第12話 火種

 週明けの研究授業が終わり、僕は見学しに来てくれた太宰先生を見送っていた。


「お疲れ様。なかなか先生やれてたよ」

「ありがとうございます」

「もう今日は終わり?」

「後は、HRクラスで感動の別れが待っています……」

「そうか、じゃ最後に楽しんで」

「はい。ありがとうございました」


 太宰先生が職員玄関から出て行くのを見届け、僕は真っ直ぐ意気揚々と三年D組の教室へ向かう。逸る気持ちを抑えようとしても、意識せず早歩きになってしまう足は止められそうになかった。


 研究授業は生徒が遅れたり、緊張して噛んだりなどのアクシデントはあったが、最後に国民として選挙に参加する心構えだけは伝えられたように思う。その後の平和主義についてはノータッチで、僕が修学旅行の思い出を語るしかなかったのは肝が冷えた。


 他の先生方にも教育実習生としては良い、という微妙な評価を貰えたし、公民の授業で思い残すことはない。あるとすれば、HRクラスの生徒たちである。


 竜造寺先生に説教を受けてから、僕は休日の間ずっと考えていた。一体、何が生徒のためになるのか? また、僕は生徒たちに何を残せるのか? そして考え抜いた末に出た答えは、動物化の解除である。


 あれから動物化の原因を探った結果、そもそも動物化というのは哲学者であるヘーゲルの「動物観」から来ていることを知った。それを基に解釈し、新たに人間の「動物化」という概念を打ち出したのが、社会学者のコジェーヴだ。


 それによれば人間は欲望を持つ存在であるのに対して、動物は欲求しか持たない存在だとし、人間と動物の差異を定義している。つまり、自分だけの欲求を満たすような人々のことを、僕は動物的な人間と呼んでいたのだ。


 そういった人間が増えた理由は、チャールズ・スティーブンソンが主唱した「情緒主義」という言葉を使えば説明できるが、面倒なので割愛させてもらう。社会学というのは辻褄が複雑であり、元を突き詰めれば切りが無い。


 とか考えている間に、もう教室の前だ。よーし、最後の授業で生徒たちに吠え面かかせようと、意気込んで扉を開ける。


『金剛力センセーッ! お疲れ様でしたーッ!』


 教室の中で迎え入れてくれたのは、僕とのお別れ会を開く生徒たちだった。代表して丸亀が花束を、色紙を黒樺が教壇の上で僕に渡してくる。


「お疲れ様です」


 労いの言葉は簡素なものだったが、不意打ちだったので少しも気にならなかった。僕は戸惑いながらもお礼を言う。


「ありがとう」


 ヤバい、泣きそうだ。不意に目頭が熱くなる。

 少しでも気を緩めてしまうと、瞬く間に涙腺が崩壊してしまう。僕は花束と色紙を受け取りながら、生徒からは見えないように下唇を噛んだ。


「先生、笑って!」


 せっかくのサプライズに対し、頑なに表情を崩そうとしない僕に、鮫島は明るく野次を飛ばす。いつもなら空気を読めと不機嫌になるところだが、僕は泣きそうになるのを堪えるために、あえて変顔をして見せた。


「それでは記念撮影をしましょう。みなさん教卓の前に並んでください」


 竜造寺先生がデジタルカメラを取り出すと、生徒たち全員がゾロゾロと僕の周りに集まってくる。どうしたら良いか分からない僕は硬直し、とりあえず花束を抱えたまま顔を引きつらせ、ひたすらフラッシュが焚かれるのを待つ。


「はい、チーズ」


 やけに可愛い竜造寺先生の掛け声に合わせ、僕はぎこちない笑顔を浮かべる。動物たちに囲まれるのも慣れたものだが、もう金輪際こんな体験はしたくない。後腐れ無くサファリパークからオサラバするため、僕が君たちを人間に戻す!


「はい、バッチリ撮れました。みなさん席に着いてください。それでは金剛力先生、最後にメッセージをお願いします」


 まるで流れるような所作で、竜造寺先生が強引に司会進行を務める。その様子を見て毒気と共に肩の力も抜け、僕はリラックスして生徒たちに向き合った。


「みなさん、今やりたいことはありますか?」


 動物化の原因を仮設できた時から、第一声はこれにしようと決めていた。やはり面食らっている生徒たちに隙を与えぬよう、立て続けに話し始める。


「まぁ、ハッキリ言ってしまえば夢ですよね! もし、この中で夢を持っている人がいたら教えてください」


 ……誰も反応しない。だが、このくらいは予想できていたことだ。むしろ好都合のため、このまま話を続ける。


「誰もいないようですねぇ。ま、それが賢い選択でしょう。だって、どうせ夢なんか叶いませんから」


 一斉に、生徒たちがどよめく。おそらく、生徒に面と向かって最低なことを言った教育実習生は、人類史上で僕くらいのものだろう。


「いや、そうでしょ? 夢は叶わないから夢なんです。下手に夢へ挑戦して大きなリスクを背負うより、少しでも勉強してリスクを減らした方が賢明でしょう」


 生徒たちの共通点。それは特に何もやりたいことが無く、未来への希望を喪失していることだ。だから何事にも妥協し、諦め、悟り、無気力に生き、即物的な自己満足に浸ろうとする。それが生理的欲求しか持たない動物たる由縁だ。


