第15話 観劇にて

「ふぅ…んーん!」

私は座りながら大きく両手を天井に向けて伸びをした。

ここは自宅の私の部屋。学習机の脇に隙間無く寄せて、くっ付けてあるパソコンデスクの前に座っている。目の前のモニターには、ある番組が丁度終わったところだった。

その番組とは、ネット上でのオンデマンド放送をしている、立場的には所謂”右”と目されている放送局の中の、とある討論番組だった。約三時間ほどのもので、地上波の様に不躾に勝手に発言をカットしたり、もしくは放送しないとか、そういったマネをしない点で、最近でテレビらしい番組を観ているのは、毎週土曜日に放送されるコレのみだった。…いや、それでもやはり毎度ではない。毎度欠かさず見るのは、ある人や、その人関連の面々が出演する時に限られていた。…今日の様に。

こうも引っ張る事もなかったかも知れないが、その人とは…そう、神谷さんだった。

この番組の存在を私に教えてくれたのは、もちろん義一だった。ここ最近…いや、最後に神谷さんと会ってからだいぶ経っていた。何しろ、その落語の師匠を交えて数寄屋で会話し議論してから、一度も会っていなかったのだ。前回お店に行った時は、スレ違いというか、神谷さんが衛星放送局の生放送番組に出ていたというのもあって、会えなかったのを覚えておられる方もいるだろう。あの後で義一に録画したのを見せて貰ったりしていたが、その流れで、比較的に頻繁に神谷さんが出演している番組、放送局があるというので教えて貰った次第だった。

落語の師匠が来られた時にも感じた事だったが、心なしか神谷さんのほっぺがこけて見えたのが印象的だったのだが、それは薄暗い店内での錯覚のなせる技かと思っていた。だが、その後の衛星放送の出演場面や、それ以降よく観ているネット放送番組で確認すると、やはり徐々に顔が痩せ細っていってる様に見えていた。この事は私のことだからすぐにでも義一に聞いてみたいという衝動に駆られていたが、何だかそんな私でも気軽に聞く気にはなれなかった。それで今に至る。ただ見るからに痩せこけてはきていたが、その弁舌たるや、まさに立て板に水といった調子で、次から次へと言葉を紡ぎ出していっていた。当人は「多弁症だから」と自嘲気味に笑うのだろうが、そこいらのただ口が回る割に内容の空っぽな輩とは、比べるのもおこがましいほどに、その言葉一つ一つに深い思索の痕跡が滲み出ていて、それ故に発言が長くても最後まで難なく聞けた。これは、何度か数寄屋で同席した私だから、今更な感想かも知れないが、何度言っても言い過ぎということはないだろう。

コホン、とまぁ、神谷さんやその関係者…ズバッと言えば、雑誌”オーソドックス”に集う面々という意味だが、今度は何故彼らだけが出演してる時のみ観てるのか、これも軽く説明するのを許していただきたい。勿論というか、当然というか、この放送局はオンデマンドというのもあって、私がまだ見始める前の過去の放送が大量に保存されていたので、一種の好奇心でそれらをツラツラと試しに視聴してみたのだが、何というか…言っては何だが、どれも退屈なものばかりだった。どんな内容だったか簡単に言うと、これが所謂”右”と目される所以だろうが、無闇矢鱈と”日本”を褒めちぎり礼賛する物だとか、それに関連して、経済やなんだと、極矮小な話をより矮小化して議論したりしていたのだ。私は地上波をろくに見ないので決めつけは良くないが、漏れ聞こえるところによると、以前よりかは地上波でも日本を礼賛する番組が増えてるとのことだが、そうだとしたら、折角のネットという、良くも悪くも好き勝手やれる場所を持っているのにも関わらず、矮小な近視眼的な、どこか深い思索を経てない様な、ただ情報を垂れ流すだけの空虚な内容の放送しかしないのだから、まぁ地上波との差異が無いのなら見ることはないだろうと、それで結局神谷さんたちが出る時だけに限られてしまった。話を戻そう。

今日の議論は幅広の長テーブルを挟んで、片方には”オーソドックス”から数人が、そしてもう一方にはこの放送局の番組によく出演している面々が座っていた。まぁ今はその内容に触れられるほどの暇が無いので、私の主観的な感想を述べさせて貰えれば、繰り返しになるけど、やはり数寄屋の面々との話す内容の差がひどかった。他の番組でよく見る面々の話す内容が薄っぺらすぎて、三時間あった放送のほとんどが、最後まで噛み合わずに終わったという感じだ。それでも、身内びいき(?)と思われるかも知れないが、神谷さん含む片方の話が興味深くて、それだけで三時間が無駄でなかったと思えた。

因みにというか、今日出演した神谷さん側の出演者の数名は、一人としてまだ私は直接会った事が無かった。雑誌で名前を知ってる程度だった。必要じゃなかったかも知れないが、それだけ補足させて頂く。

天井向けて伸ばした腕をゆっくり下ろしつつ、壁にかけられた時計を見ると、時刻は夜の十一時を示していた。神谷さんたちが出演するという情報は前もって知れるので、このような土曜には早めに寝支度を済ませ、それから八時からパソコンに齧りつくのが習慣となっていたので、電源を落とすとそのままベッドに入り込み寝るのだった。


「…っと、お母さん、今から絵里さん家に遊びに行ってくるね?」

と私は靴を履き終えてから声をかけると、

「えぇ、いってらっしゃーい。あまり迷惑をかけるんじゃありませんよー?」

と居間の方から声だけが聞こえてきたので、少し声を張りつつ答えた。

「分かってるー」

バタン。

私は自宅の玄関を閉めると、そこで一度大きく伸びをして空気を吸い込んだ。

今日は文化祭が終わって一週間が経った、十月の第一日曜日。毎年この時期でも夏の気配がしぶとく残っていたものだったが、例年にしては珍しく”秋”というのを体感的に感じられる日々が続いた。なので今日の私の服装も、厚着ではないにしても、Tシャツの上からカーディガンを羽織っていた。それで丁度いいくらいの陽気だ。空は高く、いわし雲が見えており、まさに秋空といった趣だった。お気に入りの腕時計をして、スマホなどの必要最低限の物だけ入れた普段使い用の黒のミニバッグを手に持つのみだ。

私はそのミニバッグを手元で弄びつつ、気分も軽やかにレンガ調のアプローチを抜けて敷地内を出た。気分だけでなく、いや、それに伴ってか自分でも分かる程に足取りが軽かった。

まぁ然もありなんだろう。勿論一つの理由としては、絵里に会えるというのもある。何だかんだ、あの決勝が終わった後も忙しなかった。勿論というか、前にも話したように、私のお祝いにお母さんが絵里を呼んでくれたり、後は文化祭にも来てくれたりと、結構頻繁に会っていたと言えばいたのだが、それ以前のように、あの絵里のマンションで、ひたすら昔の映画の話だとかを延々と語らう様な、そんな緩い感じは久しかったのだ。

それともう一つ、これが決定的な理由なのだが、それは…絵里に関しては、もう何も色々と小細工をせずとも気軽に会えるという点だった。これはとてつもなく大きい事だった。あの時絵里に「行こう」と言われた時は不安でいっぱいだったが、絵里のその英断のお陰で、少なくとも絵里関連でこれ以上誤魔化さなくても良くなったのには…本当に心の底から絵里に感謝している。

ただ…今日に関しては、また一つ嘘が紛れ込んでいた。

私は土手に向かっていた。土手の麓に着くと、そこから横に切れて、土手に沿って走る高速道路の下をしばらくまた歩いた。倉庫らしきものが建ち並ぶだけの人気の少ない寂しい通りだ。しばらくして斜に出ている狭い路地に入ってまた数分歩くとお目当の家に着いた。

そう、もう言わなくとも分かるだろう。義一の家だった。

まぁ…義一の家自体に来るのも最後が絵里を伴って数寄屋に行くのに待ち合わせ場所に使って以来だから、何だかんだ二ヶ月ぶりというのもあって、それもワクワクした大きな要因の一つだった。

秋に入り、そろそろ冬支度を始めているのか、垣根を越えて外からは家の外観が見渡せないばかりに繁茂していた木々の葉っぱが、若干少なくなっていた。でも、それでも枝が密集して交叉したりしていたので、見え辛いのには変わらない。

合鍵を取り出し鍵を開けた時にふと、借りていた何冊かの本を持ってくるのを忘れたと思い出したが、今日はまぁ仕方ないかと自分勝手に納得し、ガラガラと大きな音を立てる引き戸式の玄関を開けて入った。

「義一さーん、来たよー」

「いらっしゃーい」

と返事を返してきたのは、何と女性の声だった。…”何と”は大げさか。とても聞き慣れた声だった。

廊下の一番奥、”宝箱”から出てきて私を笑顔で出迎えてくれたのは絵里だった。室内だからか、無地で細身の長袖Tシャツにワイドパンツ姿だった。

「あ、絵里さん、もう来てたんだ」

と私は靴を脱ぎつつ言うと、絵里は私の背中に向かって返した。

「そうよー。まったく…ギーさんとこんなボロ家の中で二人っきりとか、息が詰まるかと思ったわ…」

「聞こえてるよー?」

と今度はキッチンの方から男性の声が聞こえた。言うまでもなく義一の声だ。ただ、まだ姿が見えない。

「ふふ」

と私は笑みを零しつつスリッパを履くと、一度腕時計を見てから、ふと絵里の耳元に顔を近付けて、ニヤケつつ小声で言った。

「とか言っちゃってぇ…私はちゃんと時間通りに一時に来たっていうのに、それよりも早く来てるっていうのは何か…」

「…琴音ちゃーん?」

絵里は素早い動きで私から離れると、顔いっぱいに不機嫌そうな表情を浮かべながら返した。

「それって、何が言いたいのかなぁー?」

「え?何?ハッキリと言って欲しいの?」

と私は私で笑顔を崩さずに惚けて見せると、「もーう…」と絵里はため息交じりに声を漏らして苦笑いをするのだった。

それを見て私はまた笑みを浮かべたが、ふとその時、「はぁ…」とため息を吐きながらキッチンから義一が出てきた。

相変わらず長髪を後ろで纏めてポニーテールを作り、伸ばしかけの前髪も無理に纏めず、あえて後れ毛として残しておくだけという、アンニュイな雰囲気の義一に合った髪型をしていた。…あくまで私の個人的な感想だけれど。

