第18話 (秘蹟)

ビュー…ビュー…

…ん?

風音に似ているが、実際は違うとすぐに察せられる様な、なんとも表現し難い音と、それと同時に鼻腔を微かにくすぐる様に満たす爽やかで芳しい香りに気づかされた。

…そう、後になって藤花と藤花のお母さんに教えてもらった、乳香の匂いだった。

前回と同じで、蹲った所から始まった様だ。…もう言うまでもないだろうけれど、敢えて言えば、またあの夢の中に来たらしい。

「…っと」

と思わず声を漏らして顔を上げたが、この瞬間、何故蹲っていたのかを思い出し、途端に口元を両手で塞いだ。

そうだった。今私は以前いた大広間から移動して階段を登り、今は太い柱が数え切れない程に立ち並ぶ、礼拝堂の様な所にいたのだった。そして最後、幾人か…正直今だに姿形こそ人だったが、人とは思えないその”ナニカ”の群れが突如現れて、そしてこうして今の様にたまたま見つけた。基礎を屈めれば入れる程度の広さの窪みに隠れて、息を潜めていたのだった。

ふとまたあることを思い出し、目の前の柱の一つの、その上部を眺めてみた。

相変わらず辺りは、私の手元で淡く柔らかいオレンジ色の光を漏らしているカンテラ、それにぼうっと照らされて浮かび上がる私の身体以外は、灰色一色、違いがあるとすれば、光による濃淡のみだった。

そんな気が重くなる様な風景の中、柱の上部には前と変わらずに真っ黒のマリア像が飾られており、薄暗がりにも関わらず、その顔は私の方を見下ろし、そして心なしかこちらに微笑みかけてきてる様に見えた。

思わずその黒いマリア様に見惚れていると、また例の音が耳に届いた。

ビュー…ビュー…

…さっきからなんだろう、この音は…?

やはり何事も、特にこのような異様な空間の中で突然出現する思い掛けない出来事に関しては、胸の中を恐怖感が占めていくのだが、しばらくして慣れてくると、今度は一気に好奇心に心を揺さぶられるのだった。

私は今いる窪みからそっと這い出て、目の前の”黒いマリア様柱”の影に合わせて立ち上がり、それからそっと向こう側を見ると、前回見た修道士姿の”ナニモノタチ”が、何やら祭壇らしき前に集まり、そしてその中の一人が膝をついて何やら口元を動かしていた。

…何故わざわざ口元を動かしていたなどと、曖昧な言い方にしたか。それは…先程来聞こえていた風音もどきの出所が、そのモノの口から発せられているのに気づいたからだった。

口元は忙しなく動いており、私に読唇術の心得があったなら分かったかも知れないが、結局耳に届くのはビュービュー音のみで、それが何を意味してるのか、まぁ何か祈りを唱えていること以外には分からなかった。

しばらくすると、跪いていたモノは立ち上がり、半歩ほど後ろでジッとしていた他のモノどもを伴って、礼拝堂の中を、柱の間を縫うようにゆっくりとしたペースで歩き回り始めた。

シャン…シャン…シャン…

と同時に、何だか規則正しく鳴る鈴の音が、礼拝堂内に響き渡っていた。

…何の音だろう?

思わずその音に気を取られそうになったが、途端に我に返った私は慌てて、また窪みに慌てて滑り込んだ。

徐々に鈴の音、それと一緒に乳香の匂いが強まるのを覚えつつ、また膝を抱え込んだその時、ちょうど目の前を修道服姿の数名が、のっそりとしたペースで通り過ぎるところだった。

と、おそらく先ほど跪いていたモノだろう、先頭を歩いていたがその手元には、鈍い光を反射する金属物があった。それは金属製の鎖によって吊り下げられており、よく見ると鈴が鎖に付けられていた。それを等間隔に左右に振っていたので、それによって鈴が鳴っていたのだった。

と、それと同時に、うっすらと隙間から乳白色の煙が漏れているのも見えた。どうやらこれが乳香の香りの元らしい。目の前を過ぎる時が一番匂いが強まっていた。

相変わらず何か祈りの言葉を吐いていた様だが、やはり耳には風の音の様なものしか聞こえなかった。

どれほどそうしていたのだろう、一通り済んだのか、その一団はふと、私がここまで来るのに使った階段の方へ向かって、それから揃って階下の方へと歩いて行ってしまった。

「ふぅ…」

と私はまた窪みから這い出ると、思いの外緊張していたらしく、体がカチコチになっていたので、その場で大きく伸びをしたりした。

そして一度また黒のマリア様に目を向けて、それからは好奇心を抑えることなく、先ほどの集団が固まっていた祭壇の方へとまっすぐ向かった。一体何に向かって、そんなに熱心にお祈りをしていたのか気になったからだった。

だが、着いてみてすぐには、何が何かは把握できなかった。と同時に、少し…いや、かなりガッカリもしたのだった。

というのも、目の前にあったり置かれたり、飾られたり全てが、一口に言って煤けてボロボロになっていたからだった。

祭壇自体は幅が二、三メートルほどだろうか、それ自体はなかなかしっかりした頑丈そうな作りをしていたが、その上を覆う様に掛けられていた織物が、これでもかという程に至る所が破けており、見るからに埃まみれで、手で触るのは躊躇するほどだった。息を吹きかけたら、それだけで舞い上がりそうな程に積もっていた。それでも灰色一色の世界の中とはいえ、よーく見ると、そのボロ切れは、元々は上等な物だというのが辛うじて分かった。美しい透かし模様のシルク・ビロード・サテンで作られた精巧なものだったらしい…が、その上等さはもう見られなかった。

