第2話 降格と昇進の狭間 2099年
平社員トクガワ
ベッドに入ったトクガワは天井を見ていた。最近、寝付きが悪い。いや、悪いのは睡眠に関してだけではない。勤務時間中も私的な時間も、ここ数週間のトクガワは精彩を欠いていた。
「取るに足りないことをいつまでもグダグダと、俺らしくもない……」
それは小指に刺さった小さなトゲのようなものだ。さしたる痛みもないくせに気になって仕方がない。抜こうとしても小さ過ぎて抜けない。忘れようとしても不意に痛み出して忘れさせてくれない。
「オダ……やはり彼女とはもうやり直せないのか」
地下のコンピュータルームで偶然出会った高校時代の同級生、オダ。あの日から今日まで一度も再会できないまま一カ月半が過ぎてしまった。
何もせずに過ごしていたわけではない。オダに会った翌日、勤務を終えたトクガワはサーバ管理室へ直行した。空調設備調整スケジュールについて詳しく訊くためだ。
「取り敢えず四月までは毎日。五月からは土日のみ調整を行う予定です」
「そうか、わかった。では本日もコンピュータルームへの入室許可を申請する」
少なくとも四月までは毎日オダに会える。毎日会っていれば
「勤務時間が変わった?」
「はい。彼女は深夜メンテの担当になりました」
コンピュータルームにオダはいなかった。代わりに働いていた青年が事情を説明してくれた。
空調設備の点検調整はセンターの勤務時間を外して二交替で行われる。午後五時から十一時までの夜番、午後十一時から午前五時までの朝番だ。昨日から夜番になったオダだったが、都合により今日以降はずっと朝番勤務となった、という内容だった。
「俺を避けたのか……」
無論、それはトクガワの被害妄想に過ぎなかった。本当に夕方からの勤務は都合が悪いのかもしれないし、朝番は手当てがいいのでトクガワとは関係なく変更を申し出たのかもしれない。
だが、どんな理由にしても、これでオダに会うのは難しくなった。午後十一時から午前五時の時間帯に入室許可を申請しても、相当な理由がない限り認可されるはずがないからだ。
「オダさんをお願いします」
トクガワは空調設備の会社へ電話を入れた。とにかく話がしたかったのだ。しかし無駄だった。オダは会社に出社せず直接現地へ向かっていた。所属する派遣会社も同様だった。会社を介してオダと接触するのは不可能だった。
「それでは連絡先を教えてはいただけませんか」
駄目元で頼んでみたがあっさり断られた。いくらトクガワが発注元の職員であっても、高校時代の同級生だったという理由だけで従業員の個人情報を教えてはくれない。諦めるしかなかった。
「まるで高校時代の再現だな」
高校卒業を待たずに施設を出てしまったオダ。あの時もトクガワは必死に探し回ったが、結局オダの行方は掴めなかった。今回もこのまま放っておけば、やがてオダは永遠にトクガワの前から姿を消してしまうだろう。
ただし、あの時と今はひとつだけ違う点がある。確実にオダに会える場所と時刻が存在することだ。オダは毎晩センターへ出勤している。深夜十一時か午前五時にセンターで待ち伏せしていれば必ず会える。
「いや、いくら何でもそれはできない」
明らかにストーカー行為一歩手前の行動だ。下手をすれば訴えられる恐れがある。それにオダはその気になれば容易にトクガワと連絡を取れる。なのに何の連絡もないのはオダがトクガワに会いたくないからだ。そんな状態で強引に会ったとしても、オダにとっては迷惑以外の何物でもないだろう。
「覆水盆に返らずか。俺がこぼしたわけじゃないんだがな」
高校の時の離別はトクガワもオダも望んでいなかったはずだ。それでも盆からこぼれてしまったら、もう二度と元には戻せないのだ。
トクガワはベッドの上で寝返りを打った。頭の中からオダを追い出そうとした。
「このままでは眠れん。別のことを考えよう。職場、仕事、トヨトミ……駄目だ、これじゃオダより酷い」
考えた内容が悪かった。頭の中には別の懸念が湧き上がってくる。この一カ月半の間、トクガワの職場ではある厄介事を抱え続けていた。
「ちょっとトクガワちゃん、またよ」
オダに会った翌朝、始業開始とほぼ同時にトヨトミがわざわざ室長席までやって来た。早く見るように促されてトクガワが文書を開くと、昨日と同じ、無意味な文字が並んだアクセスログだった。
「三度目の異常ログか。ハードの不具合となると、たった一日では治らんだろうし、気長に待つしかないんじゃないか」
「そうだけど……でもね、日付だけはきちんと進んでいるのよ、一カ月だけ。気味が悪くない」
チェックすると確かにそうなっている。アクセス日時は『1552/05/08/00:00』最初は三月、二回目は四月、そして今回は五月。七日と八日の違いはあるが、着実に一カ月ずつ進行している。
「たった三回の事例だけでは何とも言えん。単なる偶然かもしれんしな。サーバ管理室には逐一報告しておくから、おまえもあまり気にするな」
「トクガワちゃんがそれでいいのなら何も言わないけど、妙に気になるのよね」
トヨトミは不満げに自分の席へ戻っていった。
彼の懸念は当たっていた。異常なアクセスログはその後も毎日続いた。メインフレームのメンテナンス時刻に合わせて一日二回。そして日付もきっちり一カ月ずつ進んでいく。
ただし例外はあった。週に一度、合言葉認証に別の答えを追加すると、その日だけは異常なアクセスログは発生しなかった。が、次のメンテナンス時刻にはいつも通りの状況に戻る。日付はきっちり二カ月分進んでいる。
「まるでこちらの一日が向こうの二カ月に相当するみたいだな」
サーバ管理室からハードに関して特に問題はないと報告を受けても、状況は変わらなかった。さすがにトクガワも気に掛けずにいられなくなってきた。ウイルスを仕込まれるわけでもなく、情報が漏洩するわけでもなく、メモリが破壊されるわけでもなく、ただ異常なログが残るだけの現象。実害がないと言っても気味が悪い。そして対処の方法もない。そんな状態が今日まで一カ月半続いているのだ。
「最初のアクセスログの日付が一五五二年。昨日のログは一五六〇年。向こうでは八年の月日が流れたわけか。こんなことがいつまで続くのだろうな」
トクガワは目を閉じた。明日の朝、目が覚めた時、この一カ月半の出来事が全て夢だったらどんなにいいだろうと思った。
* * *
トクガワは濃い霧の中にいた。視界は完全に遮られ、もはや白い闇と呼ぶに相応しい空間だ。その中をトクガワは歩いている。
「この霧、見覚えがある。そうか、ここは夢の中か」
トクガワは待った。霧の奥に灯る光と聞こえてくるはずの声を。やがてそれはやって来た。あの時と同じ眩い輝き、あの時と同じ薬師如来の声だ。
――遂に恐れていたことが起きてしまった。トクガワ、そなたは何をしていた。何故こうなる前に手を打たなかった。
「恐れていたこと? それは何だ。何が起きたと言うんだ」
――知ったところで、もはやどうなるものでもない。明朝、そなたは信じがたい光景を目にすることとなろう。そして危機はまだ去ってはいない。
「危機とは何だ。薬師如来よ、教えてくれ。俺は何をすればいいんだ」
――心して行動せよ。全てが手遅れになる前にな。
霧の奥の光が弱くなっていく。周囲は元の白い闇へと戻っていく。トクガワは手を伸ばした。霧の向こうにまだ淡く灯っている残光を掴むために……
「はっ!」
残光に手が届いたと思った途端、トクガワの五感は日常へと復元した。
「夢か。しかし不吉な内容だったな。恐ろしいことが起きたとか言っていたが……」
そこまでつぶやいたトクガワはあり得ない光景を見て息を飲んだ。違っている。天井も壁も横たわっている寝具も何もかもが違っている。
「ど、どこなんだ、ここは!」
トクガワは飛び起きた。今、自分がいるのは、住み慣れたマンションの十畳の寝室とは似ても似つかぬ粗末な部屋だ。しかしトクガワには見覚えがあった。
「おいおい、どういうことだよ。ここは昔俺が住んでいた安アパートにそっくりじゃないか」
大学卒業後、就職のために最初に住んだのが六畳一間の安アパートだった。その後何回か引っ越しを繰り返し、最終的にマンションを住処にしたのだが、社会人となってから一番長く住んだのはこの部屋だ。
「まさかあの頃の俺に戻っちまったわけじゃないだろうな」
トクガワは枕元の時計を見た。日付は元のままだ。
「過去へ戻されたわけじゃないようだな。となると、眠っている間にマンションからこの部屋に運ばれたってことか」
トクガワは布団を出て歩き回った。古い押入れ、無造作に吊るされた衣服、ドアを開ければキッチン、その横に洗面台。奥には風呂とトイレ。間違いなくあの頃住んでいた安アパートの一室だ。
「薬師如来は言っていたな、恐ろしいことが起きたと。さして恐ろしくはないが異常事態には違いない。とにかく日課だけはこなしておこう」
トクガワは律儀に腕立て伏せを始めた。体を動かしながら現在の状況を分析する。ここが昔住んでいたアパートならマンションから一〇kmは離れている。しかも家財道具一式まで揃っている。驚かすための冗談にしては手間がかかり過ぎだ。誰が何の目的でこんな行為に及んだのだろう。
「何か手掛かりはないだろうか」
日課を終えたトクガワは押入れの中を探した。自分の持ち物がごちゃごちゃと詰め込まれている。新入社員時代、いつも貴重品を入れていた箱も見付かった。蓋を開ける。
「鍵、IDデバイス、モバイル端末……無くなっているものはないようだな」
トクガワはIDデバイスをタッチした。職場から支給されているカード型身分証明書で保険証や定期券、名刺などの機能も有している。表示された身分証明の画面を見たトクガワは驚愕した。
「ど、どういうことだ」
記載されている住所はマンションの住所ではなかった。昔住んでいた安アパートの住所だ。そして肩書から室長の文字も消えている。
「身分証明のデータを偽造しただと。馬鹿な、最高のセキュリティで守られているデータだぞ。俺みたいな何の取柄もない男のためにここまでする意味があるのか」
警察に通報すべきだろうか。いや、自分がマンションに住んでいたという証拠がない。IDデバイスの表示は絶対だ。寝ているうちに知らない場所へ運ばれたと言っても警察は信じてくれないだろう。
「ちょうど出勤の時刻だ。センターへ行ってみよう。何かわかるかもしれん」
トクガワは着替えると食事も取らずに外へ出た。いつも乗っているはずの車はない。IDデバイスを操作すると定期券が表示された。記載されている乗車駅へ行き電車でセンターへ向かう。受付で身分証明を済ませ、十五階のデータ管理室へ入る。
「おはよう、トクガワ君」
ドアを開けると声が聞こえた。毎日聞いていた、聞かされていた声。その声の主はオフィスを見渡せる一番奥の席に着いている。昨日までトクガワが座っていた室長席。今朝そこに座っているのはトクガワではなくトヨトミだ。
「ど、どういうことだ、トヨトミ。どうしておまえがその席に着いている」
トクガワは血相を変えてオフィスを突き進んだ。トヨトミは立ち上がると冷ややかな表情でトクガワを見た。
「その言い方は失礼ではないですか。いくら旧知の仲とは言っても礼儀はわきまえて欲しいですね」
「礼儀知らずはおまえだ、トヨトミ。どうして俺の席に座っているんだ。朝っぱらから冗談はやめてくれ」
「どうしても何も、室長である私が室長席に座って何がおかしいと言うのですか。冗談をやめるのはそちらでしょう。ホラ、これをご覧なさい」
トヨトミは自分のIDデバイスをトクガワの鼻先に突き出した。肩書には「室長」の二文字がしっかりと記載されている。それでもトクガワはその事実を受け入れられなかった。オフィスに向き直ると大声で叫んだ。
「みんな、みんなはどうなんだ。昨日までこの席に座っていたのは俺だ。室長は俺だろう。トヨトミじゃないだろう。もしかしてトヨトミとグルになって俺をからかっているんじゃないのか。もしそうならこんな茶番劇はすぐにやめてくれ。今回の件は不問にして懲罰は科さないつもりだ。だから素直に謝ってくれ」
オフィスは重苦しい沈黙に包まれた。出勤している職員全員が憐れみに満ちた目でトクガワを眺めている。誰も何も言おうとしない。
「みんな、どうした。どうして黙っているんだ」
トクガワは感じていた。これは冗談でも茶番でもない。いや、職員たちにとっては、むしろトクガワのほうが冗談であり茶番なのだ。信じたくはないがこれは現実なのだ。
「トクガワ君、君のIDデバイスを見せなさい」
トヨトミの手がトクガワの肩を掴んでいる。トクガワは力なく向き直ると、身分証明を表示させてIDデバイスを渡した。
「ふっ、エラーでも起きたのかと思いましたが、そうではなかったようですね」
今度はトクガワのIDデバイスを突き出してトヨトミは言った。
「どこに『室長トクガワ』なんて表示があるのですか。君は平社員です。昔から出世欲が少しもなかったのですから当然の結果ですよ。今更自分が平社員であることに腹を立てたところで自業自得、そう思いませんか」
「本当に、俺は平社員、なのか……」
有無を言わさぬ証拠を突き付けられたのだ。これ以上の反論はできなかった。返してもらったIDデバイスを仕舞いながら、トクガワは呆然と窓の外を眺めた。毎日見ていた金の輝き、それを見るたびに自分が家康の末裔であることを再確認し、今日一日のヤル気を奮い立たせていた名古屋城の金のシャチホコ……
「ない!」
トクガワは窓際に駆けよった。ガラスに顔を押し付けて外の景色に目を凝らした。ないのだ。毎日見ていた名古屋城が、緑瓦の波に乗って燦然と輝く金のシャチホコが、どこにも見当たらないのだ。動揺するトクガワの頭の中に、夢で聞いた薬師如来の言葉がこだまする。
――そして危機はまだ去ってはいない。心して行動せよ。全てが手遅れになる前にな……
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