第18話 ゴースト
今更になって追いかけようにも、とっくに僕はバニッシュマンを襲った二人組を見失っていた。手がかりさえ掴めないし、これ以上の情報は望むべくもない。
しかし、僕も闇雲に走っていたわけではない。僕の脳内が冷却されて鋭敏になるのと反比例し、心は止めどなく熱く煮え滾っていた。
なぜなら、僕が張り込み調査を開始してからバニッシュマンが登場するまで、何もひたすらコンビニの中で待ち惚けていたわけじゃないからだ。その間に目ぼしそうな学生がいる場所を、細かくチェックして歩き回っていた。
あいつらも組織なら広い駅前で一か所だけ待ち伏せするなど、そんな非効率的な手段は選ばないだろう。絶対に複数の潜伏先があるはずだ。それなら異様に学生の数が多いことも、一気に退却したことも説明がつく。
つまり、目ぼしい学生の後を追跡すれば良い。そうすれば自ずと道は開け、攫われたバニッシュマンまで辿り着くことができる。また、相手が不特定多数の集団ならば、車で移動する確率は低いと考えられるだろう。
これはある種の賭けだったが、僕が狙いを定めた学生は当たりだった。
そして辿り着いたのが河川敷である。ここなら確かに人は滅多に訪れない。また、橋の上を電車と車が通っているため、大きな声で騒いでも問題にならず、かつ橋からの照明により光にも困らない。この季節だと寒いのが難点だが、どこからか拾ってきたドラム缶で焚火なんぞをしている。いかにも溜まり場になりそうな絶好の集会ポイントだ。
気づかれないように遠くから覗いてみると、少なくとも僕が授業で受け持ったクラスの生徒ではないらしく、誰一人として顔と名前が一致しなかった。おそらく一年生だろうか?
そして肝心のバニッシュマンの姿が見当たらない。僕より先に着いていないのは不自然である。もしかして彼らはバニッシュマンと関係ないのか?
いや、そんなはずはないと断言できる。なぜなら、ヒーローの噂は付属校を中心に流れているからだ。そして対象の全員が付属校の制服を着ているということは、かなりバニッシュマンと関係している可能性が高い。
それを踏まえた上でも、僕に残された選択肢は待ちの一手だ。もし僕が確認のため集会へ飛び込む度胸があったら、今頃は企業の内定を取っていることだろう。いざとなれば駅前に交番があるため、バニッシュマンという証拠さえ確認できたら駆け込もう。
だが、待てよ? それでは根本的な解決にならないのか。今回の件で僕はヒーロー活動が危険であると認識した。未成年の生徒は補導され、被害者であるバニッシュマンが厳重注意で終わるのならば、また同じことの繰り返し……。
憎しみの連鎖は断ち切らなければいけない。今回の騒動で僕がバニッシュマンにヒーロー活動を止めろと説得させるか、バニッシュマンが生徒たちにヒーロー活動の許しを得るか、そのどちらかに賭けてみよう。停滞よりはマシなはずだ。
「ここが敵のアジトか?」
土手の茂みに潜伏していたところ、頭上から聞き覚えのある声がした。おそるおそる見上げると、なんと連れ攫われていたはずのバニッシュマンがいた。
「なんでいるの⁉」
「私が来たからには安心してくれ。悪の組織は壊滅させる」
質問の答えになっていない。僕が君を助けに来たんだ。
「頭を殴られて昏倒してたはずだろ⁉」
「ふっ、目撃者がいたか。だが心配は無用。拉致られていた途中に意識が覚醒し、そのまま不届き者は返り討ちにしてやったわ」
どうやら喧嘩慣れしている様子である。おそらく、そいつから集会ポイントの情報を聞き出したのだろう。その手際からして、返り討ちにしたのは一度や二度ではないはずだ。
「……暴力で解決するのか?」
「そんな野蛮なことはしない。あくまで自己防衛だ。ちゃんと平和的に話し合いで解決するさ。そこで見ていてくれ」
背中を向け、ゆっくりと集会へ歩み寄ろうとする彼を呼び止める。
「おい、犬神!」
「犬神ではない。私はバニッシュマンだ」
「あそこにいるのは犬神が受け持った生徒だろ? だったらヒーローの仮面なんか借りるより、素直に正体を明かした方が良くないか?」
