第6話 研究授業
先生たちの職員会議が終わった後、僕は竜造寺先生に模擬授業の指導を受けていた。
範囲は日本国憲法の成り立ち。その前に大日本帝国憲法にも触れ、どのようにして日本が天皇を象徴とする立憲君主制になったのか、ちゃんと説明しなければならない。
そう考えての指導案だったのだが、竜造寺先生からの評価は辛辣だった。
「教科書に忠実すぎますね。少し導入の部分で工夫しないと、生徒たちは難しいと感じて聞く耳すら持たないと思いますよ?」
「ですから、大日本帝国憲法からの説明を……」
「いや、別に大日本帝国憲法は大切な部分じゃないですから。センター試験の出題頻度も低いですし、何よりも大切なのは今です」
竜造寺先生の言うことは尤もだった。グゥの音も出ず、素直に感心する。
なぜか動物化していないだけあり、流石に現役教師は優秀である。良い恩人に巡り合えたのは運が良い。顔の怖さも慣れてきた。
「大日本帝国憲法の前に、そもそも憲法とは何か説明しないと。ちなみに、法律との違いは分かります?」
渡された参考文献に書いてあったことなので、僕はスムーズに答える。
「はい。法律は権力者たちが国民を縛るルールですが、憲法は国民が権力者を縛るルールです。憲法は国民が作ったのだから、その範囲内で作られる法律は守らなければいけません」
「その通り。しかし、日本国憲法はアメリカのGHQに作らされたものですから、それゆえに押し付け憲法と呼ばれ揶揄されています。ですから、日本の政治家たちは戦後から憲法を変えたがっています」
「あ、それが安全保障関連法案と繋がるんですね?」
「まぁ、間違ってはいませんが、九条の解釈を変えようとする動きは隠れ蓑です。正確には憲法改正を規定する九十六条の改正が狙いでしょう」
「憲法改正に関する内容の、改正ですか?」
それが本当なら、憲法の意味が無くなってしまう。国民の意向を無視し、内閣に権力が集中してしまうことに危機感を覚えた。
「断定はできませんけどね。ただし、我々教師は知識として知っていなければなりませんが、授業で教える場合は公平性に気をつけてください。何が正しくて、何が悪いのかは生徒が決めなくてもよいことです。それらを踏まえ、導入部分を生徒に問いかけてみてください」
「はい。ありがとうございました」
ようやく今日の日程を終え、家に帰ることができる。帰宅したところで指摘された部分を修正し、新たに指導案を作り直す作業が残っているが、どうにかして精神的な疲労だけは回復せねば。
安堵しながら帰る身支度を整えていると、竜造寺先生に呼び止められた。
「それはそうと、学校には慣れました?」
「まぁ、ボチボチですね……」
「来週はテストを返却した次の時間から、金剛力先生の授業が始まります。今回の模擬授業をした感じですと、フィードバックを取り入れれば大丈夫だとは思います。それとは別に、来週のLHR時間は金剛力先生の自由に使ってもらいます。ちゃんと事前にお知らせしましたが、やる内容は決まりましたか?」
「はい。今流行っているアメリカアーティストの歌を比較し、若者のリアリティと消費化社会に警鐘を鳴らしたいと考えています」
「……具体的には?」
竜造寺先生の目つきが険しくなる。僕はその威圧感に呑まれないよう、虚勢だろうが臆することなく強気に答えた。
「まず、発達した生産技術によるモノの豊かさから、人々の社会的な価値が変動したことを説明します。そして若者の欲求は生き延びようと自立する生存の不安から、自分の人生に意味を問う実存の不安へと変化したことで、存在証明を満たす承認欲求が強くなっていることを自覚させたいです」
「なぜ、それをやろうと?」
「生徒たちは求めずしてモノが豊かな社会で生まれ育ち、何をするにも選択肢の増加により価値が相対化されてしまう世代です。なので、モノを消費することで即物的な自己満足に浸ることができず、欲望も持てないまま自己の存在そのものを希薄に感じているようであれば、欲望を持つことの大切さを伝えたいと考えています」
僕はどうだと言わんばかりに、これまで研究してきたことの全てを竜造寺先生に伝えた。果たして、僕の流れ込む思考を受け止め切れるか?
