第11話 コンクール(終)結

最後の一音を弾き終え、自分でも少し余韻に浸ってから椅子から立ち上がり、来た時と同じ位置に立ってお辞儀をすると、出てきた時よりも大きな拍手をもらった。

とここで遅ればせながら、予選、本選とこの二つでは端折ってしまったが、決勝ともなると紙面を割いて触れない訳にもいかないだろうと思い、軽くでも触れることにする。クラシックファンしか興味を惹かないだろうが、一応私が決勝に選んだ曲目を披露すると、モーツァルトのソナタ KV330 第2楽章、ハイドンのソナタ Hob.ⅩⅥ:34 第1楽章、大バッハのフランス組曲 第6番 ホ長調 BWV817より クーラント、そしてショパンの練習曲 Op.10-4 嬰ハ短調の四曲を、約十五分程かけて演奏した。

仕方ないとはいえ所々で演奏しながらも分かる程度の失敗はあったが、それでも持てる実力を出し切った感があったので、この時ばかりは変に卑屈にならずに、客席からの拍手を素直に受け止めて、まだ鳴り止まぬ間に静々と舞台袖に引っ込んだのだった。

控え室のドアを開けて、お母さんがいた位置にすぐ視線を送ると、お母さんはその瞬間に椅子から立ち上がり、まだドアの前で立ち止まる私に早足で近寄ってきた。

一メートルも無いほどの位置で立ち止まると、お母さんは何とも言えない様な少し強張りのある様な表情を見せていたが、フッと側から見てても分かる程に緊張を緩めると、「…お疲れ様」と言って、私と同じ体の向きになり、背中にそっと手を添えてきた。

さっきも言った様に、私はそんな心持ちになっていたので、無心のまま「うん」と自然な笑みを零しつつ返した。

それからは待ち時間にしていた様に、全く同じ位置に親子二人並んで座って、最後の出演者の演奏を見ていた。一々眺め回した訳では無かったが、それでも皮膚感覚で感じていたのは、控え室の雰囲気が以前と比べ物にならない程に軽くなっていた事だった。勿論ガヤガヤとでは無かったが、至る所で雑談を含む会話が聞こえてきていた。まぁ何せ歴史のある、全国に教室がたくさんある様なコンクール、そういった所から横の繋がりがキチンと形成されているのだろう。時々聞こえる会話の中身も、お互いの教室についての話などが多い様に感じられた。


私が最後から二番目というのもあって、一人演奏が終わると、私たちはモニター越しだったが、これで取り敢えずコンクールの終了という宣言が音声でなされた。

これから審査を始めるというので、その待っている間は休憩時間だと、観客席の人々はゾロゾロと会場から外に出て行く様子が画面越しに見えた。

客席が空になった辺りで控え室に係員が入ってきて、これから授賞式のリハーサルをすると言うので、お母さんたちを残したまま、出場者が揃って舞台袖に戻った。そこは本番とは違って明かりが灯されており、既に午前に終わらせていた他の出場者がスタンバイをしていた。そして間をおく事無く、全員纏まって礼儀正しく自然と列を作りながら舞台に上がった。

いつのまにセッティングされたのか、ピアノを奥に移動させて、その前に五十二ものパイプ椅子がズラッと並べられていた。

ふとその時会場を見渡すと、すっかり照明が戻っており座席がハッキリと肉眼で見える様になっていて、何だかついさっきにここで自分が演奏していたのが夢だったんじゃないかという錯覚に陥りそうになっていた。

それはともかく、実際はキチンと係りの人の誘導に従って自分の座り位置や、名前を呼ばれた時の作法など、軽く説明を受けた後、倍に増えた出場者と共に、一斉にゾロゾロと控え室に戻って行った。

控え室にも見知らぬ大人達が増えており、すぐに午前の部の関係者だと察した。

戻ってから四、五十分、雑談しつつ待っていたが、この時何と無く妄想していたのは、やはり師匠と京子の事だった。

こんな和気藹々とした雰囲気の中で、話してくれた様な事が起きただなんてねぇ…

などと、感銘を受けたのか、ただ呆れていたのか自分でも判断しかねる感想を持っていると、ようやく受賞者の発表の旨を知らせる放送がスピーカーから流れた。


保護者は観客席から見るというので、そこでお別れをして、私たち出場者はリハーサル通りに手順を踏んだ。

舞台袖に着くと、係りの人が胸元に付けた番号札を確認して配列の整理に追われていた。私と最後に演奏した子が先頭に立つ事となった。

会場に鳴り響く司会者の声に促されて、ふと隣の子に目配せをして、初対面で、しかもまだ話したことの無かった二人だったが、お互いにコクっと頷くと、少しぎこちなさを残しつつ舞台上に歩み出て行った。その瞬間、会場からは割れんばかりの拍手が鳴り響いていた。本番の時とは比べ物にならない程だった。それに加えてまた一つ大きく違っていたのは、会場からフラッシュによる光の点滅がチカチカと瞬いていた事だった。たまたま客席に目を移していたので、その光に目が眩みつつ、リハ通りの自分の椅子に腰掛けたのだった。舞台一番端、二列に並べられた椅子の前といった位置だった。

出場者が全員座り終えるまで、普通にしていたら顔が客席にいくものだから、何だか気恥ずかしくなってキョロキョロと視線を泳がしていた。以前と違ったのは、前は観客席で手を振る裕美を見つけられたが、今回は結構大所帯であったにも関わらず、チラ見しただけだったがそれでも皆を見つけることは叶わなかった。

…とまぁこんな具合で事が進んで行ったのだが、ふと一人の正装した男性の老人が舞台脇からノソノソと出てくると、中央に既に置かれていたマイクスタンドの前に立ち、一度咳払いをした。

すると、会場は先程までの賑わいが嘘の様にシーンと静まり返った。どうやらプレゼンターは、本選の時のふくよかな女性とは違うらしい。私の位置からはほんの一瞬しか顔が見えなかったが、何処と無く見覚えがあった。だが、まだ誰かまでは思い出せずにいた。

老人は背をまっすぐに、何とも落ち着いた口調でゆっくりと話を始めた。まぁ言ってはなんだが、初めの方はコンクールの歴史なり何なりを触れるのに終始していたので、ここでは割愛させて頂く。

「えー…では早速、本日、金賞、銀賞、銅賞を見事勝ち取られた三名の名前を読み上げたいと思います」

と老人が言い終えると、係員が数人出て来て、本選の時とはまた幾分か多くの荷物を携えて老人の脇に立ち、その中の一人が持ってきたテーブルの上に、それらを丁寧に置いた。そして一人を除き、他の数名は早足で舞台から退場した。残った一人は、テーブルと老人の中間地点に微動だにせずに立っていた。

「えー…では、総勢52名の決勝進出者のうち、まず三位に輝きました方のお名前を読み上げたいと思います…」

と老人がどこからか出した紙を覗き込み、少しの間沈黙した。何となくだが、こんな時はドラムロールなどで空間を埋めるものなのかと思っていたが、この間は何も物音がせずに、私たち出場者、そして観客席にいる関係者一同がジッと老人の次の言葉を待っていた。

幾らか間が空いたその時、呼ばれたのは、私の座るところから一番離れた位置に座っていた女の子だった。

その瞬間客席側から拍手と共にピンスポットライトが当てられ、戸惑いの表情を浮かべている女の子を際立たせていた。女の子は思わずといった感じで既に立ち上がっていたが、私の様な遠い位置にいる者からも、口元を両手で覆いつつ涙ぐんでいるのが見えた。

