第二話 信長君の桶狭間 一五六〇年

骨の髄まで大うつけ

「ぷははは、この女の子、ただの人間には興味がないのかあ~。でも凡人だって究めれば只者じゃなくなるかもね。あ、未来人がいいのなら過去人もいいのかなあ」


 永禄三年正月八日。清洲城本丸御殿の座敷に寝転がって書物を読んでいるのは信長君である。父信秀から織田家の家督を引き継いで間もなく八年。今年二十六才になる男子とは思えぬ腑抜けぶりだ。


「殿、またそのようなだらしない格好で……」


 開けっ放しの襖の向こうに光秀が立っている。信長君が寝転んだままおいでおいでをすると、光秀は一礼して入ってきた。


「殿、他の家臣の目もあります。書は台に載せ、座して読まれませ」

「もう、っちゃんは口やかましいなあ。ここには他の家臣なんか来ないんだから大丈夫だよ。それよりさあ、いつになったらぼくのことのぶちゃんって呼んでくれるのさ」

「仮にも織田家の当主に対して信ちゃんなどと、そのような口の利き方、できようはずがありません。それにその『僕』なる呼称もおやめくだされ。家臣の者たちは皆、当惑しておりますぞ」

「慣れだよ、慣れ」


 信長君は寝返りを打つと右足の親指で左足の脛を掻き始めた。光秀は深い溜息をついた。

 織田家当主となる前から世間では信長君を大うつけと呼んでいた。日々の振る舞いも、出で立ちも、言動も、確かに大うつけには違いなかった。

 しかし今となってはあの頃の大うつけさえ懐かしく思われる。できるなら時を巻き戻して大うつけに戻って欲しい、昔のように十兵衛と呼んで欲しい、そんな願望さえ抱いてしまうのだ。


「魔王から授けられた力、先読みの法。これこそが全ての元凶だ」


 光秀は目を閉じると、八年前に起きたあの日の出来事を思い出すのだった。


 * * *


 最初の魔境入りは大した成果もなく終わってしまった。せつ婆が姿を消した後、信長君は魔鏡の前で小説なるものを読み耽っていた。光秀はジリジリしながら読み終わるのを待っていたが、一向に終わる気配がない。

 やがて光秀は外の様子が気になり始めた。日や月が見えないので正確な時はわからないが、本堂を出てからかれこれ二ときは経っているように感じられた。焼香が終われば棺は埋葬され参列者も帰ってしまうだろう。それまでに本堂へ戻りあるじの無礼を詫びておきたい、そう思ったのだ。


「殿、そろそろ魔境を出られては如何と存じます」

「何故だ。まだそこに示されておる数は零には程遠いぞ」


 魔鏡を使い始めた時『九九九九』だった四桁の数字は現在『八一八一』を示している。まだ二割ほどしか先読みの法を使っていない。どうやら信長君は時間を使い切るまでここに留まるつもりのようだ。


「長居は如何なものかと存じます。本堂を出て既に二刻、そろそろ日も暮れましょう。そうなれば魔の者たちが跳梁ちょうりょう跋扈ばっこし始めます。ここは魔境、魔の者たちの巣窟。何が起こるか知れたものではありませぬ」

「むっ、それもそうだな」


 信長君はようやく魔鏡から目を離した。これは二人にとって魔境への初陣。戦場での過度の慢心は破滅の原因となる。それなりの戦果を挙げたのだからそれなりに満足すべきだ。


「ならば一旦退くとするか。六王ろくおう!」


 信長君は大声で排出の呪文を唱えた。たちまち姿が消える。決断即実行が信長君の行動原理だ。


「と、殿、お待ちくだされ」


 急いで光秀も呪文を唱える。途端に目の前の魔鏡は消え、本丸櫓の残骸が現れた。一瞬で魔境を出て元の場所へ飛ばされたらしい。


「妙だな」


 光秀は空を見上げた。明るい。上弦の月はまだ東の空にある。魔境に入る前とほとんど変わらぬ光景だ。


「輪が消えたか」


 信長君の声を聞いて光秀は後ろを振り向いた。そこに見えていた乳白色の円環がない。一度出てしまうと再入場は不可、そう宣言された気がした。


「とにかく本堂へ戻りましょう」

「うむ」


 本堂へ戻るとまだ焼香が続いていた。魔境でどれだけ長く過ごそうと、こちらの世では時間がほとんど経過しないのだ、二人はそう結論付けた。


 再び魔境へ入るには次の上弦月の日まで待たなくてならない。二人は悶々として日々を過ごした。取り敢えず他の家臣には秘密にしておくことにした。話してもどうせ信じてもらえないに決まっているからだ。


