第9話 コンクール(終)中編
スピーカーから流れ出ていた、ピアノの最後の一音が鳴り終わった。
「…うん、良いじゃない?」
先ほどまで目を瞑って聞いていた師匠はゆっくりと目を開けると、明るい笑みを浮かべて言った。
「…はい」
私も師匠と同じように瞑っていたのだが、目を開けて目を合わせると、笑顔を浮かべて返した。
今日は、紫たちと会って数日後の土曜日。午後のレッスンだ。
今は私が弾いたコンクールの課題曲を録音したものを、こうして師匠と二人で聞いていた所だった。これはコンクールと関係無く、師匠の元で習い始めて、ある程度弾けるようになった頃からの習慣だ。
これをその日のレッスンの最終確認代わりとし、それでお開きとなる流れだった。今日も例外ではない。
レッスン部屋にある時計を見ると、五時に差し掛かろうとしていた。師匠も時計をちらっと見ると、「うーん」と大きく伸びをしながらこちらに顔を向けて
「今日は少し早めに終わったから、少しだけお茶でも飲んでいかない?」
と言うので、そのお誘い自体が嬉しかった私は何も考えないまま、
「はい、頂きます」
と意気揚々と返した。
それから二人はレッスン部屋を出ると、揃ってあの中休みにお菓子を作って食べてる居間へと向かった。
入ると二人揃ってシンクで手を洗い、師匠がお茶の準備をし出したので、私も慣れた調子で食器棚から茶器を取り出した。何年も頻繁に来ているお陰か、我が家のように勝手知ったる何とやらだ。
「では頂きます」
「はい、頂きます」
師匠がまず声を上げて、それを合図に私も返して、それから飲むのも習慣だ。
尤も、このようにお茶をするというのは中休み時に限っていたことだったのだが、最近…コンクールに向けての練習をするようになってからは、レッスンが終わった後もすぐには帰らず、師匠にこうして誘われればそのまま快諾し、三十分から一時間ほど長居をさせてもらって、芸談や日常会話を楽しんでいた。
「来週の水曜日の本番…」
師匠はそう言いかけると、ここで意地悪げな笑みを浮かべて見せてから続けた。
「楽しみだわねぇー…琴音の友達が大集合するんでしょ?」
「…ふふ、もーう。それって私よりも、師匠の方が楽しみにしてません?」
と私はわざと不平気味の口調を使い、呆れとも苦笑とも取れる笑みを浮かべつつ返した。
「ふふ、かもねぇー」
「それに、大集合って程のもんでは無いですよー。こないだの裕美や、師匠も知ってる律も入れて四人ですから」
「四人もよ!」
私がそんな生意気な調子でぼやくように言うと、師匠は同じ笑みのまま少し口調を強めに言った。
「私の時は決勝まで行っても、観客席には友達がいなかったもの」
師匠がおそらく気を遣ってくれてだろう、そう何気無い感じでサラッと今のような事を言ったので、私は変に畏まらなくて済んだのだが、それでも気の利いた返しは思い付かず、ただ静かな笑みを浮かべて、コクっと小さく頷いて見せてから、ズズッと唇を濡らすがためのごとく紅茶を啜った。そんな様子を見た師匠も、「ふふ…」と柔らかく笑うと、同じように紅茶を啜るのだった。この空間には、時折家のそばを通る、恐らく小学生くらいだろう、子供数人が声を上げてはしゃいでいる声以外には、静穏な、しかしとても居心地の良い空気が流れていた。
とその時、ガラガラ…と家の中にいても聞こえる程に鳴り響く、キャスターのついた何か、恐らくスーツケースだろう、特徴のある音が聞こえてきた。
…それだけなら、何も不思議に思うことは無いと思われるだろう。よくある生活音だからだ。私も初めはそう思って、特に気に留めていなかったのだが、その音が徐々に近づいて来たかと思うと、どうもこの家の前で足を止めたようだった。
ここでふと何気無く師匠の顔を見たのだが、師匠もこの足音に耳を傾けていたらしく、そして家の前で止まったのも感じたのか、一瞬だけ眉毛をピクピクとさせていた。この時は単純に、私と同じ思いをしていた故の動きかと思っていたのだが、あとで知れるように、その予想は少しだけズレていたのだった。
ピンポーン。
と不意に一度インターフォンが鳴らされた。
今まで静かだった空間内で急に大きな音が鳴らされたので、正体が分かっていてもビクッとしてしまったが、それと同時にまた師匠の顔をチラッと見ると、何事も無かったかのように紅茶を啜っていた。
「…?」
ピンポーン。
またインターフォンが鳴らされた。また私は師匠の方を見たが、一向に動こうとしない。
ピンポーン。ピンポーン。
またまたインターフォンが鳴らされた。その主の姿を見ていないので定かでは無いが、その音の鳴らし方から苛立ちの色が見えていた。
「あ、あのー…師匠?」
出ないで良いんですか?と言いかけたその時、師匠は不意に優しげな笑みを浮かべて、手元のカップの中を一度覗き込んでから、
「琴音、この紅茶おいしいでしょ?」
と聞いてきたので、「は、はい…お、美味しいです?」と若干呆気に取られてしまったので、何故か最後に疑問調でそう返した。
ピンポ、ピンポ、ピンポ、ピンポーン。
何度も連打をしているのだろう、鳴り止む前にまた押している様で、音が切れ切れに鳴っていた。
「はぁ…」とここでようやく師匠が、先ほどまで和やかな表情だったのを一変させて、心の底からウンザリだと言いたげな表情を見せたかと思ったその時、
ガチャっ。
と玄関の方で解錠した音がしたかと思うと、次の瞬間には玄関が開けられる音がして、ゴソゴソと何やら動いている音がしていた。時折例の、カラ…カラ…とまるで車輪がついているものがある様な気配もあった。
そんな事が起きているのにも関わらず、師匠はそのまま渋い表情で黙々と紅茶を啜っていたので、私も黙って事の成り行きを見ている他になかった。
足音が廊下の方に鳴り響き、居間のドアの前で止まると、間を空けずにその人は中に入ってきた。
その人物は女性だった。ネイビーのつば広帽子を頭にしていて、その下から出ている長めの髪にはウェーブがかかっていた。後ろは軽く纏めていた。服装は、青と白の細いストライプ柄のシャツワンピだった。長さは膝あたりまであり、ダラリとゆったりとしたシルエットだ。胸元は深めに入ったスキッパーデザインで、涼しさを演出している。ワンピースの下からは、スキニータイプのジーンズが覗いていた。
女性は部屋に入ってくるなり、一度グルっと辺りを見渡していたが、私は私でこの女性に釘付けになっていた。何故なら…私はこの女性をよく知っていたからだ。
「ちょっとー…」
女性はふと師匠に顔を向けると、帽子を脱ぎつつ不満タラタラに言った。
「何で何度もチャイム鳴らしたのに、出てくれなかったのよぉ?」
「…だって」
そう声をかけられた師匠も、居間のドアを背にして座っていたので、体を軽くよじりつつ、背もたれに腕をかけながら、負けじと不満な様子を隠そうともせずに返した。
「あなた…今日来るなんて言ってなかったじゃない?そもそも、空港まで迎えに行ってあげる約束までしてたはずだけれど…?」
そう返された女性は、途端に子供のような明るい笑みを浮かべると、口調も朗らかに言った。
「あはは!驚かせようと思ってね?…驚いた?」
「驚いたというか…呆れたわよ」
そう返す師匠の顔には、私が今までに見たことの無いような、屈託のない笑みを見せていた。
「あはは!」と女性はまた声を上げて笑うと、笑みをそのままに続けた。
「ただいま、沙恵」
「まぁ…お帰り、京子」
…ここまで引っ張ることは無かったかもしれないが、こうして当人たちが挨拶を交わしたので紹介すると…そう、彼女こそが、師匠と幼い頃から鎬を削ってきた、ライバルでもあり、かつ互いに唯一無二の親友である矢野京子その人である。
背丈は師匠よりも若干低かったが、私よりかは高かった。スタイルも師匠に負けず劣らずスラッとしたスレンダー体型だ。若干肩幅がある所まで似ている。
…何故ゆったり目の服装なのに分かるのか?それは普段から良く師匠に彼女の今の姿なり何なりを見せてもらったりしていたからだ。ただ声のトーンは、いつもではないが基本的に師匠の声は落ち着いた調子なのだが、それとは反対に京子さんの声はいつもハキハキしている感じだった。
「んーん…ってあれ?」
大きく伸びをして見せていた京子さんだったが、ふと私に視線を向けると、途端に好奇心に満ちた笑みを隠すことなく前面に押し出しつつ言った。
「この可愛い子ちゃんはどなた?」
「あ、あぁ、その子はねー…」
と師匠が答えようとしたその時、「あぁ!」と急に大きな声を上げた。
「あなたが例の沙恵のお弟子さんね?確か名前は…そうそう!琴音ちゃん!」
「は、はい!琴音です!」
あまりにハイテンションな京子さんに釣られるようにして、私も思わず声を上げ気味に返したが、それだけではいかんだろうと思い、スクッとその場で立ち上がると、一度息を整えてから頭を下げつつ「弟子の望月琴音です」と挨拶をした。
するとなかなか反応が返ってこないので、少し不審に思いつつ頭を上げると、京子さんは目を合わせた瞬間まではキョトン顔をしていたが、すぐにまた笑顔を浮かべると、今度は師匠に声を掛けた。
「…ふふ、沙恵ー、アンタが言ってた通り、今時珍しく”弟子弟子しい”振る舞いをする、面白い子だねぇ」
「ふふ、そうでしょ?」
師匠も京子さんに同じ調子で笑顔で返した。
そんな会話を目の前で繰り広げられていたのだが、正直私の頭はまだこの時、混乱したままだった。
それはそうだろう。先ほどもチラッと言ったが、京子さんは私の数少ない、いわゆる芸能人という枠組みの中でのファンの一人なのだ。これはいつだったか言ったが、勿論すでに知ってはいたのだが、師匠と縁の深いという事を知ると、我ながら単純だと思いつつも、ますますファン度が強まってしまったのだった。その人が突然に、前触れもなく目の前に現れて、そして気軽に私に話しかけてくれている…緊張するなという方が無理な話だろう。…そう、もう亡くなられた落語家の師匠と突然数寄屋で出会ったのと、似たような…いや、それ以上に緊張していた。
