第2話 自己紹介


 そして次の日、僕は実習校へ赴いて事前指導を受けるため、出かける前に鏡の前でリクルートスーツの着こなしを念入りにチェックしていた。


 どうせ姿見に映っているのは屈強なインテリゴリラではあるのだが、初めて担当の先生と顔を合わせることになるのだ。何事も第一印象は肝心であるし、学生だからって気を抜くことはできない。


 心なしか、ゴリラの表情も普段より自信に満ち溢れているように見える。……段々と見ていて気分を害したので、さっさと僕は時間に余裕を持って部屋を出た。

 一体、いつになったらゴリラ化が解除されるのだろう?


 いくら考えたところで答えが出ないのなら、当面は目の前のことに集中するしかない。そうやって、一年前から問題を後回しにしてきた。


 でも、ああ、今はゴリラなんか関係ない! 僕は今から実習校という名の敵陣へ赴くのだ。これは戦いだ。僕は権威に負けず、理不尽から逃げなかったという事実が欲しいのだ。そのための教育実習だ! 教員免許だ!


 クソ、こんなに反抗的な態度を、担当教員の前で億尾にも出してはいけない。相手は行き先の無い僕を引き受けてくれた、恩義ある学校なのだ。いかにも教師になりたくて、正義感の強い謙虚な学生を演じなければいけない。常に気を張り続けないと。


 まずは、三週間通い続ける高校までの道のりを覚えよう。僕の部屋から実習校までは、歩いて三十分ほどだろうか。基本的な交通手段が徒歩である僕にとっては、このくらいの距離は許容範囲ではあるのだが、実習校は山の上に建っている。起伏の激しい坂が非常に多いため、この道を朝の時間帯に上り下りするのは骨が折れそうだ。


 そうこう考えている内に、実習校へ着いてしまった。気まずいながらも下校する生徒たちの間を切り抜け、僕は堂々と正面から敷地内へ足を踏み入れた。


 受付に案内されたのは、不必要なほど非常に広い会議室だ。僕よりも先に来ていたらしい二人の教育実習生が席に座っていたが、その座り方に規則性が無い。


「どこに座ったらいいんですか?」

「後で説明されると思いますから、どうぞ好きな席へお掛けください」


 受付のくせに、なんてアバウトな対応なんだ。私立ならもう少しマシだと勝手に期待していたが、やはり学校の事務にはロクな奴がいない。仕方なく、僕は不自然に空いていた角っこの席へ座った。


 それにしても、会議室は息を吐くのも億劫になるほど、実習生の緊張感で雰囲気が重苦しい。僕は気を紛らわすため、隣の席に座っていた女性へ話しかけた。


「あの、あなたはこの学校の卒業生ですか?」

「…………」


 僕が話しかけた額の広い眼鏡の女は反応するわけでもなく、ただ無言で机の上に置かれた手元の資料を確認していた。その邪魔をするなという態度が気にくわなかったため、さらに僕は無視されたまま話しかけ続けた。


「僕は付属校の出身ではないんですけど、大学はC大なんです。でも高校のことは詳しくなくて、できれば特色とかあったら教えてくれませんか?」

「…………」


 まーだ無言を貫いている。これでは話しかけても無駄だと判断した僕は、肩の力を抜いて椅子に深く腰を掛け直した。どいつもこいつも真面目ぶっているくせして、本当に教師としての資質があるのか疑わしい。


 せっかく僕の方から心を開いたというのに、こうも頑なに壁を張られては手の出しようがない。同期の教育実習生として仲良くしておきたかったが、あまり楽しく過ごせないまま退屈に実習期間も終了しそうだ。


「……席順」

「え?」


 急にボソッと言葉を発したため、初対面の人に間抜けな反応を見せてしまった。もう一度だけ聞き直す。


「席順は教科ごとに決まっています。あなたの席は私の隣ではありません」


 彼女が指し示した資料を確認すると、確かに席順が教科ごとに決まっていた。担当教科が公民である僕は後方の席だった。


 まさか事前指導の段階で赤っ恥をかいてしまうとは思わなかった。知っていたのなら最初から教えてくれればいいのにと、恨めしく後味が悪くなった僕は彼女へ礼を言うでもなく、指定された席へ座り直した。


「こんにちは」


 すると、今度は隣の席にいた相手の方から僕へ話しかけてきた。なんだか覇気の無い顔つきに反して、声音だけはフレンドリーな男性である。僕も軽く挨拶を返すと、彼は間髪を入れずに質問をしてくる。


