第三話 信長君包囲網 一五七二年

みんなで影武者

 元亀三年十月八日、信長君と光秀は那古野城にいた。


「この城もボロっちくなったねえ、光っちゃん。これじゃまるで廃城跡にいるみたいだよ」

「既に廃城になったも同然でございましょう。留守居役すららぬのですからな」


 かつては信長君の居城だった那古野城も、清洲、小牧山、岐阜と本拠が変わるにつれ、その重要性は日を追うごとに薄れていった。清洲城には交替で侍大将を派遣して城番をさせているが、那古野城は完全に放ったらかしである。今では隣の萬松寺から時々役僧が訪れて、草刈りをしたり、雨漏りする屋根を修理したりするだけになってしまっている。


「来年で僕も不惑の四十才だもんなあ。この城も古くなるよね」

「小牧山城は四年で廃城となりました。ここも既に役目を終えた城、潔く廃してしまわれてはいかがですかな」

「小牧山はねえ、居城だったとは言っても美濃攻略のためだけに作った城だからね。あんまり未練はなかったんだよ。でもさあ、ここは小さい頃からの思い出がたくさん残っているじゃない。簡単には捨てられないなあ。それに魔境へもここからなら歩いて行けるしね」


 二人が廃城同然の那古野城にいるのは訳がある。今日は上弦月の日。月に一度の魔境出陣の日だ。現在の信長君の居城は岐阜城。魔境のある古渡城跡まで約十里。馬を乗り継いで向かっても三刻はかかる。


「いやだよお~、毎月毎月馬に揺られて、美濃と尾張を行ったり来たりなんて。なんとかして、光っちゃん」


 居城を岐阜城に移した途端、信長君が駄々をこね始めた。先読みの法は信長君だけに与えられた技。光秀一人で魔境へ入っても技を使えない。首に縄を付けても毎月信長君を魔境へ連れて行かなくてはならないのだ。


「仕方ありませぬな。ならば影武者を用意しましょう」


 光秀は領内を探し回って信長君によく似た人物を探し当てた。外見が似ていれば内面はどうでもよかったのだが、この影武者は実に武士らしい性格の持ち主で家臣の受けが大変良い。今では本物の信長君より人望を集めている。


「これで殿は自由に望みの城に滞在できまするぞ」

「やったね。僕は尾張に戻るよ」


 こうして天下取りは影武者に任せ、清洲城に移り住んで早や五年。信長君の役目は光秀を魔境へ連れて行き、半年先の出来事を写し取らせて家臣に伝える、ただそれだけになってしまった。

 光秀は書き写した魔鏡の内容をまとめて「今月の魔鏡便り」を執筆。各地に配された家臣の元へ月に一回発送している。


「光っちゃんは僕よりも前から影武者を使っているよねえ」

「殿のおもりに手一杯で合戦などに出ている余裕はありませんからな。拙者の影武者は越前朝倉家や将軍家にもお仕えし、織田家のみならず他家の覚えも良いようです。拙者のお守役と代わって欲しいくらいですな」

「代わってもいいよ。光っちゃんなんかいないほうが清々するから」

「またそのような戯言を。拙者が魔境に付いて行かねば、半年後の出来事を写し取る者が居りませぬ。殿が家督を受け継いでから二十年、それはまた魔鏡の出来事を書き写した日々でもありました」


 光秀は巻物を取り出してしみじみと眺めた。この巻物はこれまで書き写してきた記録を簡単にまとめたものだ。織田家における光秀の二十年間の人生そのものと言ってよいだろう。


「わ~、ちょっと見せて」


 珍しく信長君が興味を示している。光秀が巻物を開くと信長君は腹ばいになって読み始めた。


「あ~、懐かしいね。桶狭間の後、美濃攻めが始まったんだよねえ。結局七年くらいかかったのかあ」

「松平殿と同盟を結び、東の憂いを払拭できればこそ、成し得た攻略でございましたな」


 魔境究極奥義「発句印具」発動により、織田家だけでなく今川家も松平家もその後の運命は大きく変わった。

 元康は書き換えられた歴史通りに岡崎城で独立。三年後元康から家康に改名し、更にその三年後、松平から徳川に改姓して三河守に叙任された。今では信長君から「イエーちゃん」と呼ばれている。


「家ちゃんも三河を出て今は遠江の浜松城暮らし。気軽に遊びに行けなくなっちゃったね。あれ、お市ちゃんの輿入れまで書いてあるじゃん。こんな余計な出来事まで書くなんて、さては光ちゃん、お市ちゃんにホの字だったのかな」

「下らぬ戯言はおやめくだされ。浅井家との縁組は織田家にとっての一大事。書き漏らすわけには参りませぬ。さりとてあの時は大騒ぎでしたな」


 美濃攻略を万全の態勢で進めるためには周辺諸国と友好的関係を築いておく必要がある。そこで信長君は妹のお市を北近江の浅井長政に輿入れさせ同盟を結んだ。別に信長君の意思ではない。魔鏡にそう表示されていたのでそれに従ったのである。

 お市は織田家随一の美女、家臣たちほぼ全員がお市に惚れていた。当然、輿入れには大反対である。光秀の元には家臣たちからの非難のふみが山のように送られてきた。


「おやめくだされ、お市様を人質に出すなど言語道断」

「お市様あっての織田家でござる。絶対反対!」

「信長君を見習ってさあ、お市ちゃんにも影武者、じゃないや、影姫を用意したらいいんじゃないかなあ」


 本来なら反対意見は当主である信長君に向けられるべきものである。しかし「今月の魔鏡便り」を書いている関係上、何故か家臣たちの不平不満は光秀に向けられてしまった。とんだはた迷惑である。


