第13話 生き辛さ

第四章


 良くも悪くも長かった教育実習が終わり、すっかり季節は梅雨から夏へと移行している。もはや過去となりつつある教育実習から二ヶ月という時間が経ち、学生たちは夏休みへと突入していた。


 今年は僕にとって学生最後の夏である。サークルの仲間たちと海やバーベキュー、お祭りや花火などイベントごとは満載だ。ひと夏の恋だって期待しても良いかもしれない。というか、今年こそ恋人を作ろうと意気込むべきである。


 もう卒業に必要な単位数は獲得したし、面倒な教職課程も修了した。後は教員免許を受け取るだけで、卒業するまで遊び尽くせるのだ。これぞ学生の特権である。やり残したことの無いよう、計画的に時間を有効活用したい。


 そして僕が学生最後の夏休みに何をしたかと言うと、リクルートスーツを着用して炎天下の街中を彷徨い歩いていた。


 僕は教師になることを決意したわけではないので、保険として就職活動を真面目にやろうとしたのである。間に教育実習が入ったので他の学生よりかはハンデを背負っているが、今年の情報解禁は例年より遅い三月であるため、そのくらいなら支障は無いと思っていた。


 しかし、現実は厳しい。情報解禁が遅れたために学生たちは企業研究が不十分になり、企業も選考に手間暇と時間をかけられなくなった。よって、企業は志望者を選考するスパンを短くし、優秀な人材を引き入れるために何度も募集をかけるようになったのだ。


 おかげで僕は建前に翻弄され、なぜ落ちたのか理由も分からないまま、毎日のように会社説明会に行っては履歴書を出し続けたのである。


 時には性格の悪い面接官から圧迫され、時には無理難題なテーマでディスカッションをやらされ、次第に僕の精神は摩耗して行った。その日々を思い返すと、涙無しには語れない。


 慣れない土地で目的地へ着くため、スマートフォン片手にグーグルマップを開き、強い日差しに照らされながら蒸し暑いアスファルトの上を歩く。まるで体が溶けたように汗が絶え間なく流れる頃には、どうして僕は今こんなに苦労してまで就活しているんだ? という疑問と怒りが湧いてくる。


 まるで刑に処されたようではないか。何も悪いことをしていないのに、ここは地獄よりも地獄のような場所だ。それでも僕は生きようとし、社会の一員になろうと頑張っている。組織に従順で、理不尽にも対応して、権力に媚び諂って、気に入られようとしている……。


 結局、僕が就職活動で得た教訓は、履歴書に教員免許取得と書かない方がいいぞ、ということだけだった。どれだけ僕が教職課程で得た知識を応用しようと、企業には教員への未練が残っている若者にしか見えない。


 教育実習は無駄な体験だったのだろうか? 竜造寺先生や生徒たちのおかげで成長したと思っていたのに、いざ学校の外へ出てみれば全く通用しない。僕は成長したつもりになっていただけのようだ。


 その証拠として、僕は教育実習を終えてもゴリラ化した状態のままだった。生徒たちの動物化は解除できたのに、肝心な僕自身の問題を解決できない。この事実が暗示している意味は、やりたいことが僕の中に無いということだろう。


 だとすると、僕は生徒の誰よりも劣ることになる。生徒に向けてメッセージを伝えている場合ではなかった。僕も自由な時間が多い学生の内に欲望を持たなければ、死ぬまで一生ゴリラのままである。


 おそらく、自分が空っぽな存在だということを、企業の面接官は見抜いていたのだろう。本当はやりたいわけでもないのに、生活するため仕方なく就活している。


 例え多くの人が似たような理由であっても、僕は演技している自分を外から冷静な目で見ることができなかった。嘘が吐けない性分なのである。でも、みんなは当たり前のようにやっているんだよな……。




 そういった辛い背景があり、僕は盆休みを利用して実家へ帰省することにした。盆休みなら企業も休んでいるし、二週間くらいは説明会も選考も無い。微妙に帰省ラッシュとの時間は避けて、僕は悠々と高速バスに乗り込む。


 いつもバスに乗っている間、どうしてか感傷的な気分になる。東京から五時間かかるのも億劫になるが、そのくらいは本を読む時間にしたら良い。


 なんというか、もはや実家は帰るべき場所ではないのだ。田舎が嫌で上京して来たのに、結局は都会に馴染めずUターンしてくる。あまりにもダサすぎるぞ。


 ましてや、今の僕は内定も決まらず、やりたいことも定まらないままフラフラしている状態だ。一体、どんな顔をして帰れば良いのか? こんな悩みを両親には死んでも相談したくないし、誰かに依存して甘えてはいられない。


 だが、意固地になっても仕方がないことである。僕は何かをしたくて大学に入ったわけじゃない。そして何も見つけられなかった。ただ一人で無為に生活費と時間を浪費するくらいなら、安心できる実家で気分転換した方がマシだ。


 そして五時間かけ、ようやくバスから地元の公民館へ降り立つことができた。時刻は既に午後六時だが、まだまだ日は登っている。僕は空の青さが徐々に橙へと変化して行くのを見上げながら、親が運転する車の迎えを待った。