そんな私の心中を知ってか知らずか、少しばかり師匠と軽口を言い合った後、京子さんはまた私に顔を向けると、目を細めるようにして、まだ立ったままの私に声を掛けてきた。
「って、あぁ、そうだった!琴音ちゃんが名前を名乗ってくれたのに、私はまだだったね?コホン…私の名前は矢野京子。あなたの師匠の友達よ、よろしくね?」
「は、はい!よろしくお願いします…や、矢野…さん?」
私は返事をしようとしたのだが、不意に何と返せば良いのか分からず、結局は名字に”さん”付けをしてみたのだが、それでもしっくりとこず、遂には疑問調になってしまった。というのも、普段師匠と会話している中では、気安く”京子さん”と下の名前で呼んでいたからだった。咄嗟にアドリブが効かなかった。
そんな私の妙な様子から察したか、京子さんはテーブルをグルッと回って私のそばまで来て、帽子を持ったのと反対の手を私の肩に乗せ、ポンポンと軽く叩きながら「固いよー」と冗談交じりに声を掛けてきた。そして肩に乗せた手で座るように促してきたので、私が着席すると続けて言った。
「京子で良いよ、京子で!私は確かにあなたの師匠の友達ではあるけれど、私たち二人の間には師弟関係は無いんだから、もうちょっとリラックスして、気軽な感じで接してくれると嬉しいな?」
と京子は言い終えると、戯けながらウィンクをして見せたので、今まで雑誌や映像で見たまんまの、そして師匠から話を聞いたまんまの、そのままのイメージ通りの姿を見せられて、私は思わず「ふふ」と笑みが溢れてしまい、この瞬間から自然と緊張がほぐれていった。
そしてその笑顔のまま「はい、京子さん」と明るく返したのだった。
「ウンウン」と京子は満足げに頷いていたが、
「そうよー、琴音」と、ここで師匠が会話に入ってきた。表情はニヤケ面だ。
私はこの時、少なからず驚いていた。普段から冗談を言う支障ではあったが、これほどまでに辛辣なのは聞いた事がなかったからだ。
「いくらあなたが京子のファンだからってね、普段は何てことはない、どこにでもいるお調子者の三十越えた一人の女なんだから、気遣いは無用よ」
「ちょっとぉー、随分な言い草じゃなーい?」
と京子はジト目で師匠を睨んで見せていたが、口元はニヤケていた。と、ここで不意に私に顔を向けると、何だか決まり悪そうな表情を浮かべつつ話しかけてきた。
「…って、あ、そうなんだ…。琴音ちゃん、あなた…私の、そのー…ファン、なの?」
流石のサバサバしたキャラの京子も自分では言い難いのか、少し辿辿しげに言うので、それが伝染したのか、私も何と答えたらいいのか迷ってしまったが、気の利いた言い回しが思いつかず、結局は素直に「は、はい…」とだけ短く返した。
「そ、そっかぁー…いやぁー」
京子は照れ臭そうにホッペを掻いていたが、「それはー…ありがとうね?」と返してくれた。それに対して私も照れながら「は、はい…」と、先ほどと全く同じ返しをしたが、この空気に耐えられなくなったのか、「何の話か分からなくなっちゃったなぁ…」と独り言ちたかと思うと、途端に京子は努めて明るく声を上げつつ、今までの流れをニヤケつつ黙って眺めていた師匠に話しかけた。
「アンタの弟子にしては、不思議なくらいに人を見る目があるじゃない?」
「”しては”は余計よ」
師匠は軽い抗議をしたが、表情は緩めたままだ。
と、ここで不意に、テーブルを挟んで座る私に視線を流しつつ、顔は京子に向けたまま言った。
「まぁでも…確かに、私には”出来過ぎた”弟子なのは違いないわね」
「あ、あの、その…」
不意にまた師匠と京子が私の事を褒めてきそうになったので、何とか押しとどめようとしていたその時、京子はふと自分の体を見下ろしてから師匠に声を掛けた。
「…ていうかさぁ、いつまで私を立たせたままにしておく気ー?これでも私はお客様なんだけれど」
「…ふふ、誰もあなたを今日招待していないけれどねー」
そう口にしながら師匠は、やれやれと重たい腰をゆっくりと上げると、
「じゃあテキトーに座ってて?今お茶を淹れてあげるから」と口にしつつキッチンに向かった。
「ありがとうー」と師匠の背中に声を掛けると、京子は師匠が今まで座っていた隣に腰を降ろした。
「琴音ー、あなたもお茶、お代わりいるでしょー?」
と師匠が声を掛けてきたので、
「はーい、いただきまーす」
と、同じ部屋にいるのに、船を見送るような声で返した。
「では頂きます」
「はい、頂きます」
「いただきまーす」
師匠がまた号令をかけると、私、そして京子が声を揃えるように言い、そして一口ズズッと啜った。
「京子、今日泊まっていくんでしょ?」
「えぇ。ていうか…二週間ばかり日本にいるつもりだから、その間は泊まらしてよ?」
そう京子が言うと、師匠は見るからに嫌そうな表情を浮かべつつ言った。
「えぇー…毎度毎度、ほんっとうに勝手なんだから…。まぁいいわ、良いよ、こっちにいる間泊めてあげる。何のお構いも出来ないけどね」
「あはは、ありがとうね」
「まったく…実家があるんだから、たまには帰ってあげれば良いのに」
「だってー…神戸って遠いじゃない?もちろん、一回は顔を見せに行くけどね」
「で、また戻って来ると…」
「えへへ。よろしくね」
「はいはい」
こんな二人のやり取りを見ている間、私は美保子と百合子のことを思い浮かべていた。実際には見た事が無かったが、おそらくこういったやり取りを、毎度のように繰り広げているのだろう事は、想像するのに難しく無かった。
私は黙って自然と笑みを浮かべながら二人の顔を見ていたが、元から少し垂れ目がちの師匠の目元が今は釣り上がり気味なのに対し、普段はツリ目気味…そう、考えて見たら、目元は紫にソックリ…いや、話すのを忘れていたが、今京子はメガネをしているのだが、そのメガネも所謂”ざますメガネ”なせいか、余計に似ている事に、この時初めてハッと気づいた。…いや、そんな事を言いたかったのではなく、ツリ目気味の京子の目元は打って変わって終始ニコニコしているせいか、若干緩んでいて、この二人の目元の違いに気づいた時、ますます吹き出しそうになるのだった。
それからは、師匠と京子の二人が、友達同士で繰り広げられる内輪の話を軽くした後、不意に京子は私に顔を向けると、ニコーっと笑いながら話しかけてきた。
「そういえばさー…琴音ちゃん、いよいよ本番ね?」
「はい?」
何の話かと私は気の抜けたような調子で返してしまったが、それには意に返さずそのまま続けた。
「ほら…コンクールの事よ!あなた…決勝まで行ったんでしょ?」
「は、はい…」
呆気に取られたままの私をよそに、京子はここで今日一番の笑みを浮かべて言った。
「…それ、私も観に行くからね!…応援こみで」
「え?…えぇー!」
私は思わずその場で立ち上がって声を上げた。そんな様子の私を京子はニコニコしながら見ていたが、片や師匠は隣に座る京子を横目でジロッと見ていた。
…まぁ正直のところ、京子が目の前に”このタイミングで”現れた時点で、頭のどこか片隅によぎらなかったと言うと嘘になるが、それでもやはり実際に言われると驚いてしまった。
私が思わず立ち上がってしまったのを、若干恥ずかしく思いながら椅子に腰掛けると、「はぁー…」と師匠が深くため息をついてから京子に話しかけた。
「やれやれ…。京子、あなたがこの子を観に来ることは、当日まで内緒にしておくつもりだったのに、よくもまぁ早々にバラしてくれたわね」
「えー?…あぁ、あんたもサプライズを用意してたんだ。…琴音ちゃんに」
京子は顔は師匠に向けたまま、視線だけ私に流しつつ言った。口調からは愉快げな感情が見えている。
「そう言ってくれなきゃー」
と何故か勝ち誇ったような表情で言う京子に対し、師匠はやれやれと首を横に振ったものの、その直後にはフッと息を吐きつつ「それもそうね」と言って、そのまたすぐ後で、今度は私に顔を向けた。
その顔には半分照れ、半分は気まずさが混じったような笑みを浮かべていた。
「…まぁ、バレてしまっては仕方ないか。琴音、今京子が言った通りよ。そうねー…こないだの本選が終わった直後くらいかしら?その時に京子と連絡を取り合っていた時にね、あなたの話になって、コンクールはどうなっているかって話になったの」
「私から話題を振ってね?」
京子が、出された紅茶を啜りつつ合いの手を入れる。
「そうなの。…これもあなたには内緒にしていたんだけれど、あなたの事をね、芸の事も含めて、色々と話をしていたんだー。そのー…私の弟子になる前からね?」
「え?そ、そうなんですか…?」
私は途端に、今までのここでの自分の行いを、思い出せる範囲で思い返していた。何か恥ずかしいことをしていないか、といった辺りだ。
私の頭がフル回転している時に、京子がまた明るくニコニコした笑みを浮かべつつ話しかけてきた。
「聞いたよー?”師匠”の事、好きなんだってね?」
「”師匠”…?」
とここで私は、向かいに座る師匠に視線を流すと、その瞬間京子は「あははは!」と声を上げて笑ったかと思うと、その笑顔を絶やさぬまま続けた。
「違う、違う。ほら…」
と京子が名前を挙げたのは、そう、先日亡くなった、落語家の”師匠”だった。「あぁー」と私は声を出してから、「はい」とだけ短く返すと、京子は今度は好奇心に満ちた笑みで、私の顔を覗き込むようにしながら言った。
「本当だったんだねぇー。いやー…そもそも、あなたの年代で、”師匠”の名前自体を知ってる人が稀だと思うんだけど、知ってるばかりか、好きだって言うんだからねぇー…ふふ、いや、ただ不思議がってるんじゃないのよ?とても”センス”が良いって言いたかったの。…その歳にしてね?」
「は、はぁ…」
何だか話の展開が早く感じて、とてもついていけてる気がしなかった。何とか返答をするだけで精一杯といった感じだ。
「”師匠”がテレビに出ていた時でさえ、私たちはこの子よりも遅めだったものねぇー…魅力に気付くのが」
と師匠が言うと、京子は腕を組みつつ「ウンウン」と口に出しながら頷いていたが、ハッと何かを思い出したような顔つきになると言った。
「そういえばさ、師匠の記事、ちゃーんと取っといてくれた?」
「えぇ、ちゃーんと取っといてあるわよ。…朝に早起きして買ってね?」
「ふふ、それはそれは、ありがとうございました」
と京子が深々と頭を下げると、師匠は苦笑交じりに「どういたしまして」と返していた。
と、京子が体勢を戻している間、師匠はまた私に顔を戻すと
「まぁそういう訳なんだけれど…琴音、ごめんね?勝手に色々とあなたの話を京子にしちゃって」
と少し声のトーンを落としつつ言ったので、
「え?あ、い、いえいえ、そんな!私は別に…」
と私は慌てて返した。この時はこれで終わってしまったが、『むしろ、師匠だけでなく、好きな京子さんにまで私のことを認知してくれていたなんて、それだけで嬉しいです』くらいの事を言えれば良かったなぁくらいには思っていたが、当時の私にはそこまでは気が回らなかった。…いや、変に口が回る方が嘘っぽく見えたり聞こえたりしたかもだから、結果オーライだったかも知れない。
「ついでと言ってはなんだけど…」
と師匠はまた苦笑交じりに付け加えた。
「瑠美さん…あなたのお母さんにも話は付けてあるから」
「え?」
これには私も苦笑いをする他になかった。尤も、他には何の感想も持たなかったから、この話はこれで終わった。
それからは私のコンクールの話に終始した。師匠はここで録っていた練習音源を京子に送っていたらしく、簡単にだが、京子は色々と私にアドバイスをくれた。元々帰り支度を済ませていた私は、すぐそばにカバンを置いていたので、咄嗟に中からノートを取り出し、自分なりに纏めて書き出していった。
この時の私はメモするのに必死だったので実際には見ていなかったが、後で師匠が言うのには、私がわざわざカバンからノートを取り出したのを見て、この時初めて目を丸くして驚いて見せていた様なのだが、その直後には隣に座る師匠と顔を合わせて、師匠が一度優しげな笑みを浮かべつつコクっと一度頷くと、京子も微笑み返した様だった。
…まぁそれは置いといて、京子が色々と師匠とはまた違った見方を示してくれたので、とても面白くメモを取ることが出来た。
その後は軽く師匠と京子の”当時のコンクール秘話”に話が向かいそうになったその時、「あっ」と師匠が声を上げたので、その視線の先を見ると、掛け時計が時刻六時半を示していた。師匠の所での最長滞在時間だ。
「じゃあ取り敢えず、今日はこの辺りでお開きにしましょう」
「あ、琴音ちゃん。連絡先を教えてくれない?お近づきの証として」と京子が戯けつつ言ってくれたので、私は咄嗟のことで驚き慌てつつも喜びを隠せぬままに笑顔を浮かべてスマホを取り出した。京子も私とほぼ同時にスマホを取り出しながら言うには、普段は全く使わないが、日本用の携帯を一応持っているとの事だ。まぁ余談だけど。
そのやり取りが終わると、それから私は一人身支度をし、そして玄関に続く廊下に出た。その後を、師匠と京子が付いてくる。
玄関に着くと、すっかり暗くなった辺りを明るくするために、師匠が灯りをつけた。すると、すぐ近くに見慣れない真っ赤なスーツケースがあるのに気づいた。
…なるほど、さっきのカラカラ音が鳴っていたのは、この音だったのか。
と私は視線をスーツケースに向けたまま靴を履いていると、その間、師匠も私の背後で見ていたらしく、感想を述べていた。
「京子、またそんなド派手な色合いのスーツケースを使っているの?」
「ド派手って…ただの赤一色じゃない?」
「それがド派手って言ってるのよ。暗い色合いならともかく、原色に近いじゃない?」
「もーう、ほっといてよ」
こんなやり取り背に支度をしていたのだが、何だか親友同士というよりも、親子の様な会話だったので、思わず知らず「ふふ」と笑みが溢れてしまった。
そして靴を履き終えた私が立ち上がり振り返ると、師匠と京子二人ともが、何だか決まり悪そうに照れ臭そうに笑みをこちらに向けてきていた。一瞬間が空いたが、私が何も言わぬまま自然とニコッと微笑むと、それを合図にしたかの様に、二人も私に笑いかけてくれた。
「気をつけて帰ってねー」
と二人が揃いも揃って同じ言葉を私に掛けてくれた。そして二人揃って玄関先まで出てきて、私が例の曲がり角でまた振り返り見ると、街灯が少ないのもあってハッキリとは見えなかったが、ボンヤリとした明かりの下にいる二つの影が私に手を振ってくれていたので、私も二、三度大きく手を振り返し、名残惜しげにゆっくりと角を曲がり、日中と変わらぬ暑さの引かない夜道だというのに、足取り軽く家路を急いだ。
「…あはは。バレちゃったのねぇ?」
お母さんは手に持った茶碗を一度置いてからにこやかに言った。
自宅の食卓。テーブルの上には煮魚などの和食の品々が程よく並べられていた。もう慣れたものの、お母さんとの二人きりの夕食だ。
家に帰ると、まずお母さんに「何故今日はこんなに遅くなったの?」と聞かれたのだが、今までの経緯を説明すると、悪戯を見つかった子供の様な笑みを浮かべて「あはは」と笑って誤魔化していた。お咎めなしだ。私もそれに対して何も反発を覚えず、取り敢えず苦笑で返すのみに終わった。
因みにこの日の夕食…いや、慌てて付け加えさせて貰うと、だけではなく、最近はお母さんの料理を助手する事が当たり前になっていた。そう、これも近い将来、一人暮らしをする時に向けての”修行”の一環だった。見せられなくて残念だが、この煮付けは私が作ったものだ。
…っと、それは置いといて、
「もーう、驚いたよー」
と、私も行儀悪く口に箸を咥えながら返した。
「だって、いきなり矢野さん…いや、京子さんが目の前に現れるんだもの」
「ふふ、それに関しては私も驚いたわ。話では決勝の日の前日か何かに来る予定だって聞いてたから」
と私が悪戯っぽく付け加えると、お互いに顔を近づけてクスッと笑い合うのだった。
それからは二人で食器をシンクの方に運び、それぞれ役割分担をして手際良く片していった。
そしてこれも普段通りだからと何も示し合わせる事無く、私は冷蔵庫から家で作ったチョコチップクッキーを取り出すと、 それをレンジに入れてスイッチを入れて、その間にお母さんはこれまた慣れた手つきでお茶の準備をし出した。 時間帯にもよるが、寝支度を始めるには早い時などは、大抵こうして食事を終えても居間に残り、こうしてお茶を飲みながら団欒をするのだった。
レンジで温めた、ワザと柔らかめに作ったクッキーを皿に乗せテーブルに戻ると、丁度お茶の準備も終わっていた。
私とお母さんの二人は、夕食の時とは違って何も挨拶を交わさないままに、気ままにクッキーをチビチビと齧りながらお茶を啜るのだった。因みにこの日は、急須で入れた渋目の緑茶だった。私好みだ。
それからは二人で、チョコクッキーチビチビと齧りつつ、渋い緑茶をズズッと啜りながら、夕食時の会話の続きを楽しんだ。お母さんからは私の知らない、師匠と出会う以前の京子を含む話、私からは如何に京子が凄いのかの話をし合った。とても心身ともに充実したひと時だった。
「そうなんだ、師匠さんの友達がねぇ」
「えぇ、そうなの」
と私は向かいに座る絵里にそう返すと、出してもらった紅茶を啜った。
この日は月曜日。例のごとく(?)というか、結構久しぶりに絵里の家にお邪魔している。お昼下がりの二時半あたりだ。
「前からあなたが話してくれていた、好きだって人でしょ?」
「うん。だからもう…びっくりしちゃった」
「あはは、そうだったんだねぇ…琴音ちゃんの驚く姿見たかったなぁ」
などと絵里がニヤケ面を向けてきつつ言うので、
「あー、それ何か感じ悪ーい」
と私もワザとらしくイジケテ見せながら返した。その後一瞬顔を見合わせたが、その直後にはクスクスと笑い合うのだった。
因みに、久しぶりに絵里の家に行くというので、裕美も誘ったのだが、この日はクラブがあるとかで来れなかった。とても残念がっていたのは言うまでもない。何せ裕美”も”絵里の事が大好きだからだ。
一頻り笑いあった後、ふと絵里は「そっかー…」とため息交じりにボソッと言ったかと思うと、不意に時計にチラッと視線を送った。
私も釣られる様に視線を合わせていると、「…うん」と絵里は一人で何かを覚悟したかの様にコクっと頷くと、テーブル挟んで向かいに座る私に真っ直ぐな視線を送り、そして、先ほどまでとは違って顔に真剣味を負わせつつ口を開いた。
「そういえば琴音ちゃん…唐突なことを聞く様だけれど、今日ってお家にお母さんいるの?」
「…え?」
絵里が自分で言った様に、実際唐突な問いかけだったので若干驚いてすぐには思考が定まらなかったが、聞かれている内容自体は単純な事だったので返した。
「んー…多分いると思う…よ?家出る時、何も聞いていなかったから」
何故絵里がそんなことを今聞いてきたのだろうかとアレコレ推測しつつ答えた。
それを聞いた絵里は「そっか…」とまたため息交じりに言ったかと思うと、座っている椅子をテーブルに気持ち近付けて、姿勢も一旦真っ直ぐに伸ばした後に、私に近づく様に軽く前傾になると、顔は真剣なまま口を開いた。
「…琴音ちゃん、驚かせる様で悪いけど…今日この後、あなたのお家に行ってもいいかな?そのー…挨拶の意味で」
「…へ?」
とこれまた予想だにしない、意外な提案をされたがために、今度は気の抜ける様な声を思わず上げてしまった。そして絵里の顔を穴が置くほどに凝視した。何か思惑が見え隠れしていないかと判断する故でもあったが、結局絵里の真剣味を帯びた表情からは何も知れなかった。
で、結局「…な、何で?」と聞くのが精一杯だった。
すると、今まで無表情に近い顔をこちらに向けてきていた絵里は、今度はフッと見るからに力を抜いたかと思うと、少し口元に微笑みを浮かべつつ、静かに話し始めた。
「何でって…ふふ、何も今思いつきで言ってるんじゃないのよ?これまでも…うん、琴音ちゃん、あなたが初めてここ、私の家に遊びに来てくれた時あたりからずっと考えていた事なの。…だってさ?」
とここで絵里はテーブルに肘をつき、手を自分のホッペに当てる体勢を取り、リラックスした様子で話を続けた。顔はますます緊張の度合いが緩んできていた。
「ほら、いつだったか…あ、そうそう、その時に、あなたとギーさんの事について色々と話したでしょ?」
「あ、うん…」
私はこの時瞬時に、あの時の情景を思い出していた。
自分で言うのはとても恥ずかしい…いや、絵里にとっても若しかしたら恥ずかしい思い出なのかも知れないが、私のことを想うばかりに涙ぐみながら、私と義一の…そう、両親に黙って、コソコソ隠れる様にして会っている事について、本気で心配をしてくれたあの日だ。私自身もそんな絵里の態度に、視界がゆがんだのは話した通りだ。
私が覚えていることを暗に示すと、絵里はフッと一度笑みを漏らしたかと思えば、今度は私から一度視線を逸らし、斜め上の方に顔ごと視線を向けると、若干ウンザリげに言った。
「まぁ…ギーさんにアナタ達の話を聞いた時から、何となく考えていた事ではあったんだけれど…」
とここでまた絵里は私に顔を戻すと、今度は少しニヤケ気味に言った。
「あの時のアナタとの会話で、私の中ではその時初めてハッキリと腹が決まったのよ…」
ここで絵里はまた真剣な面持ちになりながら、気持ちを込めるかの様に力を貯めつつ言った。
「…ギーさんがどうしようと構わない。あの人はあの人なりに、真剣に琴音ちゃんを想って行動しているとは思うから。でも、私はやっぱり、同じやり方は出来ない。だって…このままアナタに、こんなまだまだか弱いアナタに、この嘘をつき続けて欲しくはないから…」
「…!」
私はここで一瞬ビクッとしてしまった。何故なら、無造作にテーブルの上に置いていた私の手に、自分の手を重ねてきたからだ。
私がまだ驚いているのも束の間、絵里は態度を変えずにそのまま続けた。
「でも、これでも、あなた達二人の言いたい事、やりたい事をわかっているつもりなの。あなたも、それに…ギーさんに対しても、それなりに尊敬の念を持っているしね?」
”ギーさん”の名前のところで一瞬苦笑して見せたのが印象的だった。
「でも…少なくとも、私の所にこうして遊びに来ている事自体は、これ以上嘘を重ねることはないだろう…って思ったのよ。そう…ギーさんに初めて”数寄屋”に誘われた、あの日にね」
「…」
私はこの時点ですぐに、絵里が何について言いたいのか察した。
そう、私の本選突破を記念して、お祝いしてあげるという事で一緒に行くという話をしたアレだ。途中で聡が来て、その様な話になったわけだったが、絵里が言いたいのは、その前の三人での会話の中身についてだ。
私がコクっと一度頷いて見せると、絵里は絵里で私の心を読み取ったらしく、それについて詳しく言わないままに先を続けた。
「…うん、あの時ギーさんとも話したでしょ?そう、あなたのお母さんが、私の実家の日舞の生徒さんだって事。…それから私のことがいずれ知られて、芋ズル式にギーさんまで行くんじゃないかと思ったけれど、確かにあやつの言う通り、今の所はそこまで関連性が見出されないっていうのに気付かされてね?だったら…」
とここで絵里は、私の手の上に乗せていた自分の手で、今度は気持ち強目に握ってきつつ言った。
「繰り返しになるけど、ギーさんとの事についての嘘はともかく、私との話は隠す事も無いんじゃないかって思うんだけれど…どう?」
「え…?ん、んー…」
あまりに突然の提案だったので、私は思わずすぐには返事出来なかったが、今絵里が話した様なことは私も何と無くだが考えていた事だった。例の会合以来というのも同じだ。今絵里は言わなかったが、私がお母さんに、よく行く図書館の中の司書と仲が良いというのも知られているし、その事を絵里も知っていたのが大きかった。だいぶ前になるが、話をした通りだ。
図らずもだが、ある意味お膳立てはしっかりと出来ていたのだ。
私はすぐに返すのも軽薄だと思い、少し溜めてから、一度絵里の手を退かせてから、改めてその上に今度は私から手を被せて答えた。
「…うん、私もそんな事考えてたんだ。…いいよ、一緒に私の家に行こう?」
「琴音ちゃん…」
と絵里がフッと先ほどまで作っていた真剣な面持ちを緩めて、優しげな視線をこちらに向けてきたが、私はというと、ここで意地悪げな笑みを浮かべて見せて
「それに…友達をいつまでもお母さんに紹介しないってのも不公平だしねぇー…裕美はすぐだったし」
…実際は、裕美の水泳大会を観に行く時になって初めて紹介したから、”すぐ”でも無かったのだが、そんな私のセリフを聞いた絵里は、普段通りの明るい笑顔を見せると、ドヤ顔の私のおでこを指で軽く小突いてから返した。
「あははは!そんなまた”友達”だなんてワードを使ったら、その裕美ちゃんがこの場にいたら『恥ずいっ!』って言われちゃうよー?」
「ふふ、違いないわね」
それから二人はクスクスと笑い合うのだった。
しばらくして…と言っても、ものの十数分だろうが、私たち二人は各々で外に出る準備をした。言うまでもないが、私は帰り支度だ。
マンションを出ると、まだ昼から夕方にかかる辺りの三時半ごろのせいか、ある意味夏の日中内で一番暑さの厳しい時間帯であった。
私はいつも通り、例の麦わら帽子を被っていたが、絵里は何も被っていなかった。燦々と照る太陽の光に、絵里の頭に乗っかってる”キノコ”が反射して、典型的な天使の輪を作っていた。普段から思っていた事だが、変な髪型の割に、やはりそれなりに気を使っているらしく、髪質自体は女の私から見ても上質なものらしかった。下はカーキ色の幅のあるパンツを履いていたが、上は真っ白なノースリーブシャツ、その上に薄手のサマーカーディガンを羽織っていた。聞いても無いのに絵里が言うのには、『あなたのお母さんに初めてお会いするんだから、いくら暑いとはいえ肌をなるだけ晒すのは良くない』という理由かららしい。私は何とも言えず、ただそれに対して苦笑したのみだった。
絵里のマンションから私の家まで大きな通りを通る事は無いのだが、それ故にいわゆる街路樹が無い上に、身長の低い民家ばかりなので、程よい日陰が得られず、緑が少ないくせに蝉の鳴き声がけたたましく辺りを占めていた。
そんな中、道中ずっと、着いてお母さんに会ったら何を話そうかという打ち合わせに終始した。最初の方は意気揚々と話していた絵里だったが、徐々にテンションが目に見えて落ちていった。普段からは想像出来ないが、それなりに緊張していた。
「もーう…言い出しっぺなんだから、もうちょっとシャキッとしてよ?」と私が生意気に笑いつつ言ったお陰か、その分だけ和らいではいた。五、六分歩くと、ついに家の正面玄関に着いた。
「へぇー…ここかぁ」
絵里は着くなり、家の外観を色んな角度から眺め回していた。
私は車とは別の、人が出入りする様の鉄製の門扉に手を掛けていたが、そんな様子の絵里に苦笑気味に声をかけた。
「ふふ、もーう絵里さん?ウチに来たのって初めてだっけ?…って、前にすき…あ、いや、例の所に行った帰りに寄って来なかったっけ?」
思わず”数寄屋”と言いそうになったのを何とか既のところで留めた。もう自宅前だ。どこで誰が聞いてるかも分からないところで、それを聞いたところで知らないかもしれなくても用心に越した事は無いだろうという、自分なりの最大限の配慮だった。
絵里もそんな私の態度から察したか一度フフっと笑うと、その直後には普段通りの笑みを浮かべて言った。
「確かにあの時、前までは来たけれど真っ暗だったでしょ?それに直ぐにおさらばしちゃったし…しっかし」
絵里はここまで言うと、一度家の方を眺めてからシミジミ続けた。
「本当に琴音ちゃんは、お嬢様だったんだねぇ」
「も、もういいから!は、早く行こう?」
私はこの時途端に恥ずかしくなって、空気を入れ替えるためかの如く、反応を見ずにそのまま門扉を開けて、家の玄関前まで続く数メートル程のレンガ調のアプローチをズカズカと早歩きで行くのだった。その後ろを、絵里が微笑みながらゆったりとした調子でついて来た。…たとえ振り向いて見なくとも、そこそこ長い付き合い、絵里がどんな態度をとるのかは直ぐに分かる。
私は私でここまで来るまで緊張を少なからずしていたのだが、さっきのやり取りのお陰か、すっかりいつもと変わらぬ調子で鍵穴に鍵を差し入れ、間を置かずにそのまま半回転させた。
ガチャ。
その音と共に解錠したのが手元の感覚からも伝わり、そのまま玄関を開けて中に入った。
「ただいまー」
入って開口一番声をかけてみた。普段、お母さんがいようといまいと、これは習慣の様なものだった。お母さんがいればそのまま挨拶になるし、いなくとも言葉を投げる事によって、家に誰かいるのか判断出来る故に、その便利さに気付いてからは、意識的にやる様にしていた。で、この時は…
「あら、おかえりー」
と居間の方角から耳慣れた声が返ってきた。お母さんの声だ。やはりと言うか、今日はお母さんはそのまま家にいたらしい。
この時ふと下駄箱近くの時計を見てみたが、時刻は三時半に差しかかろうとしていた。どうやらまだ夕食の買い物には行ってなかったみたいだ。
ガチャ。
と居間のドアが開けられて、そこからお母さんが廊下に出て玄関に近づいて来た。相変わらずお母さんは、何も外に用事がない様なこんな日でも、質素では当然あったが、身なりをきちんとしていた。無地ではあったが清潔感のあるTシャツに、下は膝下まである紺のロングスカートだった。