「この学校の卒業生ですか?」

「いえ、在籍している大学がC大なだけで、母校は故郷の東北です。そちらは?」

「私は生まれの地元がこっちなのですが、母校からは教育実習生の受け入れを拒否されてしまいまして、運良く付属校へ入り込むことができました」


 どうやら彼も僕と似たような境遇らしい。それだけで一気に親近感が湧いてきた。


「僕も同じですよ。失礼でなければ、大学はどちらへ?」

「今は関西のR大に通っています」

「へぇ、エリートじゃないですか」

「そんなことないです」


 謙遜ではなく、本当に大したことじゃないと思っているのだろう。母校から受け入れを拒否された理由を察するに、高学歴も思っていたほど楽ではないらしい。ちなみに、学校の勉強をする意欲が無かった僕はFランである。


 ここで、みなさんは教育実習生が現場の教師たちから、何と呼ばれているか知っているだろうか? 公害である。特に難関大学を目指す進学校は顕著であり、実習生に割いている時間も気力も無く、授業の進行を妨げる存在でしかない。


 だからこそ、公立よりも忙しい私立学校でありながら、全く縁もゆかりもない学生でさえも受け入れるとは心が広い。何か裏でもあるのだろうか?


 そこらへんの話を深く聞いてみたかったが、すっかりリラックスして油断していたところへ、必要以上に大きい声で挨拶しながら入室してくる者が現れた。


「こんにちは!」


 なんと、その暑苦しい人物は僕と同じ大学の犬神だった。そりゃあ、一人くらいは経済学部の奴らが来るとは思っていたが、よりによって一番面倒臭そうな犬神かよ。


 その元気があり余った挨拶は空を切り、どの席へ座ればいいのか迷っているようだった。その困っている姿が僕と重なって見えたため、仕方なく親切心で助け舟を出す。


「犬神は窓際の席だ」

「お、金剛力じゃん! なんだ、実習先が一緒なら最初に言ってくれよ!」


 犬神が呼んだ金剛力とは、実を隠そう僕の名字である。というか、僕は席を教えただけだというのに、なぜ僕と彼が仲良しの前提で話が進んでいるのだろうか? これだから僕は一気に距離を詰めようとする、彼の鬱陶しいコミュニケーションが大嫌いなのである。


「ああ、そうだね」


 序盤から無害認定される仲間意識を持たれては、他の人たちと信頼できるコミュニティを形成できない。僕は彼を突き離そうと、素っ気なく対応した。


「席順のこと教えてくれてサンキューな! よろしく!」


 犬神は僕に礼だけ言うと、大人しく指定された席へ着いた。

 彼は誰に対しても軽く明るく接するため、そのハイテンションなノリに僕は付き合えない。だから真面に取り合わず、さっきのようにサラッと受け流す。そうでもしなければ、きっと僕は自我を保っていられなくなるだろう。


「知り合い?」

「大学が一緒なだけ」


 僕と犬神の会話を聞いて、隣に座っていた男性が関係を訝しがっていると、廊下の方からドタドタと駆け込んでくる足音が響いた。てっきり生徒が放課後になって遊んでいるのかと思いきや、スーツ姿の男女が勢いよく会議室の扉を開けた。


「ギリギリ、セーフ!」


 額に汗を濡らして息を切らしていた二人は、野球の審判のように両手を広げて間に合ったことを証明していたが、その背後にいた人物を見て僕は体が硬直した。


「アウトだ、馬鹿者」


 二人の後ろに立っていたのは教頭先生だった。そして手にしていたクリップボードで、遅刻した二人の後頭部を叩く。


「痛っ!」

「さっさと席に着け」


 叱られた男の方は潔く指示に従い、犬神に席順を聞いて額が広い女の横に座った。それに対し、同じく叱られた女の方は重そうなリュックを床に下ろしながら、恐れ多くも教頭先生に軽口を叩いた。


「さすがは元担任の教頭先生。御出世なされましたね」

「お前は相変わらずのようだな。今から担当の先生方がお見えになるから、その緩み切った気を引き締めとけ」


 出た、卒業生ならではの気安いコミュニケーション! こちとら万が一にも失礼の無いよう冷や冷やしているというのに、あの女ときたらOG感覚で教育実習に臨むつもりらしい。やはり実習生としての自覚が必要とはいえ、スタート時点から意識の差が表れていた。


 落ち着けないまま待つと教頭先生が忠告していた通り、ぞろぞろと現役の教師たちが会議室へ入ってくる。そして私語や余計な動作をすることなく、それぞれの教科ごとに実習生の対面へ座った。


