地下魔境の魔鏡

「ここじゃ」


 洞窟の行き止まりで立ち止まった三人の前には、廃城跡で見たのと同じ、乳白色の光を放つ竹の節のような円環があった。ただしこちらの輪はかなり大きい。歩いてきた洞窟とほぼ同じ大きさ、幅も高さも十尺以上ありそうだ。


「この向こうに魔王がると申すのか」

「魔王は居らぬよ。あ~、何と言ったかな、『先読みの法』じゃったか、その技を使える空間があるのじゃ」

「ならばさっそく行くとしよう」


 信長はせつ文様が刻まれた右手を円環に当てた。目の前にある円環は大きさこそ違うが廃城跡とまったく同じ。ならば同じ動作で通り抜けられるはず、そう考えたのだ。だが、


「妙だな。何も起こらぬ」


 乳白色の円環は開かない。体も通り抜けられない。信長は手を当てたまま女に訊いた。


「婆、どうすれば中に入れる」


 女は答えない。装束の袋から十枚ほどの札を取り出して一枚一枚確認している。信長を無視する女の態度に腹を立てた光秀が語気を荒げる。


「これ、婆。無礼であろう。殿にお答えせぬか」

「ああ、これじゃこれじゃ」


 女は光秀も無視である。頭に血が上った光秀は女から札を奪い取ろうと腕を伸ばした。が、その腕はすぐ信長に掴まれた。『ここは婆に任せろ』信長の目が無言でそう語り掛けてくる。光秀は腕を引っ込め女に問うた。


「婆よ、その札は何だ」

「この先へ進むための札じゃ。途中にあった火壁同様、この円環も不正アクセスを防ぐために仕掛けられた魔族の罠のひとつでな。パスワードがなければ開かぬのじゃ」

「はすわど、とな?」

「そうじゃ。戸を破るための呪文のようなものじゃな」

「戸を破る……」


 光秀は目の前の巨大な円環を見た。それは輪の形をした戸に見える。それを破るための呪文……


「そうか、わかった。輪の戸をするための呪文、つまり『輪戸わど』という意味だな」

「なるほど、『破す輪戸』か。さすが光秀、良き思い付きだ。して、婆よ。それもせつ札のように手のひらに刻むのか」

「いんや。厄介なことにこの呪文は定期的に変わるのじゃ。よってその時の設定に応じて札も変えねばならぬ。じゃがな、ここの魔族は少々横着者でな、同じ呪文を使い回しておるのじゃ。それゆえ十枚も用意しておけば事足りる。本日の呪文はこれじゃ」


 女は選び抜いた札を高く掲げると目の前の円環にそれを押し当てた。


「おおっ!」


 円環は一瞬眩い光を放った。が、すぐにその輝きは収束した。恐る恐る目を開いた三人の前には行く手を阻む障壁はもう何もなかった。


「入りますぞ」


 女が中へ入る。続いて信長、最後に光秀。


「魔境の最深部にしては暗黒に支配されておらぬな。昼の地上の如き明るさではないか」


 信長は己の立つ空間を見回した。これほど広大な内部を持つ建造物は見たことがなかった。天井は巨木のように高く、床は荒野のように広がっており、上下左右の壁は金属光沢を放っている。壁の表面には輝く透明な球体が無数に取り付けられ、この空間全体を照らしている。


「あれは……魔鏡か」


 それだけでも目を見張る光景であったが、信長と光秀を特に驚かせたのは中央に立つ巨大な鏡であった。波のない水面のように澄んだ銀色をした鏡が部屋の真ん中に置かれている。


「ほっほっ、魔鏡か。面白い例えじゃな。さりとて魔の技によって知り得ぬものを映すのじゃから、魔鏡と言えなくもないのう」


 三人は魔鏡の前に立った。二十畳はあろうかと思われる薄い平板。それを支える枠と台。魔鏡の構造は極めて単純だ。


「婆よ、魔王の言っていた先読みの法はこの鏡を使うのか」

「そうじゃ」

「どのように使う」

「ふむ、そうじゃな……百聞は一見に如かず、実際に使ってみるとするか」


 女は魔鏡の前に立ち右手をその表面に当てた。そして一語一語をはっきり区切って言葉を発した。


「応永年間 京の都」


 言い終わるや魔鏡には文字と映像が映し出された。


 元年 足利義満隠居、一休宗純出生、肖像画、

 四年 金閣寺上棟、北山鹿苑寺絵図、

 八年 義満遣明使派遣……


 まるで川の流れのように、今から百五十年前の出来事とそれに関する映像が魔鏡の表面に映し出されていく。女が自慢げに鼻を鳴らした。


「ふふん、どうじゃ、驚いたか。おぬしらが読みやすいように文字は行書と草書を使っておるぞ。表示を止めたければ触れている右手を魔鏡から離せばよい。一旦停止する」


 光秀は言葉を失って魔鏡を食い入るように眺めている。一方の信長は冷めた目をしている。


「これは足利の世の出来事か。ここまで詳細な記述と絵図はみたことがない。これだけでも十分価値はある。が、過去の出来事を知ったところで何の意味もない。これでは先読みの法とは言えぬ」

「これは単なる一例じゃ。次はおぬしがやってみればよい。ほれ、右手を当てて見たいものを申してみよ」


 信長は言われるままに右手を魔鏡に当てた。深く息を吸い、一語一語はっきりと言葉を発する。


「天文年間 織田弾正忠家」


 言い終わるやそれまでの表示は消え、新しい表示に切り替わった。


 元年 信秀織田他家と争い講和。

 二年 信秀蹴鞠会開催。

 三年 嫡男三郎信長誕生(幼名吉法師)……


 先ほどと同じように織田家に関する出来事が映像も交えて表示されていく。己に関する事とあって信長も真剣な眼差しで魔鏡を見詰めている。

 表示は過去から現在へと進んでいく。やがて天文二一年三月以降、つまり現在より後の世の出来事に差し掛かると、光秀の興奮は最高潮に達した。


「な、なんたること、大殿が亡くなってひと月も経たぬうちに鳴海城の山口殿が今川方に寝返るとは……おお、八月には清洲織田家家老の坂井殿が当家に反旗を翻すのか。ゆ、許せぬ」

「うむ、これが誠ならば由々しき事態だ。先読みの法、確かに役に立つ」


 思いも寄らぬ信長の褒め言葉を聞かされ、女は満更でもない表情になった。が、それはすぐ渋い表情へと変わった。魔鏡の表示が天文二一年九月で止まってしまったからだ。直ちに光秀が文句を言う。


「何故止まる。殿は天文年間と仰せになったのだぞ。今年の九月で天文は終わり次の元号に変わると言うのか」

「やはり半年か。こればかりはここに来るまで確かめようがなかったからのう。まあ聞け」


 女は悪びれることなく話を続ける。


「まず魔鏡について話しておこうかのう。この鏡は今より約五百五十年後の世までの全ての記録を映し出せる。歴史の記録だけではない。絵や図、書物、動画、様々な記録を映し出せるのじゃ」

「ならば何故九月で止まった。魔王の力とはその程度のものなのか」

「そうじゃな。残念ながらその程度のものであったようじゃ。魔鏡のある空間に入った我らはデータ化され解析されている。そして歴史に関する記録表示のみ、自動的に半年先までに制限されるのじゃ。おぬしたちは天文二一年三月に生きる者。よってその年の九月までの表示しか許されぬ。こればかりは解除の方法が見付からなんだのじゃ。許せよ」


 女は頭を下げた。これまでの高飛車な態度が嘘のようだ。この点に関しては女自身も忸怩じくじたるものがあるのだろう。

 素直に頭を下げられてはさすがの光秀も何も言えない。黙ったまま突っ立っていると信長が女の肩に手を置いた。


「婆、顔を上げられよ。半年先の世が知れるのなら先読みの法としては十分だ。あの輪は上弦の月が昇ればまた現れるのであろう。ならばひと月経てば新たにひと月先の世が見られるようになる」

「おお、殿。仰るとおりです。婆よ、拙者からも礼を言うぞ。良き技を与えてくれた。魔王にもよろしく伝えてくれ」

「ふっ、現金なものじゃて。まあよい。この技、うまく役立てて必ず天下を取るのじゃぞ」


 女は顔を上げた。これまで通りの傲慢不遜な表情に戻っている。


「さて、これで婆の用は済んだ。最後に細かい注意事項じゃ。先読みの法の使い方はわかったじゃろう。アクセス文様が刻まれた右手を魔鏡に当て、知りたい事柄を声に出せばよい。他にも色々機能はあるが、おぬしたちにはこの機能だけでも手に余るはずじゃ。後は使いながら学べ」

「拙者たちは何日でもここに留まれるのか」

「いんや、この空間に留まれる時間には制限がある。魔境の上に四つの数字が表示されておろう。あの数字が零零零零になると自動的にここから排出され、元の廃城跡へ戻る。零が四つ揃う前に戻りたければ大声で『ログオフ』と叫ぶのじゃ。一瞬で廃城跡へ戻れる」

