国会図書館
トクガワは躊躇した。オダに何と言えばよいのかすぐには思い付かなかった。並列して存在する書き換えられた歴史の記憶の中から、今のオダに関する情報をトクガワは必死で探す。
「えっと、君は……」
「ああ、トクガワさんだったのね。お久しぶり。今日から働くことになりました」
オダは明るい。コンピュータルームで会った時とは別人のようだ。
「えっと、高校の時以来かな」
「やだ、冗談はやめて。三月の面接でここへ来た時に会ったでしょう。もう忘れたの」
トクガワは夢のように朧げな記憶をたどる。この歴史のオダは前と同じく派遣社員。しかし派遣先は空調設備会社ではなくここ、総合歴史記録センター。産休と育休の臨時職員として派遣された……取り敢えずそれだけの記憶をトクガワは引っ張り出してきた。
「そうだった。確かサーバ管理室の臨時職員だったな」
「はい。短い期間ですけどよろしくお願いします」
ちょこんと頭を下げる仕草がカワイイ。書き換え前の歴史に生きたオダより、今のオダのほうが幸福な生き方をしているようだ。
『確か、織田家は旗本だったか』
書き換えられた歴史の中では、信長が討ち死にした後、織田家は完全に秀吉の支配下に置かれてしまっていた。それまでの領地は全て秀吉によって統治、もしくは他の大名のものとなった。そして豊臣幕府が始まると、織田家は幕府の旗本として、領地を持たず蔵米だけを支給される家臣に成り果てていた。
『家臣になれた分だけ、今のオダの職業は前より若干良くなったというわけか。以前の歴史では織田家は完全に武士としての家柄を失っていたからな。それでも旗本では正社員ではなく派遣止まり。厳しいもんだ。まあ、先祖が大名の俺でも平社員なんだから当然と言えば当然だが』
「あの、何階ですか」
まだボタンを押していなかった。トクガワは自分で最上階を押す。
「俺は社員食堂へ行く。君は?」
「私もです。ここは派遣でも社員食堂が使えるんですよ。ラッキーです」
「ちょどいい、一緒に昼を食べないか」
「いいですよ。室長さんでも一般の社員食堂を使うんですね」
「えっ!」
トクガワは聞き逃さなかった。オダは言った。間違いなく言った。「室長さん」と。
「オダさん、今、俺のこと室長って言ったよね」
「はい。だってトクガワさんはデータ管理室の、あっ……」
オダは両手で口を押さえた。顔には明らかに狼狽の色が浮かんでいる。
「ご、ごめんなさい。データ管理室の室長さんは、えっと、トヨトミさんでしたね」
「どうしてだ。どうして俺を室長だと思ったんだ」
「えっと、それは、何だかそんな夢を見たような気がして……」
「また夢か」
トクガワはそれ以上の追及を諦めた。トヨトミも副室長も書き換わる前の歴史を完全に忘れてはいない。夢程度の曖昧さで記憶を保持している。オダも残っている記憶を単に勘違いしただけ、そう考えれば言い間違いの説明はつく。しかしトクガワは納得できなかった。
『以前の歴史に関する記憶の度合いがトヨトミたちと同じなら、あれほど何の迷いもなく室長と口に出せるだろうか。もしかしたら俺と同じように書き換え前の歴史のほうがより鮮明に残っているのではないか。それにオダは信長の子孫。今回の書き換えで利を得た者のひとり。今回の件に何らかの形で関わっているのかもしれない』
確かめてみたいとトクガワは思った。それには知っていることを全て話して反応を見てみるのが一番いい。
「オダさん、悪いけど食事をしながら俺の話を聞いてくれないかな。多分、昼の休憩が無くなるくらい長くなると思うけど」
「いいですよ。積もる話を聞かせてください」
それからトクガワは話をした。食事をしながら、食後のコーヒーを飲みながら、食後の散歩しながら、三月から今日までの経緯を全てオダに話した。オダは一切口を挟むことなく黙ってトクガワの話を聞いていた。
『オダにとってはわかり切った話なのか、それとも下らない話と思っているのか』
トクガワは話をしながらオダの表情を探った。が、そこに気持ちの揺れを読み取ることはできなかった。全てを話し終わった後、トクガワは訊いた。
「これが今、俺の置かれている状況だ。オダさん、どう思う」
「そうですねえ。トクガワさんが嘘を言っているとは思えないし、嘘だと断言できる証拠もありません」
「なら、真実だと信じてくれるのか」
「いいえ、それは無理です。だって真実だと断言できる証拠もないんですから」
「証拠か……」
トクガワにとっては痛い指摘だ。確かにこのままでは単なる妄想に過ぎない。間違いなく歴史が書き換えられている、それを明確に示せる何かが欲しい。
「書き換え前の歴史がどこかに残されていればいいんですけどねえ」
「それは無理だろうな。今は全てがネットに接続されている。センターのデータが変われば全てのサーバのデータも変わってしまう。サーバだけじゃない。個人的な持ち物も例外なく書き換えられたはずだ。俺のIDデバイスだって新しい歴史に迎合するように変更されているんだからな。小説、教科書、個人のメモ帳……ネットと繋がり、ネットを利用しているものは全て書き変わっているはずだ、今の時代、ネットに接続していないものなんてあるはずが……待てよ」
