書き換えられた過去 置き換えられた今
見苦しい格好で窓に張り付くトクガワを見ても、トヨトミは冷静さを失わない。穏やかな口調で命令する。
「トクガワ君、速やかに窓から離れなさい。それでは外から丸見えですよ。通行人に見られでもしたらどうします。このセンターの品位がガタ落ちではありませんか」
「ないんだ、名古屋城がないんだ。どこへ行ってしまったんだ!」
「名古屋城?」
注意を無視して叫び続けるトクガワ。トヨトミは少し考えたが、すぐに気が付いた。
「ああ、那古野の城のことですか。あれは豊臣家が大阪に幕府を開く前に廃城になったでしょう。歴史記録センターに勤めていながらそんなことも忘れてしまったのですか、トクガワ君」
「豊臣家が幕府を開いただって。違う、幕府を開いたのは徳川だ。徳川家康が三百年続く泰平の世の礎を築いたんだ。そして西国への備えのために那古野城跡に名古屋城を築いたんだ」
「トクガワ君……」
トヨトミの表情が変わった。道端に捨てられた哀れな子猫を見るような目付きになっている。
「私のミスです。君が弱音を吐かないので今日までずっと過重な業務を押し付けてしまっていたのですね。これほど精神を病んでいたとは……気付けなかった私を許してください。今日は帰っていいですよ。ああ、それから一応言っておきますが徳川家は三河の田舎大名に過ぎません。誇大妄想もほどほどにしてくださいね」
「う、嘘だろう……そんなことって」
信じられなかった。昨日まで確かに名古屋城はあった、自分は平社員ではなく室長だった、アパートではなくマンションに住んでいた……だが、それを証明する手段がない。
トクガワは窓を離れると、昨日までトヨトミが座っていた座席に着いた。帰宅するつもりはない。こんな気持ちのまま安アパートに帰っても悶々とするだけだ。だからといって仕事をする気にもなれない。
「こうなったら俺自身の手で原因を暴いてやる」
トクガワは端末の電源を入れた。最初に行うのは戦国時代の歴史がどうなっているのか、その確認だ。
「何てこった。トヨトミの言った通りじゃないか。俺の知っている歴史とは全然違う」
一五六〇年までは変わらなかった。大きな変動があったのは旧暦五月に発生した今川勢の尾張侵攻だ。これまでトクガワの頭にあった歴史は次のようなものだった。
『清洲城に立て籠もる織田信長を討ち取った後、今川義元はそのまま京を目指す。しかし美濃に入ったところで斎藤家の抵抗に遭い、更に北近江から浅井、南近江から六角が援軍として加わったため敢え無く討ち死に。この機に乗じて松平元康が独立し三河、尾張を手中にすると、一気に領土を拡大し、一六〇三年、江戸に幕府を開く……』
三百年続く泰平の世の始まりだ。これこそが正しい歴史のはずなのだ。だが、今モニターに映し出されている歴史はまったく違っている。一五六〇年旧暦五月、二万の兵を引き連れた義元は二千の兵しか持たぬ信長によって、桶狭間で討ち取られてしまったのだ。
「あり得ない。いくら奇襲だったとしても、二千が二万に勝つなんて、話が出来過ぎている」
その機に乗じて松平家が独立したのはいいが、領土拡大はままならない。
一方信長は着実に勢力を広げ、一五七三年、遂に紀伊を除く畿内をほぼ手中にする。が、前年、将軍義昭の呼び掛けに応じて西進を開始した武田信玄が美濃に達すると、京で義昭が挙兵。呼応して浅井、朝倉も挙兵し一気に美濃へ侵攻する。
桶狭間の再来を期して織田勢は岐阜城から打って出る。本陣を目指した信長はあと一歩のところで憤死。しかし信長に付き従った光秀が信玄を討ち取ったため、織田、武田両軍は大混乱に陥る。織田は一旦岐阜城へ退却。武田も上洛を諦め帰途に就く。
これを知った浅井、朝倉も退却を始めたが、今が好機と見た羽柴秀吉は信忠を旗頭に浅井、朝倉を撃破。そのまま信長の後継者となって領地を拡大。豊臣と改姓した後、一六〇三年、大坂に幕府を開く。一方家康は一五六六年に徳川と改姓した後は鳴かず飛ばずで、三河岡崎の小大名のまま明治を迎える……これが今モニターに映し出されている歴史だ。
「この歴史の改変と今の俺の状況を結び付けて考えてもよいのだろうか。幕府を開いた武将が家康から秀吉に変わった。だから室長も俺からトヨトミに変わった、そんなことが起こり得るのか?」
信じがたい現象を前にして頭を抱えるトクガワの脳裏に、ふと、一カ月半前にコンピュータルームで聞いたオダの言葉が浮かんだ。
『根元が腐っていたら枝葉がどんなに頑張っても立派な果実は実らない。信長が天下を取らない限り今の私は幸せになれないのよ』
「信長……」
