第25話 数寄屋 C

番組のエンデイングに入り、画面下に出演者とスタッフの名前が流れ出した頃、ピッとテレビの電源を切り、座ったまま大きく伸びをして、ふと横を向いた時、思わず私はそのままの体勢のまま固まってしまった。

何故なら、寝間着姿に着替えたお母さんが、食卓に添え置かれている椅子に座り、何やら湯気を立ち上らせているカップの中身をズズッと飲んで、それを置きながら、こちらに静かな笑みを浮かべていたからだった。

「あ、お、お母…さん」

と、これでも何とか動揺を悟られないように、自然体を装って話しかけた。

…一体いつからそこにいたんだろう…。

この時は、心臓が大きく脈打つ音が鼓膜の裏側で鳴り響き、そのあまりの大きさに、それがそのまま外まで漏れ出ていて、その音がお母さんの耳にまで届いているんじゃないかと、本気で心配したほどだった。それほどまでに集中していた証拠ではあるだろうが、本気でお母さんが今いる居間に来た気配など、微塵も感じなかった。

そんな私とは対照的に、お母さんは今だにその静かな笑みを絶やさぬまま、…これは私のこの時の感情によるフィルターが掛かっていたせいかも知れないが、口調も普段よりも何だか大人しげで、それがむしろ凄みを受け手に与えていた。

「…ん?なーに?」

「あ、いや、その…」

『いつからそこにいたの?』と思わず質問しそうになったが、何だかそれを聞いてる自分が不自然に思えて、すんでの所で留めた。

「…んーん、何でもない」

と最終的に、こんな無難な返しをすると、お母さんはまたズズッと一口すすると、今度は普段通りの笑みを浮かべつつ言った。

「ふふ、珍しいわねぇー?あなたがテレビ番組を見るだなんて。それも…」

とここでお母さんは途端にニヤケて見せると続けて言った。

「何だかとても難しい内容の討論番組だったみたいじゃない?」

「う、うん…」

…やっぱり、今来たんじゃないんだ…

実際はかいてはいなかったが、気分としては冷や汗を全身にかいている心持だったが、それでも何とか、少なくとも声だけは上擦らないように注意した。

まさか…義一さんが出ている所は見てなかった…よね?

こう聞かれたらこう返そうとか、こうしている間にもアレコレと頭の中でシミュレーションをしていたが、どれも付け焼き刃に過ぎず、粗さしか見えずに、余計に思考が混乱するばかりだった。

…ただこの時は、普段は見慣れているはずのお母さんの笑顔が、何だか裏の思惑があるように見える程に、猜疑心に苛まれていく感覚だけは確かに思えた。…自分勝手だけど。

「まぁ…何だか今ね、本を読む気にはなれなかったしさ、この時間…ピアノの練習なんてのも違うでしょ?それでー…消去法をしていったら、『まぁ…たまにはテレビでも見てみるかな?』って思ってね、それでたまたま点けてみたら、さっきの番組がやっててさ?本当は他のチャンネルも覗こうと思ったんだけど、ただぼーっとしてたらずっとそのままでいちゃったの」

と、如何にも何か隠している人にありがちな、本心を隠そうとするが為に言葉を次から次へと紡ぎ出すという、今振り返っても不自然極まりない言葉を吐いてしまった。

言い終えた瞬間も、これはマズかったかと瞬時に反省したが、それを黙って聞いていたお母さんはニコッと一度笑うと「そうなの」と普段通り…に見える調子で返すと

「琴音、あなたも紅茶飲む?」

と続けて聞いてきた。

私は正直、もう色々と限界だったので、さっさと今すぐにでも自室に引き上げたかったが、繰り返すようだが、この時点で大分客観的に見ても怪しさ全開だった私が、ここでいそいそと引き上げるのは、それこそ致命的だろうと瞬時に判断し、

「う、うん。じゃあ…貰おうかな?」

と、何とか笑顔を意識して返した。

するとまたお母さんは「そう?」とニコッとまた一度笑ってからスクッと立ち上がると、

「じゃあこっちに来なさい?今淹れてあげるから」

とキッチンに向かいつつ言った。

もしあんなことが無ければ、どう見てもいつも通りのお母さんだった。

「はーい…」

と私は、気持ちの問題だと思うが重たい腰をやっとこさ持ち上げて、ヨタヨタと自分の定位置の椅子に座った。

「はい」

とお母さんが私の目の前にカップを置いてくれたので、

「うん、ありがとう…」

と私がお礼を言うと、「如何いたしまして」と明るく返したその直後に、お母さんは自分のカップを軽く持ち上げると、「ん…」とこちらに差し出してきたので、この時は頭が混乱していたというのもあってか、すぐには反応出来なかったが、その直後には何の事だか分かった私は、「ふふ」と笑みを零して、それから同じように自分のカップを持ち上げた。

そして、それからは二人して何も言わないままに、お互いのカップをカツンと軽くぶつけ合い、それからズズッと静かに啜るのだった。一口飲んでからは、これまた普段通りの雑談をし合った。何の変哲もなく。

そのお陰か、ようやく私の方でも緊張が解けてきたのだが、ふと、お母さんがテレビに視線を流しつつ、何気ない調子で言った。

「ふふ、でもさ、本当に珍しいこともあるもんねぇー。私が入ってくるのを気づかない程に、ぼーっとしてるなんて」

「う、うん、ま、まぁね…」

何が『まぁ』なのか自分にツッコミたいが、実際にそう返すと、そんな私の様子をどう受け取ったか分からないが、お母さんはクスッと一度柔らかく微笑んでから言った。

「…ふふ、いや、別に良いのよ?んー…なんて言うのかしらねぇー…まぁ普通はこんな風に、自分の娘の事は褒めないのでしょうけれど、琴音、あなたは…うん、普段から何だか神経がピリピリしているように見えるのね?私の目から見ると」

「う、うん…?」

一体何の話をされるのか、よく把握出来ないせいで、一応相槌は打っといたものの、何だか語尾が上がってしまい、疑問調になってしまった。

そんな私には構わずに、同じ笑みを浮かべたままお母さんは続けた。

「いつも普段から、我が娘ながら隙が全くないように見える…ふふ、それはそれで他の今時の子にはない美点といえば美点だから、とても誇らしい事ではあるんだけれど、やっぱり…母親としては、どこかで、んー…変な事言うようだけど、そのー…もう少し”抜けてて欲しい”って思ってたのよ」

と後半から徐々に、静かな笑みから悪戯っぽい笑みに変化させていって、言い終えた直後には目をぎゅっと瞑って見せたのを見て、私は思わず「ふふ」と笑みを零した。

それと同時に、ますます肩から力が抜けていくように感じるのだった。

「…ふふ、抜けてるって」

「あはは。確かに普通だったら、『そんなぼーっとしてないで、もっとシャンとしなさい!』って小言を言ったりするんだろうけれど、琴音、あなたはそんな小言を私にさせてくれないからねぇー…。だからさ?」

とここでお母さんは、ふと自分の二の腕をベタっとテーブルにつき、そして軽く前のめりになりつつ、顔にはまた悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。

「今日みたいに、たまにはボーッとして見せなさい?そうすれば…私があなたに小言を言えるんだから」

「…ふふ、何それー?どんな頼み事なのよ?」

と私は、先ほどのことがまるで夢の出来事だったかくらいに、遠い記憶の様に感じつつ、素直にお母さんの軽口に呆れ笑いを浮かべつつ返した。

「それが母親が娘に言うセリフー?」

「あら、悪いー?」

「…ふふ」

「あははは」

と私とお母さんは、一度無言で顔を見合わせた後、どちらからともなく笑い出し、そのまま明るく笑い合うのだった。

それからまた簡単におしゃべりをした後で、私は本当に眠気に襲われてきたので、お母さんに挨拶した後、また歯磨きなどの寝支度をすませ、自室に引き上げた。

ベッドに入り一人冷静になると、すぐに先ほどの情景が思い出されたのだが、自分で思うほどには衝撃が和らいでいた。

…今更と思われそうだが、自分ではかなりの悲観主義者だと自認していたのだが、こんなところを見ると、意外と楽観的でもある様だ。

寝落ちする直前まで、呑気に先ほど頭の中で巡らしたシミュレーションを思い起こしたりして過ごした。

それらを思い出す中で、ふと自分で笑ってしまう点が一つあった。それは…もしお母さんに『暇だったとしても、それでも普段からまず観ないあなたが、何でテレビを観ていたのか気になるわ』と言われた時に、私はこう返す予定だったのだ。『それはね、ほら、自分で言うのも馬鹿みたいだけれど、普通の女子中学生と比べて、私っていわゆる流行り物に疎いでしょ?今までも別に裕美たちはそんな私のことを面白がってくれてるから、無理する事はないと思うんだけれど、それでもやっぱり、いつも裕美たちに一方的に教えて貰ってばかりだから、たまには自分でも情報を仕入れてみようと思ったの』と。

だが…まぁ確かに情報というカテゴライズでは、今回の番組は趣旨に合ってると思うが、今冷静に思い返せば、それは余りにも不自然だと、当たり前なのだがそう気づいた。

情報は情報でも、女学生同士の会話で、まさか『昨日の討論番組観たー?今回はFTAについてだったよねぇー。マジで面白かった』などという会話は…まぁ私は出来るし、むしろしたい側の人間ではあるが、そんな私ですら、それが余りにも世間ズレしている事くらいは分かる。

何でわざわざこんなクダラナイ例え話をしているかと言うと、冷静に考えてみたら、この番組の裏で、今クラスでも流行ってる、某有名な高視聴率ドラマが放送されていたからだった。

テレビを点けて真っ先に映ったのが、そのドラマだったのだ。当然私は何とも思わずチャンネルをすぐに変えたのだが、まぁ…結論を言うと、あまりにテンパり過ぎて、こんなシミュレーションまでしていたのかと、それを思い出して、繰り返すがその馬鹿さ加減に一人笑う…というよりも、苦笑いを浮かべるのだった。



その放送のあった次の日の朝。起きて一階の居間にいくと、お父さんが既にワイシャツ姿で食卓前に座っていた。

お父さんの姿を見た瞬間、昨夜の出来事を思い出し、心臓がキュッと締められる様な感覚に陥ったが、それでも何とか挨拶をすると、新聞を眺めていたお父さんは一度それを下に置いて挨拶を返して来た。いつも通りだ。

お母さんによる朝食の支度が終わると、これまたいつも通りに、お父さんの号令のもと朝食を摂った。

何の変哲も無い、普段と変わらない平日の朝だった。

この日はお父さんは朝が早いというので、食事が終わった次の瞬間には、クリーニング直後の様な洗練としたスーツを着ると、そのまま出るというので、いつもはお母さんがわざわざ見送りに出ているのを、私も何となく付き合った。

私は毎度では無いが、これは何も珍しいことではない。なので、こういった行為からは何も察せられる心配はなかった。

…とまぁ、昨日の失敗から学習して、この日の朝はそれなりに考えて行動したのだった。

だがまぁ、お父さんを見送った時の私の心境としては、若干の肩透かしを食らった感は否めなかった…が、もちろんそれは結果オーライというやつで、別に不満なんぞあるはずも無い。ホッと一息というのが本心だった。

番組放映の次の日には、少なくとも私の身の回りには何の変化も見られなかった。せいぜい、義一や武史に、番組を見た感想などをメールなりで送った程度だった。

…と、義一相手には、この間のことは何となく伏せておいた。別にことなきを得た様子だし、私以上に私のことに対して敏感に反応する義一のことだ、無闇に心配させることもないだろうと考えてのことでもあった。


しかし…それから二日経った木曜日の朝、ここにきて急に変化が訪れた。

この日は裕美と一緒に通学する予定になっていたので、普段通りに裕美のマンション下に向かい、そこで落ち合い、それから並んで地元の駅に向かったのだが、何やら私の横で落ち着きなくソワソワしていたので、私はわざと薄眼を使いつつ、しかし口元はニヤケながら声をかけた。

「…さっきから何よ裕美?何をそんなにソワソワしてるの?もしかして…トイレ?」

「ぶっ!」

と裕美は思わず吹き出し、その勢いのあまりに前傾姿勢を取っていた。が、すぐに立ち直ると、こちらに思いっきりジト目を向けてきつつ…しかし口元はやはり緩めつつ返した。

「何を急に言い出すのよー?違う違う!えぇっとねぇ…」

とおもむろに自分のスマホを取り出すと、今度はニターッとニヤケながらそれを差し出してきつつ言った。

「…ふふ、これよ、これ!」

「これ…?」

と私は裕美のスマホを受け取り、液晶に出ているのを眺めて見ると、それはどうやら、どこかの掲示板の様だった。チラッと見えているサイト名は、ネットに”も”疎い私ですら知ってるものだった。

と、そんな感想を覚えたのも束の間、今映っている”スレ名”の所を見て驚いてしまった。

そこには、今週の月曜日に見た討論バラエティー番組名が出ていたのだが、それと一緒に、何と”望月義一”の名前まで併記されていたからだった。

「…あれ?これって…義一さん?」

と私がそう呟きつつ隣を見ると、裕美は何故か誇らしげに胸を軽く張りつつ「そう!」と明るく応えた。

「アンタの叔父さんよ。…ふふ、実はねぇー…」

と裕美は私から何も言わずにスマホを取り上げると、また何やら操作をして、そしてまた私に渡してきた。

されるがままにまたそれを眺めて見ると、そこはこれまた某有名なポータルサイトのホーム画面が出ていた。そのトップ画面には最新ニュース欄がズラッと並んでいるのだが、その上から三番目くらいの位置に…何とまた、義一の名前がチラッと出ていたのを見つけた。「これって…」

と我ながらさっきから何の代わり映えのしないリアクションばかりでツマラナイとは思うが、それほどに驚きが深いと受け取って頂きたい。

と、そんな私の様子を面白げに見ていた裕美は、「ちょっといい?」と今度は一度断ってから、しかし今度は私が手に持ったまま、そこで裕美が義一のニュース欄をタップした。するとページはそのニュース自体に飛び、デカデカと義一の記事が出てきた。