「だから私は……まぁいい。何の話をしているのか分からないな。いいか、邪魔だけはしないでくれよ」
僕の忠告を聞き入れないまま、彼は余裕綽々と集会の場へ躍り出た。もう嫌な結末しか見えない。いざという時のため、僕は引き続き状況の観察をする。
「やぁ、諸君。ご機嫌いかがかな?」
「……て、てめぇは、あの時の?」
リーダー格らしき生徒の顔色が変わる。それをバニッシュマンは意に介さず、自分のペースで悠長に会話を試みようとする。
「何が目的なのかは知らないが、こんな集会は即刻解散したまえ」
「ここで会ったが百年目だ! おい、絶対に捕まえるぞ!」
統制の取れた相手の動きにより、バニッシュマンは簡単に包囲される。だが、囲まれた本人は楽観視しているのか、今が危機的状況だということを自覚していない。
「やめろ。これは警告だぞ?」
「黙れ! いい加減に迷惑してんだよ!」
「結局、暴力に訴えるか……。それ相応の報いを受け――ガボッ!」
最後まで口上を述べられず、またもバニッシュマンは後ろから頭を殴られ昏倒する。余裕ぶっ扱いてないで、少しは学習してほしい。
「いいぞ、そのまま袋叩きにしろ!」
なぜ、あそこまで生徒たちはバニッシュマンを敵視するのだろう? まるで親の仇だ。きっと鬱憤が溜まっているのだろうが、このまま傍観していては犬神の命が危ない。
僕は捨てられていたビニール袋を拾い、彼らが夢中になってヒーローを追い詰めている隙を窺いつつ、素早く河川敷に降りて水を汲んだ。そして、水が入ったビニール袋をドラム缶目掛け放り投げ、茫々と燃え盛る炎を消化させる。
「何が起こった⁉」
瞬間、ただでさえ暗い中で水蒸気が立ち込め、視界を奪われた生徒たちの悲鳴も霧散される。パニック状態となった彼らの横を潜り抜け、倒れているバニッシュマンを助け起こす。
「おい、意識はあるか?」
バニッシュマンにだけ聞こえるよう、そっと耳元で話しかけた。
「……礼を言う」
「そんなものは後だ。早くここから逃げよう」
よし、意識があるのなら歩ける。このまま誰にも気づかれないよう、そーっと音を立てずに土手の上まで登った時だった。
「いたぞ! あそこだ!」
生徒の一人が僕たち二人を発見する。どうして分かったのか僕には不可解だったが、目の前の馬鹿を見れば一目瞭然だ。
赤と灰色の全身タイツが橋からの照明を乱反射し、目が眩むほどメタリックな銀色に光り輝いていたのである。あまりの失態に僕は大声で怒鳴った。
「そんなに派手な格好をしているせいで見つかったじゃないか! 早く脱げ!」
「断る! 突っ張ることが男の勲章だ!」
「なんだよ元気じゃないか⁉ それじゃあ、お達者で!」
こうして言い争っている間にも、生徒たちは僕たちを狙って近づいてくる。こうなったらプランBに変更だ。全ての後始末はバニッシュマンに任せ、無関係な僕は撤退しようと全力で走り出す。
「見捨てないでくれ!」
「口ほどにもないな!」
なぜか図々しく、バニッシュマンは僕まで道連れにしようと縋りつく。相手は背後から鈍器で殴りかかってくるような奴らだ。捕まったら命の保証はできない。
とにかく今は逃げることが先決だと判断し、一時的にバニッシュマンと協力することにした。もしかしたら役に立つかもしれない。
決死の鬼ごっこがスタートした。
× ×
で、冒頭に至る。
人間、諦めなかった方が勝つというのは真理だな。何度か危険な目にも遭ったが、ようやく追手を振り切ることができた。今は路地裏で小休止している。
だが今は体を休めるよりも、頭の中にある思考を整理するので忙しい。大体、バニッシュマンは目立つ格好でありながら、なぜか民衆から注目されない存在だったはずだ。
それが何の能力かは不明だが、なぜか犬神の生徒たちには通用しない。逃げようとしても発見され、追いかけ回される始末だ。その原因を探るには、通気性の悪い全身タイツのせいで呼吸困難になっている隣の馬鹿に訊くしかない。
「君、犬神だろ?」
「誰のことを言っているのかな? 私の名はバニッシュマンだ!」
