本当の幸福

 翌日の昼過ぎ、信長君、光秀、可成の三人は古渡城跡へやって来た。思った通り円環の前にはせつ婆が立っている。機嫌が悪そうだ。


「おぬしたち、遅いではないか。今日、婆が来ることはわかっていたはず。月が昇る前にここへ来て、婆が現れるのを待つのが礼儀というものじゃ、まったく近頃の若いもんは」

「いや、もう若くはないですぞ。ここにる三人は皆、四十を超えております」

「僕はまだ超えてないよ!」

「おお、そうであった。これは失礼。さりとて数えで三十九。大した違いはござらぬ」

「口が減らないなあ、光っちゃんは。まあいいや。それよりもさ、婆。こんな所で待っていないで、お寺とかお城とかに遊びにくればよかったのに」

「それはできぬ。この時代の者ではない婆が存在できる範囲には限りがあるのじゃ。円環から遠く離れると自動的に引き戻される。恐らく本丸跡を出ることはできぬじゃろうな」

「へえ~、そうなんだ」


 開く節婆と出会ってから今年で二十年。知らないことがまだあるのかと、少々驚く信長君である。


「そなたが婆か。お初にお目に掛かる。拙者は森三左衛門可成と申す。此度は太鼓叩きを務めさせていただく。よろしくお願い申す」


 可成が丁寧に挨拶する。婆は興味なさそうだ。


「ああ、太鼓が叩けりゃ誰でもいいよ。しかし妙だね、森可成は討ち死にしたんじゃなかったかね」

「ああ、そのことだけどね」


 信長君が影武者について簡単に説明した。今ではほとんどの家臣が使っていると聞いて婆も少し驚いたようだ。


「ほう、そんな抜け道があったとはのう。この婆も気付かなんだわ。おぬしたち魔鏡をうまく利用しているではないか。さて行くか。可成、右手を出せ」


 可成が右手を差し出すと婆は手のひらに開く節札を当てた。札は消え文様だけが残る。秀吉の時と同じ一回限りの文様だ。


「いざ出陣!」


 可成が勇ましく陣太鼓を鳴らした。耳を塞いで婆が円環に入り、残りの三人も次々と中に入った。


「ところで光秀。武田の猛攻を凌ぐ策は用意してあるのじゃろうな」


 全員魔境に入ると待ちかねたように婆が言う。これが用意できていなければ話にならない。


「当然でござる。これをご覧あれ」

「僕の花押もちゃんと記してあるからね」


 光秀が差し出した紙に婆は目を通す。百文字にまとめられているのですぐ読み終わった。


「陣中で病没か。また安直な策を考えたものじゃて」

「もしや、安直過ぎて魔鏡が受け付けぬ、というようなことはなかろうな」

「これくらいなら大丈夫じゃろう。信玄は五十を超えた高齢、いつ病に罹ってもおかしくはない。それに五丈原で病没した諸葛孔明の例もある。陣中で倒れても不自然ではなかろう。じゃが、どうせ病没させるのなら三河ではなく遠江でよいじゃろう。その方が被害も少なくて済む」

「はは~ん」


 信長君がしたり顔で婆を眺め始めた。目付きが嫌らしくなり、頬がかなり緩んでいる。


「な、なんじゃ信長。はは~んとは」

「わかってるって。婆はイエーちゃんが三方ヶ原で大敗するのが嫌なんでしょ」

「べ、別に家康のことなど、何とも思ってはおらぬじゃ」

「またまたあ~、前回の桶狭間では松平家を助けてってお願いしてたじゃない。バレバレだよ。でもね、今回は駄目だよ。最近の家ちゃん、三河守に叙任されたり、領地が無くなって困っている今川家の氏真君を庇護したり、ちょっと調子に乗り過ぎているからね。この辺で痛い目に遭っておいたほうが家ちゃんのためにはいいんだよ。あ、死んだりはしないと思うから安心して。書き換えるのは野田城陥落の後からで、それまでは史実通りなんだから」