私は思わずそのまま記事を読もうとしたが、ふとここで裕美が。今度は先ほどと同じ様に私からスマホを取り上げつつ言った。

「…はい、とりあえずここまで!…ふふ、後は自分のスマホで見てみてね?」

「あ、うん…」

と、別に何か文句なり何なり返すことも無かったので、 素直にそれには従ったが、それでも疑問はぶつけずには居れなかった。

「一体これって…どういう事、なの?」

と私が一度区切りつつ聞くと、裕美はクスッと笑みを零して、それから苦笑いか呆れ笑いか判別が難しい笑顔を見せて返した。

「え?…ふふ、どういう事なのって聞かれたって、私がわかる訳ないでしょ?いくら”なんでちゃん”のアンタにも、こればかりは答えられないわ。でもね…」

とここで一度溜めると、裕美は悪戯っぽい笑みを浮かべつつ続けた。「まぁ、ただ一つ言えるのは、何やらアンタの叔父さん、義一さんがジワジワと、特にネット界隈で話題になってきてるのは確かね。まぁ…こないだの時点でその兆候が出てきていたのは知ってたけど。…というのもね、私も今のを知ったのは、えぇっと…うん、昨日だったかな?ふとね、何気なくアンタの叔父さんの名前を検索してみたの。…あ、今は”なんでちゃん”は勘弁ね?別に大した理由は無いの。検索したのはただの好奇心、思いつきなんだから。…ふふ、でね、そしたらさぁ…以前よりも見るからに多くの検索結果が出てきてね、私…驚いちゃった。でもまぁすぐに、色々と通販サイト内のレビューなり、これはアンタに教えてもらったけれど、個人ブログだとか、それらを事前に見て知ってたから、まぁー…結局はただ単純に『へぇー、こんなに広がってるんだ…』くらいの感想を持ったんだけど…」

とここで、裕美はまた私に、今度は自分で手に持って、こちらに液晶を見せてきつつ言った。

「この掲示板が結構検索結果の上部に出てきててね?それで、普段は私でもこの掲示板は滅多に覗かないんだけれど…これまた興味本位で見てみたのね?」

その画面に出ていたのは、一番最初に見せて貰った画面だった。

「そしたらさ…見て、ここのところ」

「え?…」

と、裕美が指をさした先には、何やら数字が出ていた。”38”と出ていた。

「3…8?」

とただそのまま読み上げると、裕美はクスッと一度笑って、スマホをまた元の位置に戻しながら続けた。

「そっ!”38”。…まぁこれは、要は今が更新何個目のスレッドって意味らしい…って、私もそこの所はよく知らないし、それがどんな意味をしているのかもよく分かってはいないんだけれど…でもね、何となくそのままこのスレの中のコメントを読んでみるとね、どうやらこの数は、最近の中ではトップクラスに多いらしいのよ」

「ふーん…」

と私は漸く落ち着きを取り戻すと、裕美に思いつくがままに聞いた。

「という事は、それだけ沢山の人が、そのー…義一さん関連のスレッド?だっけ?…それに、コメントを寄せたって訳ね?」

「うん、そうらしいわ。…でもさぁ」

とここで裕美は軽い身のこなしで私の前に躍り出ると、両手を後ろに回し、顔には意地悪げな笑みを目一杯に浮かべつつ言った。

「このスレを見て初めて知ったけど…何で教えてくれなかったのー?アンタの叔父さんが、そんな全国放送の、夜九時からなんていう看板番組に出ていたなんて…私は聞いてないぞー?」

「…ふふ」

とそんな裕美の様子が面白く笑みを零したが、しかしすぐにスンとわざと澄まして見せながら返した。

「別に自分の叔父さんがテレビに出るからって、それを誰か、友達だとかに話すまでも無いかと、そう思ったのよ」

「…何だかなぁ」

と裕美は、いかにも納得いかない様子でまた私の隣に戻りつつ言った。

「普通だったら、自分の身内がテレビに出る…しかも、チラッとじゃなくて半メインとして出るだなんて、すぐさま言いふらしそうなものだけど…アンタは本当に、達観してるというか何というか…」

「ふふ」

とそんな裕美の感想に対して、ただ微笑んで返した。

そんな私の態度に、いつまでも付き合っても面白味がないと判断したか、裕美はやれやれとでも言いたげな様子で、しかしまた明るい笑顔を浮かべながら言った。

「まぁ、それでさ、何となくその大量のコメを眺めていたら…ふふ、勿論中には、この手のものにはありがちな、何も考えないままに取り敢えず反対しとけって感じのもあったけど…大概はとても好意的、いや、礼賛するようなものばっかだったよ」

「へぇー…」

と私はここにきて、漸く自分のスマホを取り出し、早速その掲示板を見てみようと操作し始めていたが、それを眺めていた裕美は、クスっと一度笑うと、顔は見ていないが如何にもニヤケてる風の口調で言った。

「…ふふ、まぁ良かったじゃない?…アンタの大好きな叔父さんが、これだけ支持されてて」

「…ぶっ」

と私は思わず液晶に自分の唾を大量に吐きかけそうになるのを、何とか躱した。が、その思わぬ言葉に動揺を隠せないまま、

「な、何をまた急に言い出すのよ!?」

と、我ながらアタフタとみっともなく返すと「あははは」と裕美は愉快げに明るく笑いながら言った。

「アンタさぁ、もう何度もこの手の話はしてるんだから、いい加減に慣れてくんない?」

「そ、そう言われたって…ねぇ」

と、確かに自分でも過剰反応だとは、こう裕美に言われる度に思う所だったので、これ以上は強く返せなかった。

裕美も私のこんな失態を見て満足したのか、笑みを今だに浮かべたまま口を開いた。

「あはは、まぁ、さ、そのスレも良いし、私もその後でさっき見せたポータルサイトにも飛んでみたら、そこでもこんな風に話題のニュースとしてトップページに出ていたし、掲示板とおんなじようにコメントも並んでるから、それを見てみるのも面白いかもよ?」

「あはは…」

と疲れた風…いや、実際に疲れてはいたのだが、それ風に乾いた笑いをして見せたが、それからはすぐに元の顔に戻して

「まぁ…教えてくれてありがとね」

とお礼を言った。

すると裕美はニコッと目を瞑るようにして笑うと

「どういたしまして!」

と明るく応じた。

と、ここで駅前に着いたので、改札のある階まで朝ラッシュで混みあう外階段を上りつつ、さっき見せて貰った他のサイトも探していると、ボソッと裕美が言った。

「まぁ、アンタのことだから、まず自分で叔父さんの名前すら検索かけないだろうしねー」



それからは、特にこの件についてアレコレと思い巡らせる事は無かった…というよりも、その暇がなかった。なんせ、実はこの週は、三学期の期末試験、その一週間前だったからだ。

敢えてまた言わせて貰えれば、こう見えても私もイチ女子中学生なので、こうしてキチンと学生の本分を果たしている事も軽く触れておくとする。

この時期も当然のように、紫を中心にして勉強会を何度も開催した。…こう言うと語弊がありそうだが、この時期になると普段以上に、私たちの中に紫がいてくれて、本当に良かったと思うのだった。試験は二月と三月に跨ぐ形で四日間行われて、その後は例の如く、終業式まで試験休みに入った。

それと同時に、何気にかなり久し振りだが、お父さん達の土日にかけての一泊二日、学会旅行と都合が合い、義一と共に数寄屋に行く事となった。


「んー…」

と義一は、私が手渡したスマホの画面に目を落としつつ、薄暗がりの中だというのに、その苦笑いが隣に座る私の位置からでも伺えた。

一々説明は不要だろう。そう、今私たちは、聡の運転する車の後部座席に座っている。ちょうど今は夕暮れ時の繁華街を走っている時で、地元と数寄屋の中間地点といった所だった。

「ふふ、ね?色々と書かれているでしょ?」

と、慣れない手つきでスマホを操作する義一に、微笑みながら声を掛けると「んー…」とまた義一は唸るのだった。

因みに、あれから私は裕美に教えてもらった掲示板なりを、この日まで気が向いた時限定、このスレ限定だが、何度か覗いてみていた。そこには、確かに裕美が言っていた様に、根拠のない誹謗もあったが、大概は好意的なものだった。

ついでだし、今義一が見ている箇所を含んだ例をいくつか挙げてみよう。


『この番組見てたけど、なんか胸がスカッとしたよな?内閣のブレーンだろうと大学教授だろうと、肩書きなんか関係無くコテンパンに論破しちゃうんだから』

『←だよな!…って、この望月って人自体の肩書きが不明なんだがなw』

『←そうそう、この番組内でも肩書きが紹介されてなかったから、結局正体が分からずじまいっていうねw』

『でもま、コイツが何者かは今だに分からないけどよ?言ってることは一々腑に落ちるよなー』

『←言えてる。ただ…なんか一々言い回しが難しくて…そういう意味ではすぐには飲み込めないんだけれど…w 私の頭じゃ一度聞いただけでは理解出来ないw…詳しくは本を買って読めってことか』

『←つまり…これは新手の高度なステマな可能性が微レ存…?w』

『←さて…買うかw』

『てかさ?皆気づいた?ほら…一緒に反対派として出ていた中山って人…あの人もズバズバとモッチーに負けない程に論破していってて、あの人もあの人で凄いと思ったけれど…中山は手元に大量に資料を持ってきてたのに、モッチーは何も無かったのをさ?』

『←あ、やっぱそうだよな?俺もそれ気づいた』

『←あぁ、俺も俺も。いや、中山って人はそれはそれで良かったけれどさ、あのモッチーは…何も資料を見ていなかったのに、あの賛成派どもの妄論にすぐに論破してたよな?すげぇ…』

『しかも毎回何ともいえない笑顔でなw』

『←な?でもさ、モッチーは経済学者ではないんだよな…?なのに、なんでああして直ぐに次から次へと正確に引き出せるんだろうなぁ』

『←ほんと、ほんと、頭の中身どうなってるんだモッチー…』

『←ここまで誰もツッコむ者ナシ…。なんでモッチーって呼び名が自然に定着してるんだよw』


…とまぁ、結構イラナイものまで引っ張って来てしまったかも知れないが、おおよそこんなコメントだった。

こう言ってはなんだが、私が言う資格は本来無いことを自覚しているのを前提に、保険に言わせて貰うと、まぁこの手の掲示板、そんな”マジ”な会話なんぞ見込めないのは分かっているし、好意的と言ってもこの程度ではあったのだが、こんな程度の質でも、それでも義一の論、そして勿論共演した武史の論に対する好意は、嬉しさのあまりか私も我が身の様にそれらを読むたびに、思わずほおが綻んでしまうのだった。


「…はい」

と義一はあらかた見終えたのか、私に返してから言った。

「やれやれ…。僕もすっかり晒し者だなぁ」

とこれ以上ないって程にため息を織り交ぜて吐くので、「ふふ」と私はまた自然と笑みを零すのだった。

「まぁいいじゃねぇか?」

とここで前方の運転席にいる聡が、バックミラー越しに私たち二人を見てきながら言った。

「お前が晒し者になればよ、それだけ雑誌を手に取って貰えるチャンスが増えるんだからよ?」

「お、聡おじさん、良いこと言うねぇー…たまには」

「あはは、”たまには”は余計だ」

「…ふふ、二人してー…。まるで他人事なんだからなぁ」

と義一がボヤいた直後、私と聡は示し合わせてたわけでも無いのに、ほぼ同時に明るく笑い声を上げるのだった。

…この時は、これ以上義一を”イジメては”可哀想だと思ったので、敢えて触れなかったが、実は、確かに先ほど例に出した様に、その討論の中身、そしてその延長で、例の年末討論番組での出演についてまでも話が広がって、それはそれなりに意見が沢山交わされていたのは事実なのだが…実は、それは全体のうちで約半分ほどに納まっていた。

では、もう半分はどんなコメントで占められていたのかと言うと…大げさに言えばこれが玉石混交のネット言論空間とでも言うのか、そのもう半数の中身の殆どが…義一のルックスについてだった。

さっき拾い上げたコメの中にもいたが、あの人を食ったような笑顔だとか、時折見せる真剣な目つき…後、義一特有の、テーブルに両肘をついて口元で両手を組ませるといった考えるポーズなど、そんなのが話題に上がっていた。

スクリーンショットなのか、スマホで撮ったのか何なのか、私には詳しい事など分からないが、今回の番組のと年末番組での場面場面が画像として、そこかしこにアップされていた。わざわざ引っ張ってくるまでも無いと思うので、これに関しては遠慮しておくが、まぁー…これを仮に義一が見たら、先ほどとは比べ物にならない程に苦笑い…いや、もうそれを通り越して、渇いた笑いしか出てこないだろう事は容易に想像できた。

これらのコメントを見た瞬間、流石の私も一人苦笑いを浮かべざるを得なかった。


…さて、それからは番組の話の流れでふと、私たち三人の共通の知人友達である絵里の話になった。

いつだったか…間に期末テストを挟んだので定かには覚えていないが、放送のあったその二、三日後かに、私から絵里に連絡を取っていた。案の定というか、ちょうど絵里も私に隙を見て連絡を取ろうとしていたらしい。

最初に雑談を軽くした後で、それから本題である番組についての感想を言い合った。

私はただただ面白かったと述べたのだが、絵里はどうも違ったらしい。

これも絵里の言い回し方が面白かったので触れたい所なのだが、この短い時間では到底無理なので、仕方なく端折って言うと、

『なんだか初めに番組に出る的なことを言われた時は、何か犯罪にでも手を染めたんじゃ無いかって、六割くらい心配したんだけれど、実際見てみたら、そんな心配以上に、番組が終わるまで終始ハラハラしっぱなしだったよ。まぁギーさんがあぁいった場だからといって、態度を良くも悪くも変える様なタマじゃないのは分かってた。…うん、分かってはいたんだけれど、あんな普段と同じ調子、まるで私とかに対して取るような態度を、同席していたお偉いさん方相手にも、あんな小馬鹿にする様に一々吹き出し笑いしながら喋るもんだから…もうね、面白かったとか何とか、そんな感想以前の問題だったよ』という”感想”だった。

それをふと思い出して、今までの会話の流れで私から振ったのだ。

そして、まず私が今話したような事を別の言い方をしながら喋ると、聡が豪快に笑って見せる中で、義一は一人また照れ臭そうに頭を掻きつつ言った。

「そうそう、僕のところにも絵里から放送の翌日に連絡が来てね?んー…ふふ、琴音ちゃん、今君が話してくれたような事を、それをもう少し説教臭く、なんて言うかなぁ…ふふ、まるで子供を呆れつつ叱る母親のように感想を言ってくれたよ」

その様子がありありと簡単に想像出来たので、また私はクスッと自然に笑みを零すのだった。


それから車はいつもの駐車場に着くと、私にとっての”前回”だが、それと同様に聡は直ぐに戻らなくてはいけないと言うので、軽く挨拶をお互いに交わすと、聡はさっさと駐車場を後にした。

それから私と義一は、いつものといった調子で、そのまま数寄屋の方へと足を運んだ。

中に入ると、早速マスターとママに暖かく迎えられた。前回から日にちを少しばかり跨いでいたというのもあって、ママから冗談交じりに非難されたので、私も笑顔で謝るのだった。

