第8話 ディスり
実習室へ戻ると、愛鷹、竹虎、蟹頭の三人がいた。特に会話をしているわけでもなく、ぐったり虚ろな目で教材研究をしている。
「遅かったですね」
体育は準備するものが少ないのか、愛鷹が僕に話しかけてきた。実習室に戻って来たのは僕が最後だったらしい。
「犬神と鯖江は?」
「イヌはクラスの子と談笑しに行って、サバちゃんは剣道部に顔を出しに行ってます」
「そう」
ようやるわ。僕は今日だけで充分すぎるほど生徒と会話したし、部活も大会前でピリピリしているだろうから参加を自粛している。まぁ、バスケ部も演劇部も軽音部も、僕が参加したところで何も教えられないのが本音だが……。
人のことより自分のことだ。まずは今日の日誌にコメントを書こうとしていると、愛鷹に内容を横から覗き込まれる。よっぽど暇らしい。
「字が上手ですね」
「この生徒ずっと日直やってるから」
クラスの日直制度は基本的に一日で交代なのだが、忘れっぽい性格の鷲尾は日誌を受け取りに来ず、毎日のようにペナルティをくらっている。普段は真面目そうな男子生徒に見えて、大事な部分で詰めが甘い。
とはいえ、指摘されたら直す意識は本人にもあるらしく、最初に比べると見違えるほど日誌が綺麗になった。そしてコメントも今度こそ日直から解放されます、という前向きな内容が書かれていたので、僕は鷲尾君のままでも大丈夫ですよ、と皮肉でコメントを返しておく。
「あの、今日の五時間目3‐Dの体育だったんですけど、黒樺って言う名前の女子、滅茶苦茶うるさいですね」
さっきから妙に愛鷹が話しかけてくると思っていたら、そっちの話がメインのようだ。とりあえず共感する。
「無駄にテンション高いですから」
「あたしも知ってる。確かウチのクラスの子と付き合ってんだよね?」
会話に混ざりたかったのか、竹虎が無駄な情報を与えてくる。そういえば、確かに黒樺は他クラスの彼氏らしい男と廊下で喋っていた。
しかし、生徒の色恋など心底どうでもいい。黒樺の彼氏も僕からすれば知らない男であり、不細工な顔を髪型で誤魔化している、くらいの印象しか無かったが、謎の情報網を持っている愛鷹が補足してくれた。
「あー、名前は忘れましたけど、スイミングスクールが一緒だったので顔は覚えてます。最初はタイム速かったのに、成長するに連れて追い越される不憫な奴でした……」
放課後いつも黒樺と居残っていたので、てっきり帰宅部だと思っていた。要するに、その彼氏にとって黒樺は、自己の無力感を埋めるための欲求にすぎないということか。
「彼女とイチャイチャしてる場合かよ」
「部活と恋愛って関係なくないですか?」
つい身勝手な行動にイラついてしまい、思わず出た失言を蟹頭に咎められた。感情は垂れ流すものではなく、コントロールするものだと自分に言い聞かせ、彼女の質問に答える。
「ま、両立できるのが理想ですよね」
「付属校の女子卓球部って恋愛禁止なんですって。可哀想じゃありません?」
どうして話が飛躍するんだ? おそらく僕に向けられた言葉なので、非常に厄介なことになったと頭を抱えつつ、逃げの一般論を展開した。
「本人たちにとっては、恋愛以上に懸けるべき青春があるのでしょう。可哀想かどうかは僕たちが決めることではありません」
「でも、私は部活も頑張りましたし、恋愛も楽しみました」
「だから全て中途半端なんでしょ?」
しまった、と悟った時には既に遅し。
実習室内は空気が凍ったかのように静まり返り、他のメンバーは知らぬ顔で作業に没頭している。その中で何を考えているのか分からないバルカン星人だけが、せめてもの抵抗で震えた声を絞り出した。
「それって僻みですか?」
「そう聞こえたのなら謝ります。ただ、彼女たちは楽しい青春を投げ打ってでも手に入れたいものがあり、才能だけでは語り尽くせない血の滲むような努力をしたわけですから、一概に彼氏いなくて可哀想とは思わないでください」
僕だって彼女と喧嘩したいわけじゃなく、できることなら平穏に後腐れ無く実習を終えたいのだが、その恋愛脳で共感を求められると腹が立つ。だから、ついつい核心を突いて黙らせたくなってしまう。
しかし、超えてはいけない一線というものはある。それが相手のためだとしても、取り返しがつかないのだから元も子もない。