トクガワはこれまで毎日目を通してきたメインフレームのアクセスログを表示させた。最初のアクセス日時は一五五二年三月七日。その後は一カ月ごとにアクセスを繰り返している。そして最終アクセス日時は一五六〇年四月。信長が死すべき運命の二カ月前。この時代ではメンテナンスのあった昨晩午前零時。
「もし、この不正アクセスがハードのバグではなく、誰かが故意に行ったのだとしたら、一番怪しい人物は……信長」
あまりにも馬鹿げた発想だ。五五〇年も前の人間が現代のサーバにアクセスするなどまるでSF小説だ。だが現実にトクガワの目の前で馬鹿げた現象が起きている。歴史が改ざんされ、室長だったトクガワが一夜にして平社員になっているのだ。
「そうだ、信長の仕業だとすれば全ての辻褄が合う」
これまで不正アクセスされたファイルは、平成時代の小説を除けば全て織田家もしくは尾張周辺に関するものばかりだ。戦国の世を生き抜くために記録されている歴史上の出来事を盗み見ていた、と考えれば動機も説明がつく。なによりアクセス日時が信長の生きた十六世紀なのだ。彼の他に考えられない。
「だが、どうして今回に限って歴史と違う行動を取ったのだ」
信長が不正アクセスを開始してから八年間、織田家に不利な出来事は何度も発生している。にもかかわらず信長はそれを受け入れてきた。何が起きるかわかっているのなら容易に対処できたはず……
「先に何が起きるかわかっても変えることはできなかった、ということか……だが、今回は違った。信長は自分の運命を変えた。どうやって変えたんだ」
トクガワは午前零時前後のメインフレーム関連の動きを徹底的に調べ始めた。アクセスログだけでなく、ハードの入出力信号の記録、データ量……やがてCPU周辺回路に微量な均一振動電流が発生した痕跡を見付けた。時刻はメンテナンス開始の午前零時だ。
「これは何だろう。雷でも落ちたのか」
それ以上の詳しい情報はデータ管理室では入手できない。ハードを扱うサーバ管理室にメールを打ち、詳細な解析を依頼した。
「もしこの微弱信号が信長の仕業だったとしたら何が考えられるだろう。これまではずっとファイル閲覧しか行わなかった。しかし今回は別の目的のために信号を送信した。信長が目論んだ別の目的、考えるまでもない、織田家滅亡を避けることだ。その手段として選んだのがサーバ上のデータを書き換えることだったとしたら……」
それもまたトクガワの推測でしかなかった。データを書き換えることによって現実の歴史を変える、馬鹿げた推論だ。だが、このセンターの役割を考えるとあながち見当違いとも言えない。
ここに保管されているデータは全て日本国政府が真と認めたものばかりだ。歴史的記録に関しては我国最高の権威を誇っている。従って歴史を扱うほとんど全ての教育機関、研究所、情報提供施設などは、このセンターに自動更新登録をしている。
このセンターのデータが更新されれば、登録している全施設の記録も自動的に更新されるのだ。今、「信長、義元」で検索を掛ければ、返ってくる結果は全て「桶狭間で信長の勝利」となるだろう。このセンターが日本の歴史を作っている、と言っても過言ではないのだ。
「おっ、早いな。返って来た」
サーバ管理室から返事のメールが届いた。トクガワは目を通す。
『微弱なため詳細な解析は不可能。データ量、約百バイト。周波数、五ヘルツ以下。データ内容の分析は不可。CPUが誤作動を起こした可能性は否定できない。結論、メンテナンスに伴うノイズと考えられる』
「誤作動の可能性は否定できない、か」
得られた結果は満足できるものではなかった。が、CPUに何らかの異変があったのなら、信長がデータを書き換えたという仮説と矛盾はしない。
トクガワは自分の考えをまとめ始めた。報告書に仕上げてトヨトミに見せるのだ。一カ月前から続く不正アクセス、午前零時の微弱入力信号、全てトクガワの仮説を裏付ける事実ばかりだ。
「室長、俺の報告書を見てくれ」
完成した報告書を送信する時、トクガワは声を掛けた。一刻も早くトヨトミに読んでもらい感想を聞きたかったのだ。
「……」
トヨトミはじっと端末のモニターを見ている。トクガワの報告書を読んでいるのかどうか、トクガワの席からではわからない。これ以上何もする気になれないトクガワは、室長席を睨みながら返事が来るのを待った。
「トクガワ君、来なさい」
返事は端末ではなく声でやって来た。トクガワは席を立ち室長席へ向かう。
「俺の報告書、読んでくれたか」
「読みました。これ、本気で書いているのですか」