そのような会話を少ししてから、店の奥の暗い赤カーテンのむこうに閉ざされてある部屋へと、義一、私の順に足を踏み入れるのだった。

中に入るなり、「お、来たなぁ」と明るく声を掛けられた。この瞬間に、義一に軽口を投げかけたのが、その声から直ぐに武史だと分かった。

「遅いぞ編集長?」などと続けて言われた義一は

「ごめんごめん」と平謝りしつつ室内へとどんどん入って行った。

私もすかさずその後を追ったのだが「あははは」と、これまた愉快げに笑う、今までに聞いた事のないタイプの声が耳に入ってきた。どうやら、今日は初対面の人がいるらしい。

それを確認するためにも、スッとそのまま自分の定位置に座る義一を他所に、私は一度立ち止まって見渡してみる事にした。

私と義一以外に、すでにこの室内には四人が座っていた。

皮肉っぽく聞こえるかもしれないが、引退すると言っていた神谷さん、武史、顧問になった浜岡さん、後は…もう一人いるのだが、この方がまだ一度も会った事が無かった人だった。男性だ。

しかし、妙な言い方だが、初対面という感じは受けなかった。それもそのはず、何度も雑誌の紙面なり、また、例のネット番組内での討論にもしょっちゅうお出になっていたからだった。ある意味、義一とかと同じで、雑誌オーソドックスにはお馴染みの一人であった。何度もと言ったが、毎号欠かさずに寄稿しているのだから、見覚えがあって当然だった。確かマサや勲、寛治などと同じくらいの年齢で、六〇代半ばだと思った。頭髪は側面に若干残すのみだったが、黒々としており、また、顔の肌がツヤツヤと、この薄暗い室内だというのにそれが分かる程だったので、実年齢よりも見た目は若かった。

後は、なんて表現すれば良いのか…メガネを掛けていたのだが、それが何とも、今時年寄りですら滅多に見かけない、しないような”ザ・昭和のお父さん”って感じのメガネを掛けていた。ベージュ色のジャケットを羽織っていたのだが、肩の部分が見るからに余って見えた。どうやらサイズが少しばかり大きめらしい。

と、そんな風に眺めていたのだが、やはり…義一にあのような話を聞いたからか、スッと視線を横に流し神谷さんの格好も見た。いくら冬真っ盛りとはいえ、暖房の効いた室内だと言うのに、ぱっと見だとギブスに見間違えるかの様な分厚いネックウォーマーをしていた。以前会ったのが一月とちょっと前くらいのはずだったが、それよりもまた一回り小さく見えた。

私も義一と同じように、神谷さんなり武史に声を掛けられたので、私からも笑顔で返して、そして「ようやくここで会えたね」と浜岡に笑顔で言われたので「ふふ、そうですね」と私も同じように返していると、その間ずっとではあったのだが、ふとある位置からずっと、好奇に満ち満ちた視線を受けているのに気づいていた。

まぁおおよそ予想はついていたのだが、一通り挨拶を終えてからその方向を見ると、やはりというか、そこにはその御仁がいた。

先ほどから挨拶を交わす中で、ずっと立ちっぱなしでいたので、このまま座ってもいいだろうと思いはしたのだが、ふと、この場でのある種の”慣習”があるのを思い出し、どうせ後でするのなら早いほうがいいだろうと思い、早速私からその男性にこちらから話しかけた。

「…あ、どうも初めまして。私は望月琴音っていいます。そこにいる義一さんの姪っ子に当たります。そのー…今日はよろしくお願いします」

と最後にペコっと一度お辞儀して、上体を戻してから気持ち軽く微笑みを付け加えた。

すると男性…あと、義一たちも含めた全員が私を一様に見てきたが、「あははは」と途端に、体を大きく揺すりながらという、これまた特徴的な笑い方をして見せてから、私に向かって座ったまま手を前に差し出しながら言った。

「ああ、君がよく話題に上がる琴音ちゃんだね?ささ、そんな所にいつまでも立ってなんかいないで、どうぞ座って座って?」

「あ、はい」

と私は促されるままに、義一のすぐ隣、男性の正面に座った。私と男性以外は、先ほどから私に対して微笑みをくれていた。

「さてと…あ、先生?」

と、私が座ったのを見届けると、男性は笑顔が引かない表情を神谷さんに向けて言った。

「今さっそく琴音ちゃんが自己紹介をしてくれたんで、僕からもしても良いですかね?」

「ふふ、それは私に聞く前にさ…?」

と聞かれた神谷さんは、視線だけを義一に向けて、ニヤケつつ言った。

「それは編集長である義一くんに聞いておくれよ。僕は引退した身なんだから」

「あははは。そうですね。…どう?義一くん?」

「ふふ」

と義一は一度笑みを零し、それからおもむろに羽織っていたジャケットのポケットから懐中時計を取り出し、その文字盤に目を落としてから答えた。

「んー…ふふ、はい、時間はたっぷりと余裕がありますから大丈夫です」

「あ、そうかい?では改めて…んんっ!」

と男性は口を閉じたまま咳払いをすると、これまた人懐っこい笑顔を浮かべつつ口を開いた。

「初めまして琴音ちゃん。僕の名前は島谷秀明といいます。まぁ肩書きは…ジャーナリストという事になるけれど、どこにも所属はしていないから、その中でもフリージャーナリストって枠内で活動しています。よろしくね?」

「あ、はい…よろしくお願いします」

と私がまた言葉を返すと、不意にここで神谷さんが明るく笑いながら口を開いた。

「琴音ちゃん、彼はね?確かに自分で言った通り、ジャーナリズムの世界に身を置いてるんだけれども、でもね、ただのそんじょそこらの情報屋って言うのとは違って、ありとあらゆる物事に対して造詣が深くてね、彼が主に今まで取り扱ってきたのは経済問題が中心なんだけれど、思想哲学にも詳しかったりするから、今時の経済学者どもなんぞは、彼の前に出たら裸足で逃げ出すほどなんだよ」

「あははは!」

と、島谷はまた体を大きく揺すり笑いながらも、照れ臭そうに口を挟んだ。

「ありがとうございます。先生にそこまで言って貰えてなんて光栄ですよ、あははは」

あまりに底抜けに笑うので、私も思わず釣られて口元を緩めつつも声をかけた。

「…ふふ、私も島谷さんのは、そのー…オーソドックスで毎号読ませて頂いています。私は経済のことなんて何一つとしてわかりませんけれど、でも…とても分かりやすく諸問題を解説されているので、すんなりと門外漢の私ですら楽しんでいます」

「え?あ、いやぁ…」

と島谷は、神谷さんに言われたのと同じか、もしかしたらそれ以上に照れて見せつつ、また豪快に笑いながら返した。

「あははは!いやぁ、ありがとうね琴音ちゃん。…クク、いやぁ…先生や義一くん、それに武史くんや浜岡さんが言ってたように、本当に面白いお嬢さんだねぇー」

「でしょう?」

と、島谷の言葉に各人各様ではあったが、この様な返しを一斉に知るのを見て、今度は私が照れる番だったが、ここでガチャっと部屋の扉が開けられたかと思うと、ママがチラッと顔だけ覗かせて、そして笑顔で口を開いた。

「そろそろお飲み物をお運びしても良いですかね?」


ママはトレイに乗せてきたお酒類を、毎度ながら手際良くそれぞれの前に置いていった。神谷さんは升とその中に入れられた小グラス、その両方を満たす様に入れられた日本酒、浜岡は赤ワイン、その他の三人は揃って生ビールという、浜岡と島谷は初めて見るが皆して毎回同じモノだった。かくいう私も、いつも通りのアイスティーだ。

「ではごゆっくりー」

と言いながらトレイを押して出て行くママを見届けると、早速、今日は義一の号令のもとで乾杯をした。

それぞれがそれぞれ全員とグラスなりジョッキを当て終わると、おもむろに義一が、ポケットから小さな電化製品を取り出し、それをテーブルの真ん中辺りに置いた。見るとそれはボイスレコーダーだった。

…さて、話し始めてから大分時間が経ったが、ここで何故今日この集まりが起こったのか、それの説明をさせていただくとしよう。

『別に自分でも言ったように、毎週土曜日には、時間に都合がつくのが前提で、それなりに理由もなく集まったりもするらしいから、わざわざ説明なんかいるのか?』と突っ込まれそうだが、今回に関しては違う。…今回の場合は、私にとっては初めてのことなのだ。

というのも、今日の集まりというのは…そう、雑誌の中のメインコーナーである、その時世間を賑わしていたり、もっと根本的な事などを議題にして論じ合う、座談会の収録のためであった。

これは事前に知らされていたので、流石の私もそんな場にノコノコと顔を出して良いのか、邪魔になりはしないかと思ったり、それなりに心配したりしたのだが、次号、つまり今回の座談会が収録される号からの編集長である義一が、呑気な調子で許可するものだから、こうしてヌケヌケと出てきたという次第だった。

義一は「どんどん発言しておくれね?勿論、琴音ちゃんの名前は伏せとくから」などと追い討ちを掛けられたが、自分的にはなるべく静観していようと心に誓っていた…この時点までは。


義一がレコーダーを出すのを見るや、浜岡さんがおもむろに、足下からビジネスバッグを取り出し、腿の上で開けると、中から数枚の書類を出した。そして、それを何も言わないままに隣に渡していったが、受け取った者は自分の分を受け取ると、残りをまた隣に回していった。

最後に、一番端に座っていた私にまで回ってきた所で、全てが丁度行き渡ったようだ。どうやら、はなから私にまで渡す予定だったらしい。

その事実に何とも言えない感情を覚えたが、それは取り敢えず無視して、渡された紙に目を落とした。

紙自体は二枚ほどで、1枚目には大雑把に言って、『座談会』というのと、今日の議題が書かれていた。それは…『”過剰な”FTAは亡国への道』だった。まさに今旬といった感じだ。

私が目を落としている間も、義一と神谷さんを除いて、武史と島谷も、先ほどの浜岡と同様に、自分の鞄を取り出すと、中から色々な資料と思しき紙の束をテーブルの上に広げていっていた。

さて、皆の準備が整ったと見た浜岡が、おもむろに口火を切ろうとしたので、義一はすかさずレコーダーのスイッチを入れた。

それを見た浜岡は、義一に一度コクっと頷くと、静かに口を開いた。

「…さて、今回もこうして座談会が始まるわけですが、ご案内の通り、今号からは私ではなく、長年メイン執筆者として頑張って来られた望月義一さんが編集長に就任されるというのを、まぁ…記念というか、その第一号になる訳ですけれど」

「はい、皆さん、よろしくお願いします」

と義一は仰々しく、しかし穏やかな笑みを浮かべながら、座ったままで一礼した。

それに対して皆して一斉に軽く拍手をしているのを見て、私も同じように拍手を送った。

義一は私に顔を向けると苦笑いを浮かべて、それからその表情のまま口を開いた。

「まぁ僕の話はこの辺にしておいてですね、早速今回のお題に沿って議論を展開していきたいと思います…」

「あ、義一くん、その前に良いかな?」

と、ここでふと島谷が何やらカバンの中を探りつつ口を挟んだ。

そして中から取り出したのは、二冊の新書だった。

…そう、もうお気づきだろう。

「それについて議論をする前に、まずこの二冊について触れなくてはね」

島谷は、飲み物の置かれていない場所を見つけて、そこに二冊を表紙を表にして置いた。義一の本と武史の本だった。

おそらく…というか、間違いなく私物だろう、パッと見で分かる程に数え切れない程の付箋が二冊ともに貼られていた。

それを見て、自室にある私のドッグイヤーだらけな”義一本”を思い出したのは言うまでもない。

「そうですねぇ」

と浜岡は島谷の取り出した本に目を落としてから、義一と武史に若干の意地悪さを滲ませつつ声を掛けた。

「…あ、そうだ、手始めにというか、例の全国ネットの番組に出た時の話でも、イントロダクションとして聞きましょうか」

「えぇー、アレをですか?」

とすかさず武史が苦笑交じりに返した。義一も同様だった。

「あははは」とまた島谷が体を大きく揺すりながら笑う中、「そうだね」と神谷さんも、ここにきて一番の笑みを浮かべて口を開いた。「せっかくだから二人とも頼むよ。読者の皆も気になってるところだろうし、それに…全く触れないというのも変だからね」

「まぁ…先生がそうおっしゃるなら…なぁ?」

「うん」

武史と義一がそう顔を見わせて言うと、ここは編集長として先に言わなければと思ったかどうかは知らないが、振られる前に自分から話を始めた。

「そうですねぇ…って、別に此れといって話す内容も無いんですけれど…まぁ、私自身も実際の放送を見たんですが…感想としては、『あ、意外と思ったよりもカットされてなかったな』ってものでした」

「そうだなぁ」

と武史は口では同意を示したが、しかし顔には苦虫を噛み潰したような渋い表情を浮かべていた。

「でもまぁ、番組の後半はずっと賛成派の人らの意見ばっかが取り上げられて、私らはずっと苦笑いをしているのみの映像だけだったからな」

「あはは、そうだったね」

…ふふ、やっぱりこの場では一人称が”私”なんだな。

などというどうでも良い感想を覚えつつ、私は黙って会話を聞いていた。因みにというか、今義一が言ったような感想は、予め義一自身から聞いていたので、ここで口を挟む必要はなかった。

「まぁそんなもんですよねぇ」

と浜岡も相槌を打つと、ここで義一がふと苦笑交じりに言った。

「まぁなんでしょうねぇー…先ほど『思ったよりも』と言いましたが、何故そう思ったのかを説明しますと、んー…収録前にスタッフの皆さんと打ち合わせをしたんですが、あ、意外と若い人でやってるんだというのに驚きました。僕は今三十代半ばですが、スタッフさん達もそれくらいって感じでした。あ、いや、それでですね、その打ち合わせの時に色々と話していく中で、純粋に驚いてしまったのが…番組を作っている彼ら自身が、全くこのFTAについての知識を身に付けていない、全く理解していなかったという点でした」

「そうそう」

とここで武史が加勢した。

「まぁよく知らないし、彼らを弁護する訳でも無いけれど、彼らはまぁ彼らなりに時間の制約の中で頑張って番組を作ってはいるんだろう…けれども、やはりバラエティーとはいえ評論番組、それなりの政治色強めの番組なのに、自分たちの報道なりなんなりしている物事について、何も知らないで制作しているのを、まぁ何となく予測はしていたものの、実際に目の当たりにすると…愕然したのと同時に、空恐ろしく思いましたね。『なんて状況にあるんだ…この国の世論は』と」

「うんうん」

と、義一、武史の今の話も事前に聞いていたので我慢しようと思えば出来たはずだったが、結局こうして思わず力強く頷きつつ声を漏らしてしまった。

あ…っと、その直後に慌てて口を両手で塞いだのだが、時すでに遅し、周りを見渡すと、義一含む一同がこちらに微笑みを向けてきていた。

若干の座りの悪さを感じて軽く俯くと、「ふふ」と一同が笑みを零して、今度は静かだった神谷さんが口を開いた。

「まぁそうだねぇー…。私の時ですらというか、私の場合は二十年くらい前の話になるけれど、テレビ局のスタッフは何も知らなかった、少なくとも私の言ってることが理解できていなかった様に見えたねぇ」