僕こそが正しく、生徒のことを慮り、何よりも現代社会を見通している。文部科学省の教育理念などクソ喰らえ。従来の教育では不適切とも思われる内容を、実習生と言う立場から一石を投じてやるのだ。
しかし、竜造寺先生は目の前の現実を、冷静に分析していた。
「……えーとですね、おそらく生徒たちには難しくて理解できないと思いますよ?」
竜造寺先生は野心を持つ実習生を鬱陶しく思うどころか、あっさりと潔く白旗を揚げているのだ。ただ、相手にされていないわけではない。おそらく、生徒に対しても僕に対しても、過度な期待をしていないだけだ。
その竹を割ったようなスタンスに、僕は言葉が出なかった。
「金剛力先生は、ちゃんと生徒たちのことを見ていますか?」
小手先の技術に頼らず、竜造寺先生は僕の核心を突く。
「どんなに深く社会学を研究していたとしても、それが生徒たちに届かなければ一方通行で終わってしまいます」
確かに生徒たちが動物化したからとは関係なしに、あまり真摯に向き合っていなかったような気がする。でも、それは教師と生徒との立場を明確にするためであって、コミュニケーションを怠っていたわけではない。
「朝のSHRが終わった後、黒樺がアメを渡そうとしていましたけど、金剛力先生は断りましたよね。あれは生徒なりの気遣いだと思いますよ?」
黒樺と言うのは、左から二列目の一番前の席に座っている女生徒のことだ。明るく天真爛漫な性格で、クラス内を掻き乱す中心人物であると同時に、誰よりも発言権があって騒がしい問題児でもある。
てっきり僕は我儘ばかり言う生徒だと思っていたし、実際に手を焼いていたのだが、そんな彼女の方から僕に歩み寄ってくれていたとは気がつかなかった。自分の勝手な思い込みが非常に恥ずかしい。
「何と言うか、金剛力先生からは熱意を感じません」
そんなはずはないと、声を大にして叫びたかった。
僕こそ理想の教師を目指し、生徒にも権力にも媚びず、誰に対しても公平に指導する信念がある。そしてイジメの被害に遭っていたり、孤独に悩んでいたりする生徒を助け、いつの日か正義の味方になれることを願っている。
「同じ実習生の犬神先生がやっていることは知っていますか? 生徒一人ひとりのプロフィール帳を作成しているそうですよ。金剛力先生も彼みたいに熱意を見せなければ、きっと生徒からは心を開いてくれないと思います」
どうして表面的なことしか見てくれないんだ? 犬神がやっていることは、画一的な生徒に好かれるための虚構だろ。
ただ明るくてフレンドリーな熱血教師なんて、頭が悪いだけの役立たずに決まっている。どうせ教師なんか危機に直面した時は助けてくれないんだから、自分で立ち上がれる方法を教えるのが先決だろう。
「まずは金剛力先生の方から生徒へ心を開きましょう」
それは前にも言われたことだ。あの自己紹介だけでは駄目だというのか?
僕は誰に対しても心が開けないというのに、どうして生徒の前で心を開かなければいけないんだ? あいつらが何かしてくれるとでも言うのか? 僕は見返りを求めない。もし僕が報われると言うのなら、それは植えた火種が燃え盛ることだ。
しかし、僕のような生き辛さを抱えている生徒がいなかったとして、この僕に存在価値はあるのだろうか? また、僕とは異なる生き辛さを抱えている生徒がいたとして、僕は相手を救えるのだろうか?
僕は考えるのが怖くなった……。
実習室へ戻ると、同じく模擬授業で居残っていた犬神と、鯖江が帰る支度をしていた。
「お疲れ金剛力! もう帰り?」
「うん」
もうこっちは疲労困憊だというのに、犬神は朝から変わらず元気である。そのハイテンションを押しつけられた方は、返事をするのさえ億劫だ。
「それなら一緒に帰ろうぜ! サバちゃんもどう?」
「了解」
僕の意志は聞かずして、三人で一緒に帰ることが決定してしまった。あまりにも横暴な行動に、僕は反発する気力さえ残っていない。
まぁ、犬神なりに気遣っているのかもしれない。以前の僕なら誘いを突っぱねるところだが、竜造寺先生に指摘された熱意や、動物化の件もあるし、少しは付き合ってやろう。
……などと寛大な心で一緒に帰路を歩くべきではなかった。
僕は他の実習生と比べ、犬神と鯖江とは普段から喋らないため、三人で鬱蒼とした夜道を歩くのは非常に気まずかった。その上、鯖江に付き添ってバス停まで行くことになったので、結果的に僕の家まで遠回りになってしまった。
夜の乾燥した空気、住宅から漏れ出る温かい光など、細かな風情を感じている余裕は無い。早く家に帰りたいというのに帰れないもどかしさ。これで犬神に何も狙いが無かったら、別れ際に後ろから襲いかかってやる。
「二人とも模擬授業は順調?」
唐突に犬神が何を言い出すかと思ったら、実に表面的な内容である。僕も鯖江も忙しくなって大変だとか、曖昧な返事になってしまった。
「そうか……」
何やら意味深な溜息だ。星空の下でセンチメンタルな気分に浸っているのか、珍しいことに犬神らしくない。
もしかして、あまり模擬授業が上手くいっていないのか? 必ずしも熱意が指導力に繋がるわけではない。まぁ、愚痴や相談なら聞いてやらんこともないが、僕が彼に対して配慮してやる義理も無いので、今まで気になっていたことを質問してみた。
「そういえば、鯖江は付属の大学生でも卒業生でもないのに、どうして教育実習先が付属校になったんだ?」
「母校は有名な進学校だったから断られちゃって、泣く泣く叔父がいる付属校へ受け入れてもらったんだよ」
え、それってコネで受け入れてもらったということか? 別に悪いことではないが、鯖江は訊かれたから答えただけ、とでも言いたげに淡々と話を終わらせたがった。
そんな鯖江が発しているオーラにも気づかず、犬神は無遠慮に首を突っ込む。
「同じ苗字の先生いたっけ⁉」
「古典の福沢先生。母の兄に当たるんだ」
「へぇ、そうだったのか……」
いや、もうちょっとリアクションしてやれよ。せっかく答えてくれたんだから……。
やはり、なぜ犬神だけが動物化していないのか、僕には見当もつかない。彼は竜造寺先生のように尊敬できる人物ではないし、他の実習生との違いも無いはずだ。
それなのに教育実習生の中でも手本のような扱いをされ、現場の生徒や教師にも評判が良い。つまり、犬神が取り繕っている外聞と、実際の中身が釣り合っていないのだ。これでは理想とする自己像とのギャップに耐えられず、破滅してしまうのではないだろうか?
