第7話 フィールドワーク

 ようやく中間考査が終わり、繰り下げられたLHRの時間が訪れた。


 担任の竜造寺先生は廊下で黒樺と進路相談をしており、教室は自習時間となっている。それでも今が授業時間だという自覚はあるのか、それとも竜造寺先生による指導の賜物であるのか、生徒たちは試験から解放されたというのに不気味なほど静かだ。


 勉強疲れからくる脱力感に襲われているらしく、何もせず虚空を見つめる者や、机に突っ伏して寝ている生徒が多数いる。ちょっと心配になってくるほどの心理状態だが、僕としては好都合だ。


 これを機に、来週のLHR時間の授業を完璧にするため、生徒たちから関心のあるテーマを探すべく情報収集しよう。まずは手始めに、一番前の席にいる蛸星から話しかける。


「……なんで世界史の勉強してるの?」

「……勉強熱心でしょ?」


 いつも隣の席同士で無駄話をしている黒樺がいないからか、蛸星にしては珍しく一人で勉強していた。中間考査が終わったばかりだというのに、この意識の高さは何だ?


「熱でもある?」

「どういう意味ですか⁉」


 額に当てた手を振り払われた。何も顔を真っ赤にしてまでムキになることないのに。ちょっとからかい過ぎたか?


「冗談だよ。邪魔したね」


 おそらく、世界史のプリントは何かの課題だろう。それが試験の結果と関係ないことを祈るばかりだ……。


 後ろの席にいる奴は寝ていたので、次は女生徒に話しかけることにする。このクラスでは数少ない女子のため、慎重に話しかけよう。


「君たちも勉強?」

「あー、はい」

「英単テストがあるので」


 席の前後で向き合うように座っていたのは、蛇渕と大鰐という名の女生徒である。動物化する前から派手目な部類ではあったのだが、動物化した今では完全な妖怪と化していた。


 至近距離に巨大な蛇と鰐がいるという、サファリパークみたいな背筋が凍る恐ろしさを跳ね除け、僕は笑顔で会話を続けた。


「試験が終わったばかりなのに偉いね。英語が得意なの?」

「得意って言うか、英検のため」

「英検にしたって、海外に興味あるんでしょ? 行きたい国とかある?」

「別に……」


 マジかよ。本当に彼女たちは進学が有利になる検定のためだけに、わざわざ貴重な時間を削って英語を勉強しているらしい。別に悪いとは言わないけど、それって楽しいか?


 ここは一つ、僕が海外の魅力を語るしかないだろう。そして少しでも興味を持ち、モチベーションとなってくれたら幸いだ。


「僕も中学生の翼でカナダに行ったきりだけどね。せっかく勉強しているのなら、積極的に海外へ行った方がいいよ」

「はぁ……」


 ヤバい。いい加減にどっか行けよ、という無言のプレッシャーが押し寄せて来る。これ以上は危険だと察した僕は、大人しく退散することにした。


「結果的に邪魔しちゃったね。それじゃ」


 ……ふぅ、女子高生という生物は心臓に悪い。彼女たちは特に何の根拠もないくせに、群れて行動することで自尊心を保っているため、接するには細心の注意が必要だ。

 だが、僕はめげずに次なるターゲットへ目を向けた。


「宍戸さんは何してるの?」


 後ろの席である宍戸さんは蛇渕や大鰐とは違い、地味で真面目な生徒だ。一人でボーっとして座っているだけだなのに、動物化した今では雌ライオンの風貌で王の気品に満ち溢れている。おそらく、獅子が由来なのだろう……。


「英語のプリントが終わったので、今は何もしていません」

「解くの速いね。勉強は好き?」

「……分かりません」


 一応は考えてくれたのだろう、微妙な間の空きがあった。別に勉強は好きでも嫌いでもないけど、なんとなくできてしまうからやっているだけ、とでも言いたげな態度である。


 てっきり宍戸は典型的な優等生だと思っていたが、本当は何か人間的な欠陥を抱えているのか? そう思うだけで、僕の中の知的好奇心が刺激された。


「行きたい大学はある?」

「N女子大です」

「どうして行きたいの?」

「え? どうしって、って……」

「やりたいことがあるんだよね?」


 僕の質問に対し、宍戸は何も答えられなかった。彼女も他の生徒と違うようでいて、その本質は同じく空っぽだ。特に生きる目標は無く、生活する上での手段が目的化している。


 ただ、僕はここまで追い詰めるつもりはなかった。きっと宍戸ならやりたいことが明確なのだろうと、人間としての可能性を勝手に期待していたのだ。だから、僕は慌てて宍戸のことをフォローする。


