開く節婆との再会

 永禄三年二月八日、今年二回目の上弦月の日、信長君と光秀はお供の秀吉を連れて廃城跡へ向かっていた。


「光っちゃん、今回は魔鏡に何を映し出すつもりなの」

「拙者は太平記のような読み物を好んでおりますゆえ、後の世の軍記物語などを読んでみとうございますな」


 光秀の目的は変わっていた。織田家滅亡が決定的になった今、その後の出来事を知ったところで何の意味もない。これからは信長君のように己の楽しみのために魔鏡を使おうと決めたのだ。


「おや、人影が見えますぞ」


 馬の後ろを走っている秀吉が声を上げた。文字の書き写しで目を酷使している二人と違って、秀吉は遠目が利くのである。


「ほう、珍しいですな。あんな廃城を訪れる者がおるとは。萬松寺の僧であろうか」


 光秀は目を凝らして人影を見た。近付くにつれ姿がはっきりとしてくる。その正体がわかるや信長君が歓声を上げた。


せつ婆だ。うわ~、すっごい久しぶり!」


 信長君は手を振った。婆は腕を組んだまま微動だにしない。信長君は馬を下り両手を広げて婆に駆け寄った。


「懐かしいねえ。八年間何をしていたの」

「この馬鹿者ども!」


 いきなり婆が絶叫した。気合いの入った声で恫喝され、抱きつこうとした信長君は驚いて転びそうになった。後からやって来た光秀が背後から支える。


「これは開く節婆、ご無沙汰でござる。さりとて殿に向かって馬鹿者呼ばわりとは、言葉が過ぎるのではないか」

「馬鹿者だけでは言い足りぬじゃ。おぬしたち、今日まで何をしてきたのじゃ。いや、何故今日まで何もしてこなかったのじゃ」

「あれ、もしかして怒っているの?」


 信長君が訊くまでもなく婆はかなり怒っている。手当たり次第に掴みかかり、ぶん殴って吹っ飛ばしそうな勢いを感じる。


「申している意味がわからぬ。婆よ、何をそんなにいらついているのだ。八年ぶりの再会なのだ。少しは喜び合おうではないか」

「そうだよお、これでも食べなよ」


 信長君が炒り豆の袋を差し出した。いつものおやつだ。婆は軽蔑の眼差しでそれを見ると光秀に訊いた。


「おい、この豆の袋を持っている腑抜けた男、ひょっとして信長なのか」

「肯定したくはないが、その通りだ」


 苦渋の返答をする光秀。婆は少し冷静になったようだ。


「信長がこんな有様になっておるとはのう。実に嘆かわしい。八年経ってもまだ尾張一国しか支配できぬのも当然じゃ。おぬしたち、半年先に何が起きるかわかっていながら、何故歴史を変えようとしなかったのじゃ。清洲や岩倉の一族を滅ぼして織田家を弱体化させ、義父の道三を見殺しにし、今川を好き放題にさせているではないか。このまま五月の織田家滅亡も受け入れるつもりなのか。天下取りの野望はどこへ行ったのじゃ」

「えっ!」


 これには信長君も光秀も驚いた。婆は魔王の眷属。魔王同様、最初から天下を取らせる気などなかったに違いない、二人ともそう思い込んでいたのだ。


「それは違う。婆よ、話を聞いてくれ」


 光秀は説明した。これまで何度も魔鏡が示す運命を変えようとしたができなかったことを。事が起こるたびに己たちが何をし、何が変わり、何が変わらなかったかを事細かく説明した。婆の顔が見る見る蒼褪めていく。


「ば、馬鹿な……変わらないじゃと。何をしようと魔鏡の示す通りになってしまうじゃと。織田家滅亡は確定事項じゃと。ならば何のために婆はここへ来たのじゃ」

「きっとさあ、開く節婆も魔王に騙されていたんだよ。そうやって婆が絶望する姿を見たかったんじゃない。僕らと同じように」

「もしそうだっとしても婆は諦めぬ。織田家が天下を取ってもらわねば困るのじゃ。婆の人生を変えるためにも……」


 婆は考え始めた。空を仰ぎ、地を見下ろし、目を閉じ、目を見開き、思い詰めた表情でじっと考え込んでいる。

 光秀は複雑な気持ちだった。これほど真剣に考えてもらえて有難いと感じるとともに、何故こうまで婆が織田家の天下にこだわるのか不思議でならなかった。


「こうなれば書き換えるしかないじゃて!」


 突然婆が叫んだ。秀吉と一緒に炒り豆を食べていた信長君は、驚いて豆が喉に詰まりそうになった。


「ケホケホ、いきなり大声を出すのはやめてよ、婆ちゃん」

「豆など食っている場合ではない。我らには魔鏡の示す未来しかないというのなら、魔鏡が示す歴史を別の歴史に書き換えるのじゃ。さすれば書き換えた通りの未来がやってくる」