「みんな教育実習と就職活動、ちゃっかり並行してんのかな?」
これまた何の脈絡も無しに、犬神は心ここに非ずと言う感じで質問を投げかけた。反応しないのも変なので、僕は一般論だけを伝える。
「実習が二週間ならまだしも、僕らは三週間もあるから合間に就活なんてできない」
「オレも大学は関西だから、こっちにいる間は就活する気にならないな」
「そっか……」
鯖江は律儀に答えたというのに、またも犬神の態度は素っ気ない。他の人たちは就活に勤しんでいる中、教育実習をしている焦燥感は分からないでもないが、そんなことを表に出すような奴だとは思わなかった。
ただでさえ僕たちの世代は企業の情報解禁が遅くなっているので、五月から六月にかけての大事な時期に、就活へ専念できないのは致命的である。だが、それは鯖江のようなエリートや大企業に限っての話で、僕と同じ大学の犬神は心配し過ぎなくらいである。
「犬神は就活してるの?」
みんな就活をしているという前提で話を進める。そうして少しでも共感できるよう、仲間意識を植えてやろうと画策していたら、犬神は全てを台無しにしてくれた。
「いや、おれはゼミの紹介で内定は取ってある」
「マジかよ……」
僕と犬神は同じ大学だが、彼のいる商経は戦前から存在している歴史ある学部である。そのためFランのくせに、色んな意味で有名教授が勢揃いしているのだ。ゼミによっては太いパイプの繋がりがあるのも不思議ではない。
既に内定先が決まっているのだったら、何も迷う必要はないじゃないか。というか、ただの自慢話になってるだろ。
あの生真面目な鯖江でさえ、どう発言したら良いのか分からず固まっている。その周囲の困惑した心理状況に構わず、犬神は取って付けたように話を続けた。
「でも、その内定は蹴ろうと思ってる」
「なんで?」
「おれ教師になるよ」
……いや、だから何だという話である。本人は印象的にカッコよく宣言したつもりだろうが、他人にとっては心底どうでもいい目標だ。
大方、周りの生徒や先生に唆され、自分は教師に向いていると判断したのだろう。一時のテンションで確約された将来を棒に振るなど、苦労してないからこそ選択できる馬鹿者だ。もう御愁傷様としか言いようがない。
いい機会だから、教員の採用状況について説明しておく。腐っても教師と言う肩書の人気は健在であり、今でも学生が憧れる職業の一つである。
しかし、近年の不景気と少子高齢化の影響が著しく、採用される人数は極端に少ない。その倍率は、高校教員なら実に九倍である。それでも離職率が過半数を超えているため、常に門戸は開かれてもいるものの、私立でも一校につき一名募集というのがザラだ。
しかも、去年教員採用試験に落ちた人も再び挑戦してくるため、それだけで人生経験が少ない新卒は不利である。本当に教員になりたいのであれば、新卒であることの特権を捨て、非常勤講師として勉強させてもらいながらバイト生活を続けるしかない。
「まぁ、頑張ってくれ……」
間違っても教員は無責任に応援できるものではないが、おそらく犬神は決断の背中を押してもらいたかったのだろう。無邪気な笑顔で、嬉しそうに返事をする。
「おう!」
犬神のことだから言われなくても猪突猛進して頑張ると思うし、僕が彼の将来まで案じてやる道理は無い。せいぜい教育実習が終わるまで、その巧妙に上塗りされた仮面が剥がれないことを祈る。
とはいえ、僕も他人のことに構っていられない。この教育実習が終わる前までには、犬神と同じく苦労して教員を目指すか、割り切って一般企業に就職するか決意しなければ、迫り来る社会の荒波に乗れなくなってしまう。
ストレートでの教員採用は無理として、非常勤講師になったとしても受かるのは良くて二年。普通なら四年で、悪ければ何年もかかる。また、途中で諦めたら潰しはきかない。僕たち教職課程の学生たちは、強制的にリスクを背負わされているのだ。
それらの危険性を考慮した上で、果たして僕は本当に教師を目指すだけの理由や、使命感があるのか? この理不尽な社会を変えたいという信念はあるし、教師が生徒へ正しさを伝えることのできる職業であることも理解している。
……だが、やはり無理だ。そこまでする大義が僕には無い。僕はどうしようもなく、非力なゴリラだった……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます