第3話 想定外の成り行き 2099年

派遣社員トクガワ

 最近のトクガワに落ち着きがないのは誰の目にも明らかだった。

 仕事上の問題は何もない。欠勤や遅刻はしない、課せられた業務はこなしている、ミスは許容範囲……勤務態度はすこぶる良好なのだが、心はどこか別の場所にあるようだった。


『前回の書き換えがあってからもう二カ月半以上経った。そろそろ起きるはずだ』


 一五六〇年五月、信長は今川勢によって倒されるはずだった。が、その前月に書き換えが起こり新たな歴史に置き換わった。その新たな歴史でも信長は倒される。一五七三年四月、上洛を目指す信玄と相討ちという形で信長はこの世を去る。次に信長が書き換えの標的にするのはこの出来事と考えてよいだろう。


『向こうの十三年間はこちらの約八十日間に相当する。次の書き換えが起きてもいい頃だ』


 信長の書き換えは阻止できない、トクガワはそう考えていた。平社員になってからメインフレームのセキュリティを引き上げ、様々な対策を施してきた。しかし不正アクセスは一向に減らない、いや、減らないどころか逆に増えてしまった。


 トクガワが室長だった頃は週に一度ほどの割合で不正アクセスのない時刻があった。が、平社員になってからは、昼と夜の零時には一度の抜けもなく不正アクセスが発生していた。セキュリティを上げているにもかかわらずだ。その事実はオダへの疑惑を更に深めることへ繋がった。


『もしオダが関与しているのならセキュリティなど何の意味もない。彼女はコンピュータルームに毎日出入りしているんだからな』


 オダのことを思い出すと胸が痛む。二人で国会図書館へ行った日から、トクガワとオダは一度も会話をしていない。ごくたまに廊下で擦れ違っても互いに無言で会釈するだけだ。


『これじゃ書き換え前の歴史と何も変わらんな。やはり俺たちはこうなる運命しかないのか』


 オダと一緒に署名した紙は分厚い鉄の容器に入れて那古野公園の大木の根元に埋めてある。最初は池に沈めるつもりだったが、取り出す時の手間を考えて土中保存を選択したのだ。

 この歴史では名古屋城のあった場所は那古野公園として整備されていた。埋めた場所はオダには教えていない。彼女への疑惑が払拭できない以上、大切な証拠を守るためには仕方のない措置だった。


「ふっ……そろそろ昼か。午後からは出張だったな。たまには外で飯を食うか」


 トヨトミの仕事を引き継いで二カ月半、すっかり仕事が板に付いてしまった。このまま平社員でも悪くないな、最近は本気でそんなことを考えるようになっている。トクガワはモニターの電源を切った。


「えっ!」


 電源を切った人差し指はどこにも触れていなかった。目の前にモニターはなかった。周囲にオフィスはなかった。トクガワは夏の日差しを浴びて公園のベンチに座っていた。


「まさか!」


 腕時計を見ようとしたが、そこにあるはずの時計はなかった。周囲を見回すと大きな時計塔が見付かった。昼の十二時を示している。自分の身に何が起きたのか一瞬で理解した。


「信長が書き換えたんだ。メンテナンスは昼と夜の零時に行う。前回は深夜、今回は真昼に書き換えたんだ」


 トクガワは自分を見た。酷い身なりだ。ズボンもシャツも薄汚れている。しかも少し臭う。持ち物は大きめのバックパックが一つ。中を開けるとタオルや着替えや水筒、それらに紛れてIDデバイスも無造作に放り込まれている。トクガワはそれを取り出すとタッチして起動させた。


「そうか、この歴史の俺は派遣社員か」


 IDデバイスは見たこともない派遣会社の登録証を表示している。自分の名前と顔写真も載っている。歴史の書き換えが起きたことに疑いの余地はない。しかしトクガワはさほど驚かなった。何の対策も施せなかった以上、こうなることは当たり前だった。


「今回は薬師如来の警告すらなかったな。いよいよ仏からも見捨てられたか」


 トクガワはIDデバイスを操作した。自分に関する情報を集めるためだ。


「これは酷いな。先祖の家康はどうなっちまったんだ」


 住所は不定だった。代わりにネットカフェの会員証が表示された。そこに寝泊まりしているらしい。預金残高は悲しくなるような金額。免許も資格もない。今日までどうやって生きてきたのかとトクガワは自分自身に呆れた。


「今回はどんなふうに歴史が書き換えられたのか、まずはそれを確かめよう」


 この公園は見覚えがあった。近くに区役所があるはずだ。そこへ行けば無料のインターネットコーナーがある。

 トクガワは水飲み場で空腹を癒すと区役所へ向かった。思った通り、ネットで検索して表示される歴史は全て書き換わっている。


「一時間も経っていないのにもう新しい歴史に変わっている。センターの書き換えは瞬時に全国へ波及するようだな」


 一五七三年四月、上洛を目指す武田勢と織田勢が美濃で激突。信長、信玄共に討ち死にし、その機に乗じて秀吉が天下を取り豊臣幕府を開く。それがこれまでの歴史だった。だが今は違う。信玄が陣中で病没したことにより武田家は一気に弱体化してしまうのだ。


