第4話 数寄屋 b

普段と変わりなく、マスターとママがテキパキと効率よく大皿に乗った多種多様な料理と、人数分の小皿などを配膳していった。途中からはマスター一人に任せると、ママは一人一人に飲み物のお代わりを聞いていった。皆はお代わりを頼んでいたが、種類は変えずにいた。これもいつも通りだ。私も相変わらずのアイスティーだ。

「えぇーっと…絵里さん、よね?」

私の注文を聞き終えた後、ママは笑顔のまま絵里にもお伺いを立てた。

「え、あ、は、はい…絵里です」

と絵里は何だかぎこちない調子で、顔も合わせたかの様な笑みを浮かべて返した。

そんな様子が面白かったのか、ますます笑顔雨の度合いを強めつつ、絵里の前に置かれた空のワイングラスを指しつつ聞いた。

「どうだった、そのワインは?お口に合ったかしら?」

「え、えぇ…まぁそのー…」

とまだ拙いままに返していたが、

「えぇ、お世辞じゃなく本当に私好みの味でした!」

と、途中から普段の調子に戻って返事した。

それを聞いたママは笑顔で腰に両手を当てて「そっか、それは良かった!」と満足げにウンウン頷いていた。

「流石はソムリエさんですねぇー。初対面の私の好みを、ほんの少しの会話なりから察して、合ったワインを出せるんですから」

と絵里が自然体で心から感心している風で言うと、「ふふ、ありがとう」とママは初めのうちは明るく返していたのだが、その直後、途端に何だか気まずそうな、照れ臭そうな笑みを浮かべたかと思うと、横目でチラッと、寛治や武史達と談笑している義一の方を見つつ、絵里の顔の側まで自分の顔を近づけて、今度は悪戯っぽく笑い、

「何でそこまで分かったのかというマジックのタネは、食後にあなただけに内緒で教えてあげる」

と言い終えると、最後にウィンクをした。

「は、はぁ…」

絵里がまた戸惑いの表情を見せたが、それには構わず、ママは足取り軽やかに、自分の押してきた今は空になったカートを押して部屋を出て行った。

それからは何食わぬ顔で注文された飲み物のお代わりを持ってまた入ってきて、それを各々の前に置いて、配り終えると「ではごゆっくりー」と、これまた毎度の間延び気味の声と共に、無言のマスターと共に部屋を後にした。

「さて、皆に飲み物と食事が渡った所で…」

聡は一同を見渡しながらそう声を出したのも束の間、途中で寛治に視線を移し、

「では今日は、年齢順ということで、ここは寛治さんに音頭を取って貰いましょう」

「えぇー、僕ー?…仕方ないなぁ」

寛治はいかにも面倒だという感情を惜しげも無く顔中に浮かべていたが、それでもわざわざその場で立ち上がり、飲みかけの野菜ジュースの入ったグラスを高く掲げ、私の方をチラッと見て、ニコッと笑ったかと思うと明るく声を上げた。

「では…今日の主役は琴音ちゃんの様だから、そのー…取り敢えず、琴音ちゃんの前途を祝して…かんぱーい」

「かんぱーい」

カツーン

それからはまた一同からお祝いの言葉を貰った。そして、最後に寛治からも「おめでとう!」と短かめのお祝いの言葉を貰った。それに対して私も短く「ありがとうございます」と同じ様に短く笑顔で返すのだった。

それから暫くは、出された料理に皆して小皿に思い思いに取りつつ、雑談しながら食事した。料理の内容は、やはり幾らかの小品に変化はあったが、大体前からと大きな変化は無かった。尤も、私は今回で三度目だが、メンバーもほぼ同じなのだから仕方がない。ただそれは、メンバーが変われば料理も変わるという事なので、大皿に乗った料理にも品が少しばかり増えていた。具体的には三品だ。寛治の側に置かれたお皿の上には、ズッキーニとシイタケをオリーブオイルで炒めて、塩、胡椒、砕いたパルミジャーノチーズを入れてさっと混ぜあわせた物だった。武史の側には、餃子と、パッと見つくねに見えるが、鳥の挽肉にシソと生姜を加えて、それをラップでソーセージ状に丸めて包み、冷蔵庫に暫く置いたそれを熱したフライパンで焼いた、所謂皮なしのソーセージが乗っていた。そして私と絵里の側には、私の好物である鳥の唐揚げに、それと共に下ごしらえを施した鳥の挽き肉を粘り気が出るまで捏ねて作った肉ダネを、ピーマンに詰め込んで、熱したフライパンで焦げ目がつくまで焼き、その後は弱火で蒸し焼きにした、通常のよりも少し凝ったピーマンの肉詰めが乗っかっていた。

私と絵里の好物は被っていて、特に肉においては、何を置いても鳥肉が好きだというのが共通していた。だから前回までの食事にも、何かしらの鳥肉料理が出されていたのだった。絵里については、それをどこで知ったか、ママとは別に、マスターはマスターでしっかりと好物を把握していた。

私の分は、普段は義一が選り分けてくれていたのだが、今回は絵里が何も言わずとも率先してしてくれた。

「はい、琴音ちゃん」と絵里が渡してきたので、「うん、ありがとう」とお礼を言いつつ受け取ると、美保子がテーブルの向こうから「絵里ちゃんって、案外女子力高いのねー」と悪戯っぽく声をかけてきたので、すかさず「”案外”は余計ですよ」と絵里は突っ込んでいた。その二人の様子を見て、私と百合子は顔を見合わせて微笑み合うのだった。絵里はすっかり初対面にありがちな”壁”が薄れた様で、傍目からみると普段通りに見えた。

それからは美保子、百合子、絵里、そして私の女四人で、取り止めのない話をした。

「へぇー、絵里ちゃん、日舞の名取なんだ」

美保子が声に感心している様な雰囲気を持たせつつ言った。

「まぁ…それこそ名ばかりですけれどね」

と絵里は照れ臭そうに、私にチラッと横目を向けつつ少し恐縮しつつ答えた。それに対して私は意地悪っぽくニターッと笑い返すのみだった。

絵里が私に向けた視線には、少し恨みがましさが滲ませてあった。まぁそれも然もありなんといったところだろう。何故なら、誰にも聞かれていないのに、私がポロッと絵里の正体をバラしてしまったのだから。絵里は基本的に自分が日舞の家庭だというのを伏せたい体らしかったが、これは私の勝手な我儘だと知りつつも、ことこの数寄屋に集う様な美保子や百合子といった、芸に通じている人に対しては、バカにしているつもりは無いが一介の図書館司書としての絵里よりも、日舞の名取としての絵里を紹介したかったのだ。

それからは美保子と百合子の質問ぜめが始まった。私はそれをニコニコしながら聞いていたが、話の流れの中で、この時に新しい情報が手に入った。実は百合子は二十歳までバレエに真剣に取り組んでおり、わざわざパリの養成スクールまで行こうかというところまでいっていたらしい。これを聞いて、話に夢中になってる百合子の顔を見つつ成る程と思った。身長は今年でとうとう追い抜いてしまったが、それでも女性としては背が高い方の百合子のスタイルは、どのパーツも程よくシュッとしまっており、パッと見細身に見えるのだが、どこかしなやかな筋肉が内在されている様にも見えていたからだ。恐らく十代の頃までに培われたものが、今の百合子を支えているのだろう。ここでは軽くしか触れられないが、以前にマサさん経由で教えられた様に、一五歳の時に女優デビューしているわけだが、その理由というのも元々はそれが何かバレエの役に立つのでは無いかとの考えからの様だった。これは本人が恥ずかしそうに話していたが、何でも街を歩いていたら、律や私が遭遇した様なスカウトに勧誘されて、一度は断ったらしいが、その道をよく通っていた百合子の顔をスカウトの方が覚えていて、見かける度に同じ様に話しかけてきたらしい。繰り返しそんな事が起きると徐々に百合子の方で考えが変化していって、まぁそんなに言うのならと折れてこの世界に入ったというのが本当の様だった。ここからは百合子本人は絵里に対して苦笑いを浮かべて、しかしあっけらかんと言うところによれば、結局バレエダンサーへの道は険しく、高い壁に阻まれたというんで、二十歳になるかならないかという一時期は自暴自棄になっていたらしいが、名前は出さなかったが、デビュー作以来会ってなかったマサさんと不意に再会し、そこで意気投合してタッグを組み、それからは数々の作品を作っていく過程で、徐々に傷ついた心が癒されていったという話だった。

初めのうちは、私が秘密を漏らした事で少し不満げに不機嫌な様相を示していたが、次第に百合子のそんな話に飲み込まれて、最後は自分から日舞について話をし出すまでになっていた。

百合子の話が終わり、今度は絵里が自分の日舞の経歴について話をし出そうとしたその時、ふとさっき沸いた疑問があったことを思い出した。

横目でチラッと絵里を見ると、とても楽しげに夢中で話をしているのを確認して、今まで体を若干女グループに向けていたのを、反対の男グループにクルッと向きを変えた。

ちょうどその頃、義一、聡、武史、寛治の四人は、近況報告が終わった辺りのようだった。

とこの時、ビールに口を付けていた武史と目が合った。

武史はジョッキから口を離すとニコッと笑いながら、ジョッキを軽く持ち上げつつ話しかけてきた。

「…おっ、琴音ちゃん、楽しんでるかい?」

「は、はい」

「そっか!」

とここで武史がおもむろにジョッキを私に近づけてきたので、恐らくその事だろうと、私も手にグラスを持ち、それをカツンとぶつけた。

「お、分かってるねぇー」

武史はそうまた笑顔で言うと、グビッと一口やるのだった。私も倣ってストローから一口分啜った。

「でも何だか感慨深いなぁ」

と何の前触れもなく口を開いたのは寛治だった。

寛治はお酒を飲んではいないはずだったが、心なしか顔が上気している様に見えた。口調も若干ふわふわしている。

寛治は私にニコニコと人好きのする笑みを向けてきつつ話しかけてきた。

「君のことは大分前から、そこにいる義一くんから聞いていたんだよ。何かにつけて外見と内面を褒めちぎってくるものだから、せめて写真だけでも見せてよって頼んでも、それは頑なに見せてくれなかったからさぁ…こうして今日実際にお目にかかれて光栄だよ」

と何だか最後に大げさに仰々しく言われたので、影で私の話をした事について、さっきの絵里の様に意地悪く突っ込もうかと思ったが、興が削がれてしまい、「あ、いえいえ…」とだけ返した後、そういえばまだ寛治に対して自己紹介をしていない事に気づき、この時に慌ててしたのだった。

自己紹介を終えると、寛治は「うん、これからも、雑誌共々よろしくね」と笑顔で先ほどの武史の様にグラスをこちらに差し出してきたので、「はい、お願いします」と私も同じ様に前に突き出して合わせた。

そしてお互いに一口ずつ飲むと、おもむろに義一が私に顔を向けて口を開いた。

「寛治さんは、僕らの雑誌の黎明期から寄稿されていてね、ずっとアメリカ政治の事とか、それに加えて世界情勢についての話を書いて貰っているんだ」

「へぇー」

「寛治さん…ってあれ?寛治さんはアメリカに行ってどれくらいになるんでしたっけ?」

と義一が聞くと、寛治は「うーんっとねぇー…」と語尾を伸ばしつつ考えて見せたが、息が切れるちょうどその時、ハッとした表情を見せると、笑顔で答えた。

「確かー…ワシントンには三十年くらいになるのかな?…って」

とここで、寛治は私に向かって何だかバツが悪そうな表情を見せると、

「僕みたいな変なおじさんの経歴なんか聞いても、面白くも何ともないよね?」

照れ臭そうに言ったので、私はこの時正直どう言う態度を取ろうか悩んだが、一度義一にニターッと意地悪く笑って横目を流し、視線をそのままに顔を寛治に向けると、生意気な調子で返した。

「いえいえー、変人なのは、ここにいる義一さんで慣れていますので。むしろ…そんな人のお話をお聞きしたいです」

「ヒドイなぁ」

と隣の義一は苦笑いを浮かべつつそう突っ込んできたが、それには相手をせずに、寛治の反応を待った。

寛治は私の返しを聞いた瞬間はぽかーんとしていたが、すぐに例の「ヒヒヒヒ!」という特徴ある笑い声を上げた。

「いやぁー、なかなかの跳ねっ返り具合だねぇー…気に入ったよ!」

寛治は益々声を裏返しつつ言ったが、ここで一度クールダウンをする様に一度大きく息を吐くと、笑みを湛えたまま話し始めた。

「んー、何から話せば良いかな?…ま、そっか、時系列で述べるのが一番手っ取り早いね。神谷先生の話もしやすいし。僕はね、十八の時に駒場の経済学部に入ったんだけれど、その時ちょうど、神谷先生が准教授として入られたんだ。でね、先生はゼミを持たれていたんだけれど、それが結構人気があってねぇ…自分で言うのも変だけれど、昔から天邪鬼なところがあって、それなりに勿論興味があったし正直ゼミに入ってみたかったんだけれど、人気があったから結局やめちゃったんだ。だから、僕が先生と知り合うようになるのは大分後なんだけれど…って、こんなグダグダと話していて良いのかな?」

「琴音ちゃん、どう?」

まず寛治がまた苦笑いを浮かべつつ聞いてきた後に、すかさず何故か駄目押しをする様に義一も問いかけてきた。私は笑顔を浮かべて、「えぇ、構いません」と返した。

寛治は「そうかい?」とまだ表情を変えないままでいたが、そのまま話を続けた。

「じゃあいっか。でね、その時いつも連んでいた友達がいてね、今も関係が続いているんだけれど、そいつが神谷先生のゼミを受講していてさ、何かとその中身の話をしてくれたんだ。そいつの名前は佐々木宗輔っていうんだけれど…」

