役に立たない証拠
「お帰りください」
総合歴史記録センターの受付では、先ほどから小汚い格好の男が係員と言い争いをしている。
「頼む。ほんの少しの時間でいいんだ。俺は決して怪しい者じゃない。信じてくれ」
「怪しいか怪しくないかはこちらが決めます。お客様の面会申請は却下されました。お帰りください」
受付係は事務的な返事を繰り返すだけだ。こうなることはトクガワにもわかっていた。公的機関である総合歴史記録センターは部外者の立ち入りが極端に厳しい。事前連絡なしに訪問しても、重大なもしくは緊急性のある用件でない限り、部内者に会うのはもちろん会話さえできないのだ。
「俺の名は伝えてくれたのか。トクガワが来ていると言えば必ず会ってくれるはずなんだ」
「お答えする義務はございません。面会申請は却下されました。お帰りください」
警備員が集まってきている。無言の警告をトクガワは感じた。これ以上押し問答を続けるようなら実力行使に出るつもりなのだろう。
『やはり勤務中は無理か。ここは一旦退いて終業時刻まで待ったほうがよさそうだな。うまくオダに会えればいいんだが』
警備員と揉め事になるのはごめんだ。トクガワは諦めて正面玄関に向かおうとした。その時、
「あら何、この物々しい雰囲気。その小汚い格好の人、誰?」
エントランスのドアが開いて男が入って来た。トクガワは歓喜の声を上げた。
「トヨトミ! どうしておまえがここに……そうか俺の仕事を引き継いだのか」
今日は午後から出張が組まれていた。歴史が書き換えられたことで室長だったトヨトミが平社員になり、抜けたトクガワの業務を引き継いだのだ。
「えっ、何、あなた。どうして私の名前を知っているの」
困惑するトヨトミの両腕をがっちりと握り締め、トクガワは早口でまくし立てた。
「思い出してくれ、トヨトミ、俺だ、トクガワだよ。二つ前の歴史では室長、一つ前の歴史では平社員。いつもおまえと一緒に働いていたじゃないか。おまえの中には夢のような記憶がまだ残っているはず。そこからトクガワという男を抽出してくれ」
「トクガワ……知らないわね」
トヨトミは冷たく言い放った。以前の歴史では学生時代からの知り合いで同じ職場の同僚であっても、この歴史では完全な赤の他人だ。トクガワに関する記憶もほとんど残っていないのだろう。
「トヨトミ、思い出してくれ。今日の昼まで一緒にデータ管理室で働いていたじゃないか」
「ちょっと、どうして私の名前だけじゃなく職場まで知っているの。あなた何者? もしかして私のストーカー? ああ、わかったわ。きっと私の美しさがあなたにこんな大胆な行動を取らせてしまったのね」
話が本筋からどんどんずれていく。何とか自分がここの職員だったことを証明したい、その思いに囚われ過ぎたトクガワは、無我夢中でここ数カ月の出来事を口にしてしまった。
「そうじゃない。聞け、トヨトミ。全てはメインフレームへの不正アクセスから始まったんだ。最初の発生は三月七日午前零時。それ以降、メンテナンスの度に不正アクセスは繰り返された。そして四月末に発生したCPUへの微弱入力信号によってサーバは書き換えられ、歴史は別のものに置き換えられた。今日の正午にも同じ微弱入力信号が発生していたはずだ。それによってまた歴史が変わったんだ。調べればわかる。嘘じゃない、本当だ」
「あなた……」
トヨトミが棒立ちになっている。丸くなった目でトクガワを眺めている。宇宙人でも見るような目付きだ。
「警備員さん、この人を捕まえて!」
トヨトミが叫んだ。同時にトクガワは床に転がされた。うつ伏せになったトクガワの背中をトヨトミが馬乗りになって抑え付ける。
「痛ててっ、いきなり何をするんだ、トヨトミ」
「お黙りなさい。あなたハッカーでしょ。サーバ管理室からはバグだとかノイズだとか日和見的な回答しか返ってこなかったけど、私は絶対誰かがハッキングしていると思っていたのよ。あなた馬鹿ね。盗み出した情報を自分から喋っちゃうなんて。自白しているのと同じじゃない」
「違う。俺は仕事で知ったんだ。データ管理室で働いていたんだからな」
「あなたみたいな職員はいません。あっ、警備員さん、警察にも通報してね」
「くそっ、なんてこった」
トクガワは後悔した。あまりにも不用心だった。普段のトクガワなら職務上知り得た秘密は、たとえ相手が警察であっても簡単に口に出したりはしない。トヨトミを説得したいと思う気持ちが強すぎて我を忘れてしまったのだ。
「トヨトミ、誤解だ。俺の話を聞いてくれ」
「お話は警察が詳しく伺うそうです」
二名の警備員が駆け寄ってきた。両側から腕を掴んでトクガワを立たせる。トクガワはもう抵抗しなかった。屈強な警備員二人を敵に回すだけの気力は残っていない。
「汚い鞄ね」
トヨトミが床に落ちているバックパックを拾い上げた
「妙に重いわね。何が入っているのかしら」
しばらく中を覗き込んでいたトヨトミは鉄の箱を取り出した。トクガワが叫ぶ。
「それに触るな!」
「何よ、犯罪者が偉そうに」
「いいから触るな!」
「何事ですか、騒々しい」
エレベータホールから女の声が聞こえた。トクガワの体から力が抜けた。地獄で仏に出会ったような気持ちだ。声の主を見るまでもない。オダだ。