出場者たちが笑みを浮かべつつ拍手をしていたので、私もそれに倣ってしていると、女の子はどこか危なげな足どりで老人の元に向かった。

そして前に立つと、老人はまず客席に向かって、彼女の演奏がどれだけ素晴らしかったかを力説していた。そこで初めて、さっきから彼女のことが見覚えなかったのだが、その理由が知れた。まぁただ単純に、午前の部に出ていたという訳だった。

私からは、老人に関しては背中しか見えなかったが、それ越しに見えていた女の子の表情は、緊張している様な、もしくはどこかホッとしている様に見える顔つきをしていた。ただ、目の下にライトに反射してか、光の筋が二本ほど見えていた。

「おめでとう」との言葉と共に、側に立つ係員から手渡されるがままに、まず賞状、次にメダルを首に老人自らが女の子に提げさせ、最後にトロフィーを手渡した。相変わらずこうして客観的に見ると抱える様な感じになって一杯一杯に見えたが、それでも女の子はようやくここで満面の笑みになり、何とか片手を空けて老人と握手をすると、最後に客席に向かって深くお辞儀をし、拍手の音が大きくなる中自分の席に戻って行った。

座る瞬間、また別の係員が一時的に今貰った物を預かる為に出てきていたが、それを待たずして、また老人は客席に体を向けると、またゆったりとしたペースで話し始めた。

「…さて、お次はいよいよ銀賞の発表になりますが、ここで一つ少し触れさせて頂きたいお話があります。それは…今年度の、この中学生の部のレベルが、近年稀に見るハイレベルだったということです。いや…この決勝に限りません。私自身は残念ながら体験出来ませんでしたが、全国のどの地区でも、誰を決勝の舞台に立たせようか、これほど難儀したことは無いという悲鳴を、各地の審査員から聞いてました。…ふふ、それはとても嬉しい悲鳴です。そしてその嬉しい悲鳴は今日、私も含めて同じ様に上げることと相成りました。特にこの…今年度の金賞と銀賞、この二人の演奏はタイプこそ真逆でしたが甲乙つけ難く、実際に選りすぐりの審査員が個別に点数を付けたというのに、結果としては過去に異例の無い程の僅差となりました。…」

…何だか、本選の時にも同じことを聞いたなぁ。

などと、初めの方ではあんなに緊張して固くなっていたというのに、もうすっかり慣れてしまって、他人事の様にそんな下らない感想を覚えつつ、老人の話に耳を傾けていた。

と、ようやくお話が終わると、老人は見るからに佇まいを正し、また一度咳払いをしてから

「…では、そんな中でまず銀賞を見事獲られた方のお名前を読み上げたいと思います」

と言うと、さっきよりもまた幾らか間を作って見せた。その間同じ様にこの場にいる人全員が固唾を飲んで老人の次の言葉を待った。

と、老人は少し俯いていたのだが、これまたゆったりとした動作で顔を上げると、感情を込めて一人の名前を読み上げた。

「…東京都出身、…エントリーナンバー五十一番、望月琴音さん」

そう言い終えた瞬間、目の前がホワイトアウトした。まず最初に戸惑ったのはソレだ。何が起きたのかすぐには分からなかった。どうやらさっき銅賞を受賞した女の子が受けていたライトが、私に向けられたせいらしい。

「…え?」

と私はようやく目が慣れると思わず声を漏らし、自分でも意味が分からず取り敢えず周囲を見渡した。すると他の出場者の男女が笑みを向けてきつつ、手元では頻りに拍手をしていた。

ふと老人の方を見ると、老人もこちらに笑みを向けて拍手をしていた。ついでに隣に立っている係りの人もだ。

ここでようやく、大袈裟ではなく聴力を取り戻した様だ。どう言う意味かというと、ここにきて客席の方からも大きな拍手を向けられている事に気付いたのだ。

ここまで実質数秒足らずだろうが、私の感覚では少なくとも一分程に感じていたが、何だか自分のではなく他人の身体でも操縦するかの様な、何とも言いようの無いぎこちなさを覚えつつ、やっとこさ立ち上がり、我ながら照れてるのか何なのか分からない感覚に包まれつつ、老人の前に出向いた。

何だかまだ足に力が入ってない様な感覚を覚えて、きちんと真っ直ぐ立てているのか自信を持てないままジッとしていると、何か老人はまたさっきの様に客席に向かって何か話していた様だったが、何も耳に入ってこなかった。だが、変な所は冷静になっていたらしく、その間ずっと老人の顔を眺めていたが、ふとその時、なぜこの老人の顔に見覚えがあるのかを思い出した。

…あ、そうだ、この人…京子さんがエッセイを書いている、私が毎月読んでいる雑誌でよく見る人だ。

そう、彼は前に京子の事に触れる中でチラッと触れた雑誌に連載を持っている御仁だった。この時はうる覚えでしか思い出せなかったが、確か国内の有名な交響楽団で首席指揮者だったと思う。後で知ったが、このコンクールの理事も務めているらしい。それで今回この役回りをする事になった様だ。

とまぁ、そんな事に気を向けていると、ふと老人が私に向き直り、

「望月さん…おめでとう」と穏やかな口調で言いながら、前と同じ様に係りの人から受け取った賞状を私の前に差し出した。

「あ、ありがとうございます」

と私は自分でも分かる程声を震わしつつ、カミカミでそう言いつつ丁寧に受け取った。この時ふと思ったのは、『私の声がマイクに乗らなくて良かった…』という単純でくだらない事だった。

それからは流れ作業的に、銀色のメダルを首から提げて貰い、トロフィーを受け取ると、さっきの女の子の行動を思い出し、それをそのまま真似て客席に向かって深くお辞儀をすると、自分では早足のつもりで席に戻った。座る前に、いつからいたのか係りの人がスタンバイしていたので、何も言われなかったが、今受け取った賞品を全てそのまま手渡した。

それからの事は…正直よく覚えていない。当然流れとしては次に優勝者の発表があったはずなのだが、勿体ぶるのでもなく本当に記憶になかった。

ただ辛うじて頭に残存しているのは、ハタから見てどうかは兎も角、座っている間、感覚的には興奮のあまりか小刻みに震えていた事、顔が異様に火照っていた事、それに…これは後で誰かに聞いた話だが、座っている間私は無表情ながら涙を流していたらしく、それを仕切りにメイクが崩れるのを気にする素振りも見せずに何度もゴシゴシと擦っていた様だ。

発表が終わった後、老人の合図とともに皆一斉に立ち上がると、その場で深く頭を下げて、そしてまた出てきた時と同じ様に舞台袖に引き上げるのだった。

と、控え室に戻る途中、係りの人から賞状、メダル、トロフィーを返して貰っていると、廊下で他の出場者に口々に声を掛けられた。男女問わずだ。皆して同じ様な笑顔だ。皆して私の演奏を褒めてくれて、そして銀賞、準優勝をした事についても喜んでくれた。

…もちろん、コンクールは言うまでもなく戦いの場だから全員では無い。むしろこうして声を掛けてくれた人は全体のうちの少数だった。だが、それでもその少数のこの子たちの口の端からは、何か卑屈な物だとかそんなのは感じなかった。ただ単純に、お互いに精一杯持てる力を出し切っての今だと、そういうやり切った後の清々しさとでも言うのか、上手く言えないが、その様な感じを受け取っていたので、私も素直に何か理屈をこねる事なく「ありがとう」と自然と笑みを零しつつ返した。