トクガワは気付いた。ネットに接続されていない記録物……ある。紙だ。
「そうだ、本だ。本ならネットに接続されていない。今は紙の書籍なんて完全になくなってしまったが、国会図書館には残っている。そこに保管されている書物は書き換えられていないかもしれない」
「ああ、それはいい考えですね」
「週末行ってみよう。オダさん、付き合ってくれるね」
「えっ……あ、はい」
少々強引だがオダを連れて行かないわけにはいかない。まだ彼女への疑惑は払拭できていないのだ。
『もしオダも書き換え前の記憶を鮮明に残しているのなら、俺と同じように夢の中で誰かの声を聞いていたはずだ。俺が聞いたのは先祖である家康の守り神、薬師如来。となると、オダが聞いたのは先祖である信長に関する何か……』
トクガワはそこで思考を停止させた。結論を出すには早すぎる。全ては推論に過ぎないのだ。もう少し今のオダを観察してからでも遅くはない。できればオダの口から真実を語って欲しい、それがトクガワにとってもオダにとっても最善の結末のはずだ。
土曜日の午後、トクガワとオダは電車に乗って国会図書館へ向かった。
「こうして一緒に図書館へ行くのは高校の時以来ですね」
「そうだな。今考えると、あの頃は俺もオダさんもまだまだ子供だったと思うよ」
この歴史における自分とオダのこれまでを、トクガワは少しずつ思い出していた。トクガワはほとんど変わらない。高校、大学を卒業して今の職場に入ったものの、出世欲が皆無だったためこの年になっても平社員。それがこの歴史のトクガワだ。
『先祖の徳川家が岡崎城だけで満足してしまった不甲斐なさを、そのまま受け継いでしまったようだな。情けないぞ、この歴史の俺は』
オダは前の歴史と同じくこの歴史でも母子家庭で貧しかった。ただし父親は本当に亡くなっていた。高校卒業直前に母親も亡くなり、オダは大学受験を断念。沖縄の親類に引き取られていった。遠距離恋愛は長く続かず、卒業後一年も経たないうちにオダとトクガワの関係は自然消滅してしまった。そして今年の三月、臨時職員の面接に来たオダと十数年ぶりに再会したのだ。
「トクガワさんの話が本当だとすると、私は前の歴史でも派遣社員なんですね。やっぱり信長が天下を取らないと正社員にはなれないのかなあ」
茶目っ気たっぷりの口調でオダが言う。その言葉が単なる冗談なのか、それとも本気でそう言っているのか、トクガワにはわからなかった。やがて二人は国会図書館に到着した。
「やはり大きいな。紙の書籍を所蔵する国内唯一の図書館だけのことはある」
全ての図書館から紙の本が撤去されて十年以上経つ。現在は書籍デバイスにデータをロードして貸出返却をするスタイルに変わってしまった。ただし一部の図書館には古い書籍が残されている。それらは絵画や書画と同じく骨董品としての扱いだ。
唯一、国会図書館にだけはこれまで出版された全ての書籍が紙の形で所蔵されている。紙を用いた商業出版はここ数十年皆無と言っていいくらい減っているが、自費出版や同人誌のような印刷物が年に数冊納本されているらしい。
「日本史関連はこの辺りか」
利用者登録を済ませた後、二人は閲覧室へ入った。さっそく書架の本を手に取り、片っ端から戦国時代の歴史を調べる。
「駄目か……」
結果はすぐ判明した。歴史書、百科事典、小説、どの書物を開いても『江戸幕府を開いたのは豊臣秀吉』それ以外の記述は見当たらなかった。ネットに接続していなくても書き換えは実行されていたのだ。トクガワは落胆した。
「がっかりしないでください。私はこうなると思っていましたよ」
オダが明るい声で言う。慰めているつもりのようだ。
「どうしてだ。なぜ本の記述まで書き換わったと思ったんだ」
「だってトクガワさん言ったじゃないですか。名古屋城が無くなってしまったって。名古屋城はネットに接続なんかしていない、なのに無くなったんですよ。本の記述が変わっても別に不思議でも何でもないですよ」
言われてみればその通りだ。あんな巨大な物を消し去ることに比べれば、本の記述を変えるくらい、赤子の手を捻るくらい容易なことだろう。
「そう思っていたのなら言ってくれればよかったのに。無駄足を踏まずに済んだじゃないか」
「私が言っても自分の目で確かめなければ納得しないでしょう。言っても言わなくてもトクガワさんはここに来ていたはずですよ」
オダはトクガワの性格をよく知っている。高校の時からそうだった。もしかしてオダは相手の心を読んでいるんじゃないか、そう思うことがよくあった。今でも読みの鋭さは変わらないようだ。
「出るか」
もうここに用はない。二人は国会図書館を後にした。
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