「ま、いいや。そのまま聞いてくれ」
いい加減、このやり取りにも飽きた。僕は往生際の悪い犬神の心を開かせるため、一芝居を打つ。
「僕は君のことを誤解していたよ。最初は暑苦しくて胡散臭いだけの人かと思ってたけど、結局は教育実習の最後まで信念を貫いた。君は本物だ」
「ミギー……。いや、おれも実は……」
「あれー? どうして僕のあだ名を知ってるんですかぁ? それは同じ教育実習生しか知らないのにー?」
「しまったぁ!」
北風と太陽作戦である。まんまと引っかかったな。
「ほら、もう無駄だと分かったろ? 正義のヒーローを止めろとは言わないから、せめて潔く覆面を脱げ」
「それだけは断る!」
「理由を言ってくれ」
「あれは……おれをリンチにしようとしていた奴らは、おれが担当したHRクラスの生徒たちなんだ」
道理で生徒たちはバニッシュマンの存在を自然と認識できていたのか。僕のように面識さえあれば、犬神の特殊スキルは通用しないらしい。
だが、問題はバニッシュマンが生徒から追われる理由である。
「何か恨まれるようなことでも?」
「分からない……。ただおれは生徒たちと仲良くなろうと、人生の楽しさを伝えたかっただけなのに……」
その一方的な道徳観を押しつけたのが元凶だと思う。蟹頭の時と同じく、それが自己啓発になってしまった途端に危険性が増すのだ。犬神の考え方は強くて正しいのかもしれないが、生徒にとって良いとは限らない。
しかし、蟹頭とは違って犬神は生徒から慕われていた気がする。それが餌付けのようなマインドコントロールだったとしても、正義のヒーローを襲う理由に繋がるとは考えにくい。一体、どうしたら問題が解決するのだろうか?
「……今更どうこう言うつもりはないけど、さっきの言葉に嘘は無い。お願いだから僕を失望させるな」
「……おれはどうしたらいい?」
「覆面を脱いで、生徒たちに正体を明かす。それで互いに本音を言えばいい」
「かける言葉が見つからねーよぉ……」
それはこっちの台詞だ。僕では生徒たちの暴動を止められない。早く向き合うことを決心してくれなければ、じきに見つかるのも時間の問題だ。
「いいから脱げって」
何もかもが面倒臭くなった僕は、不意打ちするようにバニッシュマンの覆面を剥ぎ取る。どうせ正体はバレているのだ。今更になって隠す必要も無いだろう。
しかし、覆面の下に顔は無かった。のっぺらぼうという意味ではなく、そこにあるはずの頭部そのものが欠けていたのだ。まるで透明人間のように……。
「か、返せ!」
あまりの事態に理解が追い付かず茫然としていたら、もはや本当に犬神なのか断定できない奴に覆面を奪われた。そして覆面を被り直すことで実体があるのを確認してから、僕は遅れて驚愕する。
「……誰だ貴様はぁ⁉」
「は? 何を言って……」
「ここにいたぞ!」
今度は僕が大声で叫ぶという失態のせいで、生徒たちに見つかってしまった。僕とバニッシュマンは予め用意しておいた逃走ルートを使い、隠れていた場所から離脱する。
「これでもくらえ!」
追ってくる生徒たちに向けて居酒屋のビールケースを倒し、その上から生ゴミの入ったポリバケツを投げつける。
「うわッ! 汚ねーぞ!」
後ろから二人がかりで襲うような奴らに言われたくはない。こっちは命が懸かっているのだから、例え卑怯だろうと姑息だろうと、生き残るためならば親がギリギリ泣かない範囲で何だってする。
とりあえず、トラップのおかげで時間は稼げたようだ。また走ることで精神が落ち着いてきた僕は、走りながらバニッシュマンとの会話を続ける。
「君は犬神だよな?」
「さっき素顔を見たろ⁉」
「自分の能力には気づいてる?」
「能力って何⁉ そんなもんあったら追手を一網打尽にしてやるよ!」
どうやら、犬神は自分が透明化していると思っていないらしい。だとすると、おそらく僕の特異体質から出た影響だろうか?
しかし、人が透明化する現象なんて初めてだ。動物化なら欲望の有無が鍵となっているが、透明化の場合は何が解除の鍵となるのだろう?