受付の壁に掛かっている時計は午後五時を過ぎている。終業時刻を過ぎたのでオフィスを出て降りてきたのだ。トクガワはオダに向かって叫んだ。
「オダさん、俺だ! トクガワだ! 覚えているか!」
「トクガワ……ああ、トクガワ君。覚えています」
助かった、とトクガワは思った。警備員の手が緩む。オダが腕を離すよう目配せしたのだ。腕を振り解いたトクガワはトヨトミに近付き、鉄の箱を掴んだ。
「返せ」
「あら、オダちゃんのお知り合いだったの」
トヨトミも気勢をそがれたのか素直に箱を渡した。トクガワはオダを見た。身成りも態度も派遣社員の時とは比較にならないほど堂々としている。信長が天下を取ったのだ。オダも室長くらいにはなっているのだろう。
「よかったよ、やはり君だけは前の歴史の記憶を覚えていてくれたんだな」
「前の歴史? 何のことかしら」
オダは怪訝な表情をしている。思い掛けない返答を聞かされトクガワの顔に焦りの色が浮かぶ。
「今、君は俺を覚えているって言ったじゃないか。書き換わる前の俺を覚えているんなら、前の歴史も覚えているはずだろう」
「何の話をしているの。私は高校時代のトクガワ君を覚えているって言ったのよ。もう十五年くらい経つかしら。あなたは施設を出た後、音信不通になってしまったのだから」
「ああ、そうか。そういう意味か……」
トクガワはこの歴史の記憶を探った。何もかも最初の歴史の逆だった。母子家庭だったのはオダではなくトクガワ。母が死に、施設へ預けられ、高校三年で父が刑務所から出所、その後は働くだけの人生。かつてオダが体験した辛苦をトクガワが背負っている、それが新しく書き換わった歴史だった。
「でも、少しくらいなら前の歴史の記憶が残っているはずだ。オダさん、これを見てくれ」
トクガワは鉄の箱から紙を取り出した。オダが書き、二人で署名した書き換わる前の歴史の記録。だがそれを見せてもオダの表情に変化はない。
「一五七三年、武田と織田が岐阜にて交戦、両者とも討ち死に……これが前の歴史とでも言いたいのかしら」
「そうだ。そしてこれを書いたのは君だ。オダさん、よく見てくれ。この筆跡、そしてこの署名。俺の署名もある。最初の歴史改変があった四月末、俺たち二人はこの文書を作った。そして書き換えに伴う電波の影響を受けないように鉄の箱に入れて保管した。俺の考えは正しかった。この紙は歴史改変の影響を受けていない。オダさん、思い出してくれ」
オダは紙を手に取り、しげしげとそれを眺めた。小首を傾げている。
「言われてみれば私の字に似ています。でも私が書いたという証拠はないのでしょう」
「君が書いたんだ。高校三年の時、互いにプレゼントしあったボールペン。君はまだそれを持っていた。そのボールペンでこの紙に書いたんだ」
「それはおかしな話だわ」
オダは肩に掛けたバッグを下ろすと、中からボールペンを取り出した。トクガワが叫ぶ。
「そうだ。そのボールペンで書いたんだ。間違いない!」
「違うわ、よく見て。これはシャープペンよ」
「えっ……」
トクガワは再び今の歴史の記憶を探った。高校三年の二人。誕生日はトクガワのほうが早くやってきた。オダは多機能ボールペンをくれた。そのお返しに自分が贈ったのは……
「シャープペンだ。この歴史の俺はシャープペンをプレゼントしている……」
トクガワは唇を噛んだ。迂闊だった。そこまで読み切れなかった。これでは文書の作成にオダが立ち会ってくれた意味がない。
「そうよ、トクガワ君。あなたは嘘をついた。これは明らかにボールペンの文字。それを書いたのは私ではないわ。もう十年近くボールペンを握っていないのだから。嘘をつくような人の言葉なんてとても信じられないわ」
「違う、嘘じゃない。歴史が変わったからだ。前の歴史では確かに君はボールペンでこの紙に字を書いたんだ」
オダはもうトクガワの言葉を聞いていなかった。シャープペンをバッグにしまうと、手に持っていた紙を床に捨てた。
「な、何をするんだ。歴史改変の大切な証拠を」
「こんな紙切れが証拠になどなるわけがないわ。どうせ私の高校時代の手紙でも見ながら筆跡を真似て自分で書いたのでしょう。目的は何? 就職の斡旋、それともお金。見損なったわトクガワ君。あなたがこんなことを仕出かすなんてね。警備員さん、後はそちらにお任せします」
「オダ……」
トクガワは再び両側から腕を掴まれた。エントランスから警官が入って来る。
「署までご同行願います」
トクガワの頭は真っ白だった。もう何も信じられなくなっていた。歴史も、オダも、自分自身も……
「これで一件落着ね。よかったわあ」
トヨトミの声が聞こえる。後ろを付いて来るオダの足音が聞こえる。目の前にはパトカーがとまっている。ドアが開かれた。耳元で誰かが囁いた。
「ごめんなさい……」
それはオダの声のように思われた。が、トクガワにはもうどうでもよいことだった。警官に腕を掴まれたままトクガワが後部座席に乗り込むと、全てを隔絶するようにドアが閉まり、自動運転のパトカーは静かに走り出した。
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