「ま、とりあえず大学に進学してから考えればいいよ。自由であるのが学生の特権だし、何も無いということは何でもアリっていうことだしね」


 ちょっと無責任な言葉のようにも思えたが、細かいことは気にせず宍戸は笑ってくれた。


「適当すぎません?」

「僕が偉そうに言えた事じゃないけど、勉強だけが全てなわけじゃないから、たまには息抜きも必要だよ。まずは暇な時間に本でも読んでみたら?」

「お薦めあります?」

「SFなら『星を継ぐ者』で、ファンタジーなら『精霊の守り人』かな。実際に図書館で見て選ぶのも面白いよ」

「参考にしてみます」


 今更ながらにして教育実習が始まってから、ようやく実習生らしいことができたような気がする。ああ、確かに実習生という曖昧な立場からコミュニケーションすることで、生徒の知られざる一面が引き出されることもあると再認識した。


 しかし、これでは当初の目的であった、授業テーマ作りの情報を全く回収できていない。この反省を次に生かそうと、僕は教室の後ろで屯っている男子グループに話しかけた。


「君たちは何を話しているのかな?」


 楽しそうに会話していた丸亀、猫田、八木の三人は、急に話しかけられて面食らっているようだった。それでも乱入されて機嫌が悪くなるということはなく、丸亀はフレンドリーに迎え入れてくれた。


「バニッシュマンって知ってます?」

「……日曜の朝と関係ある?」

「あれ? 確か先生の大学にいる公式キャラですよ?」


 猫田に指摘され、止まりかけていた思考を回す。ヒーロースーツを着た学生ボランティアの存在は見たことあるが、それほど僕は大学の事情に詳しいわけではない。


「いたような、いなかったような。で、そのナントカマンがどうしたの?」

「や、どうもしないんですけど、最近よく通学路で見かけるなぁって」

「逆にメッチャこっち見てくる!」


 八木は呑気に笑っているが、あれって大学の構内から出ていいのか? 何かのイベントというわけでもなく? ただ学生を見守っている? 意味が解らない。謎が謎を呼ぶ。


「……それって人気?」

「先生が知らないんじゃ、少なくとも知名度は低いでしょ?」


 丸亀が断言する。完全な不審者じゃん。大学の公式キャラだから扱いは難しそうではあるものの、然るべき処置をするよう進言しておくべきか?


「まぁ、映画のキック・アスみたいではあるよね」

「映画なら稲葉が詳しいですよ」

「そうなのか。じゃ、ちょっと話しかけてみよう」


 便利に宛がわれたようにも思えるが、これ以上の収穫も無さそうなので、猫田からの情報を有効活用させてもらおう。僕は一人で退屈そうにしている稲葉へ足を向けた。


 すると、僕のことを親の仇であるかのような目で睨む、一対の視線があった。


「こっち来るなよ!」


 声の主はその名の通り、シロクマとなってしまった白熊である。白熊プロジェクトである。いや、全然面白くないな。見ると彼は机の下で、コソコソとスマートフォンのゲームアプリを操作していた。