そして、いつしか僕は他人と分かり合おうとは思わなくなった。今回のように意見が対立した場合、解決策など本当は存在しなくて、誰も中立の存在にはなれなくて、こうして折り合いをつけるしかなくなる。
どいつもこいつも空っぽだ。だが、例え空っぽだとしても、見捨てて良い理由にはならないはずなんだ……。
× ×
その日、全ての業務を終わらせた後、僕は大学のゼミに顔を出していた。
「どうした? 今は教育実習の期間中じゃなかったのか?」
後輩たちのゼミ授業が終わり次第、僕は学部の教職担当でもある、太宰先生と二人で喫煙場のベンチに腰かけて話し込んだ。
「それなんですが、ちょっと緊急事態でして……」
今日の放課後に行った模擬授業のフィードバックにて、来週二年B組だけ二日連続で授業しなければいけないことが発覚したのだ。いや、事前に確認できていたスケジュールだったのだが、一時間目に時間を割きすぎたせいで、二時間目の教材研究が不十分になったのである。
頼みの綱である竜造寺先生は、B組には犠牲になってもらいましょう、と既に諦めムードに入っている。そのため、僕は最後の砦として太宰先生に助けを求めたのである。
事情を話すと、すぐに太宰先生は納得してくれ、丁寧に授業の範囲を解説してくれた。日本国憲法が制定された流れや、議院内閣制の仕組みなど、生徒が興味を持ちそうな小話と共に、ストーリーに沿って分かりやすく教えてくれた。
やはり大学教授は偉大である。何も読まずにスラスラ口頭で言えるなんて、まさに知識の宝庫だ。わざわざ大学まで足を運んだ甲斐があった。
しかし、この情報を生かすも殺すも、僕の授業次第である。どうしたら生徒が板書しやすく、それぞれの繋がりを意識して話ができるか、家に帰ったら忘れない内に構成し直さなければいけない。
「それで、フィールドワークの方は順調そう?」
太宰先生の指すフィールドワークとは、僕の卒業論文に向けた研究のことである。僕は先行研究からコミュニケーションモデルを構築したため、それの検証と、逸脱行動を発見するために教育実習を利用している。
「いや、そんな余裕は無かったですね。あえて言うのなら、男女の距離感と言うか、壁を感じたくらいでしょうか」
おそらく、それは男女比の人数に偏りがあるだけであり、あまり目立った変異とは言えない。だが、せっかく先生に相談できるチャンスである。なんとか生徒との会話で気になった点を取り上げてみた。
「そういえば、先生は大学の公式キャラって御存知ですか? なんか生徒たちの間で噂になってるらしいんですけど……」
「公式? ゆるキャラ的な何か?」
「可愛いタイプではなくてですね、ヒーロースーツ着てボランティアしてる人いません?」
「ああ、あれか。学生団体の活動を公認してるってだけで、別にヒーロー自体は公式じゃないよ。で、そのヒーローがどうした?」
「よく通学路とかに出没してるらしいです」
「え? なぜ?」
「さぁ……? 監視……というか見守りでしょうか?」
「安全なのか危険なのか判断に困るな……。でも怪しいことに変わりはないから、こっちから学生団体の代表に確認しとく」
「ありがとうございます」
頭を下げて礼を告げる際、大切なことに気づく。変なヒーローは僕の研究に関係が無い。もっと初心の頃を思い返し、僕はHRクラスで行った自己紹介について話した。
「あ、もう一点いいですか? 僕が全体に向けてクラス内で何が流行っているか訊いたら、『ディスり合い』が流行っていると発言した生徒が一人いました」
「へぇ、それは興味深い。もし俺が金剛力君だったら、真っ先に研究の対象にする」
確かにディスり合うというコミュニケーション技法は、まだまだ考察の余地があるかもしれない。聞いた当初は特に気にしていなかったのだが、太宰先生が興味深いと言うのなら分析する価値はあるだろう。
とはいえ、目先の課題は授業である。フィールドワークは頭の片隅に留めておくことにして、僕は教育実習の愚痴を太宰先生に聞いてもらったのだった。
× ×
次の週、だらしない学生生活を送っていたはずの習慣が矯正され、もはや早起きがそれほど苦にはならなくなった。学校まで通勤する道のりも短く感じ、残りの実習日数も長くないことに気づく。
今日も月曜日から朝の挨拶運動に参加するべく、早めに実習室へ荷物を置こうと向かったところ、僕より先に竹虎以外のメンバーが揃っていた。
「金剛力おはよーッ!」
「ああ、おはよ」