「でも先生?」

とここでまた満面の笑みを浮かべている島谷が、義一と武史をチラチラと見つつ神谷さんに話しかけた。

「テレビ局などのマスコミ内部周辺はそうなんでしょうが、あの放送以降、二人への反響は大きいんですよ。例のネット通販大手の内部のランキングを見ると、まぁ以前からそうだと言えばそうなんですが、それ以降もまた順位が上がっていってですね、義一くんの本、そして武史くんの本が、何と”ビジネス・経済”という枠内でのランキングで、トップテン入りを果たしているんですから」

「ふふ、私も君からそんな話を聞いてはいたけれど」

とここで神谷さんも義一と武史に視線を流し、そして好々爺よろしく明るい笑顔を浮かべて言った。

「そうらしいね。ただ…ふふ、私はこの手のことにはほとほと疎くて、それが何を意味するのかまでは分析出来ないんだけれども」

「あはは」

「まぁそれなりに…」

と、義一がまた苦笑いを浮かべつつ言った。

「全国ネットの場にのこのこと出ていった甲斐は、あったのかも知れませんね。…あ、いや、そういえば、その話の繋がりで、ある事を思い出しましたよ。それはですねぇ…僕は島谷さんからではなく、まず一番初めはある女性に教えられて、その後で自分でも見てみたのですが…」

途中から義一は、私に微笑みかけてきながら話していた。

「あれはえぇっと…レビューって言うんですかね?まぁ色々な本についての感想が書かれていまして、それこそ十人十色、評価もバラバラではありましたが、その中でふと、ある一つの文章に目が止まったんです。見て読んだ瞬間、ついつい嬉しくて一人微笑んでしまったんですが…それはこんなのでした。『要はこの作者は、ごく当たり前の事を話しているのに過ぎないんだ』と」

「あぁー」

と、どこか思うところがあるのか、瞬時に武史が反応を示した。

それをチラッと見て、柔らかな笑みを浮かべつつ義一は続けた。

「その感想も良かったんですけれど、何よりも嬉しかったのは、その感想を書いてくれて、尚且つ星を…あ、評価するんで五段階の基準があるんですが、それでその人は一番評価の高い五つ星をくれたんです。これは嬉しかった」

「あぁ…」

と、これも義一から予め聞いていたので、その時の宝箱内での情景を思い出していたのだが、その時と寸分違わない調子で、義一は笑顔のまま話していた。

「僕らは…って、武史はまぁ学者だけれど、僕は何者でも無いわけですが、それでもこうして小難しい本を出した以上、心掛けなければいけないと、まぁー…これは特に神谷先生が普段から、昔から言い続けられていた事ですけれど、いわゆる”常識”、それもフラフラと風向き次第でどこにでも流れていってしまう様な流行などではなく、昔からずっと変わらずに残ってきたその国民の感覚、感性、それらを常識と言うならば、その常識に準じて生きている人々から『それって常識と違うな。普通じゃ無いな』と言われる様な、疑問にもたれる様な言説は、出さない様にしなければならない…もししてしまって、それを指摘されたなら恥ずかしいと思わなければならない、というか実際に恥ずかしい…とまぁ、そんな考えでいたので、その様なレビューをくれたのがとても嬉しかったんです」

「そうだよなぁ」

とここで武史がしみじみといった調子で口を開いた。

「ここ最近…って、もうそれこそ二十年以上も改革騒ぎをし続けてきて、それがまた現在進行形な訳だけれど、改革するその根拠というのが、その常識が欠落した学者…”曲学阿世の徒”どもが、何やら頭の中での夢想から生み出した、理論とも言えない理論によって断行されてきた訳だけれども…本当に世間に常識というものがまだ残っているならば、ここまでのクダラナイ騒ぎは続かなかったはずだけれども、んー…今時の世間というのは、”某有名何々大学の何々学部教授”だとか、そんな肩書きをチラつかせられると、一瞬その理論を聞いた時には違和感を覚えつつも、『そんな先生が言うんだったらそうなのかなぁー?』だなんて思っちゃうんだよねぇ…困ったもんで」

「あはは、本当に困ったもんだよねぇ」

とここで島谷が、まるで困ってなさそうな様子で明るく笑いながら言った。

「でもー…あはは、武史くん、まぁ義一くんもだけれど、君たち二人はあの番組内で、日本最高学府の”自称”経済学者の人相手に、ズバズバと反論を言ってのけて、それを見た…特に二、三十代らしいけれど、そんな若者たちを中心に喝采を起こしたっていうんだから、日本もまだまだ捨てたものでは無い”かも”知れないですねぇ」

わざとだろう、島谷が点々で囲った部分を強調して言うのを聞いて、武史と義一は視線を合わせて苦笑いを浮かべた。

その後で、武史がまた渋い表情を浮かべて口を開いた。

「いやぁー、でもあの教授…本当に酷かったですよ。当然の様にカットされてましたが、放映されてない部分で、義一と一緒に何度もあの”おっさん”相手に攻めまくったんですが…」

「…ふふ、武史くん」

とここで不意に神谷さんが口を挟んだ。

口には出さなかったが、おそらく”おっさん”呼びをした事についての注意だろう。学校の先生よろしく、チョークを投げる動作をして見せていたが、顔には満面の笑みを浮かべていた。

それを受けて「あ、すみません」と、頭を深く下げた武史の顔にも笑顔が浮かんでいた。

それらの一連の流れを見た、私を含んだ他の一同は一斉に明るい笑い声を上げるのだった。

「まぁー…それでですね、本当にほとほと嫌になった…というか、これが発端だったんですけれど、これは”何故か”放映されていたので読者の方々も分かると思うんですが…というのもですね?あのおっさ…あ、いや、”大先生”がですね、何かにつけて国際法だなんだとのたまうので、それでついついからかい気味に反論してしまったんですよ」

「うんうん」

と私は、義一が”常識”の話をし出した辺りから、配られた紙の余白をメモがわりに色々と思うところを書き込んでいた。

いや、余白部分と言いはしたが、実際はメモ用の余白が設けられていて、そこに書き入れていっていただけだった。

これは毎回の様で、私以外の他の一同も、その部分に色々とメモを取っていた。

「あの時も確か、あの先生に対して『ただの無知な馬鹿なのか、それともなきゃ知ってて言ってる確信犯なのか?』的な話をしたと思うんですが…」

「あはは」

「あの時は時間の関係上話せなかったんですが、具体的に話したかったのはこういう事だったんです。そもそもあの先生…いや、あの場に出ていた賛成派の人全員が、何やらアメリカが今まで国際法を守ってきた体で話していたのですが、少しでも記憶力があれば、ほんの十年と少し前に何があったか、思い出せるはずです」

「あぁ、イラク戦争の事ね…って、あ」

と私はメモに気をとられるが余りに気が緩み、ついに具体的に声を漏らしてしまった。

この時は丁度手が塞がっていたので、ただただ気まずげな表情を浮かべて周囲を見渡していたのだが、誰一人として無表情の者はいなく、むしろ先ほどよりも笑みを強めていた。

武史もその一人だったが、そのまま話を続けた。

「そうそう、そのイラク戦争。あれは確か…あの時の国連の事務総長をしていたアナンが、アメリカのイラク侵攻について『これは間違いなく、アメリカのイラクに対する侵略だ』と堂々と非難をしたんだが、それでもアメリカはケロっと何処吹く風といった感じで、その後も何年にも渡って侵略を続けたんだ」

「侵略…」

と私は呟きつつそうメモを取ったが、ふとここで疑問が一つ湧いたので、確認の意味も込めて口を開いた。

今日に限っては遠慮しようと思いはしたのだが、結局もうすっかりいつもの調子に戻ってしまった。

「侵略って…何をもって侵略としたの?そのー…アナンって人は」

「あぁ、それはね、一応国際法には厳密な定義は書かれていないんだけれど…」

「あ、番組内でも言ってたことだね?」

「そう。そもそも国際法というのは厳密には定義…というか、記すこと自体がまず無理なんだ。というのもね、世の中の情勢というのは今こうしている間にも、刻一刻と移り変わっていってるだろう?それに対応する様な明確な文章なんぞは、到底作れない」

「…うん、それはそうだね」

「そう。だから法律文章としては”これが正しい””こうしなさい”みたいな、いわゆるポジティブリスト的な文章なんぞは書けっこない。どうしても”あれはしてはいけない””これはしてはいけない”という、ネガティブリストにならざるを得ないんだ」

「横から入る様で悪いけど…」

と、ここまで私と同じ様にメモを取り続けていた義一が、ふと口を開いた。

「今武史が言った通りだよ。琴音ちゃん、昔から法律というのは、わざわざモンテスキューを取り上げるまでもなく、というかそれ以前から、法律というのは”禁止の体系”だっていうのは分かられてきたことなんだ」

「禁止の体系か…なるほどね」

恐らく雑誌向きだったのだろう、少なくとも義一個人は”ですます口調”で話していたのに、私のせいなのか、すっかりいつもの調子で話していた。

「ふふ、そうなんだよ…って、これ以上深入りすると、議題からどんどん逸れていっちゃうから、ここで本論に戻しましょう」

「あ、ごめんなさい”編集長”」

と武史はニヤケつつそう義一に声を掛けると、また私に向き直り話を続けた。

「えぇっと…あ、そうそう、それで言いたかったのはね、そもそもアメリカという国は、さっき取り上げた事も含めて、おおっぴらに堂々と国際法違反をし続けてきたわけだよ。それをだね…『国際法ではこう決まってるから大丈夫』だなんて、そんな無意味な言葉で飾られても、その偽善にただただ虫唾が走るって事なんだ」

この時私は、以前に数寄屋に来た時、そう、あの時は寛治も交えて話していた訳だが、その時に”偽善”について議論したのを思い出し、ストンと腑に落ちる思いをしながら「なるほどね」とただ短く相槌を打ったのだった。


「さてと…」

とここで義一が空気を変える様に一度咳払いをしてから、司会めいたことをし出した。

「順序が前後してしまいましたが、ここでまず、毎度恒例の様に、ご出席の皆さんから、今回の議題についての自分の考えを軽く述べて貰うところから始めたいと思います。では先生…」

「…あ、私?」

と神谷さんは微笑みつつ自分の顔に指を指しながら漏らした。

「えぇ、お願いします」と義一も笑顔で対応すると、神谷さんは照れ臭そうに頭をジョリジョリと撫でつつ口を開いた。

「いやぁ…前号でも言ったように、私はもう引退した身と思ってるからねぇー…さっきの議論もそうだけれど、これからは若い皆で頑張って頂きたいと思っているし、それをただ面白く傍観してたい身ではあるんだけれど…」

「あはは、またまたー」

とここで武史が笑顔でチャチャを入れた。

「まだまだ喋り足りないのに、何を言っちゃってるんですかぁ?」

「あははは、そうですよ」

と、すぐ後に島谷も続く。

「こんなにまだまだ元気が有り余ってるんですから」

「いやぁ…元気はもう無いんだけれど」

と、神谷は二人からそう言われて、ますますテレの度合いを強めていっていたが、それを私も和かに眺めていた中、ふと隣の義一の顔を盗み見ると、なんというか…同じ様に笑顔ではいたのだが、どこか寂しげな様子をほんのりと滲ませていた。

「ま、それは置いといて、今回のFTA…ねぇ…。私は今回、義一くん、武史くんと二人が表立って頑張ってるから、遅ればせながら何となく考えてみた…それを話してみようと思います」

神谷さんは、ここで一度日本酒を一口口に含んでから、静かに軽く笑みを浮かべつつ話し始めた。

「具体的な内容自体は、この二人から逐一細かく聞いていて、考えれば考えるほどに、ダメなものだというのは分かったんです。なので、先ほども言った様に黙っていても良いんですけれど、折角のご指名なので、私からは今回の協定自体というよりも、その周辺事情について話そうと思います。今回の協定が、”第三の開国”か”第四の開国”か、そんな事はどうでも良いんですけれど、この馬鹿騒ぎは今に始まった事では無いんですね。元を辿れば数十年、いや、明治維新にまで遡れるんですが、そこまで行くと話が広がり過ぎるので、近々に限って言いますと、今の元号に入ったあたり、これが特に顕著だった訳ですが、”構造改革”だなんだとあの時も騒いだわけですが、あの時の政府に対する国民の支持が八割もあって、賛成の大合唱をしたというのを忘れられないんですよ。んー…ちょっとだけ脇道に逸れますが、そもそも”構造改革”という言葉は、昔イタリア共産党の指導者、パルミーロ・トリアッティから出てきてるんですね。要は、共産主義の言葉なわけです。口先では自分たちが保守政党だと言ってる党の指導者の口から構造改革の声が出るというのは、どんなブラックジョークだと思いましたが…」

「あはは、確かに」

と一同が皆して同意の笑みを零していたが、私もそれに混じっていた。何しろ、今の神谷さんの話は、今回の義一と、それに武史の本にも出てきていた内容だったからだ。

「まぁ私は小学生の頃から”世論”というものを信用した事など一度も無いのですが、それはさておき、読者の皆さんは覚えておられるか、昔土光敏夫って人がいて、この人が昭和の末期に『民間活力だ』とか言いはじめて、それが元号が変わった辺りから、エコノミストどもが中心になって、『”マーケットメカニズム”つまり市場をどんどん広げてオープンにすればするほど、その国民には”活力”が生まれてくるんだ』『政府は余計な介入をするな。小さい政府がいいんだ』『市場に任せよ。自由に開放しろ』などと、前世紀末から今世紀初めに入って、そして今の今も変わらずに言い張り続けているわけです。これは勿論日本だけの話ではなく、全世界的にそうなんですが、特に日本は顕著でした。でもそんな話も、今世紀に入ってすぐ辺りに証券バブルがクラッシュして、約百年前の世界恐慌が再び訪れた…というのに、今だに我が国では自由化万歳を繰り返している訳です。さて、先ほど他の国も事情が同じと言いましたが、必ずしもそう言い切れない。というのも、少なくとも欧州、それにアメリカまでもが、行き過ぎた自由化、行き過ぎたグローバリズム、それに対して反省…少なくともしようとしているというのにも関わらず、我が日本では一切その様な声が上がらない訳です。何度もエコノミストの出してくる、空想だか何だか知らないけれども、それにまた易々とこの国民は一斉に流されていく。勿論エコノミストどもは、自分の言った言葉に対して何の責任も取ろうとしない、そんな人非人、人品骨柄の卑しい輩が殆どだというのは周知の事実…いや、我らの雑誌の読者諸君からしたらそうだろうけれども、でもまた国民自身も、一切反省する事なくまた騙され様としている。私から見ると、嬉々として進んでって風に。『自由貿易?全ての関税の撤廃?まぁ…自由ってイイものだよな。しがらみは全て無くした方が良いんだよな』っていう漠たる雰囲気…雰囲気といっても、この漠たるものが戦後から今まで延々と続いてきたものですからね、病膏肓に入るにも程があるんですが、そういうものがベースにあって、今回の馬鹿げた話が急浮上してきたわけです。…毎度の通り話過ぎで悪いですが、具体的な話、普段もう情報もロクに取らなくなった私ですら、今回の協定に入ることによって、日本の農業の競争力が強まるだなどという話を聞きました。でもおかしいと思いませんか?”競争”…例えば、受験競争に晒されて、何となく自分の行きたい所に合格の目処が立ちそうな人は頑張るんでしょうが、『え?競争?自分の過去現在を見る限り、とてもじゃないけれど進学校になんぞいけない、他の人に勝てるわけなんかないわ』といって、早々に競争を自らリタイアする人なんて大勢いる訳です」