 あまりにも機械的な動作に面食らってしまったが、こんなことで物怖じしている場合ではない。今までのような教師と生徒と言う立場ではなく、これからはビジネスライクな関係として接するのだから、あくまでも対等に渡り合わなければ。


「竜造寺弘光(りゅうぞうじひろみつ)と申します。よろしく」


 そう名乗りながら僕の対面に座った人物は、教師人生の中で一体どこに使いどころがあるのか不思議に思うほどの、逞しすぎる筋骨隆々とした大男だった。


「…………こ……ぉ」


 駄目だ、こんにちはが言えない! 予想外の出来事に対してビビりまくった僕は、上手く舌の呂律が回らなかった。あれほど第一印象が大事だと言い聞かせていたのに、これでは焦ってデフスパイラルに陥ってしまう。


 そんな様子の僕を、竜造寺先生は訝しげに鋭い目つきで睨む。彼は坊主頭で、丸眼鏡で、無精髭を生やしていて、ヨレヨレになったシャツを着ていた。身だしなみに気をつけていた自分が馬鹿らしくなってくるほどの不潔さと合わさり、さらなる威圧感の遡上効果を生み出すことに成功している。


「どうかしましたか?」


 ここで気を紛らわそうと、体育の実習生は向こう側ですよ、なんて冗談で言ったら殺されそうな雰囲気だ。てか、なんで体育教師は無駄な美貌を持つ女性なんだよ。お願いだから交換してくれ。


「それでは連絡事項を伝えます」


 パニックになって思いを張り巡らせている内に、一通りファーストコンタクトが終わったと判断したのか、教頭先生は教育実習期間中の注意事項を連絡した。


 教育実習生は自分たちで鍵を管理し、ゴミ捨ても当番制で行うこと。また、自分と異性の生徒と二人きりで教室に入らないこと。


 その後も細かいことを説明され、教師として当たり前のことではあると思うのだが、なんだか僕は実習生が信用されていないような気がした。生徒との距離感には最大限の注意を払わなければいけない。


「では、皆さん担当の先生方に御挨拶したところでしょうが、今ここで全体へ向けて自己紹介をしてください」


 なん……だと……? てっきり今日は軽い挨拶だけで終わると思っていたため、自己紹介の内容なんて考えてこなかった。


 一体、何を言えばいいんだ? 趣味、特技? 教職を目指す理由? 教師が嫌いだから自分が教師になろうと思いました、なんて本職の面前で言えるわけがないだろう。


 どうやって切り抜けようか考えていたところ、トップバッターの犬神が威勢よく自己紹介を始めた。


「C大学から参りました犬神番(いぬがみばん)です! 担当教科は商業です! 私は付属校の卒業生であるため、少しでも母校に貢献し、生徒の助けになりたいと考えています! よろしくお願いします!」


 僕には本当に勢いだけの安っぽい言葉に聞こえたが、他の先生たちが見つめる視線は温かかった。元から在学時の評判が良かったのだろう。


 とにかく頭が空っぽでも、元気さだけを売りにして学生らしさを演出すれば良いらしく、さっき叱られていた女性も犬神に続いた。


「A大学院から参りました竹虎明日(たけとらあす)と申します! 担当教科は国語です! 私も付属校の出身なのですが、他の実習生よりも年上ということですので、なるべく頼られるような存在になりたいと考えています! よろしくお願いします!」


 五年前の卒業生ということは、教頭先生くらいしか面識が無いらしい。別に竹虎さんの人格を知っているわけではないが、なんとなく犬神タイプのリア充っぽい。


 なぜなら目、鼻、口、耳と、大きな顔のパーツで表情を豊かに見せており、大人の色気でパンツスーツスタイルを見事に着こなしているからだ。


 また、黒髪に戻したのであろうポニーテールも、色素が抜けて先っぽが茶髪になっていたが、それすらも彼女の活発さを引き立てることに一役買っているのか、教師たちの印象は悪くない様子だった。

 そして、次は僕に話しかけてきた男性の番である。


「こんには。R大学から参りました鯖江大地(さばえだいち)と申します。担当教科は地理・世界史です。私は付属校の卒業生ではないのですが、それでも快く受け入れてくださり、誠に感謝しています。よろしくお願いします」


 いよいよ僕の番だ。鯖江も流れるような、無難すぎる内容の自己紹介だったし、変に力を入れる必要は無い。あくまでも自然体を意識しろ。


 そう自分に言い聞かせて立ち上がり、会議室の中を見下ろした。まるで値踏みをするような教師たちの視線と、興味津々な面持ちでいる実習生たちとの視線が重なり、僕は頭の中が真っ白になった。


「あ、えっと……」


 鯖江と同じことを言えばいいのだ。何を挙動不審がっている? 簡単なことだろ! 言え! 自分の名前を言うだけだ! そして表面的な、薄っぺらい建前を述べたらいい! お願いだから言ってくれよ!