「佐々木宗輔…あっ」

どこかで聞いたことがあると思えば、それは雑誌オーソドックスの顧問の一人だった。因みに顧問という肩書きが付いているのは、神谷さんと佐々木って人の二人だ。

「雑誌の中で、いつも神谷先生の隣に書かれている人の事ね?」

と思わずそう声を漏らすと、寛治と義一、そして何故か武史までもが私に笑顔を見せた。

「そうそう、良く見て覚えていたね」

と義一が話しかけてきた。

「う、うん、まぁ…」と、それに対して何と返せば良いのか分からず、取り敢えず間を埋めるためだけにアヤフヤな返しをすると、今度は寛治が話を続けた。

「そうそう、雑誌で先生と一緒に顧問をしてるヤツ。アイツはね、実質先生の一番弟子でね、要はそこにいる聡君の兄弟子って事になるのかな?」

「いやぁー、照れるね」

聡は一人何故か照れ臭そうに笑っていた。

「それでね、奴は今は京都の旧帝大で人間社会学の教授をしているんだ」

「へぇー…随分と息の長い師弟関係なんですね」

「うん、そうだねぇ」

「そう!」

とここでまた義一が口を挟んだ。顔には悪戯っ子の様な笑みを浮かべている。

「僕と違って、正式な弟子って感じなんだよ。まぁ…たまに雑誌の企画で東京に来られる事もあるんだけれど、僕でも滅多には会えないんだ」

「ふーん…って、あ!」

段々話が逸れてきている気はしたが、持ったが病で、思いついた事を言わずにはおれない浅ましい性分が故に、私から武史に話しかけた。

「ということは…武史さんは、その佐々木さんと何かしら関係があるんですか?そのー…同じ大学に所属してますし」

そう私が聞くと、「おー!」と武史は大袈裟に声をあげて見せたかと思うと、ニコッと笑ってから「そうだよ」と返した。

「もうね、関係があるのかっていうか、大有りだよ。何せ僕は佐々木先生の弟子なんだからね」

そう言う武史は、気持ち胸を張って見せていた。

「なるほどー、という事は神谷先生にとっては孫弟子という事になるんですね?」

「そう、そういう事」

武史はまたニコッと笑った。ただでさえベビーフェイスなのに、この様に無邪気に笑うと、何割り増しか益々実年齢よりも幼く見えるのだった。

「まぁ何だか脱線しちゃったから話を戻すと」

寛治はまた穏やかな笑みを湛えつつ言った。

「宗輔はそのまま先生の元で勉強をしていたんだけれど、僕は卒業してアメリカに渡ったんだ。僕も一緒に勉強しないかって誘われたんだけれどね」

「…どうしてその誘いに乗らなかったんですか?」

私はまた頭に浮かんだ疑問をそのまま投げかけた。すっかりすぐ脇に絵里がいるのを忘れてしまっていたが、この時は運良く突っ込まれる事は無かった。まぁ突っ込まれなかったが為に、拍車がかかったとも言えるけど。

初対面に等しい私の遠慮ない問いに、寛治は嫌な顔を一つせずに、答えた。

「うん、それはねー…んー…少し込み入った話をしても良いかな?」

答えてくれるものとばかり思っていたのに、急にここに来て初めて少し真剣味を帯びた表情を見せたので、これまた急だなとあっけに取られてしまったが、ハッと思い付くと、ミニバッグからいつもの癖でメモ帳を取り出し、ペンを手にして「はい」と短く返した。

そんな私の様子を見て、宗輔だけではなく武史も一瞬目を丸くしたが、すぐにフッと力が抜けた後の様な柔らかな笑みを浮かべて見せた。これは私は気付かなかったが、後で聞いた話では、この時女三人組の雑談に一区切りがついた様で、絵里を含めた三人共が、私たちの方に注目していたらしい。

それはともかく、寛治は私がメモを用意した事には触れずに、口調も柔らかく、相変わらず所々声がひっくり返りながら話した。

「今でもそうなのかなぁー…うん、今の日本の政治状況を見る限り変わってないんだろうけど、僕が通っていた駒場にはね、教養学部っていうのがあったんだけれど、その中に通称アメリカ学科というのがあったんだ。正式名称は、今ちょっと思い出せないけれどね。僕はさっき言った通り経済学部に在籍してたんだけれど、他の学部の授業も受講出来たから、試しに入ってみたんだ。まぁ昔の経済学というのは、いわゆる”マル経”か、それとも無きゃ今もだろうけど学ぶのはアメリカ仕込みのモノだって相場が決まっていたから、そのふた通りしかないのなら仕方ないと、アメリカンな方を選んだけど…って、いやぁー…こんな話、話すのはー…」

とここまで話したところで、不意に寛治は語尾を伸ばしつつ、まず私、そしてその後に義一の方を見て、何だか顔色を伺う様な顔を見せたが、私の位置からは表情が見えなかったが、義一は一度大きく頷くと、「この子は大丈夫です」と短く、しかし何だか口調に自信を滲ませて返した。

それを聞いた寛治は、一度こちらの方をまた見たが、私が表情を変えずにまっすぐただ視線を返すと、「…そっか」と、フッと息を短く吐いた後に言うと、そしてまた穏やかな表情で先を続けた。

「でね、アメリカ仕込みの学問を学ぶなら、まずそもそもアメリカってどういう国なのかって根本のところを学ぼうって思って受講したんだ。そしたらね…いやぁ、酷かったんだ」

そう言う寛治は、顔中にウンザリさ加減を全面に打ち出していた。口調にも感情がこもっていた。

「何が酷いってね、教授たちが皆して、何かにつけて融和がどうのとか、みんなで話し合えば世界平和が実現するんだとかって話ばかりするんだよ。でね、具体的に言うと、第一次世界大戦の時にアメリカで大統領をしていたウッドロウ・ウィルソンってのがいてね、こいつが国際連盟なんてへんてこりんな物を作って、そこで全世界の代表が集まって話し合えば、戦争の無い世の中が訪れるはずだって言ってたんだ。そんな理想主義をね、駒場の教授たちはこぞって何かにつけて口にしてたんだ」

ここまで話すと、寛治は一度ジュースを口にして一息入れると、少し何だか呆れたと言いたげな表情を浮かべて続きを話した。

「僕はね、何かにつけて平和だ平和だ言う教授たちの話を聞いてね、理屈はまだ分からなかったけれど、直感的に違うんじゃないかっていう違和感を覚えたんだ」

「それは…?」

と私が合いの手を入れると、寛治は途端に悪戯っぽい笑みを浮かべて返した。

「それはね…琴音ちゃん、さっき君が自己紹介をしてくれた中で、古典…特に一九世紀のヨーロッパ・ロシア文学が好きだって話してくれたけど、実は僕もそうだったんだ。僕も十代の頃は頻りにそんな本ばかり読んでいたんだけれど、それらの作品が頭に入っているとね、当時教授たちが話す平和が成就するという理想論には与する事が出来なかったんだ。あまりに現実的じゃなくて」

「…それは分かります」

私は思わずそう返した。今の様な具体的な事例では議論したことが無かったが、本質的には散々義一としてきた事だったからだ。

「今寛治さんから聞いただけですけど…知ったかぶって言うのじゃないんですけれど、そんな私でもそれが単なる机上の空論によって生まれた理想論っていうのは分かります。だって…まだ中学生の私ですら、世の中がそんな綺麗事でうまく収まるだなんて、微塵も思わないですもん」

こう話している間、この時に初めて隣から痛いほどの視線が浴びせられているのに気づいたが、それには目もくれずに、今目の前の議論に集中した。

寛治はここ一番の真剣な表情で私の話を聞いていたが、話し終えると、寛治は「はぁー…」と、感嘆とも呆れとも取れる様なため息を一度吐くと、私と義一を交互に見てから口を開いた。

「琴音ちゃん…君ってまだ、自分で言ってたけどまだ中学生なんだよね?いやはや…あ、ハハ、義一くん、そんな目で僕を見ないでくれよ。君に予め言われた通り、下手に褒める様なことは言わない様にするから。まぁ気持ちは山々だけどね…。さて、琴音ちゃん、まさに今君が言ってくれた通りの事を、僕も当時思ったんだ。そんな事を大学時代四年間ずっと、何度先生を変えても同じ事を言われ続けてね、言われるたびに僕の中で疑念がますます膨らんでいったんだ。もう膨らみ過ぎていてね、もうすっかり経済学の事なんか興味はすっかり無くなってしまってて、その代わり所謂”政治学”の方に関心が移っていったんだ。それでね、アメリカというのが本当に教授たちがいう様な国なのかを確かめたくなって、それで大学を卒業と同時に渡米して、それで今に至るんだ」

「はぁー、なるほど…よく分かりました」

私は少し恥ずかしながらも隠す事なく話してくれた寛治にたいして、笑顔でお礼を言った。寛治は言葉には出さなかったが、ただまた人懐っこい笑みを浮かべて応えてくれた。

と、ここでふと今の寛治の話から、要点になりそうな所を拾い上げてメモしたものをチラッと見て、一番聞いて見たかった事を思い出した。話の流れからも不自然ではないだろうと確認して、早速寛治にぶつけて見た。

「あのー…」

「ん?何かな?」

「今の話に関連して…一つ質問してもいいですか?」

「あぁ、良いよ。何かな?」

「そのー…」

私はここでもう一度手元にあるメモに目を落として確認してから、顔を上げて、寛治にまっすぐ視線を送りつつ聞いた。

「寛治さんは先ほど、日本政府の事を”偽善的なポリティカリーコネクトネス”って揶揄してましたけど、そのー…”偽善”って何ですかね?」

「え?」

寛治は、この私の質問は想定外だった様で、目をまた大きく見開きこちらを見てきた。それは、義一の向こうに座る武史も同様だった。と同時に、先ほどから左隣から注がれていた視線が強まっていたのもヒシヒシと感じていた。絵里も少し驚いた様子なのは、付き合いが長い分見なくてもわかった。

寛治はフゥッと一度息を吐くと、義一に一度苦笑を漏らして、それから私に声をかけた。

「いやー…義一くんに前情報をもらっていたとは言え、実際こうして容赦の無い質問を掛けられると、驚いてすぐには返せないものだねぇー。いや、何も文句を言いたんじゃ無いよ?むしろ…こんな質問をされて、僕はとても嬉しいんだ。武史くんだってそうでしょ?」

そう話を振られた武史も、ニコッと私に笑顔を向けてきながら「えぇ」と短く返していた。

「中々ねぇ…あ、いや、少し話が逸れちゃうかも知れないけど、今日僕はここに来る前に、ある大学に呼ばれてね、そこの教授がこれまた僕と駒場時代からの友達だから、その繋がりで講演を頼まれて、少し今のアメリカと、それに関連した世界情勢について話してきたんだ」

「その大学はね…」

とすかさず義一が注釈を入れてくれたのは、三田にある、有名な私立大学だった。

寛治は義一に同意する様にコクっと一度頷くと、そのまま話を続けた。

「一時間ちょっと話した後に、質疑応答の時間があったんだけれど、まぁ話題が話題だから仕方ないかも知れないけれど、何だか今のアメリカの状態についての質問に終始してね、今君がしてくれた様な、もっと本質的な所を突いてくる様な質問者はいなかったんだ。…さて、遠回しに君を褒めることに成功したところで、議論をしてみようか?」

そう言う寛治は、とても子供らしい無邪気な笑みを浮かべていた。

「さて、偽善かぁ…。まぁさっき僕は日本政府を揶揄したけれど、これは日本に限った事じゃなくて、アメリカでも…いや、いわゆる先進国に蔓延している現象とも言えないこともないんだよ。それでもまぁ…日本がとりわけ酷いのはそうなんだけれど…。まぁそれは置いといて、偽善…これって定義をするのは難しいよねぇー…そういった仕事は、今はここにいないけど神谷先生や、ここにいる武史くん、そして義一くんに譲りたいけれど…今の話に沿わせて言えば、要は誰の為にその行為をしようとしているのかに尽きると思うんだよね」

「それってつまり…”善”と”偽善”の違いって事ですか?」

「そう、その通り。善と偽善…。琴音ちゃん、君はこの二つの違いについて聞かれた時、君ならなんて答える?」

「え?うーん…」

そうだった。何も絵里が側にいようといまいと、このお店での議論では、まず私みたいな若輩相手にすら、キチンと考えを聞いて来るのがある種の慣習になっていたのだ。それが頭にあれば、初対面とはいえ、雑誌オーソドックスに集う一人である寛治が私に対してそんな質問を投げかけてくる事くらい予測していなければいけなかった。まぁもっとも、これは言い訳ではなく、その現実をしっかり分かった上で、先程来ずっとたわいも無い会話をしている時ですら、頭の片隅で考えてみた事ではあったが、これという事は思いつかず、ある一つの事しか思い浮かばなかったので、取り敢えずそれを言ってみることにした。

「私も考えてみたんですけれど…今寛治さんが言われたことにも関連するんですが、昔から言われている慣用句の一つに”情けは人の為ならず”というものがありますよね?」

「うん、あるねぇー」

そう返す寛治の顔には、既に私が何を言いたいのか気づいた色が見えていたが、そのまま先を話す事にした。

「これを中には、情けを人にかけてはならないと斜めの方向に解釈している人が稀にいるらしいですが…まぁそれはともかく、これってつまり、字引的な言い方をすると、『情けを人にかけておけば、巡り巡って自分に良い報いが来る』てな具合になると思うんですけれど…ちょっと話が脱線しますが、この解釈もちょっと間違ってるんじゃないかって思うんです」

「うん、構わないよ。面白いから続けて?」

寛治に、まるで神谷さんとダブる様な返しを貰い、それによって少し勇気を貰った私は先を続けた。

「は、はい。それというのも、もし今私が言った通りだとすると、こう突っ込まれると思うんです。『なーんだ、報いが来るのを期待して誰かを助けるのか。じゃあ、報われる期待が全く無ければ、情けをかけなくてもいいんだな?』って」