「うんうん」

と私はメモを取りながら、何だか身近な話題なせいか身につまされる様な思いをしつつ、しかしすっかり話に魅入られながら黙々とメモを取り続けていた。

「さて、何が言いたいかというと、競争の場を広げただけでは”活力”なんか出ないんですね。活力が出る様にするためには、競争に参加する人間たちが、将来の展望とか、環境なりの先の見通しがつく、もし市場に合わせて考えても、国際市場に丸裸で晒されるのではなく、どんな国家理念、どんな国策体系に基づいて進路が決まっているのか、”財”だけではなく”政”も”官”も、それら三つが合わさってベストミックスが何処にあるのかを探りつつ、時には自由だけではなく”保護”の事も視野に入れて考えながら行かなくてはいけないんですね。市場を安定させるためにも、政府は公共事業なりなんなり、いわゆるインフラストラクチャー、インフラって言葉の意味は元々”下部構造”って意味ですが、その反対のスープラストラクチャー、つまり”上部構造”、この場合で言うと市場ってことになるわけですが、市場を支えるインフラがしっかりしてなくては、安定なんて見込めるわけがないのです。将来に対するビジョン、見通しが立てば、『よし、そっちの方向にいくのか。そのためにこれだけ準備をしてくれたのか。じゃあ私も少し頑張ってみようかな?』って思うものなんですね。これが活力なわけです。それを一切の見通しもビジョンも示さないくせに、本来の意味でいう自由ではなく、ただの”放任”のくせして、自由貿易というたわごと、これのみに従ってきたのが今の元号における流れな訳です。しかし、先ほども言った様に、急にこんなおバカさんが大量に出てきて始まった事ではなく、戦争に負けて以来、『アメリカンフリーダムだ 』『アメリカンデモクラシーだ』などというのを天下の社会正義の様に思い込んで、モノを考え方針を出すというのを半世紀以上に亘って繰り返してきた訳ですが、んー…」

と、ここまで一気に喋った後、ふとここで一度話を切ると、私の方に顔を向けて、何だかバツが悪そうな苦笑を浮かべつつ、口調も先程までとは打って変わって辿辿しげに続けた。

「普段だったらここでズバッと言ってのけるんですが…今回は訳あってちょっと言うのを躊躇うんですけれども…まぁ、誤解が無いだろうと信じているのでそれでもズバッと言わせて頂くと、ここにいる私に信頼している皆さん、特に義一くん、武史くん、この二人がいくら頑張っても、今回のFTA交渉を諦めて貰うのは…無理でしょうね」

「あははは」

神谷さんが言い終えた後、その他の一同は一斉に明るい笑い声をあげた。流石の私もこの空気は初めてだったので、どう反応して良いのか迷ってしまい、取り敢えず作り笑いだけ浮かべておいた。

笑いがまだ治らない中、義一も笑顔を浮かべつつ言った。

「先生、ありがとうございました。…ふふ、先程中山さんなり島谷さんなりが言われた様に、まだまだこれだけ元気が有り余っているというのを見せつけて貰いました。…あはは。さて、次に島谷さん、よろしくお願いします」

「あはは、はい」

と島谷は満面の笑みのまま、恐らくその全てが今回の協定の資料なのだろう、手元にある大量の紙の束を纏めつつ口を開いた。

「えぇー、島谷です。…あは、確かに今神谷先生が言われた様に、義一くん、武史くん、それに僕も陰ながら頑張ったとしても、恐らくどうにもならないでしょう。でも、それでも何とか足掻いてみたい。…ふふ、先生、それは先生自身が今までずっとしてきた事ですよね?だから、僕らも同じ様に足掻いてみたいと思います。…さて、僕はジャーナリストなんで、ジャーナリストらしい切り口から行きたいと思うんですが、まずいきなり今回の自由貿易協定について触れる前に、恐らく皆さんも変だと思うニュースが飛び込んできたと思われた方もおられると思うので、それについて軽く触れようと思います。これも全く違う問題の様で、実は根底では繋がっているからであります。というのは、とある郵便物を取り扱っている会社と、アメリカに本社を置くガン保険会社が”仲良く”やるという話なんですね。今まで実は既に一千局辺りでこのガン保険を取り扱っていたんですが、僕はこの件について色んな本を出してきたので知ってるんですが、実はあまり上手くいってなかったんですね。ところがここに来ていきなり二万件もの局でですね、このアメリカ製のガン保険を扱うことにしましたって言うんです。で、この発表をした社長が何を言うかというと、『えー、ちゃんと保険会社様と話し合って、お互いに良い道を選ぶことにしました』…嘘言うんじゃないっての」

「あはは」

「嘘つきですねー?昨年の五月だったでしょうか、アメリカからカトラーっていうオバサンがやって来まして、この人はUSTR、アメリカ通商代表部の次席代表かなんかなんですが、この人が何しに日本に来たかというと、当時日本側のこの社長は独自にガン保険に進出したいと思ってたんですが、それを潰しに来たんですねー。で、その時の大手新聞社の一面に載ってましたが、そこになんて書いてあったかというと、『今協議中のFTAを前提として、えー…”配慮する”』ということなんですが、これまた全くの嘘です。僕が取材した限りでは、カトラーと、日本側の例の社長、それから外務省の高官、それと総務省の高官が膝を突き合わしたんですが、この時にカトラーオバサンがギシギシと攻めまくりまして、『それでは”凍結”と良いことでどうでしょう?』という話になった、これは永田町で知らぬものなど無い事実であります。何が言いたいかというと、今回もその様な圧力を掛けられて、とうとう屈して受け入れることになったって話です。つまりですね、まだFTAの本交渉の前の時点で既に、日米の関係の元、事前協議でですね、めちゃくちゃ負けてるわけですよ。今の首相、まぁ先生や僕たちともそれなりに付き合いのある方ですが、彼がなんて言ったか、『日本には外交力があるから大丈夫です』って言ったんですね。なんか…僕の個人的な気持ちを述べれば、言ってることが全然違う…総理には今すぐにでも退陣してくれって言いたいところなんですが、それは今は置いときます。取り敢えずはこれで…」

「あはは。はい、ありがとうございました。では武史…あ、いや、中山さん、お願いします」

「ふふ…あ、はい、中山です。えー…私は京都の片田舎でひっそりと暮らしておったのですが、ひょんなことから…そう、ここにおられる編集長様に触発されまして、ついついノコノコと出て来てしまったという次第です」

「あははは」

「で、ですねぇ、今の神谷先生と島谷さんの話に絡むんですが、細かい情報も大事なんですけれど、もう何というかー…”気分”で動いている、その胡散臭さ、その軽薄さ加減が、ズバッと言えば気に入らないんですね。何が恐ろしいって、政府、財界も皆して賛成していて、政府批判の大好きなマスコミまで、右から左まで足並み揃えて賛成している、この不気味さがとても気持ちが悪いんですね。で、実際調べてみると、今島谷さんが仰られていたのも含めて話にならないんですが、何でこの”開国”だとか、”改革”だとかっていう中身のないフレーズに騙されるのかなぁと思うわけですよね。で、話が変わる様ですが、よく『未来に禍根を残すな!』『将来にツケを残すな!』ってな具合な事を良く聞くわけですね。でもですよ、今回の様な馬鹿げた騒ぎ、いや、これに限らず神谷先生が仰られた様に幾度もこの手の馬鹿騒ぎを続けてきた訳ですが、それを五十年後とかの子孫がこの事について歴史として勉強するんですよ。我々が幕末明治の開国なんかを勉強した様に。この馬鹿げた内容…これをどうやって将来教えるんだろう?と。勿論、私も神谷先生やこの雑誌に集う皆さんと同じで、jやり方などを含めて明治維新それ自体に対して懐疑的なんですが、それでも、それなりに当時の人間たちというのは、持てる力で死に物狂いで懸命に頑張ってた訳ですよ。でもここ数十年みたいな、思いつきでチャラけてふざけ通してきた今の時代を過ごしてしまって、それをバトンタッチしてしまう事に対して、同時代人として将来の人間たちに申し訳なくて恥ずかしいのも良いところってのが、まぁ…今の気持ちです」

「そうですねぇ…はい、ありがとうございました。では浜岡さんも…」

と義一に話を振られたが、浜岡はニヤッと一度笑うと口調もそれに寄せつつ言った。

「いやいや、今日は引き継ぎの意味もあるから、取り敢えず今日は、こうして編集長代理としているつもりなんだよ。だから義一くん、君もあんな本を出して、その急先鋒なんだから、私は気にせずに今まで通りに意見を述べてよ」

「え、あ、いやぁー、参ったなぁ」

と、義一は照れた時の癖、頭をぽりぽりと掻いていたが、私を含む一同をグルッと一度見渡すと、苦笑まじりに言った。

「その心使いは有り難いんですが、もう既に御三方が僕の言いたい事を全て言ってしまったんで、何も言う事なんて今のところは残ってないですよ。…琴音ちゃん?」

「…へ?あ、うん、何?」

まさか話を振られるとは思っても見なかったので、我ながら抜けた声を漏らしつつも返した。

その瞬間、一同の視線が一斉に私に注がれたが、それには構わず義一は微笑みをたたえつつ

「君は今までの話を聞いてきて、何か思うところ、疑問に思うところは無かったかな?」

と聞いてきたので、まだ驚きが収まらないままではあったが、それでも今まで取っていたメモに目を落としつつ、自分なりに誠実に考えてみた。

が、何度見返してもこれといった疑問点なりが見つからなかったので

「…んーん、ここまでは大丈夫。ちゃんと付いて行けてる…と思うよ」

と、その点を聞かれているわけではない事くらい分かっていたが、それでも何となくこの場はこう返すのが得策だろうと判断して、顔を上げて言うと、

「そっか」

と義一もこちらの意図を汲み取って、微笑み度合いを増しつつ返した。

義一の肩越しに見えていた一同の表情も、今の義一と同じ様なものだった。


それからは一巡したというんで、義一はまた神谷さんに話を振った。

神谷さんはまた最初の様に留意点を述べてから、それでも快活といった調子で話し始めた。

「まぁ皆さんの言う通りで、何度も言うことも無いとは思いますが、私からは何も付け加える事なんて一つも無いんです。でもまぁ、私が最も大嫌いで軽蔑している”経済学”の問題からあえて入りたいんですけど」

「あはは」

「経済学者から財界人まで誤解しているのが、市場というものなんですね。私はもう今更小難しい本を読むほどの体力も忍耐も無くなってしまってるので、時折思い出した様に漢和辞典を引いたりするんですけれどね、今の中国人はロクでも無いのが多いみたいですけれど、昔の中国人…いや、細かく言うと、あの中国大陸にいた昔の人々は立派だったみたいで、”市場”の”市”って字がありますよね?あれを引いてみると面白いですよ。なんて書いてあるかというと、『公正な価格で取引される場所』とあるんですね。まぁ当たり前の事なんですけれど…良いですか、月に賃金で二十万ほど貰っても、次の月になったらその給料で米も買えない、そうなった途端にどんな企業も勤労組織も崩壊するなどという事は見当がつきますよね?…って、これは確認の為も含めて読者向けに話してるんですが、まぁ一口に言えば”デフレ”って事で、本当はもっと根本的にはデフレのほうが怖いんですが、今はそれは置いといて、勿論マーケット、市場というのは上がり下がりが当然起こるものです。が、しかし、価格の変化の度合いが、まぁまぁ予測以内、想定範囲内に収まるという、そういう見通しが無ければ、いつ何時風船が破裂する様に機能不全に堕ちる可能性があるわけです。問題は、ではどうすれば安定する事が出来るのか…?これはマーケット自身ではどうにも出来ない事なんです。そこで改めて”保護”の問題が出てくるんですね。これは世間に行き渡っている雰囲気ですが、『え、保護?自由の反対だから悪いんじゃないの?』と脊髄反射的に反対してきますがね、保護というのは”防衛”と同じ意味なんですよ。英語で言うと“Defend””Protection”、どちらも英語圏でその様な意味合いでも使われています。当たり前ですよね。防衛と聞くと、軍事の事ばかりが取り沙汰されますが、国家は国民の生活の安全、安寧、それに安定を考えて舵取りしなければならない…この安定というのは、当然国民生活、つまりは経済、市場も含まれているわけです。その安定がなければ、昔の中国大陸人が言った様な”公正”な取引なんか出来るわけが無いじゃないですか。勿論、昔の共産圏の様に雁字搦めがいいだなんて極論を言ってるんでは無いですよ?ただその時代時代の程よいバランスが何処かにあるはずで、自由がいいんだと全部規制を取っ払っちゃうとか、保護が大事だと規制まみれにしちゃうとか、この幼稚な二元論の議論が戦後日本では延々とされてきたわけです。ほとほとウンザリしますね」

「うんー…」

「…ふふ。いや、それは置いといて、こんな今まで話した様な事は、初めの方で中山君たちも言ってた事だけれど、ある意味なんの変哲もないコモンセンス、常識的な話ですよね?こんな事は、十九、二十歳を過ぎたくらいになったら常識として分かってなければならない事ですよ」

「うんうん」

「…ふふ、もう引退した身だし、良い機会だからと老人の特権として好き勝手に言わせてもらえれば、今回に限らないという事は話しましたが、今までだってそうでしたが、一々議論するのが嫌になっちゃうのがですね、根本的にこの常識というのを失くして既に何十年が過ぎてしまったわけですよ。そういうことの帰結として、またぞろこんなFTA騒ぎが沸き上がると。…ごめんね義一…、あ、いや、望月君、こんなにまた喋ってしまって」