 結局、僕は自分の名前と大学名を小さく早口で言い、最後によろしくお願いします、とだけ挨拶して自己紹介を手短に終わらせた。



 会議室での連絡事項を一通り全て伝えると、今度は個別で事前指導を受けることとなった。ただ、他の実習生は会議室に残ったままだというのに、なぜか僕だけ職員室前のフリースペースへ移動した。

 いや、心当たりはあるか……。


「ガッチガチに緊張してましたね」


 丸テーブルのパイプ椅子に座った途端、強面の竜造寺先生が開けっ広げに笑った。事実なので、僕は背中を丸めて申し訳なさそうに言う。


「……すみません」

「謝る必要はありませんよ。でも、もしかして人見知りですか?」


 中学では演劇部だったし、高校ではバンド活動をしていた。初対面の人と知り合うことは多々あったし、どうして会議室の中でスムーズに自己紹介できなかったのか、自分でも不思議なくらいだ。


 しかし、あのような失態を犯してしまった後では、人見知りのコミュニケーション不足を認めるしかない。


「……そう、なのかもしれません。自分では自覚していませんでした」

「原因は分かりませんが、ちょっと今から意識を改革させていかないと、生徒の前では教師として致命的ですよ?」

「はい、努力します……」


 僕は教師としての資質が皆無らしい。本当に、自分でも自分のことが分からないのだ。僕の力ない返答を聞いて、竜造寺先生の眉根に皺が寄る。


「最初に訊いておきますが、金剛力先生は教師を目指していますか?」

「それは勿論です」


 まだ一般企業へ就職するか迷い中だが、この場では教員を志すと言うしかないだろう。とにかく、僕は意欲を見せることで精一杯だった。


「別に、やる気を試しているわけではなくてですね、やる気が無かったら無かったらで僕は全く構いませんよ。その方が互いに手を抜けるわけですから」


 怖い見た目とは裏腹に、竜造寺先生の思考は柔軟のようだ。少しばかり冷たいとも捉えられるが、僕としては暑苦しい犬神よりも接しやすい相手である。


「ですが、金剛力先生が本気で教員を目指しているということでしたら、僕も実習期間中は全力で指導します。まずは手始めに、この資料を読んでください」


 そう言って渡されたのは、分厚い学術書だった。学校で使用している教科書と資料集の他に、また何冊か加わると相当な重量である。


「……この本は?」

「金剛力先生に行ってもらう授業の範囲です。教科書二百十ページの憲法ですね。これができなければ公民の教師になる資格はありませんから」


 ゲゲゲ、よりによって法律の分野かよ……。僕が得意なのは社会学の中でも哲学や倫理のため、政治経済は勉強不足である。今までの人生で受験と言う壁を避けていたことが、ここに来て仇となるとは……。


 しかしながら、確かに憲法は日本人として身に付けておかねばならない、非常に重要な基礎教養である。安倍政権の憲法解釈もニュースになっていたし、この機会に勉強しておくのも悪くない。


「では、一週間後に指導案を僕に提出してください」


 は? たったの一週間で、今渡された資料の全てに目を通せと言うことだろうか?

いや、よくよく考えてみたら、それが社会の常識なのだろう。どうやら僕も、時間に自由がある学生気分が抜け切れていないようだ。


「それと、HRクラスの生徒たちの名前と顔写真です。中にはC大への推薦を狙っている生徒もいるので、受験の悩み相談とかしてあげてください」


 すみません、僕はAO入試です。Fランの馬鹿大学ですから、別に推薦じゃなくても適当に願書を出せば、当たり障りのない面接で合格します。などと生徒へ向けて、偉そうにアドバイスできるわけがない。


 担当するHRクラスは体育会系で、スポーツでの実績を基に推薦入試を受ける総合進学コースだ。そのため、特に部活で実績を残していない僕では、彼らにかけられるような言葉が見当たりそうになかった。


「何か質問は?」


 あれだけ意気込んでいた教育実習だというのに、事前指導を受けた今となっては不安しか心中に残らない。もはや何を質問したら良いのかすら分からず、僕は咄嗟に大丈夫だと言ってしまった。

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