服装も白無地のTシャツにジーンズと、これまた代わり映えのしない格好だった。

義一は私の姿を認めると、和やかな笑みを途端に浮かべながら声をかけてきた。

「あ、琴音ちゃん、いらっしゃい」

「うん、久しぶり義一さん」

と私が返すと、義一はキョトン顔になった。

「…あれ?久し振り…だっけ?」

「そうだよー。ほら、この三人で数寄屋に行った振り」

と私が絵里に視線を流しつつ言うと、「…あぁ、そっか、そっか、確かに久しぶりだねぇ」などと呑気な調子で義一が返してきた。

と、その時、「あのさ、ギーさん…?」とここで絵里が話に割って入ってきた。

「レディ二人を、いつまでもこんな所で立ち話させるのはどうなのよ?」

「れでい…?二人…?」

絵里に薄目を向けられながら言われた義一は、おでこに手を当てて辺りを見渡すようなジェスチャーをしながら

「…僕にはレディが一人しか見えないけれど…?」

と最後に私に視線を話しつつ言うと、

「はぁ…」

と絵里は大きくため息をついて見せた。

「まぁ…ギーさんみたいな朴念仁に、いいオンナってのがどんなものなのか、分かってもらおうってのが無理ってもんよねぇ」

「…ふふ」

と、これまたいつも通りの二人の息の合った”夫婦漫才”を見せられて、久しぶりというのもあってか簡単に笑みが溢れてしまった。

「おいおい、見くびってもらっちゃ困るなぁ」

義一はニヤニヤしながら、ふと私の背中にそっと手を置きつつ返した。

「僕はこうして琴音ちゃんが、レディ…つまりは淑女だと分かるんだから」

「ちょっとー」

と急に矛先が私に向いたので、サッと体を横に躱すと義一にジト目を向けた。

「私を巻き込まないでよー」

「確かに…」

と絵里は私の顔を覗き込みつつ、真面目ぶった顔つきで顎に手を当てながら言った。

「琴音ちゃんが淑女だっていうのには、反論はないけれど…」

「…二人ともー?」

と私はジト目のまま義一と絵里の顔を交互に見ながら声を上げた。

それから数瞬は顔を見合わせていたが、途端に明るく笑い合うのだった。


「じゃあギーさん?」

と絵里は宝箱に向かいつつ言った。

「お茶と私の持ってきたスイーツ、ヨロシクね?」

「はいはい」

義一がそう答えつつキッチンに戻るその背中を眺めていると、

「ほら琴音ちゃん?」

「え…?って、わっ!」

絵里が早い動きで私の背後に回ると、そのまま私の背中をグイグイと押してきた。

「ほら、野郎に支度は任せて、女子二人はさっさと座って待っていよう!」


元々この家自体はその香りで充満していたのだが、宝箱に入った途端、香りは一層強まった。古本特有の甘い香りだ。私の好きな匂いの一つだ。入った瞬間に目の前に鎮座する大きな書斎机、壁を覆わんばかりの本棚と本の数々、ピアノだとか大きなテレビや諸々の雰囲気も含めて、やはり私はこの場が大好きだと改めて実感した。

何度も、もう数え切れない程にここに来てるが、それでも毎回宝箱に入ると、一度ぐるっと辺りを見渡さずには居れなかった。

今日もそうしていたのだが、「琴音ちゃん」と絵里に声を掛けられた。

「ほら、さっさと座ろうよ」

「うん」

ここを訪れた初期の辺りでは、二人がけ用の丸テーブルを使っていたのだが、それとは打って変わって最近では定番になった、小洒落た喫茶店のテラスに置かれていそうな、小洒落た面が正方形の四人がけテーブルの周りには、既に三人分の椅子が用意されていた。そのうちの一つは、キッチンにある食卓の椅子だった。

テーブルの四辺のうちの一辺に私が座ると、斜め向かいに絵里が座った。”食卓椅子”だ。

私たち二人が座ったのと同時に、タイミングよく義一がトレイに茶器のセットと、お皿に盛り付けられた絵里のお土産を乗せて入ってきた。

「お待たせ」

「お、待ってました」

義一が茶器と柄が同じの円形のトレイごとテーブルに置くと、絵里は子供のように手を何度か叩きながら言った。

「いやぁ、琴音ちゃんがいると、この男もちゃんとこうしてお茶を出したりと、客人向けの態度をしてくれるから助かるわぁ」

「それを言うならさ…?」

と義一は、小ぶりのケーキを小皿に取り分けつつ、視線だけ絵里に流しつつ

「絵里、君もだろ?琴音ちゃんがここに来ることを事前に知らなかったら、手ぶらで来るんだから」

と苦笑まじりに返すと、絵里は私に視線を流しつつ、不思議と素直に「まぁ、そうね」と微笑みながら言った。

このやり取りに対して、何かしらの良い言葉が見当たらなかったので、取り敢えず二人に合わせて微笑みを浮かべつつ、取り分けられていくケーキの行方を眺めていた。

「…さてと」

三人分のカップに紅茶を注ぎ入れ終わった義一は、自分の席に座ると、チラッと絵里に視線を向けて、フッと表情を緩めるように微笑みつつ「絵里、ほら、例の…」と声をかけると、「え、あ、あぁ、例のね」と明るい笑顔を浮かべつつ、おもむろにカップを手に持ったので、何も言わずとも私と義一も自分のカップを手に取った。

それらを確認すると、絵里はコクっと大きく一度頷き、それから明るく言い放つのだった。

「では…かんぱーい!」


「かんぱーい」

カツーン。

私たち三人はお互いのカップを軽くぶつけ合うと、一口ズズッと紅茶を啜った。

「…はぁー、美味い」

とまず第一声を上げたのは絵里だった。

「本当にギーさんは紅茶を淹れるの”だけ”は美味いよねぇ」

「ふふ、”だけ”は余計だよ」

そう返す義一も満更でもなさそうだ。

「ふふ」

とそんな二人の様子を見て私は微笑みつつ一人紅茶を啜った。

それからは各々が小ぶりのケーキを食べながら、まず初めに私の一連のコンクール話に花が咲いた。

先ほども触れたが、メールなどで連絡は取り合っていたのだが、こうして直接顔を合わせるのは久しぶりだったので、改めて予選からの思い出話を質問されるのを答える形でしていった。

途中でおもむろに義一は立ち上がると、テレビの側で何やらゴソゴソと作業をして、それからテレビの電源を入れた。そこには画面一杯に、私のドレスアップした姿が映し出されていた。

それが映ったのを見た瞬間、私は驚いて思わず口に含んでいた紅茶を吹き出しそうになった。その横で絵里は「おー」と呑気な声を上げていた。

「ギーさん、なかなか粋な計らいをするじゃない?」

「でしょ?」

義一は何故か得意満面に浮かべつつ、何やらリモコンを手に持って戻ってきて座った。

「何が『でしょ?』なのよ…」

と私が苦笑まじりに呟くのを他所に、義一がリモコンを操作するたびに切り替わっていく私のコンクールでの様子を、二人はあーだこーだと、本人が側にいるのを何ら気にする様子を見せないままお喋りしていた。

ちなみにというか、これらは予選時から決勝までのを順々に見ていったのだが、予選、本選、決勝と、お母さんや他の人から送って貰った写真を、私がまたそのまま義一のパソコンに送ったものだった。初めのうちは恥ずかしくてまともに見れなかったが、次第に慣れて、二人が無駄に褒めてくるのに対して呆れ笑いを浮かべながら、ツッコミを逐一入れていった。

その流れで、そのまま写真は後夜祭まで続いていった。これらは裕美たちに送って貰った写真だった。これまた私のドアップが続いていたが、途中でちゃんと(?)藤花のアップも映し出されてきた。写真の中の藤花の視線は、どこか遠くに向けられてる風で、いかにも無心になって歌を放っているのがよく分かる、なかなかに良い写真だった。

…っと、ここでついでというか、閑話休題というか、軽く文化祭以降の私たちの話に触れようと思う。

あれから二週間ばかりは、私の周囲、そして聞くところによると藤花の周辺も騒ついていたらしいのだが、それ以降は徐々に周りの熱も冷めていき、今では通常通りに時を過ごしていた。例の、コンクールの本選の時に同じ会場にいたというクラスメイトとも、以前よりかは話す機会が増えてはいたが、それでもまぁクラスメイトから”知り合い”レベルに上がったくらいのものだった。

相変わらず私は、律と二人で過ごすことが多かった。

まぁ結論を言えば、あれだけ目立った事をした後でも日常に際立った変化は無かったということだ。話を戻そう。


それからはコンクールの話から逸れて、しばらくはお互いに会わなかった間どう過ごしていたのかを報告しあった。といっても、私はコンクール関連しか内容は無かったし、義一は義一で毎年八月恒例の、雑誌オーソドックスの特別号への執筆で忙しくしていたという、まぁ特に思いがけない報告はお互いに無かった。

…いやむしろ、思いがけない報告、それが無かったのに驚いた。どういう事かというと、この会話の中で気付いた方もおられると思うが、絵里が何気無くコンクールに行ったという思い出話を、義一が何も引っかかる事なくすんなりと聞いていた事だった。

まぁ理由についてはすぐに察した。単純に私の預かり知れないところで、絵里が義一に私のお母さんに挨拶に行った事を話していたのだろう。その時に義一がどんな反応を示し、そして絵里に何を言ったのか、それらについては当然気になったが、まぁそれは二人だけの間の話だろうと、自分で言うのも何だが私にしては珍しく、大人しく引き下がることにした。


話題はあちこちに飛び、途中から絵里がいる事もあって、昔の映画の話で盛り上がっていたその時、ふと『ジーーーーっ』という音が家中に響き渡った。

私は一瞬ビクッとした。この音がすぐにインターフォンのチャイム音だとすぐに分かったのだが、この家の中にいて、この音を聞くのは初めてだったので、思いの外大きい音量だったのに驚いたのだった。絵里もそんなに慣れていなかったのか、それとも意外だったのか、私ほどではないにしても少しビクッとしていた。

「義一さん?」

と私が声をかけると、

「うん、誰だろう…」

と義一は首を傾げていた。

「不思議ねぇ」

と絵里も口を開いた。

「ギーさん、今日は誰も来ないって言ってなかったっけ?」

「うん、そのはずだけれど…あ」

と首を傾げたまま考えていた義一だったが、ふと何かを思い出した様子を見せた。

「え?何?」

と私がすかさず突っ込むと、義一はニヤッと意味深に笑うと、ふと立ち上がり、その場で大きく伸びをして見せつつ言った。

「そうだった、そうだった。…あ、いやね、絵里、今君が言った通り、元々今日は来客の予定は無かったんだけれど、今朝だったかなぁ…?ある人から連絡があってね、『今日ちょっと寄ってもいい?』って聞かれたから、僕は快く了承したんだったよ」

「…ちょっとー、ギーさん?」

それを聞いた絵里は、心底呆れたといった様子を見せつつ、ため息交じりに言った。

「今日は私と琴音ちゃんが来ること知ってたよね?それなのに、なーんで了承しちゃうかなぁー?」

「ふふ」

絵里があまりにも演技過剰に言うので思わず笑みを零してしまったが、心情的には私も同意だった。

それでも義一は悪びれた様子を見せずにいると、また『ジーーーーっ』とインターフォンが鳴らされた。すると義一は玄関に向かって数歩歩いてから足を止めてこちらに振り返り、また意味深にニコッと笑うと言った。