 僕は見て見ぬ振りもできず、呆れながら注意する。


「……だったら堂々とスマフォを弄るな。竜造寺先生に報告するぞ」


 僕は軽口のつもりだった。実習生として警告さえ受け入れてくれたら見逃すつもりだったのに、白熊は目を見開いて抗議する。


「したら一生、軽蔑する!」


 必要以上に大きな声で脅してくるので、教室内の空気がシンと静まり返った。ここで叱っても逆効果のため、僕は余裕を持って優しく白熊を諭す。


「別にどう思われようと知ったこっちゃないが、自習の時間に一人でスマフォをチマチマ操作してるなんて、せっかく学校に来たのに悲しくならないか?」

「俺の勝手だろ」

「いちいち机の傍を通る度に吠えられては敵わん。自分の行動に正当性を示したいのなら、他人を説得できるだけの根拠を述べろ」

「これから部活だから集中力を高めてんすよ」


 その場しのぎの言い訳である。結局、白熊は自分のことしか考えていないのだ。このまま放置していても後味が悪いと感じた僕は、ちゃんと彼と向き合うことにした。


「部活に精を出しているのは白熊だけじゃない。みんな条件が同じなら、自習の時間が終わるまでコソコソしているより、少しでも時間を有効活用した方が得じゃないか?」

「じゃあ、何したらいいんすか?」

「やりたいことやればいよ。ただ、野球だけが全てじゃないし、勉強だけが全てじゃないし、友情だけが全てじゃないし、恋愛だけが全てじゃないから。自分の殻に閉じ籠ってジジ臭い生き方するくらいなら、他人の壁を蹴破ってでも何かを掴み取れ」

「よく分かんねっすけど、とりあえず寝ます!」


 清々しいほど潔い判断だ。少しでも僕の言いたかったことが伝わったのかは半信半疑だが、これで白熊を黙らせることには成功した。引き続き、生徒から情報収集を行おう。


 しかし、面倒な白熊の相手をしていたら、授業の残り時間が中途半端なことに気づいた。なるべく教室内を一周したいため、次は稲葉ではなく、前の席にいる狸穴と言う名の男子生徒へ話しかける。


「何読んでるの?」


 僕が話しかけた途端、狸穴はブックカバーの付いた文庫本を急いで机の中にしまった。普通なら自意識過剰すぎてキモい動作なのだが、間抜けな狸顔が愛らしかった。


「あ、いや、何でもないです……」


 嘘吐くの下手糞すぎるだろ。狸穴はクラス内でも目立たない存在のため、何をするにも息を潜めるように怯えている。


 それは別にコミュニケーション障害と言うことではなくて、ただ単に同じ趣味を共有できる友達がいないからだろう。


「ここのクラスメイトが本を読まないというだけで、別に恥ずかしがることじゃない。好きなものは好きと言うべきだ」

「……これです」


 狸穴が差し出したのは、表紙に二次元の女の子が書かれた本だった。えっと、肝心のタイトルは『ホーンデッドキャンパス』? エンタメ小説と言うよりかは、ライトノベルに近い代物らしい。


「知らないタイトルだけど、ライトノベルなら僕も前は良く読んでたよ」

「え、詳しいんですか⁉」

「最近は発掘しなくなったけどね。狸穴君はこの作家が好きなの?」

「そういうわけじゃないんですけど、ネットで有名だったり、書店でプッシュされてる本を手に取って、あらすじが面白そうだったら読むようにしています」


 ほう、なかなか研究熱心で偉いじゃないか。その得意気な口ぶりからして、けっこうな量の本を消化してきたのだろう。どんな本が好きなのか興味が湧いてきた。


「お薦めはあるかな?」

「えーと、最近で一番面白いと思ったのは、確かこの前受賞した『イデオローグ』です」

「どんなストーリー?」

「非リア充の男女が恋愛撲滅運動をするという、ちょっと社会派っぽい青春物語ですね。先生のお薦めは何ですか?」


 クラス内での存在感は空気のくせして、その内に秘める心は荒んでるなぁ。というか、物語の登場人物に自分を重ねすぎだろ。


 それよりも、ストーリー性に理念や理屈を求めるのであれば、ラノベよりも大槻ケンヂや、金城一紀を強くお薦めしたい。あくまでもラノベは商業的な娯楽作品だと僕は捉えているので、おそらく狸穴とは好みの質が異なるだろう。


