変わってしまった二人

 トクガワとオダが出会ったのは高校一年の時だった。初めは二人とも単なる同級生でしかなかった。同じ班に属するでもなく、同じクラブに属するでもなく、席が近いわけでもない。最初の一年間は口を利くことすらほとんどないまま終わってしまった。

 高校二年でも同じクラスになった。それでも二人の仲に変化はなかった。用があれば話し、用がなければ話さない。嫌っているわけでもなく好感を抱いているわけでもない。卒業すればすぐに忘れてしまうような存在、その程度の間柄だった。


「オダさんって信長の子孫だって聞いたけど、本当?」


 切っ掛けは思い掛けなく訪れた。休み時間、気の合う友人たちとの他愛もないお喋りの声。聞き流していたトクガワの耳にその言葉だけははっきりと聞こえてきた。


「うん、そうみたい」

「ヤダ、本当なの。冗談のつもりだったのに」


『信長の子孫だと』


 トクガワは声が聞こえてきた窓際を見た。二人の女子が机を囲んで立っている。その囲まれた椅子に座っているのが信長の子孫だと宣言した女子、オダだ。


『あいつの先祖が信長……』


 トクガワがオダの顔をはっきりと見たのはそれが初めてだった。細面ほそおもての白い肌に切れ長の目。教科書で見たお市の方に似ている。信長の遺伝子を受け継いでいると言われても納得してしまいそうだ。


「トクガワ、おまえの先祖って家康なんだろう」


 いきなり隣席の男子が話し掛けてきた。近所に住む幼馴染で、トクガワが家康の末裔であることはとうの昔に知っている。にもかかわらず訊いてきたのは恐らくオダに対する対抗意識だろう。


「今更何を言ってるんだよ。小学生の頃はタヌキとか呼んで馬鹿にしていたくせに」


 そう答えた瞬間、トクガワは強い視線を感じた。もう一度窓際を見る。オダが慌てて目を伏せる。


『オダさん、俺を見たのか』


 それは高校生活でよく見掛ける有り触れた日常の一コマに過ぎなかった。だがトクガワとオダにとっては大きな意味を持っていた。

 それ以来、トクガワの心にはオダが住み始めた。自分を気にしているオダの存在、それが気になって仕方がないのだ。

 しかしトクガワはそれ以上の行動を取れなかった。互いに互いを意識したまま高校二年の一年間は終わってしまった。


 まるで恋愛の女神が采配を振るっているかのように、高校三年でも二人は同じクラスになった。しかも二人の座席は隣同士になった。空間的接近は心理的接近を発生させる。二人の親密度は日を追うごとに増していった。


 同時にトクガワはオダの意外な一面を知ることになった。学業成績が飛び抜けて優秀なのだ。答案用紙が返ってくるたびにトクガワは隣を覗き見た。驚いた。どの答案用紙も百点に近い点数なのだ。地味で目立たない女子というこれまでのオダのイメージはトクガワの中で完全に覆された。


「あの、オダさん。もしよかったら勉強を教えてくれないかな」


 迷いに迷ったトクガワの告白の言葉である。もっともその裏には「優秀な人物と懇意になっておきたい」という打算的目論見もないではなかった。

 ただ、恋人付き合いをするにしても高校三年という立場を考えれば、二人で過ごす時間のほとんどは受験勉強に費やされるはずだ。この告白の言葉もさほど的を外れているとは言えないだろう。


 やがて二人はクラスの誰もが認める恋人同士になった。休憩時間のお喋り。一緒に食べる昼の弁当。放課後図書室での勉強会。何もかも順調に進展しているように思われた。


「オダさん、アドレスか電話番号教えてくれないかな」

「えっ……」


 最初のつまずきはこの一言だった。トクガワにとってはこれまで何度も繰り返してきた何でもないお願い。しかしオダにとっては違った。


「ごめんなさい。私、そういうの持っていなくて」

「持ってない! 通話機能しかない単純なモバイルも持ってないの?」

「……ごめんなさい」


 信じられなかった。小学生でさえネット接続端末を持ち歩く時代である。


『もしかして教えるのが嫌で嘘をついているんじゃ……』


 トクガワはそう思った。が、それは違った。オダは贅沢のできない環境にいたのだ。


「オダさん、それで足りるの」

「うん。昔から小食だったから」


 オダの弁当はいつも同じだった。ラップに包んだ小さなお握りが一個。それだけだ。しかも具すら入っていない塩むすびである。当然、漬物や卵焼きといったおかずはない。持参している水筒の中身はお茶ではなく白湯だ。