「見つけたぞ! 回り込め!」
やはりバニッシュマンの姿は目立つ。これでは人混みに紛れることも、どこかで身を潜めることもできない。そして追ってくる生徒たちは興奮していながらも、指揮系統だけは万難を排している。
このままでは埒が明かない。何か起爆剤が必要だった。
「そこを右に曲がるぞ!」
「了解!」
教育実習中、鯖江にも駅前で追いかけられたことを思い出す。確か、あの時は右へ二回ほど曲がることで、鯖江が通り過ぎるのを待つ作戦に出たのである。
「また右だ!」
「いいのかよ⁉ Uターンすることになるぞ⁉」
「いいから!」
鯖江は手前で曲がることで僕を捕まえることができたが、そうそう同じ轍は踏まない。むしろ逆手に取り、相手の意表を突く作戦を練る。
すると思っていた通り、前方の曲がり角から生徒たちが現れた。後ろから追手が来るのも分かっていたので立ち止まることもできず、バニッシュマンは僕に責任を求めるように、恥ずかしげも無く弱音を吐く。
「ほら、やっぱり先回りされた! どうするんだよ⁉」
走る勢いを殺さぬまま、僕は力強く言い放つ。
「蹴り倒す!」
「無謀だ!」
「状況を打開したいなら戦え!」
いつまでも逃げているわけにはいかない。次なんてあるかどうかも分からないのだ。それなら今を生きよう。
「もう、どーにでもなれ!」
やっと観念したバニッシュマンは加速し、足の爪先に体重を乗せる。
「行くぞ!」
「どっせーーい!」
掛け声に合わせ、僕とバニッシュマンはハードル走の要領で突進し、行く手を阻む生徒の胸へ飛び蹴りをクリーンヒットさせる。生徒たちは悲鳴を上げる暇も無く、仰向けに倒れていった。
「まだまだ!」
「え、曲がり角の度に飛び蹴りするのか⁉」
「当たり前だ!」
なぜか生徒たちは血の気が盛んで、それでいて指揮系統は万全である。だからこそ僕は効率さを追求する指示を利用し、絶対に生徒たちが曲がり角で先回りしていると、何の疑いも無く信じることができた。
一度やってしまったら後には引き下がれない。僕の狙いは面白いように的中し、生徒たちを蹴り倒しながら亡骸を飛び越えることができた。
まさに悪魔の所業。正気の沙汰ではない。きっと生徒たちは僕たちを畏怖の対象として見るだろうが、目には目を、歯には歯をである。
力の無い信念ほど悲しいものは無い。己の信念を貫きたいのなら力を得るべきだし、力があるのなら信念を持つべきだ。だから僕の行為は正当防衛である。
そう理由づけては開き直り、僕は高笑いしながら夜の街に溶け込んだ。
あのまま逃げることも可能だったろうが、僕は問題を先延ばしにしたくないため、ビルの非常階段で隠れることにした。ここなら表に面していないので目立たないし、何階か上がって行けば下からは死角になる。
ようやく腰を据えて、バニッシュマンと隣で対話できる環境が整った。生徒から追われる理由、透明化した原因など、未だに不明な点は数多く残っているが、僕は一番に質問しなければいけないことを訊き忘れていた。
「どうしてヒーロー活動なんて始めたの?」
「青少年たちを正しき道へ更生させるためだ」
それは彼がバニッシュマンとして、初めて僕と出会った時に聞いた。そうではなくて、ヒーローになろうと思った動機である。
「なんで? それだけが本当の目的ならヒーローじゃなくても可能だろ? ……それこそ教師とかさ」
「仕方ないだろ。教師にはなれなかったんだから……」
「それでヒーローか。極端だな」
教師とヒーローが同義の意味になるとは、熱血漢らしい犬神が考えそうなことだ。実に単純で、実に愚かしい。
「うるさい。あれだけ夢は叶うと豪語しておいて、おれが教師になれなかったんだからお笑い草だよ。生徒に顔向けできない」
だからこその覆面か。正体を隠すことで自らコミュニティから抜け出し、教師になれなかったことの不可能性をヒーロー活動で埋める。
「もう教師になるのは諦めたのか?」
「ミギーだって見たろ? あんなに採用試験を受ける人がいて、合格する確率は一割にも満たない。他の同級生は一般企業に就職して安定しているのに、おれたちは何年もかけて非常勤講師をやらないと経験を積めない。過酷すぎる!」
「じゃあ、指を銜えて黙って見ていろ」
社会に不満があるのなら、自分を変えるのが手っ取り早い。
「大人しく就職活動でもしてろってか? もう年末なのに優良企業なんて見つけられるわけないだろ! おれが大学を出た意味は⁉ 教員免許を取った意味は⁉ 今までやってきたことは全て無駄だったのか⁉」
「無駄なことは無い」
自分を変えるのも嫌なら、世捨て人のように慎ましく死ね。
「どうしてそんなことが言える⁉ おれと同じ立場のくせに、何を根拠に無駄じゃなかったと言い張れるんだ⁉」
それも嫌なら世界を変えろ!