「なんと! そんなことができるのでござるか」

「オドロキ!」


 婆の言葉に耳を疑う光秀。腑抜けの信長君もちょっとだけビックリしている。


「うむ、自信はないができるはずじゃ。が、そのためには二月ふたつきほど準備をせねばならぬ。光秀、再来月の上弦月の日までに太鼓の名人を探し出し、ここへ連れて参るのじゃ。早打ちを正確に、等間隔で、長時間打ち続けられる者をな。その者も共に魔境へ入ってもらう。」

「そ、それなら拙者にお任せくだされ」


 秀吉が手を挙げた。言うまでもなく秀吉に太鼓の才能はない。が、出世のためなら何でもするのが秀吉の信条である。それに一度入りたいと思っていた魔境へ連れて行ってくれると言うのだ。こんな機会を逃す手はない。


「婆、この者でも構わぬか」

「太鼓で正確に時を刻めるのなら誰でも良い。それからもうひとつ、どうすれば織田家滅亡を防げるか、此度の今川勢の猛攻を凌げるか、その戦略を練ってくるのじゃ。おぬしが考えた出来事をそのまま新しい歴史として書き換えてやる。ただし史実から離れ過ぎたり、不自然過ぎる出来事は駄目じゃ。自動的に弾かれてしまうでのう。無理がなく、かつ、確実に勝てる戦略、それを立案してくるのじゃ。わかったな、光秀」

「心得ました。必ずや名案を捻り出して見せましょう」

「よし、ならば婆は帰る。後はおぬしたちの好きにせい。四月にまた会おうぞ」


 婆は右手を円環に当てた。姿が消える。


「あれ、一人で行っちゃった。光秀、僕らも行こうよ」


 続いて信長君と光秀が魔境に入ると、そこには婆の姿はなかった。早々とログオフしてしまったのだ。


「せっかく八年ぶりで会ったと言うのに、せっかちな婆でござるな」

「僕らにとっては八年ぶりでも、婆にとっては二月ふたつきも経っていなかったのかもしれないよ。全然年を取ってなかったもん」

「はて、左様でしたか。気付きませんでしたな」


 光秀は首を傾げる。信長君は鋭い目付きで婆の消えた洞窟の奥を見詰めていた。

 結局その日はいつも通りに信長君は小説を読み、光秀はあれこれと軍記物を読み漁って、今川打倒の戦略を練って過ごした。


 あっという間に四月がやってきた。清洲城の家臣たちは織田家滅亡まで残り一月ひとつき余りとなり、毎日が戦々恐々の日々である。

 そんな中、少し希望を抱き始めている信長君、光秀、秀吉の三人、そして今回は秀吉も魔鏡に入るので馬番の恒興を連れて、上弦の月が昇る四月八日、いつものように廃城跡へと向かった。


「これ、藤吉郎よ。太鼓打ちの件、おぬしに任せて大丈夫なのだろうな」

「大船に乗ったつもりでいてくだされ。毎日朝昼晩と猛稽古したのです。今では手ではなく足を使っても同じ拍子で打てましてございます」


 秀吉は自信満々だ。あれから太鼓名人に弟子入りして、毎日血の滲むような稽古をしてきたのだ。手のひらは豆だらけになったが、太鼓の腕は名人と同じ、いやそれ以上ではないかと思わるほどに上達した。


「やっと来たようじゃな。遅いぞ」


 廃墟前では円環を背にして開く節婆が立っている。三人は馬から下りた。今回は大事な役目があるので秀吉も馬に乗ってきたのだ。


「婆様、愛用の太鼓とばちを持参しました。太鼓打ちはこの木下藤吉郎秀吉にお任せください」

「婆を失望させるでないぞ。右手のひらを出すのじゃ」


 秀吉が右手を開いて差し出すと、婆はせつ札を押し当てた。文様が刻まれ札は消える。秀吉が目を丸くして驚いている。


「こ、これで拙者もお三方と同じく魔境へ入れるようになったのでございますか」

「ああ。じゃが残念ながら今回の一度だけじゃ。少々時間がなくてな、一度きりの札しか作れなかったのじゃ」


 今回限りと聞いて嬉しさが半減する秀吉であったが、それでも魔境に初めて入れるのだ。興奮は収まらない。


「では参ろうか。恒興、馬を頼むぞ」

「はい。御武運を」


 四人は円環をくぐって魔境に入った。大騒ぎの秀吉を最後に歩かせて、三人は洞窟を進む。


「光秀、今のうちに聞いておこうかのう。どのようにして今川を倒す」

「されば拙者の戦略をご覧くだされ」


 光秀は絵図面を取り出した。尾張から三河にかけての地形が描かれている。


「敵が我が方へ攻め込んでくる場合、相手を自陣に深く誘い込んでから戦いを挑むのがいくさの定石でござる。さりとて今川勢は二万。これに大高城の松平勢と鳴海城の岡部勢が合流すれば、もはやこちらに勝ち目はござらぬ。そこで今川本隊だけで沓掛城から大高城へ移動を開始する十九日、この時に奇襲を仕掛け、義元の首を取るのでござる」

