安穏泰平家臣団
死んだはずの
今ではほとんどの家臣が影武者を使っている。用いていないのは勝家と秀吉くらいだ。勝家ほど剛毅な者も、秀吉ほど口の達者な者も滅多にいないので、用意したくてもできないのである。
「僕が影武者を使い始めたって知った途端、みんな真似し始めるんだもんなあ。光っちゃんが使っている時なんか知らんぷりだったのに」
「家臣とは主君に仕えているもの。主君が何か始めれば、それを見習うのは当然でござろう」
もっとも信長君と違って、家臣たちには影武者の使い道など特にない。従者として共に行動をさせていることが多かった。
「可っちゃん、炒り豆と水筒は持った? んじゃ出陣」
道中に食べる炒り豆を可成に持たせて三人は古渡城跡へ向かった。那古野城を出て萬松寺境内に入り、豆を食べたりお喋りしたりしながらゆるゆると歩く。
「魔鏡には影武者のことなんて全然表示されないけど、みんな平気で使っているよね。これって魔鏡の立場としてはどうなんだろう」
「表示されている出来事が正しければ、表示されていない出来事がどうなろうと知ったことではないのでしょうな」
「さりとて、まさか拙者が生き残るとは誰一人思っていなかったはず。良き前例を作らせてもらったわい」
可成の影武者は本人同様槍の名手で、合戦には常に同行して共に戦った。魔鏡によって討ち死にが決定付けられた時も、己の死を全く恐れなかった。
「魔鏡が影武者を持つ家臣の死を表示したのはこれが初めて。さてどうなるか」
全ての家臣が可成と影武者の行く末に注目した。二人とも死ぬのか、片方は生き残るのか。
結果は後者だった。影武者が死に本物は生き残った。魔鏡的にはどちらかが死ねばそれで満足らしい。
「おお、これで魔鏡に死を宣告されようとも恐れることはなくなった」
家臣たちは大喜びだ。だが魔鏡はそう甘くはない。一カ月後、同じく影武者に己の運命を肩代わりさせていた信長の弟、
「信治ちゃんは魔鏡を甘くみすぎたよねえ~」
可成と信治は宇佐山城の戦いで討ち死にしたことになっている。そこで二人は尾張の那古野城で人目を避けて暮らすことになった。質素で退屈な日々である。五十に近い可成は辛抱できたが、まだ三十前の信治は耐えられない。
「こんな毎日には飽き飽きしたわ。拙者は中島へ戻る」
と言い残して居城であった野府城へ戻り、城主さながらの日々を送り始めた。織田家の者たちは二人が生きているのを知っているが、他家の者たちは知らない。
やがて信治は生きているのではないかという噂が巷に広がり始めた。その矢先、信治は雷に打たれて命を落としたのである。まるで魔鏡の怒りを買ってしまったかのように。
「影武者に己の運命を背負わせても、本人が歴史の表舞台に登場してしまうと魔鏡の運命は再び襲い掛かって来るらしい」
と光秀は分析した。それ以来、可成は以前にも増してひっそりと、那古野城で隠遁生活を送っているのだ。
「三左殿がここに参られて早や二年。このような廃城同然の城では暮らしにくかろう。清洲へ移られては如何かな」
「いや、殿の弟君、九郎殿の例もある。拙者はここでお役に立てる日を待つつもりだ」
可成が長生きを願うのは死を怖れているからではない。どうせ捨てる命なら織田家のために捨てたい、そう思うからだ。その日が来るのを心待ちにしながら可成は那古野城で毎日を送っている。
そんな可成の唯一のご奉公と言えば、魔境へ出陣する信長君と光秀の供をすることだ。二人は月に一度、魔境へ行く前に必ず那古野城に立ち寄り一泊していく。その時ばかりは懐かしい昔話に花を咲かせ、かつての己を思い出すのだ。
「あ~、円環出てるねえ」
古渡城跡には見慣れた乳白色の円環が浮かんでいる。可成は持参した火打石で火切りをして二人を見送った。
「御武運を!」
「可っちゃん、行って来るねえ~」
中に入った信長君と光秀は通い慣れた魔境の洞窟を歩く。桶狭間以来、洞窟の中は障害物が増えていた。途中、円環に何度も出くわす。火壁の炎が大きくなっている。
「魔境の警備が上がったってことはさ、僕たち警戒されているんじゃないかなあ」
「恐らく禁じ手である『発句印具』発動が相手方に知られてしまったのでしょうな。さりとて、
洞窟の障害物は増えたが、それを突破する札は常に置かれていた。新しく発生した円環の前には必ず数枚の破す輪戸札が置かれていたし、火焔の威力を増した火壁の前には、強力な火消し札が置かれていた。魔鏡の間へ通じる最後の円環の前にも常に新しい破す輪戸札が置かれていて、桶狭間以降、魔鏡の間入場を断念したことは一度もなかった。
