信長君の決断

「待って!」


 ずっとうずくまったままだったオダが立ち上がった。必死の形相で信長君にしがみつく。


「それなら天下人になるのを諦めてください。あなたが天下人にならなければ家康は死なないはず。虫のいい話だとはわかっています。でもお願いします。家康を、トクガワを助けてください」

「それは駄目だよ、オダさん」


 トクガワは背後からオダを抱き締めた。


「そんなことをしたら君の歴史が変わってしまう。下手をすればまた最初のように悲惨な境遇に落ちるかもしれない。せっかく掴んだ幸せを捨てることになる」

「ううん、私の幸せは今の歴史にはない。この歴史は私にとって何の価値もない」

「オダさん……」

「オホン、よろしいですかな」


 二人の後ろで咳払いをしたのは光秀だ。


「現在の状況では、織田家が天下人の座を降りるのはまず無理と考えまする。越後の虎と恐れられた謙信公は逝き、武田家は滅亡。織田家の勢力は畿内だけでなく中国、四国にまで及んでおります。このように強大になった織田家を倒す策など、如何に智将と言われた光秀とて到底搾り出せませぬ。誰もが仰天するような奇策ならばあるいは織田家を倒せるやもしれませぬが、魔鏡は現実離れした書き換えは受け付けぬはず。織田家が天下人となるのはもはや誰にも止められぬのです」

「光っちゃんはすっかり天下人の家臣を気取っているね。でも僕もその意見に同意だよ。尋常な手段じゃ織田家の勢いは止められない。つまり家ちゃんを助けることもできないんだ」

「……」


 オダは再びその場に崩れ落ちた。誰のせいでもない、全て自分が蒔いた種。それがわかっているだけに後悔の念もひとしお大きかった。


「オダちゃん、がっかりすることないよ。尋常な手段じゃ無理だけど、たったひとつ、僕が天下人にならない方法がある」


 オダもトクガワも光秀も一斉に信長君を注視した。得意満面の顔をして信長君は言い放った。


「簡単さ。僕が死ねばいいんだよ」

「と、殿!」


 光秀が悲鳴に近い声を上げた。構わず信長君が続ける。


「織田家は僕一人が支えているようなもんだからね。僕が死ねば間違いなく弱体化する。信玄ちゃんだって陣中で病没したんだから、僕が死ぬくらいの書き換えは魔鏡も受け付けてくれるはずだよ」

「納得できませぬ!」


 軽い口調でとんでもない話をする信長君とは逆に、光秀の顔は真っ赤に染まっている。阿修羅のような形相で信長君に食って掛かる。


「拙者は反対ですぞ。そのような案、同意できるわけがござらぬ。こんな二人のために何故命を捨てる必要があるのです。天下は既に殿の手中にあるのですぞ。それを手放すと言われるのですか。家臣たちには何と申し開きされるおつもりか。到底承服できませぬ」

「光っちゃん……」


 信長君が光秀の頭に手を置いた。怒髪天をく勢いの光秀をなだめるように穏やかに話す。


「そうだよね。これまで僕に尽くしてくれた光っちゃんが怒るのは当然だよ。だけど考えてみて。僕らは本来二十二年前に死んでいる運命だったんだよ。でもオダちゃんが歴史を書き換えてくれたおかげで今日まで生きて来られた。それだけで十分じゃないかな。初めて会った時は僕らより年上だったオダちゃんも、今は娘のように見える。僕らのほうが爺と呼ばれるに相応しくなっちゃった。そのオダちゃんが涙を流してお願いしているんだもん。叶えてあげないわけにはいかないよ。二十二年の命をもらった御恩を、今、オダちゃんに返そうよ」

「殿……」


 光秀は思い出していた。三十年前、初めてオダに会った時のことを。初めて魔鏡を見た時のことを。初めて書き換えの技を見た時のことを。オダに会わなければ決して味わえなかった懐かしい思い出が光秀の脳裏を駆け巡った。一片の悔いもない三十年間、それを与えてくれたオダが涙を流して頼んでいるのだ。氷のような光秀の心も知らぬ間に解かされてしまった。


「わかり申した。主君に従うのが家臣の務め。殿の案、受け入れましょう。して、いつ命を落とされますか」

「う~ん、やっぱり、できるだけ長生きしたいよねえ。家ちゃんが天麩羅食べて死ぬのが六月三日でしょう。その前日、二日に本能寺で死ぬことにしようよ。僕が死ねば家ちゃんも天麩羅なんか食べずに大急ぎで三河に逃げ戻るはずだよ」