「もちろんだ。三月七日から今日までの間に発生した全ての事象が、俺の仮説によって説明できる!」
トクガワは熱い口調でそう答えた。トヨトミは眉一つ動かさず、モニターを見ながら淡々と話す。
「信長が五五〇年の時を越えて不正アクセスをした。織田家滅亡を免れるために本日午前零時、このセンターのデータを書き換え、それにより歴史が塗り替えられた。影響は現在にまで及び、本来室長だった君が平社員になり、平社員だった私が室長になった。要約するとこうなりますね」
「そうだ」
胸を張って答えるトクガワを見てトヨトミは右手を額に当てた。眉間には皺が寄っている。
「しかしサーバ管理室の解釈は違いますよね。三月から続いている不正アクセスはメンテナンスに伴うバグ。深夜零時の微弱信号はノイズ。そもそも君が書き換えコマンドだと主張する信号のデータ量は僅か数百バイト。サンプリング周波数は五Hzしかありません。お祭りの太鼓囃子じゃあるまいし、ノイズしか考えらえないでしょう」
「いや、それは送信しているのが信長だから、そんな信号になってしまっているんじゃないかと……」
「五五〇年前に生きている信長がどうやって現代のサーバにアクセスして、どうやってデータを書き換えるのですか。その方法を教えてくれませんか」
「そ、その方法は……」
教えられるはずがなかった。その方法がわかっているのなら、とっくに何らかの対策を取っている。何も答えられずに立ったままのトクガワへ、トヨトミは穏やかに声を掛ける。
「トクガワ君、現実逃避はいけません。君の中には本当に自分が室長だった記憶しかないのですか。平社員として頑張っていた記憶はないのですか」
「そ、それは……」
トクガワは言い淀んだ。実は自分が平社員として生きてきた記憶が
ただし後者の記憶は極めて希薄だ。それは目が覚めた瞬間に忘却してしまう夢に似ている。とっくに夢から覚めていい頃なのにまだ忘れきれず頭に残っている、後者の記憶はそんな感じなのだ。トクガワは答える代わりに同じ質問をトヨトミに投げてみた。
「君はどうなんだ、トヨトミ。俺が室長だった頃の記憶はないのか」
「やれやれまた呼び捨てですか。そうですね……」
トヨトミは目を閉じてしばらく考えると、きまりが悪そうに答えた。
「不思議ですね。ずっと以前に見た夢の中で、室長だった君を見たような気がする……」
「夢じゃない、それは現実だ」
「いえ、夢です。夢でなければおかしいでしょう。だって現実は私が室長なのですから」
「ああ、室長もですか」
いきなり背後から声が聞こえてきた。副室長の女子職員だ。
「実は私もトクガワさんが室長をしている夢を見た気がするのです。今朝の茶番劇のインパクトが相当強かったせいでしょうか」
「……そうか。二人とも俺の夢を見てくれてありがとう」
トクガワは自分の席へ戻った。二つの記憶が混在するのはトクガワだけではない、他の者たちも同様なのだ。それがわかっただけでもトクガワは救われた気がした。
『どちらの記憶がより鮮明か、それが俺と他者との違いなんだ。どんな者でも夜の眠りから覚めた瞬間、それまで見ていた夢を捨てて現実の自分に沿った記憶に置き換える。それと同じように歴史が書き換えられた瞬間、俺以外の者は本来の記憶を捨てて、書き換えられた歴史に迎合する記憶に置き換わったんだ。しかしそれならなぜ俺は忘れなかったのだろう。俺がここまで鮮明に以前の記憶を保持している理由……』
「ひょっとして薬師如来の御加護のおかげか、はははっ」
自分の推論が可笑しくなって最後は声に出して笑ってしまった。
だが、あながち間違いとも言えない。夢の中で「恐れていたことが起きてしまった」と言われたからこそ、眠りから覚めた直後の自分に疑いが持てた、そうも言えるのだ。
「トクガワさん、お昼ですよ」
先ほどの副室長の声だ。時計を見ると正午を過ぎている。
「やれやれ。本来の業務は手つかずのまま半日過ごしてしまったな。これじゃ間違いなく一生平社員だ」
トクガワはオフィスを出た。最上階にある社員食堂へ向かうためエレベータに乗る。
「あっ、待って」
閉じかけたドアの向こうで声がした。開のボタンを押すと、女性がひとり走り込んできた。
「ありがとうございます」
「君は……」
センターは受付を除いて私服だが、ほとんどの職員はスーツを着用している。入って来た女性もありふれた紺のスーツ姿だ。だがトクガワにとってその人物はありふれてはいなかった。一カ月半前、コンピュータルームで十数年ぶりに再会した女性、オダだった。
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