 もし彼らが自己主張することを無駄に感じ、社会に適応した方が利口だと思っているのなら、誰かが否定してやらなければいけない。その役目を僕が引き受ける。


「でも、それって生きていて楽しいですか?」

「つまんなーい!」


 一瞬の躊躇いも無く、天真爛漫に黒樺が返事をする。いつも馬鹿っぽい女だと思っていたが、今なら彼女は純粋すぎたのだと理解できた。便乗しない手は無い。


「そう、つまらないでしょ⁉ でも、君たちは夢を持つことができない。なぜなら、非常に大きなリスクが伴うことを恐れているから。このようにリスクを避けることは不可能で、個人的に対処しなければならない社会を、リスク化社会と呼びます」


 別に大事な言葉ではないが、聞き取れなかった生徒がいないとは限らないので、面倒でも黒板にリスク化社会と殴り書きする。そしたら黒樺に字が汚いと言われた。純粋すぎるのも考え物だな……。

 気を取り直して、僕は何事も無かったように生徒へ顔を向ける。


「どういうものかと言うと、従来の社会なら教育機関を卒業すれば、その人が希望する職業に就けていました。しかし、リスク化社会によって教育機関のシステムが崩壊します。例えば声優養成学校を出たとしても、声優になれるとは限りませんよね? それと同じように頑張って勉強したとしても、その努力が必ず報われるとは限りません」


 現代社会は自由が広がったからこそ、人は自由の重荷に耐え切れない。そして多くの人が安定を求め、自分ではない誰かと同じになりたがる。やがて個人は群衆となり、自分たちと違う者を蔑み、恐れ、自由に生きる人を妬ましく思う。


 ……なんという生き辛さだ。自分は好きに行動したいだけなのに、どこへ行っても厄介払いされ、汚い大人たちに利用される。だったら自分も個人ではなく、群衆へ同化した方が楽になれるんじゃないか?


「でも、だからと言って簡単に夢を諦められますか⁉ どんなに好きでも声優にはなれないかもしれない! どんなに頑張っても僕は教師になれないのかもしれない! だけど、やるしかないんです! やらなきゃ君たちは空っぽのままだ!」


 女装していた鯖江を思い出す。彼が可愛いを掴むと目標を宣言した途端、なぜか魚から人間に戻っていた。そして竜造寺先生と、犬神も動物化していない。


 以上のことから、動物化している生徒たちの共通点と、動物化していない先生方の共通点を照らし合わせると、自分に不足しているものを埋めようとする、欲望の有無が条件になっていると分かった。


 つまり、生徒の動物化を解除する方法は、相手に何かをしたいと思わせることである。


「できない理由より、やりたい理由を考えましょうよ!」


 感情を曝け出す僕の剣幕に押され、生徒たちは息を呑む。その視線は僕へと釘付けになっており、まるで教室の中だけ時間が止まったようだった。


 苦労して動物化を解除できる仮説を立てたとはいえ、どうしたら生徒に欲望を持たせられるかまでは未知数である。悩んだ末に僕が導き出した答えは、生徒たちに火種を植えるということだ。


 すぐには無理でも、いつか僕の意志が君の中で熱く燃え盛って欲しい。そういう願いを込めて、僕はリスク化社会を授業のテーマに選んだ。


「みなさん、やりたいことを見つけてください。僕からのメッセージは以上です。ありがとうございました」


 最後の授業を僕が終了させた時、あの一癖も二癖もある生徒たちが立ち上がり、惜しみない盛大な拍手を送ってくれた。予想以上の反響を受け、僕は教壇の上で放心する。


 どんなに考え方が違う人間でも、伝えようとする熱意さえあれば届くのだ。自分から心を閉ざしていては、きっと死ぬまで世界は灰色のままだったろう。


 そんな僕が生徒のために何ができるか不安だったが、どうやら僕は生徒たちに火種を残せたらしい。本当に、後悔せずに済んで良かった。教育実習を途中で諦めず、人間の可能性を信じて良かった……。


 いつまでも鳴り止まないスタンディングオベーションの中、あっという間に生徒たちは動物から人間に戻っていた

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