別にこの時、そこまで頭を働かせたわけでは無かったが、約束無しの突然の来訪でも、私のお母さんだったらダラシのない格好はしていないだろうという確信があったので、急の絵里の提案にも乗れたというのもあった。もうこの時期の私は、もうそんな見てくれのことなど、小学校低学年時ほどには何も感じなくなっていたのだが、それでも、なんだかんだ言って一般の他のお母さんたちと比べても、その立ち居振る舞いに凛としたものがあるのは、密かに誇りに思っていた事だった。
…何だか、何が言いたいのか自分でも分からず、また聞いてる方でもよく分からなくなってしまっていると思うが、まぁ”いい加減”に感覚で感じて頂けると助かります。話を戻そう。
「今日は結構早めじゃない?もう少し遅くなると思って…あら?」
お母さんはこのような事を言いながら玄関まで歩いて来たが、目の前まで来ると、まるで今絵里の存在に気付いたかのようにハッとして見せた。
「こちらの方は…どなた?」
と、お母さんは、玄関先でまだ靴を履いたままでいる私と絵里の顔を何度か交互に見ながら聞いてきた。
「あ、うん、この人はね…」
と私が慌てて答えようとすると、
「初めまして」
と隣にいた絵里が不意に頭を大きく下げると、口調に真剣味を負わせつつ応えた。
「私、琴音ちゃんが足繁く来てくれてる図書館で司書をしています、山瀬絵里と言います。そのー…突然お邪魔してすみません」
「え?図書館の司書…?あ、あぁー」
それを聞いたお母さんは、私に顔を向けると、目は気持ち大きく見開きつつだったが言った。
「この方なのねー?あなたが昔からよく言っていた、仲のいい司書さんというのは?」
「う、うん、そう!」
私自身よく分からなかったが、何だか何かを誤魔化すかの様に若干食い気味に返した。
「ふんふん」とお母さんはそんな私の心中は知らずにか、一人納得いってる風に大きく何度か頷くと、今度は絵里の方に向いて、顔には愛想の良い笑顔を浮かべて声をかけた。
「顔を上げてくださいな?えぇーっと…山瀬さん、だったわね?」
「は、はい」
と絵里は畏まりつつもゆっくりと顔を上げた。それを見たお母さんは笑みを崩す事なく続けた。
「わざわざ来て下さってありがとうね?取り敢えず、こんな所で立ち話も何だし、良かったら上がっていきません?大したお構いも出来ませんけど」
「は、はい。で、では…お邪魔…します」
「どうぞー」
お母さんは陽気に間延び気味にそう声をかけると、スタスタと居間の方に歩いて行った。その途中で「琴音ー、山瀬さんにスリッパをお出ししてねー?」と言うので、「はーい」と私も返事をしてから、いくつかあるスリッパの中から来客用のを出して、絵里の前に差し出した。
「あ、ありがとう、琴音ちゃん」
と絵里はここにきてまた少し緊張の度合いを強めて見せていたので、私は自分の分のスリッパを出してから、絵里の背中にそっと手を置いて「どういたしまして!」と笑顔で返した。それが功をそうしたのかは、そこまで自惚れていない私からは何とも言いようがないが、その後に絵里はフッと力の抜けた自然な笑みを見せていた。
因みに余談だが、というか今更かも知れないが、我が家では来客以外でも、友達などの心安い人なども含めて皆がスリッパを履くことになっていた。それは家族も例外ではない。だから私も普段から自宅ではずっとスリッパを履いている事になる。まぁ余計なつまらない補足だ。話を戻そう。
「テキトーに座ってて下さいねー?琴音、あなたが案内しなさい?」とお母さんはドアを背にして支度をしていたというのに、私と絵里が居間に入って来たのを察したのか、こちらに声を掛けてきたので、「はーい」と私は返事をして、普段夕食や家族団欒時に使っているテーブルの方に案内して、そして私がいつも座る椅子の隣の席に絵里を座らせた。普段はお母さんが座る位置なのだが、来客がありテーブルの前に座って貰う時には、そこに座らせるのが習わしになっていた。最近では師匠がうちに来る度にそこに座っている。お父さんがいる時にはまた違うが、大体まずいないし、その場合はお父さんの定位置にお母さんが座るのだった。
絵里は私に促されるままにおずおずと座ると、少し遠慮深げに視線だけでキョロキョロと居間を見渡していた。私はその横顔を面白げに眺めていた。
元々絵里がウチに来た理由が理由なだけに、もう少し私の方でも緊張感を持っていた方が良いだろうとは思っていたのだが、この時の私の心境としては、言いようの無いワクワク感が胸を占めていた。
何だろう…?分かりやすく言えば、凄く好きな友達を初めて自宅に招待した時の様な、何だかアレコレとお節介を焼きたくなる様な、そんなアレかも知れない。…って、この状況と寸分と変わらない時点で、例えにはなっていなかったか。まぁ良い。
そんな心境でいると、お母さんがまだ支度をしながらまた声を上げた。
「山瀬さーん、あなたはコーヒーと紅茶、どちらが良いのかしら?」
「あ、そんな、お構いなくー」
と絵里が遠慮がちに言うので、すかさず私が脇から入った。
「茶菓子にもよるだろうけど、絵里さんは大体紅茶だよー」
「あら、そうなの?」
お母さんは一度手を休めると私たちの方に向き直った。
「じゃあ琴音、私は紅茶を用意してるから、あなたは自分でこないだ作ったワッフルを冷蔵庫から出して、少しレンジで温めてくれる?」
「ワッフル?」
「うん、分かった。絵里さん、ちょっと待っててね?」
「え、あ、うん」
絵里のそんな辿辿しげな反応を背に冷蔵庫から、ラップに包まれたシュガーシナモンワッフルを取り出した。中身をチラッと見ると、女三人分くらい丁度の量だった。
それをそのままレンジに入れてスイッチを入れている頃、お母さんは紅茶を淹れつつ絵里に話しかけていた。
「ご存知かも知れませんけれど、うちの子、お菓子作りに凝っていましてね?それでまた、下手の横好きではなく、ちゃーんと美味しく作るんですよー。召し上がって上げて下さいね?」
「もーう、お母さん?そんな話はいいから」
と私がすかさずツッコむと「何よ照れちゃって?」とお母さんはおちゃらけ気味に返した。
「…ふふ」
とその一部始終を見ていた絵里は、ふと吹き出す様に笑みを零した。それを見た私とお母さんは一瞬顔を見合わせると、次の瞬間には同じ様にクスッと笑い合うのだった。
「どうぞー」
「はい、頂きます」
最初来た時の様な緊張と比べるとかなり和らいだ様子で、絵里は口調を丁寧に返した。
「いいえー」とお母さんが椅子に腰かけようとしていた時、今度は私が温めたばかりのワッフルの入ったお皿をテーブルの中央に置きつつ言った。
「どうぞ私からも、召し上がれ」
「うん、ありがとう琴音ちゃん」
「ん!」
と私は口を結んだまま答えると、絵里の隣にまた腰を下ろした。
それを見たお母さんは、明るいトーンで声を上げた。
「では頂きます」
「頂きます」
「え、あ、い、頂き…ます」
当然と言えば当然だが、突然我が家のルールでお茶会が始まったので、少し面を食らったのか、若干オドオドしつつ絵里も後から続いた。
それからは三人揃ってカップを手に取り一口ずつ啜ると、すぐさまお母さんが絵里に話しかけた。
「どうかしら山瀬さん、紅茶の方は」
「あ、はい、美味しいです」
「そう?良かったー」
「絵里さん」
私はお皿を少し絵里の前に寄せて見せてから言った。
「このワッフルも食べてみて?自信作なの」
「あ、そうなの?じゃあ、お言葉に甘えて」
絵里は中から一つを手に取ると、一口ワッフルを食べた。
「どう?」
と私が聞くと、絵里は無言でモグモグと勿体ぶって見せたが、パッと勢いよく目を開けると、
「うん、とっても美味しいよ」
と満面の笑顔で答えてくれた。
それに釣られる様にして私も笑みを零しつつ「良かったぁ」と返す、そんな私たち二人の様子を、お母さんは口元に微笑みを浮かべつつ、ズズッと紅茶を静かに啜るのだった。
「いやぁ、ほんと、よく来てくれたわねぇ絵里さん…って、あ、あなたの事を絵里さんと呼んでも構わないかしら?この子から良くあなたの話を聞くものでね、その度に絵里さん絵里さんって言うもんだから、すっかり私の中でも絵里さんで固まっちゃってるのよ」
「ふふ、えぇ、勿論です。そう気軽に呼んで頂けると、私としても嬉しいです」
「ふふ、ありがとう」
「本当にでも、突然お邪魔してすみません。迷惑ではありませんでしたか?」
「え?…」
お母さんはふと居間の壁にかけれられていた時計に目配せをした。
「…いーえ、まぁ確かに一時間ほどしたら夕食の買い出しに行かなくちゃいけないのだけれど、まだそれまで時間があるしね?気にしないでよ」
とすっかり打ち解けた調子でお母さんは返した。我が母ながら、人との付き合い方の上手い人だと感心させられる。娘の私とは真逆のタイプだ。
「なら良かったです」
と絵里も笑みを浮かべつつそう返し、ワッフルをまた一口頬張り、その後で紅茶をズズッと啜った。
それから暫くは、お母さんからの質問ぜめに絵里はあっていた。と言っても、私との出会いだとかそんな話だ。絵里は流石に私に話す様には軽い調子で話せていなかったが、それでも本人を前にしてだというのに、止めどなく流れる様に話していった。…ここで自分で言うのはとても恥ずかしいのだが、おさらいの様に話すと、元々私の容姿に惹かれていて、それが声をかけてみて話していくうちに、その惹かれる要因が見た目だけではなく、本人の中身から由来しているというのに気づいて、ますます私の虜になっていった…とまぁ、そんな話を恥じらいも無く話して…いや、語っていた。
それを隣で聞いていた私は、まるで話が聞こえていないかの様に振舞いつつ、若干肩身が狭い思いをしつつ黙々とワッフルを食べ、紅茶を啜っていたのは言うまでもない。
…それだけなら、まぁ普段からもそんな調子だからすぐに突っ込んで終わりなのだが、この日ばかりはその話にお母さんが悪ノリをしたので、暫くその話題で盛り上がってしまっていた。ここまで来ると、流石の私も無表情でいられなくなり、最後の方は苦笑しっぱなしだった。
とまぁ、私と絵里の馴れ初め(?)の話にひと段落がついた時、ふとお母さんは何か思いついたかの様な表情を見せると、少し今までとは声のトーンを落としつつ、絵里に話しかけた。
「なるほどねぇー…って、そういえば今更だけれど、今日はまた何で突然ウチに来られたの?」
「え?あ、それはー…ですね?」
今まで和気藹々と私の話題(?)で盛り上がっていた絵里は、このお母さんからの急な問いに対して、思わず苦笑いを浮かべつつ声を漏らした。この苦笑いには、色々な意味が込められていそうだった。絵里は一度紅茶で喉を潤してから、ふと隣の私に顔を向けて、それまで緩めていた表情を固くすると、またお母さんに顔を戻し、声にも真剣味を帯びせつつ言った。
「…あ、いや、先ほど急にお邪魔してすみませんとお詫び申し上げましたが、それ以前に、今までの非礼に対して、キチンと謝罪をしたかったんです」
「え?」
急に真面目モードになった絵里に対して、お母さんは驚きを隠せないと言った調子で声を漏らした。こんな話になるとは想定していなかったらしい。
ちなみに私も若干面を食らっていた。勿論絵里がそれなりの覚悟で来てくれたことは分かっていたつもりだったが、具体的な話はここまで来る道中でも知らされていなかったので、ただただこの時は、絵里の身体から発せられる緊張感に感染したかの様に、同じ様に体が畏まってしまっていた。
お母さんが声を漏らした後で特に言葉を続けないというのを確認すると、絵里はまた静かに話し始めた。
「…はい、それは…私の様な何処の馬の骨とも取れない様な人間が、大事な一人娘である琴音ちゃんと頻繁に会っているというのに、これまで一度もこちらに顔を見せなかった、その非礼に対してです」
「…」
お母さんはここで何かハッとした様な、口を軽く”あ”の形に開いたが、そのままで声を発することは無かった。絵里は続けた。
「…本来でしたら、初めて琴音ちゃんに、友情の証として、名前で呼んで貰った約二年前、琴音ちゃんがまだ小学五年生の時に、こちらに伺うのが筋だったのは分かっていたんですが…今までも、これからも話す内容が言い訳でしか無いのですけど、そのー…」
とここまで話すと、不意に絵里は私に顔を向けると、フッと寂しげな笑みを漏らして言葉を続けた。
「もしこの子のご両親に嫌われて、もうあの様な女とは付き合ってはいけませんと言われてしまって、それで金輪際会えなくなったらと思うと、そのー…それで結局今まで引き伸ばしてしまったんです」「…話は分かりました。でも、それで…」
と、絵里の雰囲気に合わせてか、お母さんもすっかり真剣モードになって、声のトーンも落とし気味に言った。
「それなのに、何故今日こうして足を運びになられたの?」
「はい、それは…」
そう問いかけられた絵里は、不意に今度は私の背中にそっと手を当てて、そのまま答えた。背中に伝わるのは、何と無く覇気の無い手の感触だった。
「私…今もこうして変わらずに琴音ちゃんと付き合わせて頂いているんですけれど、私なりに琴音ちゃんの習性を分かっているつもりだったんです。それが…今、この子、コンクールに出場されていますよね?…はい、私も初め聞いた時には驚きました。会話の中で、彼女がピアノにのめり込んでいる事は知っていたんですが、それでも人前に出るのを極度に嫌がっているのも同時に聞いてたんです。それが、中学に上がってしばらくして、こうして自ら進んでコンクールに出てみる気を起こしたのを聞いて、そのー…」
絵里はここまで所々詰まりながらも口調はハッキリと話をしていたが、ふとここで一度溜めてから、私の背中から手を離し、気持ちまた一段と口調をハッキリと続けた。
「私も…いつまでもウジウジとしていちゃあ、この子の前で…恥ずかしいと思ったんです。まだまだ若輩ですけど、この子よりも歳上という点で大人ですし…友達としても」
絵里はここで一度私に視線をくれてから続けた。
「能書きが長くなってしまいましたが…琴音ちゃんのお母さん、いきなり不躾な事を聞く様ですが、そのー…私の事、見覚えないでしょうか?」
「へ?」
今度はお母さんが麺を食らう番だった。流石のお母さんも想定外の言葉に目を丸くしていた。
「それってどういう…」と呟きながらも、少し遠慮がちに絵里の顔を、体勢も前屈みにジッと見つめていた。
…遠慮がちと言っても、結構な時間眺めていた様に見えたが、お母さんは少し訝しげに体勢を戻しつつ呟くように、
「言われて見たら、確かに何だか見覚えが…って」
と言ってからここで一度切り、
「それって、私が絵里さんと一度出会っているって事よね?…ごめんなさい、言われて見たらってレベルで、ハッキリとはそのー…思い出せません」
「あ、いやいや!」
お母さんがすまなそうにそう言うのを聞いて、絵里は慌てて手を胸の前で大きく振りつつ返した。
「ち、違うんです!…あ、いや、違うと言いますか、そのー…私の話の切り出し方がおかしかったですね。こちらこそすみません…。いや、私が話したかったのはですね?そのー…驚かないで聞いて欲しいんですが…」
「は、はい…」
絵里がやけに溜めるのを聞いて、お母さんも若干身構えていた。
「…目黒の〇〇って日舞の教室、ご存知ですよね?」
「…へ?…いや、まぁ…はい」
お母さんは、今度はさっきよりもより一層驚いた表情を作りつつ、それでも何とか返していた。私の方でも、すでにこの時、絵里が何を切り出そうとしているのか察していたので、お母さんとは違う意味でドキドキしていた。
「あそこの師範代が実は…私の、実の父なんです」
「…え?って事は…?」
お母さんはそれ以上には驚きのレパートリーが無かったのか、そのまま変わらぬ調子のまま声を漏らした。
絵里は一度大きく頷いて見せると、意を決したようにゆっくりと口を開いた。
「はい…あそこは私の実家でして、そして一応私も…名取として、たまに父や母の手伝いをしています」
「…あ、あぁー!」
絵里がいい終えた後、今度は遠慮もなくマジマジと顔を眺めていたお母さんは、見るからにハッとした表情を浮かべると、目を大きく見開いたまま言った。
「確かに、何処かで見たことがあると思ったら、それでー…って」
とお母さんは一人感心したように独り言ちていたが、絵里の視線を感じたからか、途端にバツが悪そうな苦笑いを浮かべて言った。
「本人を前にしてというのに、すみませんね?」
「あ、いえ」
「しかし…妙な縁もあるものねぇ。琴音、あなたが足繁く通っている図書館の、そのまた仲の良い司書さんが、私の通う日舞の教室のご子息で、しかも名取だなんて」
「ま、まぁ…そうだね」
私も相槌がわりにそう返したが、何だか話が逸れて行きそうな気配を感じた。絵里も同様らしく、お母さんが日舞の話に持って行きそうになるのを何とか修正を試みるように、無理やり口火を切った。
「そ、それでですね?そのー…琴音ちゃんからコンクールの話などを聞く中で、その時の写真を見せて貰っていたんです。そしたら…見覚えのある方がいるなぁと思った次の瞬間、私の実家に通われている生徒さんだと気付いたんです。その後すぐに琴音ちゃんに確認して見ると、お母さんだと仰りました。…今までの話で何が言いたいのかと言いますと、繰り返しになりますが、琴音ちゃんの変化、その意志に影響されたのも大きいのですけど、こうしてこの子のお母さんが、私と実はこんなに大きな繋がりがあったのを知って、それを後々でひょんな事から知れるような、そんな知れ方がどれほど失礼かを感じたら居ても立っても居られなくなってしまって…それでこれまで挨拶が遅れた非礼をお詫びする意味でも、こうして馳せ参じた次第…です」
絵里がそう言い終えると、辺りはシーンと静まり返った。
絵里は言い終えた直後、視線のやり場に困ったのか、まだ残りのあるカップの中身を覗き込んでいた。お母さんは静かな表情で、少し目を細めつつ、向かいの絵里を見ているのかどうなのか定かでは無い様子を見せていた。そんな二人を、私はただ時折交互に見るしか無かった。…心の中で絵里の話を反芻している間、また絵里が私からしたら不用意な、私を持ち上げる様な事を話していたのを思い出して、この雰囲気の中思いっきり苦笑をしていたのだが、流石にそれを顔に実際浮かべる様なヘマはしなかった。我ながら、少しは成長しているらしい。
どれくらい経ったか、不意に「ふふ」と吹き出す声が聞こえた。
その方角を見ると、その主はお母さんだった。
絵里も私と同様に、声がしたのと同時にお母さんの方を見たので、お母さんは少しバツが悪そうに笑いながら口を開いた。
「…あぁ、ごめんなさい、吹き出す様な真似をして。悪い気がしたのなら謝ります」
「あ、いえ…」
と絵里がまだ硬い表情のまま、声もそのままに返すのを見て、「ふぅ…」と一度息を吐くと、お母さんは苦笑まじりに言った。
「…もーう、絵里さん、余りにも固すぎるわぁー。その流れで、あまりに唐突にカミングアウトするものだから、必要以上に驚いてしまったしね?…勿論、あなたなりの誠意の示し方なのは分かっていますし、それを茶化す気など微塵も無いのですけど…ほら、さっきまで、アレコレ和かに話していたのに、突然そんな風に真剣に話されたら…こちらとしても困っちゃうわ」
「え、あ、いや、そのー…すみま…せん?」
と絵里はお母さんのそんな態度が予想外だったのか、見るからに呆気に取られていた。語尾が疑問調になっているのが、その証拠だ。
お母さんもそんな絵里の様子から察したか、ますます普段通りの明るい調子に戻しつつ続けた。
「あははは、ほらー、謝らないでよー?…ふふ、絵里さん?」
「は、はい」
お母さんが今度は優しげな笑みを浮かべて、声のトーンも抑え気味に話しかけてきたので、その百面相ぶりに、時折私に流し目を寄越してきつつ返事をした。
「…わざわざ来てくれてありがとうね?そんな事を話してくれるために…。あ、いや、今のは皮肉に聞こえちゃうかな?…誤解があると困るから慌てて弁明させて欲しいのだけど、寧ろ今私はあなた…絵里さんの態度に感心し、大袈裟じゃなく感動しているの」
「え?」
「だって…今時、いくら大人と言ったって、こうしてわざわざ挨拶に来る人って稀でしょ?しなくちゃいけないと仮に思っていたとしても、実際に行動出来る人もね?そりゃあ、学校の先生なり何なり、家庭訪問という形で来ることはあるけど、それはある種の義務みたいなもので、ある種仕方なしな所があるでしょ?」
「は、はぁ…」
大分前から、お母さんは絵里に対して、持ち前の対人力の高さを活かして、かなり馴れ馴れしく話していたのだが、ここにきて、絵里はますますそんなお母さんにただただ押されているらしく、生返事をするのがやっとに見えた。
こんな会話の最中だというのに、同性相手…いや、それに関わらず絵里が他人に押されているのを初めて見た私は、興味深げにシミジミと絵里を眺めていたのだった。
「だからね、そんな人が多い中で絵里さん、あなたはこうして誠実にもこの子の母親である私の元に足を運んでくれた…それだけで、あなたに対して何もそれ以上に望むものは無い…んですよ?なので…」
ここまで話して切ると、お母さんは満面の笑みを浮かべて
「これからも、この子、琴音と仲良くしてあげて下さいね?」
と言った後、顔がテーブルにつくんじゃないかというほどに頭を下げたので、絵里はまたアタフタと慌てて恐縮した様子を見せたが、すぐに同じ様に頭を下げつつ「こ、こちらこそ…よろしくお願いします」と返した。
それを聞いたお母さんはゆっくりと顔を上げて、それに合わせて絵里も顔を上げたが、数瞬互いに顔を見合わせ、まずお母さんが「ふふ」と笑みを零すと、その直後に目を細めて意地悪げに笑いつつ
「琴音だけではなく、私もついでによろしくお願いしますよ?先生?」
と言った。何の事かと絵里はキョトンとしていたが、すぐに日舞関連だと気付いたか、それにつられる様にして絵里も同様に笑みを零しつつ「はい」と明るく返事をした。その直後に「とはいっても、私はまだただの名取なので、指導する事は出来ませんが」と苦笑交じりに付け加えるのを忘れずに。
その後はまた二人揃って和やかに笑いあっていたが、その雰囲気に飲まれてか、ずっと黙って一部始終を眺めていた私も笑みを零すのだった。
「あ、紅茶のお代わりいる?」
とお母さんがすっかり馴れ馴れしい口調で話しかけると、絵里は一度カップの中を確認してから恭しく
「は、はい…頂きます。琴音ちゃんのお母さん」と返した。
まだ声からは緊張が覗いていたが、顔の表情はいつもの絵里に戻っていた。
「はーい、じゃあ待っててね?」
お母さんはそう言うと、慣れた調子で手際良くまたお代わりを取ってきた。その間、私は自作のワッフルを絵里に薦めていた。
「ありがとう、美味しいよコレ、本当に」
「ふふ、それは作った私がよーく知ってます」
と私が得意げに胸を張りつつ返すと、絵里は意地悪げな笑みを浮かべつつ「あ、生意気ー」と言いながら自分の肩を私の肩に軽くぶつけて来た。
「あはは!…あ、ありがとうお母さん」
「あ、ありがとうございます」
トレイにお代わりの紅茶の入ったカップを人数分持って来たお母さんが、それらを私たちの前に置いていったので、それぞれがお礼を言った。
「いーえ」
お母さんはゆっくりとした動作で席に着いたが、ふと私と絵里の顔を見合わせると、クスッと一度笑ってから口を開いた。
「いやぁ…本当、あなた達二人は仲が良いのねぇ。…あ、昔、あなたが言ってた事、思い出したわ」
「え?何のこと?」
と私が聞くと、お母さんは私と絵里の顔を見比べるようにしてから、ニヤケつつ答えた。
「ほら、あなた覚えてない?昔、あなたがまだ小学生だった頃言ってたじゃない?仲良しの司書さんがいて、まるでその人が自分の本当のお姉ちゃんみたいだって」
「え?」
「…あ」
思い出した。そう、流石に覚えておられる人はいないだろうが、昔、初めて絵里の家に遊びに行く時に、地元の駅前で待ち合わせをしていて、不意に絵里が私に人の往来が多い所で私に抱きついてきたのだ。それをお母さんの知り合いか誰かが見ていたと言うんで、その晩、お母さんにその女性が誰かと聞かれたのだ。その時に初めて確か司書さんの事を話したと記憶しているのだが、その流れで『お姉ちゃんみたいな人』と言った…?ような気がする。
私は隣で「え?」という反応が聞こえたので嫌な予感がしていたのだが、ゆっくりと顔を横に向けると、案の定、絵里がこちらに満面の笑みを浮かべていた。
「あ、あのね、絵里さん、これには深い訳が…」
とすぐに言い訳をしようとしたが無駄だった。
「琴音ちゃーん!」
「わっ!」
絵里が突然私に抱きついて来た。相変わらず、炎天下の下を歩いて来たというのに汗臭くなく、寧ろ鼻には衣類から香る柔軟剤の匂いしかしなかった。
「ちょ、ちょっと…」
私は視線だけお母さんの方に向けた。
お母さんは一瞬絵里の行動に驚いていたようだったが、すぐに微笑ましげな様子でニコニコとこちらに笑みを送っていた。
「私のことをそんな風に話してくれてたのー?」
「いや、それは、その、何かの誤解で…って、ほら、絵里さん」
「ん?なーに?…あ」
絵里は私が目だけで合図を送って見せると、そっちの方角に顔を向けた。そこにはニコニコと何も言わずに笑っているお母さんがいたので、途端に自分のしている事が恥ずかしい事だとようやく気付いたか、それでもゆっくりとした動作で私から体を離すと、ホッペを掻きながら「いやー…」なんて声を照れ臭そうに漏らしていた。
何が「いやぁー」よ…。
と私は心の中でツッコミつつ、絵里にジト目を流していたが、その直後、
「あははは!」
とお母さんは目を思いっきり細めつつ明るく大きく笑い声を上げた。あまりに豪快に笑うので、私と絵里は顔を見合わせてキョトンとしていたが、すぐにその笑い声につられて、私たち二人も笑うのだった。
それからは、先ほどとはまた違った点で絵里はお母さんから質問攻めに遭っていた。勿論、日舞についてだ。
その勢いは、絵里の幼少期からの話を聞き出そうとする勢いだった。…いや、実際にそれは質問していて、それに関しては私も興味津々にお母さんに乗っかったが、それはまた今度にして下さいと上手くあしらわれてしまった。
その代わりと言ってはなんだが、絵里が今私の通う学園のOBだというのを二人のどっちから漏らしたか、その話になると、日舞の話を流されて若干不満げだったお母さんは、それに多大な興味を示して、結局絵里が帰る算段になる頃まで、その話で終始した。
「さて…ってあら」
とお母さんは居間の時計に目を向けると、私と絵里に視線を戻し、笑みを浮かべつつ言った。
「もう五時半かぁ…結構経ってしまったわね。今日はこの辺りでお開きにしましょう」
お母さんのその言葉をキッカケに、私たちは身の回りの整理を始めた。お母さんは買い物するか、それとも今日がお父さんが夕食までに帰ってこれない日だというので、仕方なしに駅前で外食にしようかと口に出して考えていた。その流れでふとお母さんは絵里に、「もし良かったら、夕食を共にしない?」と誘っていたが、絵里は丁重に断っていた。私はこの時、何気なく絵里の横顔を見たのだが、お母さんがお父さんの事をチラッと漏らした時に、一瞬顔を曇らせたのを見逃さなかった。
それには気付かなかったらしく、お母さんは「ならまた今度ね」と約束とも言えないような言葉を吐いて、そして私たちは揃って外に出た。
夏真っ盛りの八月下旬といっても、この時間になると流石に空は暗闇が目立ち始めていた。ただ、暑さだけはしっかりとしつこくまだ残っていた。
「じゃあ折角だから、私、絵里さんを送っていくよ」
「え?別にいいよー」
「あぁ、そうね、そうしなさい。よいしょっと」
ガチャンの音と共に、お母さんはママチャリを出した。
お母さんはこの後、駅前のスーパーに行くとの事だ。
「じゃあ絵里さんを送ったら、あなたも後でスーパーに来なさいね」「うん、分かった」
ガチャン。
私も自分の自転車を出しながらそう答えた。
「じゃあ絵里さん、また近いうちにお茶でもしましょう?」
「えぇ、是非」
「じゃあ…」
とお母さんはサドルに跨がりかけたが、「あっ、そういえば」と声を漏らしたかと思うと、また自転車の横に戻った。
何だろうと私はお母さんのことを見ていたが、お母さんは絵里に笑顔で明るい口調で声をかけた。
「今更ながら思い付いたけれど、絵里さん、あなた、今度の水曜日空いてる?」
「え?水曜日ですか?えぇっと…」
突然話を振られた絵里は、空を見上げつつ必死に予定を思い出していた。
それを見たお母さんは「あはは」と一度笑ってから、また話しかけた。
「いやいや絵里さん、今急に聞かれても困るだろうから、無理してすぐに答えてくれなくてもいいんだけれど、ほら、琴音から聞いてないかしら?その日がね…コンクールの決勝の日なのよ」
「あ、あぁ、なるほど!」
絵里は私に顔を向けながら、力強くそう返した。
「そうなの。でね?何が言いたかったのかというと…あなた、良かったら、この子の決勝…私たちと一緒に応援に来てくれないかしら?時間に都合がつくようなら」
「あ」
と私が声を漏らしたのも束の間、「え?良いんですか?そのー…私なんかが行っても?」と絵里がまた先ほどの真剣味を負わせた会話の時のように若干強張りつつ聞いた。
すると、お母さんはまた一層笑顔を明るくしつつ言った。