「僕が教師になる!」
「はぁ? ミギーが教師になったからって、どうしておれが報われるんだよ? 意味が分からないぞ!」
「それは僕が犬神のために教師を目指すからだ」
「おれのためって、どういうことだ……?」
「いや、正確には犬神のような生徒のことかな」
例え自暴自棄でも僕に本音をぶつけてくれたことで、僕は犬神が透明化した理由を知ることができた。
彼は教師になりたいという欲望を持っている。だから僕からは動物に見えないが、その夢が破れたことで自己の存在意義を失い、僕の目から透明化するという現象が起こったのだ。
「どうやって、おれを救う?」
普通、透明人間は人々から注目されようとして行動を起こさない。誰にも見つからないように悪戯するのが目的だからだ。そして彼は目立とうとしてヒーロー活動をしているのに、誰からも注目されない。
以上のことから、僕は犬神の現象を透明化と呼ぶのではなく、幽霊化と名付けることが妥当だと考えた。なぜなら、自分が存在しているのを確認するかのように行動し、自分の存在を誰かに認めて欲しい、という承認欲求が見え隠れしているからだ。
「僕は君のことを見ている」
犬神のヒーロー活動は正義などではなく、ただ自分を見てくれ! と、叫んでいただけだったのかもしれない。それなら僕は生徒の可能性を見ていたいし、何か注目させるための手助けをしてやりたいと考えた。
おそらく、今後も犬神のような人間は増えていく一方だろう。そうなったら僕のような考えの教師は絶対に必要である。僕は生徒のために働けるのだ。
「好きです。おれと付き合ってください」
いきなり何を言い出すかと思えば、あれだけ嫌がっていた犬神は自分のマスクを取り、素顔を晒したまま僕にプロポーズした。
そして僕はプロポーズされたことよりも、彼の身に起こった変化に驚愕する。
「人間に戻った⁉」
「え、オッケーってこと?」
「違う!」
これから生徒と向き合わなければいけない状況下で、犬神は幽霊化した状態から普通の人間に戻っていた。たぶん僕との会話から彼は変わることができたのだ。そうでなければ彼は死ぬまで能天気で、何もかもを恨んでいただろう。
ということは、僕の姿もゴリラから人間に戻っているかもしれない。かすかな希望を持った僕は焦燥感に駆られながら、隣にあるビルの窓に反射する自分の姿を確認する。
「どうした……?」
窓に映っていたのはインテリジェンスなゴリラではなく、どこにでもいそうな垢抜けていない平凡すぎる女子大生の姿だった。ショートカットでボサボサな黒髪に、驚きで見開いている双眸と、ほのかに赤く染まっている頬の柔らかさ。まさに開いた口が塞がらない。
なぜなら、僕が自分の素顔を見るのは、実に二年近い歳月が流れていたからだ。もはや自分の顔など覚えていない。それでも僕は僕という確固たる基盤を築けたし、これまで苦労したことが報われることの達成感を噛み締めた。
「やったぁ!」
徐々に今の起こった出来事を呑み込めた僕は、まるで子供のように飛び跳ねて犬神とハイタッチする。
「そんなに嬉しい?」
「すっごい嬉しい! 生まれ変わった気分だ!」
「じゃ結婚しよう!」
「無理!」
「マジで⁉」
ああ、ゴリラから女子大生に戻れたことで、あの謎の胸騒ぎの正体が分かってしまった。僕は竜造寺先生のことが好きだったのだ。尊敬だとか恩師だとか、そういう枠を飛び越えて生意気に憧れていたのが恥ずかしい。
「……残念ながら、まだ失恋のショックから立ち直れないんだ」
「おれが忘れさせてやるよ」
「いいから生徒たちの所へ行け!」
いつまでも女々しい犬神のケツを蹴る。最高にロックだ。
「お前は教師になれよ」
「は? どういうこと?」
「サラバだ!」
犬神の真意を聞けぬまま、彼は非常階段を下りて行った。
僕に向かって教師になれと言ってくれたのは、これで二人目である。ったく、他人に夢を預けるとは勝手な奴らだ。
言われなくても僕は教師になる。などと悪態をつきながら、僕は存在が消え入りそうな夜の街に、いつまでも燃え盛るだろう情熱の火を灯した。
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