「…くく」

とここで吹き出したのは、武史だった。

武史はニヤつきながら私に顔を向けると、「その通りだな」と同意を示した。私は何も言わずに、その同意に対してただニコッと笑顔で返すと、先を続けた。

「でもこれって、この慣用句を誰がいつ作ったのか知らないですけれど、本来の意図では無い気がするんです。皆さんの前で出しゃばって言うのはアレだけど…こうして現代人が解釈することが、如何にも上っ面の表面しか、目に見えるものしか信じない様な浅薄の、悪しき功利主義の弊害の結果だと思うんです」

「それはあるねぇー」

とここで不意に声を出したのは、美保子だった。

私がそちらの方を見ると、美保子はワイングラスを揺らし、中の赤ワインを揺らめかせながら滔々と言った。

「その話と関係あると思うんだけれど、よく今時の若い人が努力しないって言うじゃない?まぁそう言ってる年寄りが努力してきたとは到底思えないんだけれど。まぁそれはさて置いて、人に聞いた話だけれど、何で努力しないのかって若い人に聞くと、『どうせ努力したって無駄だ』って答えるらしいのね?『努力したって報われなければ意味ない』って。でもこれは、こう言ってる人が、全く努力というのを勘違いしているって事だと思うの。…ふふ、琴音ちゃん、あなたに質問される前に、先回りして私の考えを述べればね、まぁこれは一応少なくともここに集う人たちの間では何度も議論を重ねて同意を得られた定義だから、私だけの意見って訳じゃなく”オーソドックス”の総意と受け取って貰っても構わないけど、それはこうなの。『努力というのは、世間が言うように、ただ人に課題を与えて貰って、それを期日以内にひたすら片していくようなものではない。自分にはもしかしたら不可能かも知れないと思うけど、それでももしそれをこなす事が出来たら確実に自分が一歩成熟出来ると思える課題を見つけて、それを己に課し、一生かかってでもそれに必死に取り組み続ける…これを努力というんだ』とね。これについては琴音ちゃん、まぁ、予め私たちの総意って前置きを置いといて卑怯だけれど、率直に言ってどう?この意見に対して、何か疑問はあるかな?」

美保子がそう問いかけると、その隣にいた百合子も含めた一同が、それぞれ各様の静かな笑みを浮かべつつ私の反応を待った。

色々と美保子が気を使った言い方をしていたが、そもそもこの話も、私は私で義一と宝箱で何度か議論をし合ったので、答えるのは容易だった。

私は微笑みつつ、しかしやっぱり少し意地悪さを加味して「うん、私もそう思う」とだけ返した。

「そう?良かった」と美保子は胸に手を当てて、大げさにリアクションをとって見せた。その直後に何やら百合子に突っ込まれていたが、ふと寛治に話しかけられたので、意識はそっちに取られた。

「思わぬ流れで同意を得られたところで、話を戻そうか。…うん、本当に君は中学生かって問い質したくなる程に、難しい言葉を無理に使うのでも無く、慎重に言葉を運んでくれたねぇ。…うん、僕もそれには同意だね。人に情けをかけるというのは、得するとか損するとか、そんなクダラナイその時の気分で容易に左右にブレる基準の元での損得勘定でするものでは無いよね?でもこういう反論をすると、すっかり頭の先まで薄っぺらい功利主義に染まった人ならこう返すと思う。『じゃあ逆に聞くけど、どんな他の理屈があって人に情けをかけなければならないんだよ?』とね。これに対しては、君ならなんて答える?」

「うーん…まず直感としては、そう言う人物に対して侮蔑の情が湧いて、虫酸が走りますけど…」

私はそう言いながら、両腕を交差させて両手を二の腕に触れさせ、まるで寒がっているかの様に摩って見せた。

「結局やっぱり浅いレベルでの功利主義なんですよねぇ…私ならこう答えます。『理屈じゃないんだ。これは遥か昔から人々がこれが”善”だと思って培ってきたものなんだ。それを高々今しか生きないロクな基準を持っていない現代人が、何の権利があってそれを踏みにじる必要があるのか?その理由を教えてくれ』と。…まぁ、質問に対して質問で返すという、ある意味最悪な返しですけど…」

と私は一人照れ隠しに苦笑まじりにそう言い終えると、その直後に「いや、本当だよなぁー」と合いの手を入れてくれる者がいた。

声の方を見ると、それは武史だった。武史は目を瞑り腕を組みつつウンウンと頷くと、少し座り位置を前にして、私と顔が良く合う様にすると、笑顔ではあったが若干の苛立ちを交えた様な表情を見せつつ言った。

「何の資格があって言うんだって。大体いわゆる括弧付きの功利主義に毒されている老若男女問わず多くいる連中ってのは、そもそも品が無いよなぁ…琴音ちゃん、今君が言った通りにね?しかもそれを言って恥とも思わずに、しれっとしてるんだからなぁ。つまりは道徳がないって事なんだねぇ」

「私もそう思います。…って生意気ですけど」

とここで何だか武史の話し振りから、そうしても悪く思われないと判断して、少し悪戯っぽく舌をチロっと出して見せた。

するとその目算は正しかったようで、武史もニターッと笑い返してくれた。

「だよなぁー。…人生において、何で道徳が必要なのか、それすらも白髪頭の年寄りには分からなかったりするから…あ、いや、寛治さん達は違いますよ?」

「ヒヒ」

と寛治はまた例の笑い声を上げた後、すかさずジト目を武史に向けて、口元をニヤかしながら言った。

「フォローを入れる事で、余計に嘘くさくなってるから」

「そうですかー?」

と武史もチャラけてそう返したが、私に視線を戻すと、表情はまた静かな笑みへと変わっていた。

「もしかしたら義一と話したことがあったかも知れないが、敢えて簡潔に簡単にいえば、道徳が必要だという大きな論拠の一つは、何が善くて、何が悪いかの基準が無ければ、人生の目標も立てられないって事なんだよ。つまり道徳が無ければ、世の中の大多数みたいに、目先の儲け…いや、これも結局その場しのぎ的な物だから、結果として儲かってるのかも疑問だけど、それを目標にしてるから、繰り返しになるけど浅いレベルの功利主義に足元を掬われるんだなぁ」

「…はい、全面的に賛成です」

と私は、武史の推測通り、宝箱での義一との議論を思い出しつつ、はっきりとした口調で返した。それに対して、武史は如何にも満足そうにウンウンと頷き、たまに義一にも視線を流しつつ笑みを浮かべた。

「まぁ大体議論がまとまってきたところで」

とここで寛治は、空気を変えるように口調も明るく声を発した。

そして私に朗らかな笑みを浮かべつつ話しかけてきた。

「さて、君からの疑問に、僕が思う善と偽善の違いについての考えを述べてみようかな?いいかい?」

「はい」

私はいつもの様に、メモの上に手を置くという臨戦態勢を取って返事した。

「うん、じゃあ言うとね…正直僕が思うに、この二つを分ける大きな理由はこれしか無いと思うんだよ。それはね、その行為をどの目線で見て判断してしてるのかって事」

「…なるほど、その”視点”が大事って事なんですね?」

私はそうメモしながら返すと、寛治は一度ニコッと目を細めてから応えた。

「そう。つまり結論から言っちゃうとね、善というのは、人の目を気にせずに、何と周りに思われようと、何度も繰り返し考え考え抜いてみて、どう考えても正しいと思われる事を成す事だと思うんだ。じゃあ偽善は何かというと、その逆で、自分自身がどう考えているのかは二の次で、それをした事によって、周りが自分のことをどう評価してくれるのか、それに比重を置いて行為する事と称したいんだ」

「ふんふん…」

と私がメモに寛治の話した内容、それについての私の感想を書き込んでいると、「…なるほど、でも…」と不意に隣で今まで静かにいた絵里が口を開いたので、私はあまりに意外に思ったために、バッと勢いよく顔を上げると、絵里の顔をまじまじと見た。

絵里はそんな私の様子には目をくれずに、そのまま寛治の方を真っ直ぐ見ながら、顎に手を当てて考えてる様子を見せつつ続けた。

「今寛治さんが言われた事は、結構すんなり入る様な気はするんですけど…善についてのところ、それは聞き様によっては何だか唯我独尊というか…何だか独りよがりで独善的だと思われないですかね?」

「ふーむ…」

それを受けた寛治も、絵里と同じ様な態勢を取りつつ考え込んで見せた。この時私はというと、ふと視界の隅に笑みが見えた気がしたのでチラッと向かいの席を見ると、美保子と百合子が普段私に向けてくる様な、見守っている様な微笑みを絵里に向けていた。

「確かに…」

と暫くして寛治が今度は絵里に柔らかな笑みを浮かべつつ応えた。

「今えぇっと…絵里さんだったね?絵里さんが言われた様な反論はくるだろうねぇ。それに対しての反論は、実はここに集まる様な人種の間では共有しているのがあるんだ。それはね…」

寛治はここで一度話を止めると、武史や義一の方をチラッと見てから先を述べた。

「さっき武史くん達が話していたけど、要はここでも道徳が出てくるんだ。そう、何も僕らは今あなたが言われた様に、何も独善的に独りよがりでいるのを肯定しているんじゃない。むしろ真逆で、道徳的観点から善を選び取って行動する事と善を定義したかったんだ。…ひひ、まだ納得いってない顔だね?」

と寛治がニコッと笑うと、絵里は少し恐縮した様にアタフタして見せたが、すぐに収まると少し声の調子を落として、小声で言った。

「え、えぇ…その道徳というものが、その人自身、その人個人の感覚のものとしたら、やはりそれは独善なのでは無いんですか?」

「…ほーう」

寛治はそんな様子の絵里とは真逆に、その返しに対してますます見るからにご機嫌になっていった。

ここでふと絵里の顔を見ると、気持ち眉間にシワが寄っていたので、口にはしなくても若干イラついているのが分かった。絵里は結構顔に感情が出るタイプなのだ。

寛治の方でもそれに気づいたか、笑顔のままだったが慌てて返した。

「いやいや、別に馬鹿にしたつもりはないんだけど、もし癪に障ったのなら謝るよ。いや何せね、久しぶりにこうして”らしい”反論をされたものだから、何だか嬉しくて楽しくなっちゃってね、それでついついはしゃいじゃったんだ。…ごめんなさい」

と寛治は座ったままその場でペコッと深く頭を下げると、今度は途端にまた絵里が見るからに恐縮して、今度は直接言葉を投げかけた。「あ、いや、そんな、頭を上げて下さい!」

そう言われた寛治は、頭をゆっくりと上げて絵里を直視した。その表情はパッと見無表情だったが、よく見ると好奇心を隠しきれてない、キラキラとした眼をしていた。

それに気づいているのか無いのか、絵里は一度溜息をつくと、力が抜けた後の様な笑みを浮かべつつ言った。

「まぁ…少し嫌な気がしなかったと言えば嘘になりますが、それで気を悪くする程ではありません。何せ、良いのか悪いのか…」

とここでふと義一に視線を流しながら続けた。

「ここにいるギーさんで慣れっこですしね?」

そう言い終えると、絵里はニコッと目を細めて笑って見せるのだった。

絵里の習性を当然初対面の一同は知らないので、恐らく本気で絵里が気を悪くしているのだと思っていた様だったが、絵里を知る…いや、そう簡単に言ってはいけないか、少なくともここにいる面々よりかは遥かに知っている私としては、これくらいで機嫌が悪くなる様な器では無いと分かっていたので、何の心配をする事なく成り行きを眺めていたのだった。

絵里の笑顔を見て安心したのだろう、実際には起きなかったが、今にも大きなため息が出そうな雰囲気が場に流れていたが、ふと寛治が元の笑顔に戻って言った。

「いやぁ、ありがとう絵里さん。…義一くん、君は普段から絵里さんのことを、”一般”代表として紹介していたけど、いい意味で彼女は一般では無いんじゃないかい?」

「そんな事を言ってたのー?」

と寛治がニヤケつつ言った後、その直後に絵里がすかさず義一に突っ込んでいたが、それには相手にせず、義一は苦笑まじりに絵里に視線を送りつつ「そうですかねぇ」と返していた。

そのやりとりを聞いていた絵里は、一人何かを考えていた様だったが、途端にハッとした表情を浮かべると、その直後にはニヤケ面を義一に向けて言った。

「そうよー?普段から言ってるでしょ?私の心が広いからアナタに付き合ってあげれるんだから、今寛治さんが言われた様に、もっと感謝しなさい?」

「…え?いつ寛治さんが、君に感謝しろって言ったの?」

「似た様な事を言ってたでしょ!」

「えぇー?…そうだったかな?」

…この様な、二人には悪いけど不毛なやり取りが数度繰り返されたが、他の一同は止めに入る事も無く、ただ笑顔で二人を眺めていたのだった。勿論その一同には私も含まれている。

そのやり取りが終わると、寛治が「コホン」と一度咳き込んでから話を切り出した。

「話を戻しても良いかな?…うん、ありがとう。さて、今の絵里さんからの反論、それに答える方法として、『そもそも道徳というのは何か、果たしてそれは一人一人それぞれ好き勝手に持っていいのか?』という話をしてみたいと思う。いいかな?」

「はい」

と絵里は和かに返すのだった。

私はこれを見た時少しホッとした。私が言うのも何だが絵里はとても常識的な、一応括弧付きでの一般人なのに、こんなややこしい、大多数なら逃げ出すような話題だったし、それでいて私としては数少ない好感を持てる女性だっただけに、そう応じながら顔には影を帯びせるのかと思ったからだ。それをすぐさま笑顔で返してくれたのに対して、絵里は何も思惑など無かっただろうが、私は心の中で少なからず感謝した。

「ありがとう。では話を続けよう。…確かに例えばただ一人部屋にこもってジーッと考え続けて出た結論なら独善と言っていいと思うけど、僕が言ったのは違うんだ。むしろ、過去に散々し続けられてきた道徳についての議論、結論が出るのか見通しもついていない議論を引き継いで、それを…」

寛治はおもむろに店内を見渡しながら続けた。

「このお店で夜な夜な繰り広げられている様に、色々なジャンルで研鑽積んでいる人たちが、あれやこれやと延々と議論を続けて、そしてそれをまた…」

と寛治は今度は私の方に視線を向けると、笑顔を浮かべつつ続けた。

「ここにいる琴音ちゃんの様な次世代に同じ様に引き受けてもらう…その行為そのものが道徳であり、その行為こそが善とも思うんだよ。…どうかな?」

「え?…」

と絵里は少し考えて見せたが、私はそれがブラフなのは分かっていた。具体的にはと聞かれたら困るが、ただ言えるのは、絵里の纏う雰囲気の変化とだけだ。柔らかとでも言うのか、本気で考えるときには、目に見えて緊張が現れるのだ。それが今回は無かった。

それを実証するかの様に、絵里は顔を寛治に向けると、先ほど見せたのと同じ和やかな笑みを浮かべて

「はい、それなら私も分かります」

と返した。

「…私も」

と、先程来から久し振りに道徳についての議論が交わされていたので、前にも言ったが宝箱での義一との議論を思い出していた私は、思わずポロっと同意の意を示した。

とここでふと視線を感じたのでその方角に顔を向けると、絵里が私に柔らかい笑みを何も言わないまま向けてきていた。若干呆れを交えながら。私はその意味を問うこともなく、同じ様に笑顔で応えるのだった。

「その話の流れから言うと…」

とここで武史が口を開いた。

そして私と絵里の方に顔を向けつつ続けた。

「偽善の事もかなり分解しやすいなぁ。つまり何が言いたいのかっていうとね、善の人というのは言ったり行動したりする事にブレが出ないって事。それにひきかえ偽善の人というのは、基準が周りの意見に準じるから、いわゆる風見鶏的になって、言動に一貫性が無く、ふわふわとしていて地面に足が付いていない事が多いんだよ。…これは僕ら以外の一般人からしても同意を得られると思うんだけれど、偽善者というのは、大体において”軟派”な奴が多いんだよなぁ」

「あぁー…それはとても分かる気がする」

「うん、私も」

絵里が同調したのと同時に私も声を漏らすと、また二人で顔を見合わせたが、今度の絵里の顔には、普段の屈託のない笑みが広がっていた。

「そうそう」

とここで会話に入ってきたのは義一だ。

義一も武史と同じ様に私たち二人に顔を向けつつ言った。

「今の武史の話で思い出したよ。近代保守思想の父と称されるエドマンド・バークって人がいるんだけれど、その人が面白いことを言ってたなぁー。…それはね『偽善者は素晴らしい約束をする。それは…守る気がないからである』ってセリフなんだけど」

「あぁー、ズバリだね」

と絵里が私に話しかけてきたので、「うん」とただ短く返した。

本当はもっと何か付け加えて返すつもりだったのだが、不意にあるワードが出てきたために、頭をそれに占拠され、そうした態度になってしまったのだ。

私は一度一呼吸を置いてから、寛治、武史、そして義一がまとめて視界に入る様に目線を置くと、静かな調子で質問した。

「前々から気になっていたけれど、そのー…保守って何なの?」

「え?」

「…あぁ、そっかぁ」

私の問いかけに、寛治と武史はまたまた目を丸くして見せたが、義一だけがしまったと言いたげな表情を浮かべていた。

「また随分…」

と寛治が苦笑まじりに口を開いた。

「難しい議題を持ち出したねぇー…。これこそ僕の専門外だから、神谷先生の弟子の中でもホープの二人に答えてもらおう」

と寛治に笑顔で大袈裟な動作付きで振られた二人は、お互いに苦笑いを向け合っていたが、武史が恨みがましそうな口調で言った。

「ずるいなぁー…。僕らだって、そんなの簡単に説明できないよ…なっ?」

「え?あ、うん…あっ!」

振られた義一もチラッと私に視線を送りつつ返していたが、ふと何かに気づいたらしく、途端に明るい笑顔になって私に話しかけた。

「そもそもそれこそ、今寛治さんが言ってくれた様に、僕らにとっての実質の師匠である神谷先生に答えてもらうのが一番なんだけれど…考えてみたら、今日先生、そのテーマでなんかテレビ局に呼ばれていなかった?」

「ん?…あぁ、そういえば!」

「何の話?」

と私がすかさず突っ込むと、義一が笑顔のまま教えてくれた。

何でも、今日神谷さんがこの場にいないのは、BSのとある二時間枠の生放送番組に出演しているからとの事だった。以前義一が話してくれた様に、神谷さんは今から二十年くらい前に出たのを最後にしばらく出演依頼があっても受けなかったらしいが、実はここ二年くらいにちょくちょく引き受けて出てたらしい。ただ言った手前、恥ずかしくて話せなかったという話だ。

「それでね、今日先生が呼ばれた理由というのが、先生が今生きている中で、最大の保守思想家と見られているからなんだ」

そう言い切る義一の顔は、ハタから見てても凄く誇らしげだった。

「まぁ…、テレビ局はどんなつもりで呼んだのか分からないけど、少なくとも先生の事をそう認める人は、かなりの少数派だろうけどね」

と続けて話す武史の表情は一転して、苦虫を噛み潰すかの様な渋い表情を見せていた。

義一はそんな武史の表情を微笑ましげに見てから、私と絵里にまた顔を向けると言った。

「二人は…まぁ絵里は元から興味ないだろう。琴音ちゃん、君は君で世相に対して、僕と同じで興味がない分知らないかもしれないけど、一応今の日本は、”右傾化”してるって言われてるんだ」

「右傾化…?」

と私と絵里はほぼ同時に、ほぼ同じ様な相槌を打つと、義一はコクっと一度頷いてから続けた。

「そう、右傾化。…これは僕らの見解とは、あえて言わせてもらえれば真逆なんだけれど、どうも右傾化イコール保守化らしくてね、それで話を聞くならって先生が呼ばれたらしいんだ」

「まぁ先生も、そんなクダラナイ理由で呼ばれたことは百も承知で今日出張っているわけだけれど…」

と武史は相変わらず苦々しい表情を浮かべつつ言った。

「勘弁して欲しいよなぁ、そこで一括りにするの。今義一が言った様に、いわゆる”右”と”保守”は真逆の思想なのによ」

「…あれ?でも…」

とここで絵里が口を開いた。そして義一と武史に視線を向けつつ続けた。

「でも一般的には同じと見られているよね?…勿論私もそう思っていたけど。だって確か…フランス革命後の議会で、右側に座ったのが旧体制派で、左に座ったのが確かー…ジャコバン派とかいう進歩的な人たちが座っていた事から始まるんでしょ?」

「よく知ってるねぇ?」

と義一がすかさずニヤケつつ突っ込むと

「馬鹿にしないでよ、あったりまえでしょー?」

と絵里も同じ様にニヤケつつ返した。もうすっかり普段の二人だ。

「あなたと同じ大学に通ってたんだからねぇ。これくらい高校の頃、受験勉強でやったわ」

「あはは!」

とここで武史が満面の笑みを浮かべつつ絵里に言った。

「いやいや、受験勉強なんてものは、それこそ受験のためにするものであって、終わった瞬間に忘却しているのが殆どなのに、それだけ覚えているのは偉いよ」

「それって…喜んでいいのかな?」

絵里は一度周りを軽く見渡すと、先ほどから変わらないニヤケ面を武史に向けて言った。

「だって…それだと遠回しに、私もここの皆さんと同じで”変わり者”と認定されてしまった様なものでしょ?」

「ん?…あははは!なかなか鋭い事を言うねぇー」

武史がそう言うのを合図にしたかの様に、私含めた一同でドッと沸くように笑い合うのだった。

ひとしきり終わった後、武史がまた静かな表情に戻ると話を続けた。

「まぁさっき義一が言った様に、詳しくは神谷先生に話して頂いた方が良いとは思うけど、それでもまぁこの話くらいだったら僕だって出来るから話すと…うん、確かにそれから所謂右派と左派とで区分けされる様になっていくんだけれど、この手のものにありがちな、初めの考えが上手いこと継承されずに、大体もう二世代後くらいから既に道が逸れていってしまったんだよ。…両陣営共にね。まぁ、ひたすら進歩や革命を言っていた左派の方は、ある意味何も考えなくても単純な理論だから、一般大衆にも受け入れられたんだけれど、それは右派もそうだったんだ。まぁこの話はしだすとキリがないから、結論だけ言ってしまうとね、我々保守側と、いわゆる右派左派陣営との決定的な違いは…人間をどう見るかによるんだ」

「それって…さっきみたいな視点の話?…あ、御免なさい」

私は思わず口を挟んでしまったが、それと同時にタメ口になってしまったのに気づいてすかさず謝った。

内容までは触れずにただ謝っただけだというのに、武史はほんの数秒ほど考えてみせたが、すぐに察してくれた様で「別に僕は構わないよ?」と笑顔で言ってくれた。

私がそれに対してお礼を言おうとしたその時、途端に意地悪くニヤケ面になると、美保子たちや絵里などに視線を向かわして、

「それに…僕だけタメ口じゃないのは寂しいしね?」

と、また私に顔を戻して言った。

「ふふ、分かりまし…あ、いや、うん、分かったよ」

と私が笑顔で返すと、それまでを黙って見ていた寛治が口を開いた。

「…その理屈からいうと、僕だけが今だに仲間はずれじゃないか」

そう言う寛治の顔は、膨れた子供の様だった。

「いやいや寛治さん…」

と武史がすかさず突っ込んだ。

「流石に年が離れすぎてて、琴音ちゃんもそれは無理だよ…ね?」

と私に話を振ってきたので、冗談の流れなのは分かっていたので、若干済まなそうな表情を作って「はい…」と、これまた力無げに返した。

これは偏見だろうが、三十年もアメリカに住んでいた”悪弊”なのか、やたらに大きく肩を落として見せる様なリアクションを取りつつ、「なーんだ、つまんないの」とボヤいていた。

「ふふ、寛治さん」

と今度は義一が話に入ってきた。

「還暦越えたらダメですよ。だってこないだも、マサさんや勲さんたちに対してもタメ口ではなかったんですから」

「あ、そうなんだ…」

とここからもっと話が逸れていきそうだったので、気づいた武史が無理やり話を遮り、本筋へと進めた。

「さて話を戻すと、うん、今さっき君が言ってくれた通りだよ。要は視点の問題さ。この話の場合で言うとね、人間を”性善説”として捉えるか、”性悪説”として捉えるかの違いなんだ。…って二人とも、漠然とでもいいからこの二つの意味は分かるかな?」

と武史が聞いてきたので、メモを取っていた私はふと顔を上げて

「う、うん…読んで字の如しでしょ?ね?」

と武史に返した後絵里を見ると、絵里も何も言わなかったがコクっと頷いた。

「そうそう」

武史は笑顔で同意を示すと、また表情を落ち着けて先を続けた。

「何で今こんな事を言ったのかというとね、単純化の弊害で少し補足を後で入れなくちゃいけなくなるんだけれど、要は性善説に立っているのが右派左派両方で、保守が性悪説に立つということなんだ」

「ふーん、つまり…」

とここで絵里が口を開いた。

「一般的に言われている右左は、根本的なところでは、人間が善だというのを信じてる点で同じで、そのー…保守?その保守の立場から見ると、人間を悪だと信じているから、そこが違うって意味なのね?」

…ここで改めて言うことでもないだろうが、すっかり絵里も私よりも早い段階でタメ口になっていた。

「でもそれって…」

とここで絵里は少し表情を曇らせつつ、横目でチラッと義一を見つつ言った。

「要はあなた方は、人間が元々”悪”だと言いたいわけよね?いやまぁ、私だって人間が皆が皆立派であるだなんて事は思わないけど、それでも根本的と言うからには生まれてからって事でしょ?生まれ落ちた瞬間から悪とまで言ってしまうのは、それは何だか…極論に聞こえるし、そもそもそれだと人間不信に陥ってしまうと思うけど…?」


私はそれを聞きながら、思わず頷いてしまった。

というのも、ふと小学生時代を思い出していたからだ。私の小学時代はご存知の通り、ひたすら周りから浮かない様に、両親を失望させない様に良い子を演じ続けていた訳だが、それと同時に知らず知らずの間にある種の人間不信に陥っていた事に、今更ながら絵里の発言から知らされたのだ。ストンと腑に落ちた。これも今更言うまでもないことだが、結局小学生時代で心を許していた同世代は、ヒロと、それと裕美だけだった。

この時の私はまだこの後、また別の機会で議論を組み回す前だったので、ただ単純に、普段から何かと義一が保守思想家という枕を入れて金言や名言、考え方を教えてくれたりしていたので、恐らく義一はソッチに傾倒していたのだろうとアヤフヤながら推測していた私は、何だか義一と共有する価値観を見つけれた気がして、ほんの少しだが一人喜んでいた。

絵里のそんな反論を聞いた武史は、「んー…」と苦笑いを浮かべて唸ったかと思うと、早速絵里に返した。

「まぁやっぱり今の話を聞くとそう思っちゃうよね?うーん…やっぱりちゃんと一から説明しなくちゃだな」

武史は最後の方は自分に言い聞かせる様に独り言ちると、私と絵里の方にまた視線を戻し、静かに話し始めた。

「性善説に関しては、今絵里さんが言ったので大体良いと思うけど、性悪説に関してはちょっと説明をさせて欲しいんだ。…コホン、今君が説明した、”生まれ落ちた瞬間から悪”…ある意味これは、キリスト教的な考え方だね。というのもね、まぁ厳密にはキリスト教に限らず、聖書に関係した三大宗教には多かれ少なかれ根底に流れている考え方だけど、それはつまり…“原罪”ってこと」

「原罪…」

と私がいつもの様に口で呟きながらメモを取ると、武史は途端に慌てて付け加えた。

「あ、あぁ、いやいや、こんな宗教の話こそ、僕なんかの若輩が簡単に足を踏み入れていい領海じゃないから、軽くだけ触れるからね?…うん、まぁ簡単に言えば、今絵里さんが言ったような意味だよ。二人とも聞いたことはあるだろ?神様のお膝元のエデンに暮らしていたアダムとイブが、蛇に唆されて食べてはいけない禁断の果実、リンゴをまずイブが食べて、その後にアダムも食べてしまい、それが神様にバレて、罰として楽園を追い出されて地上に降り立った…って話」

「あぁ、うん…あ、ということは、原罪というのはアダムとイブが禁断の果実を食べてしまった事ね?それで、その子孫である私たちにはその原罪が付き纏っているってこと」

と私が言うと、武史は笑顔で「そう!」と返し先を続けた。

「主にキリスト教ではその考えが根強くて、ルネサンス期まではその考えが続いていたんだけれど、それが段々と啓蒙の時代になってくると、理性が大事なんだ、人間が思い付いたことは善い事なんだという考えが出てきて、元からあったはあった性善説の様なモノを膨らませていく事になったんだ」

「でもそれだって」

とここで義一が合いの手を入れた。

「理性がなんだと言い出したデカルトだったり、スピノザ、それにフランス革命の原動力の一つだと言われているルソーの思想だって、一般に言われているのとはだいぶ違うモノだったりするんだけどね」

「そうそう!…って」

義一の相槌に対して余計にテンションを上げて返そうとしていたように見えたが、ふと私たち二人の方を見た武史は、何だか先を言うのを躊躇っている様な顔を見せたが、ふと義一に視線を流した後、軽く息を吐いて、それからまた元の調子で先を続けた。

「まぁそれはともかく、元々強かったはずの性悪説が薄れていったわけだけど、それはフランス革命後も続いた。つまり、右左と争っていたわけだけど、結局根本のところではお互いに”人間は理性的な動物で、神様だとか宗教だとか面倒なのに頼らなくても、人間性を解放していけば世の中が良くなっていくんだ”という考え方を持っていたんだ。左は自覚的に、右は恐らく大半は無自覚にね。ここで軽く、そうだなぁー…ここは質問をしてくれた絵里さんに聞くのが筋だろう。さて、フランス革命後の議会の右に座った連中、彼らは簡単に言えば、どんな連中なのかな?」

「え?あ、はい。んーと…」

突然話を振られた絵里は、当然のことながら少しまごついたが、すぐに返答した。

「まぁ当時の事までは分からないけど、今の右と呼ばれる人たちのことで言えば、簡単に言って、伝統を大事にしろって主張する人達の事…なのかな?」

「そう!そこなんだよ!」

絵里が言い終えるかどうかという辺りで急にテンション高く武史が返してきたので、「…え、えぇ」と絵里は引く他に無かった。

私も少なからず驚いたが、そんな二人の様子は気にも止めない様子で言った。

「確かに右と呼ばれる人達は伝統がどうのと言うもんだから、それで僕らと一緒に思われてしまうんだ。…でもここで大きな違いがあるのを指摘しなければならない。さっきの性善説か性悪説かの話も絡めてね」

話しながら徐々にクールダウンしていった武史は、言い終えたときにはまた話し始めのテンションに戻っていた。

武史はここで一度ビールを一口煽り、それから話を続けた。

「彼らは何かにつけて伝統が大事だなんだと言うんだけれど、そもそも伝統と習慣の違いが分かっているのか疑問なんだ」

「…うん」

と私はメモしつつふと意味のない声を漏らした。前回にここで、伝統について話したことを思い出したからだ。その流れで不意に”師匠”の事も思い出していた。

隣にいた絵里、そして義一もその声に反応して私を見てきていたが、私はメモに夢中で顔を上げなかった。

武史も別に良いと思ったのか、特に話しかけて来ずに、ふとここで義一に話しかけた。

「あれ誰だっけなぁ…ほら、そんな話をした人がいただろう?」

「え?…あ、あぁ、うん」

「それを話してくれよ?」

「いいよ」

義一はそう短く応えると、私たちの方に顔を向けて、穏やかな表情で言った。

「僕ら…って、僕らと同じように言うのはアレなんだけど、文学者にして戦後の保守思想家で有名な小林秀雄が短い文章の中で言ったことがあるんだけれど…」

とここで一度区切ると、ふとずっと今まで黙って、好奇心から来るのか軽く微笑みをたたえつつこちらを見てきていた美保子、百合子、そしてこれまた静かに話を聞いていた寛治、聡の順にぐるっと見渡し、またこちらに戻してから続けた。

「これは本人は言ってなかったと思うけど、おそらく元ネタと思われるモノがあって、それを話した方が他のみんなも面白いと思うから、そこから引用しようかな?その人はね、十九世紀のフランスで活躍していた…これまたね、なんと紹介すればいいのか…小林秀雄も文学者と紹介したけれど、それに収まらない活動をしていたから、その点でも似ているんだけれど…」

「ちょっとギーさん?」

とここで、周りを無視して一人で思考にダイブする癖を起こしていた義一に、私の背後に腕を伸ばして背中をトントンと叩いて言った。

「そんな所で急に一人で考え込まないでよー?」

「え?あ、あぁ、ゴメンゴメン」

と義一が素直に照れ臭そうに謝ると、「もーう、気を付けてよ」と絵里はため息交じりだったがかすかに笑みを浮かべて言った。

二人は気づいていたかどうか知らないが、二人以外の私を入れた一同で、同じような笑みでそんな様子を眺めていたのは言うまでもない。

義一は一人で気を取り直すと先を続けた。

「じゃあ話を戻すとね、昔のフランスにまぁ文学者かなぁ…ポール・ヴァレリーって人がいてね、その人が伝統と習慣の違いについて書いてるんだ。正確な引用じゃないけど、『習慣というのは過去から現在まで続けられてきた活動だが、それは善悪問わずであることが多く、中には悪習と呼ばれ得るものもある。その習慣の中で、これこそが後世に引き継ぎたい、これこそが善いものだろうと、掬い取って大事にする事、それが伝統なんだ』とね」

「なるほどねぇ」

と絵里が感心した様な調子を声に混ぜつつ言った。

「何でもかんでも過去の物だからと引き受けるのは伝統じゃないって事ね?」

「うん、そういう事」

「あ、そういえば」

とここで私も同じ様な話をしていた音楽家がいた事を思い出し、義一と違って、初めてここに来た時に話したなと思ったが、まぁその時にいなかった寛治と武史、それに絵里もいるというので、心ではそれでも躊躇いはあったが、口が既に動いてしまっていた。

ここでは繰り返しになるから詳細はいらないだろう。一応軽くだけ触れれば、その音楽家というのはマラーのことで、『伝統とは博物館に飾られた過去に燃えていたナニカの後に残った灰を拝むことではなく、寧ろ現在の種火で新たに火を灯す事だ』というセリフだ。

これを話すと、先に触れた三人ともが興味深げに感心して見せた。考えてみたら、絵里にこの話をすること…いや、そもそも芸について話したのが初めてだった。

去年の夏に絵里が私と裕美に、自分が日舞の名取だというのを教えてくれた訳だったが、それからは特にその事について深く話す機会は無かった。今思えば不思議だ。何故なら言うまでもなく私は厄介な”なんでちゃん”な上に好奇心が有り余るあまりにそのまま直情的に色々と質問ぜめをしそうなモノなのだが、軽い表面的な話はしても、それについて絵里が何を思っているのかまでには発展しなかった。おそらく絵里の方で踏み入らない様に気を付けていたのだろう。それに今になって気づいた訳だが、特段何も悪い気持ちにはならなかった。それだけは言っておく。

それは置いといて、それからは当然の流れというか、前回にも話した”伝統は伝燈から来ている”という話を義一が軽く触れていた。これには絵里が一人でまた、義一相手だというのに素直に感心して見せていた。こういった所も、数多くある絵里の可愛いところの一つだ。

「でまぁ、ここにいる義一と、そして琴音ちゃんのお陰で習慣と伝統の違いが浮き彫りになった所で」

と武史が今がその時だと判断したのか、本筋にまた話を戻した。

「話を続けようか。そう、ここでまた結論を言うと、彼ら右派というのは、悪戯に何でもかんでも長い間続いてきたものだからと、無闇矢鱈に古いモノを守ろうとするんだ。それが何も悪いと言いたいんじゃないけど、ただ彼らは今僕らが話した様に習慣と伝統を分けないが為に、ある種の原理主義に流されてしまって、それに対して否定的な僕らのことを、彼らは”左派”だと称するんだ」

「え?何でそうなるの?」

と私はすかさずツッコミを入れた。

武史は一瞬笑みを浮かべたかと思うと、それに呆れ度を多分に含めつつ答えた。

「それはね、僕らみたいなのが改善すべきところがあるんじゃないかと言うと、全否定された様に感じるらしいんだ。それで、さっきも言ったけど、原理主義になってしまってるから、反対意見を受け入れないんだ。これは右派左派問わず両陣営に言えるね。特に神谷先生は、それで両陣営から猛反発を入れられてきたんだ」

「ふふ、まぁ僕たちの孤独具合を武史に説目して貰ったわけだけど…」

とここで、武史がネチネチと愚痴に入りそうになったのを察した義一が脇から入った。

「まぁ繰り返しになるけれど、さっきも言った様に保守について語るにはまだまだ僕らは若すぎるから生意気に言うのは憚られるんだけれど、それでも何か言って欲しいと言われたらこう答える事にしてるんだ」

「うん…で?」

と私は自分でも気付かぬうちに隣の義一にお尻半分ぶん近寄った。

それを見た義一は両手で私を制する様なポーズを取った後、コホンと一度咳払いしてから言った。

「たいそうな事じゃないよ。さっき武史が言ってくれたけれど、要は左派と言われる側からは右翼と言われて、右派と呼ばれる側からは左翼と呼ばれる、そんな人の事を保守というんだってね」

「そうそう」

とここですかさず武史が割り込んできた。顔は例の悪ガキの様な笑みだ。

「我々の先生の様にね」

と視線を、普段神谷さんが座る位置に流しつつ言うと、また一同が穏やかな笑いを起こすのだった。

と、その雰囲気が収まらないその時、

「…なるほどねぇ」

と周りがニコニコしている中、一人顎に手を当ててウンウン頷いていた絵里が声を上げた。

そして義一に顔を向けると、これまた普段見せる悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。

「ギーさんもそんな感じだわー」

「え?それってどう意味?」

と私がすかさず突っ込むと、絵里は目をギュッとつむって見せつつ笑って答えた。

「煮ても焼いても食えない奴って事!」

「違ぇねぇ!」

とここで今まで静かだった聡が絵里に満面の笑みで同意して見せると、そこでまたドッと場が沸いたのだった。


「何だよぉー…」

と義一一人で苦笑まじりに一人ボヤいていたが、まだ場の盛り上がりが冷めやらぬ時に、私に笑みを向けてきつつ話しかけた。

「まぁだから琴音ちゃん、今の時点ではそこまで深い議論をする事は出来ないけれど、次何かの時に、先生も側にいる時に改めて議論をして貰う事にして、今の所は僕のところにある一般的に保守思想家と目されている人々の本を…もし興味がある様だったら、今までの本と一緒に喜んで貸すけど…どう?」

これまた義一らしい、分かりにくく遠回しな言い方に思わず吹き出してしまいつつ、その後にはさっき絵里がした様な笑みを義一に向けて返した。

「ふふ、どうも何も、そもそも私から話を振ったんだから、興味があればって聞くのが愚問よ。…えぇ、是非とも貸して欲しい。お願いね」

と最後には何の含みもない自然な笑みを向けると、義一もこちらに微笑んできつつ「うん、分かった」と短く応えるのだった。

「ではここで一つ話を区切るためにも、纏める頃合いかな?」

と武史が私たちに微笑みを向けてきつつ言った。

「コホン、右派と左派の両陣営は性善説に基づいていて、保守陣営は性悪説に基づいているって言う僕らの説ね?…うん、つまりはこうなんだ。左派はいうまでもなく、右派も漠然と過去から続けられてきた習慣に対してこれといった疑問を持たずに、盲目的に執着して見せる…これっていうのは、過去の人々の人間性を不用意に礼賛して、これを言うと右派からは反発を食らうだろうけど、習慣イコール正義みたいに思い込んでいるんだ。でも、さっきの議論でも出たように、そもそも習慣と伝統は違う、伝統は習慣の中にある善いと思われるモノを守ろうとする事というのは皆で同意出来たね?それを悪習が含まれている可能性のある習慣と伝統をごっちゃ混ぜにしてる時点で、僕ら保守の立場とは右派は相容れない。この違いがどこから来るのか…?んー…」

と武史はここまでは快調に飛ばしていたが、ふとここで止めると神谷さんの席をチラッと見て、そしてその後に義一に目を向けた。

「…なぁ、先生の説…性悪説に関して説明する為に、少しだけ触れても良いよな?」

と問いかけれられた義一は一瞬考えて見せたが、すぐに若干苦笑気味に「…うん、まぁ仕方ないね」と答えた。

それを受けた武史は笑顔で頷くと、また私たちに視線を戻して続けた。

「だよな?…さてお二人さん、ようやくここにきて話が戻ってきたけれど…特に琴音ちゃん、ほんの少しだけ話の流れ上、僕らの師匠の思想を弟子の僕らが軽くだけ話してみるね」

「うん」

とさっき義一に言われた時にはお預けだと思っていたのが、ふと少しとは言え話してもらえるというので、同年代の女子から見たら異端中の異端だろうが、とてもワクワクして続きを待った。ここで隣は見なかったが、恐らく絵里はまた私に呆れ笑いを送っていた事だろう。呆れられても仕方がない。自分で言うのは少し気恥ずかしいが、今更言うことも無いだろうけど、日を追うごとに、たくさん本を読み、知識を身につけ、物の見方のバリエーションが増える度に、この様な頭が沸騰するような難しいけど普段は聞けないような、こういった話が大好きで、それが悪化の一途を辿るのだが。