「さりとて魔鏡がそう表示している以上、手の打ちようがござらぬ」

「ならば今こそ書き換えを行う時。桶狭間の奇跡を再びお見せくだされ」

「婆が来たら頼んでみよう。あの技は婆しか使えぬからな」


 それから家臣たちはせつ婆が来るのを今か今かと待っていたのだが、その程度の史実を変えるために婆が来るわけがないので、結局魔鏡の表示通りお市は浅井家に嫁いでしまった。輿入れの日は盛大に送別会と残念会が開かれた。


「でも長政ちゃんが裏切ったのにはびっくりしたよね。魔鏡で半年前にわかっていなかったら、今頃僕たちどうなっていたかなあ」

「あの時も大騒ぎでしたな。まあ、騒いだところで魔鏡の絶対性には逆らえぬのですが」


『元亀元年四月、織田家は徳川勢と共に朝倉を攻める。その結果、浅井に裏切られて挟み撃ちに遭い、命からがら京へ逃げ帰る』


 光秀から毎月送られてくる「今月の魔鏡便り」でこの事実を知った織田家家臣たちは一斉に反対の文を光秀に送り付けた。


「魔鏡など無視して、朝倉攻めを中止すべき」

「今こそ書き換えを行うべし」

いくさを始める前にさあ、お市ちゃんとその娘だけ織田家に連れ戻しておこうよ」


 お市輿入れの時と寸分違わぬ家臣たちの反応である。

 この時ばかりは開く節婆が来るのではないかと誰もが期待した。桶狭間以後、美濃の斎藤義龍と争う中で何度か負け戦はあったが、損害はそれほど大きなものではなかった。しかし今回の戦では大損害を被りつつ、織田家としては初となる本格的撤退戦まで演じなくてはならないのだ。


「家ちゃんも一緒に出陣するからね。家ちゃん大好き婆ちゃんとしては、来ないわけにはいかないよ」


 と信長君始め織田家一同心待ちにしていたが、開く節婆は姿を見せなかった。信長君の命にかかわるくらい重大な出来事でなければ婆は来てくれないとみえる……この戦以降、家臣の誰もがそう考えるようになった。


「あれからさあ、魔鏡の表示通りに進めてきたけど、最近、手を広げすぎなんじゃないかって思うよ。よしちゃんもあんなことになっちゃったし」

「惜しい武将でしたな。あの時ほど魔鏡を憎く思ったことはござらぬ」


 腹ばいになって巻物を読んでいた信長君が仰向けになった。遠くを見るような目で天井を眺めている。光秀も顔を上げると、今は亡き武将もり三左衛門さんざえもん可成よしなりの在りし日の雄姿を思い浮かべた。


「えっ、今年の九月、拙者は死ぬのでござるか」


 元亀元年四月、光秀から「今月の魔鏡便り」を受け取った可成はちょっとだけ驚いた。どうして大いに驚かなかったのかと言えば、それなりに覚悟ができていたからだ。


「先月の魔境便りでは八月の畿内は大変なことになっておったからな」


 その年の六月、三好三人衆が摂津で挙兵、七月、摂津中島に城を築き八月には古橋城を攻略。遣りたい放題の三好三人衆をこれ以上放っておけぬと、信長君(影武者)は岐阜を出立。八月二十五日、摂津の天王寺に着任したところで、先月の魔鏡便りは終わっていた。


「今の状況では石山本願寺が敵に回るのは避けられぬ。石山本願寺が要請すれば延暦寺の僧兵も動くはず。態勢を立て直した浅井・朝倉もこの機を逃しはしないだろう。九月は厳しき戦いになるであろうな」


 と思っていたところへ今月の魔鏡便りが届いたのである。読んでみると可成の想像した通りで、浅井・朝倉の動きを封じるために討ち死にすることになっていた。


「魔鏡の指示とあらば致し方ない。皆の衆、三左衛門の討ち死にを盛大に祝ってやろうではないか」


 姉川の戦いが済んだ六月末、可成の死を知った織田家家臣たちは岐阜城に集まって『可成君討ち死に頑張れお別れ会』を盛大に催した。会を主催して題字まで書いた本物の信長君も清洲城から駆け付けて、


「そう言えば信治のぶはるちゃんも死ぬんだよね。僕の弟だからって気にしなくていいよ。瀕死の信治ちゃんを背負って戦ったりせず、存分に討ち死にしてね」


 と可成にねぎらいの言葉を掛けてやった。

 もしかして開く節婆が来て魔鏡の書き換えを行ってくれないかなと可成は少しだけ期待していたが、やはり来なかったので九月に壮絶な最期を遂げた。


「あの後も魔鏡はとんでもない出来事ばかり表示し続けたよね。比叡山焼き討ちとか、長島の一向一揆平定とか。その通りに動いていたおかげで今じゃ周りが敵だらけになっちゃったよ。これってさあ、そのうち書き換えようがないくらい大変な状況になるんじゃない。ほら、婆も言っていたでしょ。史実から離れ過ぎたり、不自然過ぎる出来事には書き換えられないって。大丈夫かな」

「そのようなことを案じても仕方ありますまい。それよりもそろそろ魔境へ参りましょう。月はとっくに昇っておりますぞ」

「そだねー」


 仰向けに寝ていた信長君がのろのろと立ち上がった。広げっ放しになっている巻物を大切に巻き戻す光秀。と、一人の男が入って来た。


「殿、今月は随分ゆっくりしておられますな」

「あっ、可ちゃんだ。今から行こうと思ってたんだよ。今日も付いて来る?」

「無論、お供させていただきますぞ」


 二人の前に姿を現わしたのは、二年前、宇佐山城の戦いで命を落とした武将、森三左衛門可成、紛れもなくその人であった。


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