「え?あ、いや…ふふ」

と急に話を打ち切ったと思えば話しかけられた義一は、咄嗟のことでキョトン顔を晒していたが、すぐに笑みを浮かべると返した。

「いやいや先生、先生の前ですけれど、普段から結構ズバズバと快刀乱麻といった調子で切っていってるんですから、今更ですよ。最近ではその鳴りを潜めていて、少し寂しがっていた読者もいるだろうと思われるので、そのまま先をお願いします」

「んー…そんな奇特な読者がいるかね?」

と神谷さんは訝って見せたが、口元はニンマリとニヤケていた。満更でもないといった風だ。一同…自覚はないが恐らく私もだっただろう、神谷さんに向かって言葉をかけるでもなく、しかし微笑みをただ向けていた。…若干の悪戯っぽさを滲ませつつ。

神谷さんはそんな私達の顔をぐるっと見渡すと、好々爺よろしい笑みを浮かべつつ先を続けた。

「うまく乗せられた感が否めないけれど、都合よく編集長の言葉に乗っかるとしますか。ふふ…。さて、ちょっと話が変わるけど、今人生における私の唯一の幸せな事というのはですね…孫がいない事なんですよ」

「…」

この時点では特にメモを取る必要を感じなかったから、ただ黙って話を聞いていたのだが、ここでふと気持ち寂しげな笑みをこちらに向けてきつつそんなことを言うので、私は思わずぎくっとしてしまった。敢えてここで補足すると、別に嫌な感情によるものではない。

それはともかく、神谷さんはここで一度ニコッと私、そして視線の向き的に予測するに、義一にも微笑みを流していたが、ここで途端に悪戯っ子のような笑みに変えると話を続けた。

「…ふふ、もし孫がいる読者の方がいたら、アレですよ、自分はもう墓に入ってお終いですけれど、やっぱり孫子の世代になった時に、さっきこれも中山君が話していた事と繋がるけれど、今の日本の現状を考えると…背筋が寒くなるし、もっと言えば…往生際が悪くなりますよ」

「うん…」

「…って、これまた続けると収拾が付かなくなるからこの辺にしときますがね、今回のも含めてこんな馬鹿げた事を旗揚げてこれまで続けてきたのは、財界の馬鹿者たちですよ。人間も歴史も国家も国民も公共活動も一切考えない、考える脳がない連中…。自分の企業の収益…いや、自分が社長でいる間だけの事しか考えてない様な、利己的なことしか考えない財界人たちが、その場の都合で圧力を掛けて、それをバカな新聞記者が取材して、それを大きく膨らませて報道してるという…ってまぁ、また長々と話してしまいましたが、結論としてはやはりダメでしょうね」

「あははは」

「ふふ」

と私も他の皆と同じ様に笑みを零していたが、心のうちではいろんな点から来る感動に酔いしれていた。

勿論今神谷さんの話していたことの内容にも惹きこまれて、一分の隙もない、少なくとも私には正論と思える言説に圧倒されたのだが、それと同時に、義一に教えられてから、思い出した時に時折ネットに上がっている、昔神谷さんが出ていた二十年以上前の番組を観てたのだが、その時の様な力強く、説得力のあるその言い回しを目の前で見れて、そんな点でも何というか…この時の感情を一口に言うと、何だか得した様な気分だった。


笑いが収まった後、また義一が司会者よろしく次に振ろうとすると、ここで浜岡がニヤッと笑いつつ、「いや、今度は望月くん、君にお願いするよ」と言われたので、私も何となく自然と笑みを浮かべながら見ると、義一は何だか照れ臭そうに笑いつつも、すぐに静かな微笑を顔に湛えて口を開いた。

「そうですねぇ…ふふ、まぁ先ほど神谷先生が言われた通りで、これは負け戦ですよね」

「ん…」

「もう多勢に無勢で、マスコミも所謂左派から右派まで諸手を挙げて賛成している訳ですが、政府が賛成して財界が賛成してっていう状況…これを未だ嘗て引っくり返したっていうのは記憶に無いですよ。でー…これはよく中山さんと話しているんですが、何でそもそも僕が表に立って、しかも経済に関する様な、興味がないというか…ふふ、先生みたいに忌み嫌っていたものに関して声を上げるべく腰を上げなくてはいけないのかと…」

「ふふ」

「…ふふ、思うんですよねぇ。僕個人でいえば、僕みたいな何処の馬の骨とも分からない奴が出る前に、肩書き立派な先生がたくさんいらっしゃるんだから、先生方がよろしくお願いしますよぉ…って気持ちがあるんです。…って愚痴から初めて申し訳ないですが、まぁ何なんでしょうねぇー…。確かにここにおられる中山さん、そして島谷さん、このお二方は綿密に今回の協定の内容について調べられていて、一般の人はそんな時間が無いのもあって知れるはずが無い…無いのは事実なんですが、ここで重要なのは、先ほど先生が言われた”常識”の事なんです」

「うん」

「例えばですね、ここにおられるお二方のおっしゃっている、『今回のFTAと日米関係における国防の問題というのは関係が無い』という点なんですが、仮に日米の軍事同盟が大事だとしましょう。では今回の協定に参加しないからって、軍事同盟に支障をきたすのかというと、僕はそうは思わない訳ですね。もし本当に大事にして重要なのだとしたら、アメリカの東アジア戦略において固有の意義があるからしてる訳ですよね?これも常識で考えると簡単でして、もし仮に自分が一国の指導者だとして、自国の軍隊、兵士に対してですね、『農業市場だとか金融市場だとか食い物にしたいから、君たち悪いけど命をかけて、外国なんだけどあの国を守ってやってくれないか?』…こんなの、説得出来る訳ないじゃないですか」

「うんうん」

「僕も戦後だいぶ経っての生まれなんで、戦争がどんなものだとか詳しく身体的には知らないですけど、常識を持って考えればですよ、命をかけて戦うっていうのは、祖国を守る為だとか、その根底にある祖国に対する愛着、愛国心が無ければ出来ない事な訳ですよ。アメリカ側は勿論口先では言いますよ。アメリカは日本の事なんか、ここ何十年間変わらずにナメきってますからね。まぁ…そのナメられる原因は百パーセント日本にあり非があるんで、僕はそれについてアメリカに何か言いたい事なんか何も無いんですが…。それはさておき、『もし協定を結んでくれれば、軍事同盟をもっと強化してあげるよ』などと…まぁ僕は、というか、この雑誌に集う方々の共通の認識としては、軍事同盟を強化するのが果たして良いのか?ってところもあるんですが、それはひとまず置いといて、それもあくまで口先であって、これも中山さんが言われた事ですが、アメリカは今までも平気で他国との約束を何度も反故にしてきた”実績”のある国な訳ですよ。それをそんな口車にまんまと乗せられてはいけない」

「うん」

「で、ですね、話を戻すと、そんな小銭を稼ぎたいからって口実では、一国の指導者は軍人に向かって『死んでくれ』だなんて言えない、こんな事すら想像する事すらが出来なくなっているっていうのは、先生の話ですが、相当に常識というものが痛んでいるんじゃないかと思います。えぇっと…少し話が逸れますが、これはアメリカ在住の、この雑誌にはお馴染みの佐藤寛治さんからの情報提供で、実際に過去に寄稿して頂いた内容ですが、今の様にアメリカが世界で覇権を握る、これを打ち出したのは世界大戦直後からなんですね。その当時はどの国も戦争で疲弊していて、アメリカが一国だけ経済的に有利に立っていた訳です。なんせ、当時の世界のGDP、その時の指標はGNPですが、世界の五十パーセントをアメリカ一国が占めていたんです。その国が軍事費を支出して覇権に乗り出そうというのは、まぁ正当か正義か道徳的にどうとかは別にして、よく分かる事ではあるんですね。しかし、アイゼンハワー大統領…因みに僕、佐藤さんなんかは、戦後のアメリカの大統領で唯一といって良いくらいに好きな人なんですが、彼の時で既に三十パーセント台、石油ショックなどの時のニクソン政権時で三十パーセントを割り、IMFや世界銀行などによると、今既にアメリカの占める世界のGDPシェアというのは十六、七パーセントにまで衰退している訳ですよ。しかしそれでも今だに世界に覇権をと、”パクス・アメリカーナ”の考えを捨てずにいるんですが、どう考えても昔、GDPシェアが世界の半分だった時に打ち出した政策を、二十パーセントを割ってしまった現在も手放さないという、無理を断行している現状な訳です。そんな訳で、勿論他の国々はそんなアメリカの内部が矛盾してる事など分かってますから、いくらアメリカが覇権を唱えても内心では相手にしてないんですが、何故か日本一国のみが今だに盲目的にアメリカに追従しているんですねぇ…。って、何が言いたいかといいますと、そんな衰退してしまっているんですから、いくらFTAに参加しようと何しようと、いざという時にアメリカが日本を助けてくれるはずがないんですね。これも今の話を聞けば、小学生にすら分かる話です。これも常識の問題な訳ですがー…って、先生方はともかく、よく僕自身、常識があるのかと疑われてしまうタチなので、説得力は皆無だと思いますが…」

「…ふふ」

と私がメモを取りつつも思わず大きく吹き出すと、義一は照れ臭そうに頭を掻いて、不満げと微笑を顔面上で同居させた様な表情を浮かべつつ話を続けた。

「ふふ、んー…コホン、まぁそんな僕ですら分かる様な事が世間が分からないという現状が、イカレてるというのが一つですね。で、ですね、もう一つ言いたいのは、そもそも議論の仕方が気にくわないんですね」

「うん」

「今回のFTAの問題というのは農業だけでは無いというのが、ここにおられる中山さん、島谷さん、そして僕の意見なんですが、仮に農業の問題だとしましょう。農業が自由化によって競争が激化して大変になる訳ですよね?神谷先生も言われた様に、別に単純に競争の場を広げたって、活力も生まれないし良いことなんか一つもない訳ですよ。確かにうまく順応した農家は生き残るかも知れない。でもですよ、非効率な所は潰れて廃業したりする訳ですよね?これも常識で考えれば、そんな事が良い事だなんて思わないはずなんですよ。だって、色々な計算方法があるんで一概には言えませんが、よく日本の食料自給力が低いだの何だのという訳ですよ。でもですよ、それを片方で言いながら、もう片方では平気で自由化がどうのといってる訳ですよ。もう…頭がクラクラとするようなフザケタ議論ばかりが繰り返されてきて、そしてまた繰り返されようとしているんですが、また話がそれるようですが、他の国はではどうしているかというと、一つ例にあげたいと思います。それはフランスです。フランス含めたヨーロッパ諸国というのは、皆さんご存知の通り”EU”という、ある意味グローバリズムをあの域内でやってる訳ですね。人、物、金などが自由に行き交い取引されています。が、しかし、では国ごとで”どっかの国”みたいに何もしないで指を咥えているだけかというと、そうではないんですね。勿論、ヨーロッパと一口に言っても、何十カ国とあの地域には国があるわけで、各国各様の言語、文化、歴史を持っているんです。経済も例外ではなく、今言ったような”インフラ”のもとで、それぞれの経済を運営してる訳ですから、国家間で経済力の差があるわけです。イギリスや、ポーランド、チェコなどの中央ヨーロッパの国々は”賢く”もユーロに加盟はしませんでしたが、フランスは加盟してしまいました。その事によって、他の物価の安い国々から安い物品が入ってくるようになる、当然人々は安いからってそれらの物品を買うようになるんですが、そうすると、地場産業の物だとか食品などが買われなくなってしまい、終いには衰退してしまう。それを恐れた政府は、関税や国境の壁が取り払われた後で、慌てて農家などの第一次産業に対して補助金を、今までも付けてはいたんですが、それ以上に付けるようになりました。読者の皆さん、それがどの程度だと思われますか?…なんと、一農家の収入の九割近くが補助金だという程なんです。もうここまで来ると、公務員と言っても過言ではないでしょう。因みに僕個人は、農家だとかの第一次産業というのは、国民の胃袋なりなんなりを支える生命維持装置の一つなんですから、公務員化して良いじゃないかと考えます」

「うんうん」

「まぁでも、こんなことを言うと『お前は共産主義者か』とレッテルを貼られそうですが、それは別にどうでも良いことです。さて、これもついでですが、アメリカ自体も、それぞれ州ごと、食品ごとに違いますが、大体三十から四十パーセントくらい補助金を出していますが、日本は色々と過去に補助金の事で農家を叩いたりしてきましたが、それでもせいぜい一五、六パーセント程度なんですね。しかも生産量から見ても、言うまでもなく広大な土地で組織的な耕作をしている国と、山ばかりの国土で、数少ない平野を使って細々と営んでいる日本の農家、その両方が競争なんて、そもそも出来るわけが無いのは火を見るよりも明らかです」

「うん」

「また話が逸れ過ぎたので話を戻すと、非効率な所は淘汰されるでしょう。これは近代経済学の考えからすると、肯定されます。”自己責任”だとか何だとかと言って。過剰な競争によって外食産業にも皺寄せがきて、コストカットするために失業者も増えると。自由が大事だ規制緩和だとかでタクシー業界なんか酷い事になりましたよね?要は新規参入が無駄に増えて飽和状態になるわけです。一応企業が増えるので就職が出来ると、失業した人々がそのような労働市場になだれ込むわけですが、今のようなデフレ化において、そのような労働者が増えると、勿論今あるパイを皆で分け合うって事で、賃金はますます下がっていく、つまりはデフレ化が進行していくわけです。要は、このような無思慮に自由化だ規制緩和だと進めれば、国民全体で不幸になるわけですよ。で、ですね…少し話しすぎで悪いですが…」

「ふふ、どうぞ」

「ふふ、すみません…。また一つ気に食わない点を言わせて頂くとですね、そのー…日本人一般、取り分けですね、製造業、輸出企業…つまりは外資ですね、その労働者、勤労者の方々ってですよ、単純に言えば農業を犠牲にすれば輸出が伸びるかも知れないって思ってるわけですよ。つまり、他人が苦しんで痛みを伴って自分が楽できると考えてるわけですよね?これって、ここ二十年ばかり続けてきた構造改革の思想の延長線上にあるわけですよ。何でもかんでも既存の規制分野を悪者に仕立てて、皆してそれらをぶっ叩く…」

「…」

「土建屋が悪いだとか、公共事業はもういらないんだとか、具体例を挙げればキリがないくらいにあります。『誰かが甘い蜜を吸ってる”かも知れない”』そんな自分で本気で調べたわけでも無いくせに、周囲の、世間の空気に流されてまんまと乗っかって、それによって叩かれた側に失業者が出て路頭に迷う人々が出ても、『企業努力が足りなかったんだ』『効率性が低いから淘汰されて当然なんだ』『非効率な奴らはただの邪魔者。足を引っ張るだけのものは排除しなくちゃ』って、こんな論理で今まで来たわけですよね?」