…っと、ここで一応慌てて付け加えると、別にこうして私に声をかけて来なかった多数に対して何か言いたい訳では無い。それだけはハッキリと言っておく。

とまぁそんなこんなで、本来は数分で行けるものを、こうして挨拶を交わしていたら、通常の何倍も時間をかけて控え室に着いた。

私と、それと銅賞の子と優勝した子も同様に挨拶攻めに遭っていたので、この三人が最後に入る形となった。

中に入ると、すでに他の出場者は各々関係者と抱き合ったりなんなりしていて、私はぼーっと少し眺めていたが、

「琴音ー!」と通る大きな声で呼ばれたのでその方角を見ると、そこには満面の笑みを浮かべたお母さんと、それと静かな笑みを浮かべて目を細めている師匠の姿があった。

「お母さーん!」

と何も考えがないままに、無心のまま体の赴くままにお母さん達の元へと駆け寄った。

「琴音ー!やったわね!」

と途中からお母さんからも私に駆け寄り、不意にガバッと腕を広げると、次の瞬間にはガシッと力強く抱きついてきそうになったので、私は慌てて

「ちょ、ちょっと、お母さんってばー…」

と私は手元の賞品三点セットに目を落としつつ苦笑交じりで言うと、「あ、あぁ、そうね?」

とお母さんもさっきの勢いは何処へやら、側のテーブルに私と手分けしてそれらを置いてから、「やったわね!」と少し落ち着いた様子で声を掛けてきつつ、改めて私に抱きついてきた。

私も身長が伸びているとはいえ、今だにお母さんの方が身長が高かったので、上手いことスポッと収まっている感覚を覚えていたが、

「うん!」

と私も胸の中でコクっと力強く頷きつつ返した。

その直後、お母さんはガバッと勢いよく私の肩に手を置いて体を離すと、満面の笑顔ではあったが、時折目元を指で軽く擦りつつ、

「琴音…あなた…頑張ってたものね…頑張ってたもんね…」

と若干涙声で何度もそう呟くのを見聞きして、普段はアレコレと複雑な想いがある為に、その様な姿や言葉を聞いても我ながらかなり冷めた気持ちを覚えていたのだが、この時ばかりは眼鏡なくお母さんのその言葉を丸々受け止めたせいか、この時初めて自覚的に涙がホッペを伝うのを気づけた。

そして私からも「うん…うん…」と同じ回数分答えていると、ふと視界の隅に師匠の姿が映った。

ふとお母さんに目配せをすると、何も言わなかったが伝わったらしく、フッと微笑んだかと思うと、視線だけを師匠の方に流したので、数歩分離れた師匠の前に出た。

師匠は今だにつば広帽子とサングラスをしていて、暫くこちらジッと見つめてきていたが、突然何も言わないままに、お母さんと同じ様にガバッと抱きついてきた。その瞬間、あまりの勢いでか、帽子が師匠の背後に落ちていくのが最後に見えた。

「し、師匠…?」

なかなかそのままの体勢のまま変えないでいるので、私は少し戸惑い気味に声を漏らすと、また同じ様に勢いよく私から離れて、床に落ちた帽子を軽くはたき、そしてそれを被り直すと、コンクール前とは打って変わって、周囲を気にする様子を一切見せないまま、今度はサングラスを取った。その下から現れたのは、長い付き合いの中でも見たことの無いような、一番の柔和な微笑みを見せてくれていた。

と、それも束の間、これもお母さんと同様に私の両肩をガシッと掴んだかと思うと、

「よくやったわね!よくやったわね琴音!本当によく…」

と初めの方は明るい笑みを浮かべつつ繰り返し言っていたのだが、途中からは段々と語気が弱まっていき、終いには涙を堪えるためか、苦悶をしている様な表情と、それでも気丈に笑顔を作ろうとする、その二つが同居した様な顔を向けてきていた。

「もうダメね…」

師匠は私の肩から手を離すと、目をこするんでも無く、ただ目元に指の側面をそっと添えつつ、照れ笑いを浮かべていた。

「師匠としてキチンと弟子の功績に対して、オタオタせずに声を掛けてあげようと思ってたのに…」

「…師匠!」

と私は、一人で何故か反省を始めた師匠を見ていて、色んな感謝の言葉が心の中を渦巻いていたが、それを一度に口にする事が困難だと分かった次の瞬間、考えるよりも身体が動いて、気付いた時には師匠に飛びかかる様な勢いで抱きついた。

「おっと…」

と咄嗟のことで声からも驚きを隠せていない様子が聞き取れたが、流石は私の師匠(?)、そのまま後ろに倒れる事なく、キチンと私を受け止めてくれた。

私は師匠に飛びついたまま、その胸に顔を埋めたまま身動き一つせずジッとしていた。何でそうしていたのか分からない。ただこの時は、時間の許す限りずっとそうしていたかったのは紛れもない真実だった。

「…ふふ、もーう」

と顔は見なかったが、師匠は明らかに呆れた風な口声を漏らしていた。

「私の弟子がこんなに甘えん坊だったなんてね…?」

と囁く様に言うと、師匠の方からも、さも壊れ物に触れるが如くに、そっと優しく包み込む様に抱きしめ返してくれた。


どれほどそうしていただろう?どちらからともなく体を離して、私と師匠が顔を見合わせて微笑み合い、そしてそのままお母さんとも微笑み合っていたその時、不意に一人の男性が控え室に入ってきたのが目に入った。その瞬間、控え室の空気が変わった様に感じた。その男性の姿を見て騒めき立っていた。

まぁそれもそのはず、その男性というのが、そう、先ほど舞台上で私たちに賞を受け渡していたあの老人だったからだ。

まぁそもそもこの老人に対してざわつくのは何も今日の審査の責任長だからという理由だけではない。先ほども言った様に、この老人は日本でも有数の交響楽団の首席指揮者を勤めていたので、音楽ファンなら色めき立って不思議では無かった。

とここで老人の姿を見た瞬間、師匠はハッと大きく目を見開いたかと思うと、慌ててサングラスをして、そして帽子を目深く被り、そして軽く顔をソッポに向けていた。

何だかその反応が過敏に見えて、またそれが面白く感じ、私はジッとそんな様子を笑顔で眺めていたのだが、老人の方は視線が一斉に注がれているのには構わずキョロキョロと辺りを見渡していたが、ふと私と視線が合うと、「あぁ!」とこっちにまで声が聞こえる程に声を上げると、一直線に私の元に歩いてきた。それと同時に師匠は私から数歩離れた。

私がその姿に対して、流石にと面白がるのを通り越して不思議がっていると、老人が笑顔で私に話しかけてきた。

「あぁ、いたいた。いやぁー、本来は舞台上で発表する流れだったのだが、何せこうしてこちらのコンクールに関わらせて頂くのも久しぶりだったから、段取りをとちってしまってねぇー…って、あ、いや…」

と開口一番一人でペラペラとまくしたてる様に話すと、今度はそんな自分に対して苦笑いを浮かべつつ、

「望月さん…だよね?」

と聞いてきたので、私はすっかり呆気にとられていながらも「は、はい…そうです」と返した。

すると今度は満面の笑みを浮かべたかと思うと、私に右手を差し出してきながら、

「今日はおめでとう!」

と言葉を掛けてきたので「あ、ありがとう…ございます」と返した。…もうこの時点で、私は早くこの場から逃げ去りたかった。何せあれだけ控え室に来てからずっと注目されていたこの老人が、ずっと私に構ってくるために、必然と他の人々の視線が私に集まって来ていたからだった。恥ずかしすぎて、穴があったら入りたい気分だった。

と、そんな私の心中など知る由もない老人は、次にお母さんに握手を求めていた。お母さんは持ち前の社交性で程々に明るく対処していたが、次の師匠はそうはいかなかった。

師匠も握手に応じていたが、サングラスをしたままで、それに顔を若干背けていたのを見た老人は、訝しげにジッと真顔になりつつ眺めていたが、フッと短く息を吐くと、私の事、そしてその指導に対して褒めた後に、また私の元に戻って来た。