「ラノベだと基本はコメディしか読まないから、狸穴君の参考になるかは分からないけど、お薦めできるのは『ベン・トー』かな。けっこう有名なんだけど知ってる?」

「いや、知らないです。どういう話ですか?」

「スーパーの半額弁当を奪い合う話」

「…………え、それ面白いですか?」


 まぁ、予想できた反応である。こればかりはキーワードに関して、本人の嗅覚が働くかどうかなので仕方ない。他に説明しようがないのだ。


「くだらなさに熱中するのが面白くて、すっごく笑える」

「……他にありません?」

「『学校の階段』」

「あのドラマですか?」


 今の高校生は学校の階段と聞くと、怪談よりもカイダンを連想してしまうらしい。ふとしたことでジェネレーションギャップを感じたが、僕は構わずに説明を続けた。


「いや、レース物。階段レースと言って、校舎の中を疾走する」

「何のために?」

「走りたい衝動に駆られたからさ」


 何度でも言うが、理屈ではない。何かをするうえで理由が無ければ駄目とか、思想があった上での活動とか鬱陶しいだけだ。ただ面白そう。だからやる! それだけの初期衝動さえあれば迷うことはない。

 しかし、僕の熱弁も狸穴には届かなかったようだ。


「……よく意味が分からないのですが、古本屋にあるか探してみます」

「よろしく頼む。それじゃ」


 中途半端に狸穴と趣味が一致したせいか、思っていたより話し込んでしまった。意外とみんな自分の席で大人しくしているので、一人ひとりに聞いて回っては尺が足りない。


 それなら、自分のコミュニティにしか関心が無い生徒よりも、よくクラス内を観察できている生徒に話しかけた方が効率的だと、遅まきながら気づいた。


 というわけで、選んだのは前にクラス内で「ディスり合い」が流行っていると、なぜか自信満々に答えてくれた鮫島である。彼が前後席である鳶丸と牛込と楽しそうに談笑している中、僕は自然体を意識して話しかけた。


「今日もゲームの話?」

「いや、今日は映画の話ですね。今週の金曜ロードショー次第で、『寄生獣』の続編を劇場で観に行こうか相談してます」


 さっき僕は白熊と騒ぎになった後だというのに、いつもと変わらず鮫島は公平に接してくれる。動物化して顔が怖いサメになろうと、なぜか安心できる存在感である。


「どうして『寄生獣』? けっこうクラス内でホットな話題だったりするの?」

「みんな噂してません? そんなに面白いのかなって、すっげぇ気になるんすよ」


 確かにテレビCMなどで、映画『寄生獣』のダイジェストムービーなどが頻繁に流れていたような気はするが、果たして口コミで評価されるような作品だったろうか? おそらく広告会社の陰謀だな。


 やはり映画効果は絶大であることを再確認していると、鳥人間になる前はイケメンだった烏山が会話を展開させた。


「先生は『寄生獣』どう思ってますか?」

「原作の漫画は好きだよ。でも、映画は分からないな」

「僕も漫画は読みましたけど、よく分かんなかったです……」


 ただ読んだだけなら牛込のようになる。その内容を理解したいのなら、何回も繰り返し読んで、構成を自分でまとめなければいけない。


 かくいう僕も、大学のゼミで『風の谷のナウシカ』と、『寄生獣』をテーマにグループワークした経験がある。今すぐ作者のメッセージを牛込に教えてやるのは容易だが、少し考えたところで踏み止まる。


 ……これ授業に使えるんじゃないか? もし生徒たち全員が『寄生獣』の設定を把握しているのなら、それだけで障害はクリアである。さっそく訊き込み調査をした。


「実は今日、来週やる授業のテーマ作りをしているんだけど、このクラスみんな『寄生獣』に興味あるの?」

「え、このクラスでやるんすか?」

「そう。でも、みんな趣味嗜好がバラバラだから困ってたのよ」

「授業で『寄生獣』とか面白そう! ちゃんと成立すんのかな?」

「そこは腕の見せ所。で、みんな『寄生獣』なら認知度は高い感じ?」


 意外そうな反応を見せる烏山と、ワクワクしている牛込。普通の学校なら行わないような、作品を扱う授業をエンタメと期待して落ち着かない様子だったが、鮫島は持ち前の柔軟さで僕の質問に答えてくれた。