「まぁまぁ、そう言わずにさ。きっと今来たお客さんの正体を知ったなら、二人の不満は消えると思うよ?」


「はいはい、今開けますよ」

と言う、玄関の方から義一の声がここまで聞こえてきた。

ガラガラガラ。

けたたましい音を奏でながら引き戸が開けられた音がした。

「すみませんね、出るのが遅くて」

「ふふ、いないのかと思っちゃったよ」

「…女性?」

義一の言葉に返ってきたのが女性の声だったので、不思議に思いつつ絵里に顔を向けると、絵里もこちらに顔を向けてきていて、何だか不審げな、もしくは”不安げ”な表情を浮かべていた。

「うん…みたいね」

「誰だろう?」

絵里の若干不安げな表情を見た時に、我ながら性格が悪いと思うが、何だか少し面白く思いつつも、まだ姿形の見えない女性の登場を、今か今かと待ち構えた。

「車はいつもの所に?」

「えぇ、すぐ近くのコインパーキングにね」

などと義一と会話しながら、ようやくその女性が宝箱の中に入って来たので、全貌が分かった。と、それと同時にハッと驚いた。そしてそのまま絵里の方を見ると、絵里は絵里で目がまん丸になっていた。あまりにも予想外の来客だったからだ。

なんと入って来たのは百合子だった。一応お忘れの方もいるかも知れないので、確認の意味も含めて説明すれば、あの数寄屋に集い、そしてまたオーソドックスに寄稿している一人で、本業は主に舞台で活躍している女優だ。

百合子はチュニックのようなふんわりシルエットの小花のブラウスに、ボトムはスキニーデニム姿だった。手には、私のと似たタイプのミニバッグを持っていた。丸みを帯びた逆三角形のフレームの形をしたメガネを掛けていた。メガネ姿は初めて見たので新鮮だった。因みに触れなかったが、今日も義一はメガネを掛けている。髪は前髪は垂らしたままで、あとは後ろの低い位置で束ねていた。

私たち二人が同様に目を丸くさせて何も言わずにいたのだが、百合子はこちらを見た途端に、ニコッと微笑んでから声を掛けてきた。

「あら琴音ちゃん、久し振り。それに…絵里ちゃんも」

「こ、こんにちわ」

とまだ動揺の治らない私と絵里はほぼ同時に、同様の言葉で返した。ここで初めて、百合子が絵里のことを”さん付け”から”ちゃん付け”に変化してるのに気付いたが、それにツッコミを入れる程の余裕が無かった。

「えぇ、こんにちわ」

「じゃあ百合子さん、僕はちょっと準備してきますね」

と義一は体を返して廊下の方に向きながら言った。

「えぇ、お願いね」

「準備?」

と私が思わず声を漏らすと、義一の去る後ろ姿を見ていた百合子は、またこちらに顔を戻して言った。

「えぇ、今日は二人がいるというので、お土産を持ってきたのよ。…ふふ、まぁ、私が持ってこなくても、既にお菓子はあるようだけれど」

百合子はそう言い終えると、テーブルの上に散らかったケーキ群に目を落とし、和かに笑った。


「さてと…」

義一は百合子の分の新たなお皿に切り分けた羊羹をテーブルの空いたスペースに置くと、ふと椅子が三つしかない事に気付いたらしく、

「あ、百合子さんの分の椅子が無いなぁ…。ちょっと待っててもらえます?今向こうから椅子を持ってきますから」

と部屋を出て行くとしたその時、自分でもビックリだが無意識的に軽口が飛び出した。

「あれ、義一さん?普段はどんな人が来ても、その人に自分で椅子を取ってきて貰ってるじゃない?」

「え、あ、いや、あれは急な来客相手にだけなんだけれど…」

と義一はそんなことを突っ込まれるとは思っても見なかったのだろう、何だか気まずげに頭をポリポリと掻いていたが、それを聞いた絵里がすぐに、苦々しげな表情を浮かべつつ返した。

「…あれ?私、今日キチンと予定が決まっていたのに、ここに着くなり自分で椅子を用意させられたんだけれど…?」

「いやいや…まだ僕が迎え入れる準備をする前に、そっちが勝手に来たんじゃないか?」

と義一も負けじと苦笑いを浮かべつつそう返していたが、それらのやり取りを黙って見ていた百合子が突然「あははは!」と吹き出す様に明るく笑って見せた後で言った。

「あーあ…ふふ、確かに何だか私だけ用意しないっていうのは不公平だよね?義一くん、自分で取ってくるよ」


百合子が戻って来ると、私の座る位置から斜め右向かい、絵里の正面に椅子を置いて座った。

「じゃあ絵里、またで悪いけどまた乾杯の音頭をとってよ」

「乾杯?」

と百合子が声を漏らしつつ不思議そうに絵里に顔を向けると、絵里は何だか照れ臭そうにモジモジしていた。

「う、うん…じゃ、じゃあ、まぁ…百合子さん、お手数ですがカップを手に持ってくれます?」

「え?こう?」

百合子は私や義一の手元を見ながら一緒に持ち上げた。

「コホン…ではまぁカンパーイ!」

「カンパーイ」

「え?あ、カンパーイ?」

カツーン。

当然と言えば当然だが、突然の我々の風習(?)を目にして戸惑いの隠せない百合子だったが、それでもそれぞれとカップを軽くぶつけ合い、それで一口紅茶を飲んだ。

「…はぁ、義一くんの淹れるお茶は、相変わらず美味しいわね」

百合子何だかついさっき誰かが言ったのと同じ様な感想を述べた後で、早速というか、何で乾杯をしたのかの話になった。

それについては早速義一が絵里に振ったので、絵里は何だかバツが悪そうな笑みを零しつつ百合子に説明をした。

絵里の話を微笑ましげに聞いていた百合子は、話を聞き終えると

「面白いわねぇー…今度共演者のみんなとやってみようかしら?」

などと、冗談なのか本心なのか、社交辞令なのか掴みにくい言葉を、何だか感心した風に言うのだった。その言葉に絵里があたふたしたのは言うまでもない。

それからは、百合子が持ってきた羊羹という新たなスイーツをつつきながら、これまた自然な流れ(?)で私のコンクール話、そして文化祭での演奏の話になった。文化祭の話も、予め百合子さん、そして今ここにはいないが美保子さんにも話していたので、何も説明せずとも話ができた。

また義一がテレビを点けて、そこでスライドショーを四人で眺めてお喋りをしていたが、それもひと段落つき、ふと今度は取り止めのない雑談に入ろうとしていたので、さっきからずっと気になっていた事を百合子にぶつけてみる事にした。

「…あ、そういえば、百合子さん?」

「ん?何かしら?」

百合子は手に持っていたカップを置くと静かな笑みを湛えつつ返した。

「うん。そのー…百合子さんは、今日は何の用で義一さんの家に来たの?」

と私が少し遠慮がちに聞いている間、ふと視線を動かして隣を見ると、絵里も同じ気持ちだったらしく、半分好奇心、もう半分は…ふふ、まるで警戒しているかの様な表情を浮かべて、百合子の返答を待っていた。

すると百合子は”パンっ”と急に両手を打つと、何かを途端に思い出したかの様な表情を見せて、明るい笑みを浮かべつつ言った。

「あ、そうそう!今日私が来た理由っていうのはね…って、義一くん?」

とここまで言いかけて、百合子はふと義一に顔を向けた。

「二人には、今日なんで私がここに来たのか話してないの?」

「え?んー…」

と義一はこんな簡単な質問に対して少しばかり考えて見せていたが、「…はい」と何故か照れ臭そうに答えた。

それを聞いた百合子は「はぁ…」と呆れ笑いを浮かべつつ声を漏らしてから言った。

「そういう無駄に人を驚かせようとするところ…あなたも聡くんの事言えないよねぇ」

「いやぁ…」

と相変わらず照れっぱなしの義一をそのままにして、百合子は私、そして絵里にも視線を振り分けると、ふと足元に置いていたミニバッグを手に取り、それを腿の上に置くと言った。

「仕方ない、私から話すとね?今日はまぁ元々、義一くんに渡す物があってここに来る予定だったんだけれど…」

とここで百合子はミニバッグを開けると、中に右手を突っ込んで、軽くガサゴソと中を探って見せながら続けた。

「でも、この日に琴音ちゃんと絵里ちゃんが、たまたま来てるって話を聞いてね?ついでだし、機会があったら、自分からちゃんと手渡したかったから、丁度いいと思ってね…はい」

と百合子がバッグの中から取り出して、義一を含めた私たち三人に手渡してきたのは、無地の封筒だった。

「ありがとうございます」

と義一が笑顔でお礼を言う傍、私と絵里はキョトン顔で、で渡された封筒を眺めていた。

「百合子さん、これって…?」

と私が声をかけると、百合子はニコッと一度目を細めて見せてから私の手元の封筒を指差して言った。

「ふふ、中身取り出してみて?」

「う、うん…」

言われるままに取り出してみると、それは何と舞台のチケットだった。パッと見では下地が黄色に薄桃色が滲んでいる様にも見え、またその逆にも見える様な、そんな色合いの上に黒字で『人形の家』と書かれていた。

絵里もつられて封筒の中身を出して、しげしげとチケットを見ていたが、私は少し興奮気味に百合子に声をかけた。

「こ、これって…前に話していた…?」

「そう」

そう静かに百合子は返したが、静かながらにその語気からは誇りの様なものが滲み出ていた。

「…貰って、良いの?」

と自分でも分かる程に口調からまだ驚きが隠せずに聞くと、百合子は目を細めつつ「もちろん」と返した。

「その為に今日はここに来たんだからね。いやぁ…脚本が上がって、舞台稽古も終わって、ようやくここまで漕ぎ着けてね、今月の中旬から月末まで演るの。場所はね…」

と百合子が言った場所は、池袋にある有名な劇場の名前だった。その脇に小さく”小ホール”と書かれていた。

「へぇー」と、門外漢の私でも知ってる劇場名を聞き、尚更興味深げにチケットをジッと眺めていた。

百合子は普段あまり見慣れていないチケットを興味津々に眺めている私と絵里に一度微笑んでから口を開いた。

「ふふ、まぁ、脚本を書いたマサさんも、ここにいる義一くんとの会話のお陰で、色々なヒントを得れたと言うんで、今義一くんに渡したのは、マサさんから頼まれて持ってきたんだけれど…」

とここまで言うと、今度は私たち二人に顔を向けて、そしてまたフッと一度微笑んでから続けた。

「あなた達二人に渡したのは…私からの招待状。その券は特別仕様になっていてね、よく見てみて?日時の所が空白になってるでしょ?」

「え?…あ、ホントだ」

「ふふ、そのチケットはね、私みたいな出演者が”誰かを誘いたい時に手渡す用”でね、それを持って劇場に行けば、上演期間中はいつでも来れるのよ」

「へぇー」

「あのー…」

例のごとく同じリアクションで感心しっぱなしの私を他所に、絵里が何だか遠慮がちに、戸惑い気味に

「そんなチケットを、私みたいなのも頂いて、そのー…良いんでしょうか?」

と声をかけると、百合子は普段の薄めがちな憂いを孕んだ目を真ん丸にしてキョトンとしていたが、何を聞かれたのか分かったらしく、また静かな微笑を湛えながら答えた。

「え?…あ、あぁ、なーんだ、そんな事?…ふふ、相変わらず絵里ちゃんは、義一くん相手とは違って、今だに私に固いんだから…。えぇ、もちろん。だって、自分の舞台には、大事な友達を招待したいっていうのは当然でしょ?」