「…さて、望月さん、私が今ここにわざわざ来たのはね、ある事を君にお願いしになんだ」

「あ、ある事…ですか?」

急に何を言い出すのか、そして何をお願いされるのかと身構えつつ返すと、老人は「あはは!」と愉快げに笑って見せてから続けた。

「ほら君…プログラムか何かで見なかったかな?このコンクールの決勝の後には、”後夜祭”があるって」

「え…あ、あぁ、はい、知ってます」

と私は一瞬何を問われたのか判断出来なかったが、冷静に記憶を手繰り、すぐに思い至ったのでそう返した。

これは今老人が言った様に、プログラムにも書かれていたし、それ以前にホームページ上にもデカデカと載っていたので、流石の私でもそれは目に通っていた。

「そうかい?良かった…なら話が早い」

老人は人好きのするニコニコ顔から、ふと柔らかい笑みにギアチェンジをして見せたかと思うと口を開いた。

「望月さん…この後の後夜祭、ソリストとして、私のオーケストラと共に演奏してくれないかい?」

「…へ?」

あまりに突然の、そして予想だにしなかった提案に度肝を抜かれ、自分でも分かる程に目をまん丸に見開かせながら老人の顔を眺めた。それから私は何だか気が落ち着かないままに、まずお母さんの方を見ると、お母さんも私ほどではなかったが驚きを隠せない様子だった。次に師匠の方を見ると、師匠は私と同じか、いやもしかしたら私以上に驚いて見せていた。サングラス越しでも分かる程だ。ついさっきまで身を隠す様に小さく目立たない様にしていたのに、正面から老人を見据えていた。気づけば辺りも静まり返り、それによって尚更突き刺す様な視線を肌にヒリヒリと感じる様だった。

これほど驚くのも無理はないと了承してほしい。何せこれは大分前にも触れたが、師匠と私とでどこのコンクールに出ようかと話し合っていた時に、最終的に今出てるコンクールに決めた大きな要因の一つがコレだったのだ。勿論このコンクールが、師匠と京子の初出会いの場というのもあって、私も間接的に関わりたい意味も込めて出てみたかったのは事実だったが、その時にも言ったが、私に密かな夢、オーケストラの中でピアノを弾いてみたいという大きな夢があったのだ。ピアノが実感として上達し始めた頃からのだ。ホームページを眺めていた時に、『決勝に進出した者のうち、成績如何ではオーケストラとの共演があります』と載っていたのを見ていたのだ。だからある種私はこれを目標に頑張ってきた所があるのだが、成績如何と書かれている以上、それは暗に優勝しなければその資格を得られないものだと思い込んでいたのだ。

…ここでまた少し話が逸れるのを許して欲しい。私は先ほど表彰をされた時、舞台上で座りつつ思わず知らず涙を零し、そしてこうして控え室でお母さん、そして師匠と抱き合いつつまた涙を流した訳だが、これには理由があった。

何を今更と思われるかも知れないが、最後まで聞いてほしい。

勿論初のコンクール出場にして、我ながら上手く決勝の舞台にまで昇り詰め、そして最終的な結果として何と全国の中で二位になれた、その嬉しさのあまりに涙を流したのは本当だ。だが、それと同時に、これはそこまでこの時に覚えた感想では無かったが、そうは言ってもやはりどこかで、優勝したかったという想いが強くあったのだろう。私自身はその所謂”名誉”面に関しては冷めた見方をしていると自分で分析していたのだが、意外と”熱い”部分もあったらしい。

これは余談だが、後日にお母さんや他の人に準優勝について誉められるたびに、「優勝したかったなぁ」と嘯いてみたり、師匠に対しては一度真剣に、本当は優勝したかった旨を話したりした。

…っと、何で今こんな話をしたのかと言うと、さっきも言ったように、優勝者しかその後夜祭のメインイベント、オーケストラとの共演というのが出来ないと思い込んでいた私は、もう一つの夢が破れたという点でも悔しくて泣いたんじゃないか…という自己分析を披露したかったのだ。…まぁそれだけだ。本筋に戻そう。


私は頭の中身を整理するのに精一杯だったが、やっと今言われた提案が私の中で現実味を帯びてくると、何とか嬉しさのあまり飛び上がりたくなる衝動を抑えつつ

「…はい、私でよければお願いします」

と老人に返した直後、お母さんと、すっかり私の真横に近寄って立っていた師匠に「…いい、かな?」と聞いた。

お母さんはまだ何が何だか事態を把握しきれていないようだったが、

「あなたがしたいなら、そうしなさい」と笑顔で言ってくれた。

「うん!で、あのー…」

と隣の師匠の顔を下から覗き込むように見つつ遠慮気味に声を掛けると、少し想像とは違って、師匠は間を空ける事なく満面の笑みを浮かべて返した。

「ふふ、何を躊躇うことあるの?あなたのコンクールよ?そして、あなたが自分の力で手にした機会、それをどう活かそうがあなたの自由なのよ?…やって来なさい!」

「…はい!」

と私が師匠に同じ類の笑みで返すと、気のせいかも知れないが、その瞬間また控え室に活気が戻ったように感じた。

「よし、じゃあそうと決まれば…」

と老人はまた人懐っこい笑みを浮かべつつ言った。

「これから何十分か、打ち合わせとリハーサルをしなくちゃ…あ、お母さんとお師匠さん?」

「は、はい」

とお母さんが返事をすると、老人は同じ笑顔のまま言った。

「他にも、もし望月さんの応援に来られた方がいらっしゃるのなら、私たちが打ち合わせをしている間に声をかけてあげて下さい。今会場は人々が掃けて空になってますが、もし良かったら後夜祭が始まるまでの間、そこでリハーサルをしますので、その合間に一度顔を合わせた方がいいでしょ?心配しているでしょうし、どうぞ会場内に案内してあげて下さい」



「は、はい、ありがとうございます。…じゃあ後でね、琴音」

「うん」

お母さんと師匠に見送られながら、出口まで他の参加者たちに声を掛けられながら老人と二人で外に出た。

「本当はねー、会場内での記念写真とかは、後夜祭が終わってからして貰う事になっているんだけれどねぇ?」

と廊下を歩いつつ老人が話しかけてきた。舞台とは反対方向だ。

「こうして後夜祭に出場するのが決まった人にだけ、特別にその関係者のみなさんも含めて許す事になっているんだ」

と老人は言い終えると、真横を歩く私に笑みを向けてきた。

「は、はぁ…」と若干の緊張を覚えつつそう返した。

それもそうだろう、半分以上諦めていた所でのこの状態、そして驚きが引かないままに今度はそのオーケストラの皆さんと打ち合わせをして、今日のうちに演る事になるだなんて、それこそ思いもしなかったからだ。

そんな本番とはまた一味違った緊張を孕みつつ老人について行くと、とある両開きのドアの前で立ち止まった。それから老人は間髪入れる事なくそのドアを開けた。元から音は漏れていたが、開けた瞬間Aの音、ドレミで言う所の”ラ”の音が大音量で鼓膜を振動させてきた。

と、老人が入った瞬間、その音は一斉に止んだ。

「やぁやぁ、お待たせー。ほら、望月さんも入って」

「は、はい…お邪魔します」

中に入ると、入口からでは分からなかったが、中々に広い空間が広がっていた。壁の一部は鏡張りになっており、顔をいくらズラしても映る自分と目が合った。どうやらリハーサル室のようだ。