「ふん、勝手に致せ」


 信長君の推測は見事に的中していたようだ。婆の頬が若干火照っている。


「本日は婆が初心うぶ女子おなごのように見えますなあ」

「光秀まで何を言っておるのじゃ。婆を怒らせたいのか」


 家康に対して婆が特別の感情を抱いていることは光秀も気付いていた。よく見ると婆の容貌は最初に会った時からほとんど変わっていない。


『僕らにとっては八年ぶりでも、婆にとっては二月ふたつきも経っていなかったのかもしれないよ。全然年を取ってなかったもん』


 前回婆に会った時の信長君の言葉だ。もしこれが真実なら、光秀たちにとっての二十年も婆にとっては半年に過ぎなかったことになる。


『今となっては拙者たち三人とも婆より年上なのかもしれぬな』


「光っちゃん、ぼーっとしてるけどどうしたの。かわやにでも行きたいのかな」

「違いまする。余計な気遣いはなされますな。ところで婆、書き換え用の百文字文書はそれでよろしいのですな」

「ああ、このままでええ。残る気掛かりは太鼓だけじゃ。可成、頼むぞえ」

「お任せくだされ」


 こうして四人は洞窟を進む。桶狭間以降、洞窟の障害は格段に増え、かつ強力になっていた。光秀が持っている札だけでなく婆が持参した札も使って、四人は障害を突破していく。


「ねえ、前回婆が帰ってから魔境の邪魔が厳しくなったよね。何か理由があるの」


 洞窟を歩きながら信長君が尋ねた。増えた円環、巨大になった火壁、二枚必要になった輪戸わど札。どれも突破はできたが手間は増えた。今回の書き換えによって更に邪魔が増えてしまうと、魔鏡に着くまでに疲れ果ててしまいそうだ。


「禁じ手を使ったからのう。侵入者がおるのではないかと魔境が警戒し始めておるのじゃ。さりとて心配は無用じゃ。織田家の勢力が拡大したことで婆の地位も上がった。魔境の警戒を封じるくらい朝飯前じゃ」

「ほら、光っちゃん。僕の言った通りでしょ。やっぱり婆は足軽から足軽大将に出世したんだよ」

「婆の足軽大将着任、祝着至極しゅうちゃくしごくに存じ上げる」


 事情をよく知らない可成が婆に頭を下げる。婆は鼻先で笑っている。


「ふっ、ありがとよ。じゃが足軽大将如きでは嬉しくもなんともないわ。目指すは天下人じゃ。織田家が天下を取れば婆はもっと偉くなれる。そうさな、この洞窟の障害を一掃できるくらいの力を持てるかもしれぬじゃて」


 珍しく婆の顔が綻んでいる。偉くなった自分を想像しているのだろう。光秀も可成も織田家が天下を取ると聞いて、同じように笑みを浮かべている。が、信長君だけは違った。


「ねえ、婆。婆はそれで本当に幸せなの」

「な、何を言い出すのじゃ、いきなり」


 夢から覚めたような顔する婆に向かって、信長君は淡々と話し始めた。


「天下人になる、武人ぶじんにとってはまたとない幸福だよね。でもそれは一所懸命頑張って得たものだから幸せを感じられるんだよ。僕らみたいに魔鏡の表示通りに生きてその結果として天下人になったとしても、それは本当に幸福なことなのかなあ、って最近僕は考えるようになったんだ」

「いや、それは幸福でありましょう。手段はどうであれ天下人になれたのですから」


 光秀が取り成す。しかし信長君は人差し指を立てて、それを横に振る。


「ちっちっちっ。わかってないなあ光っちゃんは。織田家の家臣たちが今どうなっているか知っているでしょ。誰も真面目に策を練ろうとしない。合戦も自ら工夫せず魔鏡の指示通りに動くだけ。みんな影武者を用意して本人の人生を半分失くしている。すっかり腑抜けちゃっている。これで生きているって言えるのかな。幸福な生き方をしているって言えるのかな」

「殿……」


 光秀は否定できなかった。信長君の言葉通りだった。魔鏡便りで知恵を貸してくれるよう頼んでも、誰一人まともな返事をくれなかった。腑抜けは信長君だけではない。確実に家臣たちも腑抜けにされている。


「だから何じゃと言うのじゃ」


 二人の遣り取りを聞いていた婆は渋い顔で言った。


「それはおぬしたちの問題じゃ。婆は関係ない」

「ううん、関係あるよ。婆は言ったよね、僕が天下人になれば婆も偉くなるって。婆が僕らに天下を取らせたいのは自分が偉くなりたいから。それが本当の目的なんでしょう」

「そうだとして何が悪い。婆もおぬしたちも損はせぬのじゃ。何の不満がある」

「聞いていたでしょう。今の僕らは幸福な生き方をしていないって。それは婆も同じなんじゃないの。何の努力もせず織田家の勢力を拡大するだけで婆も偉くなる、そんな生き方をして婆は楽しいの、胸を張って幸福だって言えるの。自分の力で運命を切り開いてくのが正しい生き方なんじゃないの」