「みんな知ってると思いますよ。けっこう話題に上がりますし、金曜ロードショーでも放送されるんですから、誰でも名前くらいは聞いたことあるでしょ」

「よし、じゃ『寄生獣』で前向きに検討してみよう。情報ありがと」


 そうして他の生徒にも『寄生獣』が流行トピックなのか調査したところ、鮫島の言う通りクラス内の認知度は非常に高かった。これなら竜造寺先生も文句は言えまい。


 まさかゼミの研究を教育実習に生かせるとは、思わぬ産物である。ただでさえ僕はHRクラスとの交流が少ないため、授業の準備が楽しくなってきた。




 LHRの時間も終わり、そのまま帰りのSHRを行った。今回は連絡事項が多いので、用件だけを手短に済ませる。


「明日から近所のコンビニが新装オープンします。おそらく多くの生徒たちが殺到すると予想されるので、レジの並び方が記載されたチラシを配ります」


 付属校の立地は坂の上であり、周囲に何も無い町のはずれにあるため、買い出しに行けるコンビニは非常に貴重なのだ。それは近所の住民も同じであるため、店内が混雑するのは避けられない。


 せめて一般人と問題だけは起こさないようにと、学校側から根回しをしておいたらしいが、店側が余計な気遣いを発揮しやがった。


「お、クーポン付いてる!」

「チョコ食い放題だ!」


 配ったコンビニのチラシにチョコ無料券が付いていたせいで、生徒たちは餌を貰った動物のように燥いでいる。


「はいはい、静かに!」


 普段は落ち着いた態度である僕が大声で注意すると、生徒たちは無駄話を止めてくれた。本当に良く調教されている……。生徒たちの意識が僕の方へ向いていることを確認し、続けて連絡事項を伝えた。


「ここからが本題です。来週から新しく道路安全交通法が施行されるのは知ってますよね? どのような内容か覚えていますか?」

「早くして」


 僕の話に割り込んで催促してきたのは、さっきまで竜造寺先生と進路相談をしていた黒樺である。こちらとしては生徒に自覚させる意味でも発問形式を取ったのだが、自分のことしか考えられない馬鹿は早く家に帰ることで頭がいっぱいらしい。

 黒樺のことは邪魔なので軽く受け流し、僕は構わず話を続けた。


「自転車で歩道を走ると違反となり、見つかったら問答無用で罰金が科せられます。自転車で登下校している生徒は気をつけてください」

「早くして」

「いいですか皆さん? 改正ではなく施行ですよ? もし警察に捕まったとして、言い訳が知らなかったじゃ済みませんからね?」

「早くして」


 もう我慢できない。馬鹿を相手にするのは疲れるが、これでは他の生徒にも示しがつかないだろう。僕は話を中断し、不遜な態度を取るカバ女に向き合った。


「黒樺さんは早く帰らないといけない用事でもあるの?」

「…………」


 あれだけ横柄だった黒樺は俯き、僕と目を合わせようともしない。いじけたガキは嫌いであり、見ていて余計に腹が立つ。


 皮肉で僕の方から「早くして?」と、催促するのも悪くないアイデアだが、これ以上追い詰めても意味の無いことだ。所詮、子供は責任など取れないのだから、勝手に信用するだけ無駄なのである。


「何も無いなら黙ってようね。自分がHRを引き伸ばしていることに気づこう」


 なんだか僕が黒樺に意地悪しているような空気になってしまい、どうにも釈然としない。さっさと終わらせよう。


「というわけで皆さん。新しい道路安全交通法が施行されて数日は、おそらく警察官も目を光らせていると思うので、自転車に乗る際は油断しないでください。話は以上です。それでは号令お願いします」

「起立、さようなら!」


 学級委員長である象林の号令と共に、生徒たちは帰りの挨拶をする。僕も挨拶を返すのだが、机を運ぶ生徒たちの喧騒に掻き消されてしまう。


「はい、さようなら」


 どうせ誰も聞いていないのをいいことに、今日も業務が終わって安堵の溜息を吐いた。


 とはいえ、来週からは実習生の授業が始まってしまうため、完全には気を抜けない。放課後は充分な準備をしてから模擬授業を行わなければいけないし、今日の反省とHR授業の研究など、まだまだやることは沢山ある。