「ふむ。して、どのような死に方をされるおつもりですかな」

「そうだなあ。干し柿を食べ過ぎて死んじゃったってのはどう?」

「そ、そのような見っともない死に方では末代までの恥! どうせならもっと華々しく劇的に……そうだ、拙者が謀反を起こしましょう。六月には中国出陣のため丹波亀山の城に戻っているはず。そこから兵を率いて京の本能寺に攻め込み、殿を討ちまする」

「うわあ、それいいね。稀代の裏切り者として後世まで語り継がれるよ、きっと。でもそれじゃ、光っちゃんが天下人になっちゃわない」


 そこまで考えていなかった光秀。しばし思案の後、名案を思い付いた。


「されば藤吉郎を使いましょう。家臣の混乱を避けるため今月の魔鏡便りには殿の死は書かずにおくつもりですが、藤吉郎にだけは事前に教えておくのです。『さっさと毛利家との交渉を済ませて引き返し、謀反人の光秀を討つべし』と。殿が逝ってしまわれるのなら、拙者も命を捨てる覚悟。共に手を携えて冥土へ参りましょう」

「お~、光っちゃん、忠臣の鏡だねえ。じゃあ、なるべく早く死んでね」

「いや、ちょっと待ってくれませんか」


 盛り上がる二人を割ってトクガワが間に入って来た。


「それだと秀吉が将軍になりますよね。現に最初に書き換えられた歴史では、幕府を開いたのは秀吉でした。さっきは平社員でもいいなんて言いましたけど、できれば家康が将軍になって欲しいのですが……」

「トクガワ君、何を言っているの。みっともないわよ」


 さすがのオダも腹を立てている。信長君が命を捨てると決断してくれただけでも有難いのに、更に注文まで付けるとは厚顔無恥にも程がある。


「あ~、そう言えばそうだね~」


 しかし信長君は大して気にしていないようだ。底知れぬ大人物である。


「それじゃ、秀ちゃんには将軍よりも関白のほうが絶対人気があるよって言っておくよ。秀ちゃんにとっては自分が偉くなれるかどうかが重要で、この国のことには無関心みたいだから」

「あ、ありがとう。そうしてもらえると助かります。信長さん」


 トクガワも安心したようだ。話は決まった。さっそく光秀が紙と矢立を取り出す。


「しかしこれを百文字に要約するのは大変ですな。しばし時間がかかりそうですが、お待ちくだされ」

「ああ、それなら心配ないわ」


 オダが魔鏡の後ろへ歩いて行く。しばらくゴソゴソやって戻ってきたオダはキーボードを持っている。


「信長さんの天下人が確定して私の地位も大幅に上がったでしょ。だからこんな入力装置を持ち込めるようになったの。これならどんなに長い文章でも大丈夫。あ、太鼓も必要ないわよ。これが魔境の言葉に変換してダイレクトにCPUへ叩きこんでくれるから」

「そ、そうでござるか」


 光秀は少しがっかりした。今日のために毎日太鼓を稽古していたのだ。


「では、字数を気にせず書き換え文を考案すると致そう」


 光秀は書き始めた。結構熱心に書いている。トクガワは不思議だった。武士とは死を怖れぬ者。それはわかっているが、ここまで平然と自分の死を受け止める信長君と光秀が不思議でならなかった。


「あの、信長さん、光秀さん。俺たち、いや私たちのために命を投げ出してくれて本当に感謝しています。オダはともかく私は二人に何もしてあげていません。何か恩返しできるようなことはないですか」

「恩返し? ああ、そんなの要らないよ。それに僕たち死なないよ。死ぬのは影武者だもん」

「えっ! 影武者」


 驚くトクガワにオダが耳打ちする。影武者が運命を肩代わりしても歴史は滞りなく進んでいく。本人が再び歴史の表舞台に立たない限り運命は本人を殺さない。そう説明するとトクガワは一遍に拍子抜けしてしまった。二人の自己犠牲に感動したさっきの自分が馬鹿みたいに思えてきた。


「書けましたぞ。殿、花押をお願い致す」

「どれどれ見せて。ふんふん、いいね。はい、オダちゃん。入力よろしく」

「任せて」


 紙を見せられたオダがキーボードを叩き始めた。長い文章だったがオダは日本語ワープロ検定初段の腕前だ。瞬くうちに入力は終わってしまった。


「はい完了。光秀さん、確かめてみて」

「されば」


 光秀は魔鏡の前に立ち、大声で叫ぶ。


「天正一〇年六月、織田家!」


 魔鏡の表面が一瞬鮮やかに光った。それは今までに一度もなかった現象だ。あまりの眩しさに目を閉じた四人が、再び目を開けて魔鏡に視線を戻した時、そこには驚くべき表示が映し出されていた。