「うん…」

「これはまず道徳の問題からして不道徳なんですけど、それ以前にですね、そんな事をやり続けると必ず”報い”が来るんですよ。つまり”デフレ”。会社自体もそうなんですが、今回のような農業などの第一次産業を犠牲にして自分が楽になりたいが為にFTAに賛成したような勤労者たちは、実際には日本国内で生活してるわけで、デフレの影響をモロに受けて、賃金は下がる一方、次に今回のFTA 話の流れで沸き上がって来た議論ですが移民を入れようって話、移民が入ってくれば、そのように自由だ規制緩和だとかを賛成した人々は、その移民たちに職を奪われ、賃金もますます下げられ、貧困を深めていくと言うのは目に見えてるわけです。だから…他人を潰して、自分だけ楽になろうとした報いは必ず来るんですよ」

「うんうん」

「こんな事を言うのはアレですが…ザマァみろと。つまりこれも常識の問題で、こんなゲスな考えをしてはいけないって昔はそんなの当たり前のこととして周知されていたはずなんですが、『そんな古臭い考えは嫌だ』っていう風な子供っぽい、堪え性のない幼稚な、体ばかりが大きくなって歳だけ無駄に食っている大人たちが、こんなフザケタ事を恥もなくのたまうのが今の現状です。もっと言えばですよ、何で…何でたかが非効率ってだけで淘汰されて路頭に迷わなくてはいけないんだと。オカシイでしょうと」

「うんうん」

「読者の皆さんだって、周りを見渡せば言うまでもなく皆働いてるのが分かるでしょう。けれど、デフレで色々とあるし、能力の問題もあるから一生懸命に働いたって効率性なんか上がらないですよ。非効率だけれども、マジメに働いて家族を養って生活してるわけですよ。繰り返しますけど…何でそんな人らが路頭に迷わなければいけないんだと」

「うんうん!」

先ほどからずっとこんな調子で相槌を打っていたのだが、自然とわれ知らずに段々とその度合いを強めていき、この時には力強く合いの手を入れるのだった。

他の一同も同じ気持ちだったようで、神谷さん含む皆全員が、義一の今までの発言を、長いとか退屈だとかそんな感情なんぞを表に出すことなく、むしろ興味津々、真剣な顔つきで聞き惚れるように聞き入っていた。

義一はここまで話すと、一度グビッとビールを煽ってから、また続けた。

「おそらく僕の今の、今までの発言は、この雑誌の読者の方々には受け入れてくれるものと信じてますが、反論してこない事をいいことに、このような論理で立場の弱い誰かを叩き続けてきたわけです。オカシイでしょうと。…って、これ以上話すとまた長くなってしまうので、これくらいにしておきます」



最後で照れ笑いを浮かべながら言い終えると、一同がクスッと笑う中「ありがとうございました」と浜岡が言うと、「一区切り付きました?」と明るく浮かべながらママがドアを開けて隙間から顔を覗かせた。

皆して返事をすると、既にその後ろに用意していたのか、お代わりを乗せたいつものカートを室内に押して入り、各々にそれらを配膳していった。

「はい、琴音ちゃんも」と私にアイスティーのお代わりをくれたので、「うん、ありがとう」と微笑み付きでお礼を言いながら受け取ったが、ふとやはり、何故このような絶妙なタイミングで入ってくれるのかを訝り、ふと部屋の周囲を見渡したが、カメラらしきものなどは見当たらなかった。今だに謎のままだ。

それはさておき、ママが去った後、今度はまた義一に”司会権”が戻り、まだテレの抜けない様子のまま、義一は島谷に話を振った。

振られた島谷は、先ほどまでの真剣な表情を途端に崩し、何度か肩を大きく揺らしながら笑い、それから手元の大量の資料を眺めつつ口を開いた。

…余談だが、これまで長く義一は発言をしていた訳だが、あの番組内と同様に、一切資料を見ないままでのものだったと、どうでもいい事だとは思いつつ付け加えさせて頂く。

「あははは、いやぁー、流石義一くん…いや、編集長というか、本当に心に染み渡るような演説を聞かせて頂きました。…あははは。えぇっとー…そうですね、僕からはそうだなぁ…、今の発言を受けて、それに僕なりに具体例をまた付け加えさせて頂くって体で発言させて頂きましょう。っと、その前に…」

とここで島谷は、おもむろに資料の束の中から一つの雑誌を取り出した。そしてその表紙をこちらに見せてきたので、気持ち前のめりになって覗き込むと、それは最大手の経済新聞が版元のものだった。表紙には今回のFTAの字が大きく踊っていた。

「えぇーっと、あは、我々の間では悪名高い経済”音痴”新聞系雑誌に、何と我らが編集長の出した本についての書評が載っていますんで、それをまず紹介したいと思います」

と島谷はペラペラと、これまた付箋まみれの雑誌を捲りつつ言っていたが、あるところで止めると、テーブルの空いてるスペースにそれをページ見開きで置いた。

また私はさっきよりも少し前のめりになって覗き込むと、義一の名前が大きく見出し部分に載っていた。約二、三ページに渡っての書評で、私は知らないが世間的には知名度の高い経済学者が書いていた。

ふと周りを見渡すと、覗き込んでいたのは私のみで、義一含む他の面々は遠目で見ているんだけだったので、どうやら皆は既にこの記事を見て知っていたようだった。

「あはは、琴音ちゃん」

と島谷が私に話しかけてきた。

「初めて見るのなら、今ちょっと軽くでも読んでみる?」

と言うので、

「え?いいんですか?」

と聞き返すと、

「あは、もちろん」

と満面の笑顔で返されたので、「じゃあ…」と私はそれを手元に引っ張ってきて持ち、それを斜め読みに読み流していった。

島谷は私のそんな様子を微笑ましげに見てから話を始めた。

「わざわざ”高名な”経済学者の先生に、こんなにページを割いて評して頂いた、編集長、今の率直な感想をお聞かせくれますか?」

「…ふふ、島谷さん」

と、話を振られた義一は、苦笑気味ではあったが、どちらかと言うと明るい笑みを零しつつ返した。

「今は僕じゃなくて、あなたの番だと思うんですが?」

「あはは。いやぁ、ほら、僕はジャーナリストでしょ?どうしても野次馬根性があるんでねぇ…。当人は、この記事を読んでどう思ったのか、ぜひ直接聞きたいなって思ったんですよ」

このやり取りの間、私はずっと読んでいってはいたのだが、簡潔に述べれば、要は義一の意見に対して全面的な反論だった。『経済学の事を全く分かっていない』だとか、『こんな素人の本が売れるというのは、とても危うい事態だ』だとか、そんな類だ。

私は読んでいて、自分の事のように、その上からの物言いに段々苛立ってきていたが、その当人もこれを読んだはずなのに、飄々としたもので、島谷のその言葉にも笑顔で明るく返事をしていた。

「ふふ、人が悪いですねぇ…。まぁ、いいですよ。そうだなぁー…感想ねぇ…」

「…え?」

と、ここでふと隣の義一が身体を私に寄らせて紙面を覗き込んできていたのに、一瞬驚いたが、そんな反応の私を他所に、義一はそのまま目を落としながら口を開いた。

「んー…まぁ、これは浜岡さんに送られてきた、僕の本に対する批評が書かれている雑誌の中の一つにあったんで、勿論読みはしましたが、多すぎてどれがどうとかまでは覚えていません…ので、今こうして読み返してますが…ふふ」

と不意に義一は吹き出すように笑みをこぼすと、体勢を元に戻してから先を続けた。

「まぁー…この記事に書かれている”大先生”の、僕に対する”お叱り”の言葉を一つ今そのまま引用しますと、『自由貿易で輸入品の値段が下がったりしたら、それがデフレ圧力になり、ますます深めてしまうという望月氏』、ふふ、これは勿論僕のことですね。『望月氏の議論に至っては、デフレと相対価格の変化を混同するものだ。輸入品の価格が下がる事は、消費者の利益であり、”貨幣現象”に過ぎないデフレとは無関係である』…ふふ、とまぁ、そう書かれていますね」

「あはは」

と島谷は、義一の読み上げた部分を聞き終えると、また豪快に身体を揺らしながら笑っていたが、その笑顔のまま義一に

「で、編集長、こう書かれているんですが、これにはどう反論しますか?」

と聞くと、義一は如何にもやれやれと言いたげな様子で頭を掻いてから、しかし口元は緩めつつ返した。

「んー…ふふ、どう反論…ですか?どう反論って言われても…あまりにも間違い過ぎて、大先生には悪いですけど、その気にもなりませんね」

「あはは」

「ふふ」

「んー…でもまぁ敢えて反論しろって言われるならば…根本的に間違ってるんじゃないですかね?ええっと…何でしたっけ?…あ、あぁ、勿論安い輸入品がたくさん入ってきたからって、それがデフレの原因だなんて言うつもりは無いんですが、デフレの時に安い物が入ってくると、ますますデフレが進んじゃうって事なんですよね。そもそも経済には需要と供給の二つのサイドがあるわけですけど、デフレというのは供給過剰の状態の事を指すんですよね。…その経済学における”権威”さんが、あくまで貨幣現象だと言い張りたいみたいですけど」

「あはは」

「でー…ですね、要は世の人々がお金を使わない、これが需要不足って事で、それによって物が売れずに倉庫にブタ積みになってたりする、これを供給過剰と、簡単に言ってしまえばこういう事で、これがデフレの正体の大きな一側面なわけです。で、ですよ?こんな物が余って困ってるという社会状態なのに、その時に自由貿易で外からどんどん入ってくるようになったら、ますます物余りになって、それがデフレ圧力に拍車をかける…んー」

とここで義一は、さっきよりも”やれやれ感”を表に出しつつため息混じり、苦笑まじりに続けた。

「こんな事は、経済学だなんて事を知らなくても、いや、知らなくて良いんですが、知らなくてもすぐに分かる事ですよね?」

「うんうん」

「で、ですね…また別の観点から言いますと、確か最近の経済財政白書にも書かれてましたけど、『外から安いものがたくさん入ってくると、競争が激化する。そうすると生産性が上がる』とあるんですね。でー…、デフレというのは今申したように、生産品が過剰になってるって側面があるわけですよね?需要に対して供給が大きいので、ますますその差、いわゆる”デフレギャップ”が広がっていくって事になるわけです。ですから経済白書は自分で『自由貿易をやると、デフレになる』と言ってるんですね。これはまぁ今までの話を聞かれた読者の方々なら、すんなりと納得いっていただけると思います」

「うん」

「自由貿易をすると、競争が激化すると言いましたが、そうなると当然他社よりも安く商品を提供しようという、そのような競争に入るわけですが、どの会社もまず何を削減するかというと、当然人件費なわけです。もしくは、競争に負けたせいでその会社自体が潰れるとか、そのような事態になると。失業者が増えますと。また章句品産業に限っていっても、安く済まそうと考えると、高い国産のを使うよりも、安い輸入品を使うようになるんで、それで国内の農家なども打撃を受けて、失業するなり自主的に辞めるようになってしまうと。で、失業者は当然ロクに消費が出来ませんから、今まで関係ないと思われていた、思っていた他分野の企業にまで影響が及び、遅かれ早かれ同じような事態に追い込まれると」

とここまで話すと、一度義一は一息いれる意味もあってか、また先程のようにビールで唇を湿らせてから、改めて続きを話した。

「先程の、えぇっと…名前は知らないですが、ナントカって大先生は、『消費者の利益になる』だとか何とか”ほざかれて”ましたが」

「ふふ」

「今までの単純な論理から考えてみても、中長期的には利益になるどころか、不利益、悪影響にしかなってない事がお分かりになられたと思います。当たり前ですよね?だって…経済、世の中というのは全てが繋がっていて、例外など一つもないんですから。これも、普段生活していれば、肌感覚で分かる、もしくは神谷先生の言葉を借りれば、分かってなくちゃいけない常識ですよ。消費者というのは労働者でもあるわけですから」

「フォーディズムだな」

と、これまで大人しめだった武史が、ここで”絶妙のタイミング”で合いの手を入れた。

「自動車会社のフォードの創業者、その名もヘンリー・フォード。この人は自分の社員たちの給料をなるべく下げないように、むしろ上げるようにしていた訳だが、それを見た周りが『何でそんなに社員達に給料を配ってるんだ?人件費は下げた方が会社の利益になるじゃないか?』と言うんだが、それに対してフォードはこう返すんだ。『勿論短期的に見れば、コストになるかも知れないが、キチンと平均以上の給与を与えれば、この社員達が今度は消費者側に回って、我が社の車を購入するかも知れないだろう?』とね」

「なるほどー」

「ふふ、そう。今中山さんが良い具体例を述べてくれたけど、それを今の日本…いや、何も日本に限った事じゃないけど、社員を今や”人材”つまり、”材料”や”資材”程度にしか見てない、コストとしか見てないような、少なくとも大企業はそういう考えに染まってしまっていますね」

「グローバル人材とかね?」

と、これまた今まで静かだった浜岡さんが、ニヤケつつ横から入れた。

「グローバル人材ねぇ」

と次に口を開いたのは神谷さんだ。

「グローバル人材…普段もうテレビも何も見なくなってしまった私ですら、よくこの様な話を聞く様になったけれど…今の日本は、ありとあらゆる価値観を喪失してしまっていますが、それで最後に行き着いた価値観が”グローバル”…。ふふ、悪い冗談を言う様ですが、そもそもグローバルというのは、”グローブ”、つまり地球、球形の意味でしかないんですが、要は今の日本人の最後の価値観は『地球人になりたい』っていうんですからねぇ」

「あはは」

「なるほどー…ふふ」

「色んな大学でも今うるさいですよ。グローバル何々学科だとか」

「ふふ、たけ…中山さん、あなたの所の大学も、格式のある歴史ある旧帝大というのに、なんかその風潮があるみたいじゃないですか?」

「はぁー…そうなんだ…あ、そうなんですよ。『グローバル人材を育成する、グローバル大学を目指す』だなんてホザ…あ、いや、”ほざかれてる”んだから」

「ふふ」

「そもそも”人材”だなんて無粋な言葉…琴音ちゃん?」

「ふふ…え、あ、はい?」

と急に神谷さんに振られたので、何だか素っ頓狂な声を上げつつ聞き返すと、神谷さんはニコッと例の好々爺の様子で聞いてきた。

「勿論君の名前、それに年齢まで伏せるという大前提のもとで聞くけど、今世間では、人材活用の一環として”女性活用”だとかそんな話で盛り上がってるんだけど、これについてはどう思うかな?」

「…え?ん、んー…」

と、今度は神谷さんから急に振られたので、またもや呆気にとられてしまったが、ふと見渡すと、他の一同が顔に興味津々といった調子の笑みを滲ませながらこちらを見てきていたので、以前から義一と議論していたこともあり、自分なりではすぐ様に答えた。