 婆の足が止まった。その鬼のような形相に信長君たちは息を飲んだ。怖かったのではない。婆の顔には怒りと共に深い哀しみの色が現れていたからだ。


「努力した、婆とて必死に努力したのじゃ。この境遇から抜け出すために精一杯足掻き、苦しみ、力を尽くした。じゃが駄目じゃった。どうしても己の運命を変えることはできなんだ。だから魔王の力に頼ったのじゃ。それの何が悪い。おぬしたちに非難される覚えはないわ」

「……そっかあ……」


 信長君は滅多に見せない溜息をついた。これ以上婆に何を言っても無駄、そう悟ったのだ。


「それなら僕はもう何も言わないよ。婆がこれまでどんな生き方をしてきたか知らないくせに、偉そうなことを言ってごめんね。でも、これだけは覚えておいて。きっと婆も僕と同じ、切っ掛けは魔王の声なんだと思う。今の境遇から逃れたいのなら信長に天下を取らせよ、たぶんそんな感じのことを言われたんだよね。だけどね、魔王は絶対に人を幸福にはしてくれない。婆の行く先に待っているのは間違いなく不幸だと思う。婆は本当に偉くなりたいの? それが本当に婆の幸福なの? それをもう一度考えてみて」

「ああ、わかったよ」


 婆が歩き出した。他の三人も歩き出す。光秀も可成も信長君の意外な一面を見せられて口出しさえできずにいた。


 やがて四人は魔鏡の間に着いた。前回と同じく要約文を魔鏡の言葉に変換し、可成の太鼓に合わせて婆が声で入力する。


「終わったじゃよ。確かめてみなされ」


 疲れ切った婆に言われて、光秀は来年の出来事を魔鏡に表示した。


「元亀四年一月、武田軍三河へ侵攻。二月、水攻めにより野田城陥落。四月、武田軍撤退を開始。甲府への途上で信玄病没。享年五十二才……此度も首尾よく書き換えられましたな」

「うむ。『発句印具』なる技、しかと見せてもらった」


 二度目の書き換えとあって光秀はさほど驚いてはいないが、可成はそれなりに感激しているようだ。


「この書き換えで天下が取れておれば、これ以降、婆はここへ来ずとも済むのじゃがな」

「ううん、たとえ天下が取れていても婆は必ずここへ来るよ。僕にはわかるんだ」

「なんじゃと」


 信長君はにっこり笑っている。何を考えているのかまるで読み取れない。婆は取り合わないことにした。


「さて婆は帰るじゃ。後は好きに致せ。ログオフ!」


 婆の姿が消えた。それを確認した光秀は魔鏡の表示を書き写そうともせず信長君に尋ねた。


「殿、我ら家臣全員が腑抜けているという先ほどのお言葉、拙者の耳には随分と痛いものでございましたぞ」

「そうだねえ。ちょっと言い過ぎたかな」

「されど我らだけでなく殿とて腑抜けておられる。つまり殿もまた幸福な生き方をしておられないのではないですかな」


 光秀にしては珍しく辛辣な物言いだった。先ほどの言葉が光秀の胸によほど堪えていたのだろう。


「ふふふ……」


 信長君が笑った。不敵な笑いだった。その姿、その表情は忘れかけていた緊張を光秀の中に呼び覚ました。


「そう思うか、十兵衛。だがそれは大間違いだ。わしはかつて尾張の大うつけと呼ばれていた。それは人を、世間を欺くための方便に過ぎなかった。此度も同じぞ。今、儂の敵は人ではなく魔王。腑抜けとなって魔王と戦っておるのだ。この身は常に戦場いくさばにある。これを武人の幸福と言わずして何と言う」

「と、殿……」


 光秀も可成も身を固くして言葉を失っていた。同時に、信長君の本当の姿を見失っていた己を深く恥じた。


「さあて、今日は何を読もうかなあ」


 信長君はいつものように魔鏡の右側へ移動すると、声を出して今日の読み物を検索し始めた。

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