「ほらー、またそんなに硬くなっちゃってぇー…。ふふ、勿論良いに決まってるじゃない!だって、絵里さん、あなたは琴音の大事なお友達なんですもの」
「る、る、…瑠美さん」
絵里はぎこちなく、何度か最初の一文字を言ってから、何とかお母さんの名前を呼んだ。それに対して、お母さんは満足げに何度も頷くのだった。
…これはさっきの雑談の中で出来た約束だった。そう、絵里がお母さんの事を”瑠美”と名前で呼ぶというものだ。いつまでも絵里が”琴音のお母さん”と、ある意味当たり前だと思うのだがそう呼ぶのに業を煮やしたらしく、「そんな長ったらしい呼び方じゃなくて、気軽に下の名前で呼んで」とお母さんが頼んだのだ。普段は私や裕美に対して自分がしていた事を今度は頼まれた側に回ったわけだが、流石の絵里も少し恐縮していた。…これを機に、少しは私たちの気持ちも考えて見て欲しいものだ。
…っていや、そんなことはともかく、何度か押し引きがあった後、結局は絵里が折れて、名前で呼び合うことが約束されたのだった。
「琴音はどう?」
「え?」
急に話を振られたので、咄嗟に返せなかったが、その短い言葉だけで、何を聞かれているのかはすぐに分かった。
私は一度絵里の顔を見た。絵里は不安げとも言うのか、ただ単に戸惑いの表情だったのか判別の難しい顔つきをしていたが、私の心は一瞬にして決まっていたので、絵里には一度微笑んでからお母さんに向き直り答えた。
「どうって…勿論、私は大歓迎だよ!」
「琴音ちゃん…」
「そっか…うん、じゃあ決まり!」
お母さんは元気よくハキハキとそう言うと、またサドルに跨がり、
「じゃあ絵里さん、すぐじゃなく、遅くても当日でも構わないから、時間があったり都合がついたら、是非ともご一緒しましょう?遠慮しないでね」
「は、はぁ…ありがとうございます」
と絵里がお母さんの勢いに負けつつそう返すと、「じゃあ琴音、後でね。車に気をつけて来るのよ?」
と言うと、ペダルに足をかけ力強く前に押し出して行ってしまった。「分かったー」
と私はその走り去る背中に声を掛け、呆気に取られたままの絵里に笑顔で声を掛けた。
「じゃあ、私たちも行こ?」
「しっかしまぁ…」
絵里はため息交じりに声を発した。
「琴音のお母…瑠美さん、正直言って、琴音ちゃんと正反対って感じの人だったね?」
「まぁ結構明るい性格ではあるよね。私みたいな根暗と違って」
と私は自転車を手で押しながら、ニヤケつつ返した。
「まぁでも何と言うか…誤解生みそうな言い方だけど、裏表があるよ。さっきみたいに子供っぽいところを見せるかと思えば、凛とした様子を見せたりするし」
「ウンウン、さっき話していて、その凛とした感じ、よーく伝わってきたもん」
絵里はワザとらしく両肩を大きく落として見せた。
「慣れないこととはいえ…もう少し上手く話せなかったもんかなぁー…」
「え?結構上手く話せていたと思うけど?」
本当はここで、また私のことを美化し過ぎに話したことを突っ込もうと思ったが、今日ばかりは私のことを想っての行動だというのが痛いほど分かっていたので、いらぬ茶々を入れて冷やかすのは自重した。
絵里はそんな私のフォローに対して、一瞬自然な笑みを見せたがすぐに苦笑に変化させて言った。
「いやいや…偉そうなことを言いつつ、結局なんだか嘘を解消できないままに、中途半端に終わった感が強いもの」
「んー…」
それを言われてしまうと、当事者の私としては困ってしまうが、それでも何かを返さなくてはと思ったので、私も苦笑交じりに言った。
「まぁ…私が言うのも何だけれど、正直私と義一さんとの関係がある限り、今日以上の成果は見込めなかったと思うよ?そんな面倒な事の中で、ここまで最善を尽くしてくれて、そのー…」
と私はここで足を止めたので、絵里も同じく足を止めた。
私は、すっかり私の方が背が高くなった関係で、少し見下ろす形になってしまっていたが、両手で自転車を押さえたまま大きく頭を下げて言った。
「…絵里さん、今日は本当にありがとう…ございました」
「琴音ちゃん…」
絵里は私の頭上からそう声を漏らしたが、「ふぅ」と言葉にして息を吐いたかと思うと、私の肩に手を乗せた。
私が顔を上げると、絵里は顔に思いっきり意地悪な笑みを浮かべて見せていた。
「本当だよー。こんなややこしい事に巻き込まれて…。でもまぁ、琴音ちゃん、それに…ついでにアヤツも入れてあげて、この二人と付き合うその面白さと比べたら、こんな苦労も軽いもんだよ」
「ふふ、何それー」
「あはは!」
と絵里が笑いながら急に歩き始めたので、私も後から早足で追いかけた。
「…あ、そういえば」
「ん?どうかした?」
「あ、いやね、意外だったと言うか…」
「何が?」
「ほら…絵里さんとお母さんが面識なかったのが」
「え?いや、ほら、それはさぁ…もしあるにしても教室で精々すれ違うくらいで」
「あ、いや、日舞の事じゃなくてさ。ほら、前によく言ってたじゃない?」
「ん?何を?」
そう絵里が聞き返すのを、私はニターッと笑いながら返した。
「ほらー…私のお父さんを指してよく言ってたじゃない?『あの高慢ちきが…』どうのって」
「え?…あ、あぁー」
絵里はすぐに思い出したらしく、顔全体に参った表情を見せていた。それに対して私は何故か得意満面な様子で続けた。
「だからさ、絵里さんと私のお父さんが面識あるのなら、お母さんともあるのかと思って…さ…」
とここまで話したところで、今更ながらふと都合の悪い事に気づいた。考えてみたらすぐに気づく事で、我ながらのんびりしてると言うか何というか、察しが悪すぎると思わず苦笑いをしてしまった。
そう、もし仮に絵里とお母さんの間につながりが無かったとしても、今日こうして繋がりができてしまった訳で、そこからお父さんに話が遅かれ早かれ話が行く事は時間の問題なのは火を見るよりも明らかだ。絵里が頼んだ事とはいえ、それについて絵里を責めることはできない。何せこれは、私と義一、そして主にお父さんとの問題なのだ。
それを厳密には当事者では無い絵里に文句を言うのはお門違いというものだろう。そんな事は言うまでもない。提案された時に拒否をしなかった私が全面的に悪いのだ。
といったような事を、自分で話しながら思いつき考えてしまったのだが、そんな私の様子を見ていた絵里は、また一度息を吐いて、何も言わずとも全て知ってる体で話しかけてきた。
「あぁ、なるほどねぇ…。ふふ、大丈夫だよ」
「…え?何が大丈夫なの?」
と私が自分でも分かる程、不安を隠しきれない調子で聞き返すと、絵里は優しげな笑みを浮かべつつ、しかし口調はハキハキと言った。
「だってね、多分あなたは勘違いしてる…ってまぁ、キチンと今まで話したことが無かったから仕方ないけれど、瑠美さんと顔を合わせたのは本当に今日が初めてだよ。これは本当。で…そう勘違いしちゃったのは、私が余計な軽口を言ったせいだろうけれど…」
とここで絵里は、少し照れたような様子を見せつつ先を続けた。
「確かに、あなたのお父さんにして、ギーさんのお兄ちゃんである”あの人”とは面識があるっちゃあるんだけれど…それはね、今から大体十五年くらい前の話なの」
「…へ?」
「それも一度だけね」
「い、一度…」
「うん。確かー…詳しくは私自身も覚えていないんだけれど、私が大学に入ったばかり…そんでもって、ギーさんと出会ったばかりの時くらいにね、何がきっかけだったのか全然思い出せないんだけれど、多分大学構内かな?たまたまギーさんとお兄ちゃんが居るところに、私が鉢合わせたの。その一度きり」
「…はぁー」
私は一気に力が抜けていくように感じた。…いや、実際に気を抜くと地べたにストンと腰を落としそうになるほどだった。ある意味自転車を押しているお陰で、倒れずに居れたのかもしれない。
「その一度だけなんだ…」
「そう、その一度だけ。しかも居合わせただけだから、自己紹介もロクにしなかったし、ギーさんが私のことを後で話さなければ、今も私のことを名前すら知らないんじゃないかな?…顔すらも覚えてないかも。その時はまだこの頭じゃなかったし」
絵里は得意げに頭に乗るキノコを何度か撫でた。
「なーんだ…じゃあ何で、高慢ちきがどうのって言ってたの?」
と私は呆れた心中を隠そうともせず、むしろ大ぴらに見せつけるようにしながら聞くと、絵里は何故か愉快げに答えた。
「ふっふー、それはね…まぁ、そもそもそのほんの一瞬しか実際には顔を合わせなかったんだけれど、何だか良い印象は持たなかったのよねぇー…って、実の娘の前で言うのも何だけれど」
「ふふ、本当よ」
と私が悪戯っぽく笑うと、絵里も同様の類いの笑みを見せつつ言った。
「まぁ、私と琴音ちゃんの仲だから言える事だけれどねぇー。何度かあなたのお父さんについて話しているし…。いや、それでね、その後で聡さんと話したんだけれど、その時の印象をそっくりそのまま話したらさぁ、聡さんが言ったんだよ。『アイツは高慢ちきな所が玉に瑕なんだよなぁ』ってね」
「あぁー、言いそう…って、元ネタは、聡おじさんだったんだね」
「そう、その通り!…って、おっと」
と絵里がわざとらしく見上げると、その先には絵里のマンションが建っていた。気付かぬうちにもうここまで来ていたらしい。
「今日は送ってくれてありがとうね?」
「いーえ、どういたしまして。っていうか、私こそ、ありがとう」
と私がまたお礼を言うと、「もーう、良いってばぁ」と照れを隠すようにちゃらけて見せていた。
慣れた手つきで番号を押してオートロックを解除すると、自動ドアが開いた。
「じゃあまたねぇー」
と中に入って行きかけたが、絵里はふと立ち止まり、私に振り返ると、笑みを浮かべて声を掛けてきた。
「コンクールってさぁ…やっぱりドレスコードあるよね?」
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