「ほら、これあげる」

「ありがと」


 時々トクガワからもらう弁当のエビフライをオダは嬉しそうに食べた。トクガワはそんなオダの笑顔を見て、可愛いと思うと同時に哀れさを感じた。


 オダの困窮は弁当だけではなかった。鞄や文房具といった小物は、例外なく使い古しで擦り切れていた。消しゴムは指に挟めなくなるまで使い切り、シャープペンシルは、きっと小学生の頃から使っているのだろう、名前シールを剥がした跡が残っていた。


「オダさん、施設の子なのよ」


 ある日トクガワは、中学からオダと一緒という女子からそんな話を聞いた。隠し事が嫌いなトクガワは、その話が真実かどうか確かめたくてオダに直接訊いた。


「本当よ」


 父親の記憶はほとんどない。母親も小学生の時に他界し、引き取ってくれる親類もいなかったので施設に入った、それがオダの答えだった。


「私のこと、嫌いになった?」

「いや、ますます好きになったよ」


 嘘ではなかった。そんな恵まれない環境にいながら真面目に毎日を過ごし、学年では常に十位以内に入る成績を残しているのだ。できるなら一生彼女を守り幸せにしてあげたい、トクガワはそう思った。


 高校三年の一年間はあっという間に過ぎていった。クリスマスイブ、いつもの休日と同じように二人は近くの図書館で勉強をしていた。六時を回ったので帰り支度を始めた時、


「あの、トクガワ君、少し早いけど、これ」


 オダがおずおずと小さな紙包みを差し出した。トクガワが開けてみると一本のボールペンが入っていた。


「先月のお礼。あと、クリスマスプレゼントも兼ねて」

「そんな。気を遣わなくていいって言ったのに」


 先月、トクガワはオダに贈り物をしていた。オダの誕生日のプレゼントだ。

 隣席から聞こえるシャープペンシルのカチカチ音、それが誕生日の一カ月ほど前から目立って増えていた。


『小学生から使っているとすれば、とっくに寿命を迎えているはず。これじゃ勉強にも支障をきたしてしまう、何とかしてあげなくちゃ』


 そう考えたトクガワは二色のボールペンが一緒になった多機能ボールペンをプレゼントしたのだ。

 オダは驚きのあまり声を失っていた。そして涙を流して喜んでくれた。その時の感謝の気持ちを何らかの形で伝えたかったのだろう、わざわざボールペンを購入して今日持って来てくれたのだ。


「これ、イニシャルが入っている。君が刻んだの?」

「世界でひとつだけの贈り物にしたくて」


 トクガワもまた涙がこぼれそうになった。ボールペンは間違いなく安物だ。だがオダは別の何かを犠牲にしてそれを購入したに違いない。そして時間をかけてトクガワのイニシャルを刻んでくれたのだ。その心遣いが嬉しかった。


「ありがとう。一生大切にするよ」


 このボールペンは絶対に使わない、トクガワはそう心に決めた。


 二人の終焉は突然やってきた。冬休み明け、これまで一度も欠席したことのないオダが学校を休んだ。


「風邪でもひいたのかな」


 最初は軽く考えていたトクガワだったが、次の日もその次の日もオダは姿を見せなかった。担任に訊くと「しばらく休むと施設から連絡があっただけで詳細は不明」という返事だった。

 何が起きているのかどうしても知りたいトクガワは、次の休日、思い切って施設へ出向いた。学生証を見せてオダに会わせて欲しいと頼んだ。が、返って来た答えはトクガワを失意のどん底へ叩き落とすものだった。


「彼女はここにはいません。実は行方不明だったあの子の父親が突然やってきましてね、正月明けに連れて行ってしまったのです。卒業まではこの施設にいさせてあげて欲しいと頼みましたが、父親は頑として認めてくれませんでした。私たちもどうしようもなくて……」


 トクガワは引っ越し先を教えて欲しいと頼んだ。しかし個人情報に当たるので教えられないという。諦めるしかなかった。


「とにかく今は目の前の問題を片付けよう」


 一月二月は受験シーズンの真っただ中だ。他人の事情にかまけている余裕はない。一旦オダについては忘れ、合格が決まってからどうするか考えよう、トクガワはそう決めた。


 結局、オダは二度と姿を見せなかった。卒業式さえ欠席した。出席日数は足りているので卒業はできたはずだが、志望していた大学にオダは入学していなかった。合格できなかったとは思えない。たぶん受験させてもらえなかったのだろう。