「と、友達…」

そう呟く絵里は、恥ずかしがりつつも笑顔を見せていた。

まぁ絵里がそう恥ずかしがりつつ、少し狼狽えるのも分かる。

私の知る限りでだが、この二人はまだ今日で顔をあわせるのが二度目の筈だったからだ。まぁこの二人は、前回の数寄屋での会合の最後に、連絡先を交換しているから、もしかしたら裏で連絡を取り合ったり、ひょっとすると会ったりもした事があったやも知れないけれど。まぁそれはさておいても、そんな少ない回数しか会ってないのに、急に友達呼ばわりされても困るし驚くだろう。…いや、絵里は元々百合子のファンなのだから、困りはしないか…おそらく。

その様子を眺めた後、私の方にも視線を流すと、

「それに今回のも自信作だしね!」

と、これまた普段の百合子とは正反対な、底なしの裏表の無い無邪気な女性風に言い切った。そのあからさまな演技”風”に、私も思わず笑みが溢れた。

「まぁ普段なら、私から義一くんを招待しているんだけれど、今回は珍しくマサさんが直々に招待したいって言うんでね。…ふふ、よっぽど前のオーソドックスでの対談が、お気に召したみたい」

「はは、それはお役に立てた様で光栄です」

そう笑って返す義一を見た後で、百合子はまた私たち二人に視線を戻して言った。

「二人とも、それぞれに都合があるだろうから強制はしないけど、もし良かったら二人一緒に観に来てよ。で、予め私に連絡をしてくれたら、色々と便宜も図るからさ?」

と言い終えた瞬間、今度は悪戯っぽく笑うので、私と絵里は一度顔を見合わせてから、ほぼ同時に百合子に顔を向けると「はい」と笑顔で返した。

それからは、四人で人形の家の原作について熱く語り合ってお開きとなった。

その日の夜。寝支度を済ませ自室に戻ると、今日百合子から貰ったチケットを手に取り、ベッドにゴロンと寝っ転がり仰向けになると、それを光に透かしてみようとしたりした。しかし実際は、中々に紙に厚みがあったので、透ける事は叶わなかった。

「ふふ」と私は一人笑みを零して眺めていたが、ふとチケットを裏返して、そこに書かれていた備考欄のある一行に目を奪われた。そしてその瞬間、あることを思いつき、早速百合子に聞いてみる事にした。まぁ初めから、寝る前に今日の事について、改めてお礼を言おうと思っていた矢先だったので丁度良かった。

ただ電話というのも気を遣わせると思い、ただメッセージを残し事にした。終えると私はチケットを元に戻し、返信が来る前にいつの間にやら眠りに入っていった。


「へぇー、劇ねぇ」

「えぇ」

次の日の月曜日。私と裕美は週二、三ほどの習慣通りに一緒に地元の駅に向かっていた。駅までの道には銀杏が幾らか植わっていて、黄葉した葉が落ち、それが歩道を埋め尽くさんばかりになっていて、軽く滑りそうになるのに気を付けつつ歩いていた。

「でも初めて聞いたわ。アンタに女優さんの友達がいるなんて」

「いやいや、”私の”と言うよりも、”絵里さん”と私の友達だよ」

と私は少し食い気味に訂正を入れた。

裕美のことを信用していない訳ではないが、ふとしたところから話が伝わって、それで終いには義一と私の話に直結するかもというのを恐れていたのだ。しかし、ただそこは、また絵里には悪いが口裏を合わせて貰うことで話は決まっていた。単純なことだ。『百合子と知り合って友達になれたのは、元々絵里の友達だったからだ』という筋書きだ。まぁ裕美も私と同様に、何度か絵里から学園時代の話を聞いていて、演劇部に所属していた時の先輩、部長だった先輩が、今もどこかで演劇を演っているだろうというのが頭に残っているだろうからだ。実際裕美は、絵里にそんな舞台女優の友達がいる事に対して、凄いと興奮して見せこそすれ、一切の疑いは持っていない様子だった。

とまぁ、そこに関しては何の心配も今の所無かったのだが、ここまで話を聞かれて、根本的な疑問を持つ方もおられる事だろう。それは…『何でそもそも、わざわざそんな七面倒な事になるのを知りながら、こうして裕美に話をしているんだ?』といったものだ。これは当然な疑問だ。まぁそうなのだが、それはこの後の話を聞いて頂ければ、すぐに分かると思う。

「でも劇かぁ」

と裕美はふと進行方向に顔を戻すと、空中にボソッと声を漏らした。「私みたいな、何も知らない人が観に行っても面白いのかなぁ?」

そう。ここである種のネタバラシをすると、前日に百合子に聞いた事というのは、この話だった。チケットの備考欄を眺めていて、ある一文が目に付いたと言ったが、それは『この券は、同伴者一名に限り有効』といった事だった。分かり辛い文章だと思ったが、要は本人以外にも、後一人分はこのチケット一枚の効力で観覧できるという意味で、それを確認するために、寝落ちする直前にメッセージを送ったのだった。そして朝になると、深夜二時あたりに返信が来ており、その通りだという内容だった。それで自信を深めた私は、朝会うなり裕美にこの話を振ったのだった。

「興味ない?」

と私が聞くと、裕美は少し慌てた様子で首を数回横に振ってから返した。

「いやいや、興味ないって事は無いよ?…うん。だって、絵里さんだって昔は演劇部に所属して演技してた訳だし、写真とかも見せて貰ったりしていく中で、興味は当然持つようにはなったんだけれど…話を聞いてる限りじゃ、何だか本格的な劇じゃない?それって…観ていて私が理解出来るのかなって」

そう。これがある種、あの一文を見たときに、咄嗟に裕美の事を思い浮かべた原因だった。こんな言い方をするのは悪いかも知れないが、よく絵里の家で私たちが映画談義で知らず知らず盛り上がってしまい、ふと裕美を置いてけぼりにしてしまったかと顔を見ると、裕美は口は挟めないながらも、見るからに興味津々に聞いてくれていた。勿論見方によっては、これは裕美の持つある種の優しさからくる態度だと言えなくもないが、後々で会話の端々で軽く触れてみると、どうやら本心からだというのが分かった。

私と絵里の会話というのは、昔の映画、その昔の映画というのは、そのまた昔の舞台で演られていた往年の名作劇を元にしたり、そのまま映像化したものが多かったりするのだが、その流れで自然とそっちの話にも行ってしまっても、それでも裕美は聞き入ってくれていたので、裕美は映画だけでなく、舞台にも実は興味があるんじゃないか…という考えを前々から持っていたので、繰り返すようだが、もし一人だけ誘っていいと言うのなら、裕美しかいないとすぐに考えが及んだのだった。

「まぁ…そりゃ勿論原作を知っていた方が、より劇に夢中になれるってものだけど」

私は和かに微笑みつつ言った。

「今度絵里さんと観に行く、イプセン原作の人形の家って作品は、今からもう百年以上前に初めて上演された作品だけれど、それでも今も繰り返し上演されてきてるっていうのは、それだけ何も知らない人たちにも、それぞれの時代の現実を生きている人たちに訴えかけるものがあるから、ここまで語り継がれてきた訳だから、…うん、少なくとも私は、裕美も楽しく観れるものと確信してるよ。…あ」

途中から何だか芸談まがいの話をしてしまい、我知らずに熱く語りすぎてしまった。それを証拠に、裕美が私の顔をキョトンとした顔を向けてきていた。私は内心『しまった…引かせてしまったかな?それに…軽く上からになっちゃったし…』と途端に後悔し始めていた。

だがふと「ぷっ」と裕美は急に吹き出したかと思うと、明るい笑みを零しながら言った。

「やっぱり琴音だねぇー…。その物の見方や言い方…本当に私と同じ中学生かって、しょっちゅう疑問に思うよ」

「あ、いや、その…」

と私がドギマギするのを観て、裕美は尚一層愉快げに笑みを浮かべながら、正面に顔を向けつつ言った。

「あはは!いやぁー、だからアンタと一緒にいると全く飽きないんだよねぇ」

とここまで言うと、裕美はふとまた私に顔を向けて、ニコッと目をぎゅっと瞑るような笑みを浮かべて続けた。

「…ふふ、うん、そこまでアンタが言うのなら、私、その劇を観に行こうと思うよ。…いや!観たくなっちゃったから、是非とも行かせてもらうよ」

あまりに語気強く言うので、私は圧倒されながらも苦笑を浮かべて返した。

「ふふ、決まりね」


それからは「劇を観覧する時の格好はどうしたらいい?」などの質問を受けて、「別に無作法じゃなければ良いよ」といった様な会話をしていると、地元の駅前にたどり着いた。

出勤ラッシュというのもあって、学生服ばかりでなく、スーツ姿、またはそれ以外の格好の人でひしめき合っていた。

と、駅構内へと続く階段を二人並んで登り始めたその時、ふと下の方で通りを歩く、見覚えのあるブレザー姿が目に入った。

ヒロだった。ヒロは大きな野球バッグを肩に下げて、周りに人がたくさんいるというのに、大きな口を開けて大欠伸をしつつ、間抜け面を晒していた。

私は一人微笑みつつ、隣にいる裕美に声をかけた。

「…ふふ、裕美、見てみてよ。あそこにマヌケな面をしているヒロがいるよ」

「え?ヒロくん?」

と裕美は気持ち声のトーンを上げつつ後ろを振り向き、階下の通りを見下ろした。私もまた振り返って見たが、ちょうどその時、一人の、これまたヒロと同じブレザーを着た女子生徒がヒロに駆け寄っていた。普通なら中々見分けが難しいのだろうが、それでも彼女は遠目から見ても色々と着崩したりと工夫をしていたので、すぐに誰だか分かった。私たちの文化祭に来てくれた中の一人、千華だった。千華はこの位置からでも分かる程に、朝っぱらからハイテンションにヒロに絡んでいるのが見えた。それを受けるヒロは鬱陶しげに千華からの猛攻を凌いでいた。ヒロの心境は知らないが、パッと見ではとても仲良さげに見えた。側をすれ違う通行人の何人かは、そんな二人の様子をチラチラと見ていた。

「あれ?あれって確か…」

と私は呟きつつふと裕美の顔を見たのだが、少し驚いて、その先を言えなかった。裕美の顔があまりにも静寂に覆われており、無表情という表現が生ぬるい程に冷めていたからだった。