「ろくおう……第六天魔王にいとまいをするという意味で『六王ろくおう』か。あの長い登り道を歩かずに戻れるとは、大助かりですな、殿」

「うむ。六王……一度、その顔を拝んでみたいものだ」

「ああ、会えるといいね」


 これまで同様、言葉に関する二人の勘違いはそのまま放置する女である。


「続けるよ。この婆は上弦の月が昇るたびにここへ来るわけじゃない。今日以降はおぬしら二人だけでここを訪れることになろう。じゃによって札は預けていく。これが火消しの札。パスワードの札。大切に使うのじゃぞ。ああ、それから手に刻まれたアクセス文様は消えぬ。洗っても落ちぬ。他人の目にも映らぬ。しかし合戦で切り落とされたりすれば使えなくなる。くれぐれも注意するのじゃぞ」

「心得た」


 光秀は札を受け取り懐に仕舞う。女は肩の荷が下りたように清々すがすがしい表情になった。


「さて、婆は一足先にログオフさせてもらうとするかのう」

「待て、婆」


 信長が女を引き留めた。


「何じゃ。まだ訊きたいことがあるのか」

「先ほど申したな。魔境は数百年先の世の全ての記録を映し出せると」

「言った」

「書物、後の世の読み物、それも映し出せるのか」

「できますじゃよ」


 光秀は頭を抱えた。日頃信長は馬に乗り、水遊びをし、柿を食いながら往来をブラついたりするが、実は結構な読書家なのである。

 特に好んで読むのが王朝絵巻物。源氏物語は言うに及ばず、恋歌満載の和泉式部日記、色男業平の恋愛模様伊勢物語など、男女の色恋沙汰を扱った読み物が特に大好きなのだ。


「数百年後の読み物……実に興をそそられる。この魔鏡で読めるのだな」

「歴史に関係ない書物ならば読めるじゃろうな。ただしその書物の中で今より半年後以降の出来事に触れた箇所があれば、その部分は空白となって表示されるはずじゃ。読み物に描かれた後の世の道具、暮らしぶり、天変地異などの記述は、全て省略もしくはこの世の言葉に置換されると思うが、それでも良ければ読めばよかろう」

あいかった」


 信長は右手を魔鏡に当てると威厳に満ちた気品のある声で叫んだ。


「数百年後、男女の恋愛与太話」


 たちまち魔鏡には縦書きの文字が表示された。もちろん行書、草書体である。信長の表情は一気に明るくなった。


「おお、これが後の世の読み物か」


 女もしばらく眺めていたが、ほどなく興味なさげに魔鏡から視線を外した。


「よりによって、こんな小説が出てしまいおったか」

「婆よ、あれはどのような読み物なのだ」


 通俗的な読み物には興味のない光秀が訊くと、女は吐き捨てるように答えた。


「あれは平成の頃に流行はやったラノベという小説じゃ。光源氏のように多くの女に好かれ、日本武尊やまとたけるのように神懸かり的な無敵さを誇り、安倍晴明のように反則的な技を持つ男を主人公にした読み物。しかも異世界モノときたか。まあ、異世界ならば現世の歴史は関係ないからな。空白にせねばならぬ部分も少なくなる。それゆえ選ばれたのじゃろうて」

「なんたる斬新さ、なんたる奇抜さ。数百年後の世にはこのような読み物があるのか。天晴あっぱれなり!」


 信長は完全にラノベなる読み物に魅了されてしまったようだ。女も光秀も思わず眉をひそめる。


「さて、婆は帰るぞ。おぬし、明智十兵衛光秀とか申したな。信長の天下取り、くれぐれも頼むぞ。ログオフ!」


 大声で排出の呪文を唱えた女は立ちどころに消えてしまった。残された光秀は信長とその前にある巨大な魔鏡を眺める。文字の羅列は留まることを知らぬかのように表示されては消えていく。


「殿、読み物はそれくらいになされては如何ですかな」

「しばし待て」

「まだ織田家の出来事しか見ておりませぬ。天文年間の斎藤家、天文年間の今川家も調べておいたほうが良いのではないですか」

「読み終わったら調べる。しばし待て」


 今の信長には織田家の存亡も天下取りも知った事ではないようだ。光秀は嫌な予感に襲われた。もし、次の上弦月の日もその次の日もこんな有様だったとしたら……


『せっかく授けてもらった先読みの法が意味をなさなくなってしまうではないか……いや、いやいや、早合点は禁物だ。信長様に限ってそのようなこと、あろうはずがない』


 心の中で否定しながらも不安な気持ちを抑えられない光秀であった。

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