 大学生になってからもトクガワはオダの消息を尋ね回った。しかし見付けられなかった。見付けられないまま大学を卒業し、会社に入り、今日まで過ごしてしまった。

 そのオダが、どんなに頑張っても見付からなかったオダが、今、トクガワの目の前に立っているのである。


「オダさん、久しぶりだね」


 そう口に出した瞬間、トクガワの胸に甘酸っぱい感情が広がった。自分はまだオダを想っている、そう感じずにはいられなかった。


「トクガワ君は立派になったわね。数日前、作業初日に組織図を見せてもらったわ。こんな大きな組織の室長なのでしょう。出世したわね」

「それを知っていたのならどうして今日まで黙って会社に出入りしていたんだい。いや、高校の時もそうだ。君は俺のアドレスも電話番号も知っていたはず。なのにどうして連絡してくれなかったんだい」

「連絡できるはずがないでしょう!」


 それはトクガワが見たことのないオダの姿だった。高校の時、オダは一度も感情を荒らげたりしなかった。怒りという感情からは無縁だった。十年以上の歳月がオダを別人にしてしまったのだ。そしてたぶんトクガワ自身も。


「俺はずっと君を探していたんだ。俺が探していることはわかっていたはず」

「ええ、わかっていたわ。だから連絡しなかったの。あなたに迷惑を掛けたくなかったから」

「迷惑? 君を迷惑に思うわけないじゃないか」

「迷惑を掛けるのは私ではないわ。私の父よ。父は死んだ、母にはそう聞かされていた。でもそれは嘘だった。父は前科者だったのよ。父がいなくなったのは死んだからじゃない。刑務所に入ったからだった。そして刑期を終え施設に来たのよ」

「……そうだったのか」


 神は不公平だ、とトクガワは思った。オダはずっと恵まれない環境で暮らしてきた。その中で彼女なりに頑張っていた。なのにその苦労に報いてやるのではなく、更に過酷な環境へ彼女を放り込んだのだ。自分のために自ら身を引いたオダの心情を思うと、トクガワの胸は張り裂けそうになった。


「大学は受験させてもらえなかった。高卒で親が前科者では就職もままならなかった。お金は全て父に取り上げられた。それでも私は一所懸命働いた。数年前、父が死んでやっと自由になれた。でもその時にはもうやり直せない年齢になっていた。見て、今の私。正社員ではないのよ。下請けの派遣社員。組織図にあなたの名前を見付けた時、会いたいと思うと同時に会ってはいけないと思った。身分が違い過ぎるもの。こんな大きな公企業の室長さんと、明日も知れない派遣社員では不釣り合いでしょう」

「身分なんか関係ないだろう。武士の世じゃあるまいし」

「トクガワ室長、そろそろ時間です!」


 入り口から警備員の声が聞こえた。サーバ管理室からもらった入室許可は一時間限定である。


「わかった。すぐに退室する」


 トクガワはそう返事をするとモバイル端末を取り出した。


「連絡先を教えてくれないか、オダさん」

「悪いけどそれは無理。持っていないのだもの」

「持って、ない……」


 信じられなかった。この時代にモバイルを所有しない社会人がいるなんて……しかしあり得ない話ではない。どの時代にも最新技術の恩恵を受けずに生活する人々は存在する。

 電気やガスのような基本的なサービス、電波や自動車といった旧時代からの技術、それらは別に使用を強制されているわけではない。ネット環境も同じだ。不便を覚悟すれば利用しなくても生きていける。IT技術の進歩など、それを活用しない人間にとっては何の意味も持たない。


「そうか。だがせっかく再会できたのだし、昔のように友人として付き合ってくれないか。身分なんて下らないことを言っていないで」

「いいえ。今のままでは私たちは幸せになれない。私たちの運命は最初から決まっていたのよ。前世から、戦国の世から」

「自分の不幸せは信長のせいだとでも言いたいのかい」

「そうよ。あなたの先祖は江戸に幕府を開いた家康。私の先祖は尾張一国を手にしただけで今川に滅ぼされた惨めな武将。根元ねもとが腐っていたら枝葉がどんなに頑張っても立派な果実は実らない。信長が天下を取らない限り、今の私は幸せになれないのよ」

「そんな馬鹿げた考え方……」


 トクガワは二の句が継げなかった。聡明なオダの言葉とは思えなかった。高校を卒業してからの辛苦に満ちた日々が、オダをこんな狂信的な人間に変えてしまったのだろうか。だとすればあまりにも悲し過ぎる。


「トクガワ室長、急いでください。退出時刻を過ぎると訓戒処分になることをお忘れなく」

「わかっている! オダさん、明日もここで作業をするんだろう、また来るよ」


 トクガワはモバイル端末を手に持ったまま急いで出入り口へ向かった。一人残されたオダは魔物のように目をギラつかせながら、広大なコンピュータルームに立ち並ぶメインフレームを見詰めていた。

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