「よし、じゃあ軽く触れてみるね?…先生は色々な保守思想家と認知されている人々の著作を網羅されているんだけれど、その中の一人に二十世紀の政治哲学者で保守思想家、マイケル・オークショットって人がいてね、この人の説を引用して、先生は保守の三原則と呼ばれる物を定義したんだ。それはね、”不完全性”、”有機体”そして”漸進主義”…この三つから保守は成ると言うんだ」

「んー…」

私は今武史が言った三要素をメモに書き込み、これが後にも大事だと直感して、その三つの下にペンで何本か線を引いた。

「でもここで三つとも話す時間もないし、そもそも先生の説なんだから、先生がいらした時にでも話して貰うとして…今はこの中の一つ、不完全性に絡めて、性善説と性悪説について話してみようと思う」

「…良かったぁ」

とここで不意に絵里がため息交じりに声を漏らした。

「いきなりまた難しそうな話に入りそうになったからどうしようと思ったけれど、ちゃんと戻ってきたのね」

「あぁ、勿論さ」

武史は最後に意地悪く笑う絵里に対して、何故か誇らしげに胸を張って返していた。武史はどうかは分からないが、すっかり絵里の方では心の垣根が下りているように見受けられた。

義一は普段から絵里に対して、一歳上とはいえ、その分一応一年先輩なのに、それ相応の接し方をされていないとボヤいていたが、義一よりもまた三歳年上の武史に対してもこんな調子なのだから、もう諦める他に無いな…という”どうでもいい”感想がこの時に何故か沸いたのだった。

「ここはせっかくだから、義一に話して貰おうかな?」

「え?」

ここで話を振られるとは思わなかったのか、義一は惚けた声を上げて武史を見た。

そんな様子の義一には構わず、武史は笑顔を絶やさぬまま言った。

「ほら…性悪説といえば…」

「あ、あぁ…。じゃあ」

と義一は私と、そして位置的に私の後頭部の後ろにあるであろう絵里の顔を見つつ、少し気まずそうな笑みを浮かべつつ言った。

「もうこれで小難しい話は終わりだから、もう少しだけ辛抱してね?…うん、今はまぁ簡単にだけ触れて、琴音ちゃんがもしそれで興味を持ったら原著を貸そうと思っているけれど…でね、何が言いたいかっていうとね、昔の中国に荀子という人がいて、この人がいわゆる性悪説を唱えたというんで有名なんだ」

「じゅんし…」

と私が呟いてメモを取ろうとすると、義一が何も言わずに私の手からペンを取ると、”荀子”と書き込んでくれた。

「いわゆる孔子からの流れのうちの一人なんだけれど、その性悪説を唱えたというんで当時から、本来同じ流派に属する人達からも攻撃されるような人だった。これは今も続いているんだけれど、原著を読んでみると非難されるような事は書いてないんだよ。…一般的に言われるようなね」

「さっき私が言ったみたいな事?」

と絵里が何の含みも持たせずにスッと口を挟むと、義一の方でも素直に受けてコクっと頷いた。

「そう。…でね、荀子が実際に言ってるのはどういうことか、これを単純に言ってしまえばこうなんだ。『人間というものは不完全な代物なんだ。その不完全なままでいるのを良しとするのは”悪”だけれども、人間というのは自身の不完全性をしかと見つめた上で、もしかしたら無駄かも知れないとどこかで直感的に知りつつも、不完全をどうにか改善しようとするものだ』とね」

「…あぁ」

と私はメモを取り終えると、これに限らずいつもの事だが腑に落ちたのを自覚したのと同時にスカッとした気分になり、こうしてため息混じりの声を漏らしたのだった。

「これは普段、義一さん、あなたがよく言ってる事だね?」

と私が声をかけると、義一はまた照れ臭そうに頭をかいて見せていたが、ふと顔に浮かべていた笑みに少し気まずさを滲ませつつ言った。

「まぁ…今手元に原典がないから、少し僕のバイアスが掛かっちゃってるかもしれないから、実際に見て確認してほしいけれど…まぁそうだね。僕なんかまだまだ保守”見習い”だけれど、目指しているものは所謂”右”などではなくて、”保守”なんだ…っていや、それは今関係ないね。だから何度も出てる結論をまた言えば、少なくともこの雑誌、オーソドックスに集う皆んなで共有している保守についての考えは、まず人間は不完全な代物だというのをしかと認識して、それで終わるんじゃなく、何とかそれを改善できないかと足掻く事、その態度だって事で…こんな所でいいかな、お二人さん?」

と最後に一度区切ってから、私と絵里に目を配ると、まず私がいつものように、勿論異論がないかを確認した上で笑顔で「えぇ」と短く返した。

その少し後で絵里の方を見ると、絵里は一瞬考えるポーズをして見せたが、ニターッと意地悪く、そして呆れ気味に笑うと「えぇ」と絵里も返すのだった。

「そっか…」

と義一が静かな笑みを浮かべつつ返したその時、ふと部屋の扉が開かれた。その先にいたのは、カートを前にしたママだった。

ママは笑顔で一同を見渡してから言い放った。

「さて皆さん、会話は一区切り着いたかしら?そろそろ片しますよ?」


皆がそれに同意すると、ママがまず入って来て、その後すぐにマスターも入室し、テーブルの上の、会話しながらでも綺麗に平らげられた食器群を手際良く片していった。その合間合間でママがまた、飲み物のお代わりを聞いたので、これもいつも通りというか、皆して同じ物を頼むのだった。絵里もそうだった。ただ一つ違うのは、いい意味で絵里の態度から気後れの様なものが消えていた。

片して貰っているその間、ふと今まで静かだった美保子が寛治と雑談を軽くしていた。内容としては、いつ日本に帰って来たのか、そしていつまたアメリカに行くのかといった話だ。

ここで私も何となく、図々しくもその会話に入って見ることにした。

「お二人って…」

「ん?何?」

私が声をかけると、真っ先に美保子が反応した。好奇心に満ちた笑顔だ。

「そのー…気を悪くしないで欲しいんだけれど、何だか二人は親しいようだけれど、何だかパッと見共通点が見つからないの。だって、片やジャズシンガーでしょ?もう片方は国際政治の世界に身を置いている人…ある意味真逆じゃない?この二人が知り合うってのがまず難しいと思うんだけれども…」

と何となく上目遣いを使い、二人の顔を交互に見つつ言うと、私の隣の絵里も「確かにー」と話に入ってきた。その声からは、”無駄”に小難しい話が続いた後の一息を入れれるという安心が現れていた。

「ん?」

美保子と寛治はキョトン顔で顔を見合わせていたが、そのすぐ後で「あははは!」と美保子が底抜けに豪快に笑った。その声にかき消されてしまっていたが、寛治も例の特徴的な笑い声を上げていた。

「確かにねぇー、まぁお互いに普通の生活をしていたらまず接点は無かったと思うよ?ただねぇ…まぁもったいぶる事も無いんだけれど、ただ単純に共通の友人がいたのねぇ…で、その友人というのが」

美保子はここまで言うと、寛治にニヤケ面を向けて言った。

「…彼の奥さんなの」

「へぇー」

と私と絵里が顔を見合わせつつ同じ様なリアクションを取ると、寛治は「まぁね」と短く照れ臭そうに言うのだった。

「彼の奥さんはアメリカ人なんだけれど、私の事務所で働いている人だったの。まぁ友達と言ったって、何も私が紹介したわけじゃなくて、私が彼女の事務所に入る事になった時には既に結婚していたけれどね」

「ヒヒヒヒ!そりゃそうだよ。僕と君とじゃ年齢が全然違うんだしね!」

とここで寛治はますます笑い声を張り、そして喋りながらも収まる気配は無かった。既にわかっていた事だが、どうも彼はとても笑い上戸らしい。

美保子は寛治をそのままにして、でも本人も笑みを絶やさずに続けた。

「そもそもね、この店に来る様になったのも、彼、寛治さんの紹介でなの」

「へぇ」

「まぁオーナーの西川さんにしても、この店を一見様お断りとまでは敷居を高くするつもりは無かったかも知れないけれど、まぁ店の特性上、誰かの紹介無しでは来れない感じだからねぇ」

「そう」

とここで笑いの収まった寛治が合いの手を入れた。

「僕が彼女をね、えぇっと…初めて来てからどれくらい経つっけ?…もう十年以上前になる?そっかー…うん、彼女をそれくらい前に連れて来たんだ。今美保子さんが言ってくれたけれど、妻のお陰で知り合えたんだけれどね、話してみるとその内容が面白いから、丁度その時、神谷先生から誰か面白い人がいたら紹介してって言われてたから、早速紹介したんだ。で、今に至るんだ」

「なるほど」

「ちなみにね?」

私が感心してる風に美保子をチラッと見ると、ふとまた寛治が話し出したのでそちらに顔を向けた。

「多分話の流れで察しがついてると思うけれど、一応話すと、僕はさっき話した通り大学時代には先生と認識が無かったんだけれど、ある時さっき話した僕の友達の今京都の大学で教授をしている宗輔がアメリカの僕のウチに来てね、『先生に君の事を話したら会いたがっているから、ちょっと来ないか?』だなんていうもんだからさ、初めは唐突だったんで呆気に取られたんだけれど、これもさっき言ったように、僕自身、神谷先生に対しての興味はずっと学生時分の時から薄れていなかったから、快く了承して今に至るんだ」

「…でね」

寛治が話し終えるのと同時に、今度はこれまた今まで静かにワインを飲みつつ話を聞いていた百合子が口を開いた。

「私は琴音ちゃんの前では触れたかも知れないけれど、そこには絵里さんがいなかったから言うと、美保子さんがここに来るようになって数年後に、マサさんに連れられてここに来たの」

「そうそう」

百合子がそう言うと、さっきまで寛治に体を向けていた美保子は、ぐるっと豊満な腰を反対に身軽に回して百合子の方に正面に向けた。

「マサさんが言っていたよー、『パッと見物静かなんだが、演技に入ると身の毛がよだつ様な存在感を見せる奴がいて、しかもそいつは俺に負けず劣らず演劇に関して見識があるから今度連れて来る』ってね」

「もーう、恥ずかしいから本人を前に言わないでよそういう事ー」

と百合子は普段の美保子の言う物静かな表情を豹変させ、まるで思春期の幼さ残る女学生風な笑みを見せつつ、美保子に体をぶつけて見せた。偉そうに知ったかぶって言えば、流石は女優といった感じだ。

とここで絵里が何気無くマサさんのことを質問したので、百合子が”石橋正良”の事だと言うと、絵里は初めて百合子さんのことを知った時の様にまた興奮して見せた。細かくは描写しないが、「まだ今も組んでいるんですね!」だとか、まぁそんな所だ。それからは私の知らない百合子の、マサさんが脚本を書いた過去の出演作を列挙して見せていた。

それを傍らで聞いていた私は、ふとある事を思い出したので、ボソッと「絵里さんも昔、私と同い年くらいから何年か、演劇部に所属していたのよね?」と口を挟んだ。

「あっ!ちょ、ちょっと琴音ちゃん…」と絵里は私を慌てて制しようとしたが遅かった。絵里の勢いに苦笑い気味に対応していた百合子が、今度はこっちの番だと言わんばかりに、絵里に質問ぜめをしていた。

これは直接聞いた訳ではないのでハッキリとは言えないが、恐らく事前に絵里が日舞の名取だと知っているのが大きかったと思う。実際、百合子は日舞がどう演劇に通じるものがあるのかどうかと質問していた。誤解を恐れずに言うが、たかだか部活動の範囲内で演っていた絵里に対して、そこまで百合子が熱く聞いてくるというのも変わっていて、絵里もそれには苦笑いしつつも、好きな女優に直接アレコレと深い所で会話する事自体は嬉しいらしく、戸惑いつつも真摯に答えていた。

ふとこの時、昔絵里が話してくれた、演劇部の先輩に入部する様に誘われた時もこんな感じだったんだろうなと思ったのは勿論だ。


丁度その頃、マスターとママ達の後片づけも終わったらしく、これも普段通りにエプロンを取って部屋に入ってきて、自分たちのお酒を作って、隣のテーブルに座って二人で乾杯をしていた。

私はその頃また寛治さんと雑談をしているところだった。

内容としては、私がまずどうやってアメリカの高官達と議論を組み交わす様な立場になったのかを聞いて、それに対して寛治が答えてくれたのを紹介するとこうだ。

「僕はアメリカのことを知ろうと、大学を卒業とともに渡米して、まず向こうの大学に入って国際政治を勉強したんだ。何故かって?今は相対的に弱まったけれど、アメリカが世界の警察だなんて嘯いていた頃だったから、その国際政治を勉強したくなったからなんだ。それで卒業後にある政策会社…まぁ、色々と政治家たちに『この様な政策がありますよ』みたいな事を進言する、日本から見たら結構特殊な会社に勤めたんだ。これを聞くと変わっていると思うだろう。何せ外国人である僕の意見を政治家が聞くんだからね。これはある意味”自由の国”アメリカの弊害の一つだと思うね。まぁ…その弊害のお陰で、僕は飯に困らなかったんだけれど」

そう最後に言った時の寛治の顔は、まるで童心に帰った様な笑顔だった。

その後は端折るが、要はそのまま二十年近く勤めた後、日本人にしては珍しく政治政策面で評価されて、自分が卒業したアメリカの大学に職を持ちつつ、今も高官クラスの人間達と議論を戦わしているという話だった。

ついでだからこの時に出たエピソードの一つを話そうと思う。

私が先ほど寛治が言った”ポリティカリーコレクトネス”の事について聞いた流れで出た話だ。

「向こうの高官と話しているとね、あれやこれやとある種の本音を話してくれるんだ。僕みたいな、日本人とは言っても日本で一切影響力のない奴だったら、本音で語って良いだろうと踏んでる様なんだ」