「あの、先生。ちょっといいですか?」


 遅刻か早退が無いか出欠表の確認をしていると、狐塚と言う名の男子生徒が話しかけてきた。普段は地味で特徴という特徴の無い彼が、自分から進んで僕に話しかけるとは珍しい。


「どうしたの?」

「確か先生って、C大の政策学部なんですよね? 一体どんな雰囲気の所なのか聞いても大丈夫ですか?」

「ああ、大丈夫だよ。C大が第一希望?」

「いえ、本当はG大が第一希望なんですけど、滑り止めでC大も受けるんです。なので、話を聞けたら良いと思って……」


 ほうほう、こいつは喧嘩を売っているのか? もはや目的のためには手段を選ばない勇気に免じて、親切に大学の違いを教えてやろう。


「ロボットや家電などの電化製品、もしくは車やエネルギーなどを研究開発したいのならG大。そうじゃなくてゲームやアプリなどのソフトウェア、もしくはウェブのデザインとシステム設計を作りたいならC大。狐塚君がやりたいのはどっち?」

「……まだ分かりません」


 狐塚も他の生徒と同じく、やりたいことが見つからない悩める子羊か。まぁ、本当は狐なんだけど、そんなことはどうでもいい。


 ちなみに、僕が今の学部に入った理由は、単にAO入試が楽だったのと、一つの学部でコース別に分かれており、学べる分野が広いことも魅力的だったからだ。その中で社会学や教職の勉強もできたし、やりたいことは見つかりやすいと思う。


「偏差値はC大の方が低いけど、ゲーム作りに関しては軍隊並みのゼミがあって、かなり本格的だよ。ああいうのは実力の世界だし、学歴が就職で不利ということも無い」

「え、ゲームはちょっと……」

「じゃあ、G大だね。落ちたことなんか考えないで、頑張って勉強しよう」


 自ら安全策で自分の世界を狭め、消極的な理由で大学選びをしている奴に付き合っている暇は無い。無いのだが、僕に頼ってくれた狐塚を邪険にも扱えない。


 どうやって狐塚の不安を治めようか悩んでいたところ、真面目な話を断ち切ろうとするクソ野郎が現れた。


「アトムでーす!」


 ……人の名前を馬鹿にして笑っていたのは、これから部活あるとか偉そうに言っていた白熊だ。彼は掃除当番の役目である机運びをサボり、よく分からないギャグセンスで丸亀を笑わせていた。


「アトム、行っきまーす!」


 それはアムロだろ。雑なボケをするな。

 わざわざ僕の前で行っているあたり、誰が見ようと確信犯だろう。そのことが分かっている上で、決して挑発に乗ったわけではないのだが、せっせと机を運び出している他の生徒の姿を見て、思わず頭に血が上ってしまった。


「ふざけてないで掃除しろ」

「てっつわーん、アトムでぇーす!」

「ぶわはははッ!」


 本来なら場が凍えるほどクッソつまらないギャグのはずなのだが、なぜか丸亀が爆笑しているせいでウザさ倍増である。


「そんなに面白い?」

「うん、面白い」


 その言葉に偽りはないらしく、丸亀は腹を抱えて笑っていた。他人を貶めておいて、どうして笑っていられるのか僕に教えて欲しい。


「笑ってるの君だけだよ?」

「俺、アトム!」

「ぶわはははッ」


 駄目だ、全く言葉が通じない。まさに異文化コミュニケーションだった。


「御愁傷様です」


 僕の気持ちを汲んでくれたのか、掃除当番の鮫島が同情してくれた。やはり同じクラスであっても、白熊と丸亀が変だということは分かるようだが、おそらく面と向かって言えないのだろう。


「じゃ、僕は帰ります。また今度お願いします」

「また来週」


 馬鹿みたいに笑い続ける白熊と丸亀から避難するように、狐塚は相談を切り上げて下校してしまった。生徒たちの関係性が見えたことで、かすかにスクールカーストのような片鱗を感じる……。

 これで本当に僕の授業が成立するのか? 悩み事の種は尽きない。

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