もう既に入っていた三十人ちょっとの老若男女が、目の前に譜面台を置いて、それぞれ自分の楽器を持って半円形に座っていた。

その中央には指揮者台もあった。その脇…コンマスのすぐ近くにはグランドピアノも設置されていた。

みんなカジュアルでは無かったが、私ほどにはフォーマルでは無かった。

と、一同が皆して私に一斉に注目しながら多様の笑顔を向けてきたので、何だか気恥ずかしく身を小さくしていると、それを他所に老人が明るくそれぞれに声を掛けていた。

「やぁ、待たせてしまったかな?」

「待ちくたびれましたよー」

と、コンマスの位置に座る初老の男性がニヤケつつ返していた。

とここで不意に目が合うと、コンマスは笑顔を浮かべて「ようこそ」と穏やかに声を掛けてきたので、私は慌ててその場でお辞儀をしつつ「よ、よろしくお願いします」と返事をした。

すると何処からともなく「ふふ」と優しげに微笑む声が楽団内から聞こえてきたかと思うと、「うん、よろしく」とまた皆を代表してか、コンマスがその場で立ち上がると握手を求めてきた。

それに対して少し恐縮しつつ応じると、それを合図に他の皆も順々に私に握手を求めてきた。皆言い方こそ違っていたが、大体似たようなものだった。私の本番での健闘を讃えてくれたりした。その合間に老人が「この人らはね、私が指揮を振っている楽団の皆さんなんだ」と紹介してくれた。その中の精鋭だという補足も忘れずに。

流石に人数が人数だったので、軽くとは言っても数分ばかり時間が掛かったが、最後の一人とし終えると、老人が私にピアノの前に座るように言うので、素直に従って座った。

「さてと…」

老人はいつの間に用意していたのか、指揮者台の脇に置かれたパイプ椅子に座ると、私に話しかけてきた。

「望月さん、これから後夜祭のリハをする訳だけれど…急も急だから、そのー…突然のことで驚きもするし、それに伴って緊張もするよね?」

「は、はい…まぁ」

と私は照れ笑いと苦笑を同居させたような笑みを浮かべつつ答えた。すると老人は「ははは」と明るく笑うと言った。

「だよねぇー。まぁ、これも毎年恒例ではあるんだけれど、取り敢えずはね、今までの人もそうやって緊張してしまってるから、それをほぐす意味でも、少しばかり会話をしてるんだよ。何せ…折角のお祭りなのに、その主役であるはずの当人が緊張のあまり楽しめないで終わっちゃ、勿体無いからね」

「主役って…私のことですか?」

と自分でも場違いな返しだと思ったが、そう思った時にはもう口から出ていた。

それを聞いた老人はキョトンとしてみせると、次の瞬間にはまた「ははは」と明るく笑い、その表情のまま言った。

「そりゃそうだよー。…さて、この会話というのも、まず主役の人から質問を受け付けるんだけれど…何かある?」

「え?えぇっと…」

これまた急に質問があるかと話を振られて少し戸惑ってしまったが、根っからの”なんでちゃん”…もう中二にもなって”ちゃん”付けは”イタイ”気がしないでも無いが、そのなんでちゃんからしたら、それはもうずっと前から聞きたくて仕方なかった事が胸の中を渦巻いていたので、実際は遠慮がちにだったが質問してみることにした。

「そうですねぇ…あのー」

「ん?何かな?」

老人は好奇心に満ち溢れた笑みを向けてきていた。

「はい…そのー…何で私が選ばれたんですか?」

「…というと?」

そう聞き返す老人の表情は、想定内だと言わんばかりに顔つきに変化は見られない。

「だってそのー…私は今回の結果は準優勝でしたし、そのー…よく知らないんですけれど、こういうのは優勝者が選ばれるものだとばかり思ってたものですから、まさか私が選ばれるだなんて思っても見なくて…」

と私は照れ隠しにホッペを掻きつつ、失礼を承知で途中から視線を明後日の方角に飛ばしながら言った。

と、すぐに反応が返ってこなかったので、ゆっくりと視線をまた戻すと、老人は私に向かって子供のような悪戯っぽい笑顔を向けてきていた。そして目が合うと、口調もそれに合わせる様に言った。

「…ふふ、君は緊張をしていると口では言ってたけど、なかなかにどうして、キチンと筋道だった話をしてくれるじゃないか?それに…中学生とは思えない程の言葉遣い…君らならできる?」

とここで老人は楽団の皆の方に顔を向けた。すると一同はクスッと笑ったかと思うと「いいえー」と呑気な調子で返していた。

「いえいえ、咄嗟には無理ですよ。それに中学生だといったら尚更です」

と最後にコンマスが明るく返すと、老人はウンウンと頷いて見せていた。そんな空気の中、どう反応をしていれば良いのか判断出来なかった私は、微動だにせずに成り行きを見守っていた。

と、そんな私の様子に気づいたか、老人は若干申し訳無さげに笑いつつ言った。

「…あ、いやいや、ごめんごめん!主役をほっといて勝手に盛り上がってちゃいけなかったね?…ゴホン、ではその質問に答えようか。まぁ細かい話はともかく、確かに何で自分が選ばれたのか知りたいよねぇ?…とその前に望月さん、そもそもの所、どうやって選定されると思っていた?」

「え?それはやっぱり…今言いました様に、そのー…成績順かと」

「うん、そう思ってたって言ってたね。でも実際は優勝者でなく、準優勝者の君が選ばれた…って、準優勝でも十分凄いんだけれど」

アハハと老人は自分で言った直後に笑っていた。

「はぁ…。あ、そうそう、でも実際は違うよね?じゃあ、どうやってるのかと言うとね…」

とここで老人はふと楽団の方を向き、ぐるっと全員を見渡してから続けた。

「ここにいるみんなに選んで貰うんだ」

「…え?」

それを聞いた私も、思わず老人に倣って一同に顔を向けた。皆して私に色んな種類の笑顔を送ってくれていた。

私がまだ視線を戻さない間に、老人は愉快げな口調で先を続けた。

「まぁ、少数精鋭とはいえ、それでもこの人数だからねぇー。全員という訳ではないけれども、何人かは密かに観客に紛れて客席で演奏を聴いたりしてね、それ以外はこの部屋で聴いて、それで、”誰と一緒に演奏してみたいか”を多数決で決めるんだよ。…私も含めてね」

最後の方で私は老人の方に顔を戻したのだが、老人は最後に目を瞑った笑顔を見せた。

「なるほどー…」

と、本当に自分でも納得したのか何なのか定かでは無いのに、間を埋める為だけに声を漏らした。

「ふふ、さっきも舞台で言ったけれどねぇ」

と老人は今度は優しく微笑みつつ穏やかな調子で言った。

「コンクールの審査は彼らとは別に、この場にはいない審査員と協議の上で決めたんだけれど、その時も言ったよね?なかなかに僅差だって」

「は、はい…」

と、まだアレが今日の出来事だったのかも怪しく思うほどに記憶が曖昧だったが、そう返した。

「その中身は今も言えはしないんだけれど…まぁ端的に言って、君と優勝したあの子では、タイプが丸っきり違っていて、それ故に好みが大きく分かれるんだ。まぁ、それが今に繋がるわけだけれども…つまりね、まず結論から言っちゃうと、今回の後夜祭の出場者は、満場一致で君に決まったんだ」

「え?」

と私は先ほどから代わり映えのしない声を漏らして、またこれも同様に楽団の方に顔を向けた。皆は目が合うと笑みを浮かべつつ頷いて見せていた。

「これは結構珍しくてねぇ?まぁ毎度、優勝者と準優勝者の二択で分かれることは良くあるんだけれども、今回の様に満場一致する事は珍しいんだ。それをね、皆を代表して私が訳を説明させて貰うと…」