早起きに体が慣れたとはいえ、朝からハイテンションなのは犬神くらいなものだ。そして話題はホットな時事ネタである、道路安全交通法へと移って行った。
「今日から道路安全交通法が施行されるから、取り締まりも厳しくなりそうだな」
謎の意気込みを見せている犬神に対し、いつも冷めている愛鷹は苦言を呈す。
「ここら辺は坂の上で道も整備されてないから狭いし、歩道が走れなくなるのは厳しすぎるような気もするけどね」
「って言うか、どうして改正までする必要があったの?」
蟹頭の疑問は尤もだ。行政は国民の意向を調査したわけでもなく、無駄に道路工事の公共事業を増やすなど、あからさまに多額の税金が使われているのに、安全性だけを建前にニュースでも問題視されていない。
僕は先週の気まずさを水に流すためにも、親切に蟹頭へ政府の陰謀を教えてやった。
「自動車教習所は政治家たちの重要な天下り先だから、昨今の自転車ブームに危機を感じたのか、より多くの人が車に乗るよう仕向けたんだよ」
「天下りって何?」
「国家公務員試験に受かったエリート官僚たちは、優秀な人材であることに変わりないんだけど、ポストに就ける人数が限られてるんだ。で、その競争から落ちた人でも政治に影響力はあるから、企業が抱え込んで有利な法律を作ろうとするの」
立法権の政治家と、行政権の官僚と、日本経済を支える企業とで癒着が起き、国民は政治から締め出される。これを鉄の三角形と呼ぶ。近年は情報技術の発達と普及により、その中にマスコミも加えられているようだ。
とはいえ、確証も無いのに社会不正だと決めつけるのは早計だろうか? もっと怒るべき対象は他にもあるし、生徒に善悪を判断させるのは危険だと思い、あえてこの情報を伝えなかったのだが、犬神だけは非常に感心していた。
「マジでか! ちょっと、もう一回だけ説明して!」
僕の調べた情報を、あたかも自分の手柄であるかのように生徒たちへ話したいらしい。どうやら犬神は誰かに教えられたことを素直に受け取り、疑って確かめるということをしない男のようだ。
教師になりたいと言っていた彼の先が思いやられるが、また僕は丁寧に天下りのことを説明し、さっさと挨拶運動をしに駐輪場へ向かう。
朝の挨拶運動も実習後半になってくると、何か特徴のある生徒の顔は覚えられるようになる。それは元気に挨拶を返してくれる生徒のことだ。
「おはようございます!」
一見、律儀に挨拶なんてしそうもない強面の生徒でさえ、こちらが挨拶をすれば大きな声で挨拶してくれる。その反応が面白くて、僕も朝から爽やかさを演出していた。
「おはようございます」
僕の方からではなく、珍しく生徒の方から挨拶される。声が聞こえる方へ振り向くと、すぐ傍に狸穴が立っていた。
「ああ、おはよう狸穴。今日は機嫌が良さそうだな」
「先生のお薦め本、すっごく面白かったです」
「もう読んだの?」
「はい、『ベン・トー』だけ少し。また何かお薦めあったら紹介してください」
どうやら週末を利用し、一気にラノベを読みまくったらしい。その趣味に関してだけ金も時間も費やす見境の無い消費傾向は、はっきり言って異常である。
おそらく、彼は物語を自分の生に意味付けていない。いや、所詮はフィクションなのだから、現実との見境が無くなることの方が危険だと思うかもしれないが、僕たち人間は作品に触れることで感受性を磨かなければならないのだ。
その内容が自分にとって良いか悪いか、情報を取捨選択できる判断能力が必要となる。例え陳腐な娯楽作品だろうと、作者の自己満足な物語だろうと、受け取る側が欲求を満たすためだけに消費してはならないのだ。
そういえば確か、このような人々の消費傾向を巧みに言い表した社会学者がいたな……。
「先生、おはようございます」
狸穴を差し置いて考えに耽っていると、また生徒の方から挨拶され、慌てて意識を外の方へ向ける。顔を上げると、そこには狐塚がいた。
「おはよう、狐塚」
「進路のことで相談なんですけど……」
それ駐輪場でしなきゃいけない話か……? 悪いが後にしてくれと言おうとしたところ、その言葉を掻き消すような大声が響いた。
「おい、狸穴! 早くラノベ貸してくれよ!」
「今行く!」
狸穴が返事をすると、僕には目もくれず集団の方へ走り去ってしまった。別に悪い友達ではないようだが、おそらく狸穴の消費行動を利用されていると思われる。