「ひ、裕美…?」

と私が恐る恐る声をかけると、裕美は一瞬ハッとして見せて、それから私に向かって力無く一度微笑むと

「…琴音、行こう?」

と言って、返答を聞かないままにツカツカっと階段を登って行ってしまった。

「え、えぇ…」

と私も、聞こえてるかどうかは度外視して一人呟くと、一度また階下のヒロたちをチラッと見てから、少し早足で裕美の後を追うのだった。


それから一週間後の土曜日。今は夜の六時半ちょっと前。私と絵里、そして裕美は連れ立って、マサさん脚本で百合子が主演を務める”人形の家”を観劇する為に、池袋にある駅近の劇場前に来ていた。劇場の外観は普通のコンクリートの土台の上に、ガラス張りの大きな四角錐が横たわって乗っているような、いかにも芸術関係のモノを催していそうな風体をしていた。劇場前には休日というのもあってか、人で溢れかえっており、大道芸人やら何やらがストリートライブをしていたりと、果たしてこの場にいるどれほどの人間が劇場に用があるのか判別が出来なかった。

私と裕美は学園が四限までの午前授業だったので、その後で軽く紫たちとお喋りなどをしてから地元に帰り、一旦着替えて、それから事前に絵里と約束した駅前の時計台の下に向かった。

絵里は絵里で今日も仕事があったらしいが、劇開演が夜、司書という公務員である事もあって、普段通り五時に仕事を終え、後片付けなどなどをしても、そこそこの余裕を持って落ち合う事が出来た。

格好は三人とも、どこか軽く遊びに行く程度のお洒落をしていた。お互いの服装を軽く褒め合ってから電車に乗り込むのだった。

車中では、今日観劇する原作の話や、そして百合子の話をした。原作の本は、あれから私が裕美に貸してあげていた。本自体を見る前から裕美は身構えていたが、私が「せいぜい文庫本サイズで百七十ページくらいだから大丈夫よ」と励ますと、裕美が「あんたは本の虫だから”その程度”なんだろうけど、私には多いわ」と苦笑を漏らしつつ言うのが印象的だった。だが、貸してあげたその次の日の朝、裕美が私に本を返してきた。私は初め、読み始めてすぐに飽きちゃったのか、もう読む気がしないのかとちょっとガッカリしたのだが、その心配は外れた。裕美は興奮した様子で、学園に着くまでの間、ずっと内容について、そして感想を延々と述べてきたのだ。

裕美が言うのには、初めは寝る前に軽く目を通してみるかと、そんな軽い気持ちで読み始めたらしいが、すぐに中身に没入して、気づけば最後まで読みきってしまったらしい。これは本人が言ってた事だから良いと思うが、ただあまり普段から本を読み慣れていなかったから、読破するのに時間がかかり、読み終えた頃には日付が変わっていたと、意地悪げに笑いながら言っていた。

なので、私と絵里の会話にも、裕美は付いて来るどころか、自分なりの確固たる感想を持っていたので、妙な言い方だが互角に渡り合ってきたのだった。私個人の感想としては、このような会話を裕美と出来るとは露ほども想像したことすら無かったので、この日までの会話、そして絵里を交えての会話を歓びをもって楽しんでいた。

会話にひと段落がつくと、今度は百合子の話。初めて百合子のことを出した時、早速裕美は手元のスマホを使ってネットで検索をかけていた。結論を言うと、流石私と違って、人並みに芸能人を知っている裕美とあって百合子を知っていた。とはいっても、もっと具体的に言うと、どこかで見たことがる程度の認識では合ったが。

でも裕美から見ても、憂いを秘めた薄幸美人という、私と同じ感想を覚えたらしいので、それはそれで自分の事のように嬉しかった。

そんなこんなの話をしながら乗り換えをしつつ池袋に着き、今に至る。

早速施設内に入ると、四角錐の横たわったようなガラス張りの部分の内部が頭上に広がっていた。建物自体は吹き抜け構造になっていて、外観からは想像出来ないほどに広々として見えた。この施設内には劇場がいくつかあるらしく、千人単位で収容出来る、オーケストラのコンサートなどが催される大ホールから、二、三百人クラスを収容出来る、一般に劇をする専用の小ホールがいくつかあった。当然私たちが向かうのは、チケットにも書いてあった通り、小ホールの方だ。

地図やパンフレットを確認しつつ、地下にあるという小ホールへと向かった。まぁ尤も、一々地図などの案内を確認するほどでは無かったかもしれない。何故なら、施設内に入ると人々の流れが出来ていて、それらが一斉に地下の方へと向かっていたからだった。今の時間帯からの上演する劇は百合子たちのだけらしい。

入り口付近でチケットを見せ、売店でゆかりのものを買ったりしてると、あっという間に開演の時間が目前に迫っていた。

中に入ると、黒を基調とした場内で、天井からは幾数ものライトが天井からぶら下がっており、両脇の壁の上部半分にもライトがたくさん取り付けられていた。しかし後は何も無く、若干傾斜のついた床に椅子が取り付けられていて、幕の引かれた舞台がデンと正面にあるのみだった。

番号を確認して自分たちの席に座ってからほんの数分後に、開園を知らせるブザーが鳴った。そして鳴り終わると、徐々に客席側の明かりが弱められていき、終いには真っ暗に落とされた。それと同時に幕が上がるのだった。


…っと、ここで都合上、一度話を区切るのを許してほしい。というのも、この劇についてまで細かく話せるほどの余裕が無いのだ。まぁもしかしたら、何処かでこの劇の中身を描写する場が出来るかもしれないので、もし興味を持っておられる方がいれば、それまで楽しみにしていて頂きたい。

…コホン。なのでここでは私個人の勝手な感想などを述べるに止めておきたいと思う。結論から言えば…本当に面白かった。これは私と繋がりのある、知り合いであって友達でもある人々の作り上げた劇だからという色眼鏡なしでも、素直に言える自信がある。

原作通り、全部で三幕あった。その合間合間で二十分ほどの休憩が取られる形式だった。原作通り、借金がバレたらどうするんだろうと、若干サスペンスぶくみに話が進んでいくので、元を知ってる私でも思わず知らず劇にのめり込んでいた。

と、同時に、マサさんが今回人形の家を書くに当たって、新たに試みた形跡も発見出来て、それがまた面白かった。

主人公ノーラの幼馴染の友人で”リンデ夫人”という女性がいるのだが、原作でも、今回の劇中でも、脇役ながら物語の重要な部分を占めていた。劇は最初、一人の語り部が出て来て、ノーラと夫のヘルメルの生活について描写し語っていたのだが、途中からその人の背後の舞台に照明が徐々に点けられていくと、そこには既にノーラとヘルメルがいて、まるで語り部に合わせるかの様に、日常生活が演じられていた。

そしてあらかた語り終えると、静かに語り部が傍に下がり、不意に十年ぶりにリンデ夫人がノーラの家に訪れるところから本格的な劇が始まったのだが、今はまず内容については軽く言うのに止めよう。わざわざこう前置きを置いた意味はのちにわかって頂けると思う。

さて、結論から言うと、今回の劇では明らかに原作よりも、このリンデ夫人の役割が大きくなっていた。原作でも、そもそもノーラが借金が夫にバレるんじゃないかとビクつく様になるキッカケとなるのは、このリンデ夫人が、秘密をバラすと脅してくる”クログスタット”という男が夫の元での仕事をクビになる代わりに入るからとも言える。それくらいには原作からして重要人物なのだが、そもそもなんでリンデ夫人が仕事をもらう事になったかと言うと、”夫人”という役名ではあるのだが、実は夫に先立たれた未亡人で、友人を頼って幼馴染のノーラの元に寄って、『寂しさを紛らすことが出来るような、そんな仕事を探している』と漏らした古い友人の力になりたいと思ったノーラが、銀行の頭取になったばかりの夫に、事務として雇ってくれないかと頼んだ事によって、思わず知らずに仕事が手に入ったという次第だった。

ある種未亡人という、自分から進んででは無いにしろ生きていくには自立しなくてはいけないという、後々のノーラに何かしらの示唆を与える様な役でもあるわけだが、このリンデ夫人、彼女自身は必ずしも所謂括弧付きの女性の自立というのに対して好意的では無かった。今回のマサさんの脚本にもそれはあり、セリフをリンデ役の女性が話していたが、それはこういうものだった。

夫が亡くなってから、しばらくして自分の母も死んで、弟たちも自立して仕事に出て独り身になり身軽になったという、その経緯を聞いた後で『今はホッとしたわね?』とノーラが声をかけると、リンデはこう返す。『いえノーラ、なんとも言えない虚しい気持ちよ。生きていく目的がないんですもの』と。

あともう一つ、こんなセリフもあった。ノーラの家庭生活の円満ぶりを聞かされたリンデがふと強く当たってしまった後で、すぐに反省して謝りつつ言ったのは、『誰かのために働く事も出来ないのに、しょっちゅう、あくせくしていなくちゃいけない。生きなくちゃいけないのだから。だから自然と利己的になってくるのよ』というセリフだった。

これらだけを聞いても、必ずしも、少なくともリンデに関しては、自分が今生きるために仕事を探そうとしている状況を”良し”と思っていない事は分かるだろう。本当は嫌だけど、生きていくために仕方なく社会に出て行かなくてはいけない。

そんな自分を不幸だと思っている。だからこそ、家庭にいる主婦として、銀行の頭取の妻として幸せに生きているノーラに対して当たってしまったのだ。

ここでようやく、マサさんがこのリンデにどう重きを置いたのか、そしてどう”マサ調”に仕上げたのかを話せる段階に来た。それは…一口に言えば、原作ではリンデは、ノーラが家庭を出ていくのに何も言わなかったが、今作の劇では必死に考え直す様に引き止めてる点だった。結局は原作通りにノーラは出て行くのだが、そのリンデの行為が別に原作の雰囲気を壊す事なく、むしろ現代の社会風刺も織り交ぜて説得に掛かっていたりと、聞いてる観客側にも問題提起を突きつけていて、そこがまた劇中で一番の盛り上がりを見せており、劇全体を引き締める役割をも担っていた。そこからは、『何故今の時代にこの”人形の家”という劇を上演しなくてはいけないのか?少なくとも我々が何故演じなくてはいけないのか?』というメッセージが伝わってくるかのようで、聞き手の胸に大きな針の様なものを刺してくるような、そしてそれが余韻としていつまでも残るような劇に仕上がっていた。勿論というか、このリンデ役の女優の長回しのセリフを聞いた時、すぐに”オーソドックス”に掲載されていたあの対談が元になっている事を発見したのは言うまでもない。

原作が元から良いというのもあるが、それを現代調に、原作や原作者の意図を壊さないで踏襲しつつ、自分の色を織り込んでも、私みたいな原作ファンをも魅了させるような脚本を書いたマサさんの功績、そして勿論、主人公のノーラを演じる百合子の演技力も素晴らしかった。

当然初めて百合子の演技を目の当たりにしたのだが、また妙な言い方で恐縮だけど…そこにいたのは、紛れもなく本当に”ノーラ”だった。そうとしか言いようがない。”演じてる”風を観客に与えないのだ。なんの疑問もなく”ノーラ”だと納得させられてしまっていた。