とここで一度老人は溜める様に言葉を切ってから、一度視線だけ軽く楽団に流すと、それから私に微笑みつつ言った。

「君の演奏からは、この手のコンクールには珍しく、型に嵌っていない、いや、そう思わせつつ、どこか何か色んな側面を見せられてる様な、一口だけ食べただけなのに、色んな味わいを感じさせてくる様な、そんなイメージを持たされたんだ」

「…い、いやぁー」

と、私みたいな未熟者が、プロの演奏家達の前で口を挟むのはどうかと思ったが、持ったが病で、どうしても反応せずには居れなかった。

「そ、そうです…か、ねぇ…?」

「…ほら先生?」

とここで不意にコンマスが口を挟んだ。口調に笑いが混じっている。「そんな面と向かって褒められたもんだから、彼女、困っちゃってるじゃないですか?」

「あ、そっか。…すまんね、望月さん」

「あ、いえいえ…」

老人がコンマスの言葉を受けた後、苦笑まじりにそう言うので、私はまた慌てつつ返した。

「とまぁ、そんな訳でね」

と老人は気を取り直して続けた。

「優勝した子も、それはそれは上手かったんだけれど、何というか…まぁ、コンクール仕様って感じだったんだよ。あ、いや、別にこれは貶しめる意図は無いんだけれどね?それはそれで一つの個性だろうし。でもまぁ…どうせこうして一期一会、いつまた何処で一緒に演奏出来るか分からないと思った時に、君のような今時珍しい、角度を変えて見れば見るほど違う側面を見せてくれるような、そんな面白い人と、是非こうしたお祭りの舞台でご一緒したいなー…って、ここにいるみんなが同様に思ったのさ」

「…ふふ」

老人が言い終えた後に、また無邪気に笑って見せたので、釣られたのか私も思わずクスッと笑みを零した。この老人が身にまとっている雰囲気のお陰か、自分でも分かる程にリラックス出来ていた。

「褒めてくださってありがとうございます」

と気後れなく自然にお礼の言葉を言うと、「如何いたしまして」と老人も笑顔で返してくれた。

「さてと、場も和んできたところで…」

そう言いながら老人はのそっと立ち上がると、指揮者台の上に登り、そして譜面に目を落としつつ言った。

「お祭りとはいえ、手を抜いて良いって事じゃないからね。本気で楽しむには、それなりに準備をしなくちゃ…」

老人のその声と共に、楽団員全員がゴソゴソと譜面を見たり楽器の準備をし出した。

このスイッチの切り替えの早さもプロのうちなのかな?

などと知ったかぶって感心しつつ、私も何となくそれに倣って、既に置かれていた譜面に視線を向けた。

「望月さん、譜面を見てくれてる?」

と老人が声をかけてきたので「はい」と短く、しかしハッキリと返した。

すると老人はニコッと一度微笑むと、

「ところで、その曲だけれども…君はそれ知ってるかな?」

と聞いてきたので、正直一瞬見ただけで分かってはいたのだが、それでも一応もう一度確認してから「はい」とまた返事をした。

「では、この曲、知ってるだけじゃなくて、そのー…弾けるかな?」と声の少し心配げな様子を混ぜつつ聞いてきたので、これはどこか私の何かに引っかかったのか、思わずムキになりながら、しかしそれでも笑顔で「はい」と力強く答えた。

…というのも、この曲は散々繰り返し師匠の家で弾き込んでいた曲だったからだ。

その曲とは、ショパンのピアノ協奏曲第1番ホ短調だ。短調というだけあって、曲通して少し哀愁や暗さを滲ませるような曲なのだが、その感じが私は大好きだった。

師匠のところでよく弾いていたとは言ったが、言うまでもなくこれはオーケストラと一緒に演奏するものなので、実際は音源を流して、それに合わせて弾くといった感じだ。曲が始まって最初の四分ほどは出番が無いが、それからはピアノがメインに曲が展開していく。まぁこの曲について説明をし出すと長くなるし、曲自体も軽く三十分は越えるので省かせて頂くが、なかなか弾くのは難しいのだが、それでも上手く弾ききれた時の嬉しさったらないものだった。

とここで一つ、これは直接聞いた訳では無いから定かではないが、恐らくそうだろうと言う話を付け加えさせて頂く。というのも、何で老人も含めて皆さんが、数ある協奏曲の中でこの曲を選んだのかという事だ。これは想像するに、事前に私がこの曲を弾ける事を知っていたからだと思われる。何故そこまで自信を持っているのかというと、ネタバラシをすれば、このコンクールに申し込むに当たって、アンケートを取らされたのだ。

その中の数ある質問の中で、『協奏曲では何か弾きこなせる、もしくは弾き慣れたものはあるか』というのがあった。アンケートに答えている時も側に師匠がいたのだが、師匠に私が何の曲なら答えて良いかを相談したところ、師匠は色々と何曲も言ってくれたが、その中から抜粋して三曲ほど答えた中の一曲がコレだったのだ。

「そうかい?では…」

と老人もそれ以上深く何も言わぬまま、合わせるのが難しい所を中心にリハーサルを重ねた。…といっても、実質三十分ちょっとくらいか、私はこんな簡単に終わらせていいのかと心配したが、それが顔に出ていたのか、老人は笑顔で「まぁさっきは手を抜かずにとは言ったけど、煮詰め過ぎてもキリが無いから、後は本番、どれだけ気を楽に楽しんで演奏出来るかだけだからさ?まぁ、よろしく頼むよ!」

と握手を求められたので、「は、はい」と私も苦笑いを浮かべつつ応じた。

それからは楽団の皆と一緒に支度を済まして、ぞろぞろと部屋を出て舞台に向かった。


舞台に出ると、そこには本番時とは違って、ピアノ以外にリハーサル室にあったような物が、そのままそっくり設置されていた。

ここまで楽団の皆と一緒に列をなして来たのだが、最後尾を老人と共にしていたので、舞台上には一番最後に入る形となった。

私が入る頃には、楽団員は皆自分の定位置に座りゴソゴソと準備をしていたが、ふとその時

「あ、琴音ー!」

と、最初の方は一人の声しかしなかったが、途中から何人かの声が混ざって私の名前を呼ぶ声が客席からした。流石、音楽に特化したホール、実際はそれほど大声では無かっただろうが、こちらまでよく声が響いた。

この時初めて客席を見た。老人が言った通り、本番時、そして表彰時とはまた別、人もまばらな客席は照明が点けられ、隅々までよく見えた。その私のいる舞台上から数列ほど離れた位置に、ある集団が固まっているのが見えた。その中の余所行きの装いの、私と同年代の子供たちが私に笑顔で手を振っている。そう、裕美たちだった。「あ、裕美ー。みんなー」

と私も声を上げると、裕美たちは笑顔で早足にこちらに近づいて来た。

とこの時、私はふと老人の方に目を移した。何も聞かされていなかったが、後もう少しで本番、最後に何か確認をしたりするんじゃないかと、裕美たちと絡んでいて良いのかと顔を覗いた。

指揮者台上で何やら準備をしていた老人は私の視線に気づくと、一瞬無表情だったが、すぐに笑顔になり、こちらに向かって来る途中の裕美達の方に視線をチラッと流してから言った。