「そ、そうですねぇ…も、勿論、私はまだそんな社会に出る様な年齢…って、これだと自分で歳を明かしてしまってる様なものかな?」

「あははは」

「ふふ、琴音ちゃん、大丈夫だよ。僕が何とかその辺はボカしとくから」

「あ、そう?…ふふ、じゃあ、えぇっと…まだ社会に出る様な年齢ではなく、むしろまだ守られている側ではありますが、それでも、そんな私でも、皆さんの話ではないですが、この議論の持っていかれ方、その仕方に大きな違和感を覚えます。それはもう単純と言いますか、今までの議論で散々出てきたことですけど、”人材”だとか、”活用”…私もよく普段からテレビや雑誌、もっと言えばネットすらよく見ないんですけれど、それでも耳に入ってくるのは、活用って言われて、世の女性達は、本心からかどうかはともかく、喜んでいるって話なんです」

「うん」

「これは…正直驚くと同時に…引きました。同じ女として。だって…”活用”ですよ?まず私が思ったのは、『何でそんなに上から言われなければならないんだ?』って事だったんです。だってそうですよね?『活用してやる』って、主に男側から言われてるんですから。何なんですかね…?世の女達は、口では『今まで男に差別されてきた。下に見られて見くびられてきた。これからは男女平等でなくてはいけない』などと言うくせに、それで代わりに何を出だすかと思えば、大昔からあった”男の社会”に入りたいが為に、わざわざ自分を”人間”ではなく、ただの物か道具程度に卑下して、『どうかお願いですから、私たちを使ってください』って頼み込んでるのが、今の現状な訳です。…んー、こう言うと、本人達からは違うと反論されそうですが、少なくとも私にはそう見えます。というか…そうとしか見えません」

と私は、途中から一人で熱くなってしまい、ここまで一気に話切ったが、ふと周りを見渡すと、島谷さんを除く他の面々が、満足そうな柔らかな笑みを浮かべてきてくれてたので、この面々の中ではあながち的外れな意見では無かったんだと胸を撫で下ろした。

だが、島谷さん一人が、”昭和メガネ”の奥にある、つぶらな瞳を目一杯大きく見開いてこちらを見てきていたので、彼だけ違うのかと、少しおずおずとしながら見つめ返していたが、フッとある瞬間になると、「あははは」と、例のごとく身体を大きく揺らしながら笑い出した。

「あははは!いやぁ、ここにいる皆さんから話を聞いていたけれど、直接会うまでは、そんな子が本当にいるのかと訝ってたんだけど…ふふ、本当に考え、思考が深い子なんだねぇ」

「あ、い、いや、そんな…」

と、例のごとくとコレに関して自分で言うのは馬鹿みたいだが、また私を褒める様な雰囲気が醸成されてきつつあるのを察した私は、慌てて否定を試みた。

「い、いやいや、今話したのは、義一さんと以前に二人で議論した内容を、そのまま話しただけなので、その…私だけの意見では…」

「ふふ」

と、まだ訂正の途中だったが、ここで不意に義一の微笑みに途切らされた。

「まぁ今のところはこの辺にしておこうか。で、何だかどんどん話が逸れていってしまってる様だけれど、大事な話だから少しばかり掘り下げてみると…うん、琴音ちゃん、今君が言った通りだよね。えぇっと…」

と義一は、おもむろに紙に”奴”の字を若干大きめに書いた。

この瞬間、先ほど言った、この問題について以前宝箱で議論をした時と同じ流れだったので、すぐに何を話そうとしているのか分かったが、まだこれが雑誌の中身のモノだと気付き、余計な口を挟むのは控えた。

「”奴”って漢字がありますよね?これも読者の皆さん向けに話すんですが、”奴”…この漢字というのは辞書を引くと『人を卑しめていうとき、無遠慮にいうときに用いる』とあります。もしくは、『奴隷の様に地位の低いさま。能力の劣ったさま』とあったり、『女性が自分をへりくだっていう言葉』とあります」

「うん」

「で、ですね、そもそも元々はと言うと、この字は”女”と”又”の二つに分けられるわけですが、これが何を意味してるか?それは…『手で労働する女の奴隷』って事なんです」

「うん」

「ふふ、もうお分かりでしょう?つまりですね…ふふ、今この場には女性が一人しかいないんですが、その彼女が自分の口でズバッと言ってのけてくれたので言いやすいんですが、そもそも昔の女性というのは、自分から男の社会である”仕事”、外に出て仕事するというのを卑しいものと認識していたって事なんですね。だってそうでしょう?読んで字の如くで」

「うんうん」

「ふふ、ありがとう。またこうして彼女が力強く同意してくれたので、また話し易いのですが、今では死語になってしまってますが、ついこないだ、数十年前までよく奥様同士で話されてたはずですよ。『全くウチの亭主ときたら、仕事仕事ってこればかりなんだから。そんなに外で仕事をしてる、それだけで偉いのかしらねぇ?全く…家事しかしないって主婦を馬鹿にしてるんだから。誰が家を守ってると思ってるのかしらね?私がいなければ何も出来ないくせに』と」

「あははは」

「そうだねぇ」

と、ここで神谷さんが、悪戯っぽい笑みを浮かべつつ口を挟んだ。

「今時、まぁ世の風潮のせいもあるんだろうけれど、そんな”常識”的な事を言う女性も少なくなったねぇ…。まぁ琴音ちゃん、そして勇気を持って話してくれた義一くんに乗っかる様だけれど、年寄りの特権を乱用させてもらって、それに沿う形で一つ、ある人の言葉を思い出したから述べさせて貰うね?」

「…ふふ」

これも年寄りの特権なのか、まだ雑誌の中の対談だというのに、神谷さんはすっかり普段の調子に戻り、”義一くん”と”編集長”を呼んでいた。それに気づいて思わずクスッと笑ってしまったのだが、そんな私にニコッと一度、こちらの意図を知ってかしらずか笑って見せてくれた後で、神谷さんは続けた。

「これは勿論、義一くん、それに武史くんなど他の皆も知ってる話だけれど…私の好きな人でチェスタートンっていう、十九世紀から二十世紀にかけて活躍した、推理小説家にして偉大な保守思想家がいるけれども…」

チェスタートンの名前は、これまでも何度か出てきてるからお馴染みであるだろう。義一との会話の中でも何度も出てきてるし、一度軽くこの数寄屋で保守とは何かの話をした時、その後で実際にそれら関係の本も借りる様になり、これまで読んだ中で既にチェスタートンの本も読み終えていた。

「こんな事を言ってたね。『今の女性たち、主に男たちが沢山いる会社などの中で働いている、いわゆるOLたちというのは、どこか家事をしている専業主婦をしている女性たちを見下しているフシがある。『何さ、あの主婦という連中は。毎日毎日家事をしてるだけで、同じ事を繰り返してさ。よく飽きないものだね』と。それが見下す一つの点らしいが、私の考えは全く違う。主婦の方々は活力がないから同じ事を繰り返しているのでは無い。活力が有り余ってるから、倦む事なく毎日同じ事を繰り返せるのだ』」

「うんうん」

「『子供を見てみればいい。子供というのは、毎日毎日同じ遊びを何度も繰り返しても、それでも飽きずに明るくはしゃいで見せているではないか。子供は活力が当然、一般的な大人たちなんかよりも有り余ってるから、ああして何度も同じ事を繰り返せるのだ。それに引き換え、大人になった男ども、それに最近では”男の真似事”に精出している女性たちはどうだ?活力を失ってるが為に、どこか刺激が無いと落ち着かないというので、家の中に留まる事が出来ずに、仕事と称して新奇なもの、退屈を紛らわせてくれるものを求めてさまよい歩いているではないか?これが果たして、子供、主婦と比べて優れているだなんて言えるのだろうか?』とね」

「うんうん!」

と私は力強く、”一応”メモを取りつつ頷いた。

…というのも、実際に本で読んだというのもあるが、それ以前に繰り返し言ってる宝箱での議論の中で、義一が話してくれてた事だったからだ。これを引用する辺りも、括弧付きではあるのだが師弟でそっくりだった。

神谷さんが話し終えた後、一同はにこやかに笑い合っていたのだが、ここで今更ながら、ふと浜岡の姿が無いのに気づいた。

ママが飲み物のお代わりを持ってきていた時に、何やら耳打ちをされていた様だったが、その後で知らないうちに部屋を出て行っていた様だ。

不思議には思いつつも、それに対して誰も何も触れないので、私は空席になった浜岡の座っていた辺りをチラッと見るのみにとどめた。「あははは。でも先生」

と満面の笑みを浮かべつつ、島谷が神谷さんに話しかけた。

「その主婦の方々もすっかり様変わりしてしまったというか、自信を喪失してしまってる様で、ここ最近ずっと出ている事なんですが、主婦たちに自信を持たせる為に、何と、家事というのが時給に換算するといくらなるかだなんて指標を出してたりしてるんですよ」

「へぇ」

「はぁ…」

と、これを聞いた武史は、テーブルに肘をつき、おでこに手を当てつつ、首を大きく横に振りながら溜息混じりに言った。

「やれやれ…。そんな無粋な事をやるなんてねぇ…。これでまた、主婦から目に見えた表立った反発が無いっていうのが、もう…イかれてますね」

「あははは」

「あはは。…って、いやぁ…」

と、神谷さんは禿頭をまた自分で撫でて見せつつ、照れ臭げに一度一同を見渡し、最後に義一の向きで止めると言った。

「まぁ私のせいなんだが、話がすっかり逸れてしまったから…編集長、話を元に戻して貰えるかね?」

「ふふ、それは中山さんが”フォーディズム”に触れたことから始まった気もしますが」

「あ、そっか…。ふふ、悪かった」

「ふふ。えぇーっと…はい、分かりました」

そう答えた義一は、自分のメモに目を落として確認してから口を開いた。

「まぁ付け足すこともこれと言ってないんですが…何で自由貿易を進めても、デフレ圧力にはならないって言ってるんでしたっけ?そのー…誰だっけ?」

「あははは」

「ふふ」

「あはは。デフレと相対価格の変化を混同してると。デフレと市場競争は別なんだって言ってるんですねぇ」

「ふふ。でも、今説明した…というか、整理した様に、どこが別なんだか分かりませんよねぇ?」

「ふふ、うん」

「そいつの中では別かも知れないけれど、世の中では一緒何だけれど…あ、すみません」

武史がこの様な合いの手を入れた途端、また神谷さんが昔の教師よろしく、チョークを投げる様な動作をして見せたので、武史はすかさず座ったまま深く頭を下げた。二人とも明るい笑顔だった。

「ふふ」

「ふふ。まぁでもー…」

と義一はこう口を開くと、語尾を伸ばしながら周りをグルっと見渡し、それから続けて言った。

「分かりませんよ?”そいつ”さんは経済学者の大先生で、僕はただの人ですから」

「ふふ」

「僕は経済学の事なんてよく知らないですし…。ふふ、もしくはー…もしその先生が経済学では正しいのだとしたら、そもそも経済学自体が間違っているのでしょう」



義一のこと発言の後、また一度、私も含めた皆して明るい笑い声を上げたが、ふとこの時ガチャっと部屋の扉が開いた。その方を振り返り見ると、そこには今まで退席していた浜岡が、手に紙袋を下げて立っていた。

そして何も言わないままにテーブルに近寄り、

「はい編集長、ようやく来ましたよ」

と笑顔でそれを義一に手渡した。

「?」

と不思議に思いつつ傍からその紙袋を眺めていたが、「あ、ありがとうございます」と、義一は紙袋の中を覗き込みつつ返していた。

「ねぇ義一さん…それは?」

と声を掛けると、義一はニコッと目を細めて笑って見せるだけだった。

そして義一は紙袋の中に手を突っ込むと、中のモノを順に順に取り出し、それをテーブルの上に置いていった。

見るとそれは、どうやら本のようだ。どれも同じのらしい。

私が何だろうと表紙を見ようとしたその時、義一はおもむろに立ち上がると、それらを神谷さんに始まり、順にそれらを配っていった。面々は何も言わずとも分かっているらしく、

「ありがとう」などと各々各様にお礼を言いつつ受け取っていた。

今だに意味がわからない私は、ただ呆然と眺めていたのだが、最後に義一は元の席に座ると、残った一冊のそれを私に差し出してきながら言った。

「…ふふ、琴音ちゃん。これは一応琴音ちゃんの分なんだけれど…」

「え?」

と声を漏らしつつ受け取り、その表紙を見ると、そこには『二十一世紀の新論』と、ただこれだけのシンプルな題名が出ていた。

表紙だけ見ると、縦長のいわゆる新書サイズに見えるのだが、しかしそれを横から見ると、新書らしからぬほどに分厚いものだった。

ペラペラと何気なくページを捲ると、字も小さめなサイズで、一番最後のページ番号を見ると、四百何十ページとプリントされていた。「これって…」

と、最後の後書き部分に目を落としつつ声を漏らすと、義一は柔らかな口調で返した。

「んー…ふふ、以前に…そうそう、神谷先生が宝箱に来た時に君も鉢合わせたでしょ?その時に会沢正志斎などの所謂古学、国学者の話と、その流れ上にいる福沢諭吉の話をしたと思うけれど、その本がようやくこうして形になったんだ」

「あ、あぁー」

と、私はその言葉を聞いて、今度は目次部分を探して見ると、そこには以前に義一が触れた思想家たちの名前が連なっていた。

「だからね」

と、私がまた本に目を落としている中、調子を変えることなく話しかけてきた。

「予定よりも一ヶ月ばかり遅れてしまったけれど、もし良かったらそのー…僕のその本を、また読んでみてくれないかな?それでー…また感想をくれるとありがたいんだけれど…?」

と、途中から”何故か”不安げな口調に変化させながら言うので、思わず私は顔を上げて、そしてすぐに苦笑いを浮かべつつ義一の顔を見た。そしてその苦笑を交えつつ、すぐに返した。

「…ふふ、義一さんー?もう何度目になるか分からないけれど、私とあなたの間で、そんな気の使い方は不要よ?そんなの…」

と私はここで一度手元の義一の新刊を、表裏と何度かひっくり返して見せながら続けた。

「当然読むに決まってるじゃない。そのー…ありがとうね」

と言い終えて、最後に微笑みをくれてあげると、「いやぁー…うん、こちらこそ」と義一はまた照れた時のクセ、頭をポリポリと掻きながら返した。

その直後には、また一同で和やかに微笑み合うという柔らかな雰囲気が場を満たし始めたがその時、ガチャっとまた”絶妙な”タイミングで部屋のドアが開けられた。

そしてヒョコッとママが顔だけ見せた後思うと、明るい笑みを浮かべつつ私たちに声をかけてきた。

「先生方ー、今がキリが良いようなので、この辺で一先ず打ちきって食事でもどうですか?」

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