「そううまく事が進むかなあ、光っちゃん。向こうは二万もいるんだよ」

「二万の兵全てが義元を守っているわけではないのですぞ。移動しているとなれば長く伸びた状態となるはず。ちょうど途中に桶狭間という起伏の激しい場所がござる。ここに差し掛かったところで大雨が降り、移動は一時中断。休息を取っている義元目掛けて殿が単騎で襲撃し首を取る。これが拙者の考えた戦略、名付けて『桶狭間合戦』でござる。如何かな、婆よ。特に不自然な箇所はなかろう」


 歩きながら話を聞いていた婆は無言で頷いた。光秀は上機嫌だ。この一月、兵法書を読み漁って必死に考えた甲斐があったというものだ。説明に使った絵図面を巻き戻しながら光秀はにんまりと笑った。が、婆は全てを了承したわけではなかった。


「しかしじゃな、ひとつだけ無理がある。単騎で突っ込んで義元の首を取るような芸当、今の腑抜けな信長にできようはずがない。どこの夢物語じゃ、まったく」

「そうだよお。戦の仕方なんて忘れちゃったよお」

「むむ、それはそうでござるが……」


 光秀としては、やはり主君である信長君に手柄を立てさせてやりたいのだ。だからこんな筋立てにしてしまったのだ。だが、婆の言うように今の信長君には荷が重すぎる。


「仕方がない、首を取るのは別の者に致そう。誰がよいであろうな」

「どうせならさあ、名もない雑兵に討ち取られるのがいいんじゃない。これまで義元ちゃんには散々苛められたからね。すっごく惨めな最期にしちゃおうよ」

「となれば、馬廻りか、小姓か……」

「ああ、そこまで詳しく決めずともええ」


 婆は聞きたくないと言わんばかりに手を振った。


「決めるのは大雑把な筋道だけでよいのじゃ。一度に書き換えるデータ量には限界があるのでな。ある程度の流れが決まれば、それに合わせて向こうが自動的に詳細を決定してくれる」

「左様か。あいかった」


 手柄を挙げるのが信長君でないのなら別に誰でもよいと光秀は思っていたので、婆の言葉も素直に受け止めた。


「ところで光秀よ、ちと相談なのじゃが」


 いつも高飛車な婆にしては珍しく神妙な顔付きで話し掛けてきた。


「何でござろう」

「義元亡き後、大高城に入っておる松平元康はどうなるのじゃ」

「それはまあ討ち死にでござろうな。大将亡き後おめおめと逃げ帰るより、潔く散ったほうが武士としての面目も立ちましょうし」

「なんとか助かる手立てはないかのう」


 光秀は驚くとともに疑念のようなものを感じた。それは婆の言葉としてはあまりに不自然だった。婆は織田家の天下取りのために魔王から遣わされたのだ。松平家の安泰などどうでもよい話のはずだ。


「あれれ、もしかして婆って、元康ちゃんが大好きなのかな」

「べ、別にそんなわけではないが……」


 信長君にツッコまれた婆は、これまた珍しく口籠っている。


「ねえ、光っちゃん、せっかくだから婆の頼みを聞いてあげようよ。そうだなあ、元康ちゃんを岡崎城で独立させてあげるってのはどうかな」


 信長君が突拍子もないことを言い出した。元康は今川勢の先鋒となって尾張に攻め込む松平家の当主である。光秀は絶対反対だ。


「松平殿をでござるか。我らの敵ですぞ。今川と共に滅ぶのが正しき道でござろう」

「そうなんだけどさあ、まだ竹千代って呼んでいた頃、光っちゃんと三人で一緒に遊んだ仲じゃない。それに元康ちゃん、絶対今川家を嫌っていると思うんだ。今までだって命令されて渋々戦っていただけなんだよ。もし独立したらきっと僕と手を結んで友達になってくれるはず。ねえ、婆、こんな感じでどう」

「ああ、結構じゃ。元康が生きていればそれでよい」

「殿……」


 光秀は感無量だった。かつての信長君は冷酷だった。「十兵衛、情にほだされるでない」そう言われたこともあった。だが、今の信長君は別人のように情に厚い。理の塊のような信長君もよかったが、情に溢れた今の信長君のほうが、よほど人間っぽくて魅力がある。

 光秀は魔王を嫌っていたが、今の信長君を作ってくれたのは魔王だ。その功績だけは認めてやろうと思った。

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