「…ふふ、まだ本番まで時間があるから、ほら、あぁしてお友達が来てくれてるんだから、相手をしてあげて?さっきも言ったけど、今この会場には誰もいないでしょ?本当なら、出場者も含めて記念撮影とかは、後夜祭まで終わってからしばらく会場を開放して、その時にして貰う形式なんだけれど…結構その時は皆一斉にするもんだから、なかなか落ち着いて出来ないんだよ。だから、こうして大会と後夜祭の合間に誰もいない時にやれるのは…後夜祭に出れる者の特典なのさ」

と最後に例の無邪気な笑みをこちらに見せてきたので、「なるほど」と私も笑顔で応えた。

「ほら、行っておいで」と老人が言ってくれたので、「はい」と私は答えると、もうすぐそばまで来ていた裕美達の方に顔を向けた。

そして一つだけある三、四段ほどの階段を使って舞台袖に降りると、その瞬間、「琴音ー!」との掛け声と共に、裕美たちが一斉に私に抱きついてきた。その声はまたもや会場によく響いた。

「おっと…」

私はその勢いに思わずよろけてしまい、苦笑まじりに声を漏らしたが、その抱きついてきた裕美たちと一歩離れた所で立っていた律と目が合うと、次の瞬間、律がこれまた一年に一度か二度見れるかどうかの微笑みをしてみせたので、それが最後の決め手になったか自然と笑みが溢れた。

「ふふ、ちょっとみんなー?」

と私は我に返りまた舞台の方を見ると、老人含む楽団の皆は同様の微笑みを向けてきていた。

「ふふ、構わんよ」

と何も言ってないのに老人が微笑みつつそう言うので、私は小さく会釈をすると、もう頭からは遠慮の字が薄まっていった。

そんなやりとりを目の前で見ていたというのに、裕美たちは興奮した面持ちで、それぞれの見方による個性的なやり方で褒めてくれた。

…この場面を端折るのを勘弁してほしい。何せ皆して一斉に言うものだから、今上手く当時のことを話せないと言うのと、…これこそ身勝手な話だが、上手く話せない分、裕美たちの言葉は私の胸の中に閉まっときたいと思うのだ。

それはさておき、私はそれに対して一つ一つ丁寧にお礼を言っていったが、この時ふと、皆の瞼が若干腫れぼったく見えたのだが、当初これを、いくら照明がつけられたとは言っても、軽く薄暗かったので、その成せる技かと漠然と思っていた。だが、この後しばらくしないうちに、誰かさんによって訳をバラされる事となる。

一通り裕美たちと会話を済ませると、それまでジッと空気を読んでなのか、まだ裕美たちが私のそばを離れない時に、絵里、ヒロ、そして京子さんがゆっくりと近づいて来た。京子はサングラスは外していたがつば広帽子をしたまま明るい笑みで、絵里は何だか愁いを感じさせる今まで見た事のない類いの笑み、そしてヒロも何だか不機嫌なのか、照れ臭いのか、そのどれとも取れるような表情を浮かべていた。と、ふとその後ろにお母さんと師匠の姿も見えた。数歩離れた位置にいる。師匠もサングラスはしていなかったが、帽子を目深に被っていた。

「琴音ちゃーん!」

とまず話しかけてきたのは京子だった。そしてその直後にガバッと力強く抱きついてきた。

「おめでとー!」

「わっ!」

と私は咄嗟のことで思わず声を上げてしまったが、直後に胸に去来したのは、先ほどの控え室での一コマだった。

「あ、ありがとうございます」

と京子が体を離した後に、私が苦笑まじりに返すと京子は何も言わずにウンウンと笑顔で頷くのみだった。

「ほら、二人も」

と京子は不意に一歩後ろにいた絵里とヒロの隣に立つと、絵里の背中を軽く押して前に出るように促した。

「あ、はい…」

と絵里は何だかしおらしく反応して私の前に来た。

私はそんな絵里の様子に何とも言い難い不安に襲われたが、ふと絵里の瞼も若干腫れているのに気づいた。

「え、絵里…さん?」

と私が恐る恐る声をかけた次の瞬間、絵里が何も言わずに、これまた京子と同じ様に抱きついてきた。…いや、同じではないか。

細かい話だが、京子は私よりも大きく、また控え室での一コマでも、お母さん、師匠共に私よりも背が高かったので感触は違った。若干私よりも低い絵里が抱きつくと、自然と私の鎖骨あたりに顔が行っていた。

「え、絵里さん…?」

抱きついたまま何も言わないので、さっきとはまた違う意味でオドオドしたが、数秒ほどそうした後、絵里は勢いよく顔を上げて、両手をむき出しの私の両肩にかけた。少し震えていた。

顔を見ると驚いた。満面の笑みを浮かべていたが、両目からは大粒の涙を零していたからだ。

「え、絵里さ…」

と芸もなくまた繰り返し名前を呼ぼうとしたその時、

「おめでとう!琴音ちゃん!…お、おめでとう…」

と最後の方は涙声で、しかし気丈に笑顔を保とうとしつつ言った。

「え、絵里さん…」

と私はそれに驚きつつも、同じに胸に一気に膨らむ様々な思いに締め付けられる様な感覚に襲われて、それのせいなのか、私の視界も滲んでいくのを感じた。

本当は色々と言いたいことがあったのだが、場が場なだけに自重しようという、我ながら冷静な判断が働き、ただ一言

「…うん、ありがとうね絵里さん」

と、鏡などで見てないから定かではないが、おそらく絵里と同様であろう笑みを浮かべて返した。

「うん!」

と絵里が明るく装い言葉を発すると、

「…ふふ、もーう」

とここで裕美が苦笑を浮かべつつ言った。

「絵里さんったらー…またそんなに泣いちゃってー。琴音、絵里さんたらね、アンタの演奏が終わった後も、”誰よりも”先にポロポロと涙を零してねー?」

とここで絵里に意地悪げな視線を向けつつ続けた。

「受賞の発表の時なんか、また”いの一番”にまた泣いてたのよ」

…”誰よりも”だとか、”いの一番”という言い方にすかさずツッコミを入れたくなったが、裕美がそう言い終えると、今度は絵里が泣き腫らした顔でニヤケながら返した。

「…あらー?それを言っちゃうの?どっかの誰かさんだって同じじゃなかったっけ?…そんな目を腫らして」

と絵里が自分の目元に指を当てつつ言うと、

「うっ!うーん…」

と裕美は言われた瞬間大げさにバツ悪げな反応をして見せた後、私に視線をチラチラと流しつつ、照れ臭そうに首筋を掻きつつ笑っていた。ふと側の藤花たちを見ると、裕美と同様のリアクションを取っていた。それを見て私は、ただただ微笑むだけだった。

この時は誰も言葉を吐かずに、皆して微笑む中、「あははは!」と京子一人が豪快に笑っていた。

「そ、それはさておき!」

と裕美がアタフタとぎこちなく、急に声を上げた。

「何をさておくの?」

とすっかり普段通りの調子を取り戻していた絵里が冷やかしていたが、裕美はそれに対してジト目で一瞥をくれただけで、先ほどから絵里よりもまた一歩離れた所にいたヒロに声をかけた。

「ほらヒロ君、そんな後ろにいないで前に来なよ?」

「え?お、おう…」

ヒロは何だか渋々といった調子でトボトボと前に進み出た。

途中で絵里に微笑まれつつ背中を押されていた。

「…ヒロ」

腕を伸ばせば手の届く距離まで近づいた時に声をかけたが、何故かヒロは中々私に顔を合わせようとしなかった。

私は絵里の時とはまた違った、これまた普段通りでないヒロに対して苛立ちにも似た感情を覚えていたが、ここで何故かふと、何だかヒロがそんな態度をしているのを見て、徐々に何だか恥ずかしさに似た感覚を覚えていった。

…?