「こ、これは六月だけではない、七月、八月、九月……来年の出来事まで表示されているではないか」

「限定解除だわ。半年制限のタガが外れて、全歴史の表示が可能になったのよ。でもどうして……」


 オダは何気なく自分の手のひらを見た。思わず息が止まりそうになった。右手のアクセス文様も左手の転移文様も消えている。


「みんな、手のひらを見て」


 三人も同様だった。誰の手のひらからも文様は消えていた。


「ふふふ……ははは、ふはははは」


 信長君が笑い出した。最初は低く、そして徐々に大きくなっていく。


「十兵衛、儂は勝った。遂に魔王に勝ったぞ。奴は逃げたのだ。儂の覚悟に恐れをなしてな。もはや腑抜けを装う必要はない。これまでの信長は死んだ。これよりは新しい信長として儂は生きる。十兵衛、付いて来てくれるな」

「言うまでもないこと。拙者は命尽きるまで殿に付いて行きまする」


 光秀は固く信長君の手を握り締めた。文様が消えた以上、もう魔境に入ることはできない。魔王との繋がりは完全に切れたのだ。信長君もオダもようやく自由になれたのだ。


『天正十年六月二日、明智光秀本能寺を襲撃。織田信長奮戦の末自害。ただし遺体は見つからず。十三日、光秀は羽柴軍に敗北。落ち武者狩りに遭って自害。ただし光秀本人の確証はない……』


 オダは魔鏡を見詰めていた。書き換えは成功だ。信長天下人の夢はついえた。それはまたオダの夢も夢のまま終わってしまったことを意味していた。


「本当にこれでよかったのかい、オダさん」

「もちろん。だって今の私はどんな境遇になろうとも、何の引け目も感じずにトクガワ君とお喋りできる私なのだもの」


 トクガワとオダも手を握り合った。どこまでもこの人に付いて行こう、二人は互いにそう思った。


「そうだわ、信長さん。これからは歴史に現れることなく、身を隠して生きていくのでしょう。余生はどこで過ごすつもり?」

「うむ、かねてより南蛮に渡ってみたいと思っておったが、さすがにそれは無理であろう。聞くところによると、遥か南に琉球と呼ばれる島があるらしい。そこで光秀と共に静かに暮らそうと思っておる」

「おお、拙者も一度訪れてみたいと思っておりました。珍しい南国の果実などもあるそうですな」

「それなら……ちょっと耳を貸して」


 オダが信長君に何やら耳打ちをしている。信長君が頷いている。やがてにやりと笑った。そして声を上げて笑った。


「ははは。承知した。言う通りにしてやろう。そなたの企み、首尾よく成就するとよいな」

「あの、信長さん。本当にありがとうございました。初対面でお別れの挨拶をしなくてはならないのが本当に心苦しく思います」

「竹千代の末裔、礼には及ばぬ。そなたたちのおかげで儂は魔王に勝てたのだ。礼を言いたいのはこちらだ。言いたいだけで言ったりはせぬがな」


 元の信長君に戻っても茶目っ気は残っている。オダがトクガワの手を引っ張った。


「そろそろ戻りましょう。ここを出ればもう新しい歴史が私たちを待っている。それがどんな歴史なのか早く確かめたいわ。排出の言葉は覚えているわね」

「ああ、大丈夫。それでは信長さん、光秀さん、お元気で」

「今まで楽しかったわ。さようなら」

「うむ。二人とも達者で暮らせよ」

「婆などと呼んで悪いことをした。せめて年増……」

「ログオフ!」


 光秀の話の途中で二人は姿を消してしまった。聞きたくない話題だったのだろう。さすがの光秀も苦笑いだ。


「十兵衛、ぼさっとしているな。これが最後の魔鏡だ。できるだけ紙に写しておけ」

「承知致した。殿は何をなされます」

「儂か、儂は読み物を書き写すにきまっておるではないか。見よ、これまで伏字だった箇所が全て表示されておる。ふむ、コンピュータか。少し毛色の変わった読み物でも眺めてみるか」


 信長君は熱心に魔鏡を見詰めている。また腑抜けな信長君に戻らなければよいのだが、と光秀は思った。


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