こういう演技法は、見方によっては色んな批評が成り立つのは承知の上で、私個人の好みで言えば、百合子のように役をまるで自身に”憑依”させて演じるようなのは、観ていて不気味さと相まって鳥肌が立つし、その様なものが観ていて心を動かされる。前に数寄屋でマサさんが百合子を褒めちぎっていたが、なんだかよく分かる気がした。

試しに一つだけ具体例を挙げると、これは私個人の見解だという言い訳を初めに置かせて貰ってから言うと、勿論何度も繰り返したように、私はこのイプセンの人形の家が大好きなのだが、それでもやはり原作にはツッコミを入れたくなる点が少なからずあった。その大きな一つというのは、一幕、二幕のノーラと、三幕のノーラがあまりにも性格が違いすぎて、言い方が悪いが突然気が狂った様にも見えてしまうのだ。それを百合子は、一、二幕においての無邪気さと、三幕の狂気、無邪気と狂気の間を上手いこと調和させてノーラを演じている様に、少なくとも私は思えた。今こうして簡単に言ったが、言うほど簡単な事ではないだろう。おそらくここは、脚本のマサさん、演出家の方と何度も膝を突き合わせて議論を交わし、試行錯誤を繰り返して作り上げたものだろう。その背後の苦労を思うと、ただただ感嘆する他に無かった。

とここでもう一つ、どうしても取り上げたい大きく印象に残った事を挙げようと思う。それは、ある一人の役者さんの事だった。百合子の演じるノーラの、幼馴染で仲良しの友達、今作でノーラと並ぶ重要な役柄である”リンデ夫人”を演じる女性だ。この女優さんの見た目は、一重ではあったけど横に綺麗に品良く切れていて、鼻筋もシュッとしていたから、例えるなら美人さんな日本人形って見た目だった。百合子と身長は同じくらいだった。彼女が舞台に出てきた時、ふとどこかで見かけた様な気にさせられた。しかしこの時点では、ただの他人の空似程度にしか思わなかった。

と、それはさておき続きを言えば、先ほど触れたリンデがノーラを説得する長回しのセリフを、変に感情っぽく演じるのでも無ければ、妙にリアリティーを持って淡々と演じるのでもなく、これまた百合子の様にその間の微妙な所をバランスよく演じていたのに、これまた驚かされた。百合子と同様に、なんら疑問を聞き手に持たせない程に”リンデ”そのものだった。

とまぁ、この女優さんの演技が百合子に引けを取らない程にとても素晴らしく、だから印象に残ったというのもあったが、実はもっと単純な理由があと一つあった。

それというのも劇の初めの頃、百合子とこの女優さんの会話で始まった訳だったが、「…あれ?」と不意に隣で声を漏らす人がいた。その人は絵里だった。私は顔を舞台に向けたまま、軽く視線を絵里に向けたが、絵里は正面に釘付けになり、横からも分かる程に目を見開き、そしてまたボソッと呟くのだった。

「いや…まさか、そんな…そんな偶然って…」


劇が終わり、舞台側と客席側が同様に照明が点けられた後、舞台上に出演者全員が出てきて、 拍手が湧き上がる中深々とお辞儀をしていた。中央には百合子と、リンデ役の女優さんが並んで立っており、上体を戻すと二人は顔を見合わせて明るく笑顔を交わしお喋りをしていた。

出演者がはけた後、客席でも人々がゾロゾロと席を立ち会場を出て行きだしていたが、私たち三人はそのまま席に座ったままでいた。実はこの後、百合子に「良かったら楽屋に来ないか」と事前に誘われていたのだ。

私たちは余韻を楽しむ様に、特にこれといって示し合わせたわけでは無かったが、口数少なめに軽く感想を言い合いつつ、空になってただ照明の炊かれた舞台の方をジッと眺めていた。

しばらくすると、黒無地の半袖Tシャツ姿の女性が椅子の間を縫ってこちらまで来た。胸には”スタッフ”と書かれた名札を下げている。女性は何やら一枚のメモを取り出し何か一度確認した後で、話しかけてきた。

「あのー…琴音さんと絵里さん…で、いらっしゃいますか?」

「はい、そうですが…?」

と絵里が答えると、女性は一度ニコッと笑ってから言った。

「あぁ、良かったです。では早速、小林さんがお待ちですので、よろしければこのまま私の後に付いて来て頂けますか?」


女性に誘われるままに、私たち三人は自分の荷物を纏めてから立ち上がると付いて歩いて行った。

いくつか”関係者以外立ち入り禁止”が書かれている、見るからに重たそうな扉をいくつか通過すると、急に壁と天井がコンクリート打ちっ放しの空間に出た。廊下の様だ。どうやら今まで観劇していた舞台の真裏らしい。ドアなしの部屋がいくつかあり、廊下自体も明かりは点いていたのだが淡かったので、そのうちの一室から光が廊下まで差し込んできているのが見えた。

この空間に通された瞬間から、その一室から明るい笑い声が届いていた。

「どうぞこちらへ」

私たち三人が足を止めて周囲をキョロキョロと見渡しているのを微笑ましげに見つつ、女性が明かりの漏れる一室の前に立って、部屋の中へ向けて手を差し伸べつつ言った。

「は、はい…」

私個人は…と留保を入れさせて貰うが、何だか妙に緊張しつつ答えて女性の元に近寄った。

部屋の脇を見ると、そこには”楽屋3”と書かれたB3サイズのパネルが貼られていた。

と、またそれをしげしげと興味深げに眺めていると、「あ、来た来た」と声をかけられた。このべらんめぇ口調、どこかで聞いた、久し振りな声だ。

「…何でそんな所に突っ立ってんだよ?」

「ふふ、久しぶりマサさん」

私は部屋に足を踏み入れながら、笑みを浮かべつつ、マサの方を見ながら言った。

「おう、久しぶり」

マサも如何にも不器用な人間にありがちな、照れ笑いとも何とも言えない笑顔を浮かべつつ返してきた。

マサは最後に数寄屋で会った時と同じ格好をしていた。胸元のボタンを幾つかだらしなく開けた、真っ黒なシャツを着ていた。下はジーンズだ。

「で、えぇっと…アンタは?」

とマサに声をかけられた絵里は、見るからに緊張した面持ちで、一度軽く頭を下げてから返事した。

まぁ緊張するのは分かる。前回絵里と数寄屋に行った時の会話の中で、百合子に初めて会ってファンだからと興奮していたが、ついでにマサの名前が出た時にも、同様に興奮していたのを近くで見ていたからだ。

「あ、はい、わ、私はそのー…ここにいる琴音ちゃんの友達してます、山瀬絵里って言います」

「山瀬絵里…あぁ、アンタが」

とマサは目をギョロッとさせると、如何にも興味津々といった風を見せつつ、絵里の姿を一度上から下まで眺めてから言った。

「いやぁー、百合子から聞いてるよ。中々に面白いお嬢ちゃんだってな」

「あ、いや、そんな…」

とまだ恐縮しっぱなしの絵里をよそに、マサは劇が終わった後の興奮が冷めやらないといった調子で、一方的に話しかけ続けた。

「前にそういや一度、あの店に来てくれたらしいな?すまないねぇ…あん時は丁度、今回の劇の脚本が煮詰まってきていた時だったからよ、あそこに顔を出せなかったんだ」

とかそんな調子の内容だ。

それらに対しても一々絵里は首を縦に横に振りつつ応じていたが、百合子から聞いたという話の内容をあらかた話した後で、ここで不意に悪戯っぽい笑みを浮かべると、「あ、あとなぁ…」とニヤケつつ続けた。

「そもそも今回百合子に聞く前によ、奴から何度か事前に聞いてはいたんだよ。どんな人間かはね」

「奴…ですか?」

”奴”…それしか聞いていないのに、絵里は見るからに表情を曇らせていった。それを知ってかしらずか、いやマサのことだ、すっかり察していただろうけど、そのまま話を愉快げに続けた。

「そう、そいつは勿論…義一のヤロウの事だよ」

「やっぱり…」

ここにきてようやく緊張の糸が解けてきたのか、絵里は大げさにため息をついて見せつつ声を漏らした。

そんな絵里の様子を見たマサは「あははは!」と豪快に笑うと、また意地悪げに笑いつつ言った。

「アンタら二人は、お互いの事に触れられると、全く同じ様な反応をするんだな。似た者同士ってところか」

「似てません」

と絵里が間を空けることなく力強く苦笑まじりに返すと、マサはニヤニヤと笑うのみだった。その様子を私と、まだ一言も発していない裕美は顔を合わせてクスクスと笑い合っていたのだが、ふとここにきてマサが裕美に視線を向けて「そこで隠れているお嬢ちゃんは、誰かな?」と聞くので、裕美は一瞬ビクッとして、それから私の顔をチラチラと覗き込んできたので、私が率先して答えることにした。この時の私の感想としては、『まぁ…元気ハツラツな裕美といえども、マサさんの見た目や口調に圧を感じるがあまりに、固くなっちゃうんだろうなぁ…私みたいに』といったものだった。

「あぁ、この子はね?私の小学生時代からの友達で、今も同じ学園に通っているの。…ね?」

と私が最後に微笑みつつ振ると、「う、うん」と少しばかり元気になった裕美はマサの方に顔を向けると、絵里と同様に一度頭を下げてから「高遠裕美です」と自己紹介をした。

それを受けたマサも、本人なりの微笑なのだろう、「おう、ヨロシクな」と答えたその時、この部屋にいる数人のうちの男性一人が苦笑いを浮かべつつマサに声をかけた。

「石橋さーん…自分からは自己紹介しないんすか?」

それを聞いたマサは「うっせぇなぁ…」とその男性を軽く睨みつつボヤいた。

「分かってんだよ…」

とマサは呟くと、また私たちの方に顔を向けて、面倒臭いという新おじゅを一切隠そうとしない表情のまま、しかし若干笑みを浮かべつつ言った。

「あー…俺の名は石橋正良ってんだ。今回のも含めて、まぁ脚本家って肩書きを名乗っている。そのー…まぁ、ヨロシクな」


「しっかし絵里さんよぉー…って、絵里さんで呼び方いいか?なんせ前々から義一から”絵里が、絵里が”って聞かされていたんだが、最近では百合子までが”絵里さん、絵里さん”…いや、ついこないだからは”絵里ちゃん、絵里ちゃん”って言うもんだからよ?」

「ふふ、”あの野郎”の話はともかく、百合子さんにそう言って貰えてるというのは光栄です。そのー…石橋さんにもそう気軽に呼んで頂けたら、私としても嬉しいです」

「そうかい?なら良かった。だったら俺のことも、そこにいる琴音みたいに”マサさん”って呼んでくれよ。何だか義一に所縁のある奴から”石橋さん”って呼ばれると、何だか首筋あたりがむず痒くなるんだ」

マサはそう言いながら実際に自分の首筋を軽く掻いて見せた。それを見た絵里は「ふふ、善処します」と微笑みつつ返していた。

それに対してニコッと笑ったのみだったが、ふと何かを思い出したような表情を浮かべると、また絵里に話しかけた。

「そういや…どうせだったら義一の野郎と一緒に来ればよかったのに。アイツと後…そうそう、武史の野郎は二人で揃って千秋楽に行くなんてほざいていたけれど」

…そう。と、せっかくマサが図らずも義一の観劇について話を出してくれたので、これに便乗して事の話しに触れたいと思う。少しでも気になっていた方もおられるかも知れないからだ。…いや、いないかな?