そう言う寛治は、残念がるどころか、例の笑みを含ませつつ時折声を引っくり返しながら言うのだった。

「それでね、彼らが言うので今思い出した出来事が二つあってね、まず日本人の議論を聞いていると凄くクダラナイと言うんだよ。まぁ僕は全面的に賛成なんだけれど、それというのもね、まるで五歳児と九歳が喧嘩してる様だって言うんだ。それはどういう事かと言うとね、まず五歳児。まだ物心が付いたばかりで右も左も分からない幼稚園児な訳だけれど、この子はまだ世界がどれだけ悪意に満ちていて怖いものなのかを知らない、駄々をこねれば全てが思いのままに動くと思っている…要は現実を見ない、さっきの議論で言えば”左派”という事になるんだ。でね、次は九歳。この頃になると何となくだけれど、小学校に通いだしたりして集団行動を学び、そして授業とかでこれまた何となく世の中は怖いものかも知れないと思う様になる。でも自分で立ち向かおうとは思わない。そこでどうするかというと、力を身に付けようとは考えずに、『確かに世の中生きて行くには危ないかも知れない…でも僕は大丈夫。だって僕には強いパパ、アメリカという強いパパがいるんだから、パパの後ろに隠れれば大丈夫』という…まぁこれも例えれば”右派”という事になる。つまり、戦後日本における言論空間というのは、アメリカの高官たちに言わせれば、五歳と九歳が喧嘩してるだけだと言うんだよ」

と寛治がそう言い終えるのを待っていたのか、すぐさま義一が私の背中に手を当てて、私の小学時代の頃の話をし出した。これには参った。ただただ私は何だか気恥ずかしくて、少し俯いてやり過ごしていた。この頃には一同皆が寛治の話に耳を傾けていたので、必然的に義一の口から吐き出される私の過去をも聞いていた。よくは見ていなかったが、おそらく皆…これには絵里と聡も含まれるが、興味津々に聞いていたのは察せられる。…これだけ言うと自意識過剰に思われそうだが、事実だろうから仕方ない。この手の事で予想を外した事が、残念な事にまだ無かった。

そんな私以外の間に和やかな空気が流れ、ついでにと言うか、絵里までもが美保子と百合子相手に私の話をしていたが、寛治は話がばらけていくのを特段気にせずに話を続けた。

「それでもう一つというのはね?その繋がりで思い出したんだけれど、ある仲良くしている高官が僕にこう言ったんだ。『寛治、お前はいつもアメリカの悪口ばかり言ってて、正直その度にムカついているんだけれど、少なくともお前の言ってることは分かる。でも、日本の政府から派遣されてくる官僚なり外交官と会話してると…何を言ってるのか全然分からないんだよ』とね」

途中から例の笑い上戸が出て、笑いながら話すものだから、かなり愉快な内容だと、何も知らない人が見たら思ったかも知れない。

「要は同じ位の筈の高官なのだから、裏方同士で真剣な実務の議論をしようと思っているのに、日本の高官はそこでも”ポリティカリーコレクトネス”な会話しかして来ないとボヤいていたんだ。まぁそもそも…日本の一流大学を出たところで、ある種の思想哲学を一切学ばず、本もロクに読んでないから一般教養もからっきし無い、そういう本来なら本人達が恥に思わなければならないレベルでいるのにも関わらず、厚顔無恥にやって来るんだ。だから…」

寛治は途中から渋い顔つきで話していたが、ここにきてまたニヤッと笑うと続けた。

「だから僕は向こうにいる時に、相手が日本人を馬鹿にし、悪口を言い出しそうになる前に、僕の口から日本人の事を罵倒するんだ。外人に言われるよりかは、自国民の僕が言った方が良いと判断しての事だけれど、後は…いやこれが本心かな?わざわざ言われなくても、僕自身がそう思っているからね」

「そうねぇー」

とここで不意に美保子が口を挟んだ。

「私も向こうに行ったばかりの時は、『日本人…いや、ジャップごときにジャズが分かるのか?』ってな具合にジロジロと見られたから、それに頭がきて、今寛治さんが言ったように、私も私で『確かに日本人が分かってるかどうかは怪しいけど、そんな変なのと私とを同じにしないで貰える?』って強めに反発したら、そしたらそれからは向こうの人達も、私のことを認めてくれたのか、アジア人だという色眼鏡を外して、私自身の芸を見たり聞いたりしてくれる様になったのよねぇ」

「それを聞いた僕の妻が、美保子さんを紹介してくれたのさ」

と寛治がすかさず口を挟んだ。顔はニヤケ面だ。

「…あなたと同じで、日本人なのに日本人らしく無い、パァパァ好き勝手言う奴がいるってね。…そう、向こう…というか一般的に欧米社会では、勿論礼儀もなく中身もない事を好きかっていうのは許されないけれど、少なくともキチンとした信念を持った人の意見は、意外に人種関係なく聞いてくれるものなんだ。でも日本人のほとんどは、相手の顔色ばかり伺うことばかり考えて、実質何も話す内容を持ってない事が多いから、だから向こうの高官は『何を言ってるのか、いや、何が言いたいのかさっぱり分からない』って感想を持たれちゃうんだよね」

「私もなんだか分かる気がします。…何となくですけど」

と私は、寛治が話した今の内容がすんなり頭に入ってきて、感想を言わずにはおれずにそう呟いた。寛治はそんな私の言葉に笑顔で頷いた。

とここで、もうそんな話をするタイミングでも無いだろうと私自身察してはいたが、持ったが病でついつい口を滑らしてしまった。

「あのー…寛治さん?」

「ん?何かな?」

寛治はお代わりに貰った野菜ジュースを、見るからに美味しそうに味わいつつ飲んでいたところだった。

「えぇっと…さっきの話の中で、要はアメリカ人は日本人の事を子供だと思っているわけですよね?いや、私が言うのはおこがましいんですけど、確かにそんな気がするんです。私たちって成熟してないなぁって。普段から義一さんともそんな話はするんですけれど、ふと今思った疑問で、そのー…大人って何ですかね?」

「え?」

問われた寛治は、今日一番に目を見開いた。私はこのとき見渡しはしなかったが、どうやら私以外の一同、マスターやママも含めて目を丸くしていた様だった。

ほんの数秒間沈黙が流れて、空調の音だけがしていたが、ふと寛治が苦笑気味に口を開いた。

「いやぁ…聞きしに勝る、無理難題を突きつけて来るお嬢さんだね。見た目はそんなに可愛らしいのに。…ひひ、いや、僕が答えるにはちょっと荷が重いなぁー…そうだ、ここは責任を持って義一くんに答えて貰おう」

「え?」

突然話を振られた義一は情けない声を漏らしたが、絵里をも含めた皆が自分に視線を向けて、それで何を話すのか興味を持っているのに気づいた後、私に向けたその顔には苦笑いを浮かべていたが、優しい目をこちらに向けつつ話しかけた。

「…ふふ、いや、君がそんな疑問を呈するのは想像ついていたけれど…まぁ、これは僕が中々その事に関して、君が納得行く様な答えを持っていなかったばかりに先送りにしていたのが悪かったねぇ。…うん、実は今日話すつもりは無かったけれど、僕なりに納得のいく一つの説明をついこの間思い出したから、参考までに聞いてくれる?」

「…ふふ」

義一の相変わらずの分かりにくい話の導入部からの、最後のこれまた分かり辛い言い回しに、これぞ義一だというのが聞けて、思わず笑みが溢れてしまった。

「…うん、お願い」

私が微笑みつつそう返すと、義一はコクっとこれまた笑顔で頷くと話し出した。言うまでもないけど、流石の絵里も、内容が大人についてだったせいか、子供の私に対して、まず自分の意見は?と言った様なツッコミはしてこなかった。むしろ、本人は違うと言い張るだろうが、やはり何だかんだ絵里は私ほどでは無いかもしれないが、義一の、義一ならではの人と違った物の見方に対して面白みを感じている様だった。まぁだからこそ、ここまで十年近く付き合って来れた大きな要因の一つだろう。…まぁ他にもっと大きな要因があるだろうとも思うけど、これ以上冗長ではいけないので話を進めよう。

「うん。これは僕個人の考えだけれど、精神心理学の世界で戦後最大と言いたくなる和光大学で名誉教授でいらっしゃる先生がいるんだけれど、その人が大人と子供の違いについて語っているんだ。『自分の行動規範をどれほど認識し、相対化しているか、その通用する限界をどれだけ知っているかにある。これが大人だ』とね」

「という事は…」

と私はメモをし終えてから顔を上げ、義一に言った。

「その行動規範というのが…前々から私たちが話している文化だとか、伝統って事になるのかな?」

「そう、その通り。あえて確認の意味も含めて言えば、行動規範…規範って言うくらいのものだから、元々ある筈のもので、今から作る様なものではない。それは過去の何処かに内在されているものの筈。そうなると、今日の議論の中にも出たけれど、ただ単に習慣からではなく、その中にある伝統から汲み取れるような物が規範と成り得ると思うんだ」

「うん」

「だからまぁ…また我田引水に過ぎて卑怯な様だけれど、これは保守の態度と同じとも言えると思うんだ」

「だから…」

とここでふと武史がニヤケ面で話に割り込んできた。

「大人になるって事は保守的になるって事で、逆に言えば保守というのは大人な態度とも言える訳だな」

「なるほど…」

と私は軽くまたメモを取りつつそう漏らしたが、ふと顔を上げて義一と武史に視線を配り、そして武史に負けじとニヤッと笑いながら返した。

「確かに…我田引水に感じなくもないけれど、でもまぁ、何も反論の余地も無いから、大人についてという疑問に対しての返答は、それで今日のところは納得してあげる」

「お、変に長ったらしくそう生意気に返すところなんざ、どっかの野郎と同じだなぁ?」

「ふふ、ありがとう」

武史と義一が、それぞれの態度で返してくれたその時、ふと腕時計を見た。時刻は九時半になろうとしている所だった。

ここでふと私は顔を上げて、一同を見渡し口を開いた。

「あのー…私からちょっといいですか?」

これに対して一同は「何?」とそれぞれのやり方で示したが、それに構わず私はその場で立ち上がって続けた。

「今日は私のコンクールでの全国大会進出を祝うためだけの為に、わざわざ集まってくれて有難うございました」

私はここで一度大きく深くお辞儀をした。義一や絵里、そして聡も含めた一同は呆気に取られてしまっていたが、この様な挨拶をしようという計画は、こうしてお店に行く事が決まった時点で思い浮かべていたのだった。

そして顔を上げて、まだ少し呆気にとられたままの一同を見渡し、マスターとママの方向で一度顔を止めると、続けた。

「マスターさん達も、今日はわざわざ私の好みの物の品数を増やして下さって、有難うございました」

と言い終えるとまたお辞儀をすると、「いいえー、どういたしまして!」とママは笑顔で返してくれた。顔を上げてマスターの顔を見ると、相変わらず表情があまり変わらなかったが、口角が気持ち上に持ち上がっていた。視線も微妙に柔和だったと思う。

それを確認すると、今度はチラッと部屋の隅にあるアップライトピアノの方に顔ごと向けてから、一同をまた見渡し、この段階にまで来ると、何故か今更急に気恥ずかしくなりつつも続けた。

「で、ですねぇ…もし良かったらですけれど、そのー…私がコンクールで弾いた曲を、今この場で演らせて貰っても良いでしょうか?お返しになるかは分からないけれど…」

最後の方では顔を上げたままでいることが出来ずに、若干俯き加減になりつつ言い終えた。

どれくらいだったのだろう?実際は十秒も経って無かったかもしれないが、長く感じる沈黙が流れた後、真っ先に口を開いたのは、こう言っちゃあ何だが意外にも百合子だった。

「…そんなの、言うまでもなくお返しになるに決まっているわよ」

そう言う百合子の顔には、静かな透き通る様な微笑みを見せていた。「…ね?」

「…ね?じゃあないよぉー。その役割は私じゃないの?」

と美保子は何故か不満げに百合子を見てから、私に明るい笑顔を見せて続けた。

「百合子ちゃんに先を越されてしまったけれど、そんなの良いに決まっているじゃない!お返しだなんて、むしろお釣りを返さなきゃいけないくらいだわ」

「…ふふ、それは流石に美保子さん、大げさ過ぎ」

美保子の言い分に、私は思わず笑みが漏れてしまった。

「そうそう」

と武史も私にニヤケ面を向けてきつつ言った。

「初めの頃に言ったけど、僕でも知ってるくらいのコンクールだし、前々から気になってはいたんだけれど、当然というか、関係者しかそのコンクールを聞きには原則行けないからねぇー。こうして決勝に出るほどの人の演奏を、こうして生で聞けるだなんて嬉しいの一言だよ」

「そうだね」

と寛治も短く同意してくれたその時、

「そうやって琴音ちゃんに変なプレッシャーをかけないでくれよぉ」と武史はすかさず義一に突っ込まれていた。それに対して武史はただ笑うのみだ。

その様子を見てまた自然と笑顔になっていたその時、ふと背中に温もりを感じたので隣を見ると、絵里がただ静かな穏やかな笑みをこちらに向けて、手をそっと背中に当ててきていた。私は同じ様に何も言わずに見つめ返し、そしてニコッと笑い返すのだった。

武史の相手が終わった義一は私に向き直り、「じゃあ、お願い出来るかい?」と聞いてきたので「うん」と返し、ふとマスターとママの二人の方に顔を向けて「ピアノをお借りしても良いですか?」と遅まきに我ながら間抜けなタイミングで聞くと、「勿論良いわよー」とすっかりほろ酔いのママが間延び気味に答えた。

それを聞くと私は立ち上がり、ピアノの方に向かうと、ふとマスターが立ち上がり、私よりも先にピアノに近づき、底に付いているキャスターのブレーキを外すと、少し移動させた。止めたその場所は、皆の位置から私の姿の右半分が見える所だった。コンクールと同じだ。マスターはその後で椅子を持って来て、最後に蓋を開けてくれた。