 しかし、いつまで待っても迎えが来ない。僕の実家は隣町なので、車が無いと家に帰れないのだ。バスで帰ろうにも、この辺の田舎は一時間くらい待たないといけないため、それもあまり現実的な手段ではない。


 こっちは長旅で疲れているというのに、なんという仕打ちだろうか。実家に催促の電話を入れても、繋がる気配が全く無い。そろそろイライラがピークになってきた頃、実家の方角からではない反対車線から、見覚えのある車が駐車場に入ってきた。

 僕の前で車が停まり、運転席の窓を開けて父が顔を覗かせる。


「元気してたか?」

「遅いよ」

「すまん。今から爺ちゃん家に行くぞ」

「どうして?」

「いいから乗れ。走りながら話す」


 普段は剽軽な父親が神妙な面持ちで言うものだから、思わず従ってしまった僕は大人しく車の後部座席に座った。そして父は何も言わずに車を発進させる。


 今から行く祖父の家は母の実家なので、おそらく母と弟も一緒にいるだろう。お盆の墓参りかと思ったが、そのくらいなら父も勿体つけずに話してくれるはずだ。一体、祖父の家で何があったのだろうか?

 やがて赤信号で車が停止した時、父は慎重に話し始める。


「お爺ちゃんが倒れた」


 ……まぁ、確かに父が空気を読んでシリアスモードへ入るくらいには、僕にとってもショックな出来事である。祖父は自由人で、遊び人で、口うるさくて一族から嫌われていたが、なぜか僕にだけは優しかった。


 だが、祖父も八十歳だ。いくら日本の平均寿命が延びているからって、寄る年波には勝てないだろう。大往生とまではいかなくとも、生きている間は誰よりも好き勝手に楽しんで生きていた。それだけで充分である。


「病院へ見舞いに行く」


 いや、いちいち僕のメンタルケアまで考えて、断片的な情報だけ小出しにするのは止めて欲しい。僕も社会人になるのだから、身内の不幸くらい受け止められる。


 しかし、いざ病室へ来てみると、あんなに憎らしいほど元気だった祖父は、見る影も無いほど衰弱していた。病院服を着てベッドで横になり、点滴を打たれながら瞼を閉じている。


 他の家族は出払っているのか、この場には僕と寝込んでいる祖父しかいない。父は車を置きに行っているので、まだ暫くは来られないだろう。僕は静かに祖父の寝顔を見つめ、思い出を反芻する。


 金婚式で旅館に泊まったり、お小遣いを貰ったり、焼肉や鰻を食べに行ったり、ゴルフや釣りをしたり、秘密で麻雀のルールも説明してくれた。仕事で忙しい両親や、勉強しろとしか言わない教師とは違い、祖父は僕に遊び方を教えてくれたのだ。


 すると、ゆっくり祖父の瞼が開いた。きっと起きたら意外に余裕そうで、いつもみたいな軽口が飛んでくるはずだ。


「誰よ、お前?」


 まぁ、このくらいは挨拶みたいなものである。本当は嬉しいくせに、わざと興味の無かったフリをしてくるのだ。会う度にボケてくるので、何度も同じように僕は返事をしてきた。


「亜斗夢だよ」

「ああ、亜斗夢か……」


 ……え? もしかして終わり? 祖父は僕のことを忘れるほどボケてはいなかったが、今までのように接する気力は無いらしい。


 どうやら喋るだけでも体力を消耗するようで、また祖父は瞼を閉じて寝てしまった。だが、今すぐに死ぬというわけでもなさそうだ。あれだけ負けん気の強い祖父だったので、きっと治療すれば徐々に回復していくことだろう。




 何もせずにベッドの前で棒立ちしていると、祖母と母が一緒に病室へ入ってきた。二人とも普段と変わらぬ態度で接してくれたので、ようやく僕は地元で安堵することができる。


 しかし、病室は手狭なので、何もしないなら外に出ていろと言われた。その際、祖父のこととは無関係に、母から弟の進学について相談事を頼まれる。


 まったく、我が母ながら抜け目ない。どうあっても断れないタイミングで要求するから、家族の中で人使いが荒いと言われるのだ。仕方ないので病院の待合室へ行き、僕は母から指示された通りに弟へ話しかける。