まぁそれはともかく説明しよう。勿論というか最初の最初は一緒に観に行く様な話は出ていた。それは裕美が一緒に来る事に決まった時でもだ。

…もう去年の話になるか、そう、絵里のマンションから花火を見た時、その時に裕美と義一は顔を合わせていたのだった。それにあの花火の後、我ながら空気が読めないと思い出すだけで苦笑もんなのだが、人通りの全くない薄暗がりの裏道で、義一と私の事について、『今は訳を聞かないで、誰にも話さないで』と懇願に近い心境で頼んだのを、中には覚えておられる方もいると思う。それに対して、裕美は約束通りそれ以上詮索する事なく聞き入れてくれて、それは今も続けてくれていた。勿論”恥ずい”し、他の理由もあって口には絶対に出してあげないが、数多くある裕美に対して感謝している事の中でも最上級の事だった。

話を戻すと、それ故私は何の疑いもなく裕美という人間を信用しているので、だから別に義一と同行してもいいと思っていたのだが、結局単純に予定が合わなくて、そのまま今日のような形になったという訳だった。

絵里とマサの二人がそんな会話をしている中、私と裕美はその会話に聞き耳を傾けつつ、楽屋の中をジロジロと見渡していた。入ってきた時は、マサとの挨拶や会話に気を取られて周囲をロクに見ていなかったが、今こうして冷静に見渡すと、先ほど私たちを案内してくれた女性を含めて、同じような服装、そして同じ”スタッフ”と書かれた名札を首に下げて、何やら片付けたり準備をしたりしていた。その手際の良さに目を奪われていたが、ふと今更な疑問が湧いてきたので、まだ”義一話”に夢中になっていた二人に割り込んだ。

「ところでマサさん?」

「ん?何だよ?」

「あのさぁ…」

と私は一度大げさに楽屋内を見渡してから続けた。

「そのー…百合子さんはどこ?それに…他の出演者の方々の姿も見えないけれど」

「ん?…あ、あぁ、アイツらの事か。アイツらなら今頃舞台上でメディア関係から取材を受けてるんじゃないか?」

「え?でも私たちが劇場内にいた時は誰もいなかったよ?」

「ん?なら…きっとすれ違いになったんだろ。そもそも、客の前ではその手の取材は受けないし、しないしな」

「ふーん…」

と私は納得しかけたが、明らかな矛盾が目の前にあったので、それにすかさず突っ込んだ。

「何で劇の取材というのに、その脚本を書いた張本人であるマサさんが、呑気にこうして楽屋にいるの?」

「呑気ってお前なぁ…」

そうボヤくマサの顔には笑みが溢れていた。

と、ここで「ふふ」と先ほどマサに自己紹介を促していた男性がクスッと笑うと、「お前はいいんだよ」と語気は強めだったが、どこかした思い遣りの感じる口調で言った後、呆れ笑いを浮かべつつ答えた。

「お前とは久し振りに会うが、何だかあの野郎に似てきやがるなぁ…まぁ初対面からそう感じたが。で、何だっけ……ってそうそう、まぁ本来は俺も行かなきゃいけないんだろうけれどもよぉ…」

とここまで言うと、マサは途端に今度は照れ臭そうにハニカミつつ続けた。

「何つーか…面倒じゃねぇか」

「…へ?面倒?」

それまで黙っていた絵里と裕美までもが、揃って声を漏らした。口にしないだけで、私と同じ疑問は持っていたようだ。

「そうなんですよ」

とここでまた不意に、先ほどの男性が苦笑まじりに口を挟んだ。

「先生ったら、自分の作品だっていうのに、中々取材を受けないんですから…」

「あっバカ!」

とマサは驚きのあまりに声を大きく上げた。その様子を見て、その男性も慌てて両手で口元を覆いつつ、視線を私たちに向けてきたが、何やら開き直った様子を見せると、ジト目を向けてくるマサを他所に話を続けた。

「今日だって、舞台監督さんと演出家さんに全部押し付けて、自分はのうのうと楽屋で休んでいるんですから」

「お前なぁ…」

とマサは、話し終えた男性のもとに寄ると、ため息交じりに声をかけた。

「もうお前ここはいいから、そろそろ奴らが戻ってくる頃だろうし、迎えに行ってやれ」

「はーい」

と男性は特段悪びれる様子もなく、仰せのままに楽屋を軽い足取りで出て行った。

「ったく…あんの馬鹿野郎は」

と男性の背中に毒づくように呟いていたが、当然のように今のやり取りの中で気になった…いや、正直さっきから気になっていた別の事も含めて聞いてみることにした。

「…え?マサさん、先生って呼ばれているの?っていうか…あの男性は何者なの?」

「…ほらなぁ」

とマサは途端に呆れ笑いを浮かべつつボヤくように言った。

「だから”なんでちゃん”の前では知られたくなかったんだよ」

「…ふふ、”なんでちゃん”か」

とここで瞬時に絵里が反応を示した。顔はニヤケ面だ。ついでに隣の裕美も同じ笑顔だった。

「琴音、アンタ…私たち以外の所でもそう言われてるの?」

とまず裕美が私に声をかけてきた。

「あ、いや、ちが…」と私が瞬時に訂正を入れようとしたその時、”何故だか”マサが裕美の発言に食いついた。

「なーんだ、こいつが”なんでちゃん”って呼ばれてるのは本当だったんだな」

「えぇ、本当ですよー。それこそ小学校から今に至るまでずっと変わらずです」

と、先ほどまでの萎縮した様子は何処へやら、裕美は笑顔で意気揚々と答えていた。

そんな”一人”を除いて和気藹々とした空気が醸成されてきていたが、何だか照れ臭いのを含めて無理やりに話を軌道修正にかかった。

「…もーう、みんなそれは今いいから!ほらマサさん、私の質問に答えてよ」

「あはは、分かった、分かった、そう焦るなよー」

と相変わらずニヤニヤしながら返してきたが、いざ話す段階になると、何だかバツが悪そうに話し出した。

「あんの野郎…後でみっちり文句を言ってやらにゃあ…あ、あぁ、そうだな。んー…まずそうだな、今この場にいる奴らが何者かを紹介するか」

マサはそう言うと、ぐるっと楽屋を見渡した。その瞬間、その場にいた全員が手を止めると、マサの一挙一動に注目した。

「こいつらはな…俺の事務所のスタッフなんだ」

「こんにちわー」

とマサの発言を合図にして、一斉に皆してこちらに挨拶をしてきた。そのチームワークの良さを見せつけられた私たちも思わず「こ、こんにちわ」と返すのだった。

それを見届けた後、またマサは話を続けた。視界の隅には、また作業に没頭するスタッフの姿が見えた。

「でな、今出て行ったアイツもスタッフの一人なんだが…まぁスバっと言うとな、そのー…」

とマサは如何にも言いにくそうにしていたが、そのまま調子を崩さずに、若干私たちから視線を逸らし気味に続けた。

「まぁ…脚本において、アイツの、そのー…師匠になる…んだよ」

「…へ?師匠?」

思わぬ単語が出てきたので、咄嗟に返した。声にはしなかったが、おそらく他の二人も驚いていただろう。

「あくまで形式的にだがな」

もう開き直ったのか、普段通りの苦虫を潰したような表情を浮かべつつ続けた。

「まぁ昔は脚本家にも師弟関係ってのがあってな、事実俺にも師匠はいたんだが、今はもう良くも悪くもそんな時代じゃないからよ、俺の代では無いと思ってたんだが…そこにあの馬鹿が転がり込んで来てな。初対面の時にアレコレと、いきなり俺の過去の作品をツラツラと並べ立てやがってな、それで感動したってんで、ぜひ弟子にしてくれってほざきやがったんだ」

「へえ」

と私は思わず楽屋の出口の方に視線を向けつつ呟いた。

「面倒だから断るつもりでな…」

マサは続けた。

「試しに一度何か書いてこいって言って、持って来させたんだが…タチが悪いことに、それがそこそこに面白くてな?まぁ今時あんなバカも珍しいし、そばに置いとくのもいいかと思って、普段はアイツが書いている”本”を添削して見たり、それ以外は修行らしく、こうしてたまに事務所のスタッフに混ざって雑務をやらせたりしてるんだよ」

「なるほどねぇ…それで先生か」

と一度笑みを見せつつそう呟くと、マサに戻した顔を無意識的にまた楽屋の外に向けたその時、丁度マサの言う”アイツ”が明るい表情を見せつつ戻ってきて言い放った。

「せんせーい!皆さんが戻って来られました!」


「馬鹿野郎、先生は外ではナシだと言ってるだろうが…」

とボヤくマサを尻目に、唯一だという弟子はニヤニヤしながら元の自分の持ち場に戻って行った。

その直後、ガヤガヤと廊下がざわついたかと思うと、ゾロゾロと人々が楽屋に入ってきた。

その気配に思わず振り返ると、「あ、琴音ちゃん」と声を掛けられた。見ると百合子だった。

百合子は舞台を捌ける時にも一緒に話していた、”リンデ夫人”役の女優さんを一度待たせてから、真っ先に私たちの元へ一直線に歩み寄って来た。

「よく来てくれたわねー。それに絵里ちゃんも!」

「は、はい…」

まだ舞台後の興奮が冷めないといった所か、百合子がいつに無くテンション高めに握手を求めたりしてきたので、私と絵里はその勢いも含めて圧倒されながらも、笑顔で応じた。

握手を交わし終えると、ふと私の隣にいた裕美を見て、ほんの一瞬キョトンとして見せていたが、すぐにまた明るく笑いながら、まず私に話しかけてきた。

「…あっ、この子ね?こないだ一緒に見に来てくれるって言ってた友達っていうのは?」

「う、うん、そうだよ」

と応じながら裕美に顔を向けると、裕美の方でも一度コクっと頷き、それから百合子の方を向くと、マサにしたように一度お辞儀をしてから自己紹介をした。

それを受けた百合子は、また明るく笑顔を浮かべながら裕美とも握手を交わした。

「で、早速だけれど…」

とここで急に普段通りの静かな笑みを見せたかと思うと、次の瞬間には、何だか企んでいるかの様な意地悪げな笑みを見せつつ話しかけてきた。

「…どうだった?私たちの劇は?」

「え?えぇっと…」

そう聞かれたのは私たち三人全員に対してだと思うのだが、裕美と絵里はそう声を漏らしつつ、二人して私の顔を覗き込んできた。

気づけば、マサを含めた事務所のスタッフ一同、それに今入ってきた役者の皆皆、後何となくだが、マサと年恰好が似ているという理由だけで推測するに、舞台監督と演出の人もこちらに注目してきてるのが、肌感覚で何となく分かった。まぁ当事者としては、良くも悪くも私たち三人が気になるのは仕方ないだろう。何せ今この場で部外者なのは、私たちのみなのだから。ここで今更ながら、マサとあれだけ会話をしたというのに、今だに感想を述べていないのに気づいた。

