向けると笑顔で話しかけた。

「…あぁ、彼女かね?よく君が話す絵里って子は?」

「え?」

と声を漏らした絵里の表情は、何だか表現しにくいものだった。先程も武史に振られた話題ではあったが、それは予め義一との仲良さげなやり取りを見ていたのもあって、歳の近いもの同士、そんな話もするのかも程度には予想が出来たのだろうが、今回は少しばかり違った様だ。

「え、あ、まぁ…そうですね」

と義一も、何だか言いにくそうに、少し躊躇いがちに答えた。

「どうせ…」

とここで気を取りなおす…いや、空気を変えるためか、急にニヤッと笑いつつ

「その話というのは、私についての悪口なんですよね?」

と絵里が老人に言った。それに対して

「いやいやー、悪口なんてそんな…いつも彼から聞いてる話は…」

とここまで老人が言いかけると、

「別に大した事は話してないよ?」

と急に義一が横から入り込んできた。絵里に向けたその表情は、目だけ細めて、口元はニターッと意地悪くニヤケさせていた。

「普段の、ありのままの、等身大の絵里の事を話していただけさ。…一年先輩であるはずの僕に対しての仕打ちだとかね?」

「えー?何よそれー?」

と絵里も負けじと同じ様な表情を向けて返した。

「ギーさんみたいな変人に対して、私ほど優しく慈悲深く接してあげてる人もいないと思うけど?」

「…あれで?」

「…ギーさん?」

ニヤニヤしながら二人のやりとりを眺めていた老人がそう漏らすと、すかさず隣に座っていた聡が耳打ちで教えてあげていた。

その間もまだ二人の軽口合戦は続いていた。

「私のありのままの姿を話してくれたって事は、余程良い内容なんでしょうねー」

「…はぁ」

とここで義一は見るからに大きく肩を落としてため息をついて見せた。そして絵里に対して、憐れむかの様な視線を向けた。

「絵里は本当に幸せなんだなぁ」

「…?どう言う意味よ?」

「だって…」

とここでまた先程までの表情に戻ると、おどけて言った。

「仮に実際とは違っても、それだけ自分の姿をよく妄想出来るっていうのは、とても幸せじゃないか?」

「…?…あっ!って、あのねぇー…」

絵里は初めのうちは言われた事をすぐには飲み込めなかった様だが、ハッとあからさまに気づいた様子を見せると、途端にジト目で不満げな声を上げた。

「…ふふ」

と私はここにきてこらえきれずに、思わず吹き出してしまった。

この数寄屋に絵里がいるという非日常、それにもかかわらず、普段からよく展開されている様な軽口合戦という日常を見るという矛盾、それが何だか面白くてついつい笑ってしまったのだった。

すると、それを合図にしたかの様に、一人、また一人と笑いをこぼしていくと、遂には義一と絵里も、一度二人して私の顔を見て、それからお互いの顔を見合わせ、ほんの一瞬見つめ合ったかと思うと、プッとほぼ同時に吹き出し、そして笑い合うのだった。

とその時、

「もしもーし?」

と背後から声が聞こえた。振り向くと、ドアのところにトレイを持ったママが、こちらに呆れ笑いを向けつつ立っていた。

「そろそろ皆さん、お喋りも良いけど、お食事にしません?」


「はいどうぞー」

「あ、ありがとうママさん」

ママに笑顔で差し出された飲み物を受け取りつつ、老人は笑顔で応じていた。その飲み物は、照明が薄暗いせいでハッキリとした色は分からなかったが、少なくともお酒には見えなかった。何かしらのジュースに見えた。