まぁ、狸穴も自分の趣味を広げる機会になるので、お互いに利害関係が一致しているだろう。だとしても、僕の目からは対等に見えない……。
「あの、聞いてます?」
「ん? ああ、聞いてるよ。大学の雰囲気だっけ?」
「はい」
狐塚に呼ばれ、またもや思考の海から脱出する。本当は耳に入ってなかったが、当てずっぽうで言ったら命中したらしい。僕は適当に大学の雰囲気を説明する。
「基本的に全体は寂れているけど、中には活動的で充実している人もいるからね。どこの大学へ進学するにしても、目標を持たないと楽しめないんじゃないかな?」
「それは就職でもいいんですか?」
「いや、就職するにしても、大学で活動したエピソードは話せた方が良い。ただ、大学に受かるだけが目標じゃないし、企業に就職するだけが目標じゃないから、そこで何をしたいのかが重要になってくる」
「はぁ……」
何を言っているのか良く分からない、という呆けた顔である。僕と四歳しか違わないというのに、彼は具体的な将来のことを考える楽しみよりも、見えない不安の方が先立ってしまうようだ。
しかし、その気持ちは分からないでもない。そして人に相談するのも利口な判断だが、だからと言って相手に依存するのとは違う。
このまま話を続けていても、狐塚のためにならないのではないか? どうやって話を切り上げようか悩んでいると、後方から自転車の倒れる盛大な金属音が鳴り響いた。
「ちょっと行ってくるから、また教室でな!」
この機を逃す手は無いとばかりに、僕は狐塚から抜け出すことに成功した。
そのまま音のした方へ駆け寄ると、今度はドミノ式に倒れようとしている自転車を止めるのに四苦八苦している八木と出会った。
「何やってんの?」
「見てないで手伝ってください!」
それが目上の者に対する態度か? 一瞬、このまま放置して行く末を見守ろう、という悪魔の囁きに耳を貸すところだったが、僕の心は聖人君子のように清いので、仕方なく手伝ってやることにした。
「ありがとうございます」
ちゃんと感謝を述べられるぐらいの礼儀は持ち合わせているらしい。当面の危機は去ったので、気になったことを質問してみる。
「どうして自転車整理なんてやってるの?」
本来は各クラスから自転車整理に二名ほど派遣されてくるのだが、当番でもないのに八木がいるのは奇妙だ。すると彼は駐輪場の縁石に腰を下ろし、伏し目がちに言った。
「博愛精神ですかね……」
「サボんなよ八木ぃ!」
「ちゅーっす!」
怒号を放ってきたのは竜造寺先生だった。彼は反射的に気をつけする八木を無視し、にこやかに僕へ挨拶をする。
「おはようございます、金剛力先生」
「あ、おはようございます」
「こいつ遅刻の常習犯なので、そのペナルティです。存分に扱き使ってください」
「勘弁してくださいよ!」
泣き縋る八木に対しても、竜造寺先生は無情な態度で迎え撃った。例え八木を自由に扱き使おうと、僕には僕の果たすべき役割と持ち場がある。人数が何人増えようと公平さには関係ない。勝手にやってくれ。僕は作業に戻る。
ともあれ、この自転車整理でさえ僕にとってはボランティアなのだ。僕は人に命令されたからではなく、やりたいからやっているのである。決して生徒に慕われたいとか、善行で報われたいとは考えていない。
クソ、自転車同士のサドルが車輪に引っかかって、僕の力では二台ごと持ち上げられない。誰だよ、こんな面倒臭い停め方したのは? おかげで朝から手が泥と油で汚れそうだ。
どんなに僕が苦労していても、誰も見ていなくていい。一人では難しいことだって、一人でやらなきゃ駄目なんだ。
「大丈夫ですか?」
きゃ、流石は男子! などと冗談を言っている場合ではない。竜造寺先生は自慢の巨体で、自転車を二台ごと軽々と持ち上げ移動させた。
僕も鏡の中ではゴリラのはずなのに、この頼れる大人から溢れ出る貫禄の差は何だろう? 確か竜造寺先生は意外と若くて二七歳。五年後、僕も先生のように生徒を指導できるイメージが全く沸かない。
実際の僕と、理想としている教師像は懸け離れている。これが生徒の動物化現象と同じく、自分の姿がゴリラに見えることと起因しているのならば、どうして僕の目からは自分の手と、腹と、足しか見えないのだろう……?
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