それはともかく、私はそんな二人の様子に、やれやれと心の中でため息をつきつつ口を開いた。

「そうねぇ…まぁこんな事を、軽々しく言うのは気がひけるんだけれど…」

と私は、私なりに気を使っていると言うのを、その口ぶりで何とか周りに察して貰える様にというセコイ考えの元、一度ここで一同を見渡して、それからまた好奇心に満ちた笑みを浮かべている百合子に顔を戻して続けた。

「…うん、とっても面白かったよ」

そう言うと、百合子は一瞬目を大きく見開いて見せたが、次の瞬間には目を細める様に微笑みつつ「…ふふ、ありがとう」と返すのだった。

それに対して私からも微笑み返したその時、突然この場にいた一同がドッと一斉に笑い声を上げた。

私のいる位置からは、百合子の背後に全員の姿が見えていたのだが、その全員が明るく笑っているのだった。

突然のことで、私は急に笑われたのに対して不快に思う前に驚いてしまい、裕美や絵里に取り敢えず視線を流すと、二人もキョトン顔でこっちを見てきていた。

「ちょっと、みんなー?」

と百合子は後ろを振り向き皆に向かって声を掛けた。

「急に何でそんなに笑うのよ?」

「だってぇ」

と百合子に近づいて来つつ言う女性がいた。”リンデ夫人”だった。顔にはこれ以上ないってほどの笑みを零している。

彼女は私に一度一瞥を投げた後、ニコッと目を細めて見せてから百合子に向かって言った。

「マサさんや、それに百合子さんから聞いてた通りの子なんだもの。…ふふ、特にマサさんからね、『今日百合子が招待した客の中に、琴音っていうガキがいるんだけれどな、そいつはまだ小娘だというのに、パァパァ生意気に好き勝手な事を臆面もなく言ってくるからな?気を付けてかかれよ?ボロクソに言われるかも知れねぇからな』だなんて言うもんだからさ」

と女性は途中から、これまたマサの特徴をよく捉えたモノマネをしつつ言った後で、ふと本人の方を向くと、当人は「余計な事を言うなよ」となぜか照れ臭そうに笑いつつボヤいていた。

「ちょっとマサさーん?」

と急に場の雰囲気が変わったのにも慣れてきた私は、マサの言う通りに合わせて(?)生意気な調子でそう態度を示すと、また一同が和かに明るく笑うのだった。

「あはは!ま、でもさ」

と女性は一歩私の前に歩み出ると、一度私の顔をジッと覗き込み、その後にはニコッと笑いながら言った。

「楽しんで貰えたようで良かったよ。ありがとね!」

「あ、いや、こちらこそ、そのー…ありがとうございました?」

と、百合子の時も正直そうだったのだが、これが生意気と言われる所以なのか、そんなお礼を言われる筋合いは無いと瞬時に思ってしまったので、どうそれに返したらいいのか迷ってしまい、こうして結果的に辿々しく、語尾が疑問調になってしまった。

そんな私の心境を知ってか知らずか、女性はまたニコッと笑うと、今度は裕美にも感想を聞いていた。

裕美は私と同じようにまだ動揺していたが、それでもチラッと私の方を見てきつつも笑顔で「はい、私も面白かった…です」と返していた。

「そっか!それは良かったよー」

と気づいたら、初めは百合子に感想を聞かれていたはずだったのに、いつの間にか”リンデ夫人”に変わってしまっていた。

裕美が聞かれている間、チラッと百合子の方を見ると、百合子はいかにも困り顔な笑みを見せつつ、その様子を眺めて見ていた。

「…で?」

と女性は不意に絵里の方を向くと、一度全身を眺め回し、それから急に悪戯っぽい笑みを浮かべたかと思うと口を開いた。

「…絵里は?絵里は今日の劇、どうだった?」

「…え?」

この女性の言葉には、私と裕美はもちろん、百合子、それにこの場にいる中の数人が同様な声を漏らした。まさかの言葉だったからだ。というのも、女性がまだお互いに自己紹介をしてもいないというのにも関わらず、絵里のことを名指しで話しかけたからだった。

まぁでも字ズラだけ見ると、そこまで不思議では無いのかも知れない。何せ、ついさっき百合子が私たちを見た時に、名前を呼んでいたからだ。だからこれだけだと、まぁそれでも急に馴れ馴れしく声を掛けるのはオカシイのだが、それでもまぁ無くはないと思える範囲だ。だが、それでもなお引っ掛かったのは、この女性が絵里に言った声のトーンが、とても感情が込められている様に、他者である私達にすら感じさせたのだった。

それを証拠に、思わず私は絵里の顔を見たのだが、絵里は何の動揺も浮かべることなく、ただ静かな表情を浮かべていた。

だが、フッと一度短く息を吐いたかと思うと、静かに微笑みを浮かべつつ口を開いた。

「…ふふ、やっぱり有希先輩だったんですね」

「え?」

と私と裕美がまた顔を見合わせてると、それを他所に女性は懐かしむように目を細めつつ「ふふ、『やっぱり』って…」と笑みをこぼした。

「それは私のセリフだよ。”絵里”って百合子さんが言うのを聞いた時にさ、懐かしい名前を聞いたから思わず見たら…ふふ、あれからもう十五年以上も経つというのに、あなたは何も変わってないのね」

「…ふふ、その言葉は、そっくりそのままお返しします」

そう言う絵里の顔には、これまでに見た事のあるのとはまた違った種類の微笑を浮かべていた。

「あのー…絵里さん?」

そんな和かな雰囲気の中、”あえて”空気を読まずに私は”有希”と呼ばれた女性に視線を向けつつ絵里に話しかけた。

「この女性って…」

「ん?あ、あぁ、この人はね…」

と絵里が答えようとしたその時、女性は急に明るい調子に戻って割って入ってきて言い放った。

「あ、そうそう!まだ自己紹介がまだだったわね?…コホン、私は今回”人形の家”で”リンデ夫人”を演じた、澤村有希って言います!それと…そこにいる絵里の、中高時代の一年先輩で、同じ演劇部に所属していたの。まぁ何と言うか…よろしくね?」


…やっぱり。どこかで見た事があると思ったら、それは絵里から何度か見せて貰っていた昔の写真の中で、よく絵里と写っていた女の子その人だったんだ。

思わぬところでの再会を祝い合っている二人の様子を眺めつつ、時折裕美と見合わせながら一人合点がいくのだった。

「すぐに分かった?」

「いえいえ、すぐには分かりませんでしたよ。何せ…十九世紀風の衣装や髪型、それにメイクをしてましたから」

ちなみにここで軽く補足すると、有希含めて他の出演者はすっかり衣装だけは着替えていて、スタッフ達と変わらない、無地のTシャツ姿になっていた。

「あはは、そっかぁ」

「でもまぁ…」

とここで絵里は軽く薄眼を使いつつ、口元を緩めながら言った。

「声のトーンだとか、演じ方だとかで、どこか引っ掛かったんですよ。それでジッと劇中目を凝らしていたら、分かったんです」

それを聞くと、「あはは!」とまた有希は明るく笑ったが、その直後、何かに気付いたような素振りを見せると、途端に納得いかないと言いたげな顔つきでボヤくように言った。

「何だかなぁー…それって、私が学生時代と比べて、何も進歩してないって事じゃない?へこむわぁー…」

「あはは!」

「おいおい、笑い事じゃないぞー?」

そんなキリなく会話を続ける二人の様子を眺めていた百合子が、ここだと思ったのか、笑みを浮かべつつ口を挟んだ。

「…しっかし、こんな偶然があるのねぇ?まさか絵里ちゃんと有希、あなた達が知り合いだったなんて」

「それを言うなら百合子さん」

と有希の方は悪戯小僧よろしく笑いつつ返した。

「私からしたら、百合子さんと絵里が知り合いだっていう方が不思議ですよ」

「あら、そう?ふふふ」

と百合子はそれ以降には言葉を発せず、ただ絵里の方を向きながら、如何にも意味深げに笑って見せるのだった。

それに対して、どこか納得いかない様子だったが、いつもの事なのだろう、「まぁ、いいですけれどね」と呆れ笑いを浮かべるのだった。

「でもさ?」

と有希はまた絵里に話しかけた。

「私の名前って芸名も何も本名そのままじゃない?てっきりプログラムを見た時に分かったんだと思ったよ」

「あぁ…まぁ、見たなら気付いたんだと思うんですけれど、物販でその手のモノを買っていたら、もう上演時間が迫ってまして、じっくり見る暇が無かったんですよ」

「あら、そうだったの」


…とまぁ、ほっとくと話が尽きないといった様子を、他の人たちは空気を読んでくれていたらしく、思わぬ再会劇を一方的に見せられたのにも関わらず、文句を言わずに見守ってくれていた。

ようやくその寸劇に、取り敢えずの区切りがついたと見るや、他の出演した役者さん達が私たちの元に近づいてきて、それから挨拶を交わした。百合子と有希を含んで、男女合わせて総勢九人のキャストだったので、残りの七人と軽く会話を交わした。

内容としては、先ほど笑ってしまった事について謝られたり、その繋がりで、今日まで百合子とマサにアレコレと吹き込まれたという内容を聞かされたりした。その度に、裕美と絵里も一緒になって愉快げに笑顔を浮かべるのだった。やれやれと私も最終的には一緒になって笑い合った。

その後で、舞台監督と演出家の方とも挨拶を交わした時に、何故だかもう少し細かく感想を聞かせて欲しいと言われたので、流石の私でも、一役者の百合子相手よりもなお一層恐縮してしまったが、それでも頼まれた以上仕方ないと、開き直り気味に滔々と、劇を見終えた直後に話したような感想を、そのまま隠す事なく言った。

私の悪癖の一つのせいで、自分で話していて夢中になってしまい変に熱く語ってしまっていたが、話し終える頃にふと我に帰り周りを見渡すと、それぞれ皆細かくは当然違っていたが、一同のどの顔つきも、好奇心に満ちた興味深げな表情を浮かべて聞いてくれていた。それに気づいた瞬間、途端に恥ずかしくなって話を切りたい衝動に駆られたが、もうここまで来たら仕方ないと、ケツをまくって最後までイタくも語りきった。

その後は楽屋内に数瞬沈黙が流れたが、その後には舞台監督や演出家の方を筆頭に、各々がそれぞれ私に寄ってきて、色々と声をかけてくれた。その中には百合子や有希、それにマサもいた。その中身を、まぁ簡単に一括りに言うと、自分で言うのも馬鹿らしいが一風変わった視点からの感想を面白がってくれたといった調子だった。

一斉に色々と声をかけられてる中、「な?俺の言った通りだろ?」と何故か自慢げに周囲に漏らしたマサの言葉が、不思議と明瞭に耳に届いたのだった。

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