 翌月の上弦月の日、二人は弁当と水筒、紙、矢立を持参して廃城跡へ向かった。前回の経験で、魔境に留まれる時間は最大一日程度だと感覚的にわかったからだ。一日飲まず食わずでは体が持たない。今回は限界まで魔境に留まるつもりなのだ。紙と矢立は魔鏡の文言を書き取るためのものだ。これでより多くの情報を正確に持ち帰ることができる。


「輪はまだ出ておりませぬな」

「月が昇ると同時に出現するのであろう」


 信長君の推測は正しかった。昼九つ、上弦月が顔を出した瞬間、魔境の入り口である円環が出現した。さっそく二人は中へ入った。


 二回目の出陣で多くのことがわかった。魔境では腹も空かず喉も渇かないのだ。持参した弁当にも水にも手を付けず二人は一日を過ごした。

 更に便利なことに、魔鏡は分割表示が可能であった。そこで右半分は信長君用に後の世の読み物、左半分は光秀用に向こう半年の尾張周辺の出来事を表示させ、二人でせっせと書き写した。

 やがて刻限時計の表示が零零零零になると、その瞬間、二人は即座に魔境から排出され元の廃城跡へ戻された。


「やはり時は経っておらぬな」


 書き写した紙の束を握り締めたまま信長君は言った。日は依然として真南で輝き、上弦月は顔を出したばかり。魔境へ向かう前と寸分違わぬ光景だ。


「はい。此度の戦は大勝利にございます」


 びっしりと文字が埋められた紙の束を抱かえて、光秀もニコニコ顔であった。


 翌月、二人は木下藤吉郎を連れて廃城跡へやってきた。藤吉郎は元服を済ませたばかりの小者ながら、父親が信秀の足軽だったこともあり、いきなり信長君の小姓に抜擢されたのだ。


「これ、猿。おぬし間違いなく字が書けるのだな」

「お任せくだされ、殿。書き写すだけなら造作もないことにてございます」


 二人が藤吉郎を連れてきたのは魔鏡の文字を書かせるためだ。魔境に入れるかどうかはわからないが一度試してみる価値はある。


『そう、写すだけならおいらにだってできるはずさ』


 信長君に猿と呼ばれている藤吉郎は字を知らない。仮名文字は読み書きできるが漢字はまったくわからない。だからと言って主君のめいを断ったりはしない。出世の足掛かりになることなら何でも引き受けるつもりなのだ。


『文字ではなく絵だと思って写せばよいのだ。他愛もないお役目さ』


「着いたぞ」


 廃城跡にはすでに円環が姿を現わしている。藤吉郎は目をひん剥いた。


「な、何でござりますか、あれは。竹の節のようなものが宙に浮いているではありませぬか」

「猿、あれに触れ」

「ひえっ!」


 出し抜けにやってきた信長君の無茶振りである。しかし主の命に逆らうことはできない。藤吉郎は恐る恐る手を触れる。


「あれ、突き抜けましたぞ」


 藤吉郎の体は円環に吸い込まれず、手だけが向こうへ抜けてしまった。


「猿、そのまま輪をくぐれ」

「は、はい」


 目を閉じて藤吉郎は円環をくぐる。手と同じようにそのまま通り抜けてしまった。光秀が落胆する。


「やはりせつ文様を持たぬ者は魔境には行けぬようですな」

「いや、諦めるのはまだ早い。十兵衛、猿の手を持って輪に触れてみよ。あるいは共に入れるかもしれぬ」

「それは名案。ならばさっそく」


 光秀は藤吉郎の腕を掴むと右手を円環に押し当てた。光秀の姿が消える。しかし藤吉郎は残っている。


「どうやら無駄骨を折っただけのようだな。仕方あるまい」


 駄目とわかればすぐ諦めるのが信長君である。円環に右手を当ててさっさと中へ入ってしまった。


「な、なな、何が起きたっていうんだい、こりゃ」


 廃城跡に一人残された藤吉郎は、猿回しの猿のように円環の周囲を右往左往した。


 三回目の出陣で新たなことがわかった。魔境で過ごす時間と現世の時間との関係だ。残された藤吉郎の話によると、


「どこへ行ったのかとあちこち探し回ったもののどうしても見付けられず、諦めてこっそり持って来た握り飯をひとつ食い終わったところへ戻って来られたのです。そう、四半刻も経たないくらいでしょうか」


 とのことだった。魔境でどれだけ過ごそうと現世では一瞬、というわけではなく、僅かながら現世でも時は経過していたのだ。


 信長君と光秀の毎月一回魔境出陣の日々はこうして始まった。


 一年が経ち、二年が過ぎ、三年目に入った頃から、信長君の変化が顕著になり始めた。


「数百年後の話し言葉ってさあ、軽くて薄くていいよねえ~」


 完全に平成の世の「ラノベ」なる読み物に毒されてしまったのだ。無理もない。せっせと半年先の出来事を書き写す光秀の横で、信長君はせっせと「ラノベ」を読み漁り、書き写していたのだから。