これには我ながらに驚いた。ヒロとはもう小学校入学時からの付き合いなので、この中ではお母さんを除いて一番付き合いが長いのだが、今までの内でヒロと一緒にいてこんな感覚に陥るのは初めてだった。こんな所で出所の不明な訳わからない感覚に襲われるのは想定外だったので、思わず自分の胸元に手を当ててみたりした。

と、その時「うーん…」と、呻き声にも似た声が側から聞こえた。その主は言うまでもなくヒロだった。

「うーんと…よ?」

「な、何よ?」

と、まだ恥ずかしさから抜け出せていなかった私は、この場にはふさわしくないとは思ったが、それでも思わず喧嘩腰な物言いで返した。この時までさっきから周りを見てはいなかったが、見なくとも皆してこちらに向かって良くて微笑んでるか、まぁ大体はニヤケ面を向けてきているだろう事は想像できた。…何故か。

と、そんな私の返しにヒロは目をキョトンとさせていたが、次の瞬間「プッ」と一度吹き出すと、苦笑まじりに言った。

「…ったくー、何でお前はこんな時でも喧嘩腰なんだよー?」

その様子が普段のヒロそのものだったので、この時になってようやく出所不明の恥ずかしさから解放されて、自然とニヤケつつ返した。

「…何を今更言ってんのよ?これが私の”地”じゃない?」

するとヒロは大きく溜息ついて見せながら返した。

「なーんだ、ガキの頃から何も変わってねーじゃねーか。せっかく俺が褒めてあげようと思ったのによ」

「お互い様でしょ?それに…いつからあなた、誰かを褒めれる程に偉くなったの?」

「…何か言ったか?」

「聞こえなかった?もう一度言ってあげましょうか?」

と二人で無駄な時を浪費しつつ軽口を言い合って、ここでお互いに無言で顔を突き合わせると、どちらからともなく吹き出すように笑みをこぼし合うのだった。

「ねぇ裕美?ヒロは何も成長してないよね?」

とあくまで軽口の延長で、これも普段から三人でしているノリのままに裕美に振ると、私と目が合ったその瞬間、何だか一瞬真顔でこちらを見てきていた様に見えた。

がしかし次の瞬間、

「え?あ、うんうん!何も成長もしてないし、変わってもないよ…アンタら二人ともね?」

とニヤケつつ言うので、

「おいおい!このへんちくりんと一緒にしないでくれ」

「ちょっとー、こんなお猿さんと一緒にしないでよー」

と私、ヒロがほぼ同時にそう返すと、

「あははは!」

と裕美は明るく声を上げて笑うのだった。それにつられる様に、波状的に笑いが広がっていった。最終的には、一度ヒロと顔を見合わせてから、初めは苦笑から、最終的には明るくお腹の底から笑うのだった。…そう笑いつつも、やはりどこか納得いかない点を残して。

皆と会話が終わった頃、老人がそろそろ良いかと聞いてきたので、「はい」と答えて舞台に戻ろうとした時、

「あ、その前に…」

と老人は舞台袖にいた係員の女性を呼び寄せた。

そして何か耳元で声を掛けたかと思うと、女性は舞台から降りて来ようとしたので、私は登ろうとしたその足を引っ込めた。

係の女性が私の脇を通り過ぎるのを目で追ってると、老人が声をかけてきた。

「さてと!そろそろ後夜祭の始まる時間が近づいていますが、その前に…もし良かったら、この舞台を背に写真でも撮りませんか?皆さんの」

「…え?良いんですか?」

と今まで静かだったお母さんが遠くから返した。

すると老人は無邪気な笑顔で返した。

「えぇ、もちろんですよ。…これも後夜祭出場者の特典です」

と老人は言い終えると、舞台下の私にウィンクをしてきた。

「そこにいる女性が、写真を撮ってくれますので、撮って欲しい方は彼女に写真機なり、携帯なりを渡して下さい」

「どうぞ?」

と係の女性が笑顔で手を差し伸べたので、初めは逡巡して見せたお母さんだったが、「ではお願いします」と笑顔でカメラを手渡した。と、次の瞬間、裕美たちが一斉に女性に駆け寄った。そして自分の携帯を我先にと手渡すのに躍起になっていた。これには流石の係の女性も、私の位置からも分かる程に苦笑い気味だった。

結局一人残らずお母さん以外は師匠や京子まで携帯を手渡したので、女性は側の座席の上にそれらを纏めて置いた。

その間、老人に促されるままに私、お母さん、裕美たち、絵里、ヒロ、師匠、京子の順に舞台に上がった。裕美たちやヒロ、絵里は興味深げに舞台上を見渡していたが、ふと師匠の方を見ると、何やら老人に絡まれていた。いつの間にか帽子を脱いでいた。師匠は何でか照れ臭げで、それとは対照的に京子は満面の笑みで対応していた。そんな様子に気を取られていると、

「では撮りますよー?」

と係の女性が声をかけてきたので、私を囲む様に、ああでもないこうでも無いと言いながら場所どりをした。

最終的に舞台に向かって右から、律、藤花、紫、裕美、中心位置のお母さんと私、師匠、ヒロ、絵里、京子という順に立った。

そろそろ時間だといいつつ、お母さんのカメラを入れて個数分撮らなければならなかったので、何だかんだ時間が経った。撮られながらふと思い出したのは、中学一年生での研修旅行、東京湾上のパーキングエリアで、初めて今日来てくれた四人との集合写真を撮った事だった。後で皆に聞いたら、私と同じだったらしい。


撮り終えると、”本当に”これから本番だからというので、私を残して皆ゾロゾロと舞台を降りていった。その時に、私に「頑張ってね」的な言葉を掛けてくれた。

それに応じると、まず登場から始めるというので、老人含めた楽団員と共に舞台袖に引っ込んだ。

それと時を同じくして、会場に音声が流れたかと思うと、ゾロゾロと人々が入ってくるのが気配から感じた。

私は好奇心に駆られて舞台袖からそっと客席を覗き込むと、さっき写真を撮った時とは微妙に順序が違っていたが、最前列の客席に仲良く横並びに座っていた。

と、ここで不意に背中にそっと手を当てられたので振り返ると、そこには老人の笑みがあった。

「さて…楽しもうね?気楽に…でも気は緩めずに」

と声をかけてきたので「はい」と目つきは真剣に、しかし口調は朗らかに返した。そしてまた顔を舞台へと向けた。

と、ここで前触れもなく客席の照明が弱められたかと思うと、

ブーーーっ

というブザーが鳴らされた。これから後夜祭が始まる。

鳴り終えると、楽団員がゾロゾロと舞台へと出ていった。私の脇を通るたびに、無言ながらも笑みを浮かべつつ軽く握手をした。

そして最後に老人が舞台に出ると、老人は深々と客席に向かってお辞儀をした。その瞬間客席からは大きな拍手が沸き起こった。

この時初めて…と言っては失礼だと思うが、老人がクラシックファンにこれほど認知され、それと同時に人気があるのを知った。

この拍手を聞いたその瞬間、また体に緊張が溜まるのを覚えたが、すぐにその場で軽くストレッチをした。

とふとここで舞台上の老人と目が合った。私のそんな様子に対してだろうか、好奇心に満ちた笑みを向けてきていたが、しばらくして、『もう呼んでもいいかな?』と言いたげな視線を向けてきたので、私は力強く頷いた。

すると老人は、まだ拍手の残る客席に対して体を向けつつ、右手をバッと私のいる舞台袖に向けた。

私は一度「はぁー…」と深呼吸をしてから、コクっと自分に対して頷き、それから静々と、しかししっかりとした足取りで、舞台上に足を踏み出していったのだった。

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