「きっとさあ、開く節婆も偉くなったんじゃないのかなあ。これまではただの足軽だったけど足軽大将になったとか」
「何にしても毎回確実に魔鏡を見られるのですからな。ありがたいことでござる。さあ、入りますぞ」
二人は魔鏡の間へ入る。信長君はいつものように右側で小説を読む、のかと思ったら、今回は違った。光秀と一緒に来年三月までの織田家の情勢を眺め始めた。
「あ~、やっぱりこうなるかあ」
「うむ。思った通りですな」
既に先月の時点で織田家の危機は避けがたい情勢になっていた。元亀三年十月、甲斐の武田信玄は甲府を
「たった
三月、遂に信玄は美濃へ侵攻。織田方は桶狭間の再来を期して岐阜城から打って出る。本陣を目指した信長はあと一歩のところで憤死。しかし信長に付き従った光秀が信玄を討ち取ったため、織田、武田両軍は大混乱に陥る。織田は一旦岐阜城へ退却。武田も上洛を諦め帰途に就く。
これが今月魔鏡に表示された内容だ。
「うわ~、僕が本陣に突っ込むの! ちょっと考えられないよ」
「
「しかも信玄を討つのは光っちゃんじゃん。カッコイイ! これさあ、このまま書き換える必要ないんじゃない。光っちゃん、後世まで名が残るよ、きっと」
「それも影武者ですからな。さして嬉しくもござらん。それにここで殿に逝かれてしまっては天下取りの夢が
その後はいつも通り、信長君は後の世の小説をせっせと書き写し、光秀は半年先の出来事を書き写した後、兵法書を読んで策を練った。
『来年三月、織田家は重大な危機を迎える。家臣の方々の知恵をお借りしたい』
魔鏡から出た光秀は今月の魔鏡便りにこの一文を添えて、各家臣たちに送り届けた。数日後、各地に配された家臣たちから返事の
「おお、待ちかねたぞ」
喜んで文を開く光秀。さすがの知恵者も名案が思い付かなかったのだ。相手は戦上手の武田勢。岐阜城に籠城しても勝ち目はない。美濃に侵攻する前に叩こうにもそれだけの兵力を揃えられない。今の織田家は武田勢侵攻に対して全く打つ手がない状態なのだ。
「……なんだ、これは」
届いた文を読んだ光秀は落胆した。どの家臣も皆一様に、
『適当に書き換えれば良かろう。その通りになるのだから』
『一任する。今はそこまで手が回らぬ』
『頑張ればきっと良策を思い付くよ。僕は光っちゃんを信じてるよ』
と、まるで真剣に考えてくれないのだ。
「我が家臣団も地に落ちたものだ」
先の出来事がわかり、己の死を心配することなく、いざとなれば思い通りに後の世を書き換えられる……こんな状況では生きることへの真剣味を喪失しても無理はない。
「拙者一人で知恵を絞り出すと致すか」
それから光秀は兵法書を読み漁って対武田戦の秘策を練った。と同時に可成には太鼓の稽古をするように申し付けた。秀吉は浅井・朝倉への備えのために北近江から動けない。今回は可成に叩いてもらうことにしたのだ。
「光っちゃん、明日は上弦月の日だけどさあ、百文字の要約文、書けてる?」
十一月七日、信長君にこう訊かれた光秀は力なく頭を振った。どうしても名案が思い付かないのだ。
「え~、駄目じゃん。婆、すっごく怒ると思うよ。
「面目次第もござらぬ。さりとて軍神と評判の高い謙信公に一歩も引けを取らぬ信玄公に対し、一体如何なる策が通用するか考えあぐねておりまする」
「そうかあ、そうだよねえ」
珍しく信長君も考え始めた。別に光秀が困ろうが喜ぼうが信長君にとっては知ったことではないのだが、無策のまま魔境に入れば間違いなく婆が激怒する。それが嫌なのだ。面と向かって信長君を叱れるのは婆だけ、いわば目の上のたんこぶである。
「やっぱりさあ、信ちゃんと戦おうとするから無理があるんだよ。戦わずに甲斐へ帰ってもらえばいいんじゃない」
「どのようにして戦わずに追い返すのでござるか」
「
「な、なんと……」
言葉を失う光秀。暗殺や謀反で命を落とすならまだしも、病に罹って陣中で亡くなるなどあまりにも虫が良すぎる。さりとて大将を失えば武田軍が引き返すのは確実。他に名案が思い浮かばない以上、採用するしかない。
「わかり申した。殿の策を受け入れ百文字の要約文を書きましょう」
「よかったね、光っちゃん。明日はガンバロー! じゃあおやすみ」
久しぶりに会う開く節婆に変わりはないだろうか、足軽から足軽大将に出世したのは本当だろうか……そんなことを考えながら信長君は眠った。
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