「さてと…じゃあ食事を」

とママが行きかけたその時、

「あっ、ちょっと待ってくれ」

と聡が呼び止めた。

「いや、まだ寛治さんの自己紹介が終わってないから、大体でいいから、その頃合いを見計らって持ってきてくれる?」

と聡が言うと、ママは一度一同を見渡してから、フゥと一度息を吐いて、「はいはい、分かりましたよ」と呆れた笑いを見せつつ部屋を後にした。

ママが出て行った後、老人は苦笑いを浮かべて言った。

「…あぁ、そんな習慣もあったねぇー…ここ最近、新顔が来てなかったから、すっかり忘れていたよ。…でもー」

と、ふと神谷さんがいつも座っているあたりに目を落としつつ続けた。

「今日は先生がいないんだし…しなきゃダメかな?」

「ダメですよ?」

とここで瞬時に口を挟んだのは武史だった。武史は口元をニヤケつつ続けた。

「僕だってしたんですから、寛治さんだけ無しってわけにはいけませんよ」

「あぁそっかぁ…君もしたんだね?いやー…見知った中で改めて自己紹介をするというのは、恥ずかしいんだけれど…」

と老人は、これまたさっき武史がボヤいたのと全く同じ内容を漏らしていたが、諦めをつける様に一度息を吐くと、私と絵里の方に顔を向けて、笑顔で話してきた。

「えぇー…僕の名前は佐藤寛治と言います。普段はアメリカのワシントンでチョコチョコと動き回って過ごしています。えぇっと、他に何を言えばいいのかな…?あ、あぁ、歳は今年で六十三になります。んー…まぁ、そんな感じでよろしくね」

どんな感じだ?

と思わず反射的に突っ込みを入れたくなる様な自己紹介だったが、「はい、よろしくお願いします」と一応笑顔で返すのだった。

ただ情報が何だかあやふやだったので、ついついあの悪いクセが発動しそうになり、口から言葉が漏れそうになったその時、横から義一がまるで私の心を読んだかの様に、寛治の話に付け加えてくれた。

「ふふ、寛治さんは謙遜を含めてあゝ話したけれど、僕から少し詳しく言うとね、ワシントンというアメリカの首都で、その政治の中枢まで入り込んで、向こうの高官レベルの人と対等に議論を交わす様な人なんだ。これは違う人から聞いた話だけれど、この先生、アメリカの悪口ばかりを言うから煙たがられてはいるんだけれど、その反面とても面白がられてるって話なんだ」

「へぇー…じゃあ寛治さんって、政府の人なの?」

と私が当然の帰結としてそう聞くと、寛治は一瞬目を見開いたかと思うと、「ヒヒヒヒ!」という、声を裏返しつつとても特徴的な笑い声を上げた。あまりにあっけらかんと笑うので、思わず一緒に笑ってしまうほどだった。

寛治はその笑みを絶やさぬままに答えた。

「いやいや、僕みたいな好き勝手喋る様な輩は、とてもじゃないけど、今の日本政府の中には入らせて貰えないよ。…偽善で凝り固まった”ポリティカリーコレクトネス”を尊重する様なね」

「”ポリティカリーコレクトネス”っていうのはね?」

と、私が質問する前に義一が横で注釈を入れてくれた。

「まぁ…”政治的正しさ”くらいな意味だよ」

「そうそう!」

とさっきからヤケにハイテンションで寛治が応じていたが、ふと私の中でまた”なんでちゃん”が目を覚まし起き上がった。私個人としては当たり前の疑問が湧いたのだ。

ただ本来ならすぐに質問をするのだが、今回は少しばかり勝手が違っていた。何せ今日は…言うまでもなく絵里が同席していたからだ。

私が小学生の頃に絵里が言った事、『質問をする前に、取り敢えずでも構わないから自分の意見をまず持ってからでなきゃダメ』というアレだ。私はこれまでも何だかずっと胸の中を占めているこの言葉、質問する度に胸に去来しないことが無かったが、それが今回はその元が隣にいるのだ。自然と少し構えるのも無理はないだろう。…まぁもっと単純に言えば、絵里に突っ込まれるのを恐れていただけなのだが。

それはともかく、絵里を横目でチラッと覗くと、絵里も丁度私の方を微笑みつつ見てきていたので、間に合わせに微笑み返した。取り敢えずこの場は引き下がることにした。

何も慌てて今聞くこともないだろうと判断したからだった。

とその時、ふとドアが開けられ、それと共に食欲をそそる料理の薫りが今座っている席まで漂ってきた。それに誘われる様に後ろを振り返ると、いつもの様にママとマスターがそれぞれ二つのカートを押して入ってきた。

ママと目が合うと、ニコッと私に微笑んで、それから一同をそのままの笑顔で見渡してから言い放った。

「そろそろ頃合いでしょう?お食事の時間ですよ」

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