「よう」

「…………」


 いや、無言で手を振るのではなくて、久しぶりに再会したのだから返事しろよ。僕は弟の、こういう女々しい態度が嫌いだった。


 とはいえ、出会い頭に説教していられない。今回は弟の心を開くことが母から課せられたミッションなので、我慢して隣に座り会話を続ける。


「父さん見なかった?」

「途中で母さんに見つかって、足りないものを買い出しに行った」


 いいように使われているな……。まぁ、どうせ父も僕と同じで、祖父の世話なんかできっこないのだから、適材適所とも言える。

 父のことは話の取っ掛かりにするとして、僕は単刀直入に弟へ質問を切り出した。


「もう高三だよな? 進路は決まった?」

「まだ……」

「行きたい大学とか、やりたい勉強とか無いのか?」

「家から近ければいいや」

「この辺に私立大なんか無いぞ? 他は国立大だけど、偏差値も倍率も高いだろ。大丈夫か?」

「…………」


 返事が無い。いくら兄弟だからとはいえ、口うるさく追い込んでしまったか……。教育実習では一定の距離を保てていたのに、身内となると途端に難しくなる。


「地元に残りたいなら、家業を継ぐのもアリだけど?」


 僕は弟の警戒心を解くために軽口を言ったのだが、弟は僕と視線さえ合わせなくなった。流石に踏み込み過ぎたか……。


「……なんて、冗談だよ。笑えなかったな」


 理髪店の後継ぎなんて、大学に行った僕が言えた義理ではない。それだけではなく、弟が気軽に答えられないのには、ちゃんとした理由がある。


「まだ不登校なのか?」

「……うん」


 弟は去年の冬頃から、高校への登校を拒否するようになった。理由は分からないが、おそらく人間関係での葛藤だろう。将来への不安があるのなら、とりあえず大学に進学してモラトリアムに浸っていれば良い。


 僕も母から電話で聞かされた時には驚いた。なぜなら、弟はグレていると言うか、ヤンキーとまでは行かないが、中途半端にチャラ男なのである。僕よりも処世術に長けていて、外では友達も多そうな優男で、僕の嫌いなタイプだった。


 どうして同じ環境で育ったはずなのに、こんなに僕と弟で明確な差が生じてしまったのだろう? それだけに僕は弟のことが不気味で、無意識に避けていたのかもしれない。いや、避けられていたのかもしれない。お互い様か。


 しかし、今こそ兄弟の絆を深める時である。教育実習での経験を生かすべく、僕は積極的に弟へ話しかけた。


「学校は嫌い?」

「好きだったら行ってるよ」

「じゃ、なんで嫌いになったの?」

「別に嫌いではない。ただ、行く意味が無くなっただけ」


 どっかで聞いたことがあるようなフレーズである。ったく、高校三年生ってのは、みんな似たような理由で悩むのが流行っているのか? どうせ有言実行する勇気が無いのなら、大人しく受験勉強でもしてろ!


「意味って何? そもそも学校へ行くことに意味なんてあるのか?」

「当然でしょ。だけど高校の勉強は社会で役に立たなそうだし、どうせ今から受験勉強しても無駄に終わりそうだし、だったら学校に行くよりも実のあることをしたい」

「で、その実のあることって何よ? 僕に言えることか?」

「その、僕っていう一人称を止めてくれたら言うよ」

「関係ないだろ⁉」


 どうやら打ち明ける気は無いらしい。僕の一人称については、小さい頃から弟が恥ずかしいと言っていたことだ。そして同時に、話を切り上げたい時の合図でもある。


 やれることだけのことはやった。そう自分に言い聞かせ、椅子から腰を上げる。そろそろ病室へ戻っても良い頃合いだろう。すっかり窓の外は暗くなったし、お腹も空いた。早く家に帰りたい。


「俺、美容師になりたいんだ」


 突如、どこからともなく弟が自分の夢をカミングアウトする。驚いて反射的に振り返ると、弟の顔は父親以上に真剣だった。


「それ父さん母さんに言ったのか?」

「まだ」

「……分かった。言い辛いなら僕の方から伝えとく」


 おそらく、両親は後を継ぎたいと言ったら怒るだろうが、ただ美容師になりたいだけなら反対はしないだろう。とはいえ、親と同じ道を志す気恥ずかしさは分かるので、今は弟の気持ちを尊重しよう。


「だが、条件がある。ちゃんと学校に行くこと」

「どうして?」

「お前には意味の無い知識かもしれんが、学校と言うのは受験勉強だけでなく、勉強の仕方を教えてくれる場所だ。いざ一人前の美容師になろうって時に、誰かに教えてもらえるのを待っているだけじゃ駄目だ。技術を自分で調べたり覚えたりする、積極性と頭の回転を身に付けることが大事だ」


 大学の研究でも、自分で調べ方が分からない奴が一定数いる。今はネットで調べれば簡単に出るかもしれないが、ネットに書かれている事は信憑性が低い。僕はネットの九割九分が嘘だと思いながら利用しているため、結局は自分の力で答えを模索するしかなくなるのだ。


「また、学校でのコミュニケーション能力は、職場での人間関係を良好にするのに役立つ。すぐに辞める理由の大半は、人間関係でのストレスだ。ましてや美容師は接客業なんだから、口を達者にしといて損は無い」

「条件を守らなかったら?」

「一人で父さん母さんを説得しろ」

「わ、分かったよ……」


 相手を納得させようと理論武装で固めたつもりが、まるで脅迫のようになってしまった。それでも弟は渋々ながら了承してくれたので、結果オーライだろう。


「でも、どうして美容師になりたいと思ったんだ?」

「いつか話す」


 生意気な。だが、そういう天邪鬼な所は僕と似ている。けっこう性格が違うように見えて、根っ子の部分は子供の時から変わらないままだ。自分を棚上げして言うのは気が引けるが、なんとも生き辛そうな弟だな。

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