「信玄を病気で亡き者にするとは、今回は随分安直な手を使ったものだ」


 それ以降は完全に信長の天下だった。畿内を征圧すると中国、四国、九州を平定。その後は小田原征伐、奥州仕置と事を進め、遂に信長は天下を統一。一六〇三年、安土に幕府を開く。


「信長が天下人か。これでオダも確実に正社員になれただろうな。ところで家康はどうなったんだ」


 大雑把な歴史概略では家康の記述は出てこなかった。トクガワは家康の項目を詳しく調べた。驚きの結果だった。


「なんてこった……」


 三方ヶ原で大敗を喫した家康であったが、その後、長篠の戦い、高天神城の戦いを経て武田家を滅ぼし、駿河まで領地を拡大する。しかし天正十年六月、安土城訪問の際に立ち寄った堺を遊覧中、食した鯛の天麩羅が原因で急死。跡目争いが起こったため、領地を信長に没収され徳川家は織田家の家臣となる。その後、徳川家の跡を継いだ秀忠は帰農して織田家を離れ、三河岡崎に代々続く庄屋として明治を迎える。


「大名どころか武士でもない。俺の先祖は農民だったってことか」


 それなら今の境遇も仕方がない。最初の歴史で極貧だったオダの場合、信長の嫡男信忠が出家したらしい程度の記録しか残されていなかった。今のトクガワと五十歩百歩と言える。


「オダも最初の歴史ではこんな境遇の中を生きてきたのだろうか」


 高校で別れてからコンピュータルームで出会うまでの間、オダはどれほどの辛酸を嘗めさせられてきたのだろう。「上へ行きたい」と叫んだオダの気持ちがようやく理解できたような気がした。


「だが、このままではまずいぞ」


 信長は既に天下を取ってしまった。もう二度と歴史を書き換えようとはしないだろう。それはまたトクガワの人生もこのままずっと変わらないことを意味している。


「冗談じゃないぞ。三十過ぎてネカフェで寝起きする派遣社員じゃ、どう足掻いてもお先真っ暗だ」


 さすがのトクガワも焦りを感じた。信長がこれ以上行動を起こさないのなら自分が行動を起こすしかない。何をすれば今の状況を変えられるか……


「そうだ、紙だ」


 トクガワは思い出した。歴史が改変された事実を証明するために公園に埋めた紙。もしあの紙が書き換えの影響を受けず元の文面がそのまま残っていれば、少なくともオダには自分の言い分を信じてもらえるはずだ。


「あの文章はオダが書いたんだ。署名もある。信長が天下を取ったのならオダも室長くらいにはなっているだろう。よし掘り起こしてセンターへ行こう」


 トクガワは区役所を出た。那古野公園までは約五km。地下鉄で行きたいが預金残高を考えると無駄な出費は極力控えなくてはならない。歩いて行くことにした。


「平日の昼間なのにブラブラしているなんて、この歴史の俺はどんな生活をしているんだ」


 置き換わった現在の歴史の記憶を探る。夜はネットカフェか野宿。早朝、派遣会社からメールが来れば仕事あり。来なければ仕事なし。ただし連続の業務が入っている場合はこの限りではない。それが今のトクガワの日常だ。


「つまり今日は仕事のメールがなかったわけか。これじゃその日暮らしの江戸庶民と同じだな」


 宵越しの金は持たず、今日を楽しく生きられればそれでよかった江戸時代の暮らし。今のトクガワは今日を楽しく生きられるかどうかもわからない。頼みの綱は鉄の容器に入った紙だけだ。


「あの木だな」


 運のいいことにこの歴史でも那古野城跡は公園になっていた。大木もそのままの姿で立っている。トクガワはできるだけ平たい石を拾ってくると大木の根元を掘り返した。二カ月半前に埋めた鉄の箱、必ず埋まっていると信じながら。


「んっ!」


 カチリと手ごたえを感じた。箱だ。トクガワはひとまず安堵の息を吐いた。それから慎重に周囲の土を掘って箱を取り出した。高鳴る胸の鼓動を抑えながら箱の蓋を開ける。紙を取り出す。文面を読む。


『一五七三年、武田と織田が岐阜にて交戦、両者とも討ち死に……』


「変わってない! 俺の考えは正しかった。電波を遮断すればサーバ書き換えの影響は受けないんだ!」


 トクガワは文面を何度も読み直した。紙を電波に晒すことで文面が変わってしまうかもしれないと思ったからだ。しかし変化はなかった。書き換えた瞬間に発する電波を浴びなければ、以後、電波のある空間に晒しても影響は受けないのだ。


「これをオダに見せよう。紙にはオダの署名まであるんだ。きっと信じてくれるはずだ。そうなれば俺のこの境遇も少しは変えられるかもしれない」


 トクガワは紙を鉄の箱に戻しバックパックに入れた。総合歴史記録センターのビルは見えている。歩いて行っても終業時刻には間に合うだろう。信長が歴史を変えるのなら俺だって歴史を変えてやる。

 トクガワは歩き出した。腹は減っていたがセンターへ向かうトクガワの足取りは軽かった。

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