少し屈んで見ると、ボロ切れの隙間から祭壇の前面にも凝りに凝ったレリーフ…の跡が見えた。中心には生まれたばかりのイエスキリストを抱いたマリア…らしきものがいて、その両脇を合計四人の天使…らしきものが取り囲んでいた。この手のモノについて門外漢の私でも、前回に修復なり何なりをしてから大分月日が経っているのが分かった。

祭壇の両脇には二本のロウソクたてがあったが、両方ともロウソクは刺さっていなかった。ただあるのみだった。

…とまぁ、色々とガッカリポイントは挙げるだけでもキリが無いほどにあったが、極めつけは…祭壇の後ろにあった祭壇画だった。

それは三枚の板絵が横一列に、左右の板絵が中央の板絵のトビラとなるように連結された三連祭壇画…ではあった。その表面の三分の二ほどは剥げ落ちてしまっていて、下地が無残にも露わとなっていた。それでも残りの三分の一部分で、辛うじてどんな場面が描かれているのかが分かった。中央部分に、顔の剥げ落ちたキリストと、体の殆どを消失しているミカエル、その周りに”本来は”いるはずの聖母マリアと洗礼者ヨハネを始めとする十二使徒の姿は…見事に全て消え失せていた。翼の左端、そこには聖ペテロと救われた者たちの群れる天国が描かれていたハズだったが、やはり所々破けていたりしていて、とてもじゃないが天国には見えなかった。それと反対側には地獄が描かれていたのだが、本来は罰すべき者が地獄へと堕ちていく様子が描かれている…ハズなのだが、それもやはり天国と同じほどの損傷具合だったので、こちらの場合は”地獄具合”がすっかり薄れて、見るも無残な見た目をしていて、恐ろしさがあるどころか滑稽だった。

…とまぁ、ここでまるで元を知ってるかの私の口ぶりに、不思議に思った方もおられることだろう。

…そう、”勿論”私は元を知っていた。それもそうだろう。言うまでもなくこれは、私の夢なのだから。

そもそも現実世界で知らないものを、夢で見ると言うのは、余程の偶然でも無い限り無理な話だ。

…と、ここでこんなツッコミが来るかも知れない。

『お前、こないだ大広間に出た時、ゴシック建築様式なんぞ見た事無いって言ってたじゃないか』と。

…そう、その通り。夢の中では見たことが無いとそう思い、だからこそ不思議に思った訳だったが、夢から覚めて何度か宝箱を訪れた時に、ふと何かの拍子でゴシック建築を纏めてある画集を見せて貰った時に、その時に初めて、『あぁ、こうして前に見せて貰った事があったな』と思い至った次第だった。

…私の記憶力のなさに対して、素直に謝りたいと思う。

と、それはさておき、話を戻すと、この祭壇画も先ほど触れた様に、何かの拍子で義一に見せて貰った画集の中にあったものだった。

軽く触れると、オリジナルは北方ルネサンスの巨匠である、ハンス・メムリンクが書き上げた「最後の審判」だった。新約聖書に記された、世界の終末にイエス・キリストが再臨し、生者も死者も全て天国へ送る者と地獄へ送る者に選別するという“最後の審判”の様子が描かれている。

その壮大な元ネタを知ってただけに、ガッカリ具合もひとしおだった。

ガッカリしたと同時に、先ほどの不気味な修道着姿の一団に対しても、異様さからきてたはずの恐ろしさがすっかり薄れてしまっていた。何せ、あそこまで荘厳な儀式をしていたというのに、肝心の祭壇なり何なりの整備が全くなされていなくて、明らかに今までほっといていたのが丸わかりという事実…単純な感想を言えば、これらすべてを引っくるめて、ただの”ごっこ遊び”としか思えなく、そこにはいわゆる”信仰心”なるものが微塵も見られなかった。繰り返す様だがあまりに滑稽で、恐れが薄れるのと同時に、すっかり白けてしまった。

私は一人呆れ笑いを力無く浮かべると、ストンとその場に座り、膝を抱え込んだ。そして体育すわりをしつつ、ジッと目の前にある悲惨な見た目をした祭壇画を見ていた。

と、見ながらふと、ある意味当然の疑問が湧いてきた。

今更だけど…何でそもそも私って、繰り返しこの夢を見てるんだろう…?私の夢なんだから、何かしら私の意識が関係しているのは間違いないだろうけれど…今まではとても色んな荘厳な物を見せられたりして、そこには何かしらの深い意味もありそうだとか、そんなことを思ったりしたけれど…今回に限っては、最初に見た黒のマリア像を除けば、見るもの全てがとても醜く、汚らしく、でもその具合が中途半端なせいで、滑稽さに拍車をかけている…。ここにきて急にこんな夢を”私”が”私”に見せてきたのにも…何か理由があるのかしら?

「…理由を、知りたい?」

「…え?」

突然、妙にハッキリした声で話しかけられて、心臓がキュッと締め付けられる様に感じるほど、面を食らい驚いて慌てて辺りを見渡したが、当然…というか、この場には私以外にいなかった。

驚くのも無理はない。何せ、この夢を見だしてから、そもそも独りというのもあって、まず声を発してこなかった中で、急に他者の声が、しかも鮮明に聞こえたとあれば、誰でも驚くだろう。

…あれ?誰も…いない…よね?でも…まるですぐ背後で話しかけられたかと思う程に、身近に、すぐ側に感じた…んだ、けれど…。…っていや、そんな事よりも

と、私はまた一度周囲を見渡して、今浮かんだ自分の考えを、自ら確認するが為のように、ボソッと口に出した。

「あの声、私…よく知ってる」

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