「近頃、殿の様子がおかしいのではないか」


 古くから織田家に仕えている恒興つねおき秀貞ひでさだからこのように訊かれ、もはや隠しているのは無理と判断した光秀は、信長君の許しを得てから真実を話した。が、


「十兵衛殿も少々うつけになられたご様子。しばらく湯治にでも行かれては如何かな」


 とまるで相手にされなかった。


「何ていうかさあ~、魔王から『先読みの法を授けてやる』って言われた時は、『未来は織田家の手の中!』なんて舞い上がっちゃったんだけど、今となっては全然役に立ってないんだよねえ」


 ラノベは確実に信長君の意識も態度も変えてしまった。それは疑いようのない事実だ。しかし信長君をここまで腑抜けにしてしまった最大の原因は先読みの法の無力さにあった。

 信長君と光秀は半年先に何が起きるか知ることができる。それが織田家にとって不都合な出来事であれば、当然、何らかの手段を講じて未然に防ごうとする。


 二人が最初に動いたのは、信秀の死の翌月に起きた鳴海城主山口の寝返りだった。すぐに対策を講じようとしたのだが、知ったのが一カ月前とあっては有効な手立てが見付からない。結局、魔鏡の示す通りに事は進み、戦いは引き分けに終わってしまった。


「次は必ずやご期待に沿うてみせまする。早めに手を打ち、根回しをし、魔鏡に写された後の世を変えてみせましょう」


 その時の光秀は自信満々だった。いつ雨が降るかわかっていれば濡れる心配などしなくてよい、その程度に思っていた。

 だが光秀の自信はことごとく砕かれていった。翌年、もり役の平手が自害すると魔鏡に表示されると、直ちに平手を説得にかかった。


「織田家にはまだまだそなたが必要」

「左様。命は大切にされよ」


 などと、信長君と協力して親身に接した。しかし平手は自害してしまった。


「つ、次は大丈夫でございます」


 同じ年、清洲織田家の家老坂井が松葉、深田の城を占拠。これも未然に防げず、魔鏡に示された通りに出陣して奪い返した。光秀は更に自信喪失。


 二年後、天文二三年、清洲織田家当主信友が信長君暗殺を企てると魔鏡に表示された。驚いた信長君と光秀は半年前から説得に当たるが聞き入れてもらえず、それどころか、これまた魔鏡の表示通りに、信友は尾張の守護大名斯波氏を切腹に追い込んでしまったので、やむなく翌年信友を殺害。清洲織田家は滅亡し、信長君は那古野城から清洲城へ移った。全て魔鏡通りになって光秀はますます落ち込む。


 同じ年の六月、信長君の弟秀孝が無礼討ちにあって殺されると魔鏡が表示。


「馬に乗る時は供回りを付け、不審な者と思われぬようにせよ」


 と光秀が注意したにもかかわらず、秀孝はこれを無視。表示通りに射殺される。自業自得なので、この一件に関しては光秀の落ち込みはなかった。


 翌、弘治二年、美濃斎藤家の内紛で義父の道三敗死と魔鏡に表示される。光秀は他の織田家家臣と力を合わせてこれを阻止しようとするも、結果は変わらず道三死去。光秀は相当落ち込む。


 同じ年、弟の信行謀反。その翌年も謀反。家臣を二分する争いに巻き込まれた光秀はまったく手の打ちようがなく、結局魔鏡の表示通り、信長君が信行を冥土に送って終結。光秀は一月ひとつき近く屋敷に籠ったままになる。


 二年後、永禄二年、岩倉織田家を滅ぼし、ついでに庇護していた守護職の斯波氏を追放し、遂に信長君は尾張をほぼ統一した。これは悪くない話なので魔鏡の表示通りに事を進めた光秀であった。


「この八年間、先読みの法を役立てようと精一杯尽力したものの、何一つ思い通りに事を進められませんでした。魔王はどのような考えで我らに力を貸したのでしょうな」


 八年間の夢から覚めて光秀が目を開ければ、信長君は相変わらず寝転がったまま書物を読んでいる。


「きっとさあ、僕らをからかったんだよ。先を知ったところで人間如きに運命は変えられない、そう言いたかったんじゃないかなあ。だからさあ、無駄な悪あがきはやめて、光っちゃんもお気楽に暮らせばいいんだよ」


 すっかり腑抜けてしまった信長君を眺めながら、これも仕方のない話なのかもしれないと光秀は思った。

 先に何が起こるかわかっている、にもかかわらずそれを変えることは決してできない、そんな状況に放り込まれたら、その者は努力することを忘れて当然なのではないか。

 もし己が信長君の立場にあったとしたら、腑抜けることなく毎日を過ごせるだろうか……今の光秀にはその答えは見いだせなかった。

 

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