「有難うございます」

と私が言うと、「…調律は大丈夫なはずだから」とぶっきら棒な調子で言ってから席へ戻って行った。

「はい」と私は短くお礼のつもりで返事をすると、すぐそばの壁に手をつき、軽くストレッチをした。

そして少し離れた位置に固まって座る一同に振り返り、本番さながらにお辞儀をして見せると、皆は一斉に拍手をくれた。

これは本番とは違っていたが、そんな細かい所には気を向けずに、そこから密かに編曲した課題曲を、三十分かけて弾いたのだった。



「もうすぐで車が来るから」

ママがそう言うと、カウンターの中に入って行った。

ここはお店の”喫茶店部分”。例のごとくまだ私が未成年ということで、こうして足早にお店を後にすることと相成った。ただ普段と違うのは、言うまでも無いことだが絵里が同伴している事だった。今日は三人で帰ることとなる。聡は普段通りもう少しここにいる様だ。


私の演奏が終わったのは、予定通りの十時丁度だった。弾き終えて私がまたお辞儀をすると、まず真っ先に美保子が駆け寄って来て、そしてそのまま豊満な体を押し付ける様に抱きついて来た。

「琴音ちゃん、すごく良かったわよ!初めてあなたの演奏を聞いたけれど、本当に惚れ惚れとしたわ。演奏内容だけでなく、その弾く姿にもね?…いやぁ、人前に出たくないってその言い分も分からないことも無いけれど、勿体無いわぁ」

「ふふ、有難う美保子さん」

私は少し苦笑まじりにだが、それでも本心からお礼を返した。

美保子の私への言葉は、他の人がもし言ったら下手するととても嫌な気持ちになるだろう事が予想されるけれど、こと美保子からだと素直に純粋に嬉しかった。その理由はもう単純なことだ。初めて会った時から美保子の音楽という芸に対する、偉そうな言い方で恐縮だが”本気度”が分かっていたので、そんな真剣に私よりも先に生まれて取り組んでいる美保子にそう言われたら嬉しいのは言うまでもないだろう。

それからは百合子、武史、寛治の順にそれぞれの分野からの視点から褒めてくれた。そのどれもがユニークで、嬉しさと同時にとても参考になった。そして後は、聡、義一、絵里の順にまた褒めてくれた。私のサプライズに対してもだ。

絵里が感想を言い終えた後、義一はおもむろに時計を見て、いつも通りに一同に挨拶して今となる。


私、義一、そして絵里はそれぞれ皆と別れの挨拶をした。

絵里に至っては、美保子と百合子と連絡先を交換していた。

絵里は二人から求められた時は最初は戸惑っていたが、それでも側から見ていて快く応じてる様に見えた。

私は私で、美保子と百合子と挨拶した後、今回初対面の武史と寛治と、その内また会いましょう的な会話を交わし、そして最後にまた改めてマスターとママにご馳走のお礼を言い終えたその時、お店の前に一台のタクシーが停まった。


「いやぁ、驚いたよ」

地元に向かうタクシーの中、助手席に座る義一が正面を向きつつそう漏らした。

「まさかあんなサプライズを用意してたなんて」

「ふふ」

私は、相変わらず街灯の少ない世田谷の住宅地をノソノソと行くお陰で真っ暗な車内で、相手に見えるかどうか考えないまま満面の笑みを浮かべつつ返した。

「あの後ずっと計画練ってたんだー。ちゃんと三十分前後に収まる様に編曲してね」

「それでもキチンと原曲を損なわずに弾いてたね」

「流石だわ、琴音ちゃん!」

と私のすぐ隣にいるはずだが、暗闇の中で顔は見えなかったが、絵里が笑みを浮かべてそうな声を掛けてきつつ、シートの上に無造作に置いていた私の手を握ってきた。

それに対して振り払うこともせずに、されるがままに

「うん、ありがとう」

と返した。

「でもなぁー…」

と絵里は私の手を離すと、少し不満げな声を漏らした。

「せっかくの琴音ちゃんの決勝進出祝いと、決起集会を兼ねてたはずなのに…アレで良かったの?」

「え?どういう事?」

私は何も深読みしなまま、ただ絵里の言葉の意味がよく分からなかったので、素直な気持ちで問い直した。

すると、隣から絵里が顔を私に向けてくる気配を感じた。

「いや、なに、あの集まり自体には何の文句もないのよ?…そもそも、私は部外者だしね?でも、それでも、結局あの場で過半数占めていたのは、そのー…ほとんどが小難しい会話ばかりで、何だか…言い方が難しいんだけれど、んー…琴音ちゃんが主役じゃなかった様な気がしたのよねぇ」

「んー…」

私は、絵里が私を想うあまりに、アレコレと試行錯誤をして話してくれた形跡を、その辿々しさから見出したので、何と返していいものやらと戸惑っていると、「ふふ」と助手席の方から小さな笑みが聞こえた。

「絵里…君だって分かってるだろ?琴音ちゃんは、変に持ち上げられて持て囃されるよりも、あぁして普段通りに一緒に過ごしてくれてる方が嬉しいんだよ」

「…分かってるよぉ」

絵里は前方をキッと睨みつつ、若干恨めしそうな口調で返した。

この時の私としては、これが初めてなら『なにを本人を前にして、あれこれ言ってるのよ』と思ったり、もしくは口に出して突っ込んだりしただろうが、これも日常茶飯事…まぁ絵里が私たち…本人の口癖をそのまま借りれば私の為を思ってというのと、義一の考えの浅さ加減に対して、普段から口に出して叱ってくれていたので、なにも思わないと言うと語弊があるが、そのまま流すことにした。

「でもやっぱり私としては、もうちょっと琴音ちゃんを祝いたかったなぁ」

「ふふ、気持ちだけで十分だよ。…ありがとう、絵里さん」

と私は最後のセルフに情感を込めつつ、今度は私から絵里の手を握った。夏場だと言うのにひんやりとしていて、心地よかった。

「…もーう、ズルいんだからなぁ」

と表情は見えなくとも口調から苦笑いなのが伺えた。

「まぁ…あなたが良かったのなら、それ以上なにも言う事なんか無いわ」

絵里も先ほどの私の様に情感を込めた口調で言うと、私の手を握り返してきた。私は「ふふ」と小さく笑うのみで、私からもほんの少し握る力を増したのだった。

「まぁそれに…」

絵里はそっと私の手を離しながら言った。

「今日はギーさんの習性の本質的な部分が垣間見れた感じもあったし、それなりに収穫はあったかな?」

「ふふ、何だよー、人を動物の様に言って」

義一は前方を見ながらそうボヤいていたが、声の色からは不満と言うよりも、愉快さの方が優っていた。

絵里もそれに乗っかる形で続ける。

「だって、もうかれこれ十五年の付き合いになるのに、今日ほどハッキリとあなたの内面を見れた気がした事は無かったからね。結構口が回る癖に、何だか確信の所に近づくと、ケ・セラ・セラと逃げるんだから」

「あぁー…それは分かるかも」

と私が笑いを含みつつ言うと、「でっしょー?」と絵里も同じ調子で返した。

「何だよー…二人して僕一人にかかって来るのかい?」

と義一は苦笑しっ放しだったが、今度は口調に意地悪げを混ぜて返した。

「今日話した様な内容は、ここまで深く掘り下げなくても、結構会話の中で出てるはずなんだけれどなぁー。それに…僕らの雑誌を読んでくれてるのなら、今日の様な話も出てたと思うけど?」

「まぁねー…でもさ」

絵里は思いがけず素直に返し、そのまますんなりと滞りなく続けた。

「やっぱり、字で読むよりも、こうして直接話してくれた方が、スッと頭に入ってくるものなのよ」

「いや、だから、昔から何となしに織り交ぜていたはずなんだけれど…」

「…ふふ」

と、普段通りの二人のやりとりを聞いて、自然と笑みが溢れたが、絵里の言う事には全面的に賛成だった。

また改めて言うこともないだろうけど、義一からこの時点で五百冊近く本を借りて読んでいた訳だが、確かに一人でジッと読む時も、また義一が貸してくれる本自体の魅力も手伝って、新しい発見が次々と現れてくるのを見れる喜びは感じれていたのだけれど、やはりその後での義一との感想の言い合いこそが、最も面白かった。まだ私が中学生で未熟だというのもあるのだろうけど、それを補足してくれる度に、ただプラスされていくというよりも、感覚としては足し算ではなく掛け算くらいに理解が大きく膨らんでいく様に感じて、それは至福のひと時なのだった。

最近義一がようやくというか、思想哲学の本も貸してくれる様になって、この頃はプラトンを中心に読んでいたのだが、その中で、ソクラテスがさっき絵里が言った様なことを、『何で本を書かないんですか?』という問いに対して答えていたのを思い出していた。

それからはその繋がりというか、主に百合子の話を中心に、絵里が色々と熱のこもった感想を述べていた。私は途中から義一たちと議論をしていたので内容までは聞けてなかったのだが、この時に初めて知れた。細かく話す余裕は今は無いが、絵里は絵里でかなり今回の会合を楽しんでくれた様が見れて、ホストでもないのに、大袈裟な言い草の様だが嬉しさが込み上げてくるのを感じるのだった。


タクシーが夜も深まっているというのにまだ賑わいが引かない都内の繁華街を抜ける頃、義一が「今日の神谷先生のテレビ出演部分を録画してるから、今度見せてあげるよ」と言ってくれた時、私が感謝を述べると、絵里が苦笑していた場面があったり、義一は義一で恐らく狙ったのだろうが、それに付け加えて、寛治がお店に来る前に講演して来たという三田の大学の映像も、「それは大学のホームページにあるというんで、それは興味があったら見てみてね」と追い打ちをかけたので、絵里が一人「あー、ますます琴音ちゃんがギーさん臭くなっていくー」と、それこそ演技臭くボヤいていたが、ふと私の方に顔を向けると、優しい笑顔を浮かべて言った。繁華街を通っているせいか、車内も若干光度を増してよく顔が見えた。

「でもまぁ…一番初めに見た時のお人形さんの様なあなたよりも、今の若干ギーさん臭のする変わったあなたの方が魅力的だわ」

「え、あ、うん…あ、ありがとう」

私は唐突に褒められたのでしどろもどろになったが、すぐに意地悪な笑みを作って返した。

「そのセリフ…もしこの場に裕美がいたら、『そんな恥ずいセリフ、言わないでよぉ』って突っ込まれてたね?」

と声真似までして言うと、「あははは!」と絵里は底抜けに明るく笑った後、「本当そうね!」と返すのだった。

それからは取り止めのない話で盛り上がっていると、いつの間にかタクシーは私の家の前に停まった。毎回そうだが、日が沈んでからもしばらくは、私の前の通りはそこそこ車通りがあるのだが、夜も更けてきたせいか、一台も走っていなく、そもそも来る気配も無かった。

今回は絵里がいるというイレギュラーだったが、それでも普段と変わらず、義一と絵里は一度降りてきて、私と挨拶をした。そして二人がタクシーに乗り込み、ゆっくり走り出す時も、車内から二人が笑みを浮かべてこちらに手を振ってきたので、私も同じように返した。そしてタクシーの赤いテールランプが、一つめの曲がり角を曲がる事によって見えなくなるまで見送るのまでが一つの流れだった。

見えなくなると、私は誰もいない家に入り、シーンと静まり返った中で淡々と寝支度をした。

いくら大人ぶって見せて…いや当人としてはそんなつもりは無いが、おそらくそう思われているかも知れないが、もし何もなく一人で家にいたとしたら、正直とても寂しかったとおもう。何せ言ってもまだ中学二年生なのだ。いや、他の同年代はどうかは知らないが、少なくとも私はそうだった。ここ最近は数寄屋に行かずに、ひたすらコンクールの準備をしていて、毎回では無かったが両親がいない時に、それは実感として持っていたのだ。だが、数寄屋から帰ってきた時は、その日にした会話や議論が頭に甦り、それを反芻しているといつの間にかベッドに入っているのだった。だから寂しさを感じる暇など無かった。こんなところでも良い影響が出ていた。

この日も気づけばベッドの中に入っていた。普段以上に頭を使うせいか、大体横になってしまえばものの数分で寝落ちしてしまうのだが、この日はふと数寄屋を後にする直前の風景を思い出していた。

そして思わず「ふふ」と一人、思い出し笑いをするのだった。

それはこんな光景だった。


「今日はごちそうさまでした」

と絵里がマスターとママに挨拶をしていた時のことだ。

マスターとママは私にするのと同じ要領で返していたが、ふとママが何かを思い出したような顔つきになると、次にはニヤケ顔で絵里の耳元に近寄って何か囁いた。ハッキリとは聞き取れなかったが、内容としては、何でママが絵里の好みのワインを当てられてのかの種明かしだった。そしてそれはどうやらというか、まぁ想像通りだったが、情報源は義一だったらしい。絵里も一緒に数寄屋に行くという段取りになって二、三日しか間が無かったはずだったが、あの時そんな素振りを見せずに飄々としていたのに、裏ではちゃっかりこうして手を回していたという訳だ。これはのちに誰だったか…まぁおそらくママからだろう、聞いた話では、中々すぐには手に入りにくいワインだった様で、結構無理をして取り寄せたといった話だった。

ここから何を察するかは皆さんに任せるにして、この情景を思い出して何で笑みが溢れたかというと、この後の絵里の反応のせいだった。何の変哲も無い反応ではあったのだが、絵里はそれを聞くと、ふと少し離れたところで寛治と武史と談笑していた義一を見つめて、「ギーさんがねぇ…」と短い言葉を漏らしたのだった。

確かに短いのだが、その時の絵里の表情、その言葉に込められた深い情感、とてもじゃないけれど言葉に表しきれないナニカがある様に見えた。そして別にこの時が初めてでは無かったが、照れ隠しに誤魔化さない、ありのままの絵里の本心が改めて見れた様な気がした。

それを最後に私は静かに眠りに入っていった。

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