戦国ハッカー信長君

沢田和早

 

第一話 信長君の家督相続 一五五二年

尾張の大うつけ


 何の前触れもなくその男は入ってきた。


 三百を超える役僧やくそうの読経だけが響く厳粛な本堂。朱塗りの扉がけたたましい音をたてて勢いよく開かれた。参列者が一斉に顔を向ければ、そこに立つのは葬儀には場違いな出で立ちの男。

 伸び放題の髪を束ねただけの茶筅髷ちゃせんまげ

 何日も着続けて衿と袖が垢黒く汚れた湯帷子ゆかたびら

 腰には太刀脇差と共にぶら下がった瓢箪、火打ち袋。

 そして袴は履かず泥と砂に塗れた剥き出しの両脚。


「若君、そのようなお姿で……」


 付家老の平手は慌てて立ち上がると、扉の前で仁王立ちしている男に駆け寄った。


 ここは萬松寺ばんしょうじ。四日前に亡くなった尾張守護代家臣織田信秀の葬儀が行われているその最中に、喪主にして次の当主となる人物、織田上総介かずさのすけ三郎信長が遅参しただけでなく、およそこの場には不釣り合いな格好で姿を見せたのである。

 先代から織田家に仕え、信長には傅役もりやくの任を担ってきた平手にとって、このような無様ぶざまな主君の姿を一同に晒すことは、己の不甲斐なさを証明するのと同じ意味を持っていた。


「ささ、一旦、外に出られませ」


 腕を掴んで本堂の外へ出ようとする平手を、信長は無言で振り払った。それどころか振り払った腕の袖を半脱ぎにして、肩を露わにしたのである。無様な風采はますます見苦しくなった。


「若……」


 平手はもう何も言えなかった。信長の気質はよくわかっている。無理強いをしても態度を硬化させるだけだ。


「これが次の当主とは……」

「平手様も気苦労が絶えぬことよ……」


 耳に届けと言わんばかりの囁き声があちこちから聞こえる。それらの雑音には委細構わず信長はズカスカと本堂を進み、家臣に囲まれた己の座にドカリと腰を下ろした。その隣に平手が座る。これだけの騒ぎがありながら僧たちの読経は少しも乱れない。信長は静かに経を聞く。


「殿、織田家の当主となられたからには、己の立場をわきまえなされ」


 着座からしばらくして小声で話し掛けてきたのは、信長の真後ろに座る明智十兵衛じゅうべえ光秀である。今から四年前、美濃の斎藤家と婚姻関係を結ぶに当たり、斎藤家当主利政の娘帰蝶きちょうに従って尾張へ来たのだ。

 信長より六才年長であるが不思議と気が合い、まるで竹馬の友のような付き合いをしている二人である。


「気遣い無用だ、十兵衛」


 信長もまた小声で応じると、なかなか終わりそうになり読経を聞きながら、元服から今日までの六年間を思い返した。


 上総介信長を名乗ったのは十三才の時。その翌年には三河大浜で二千の今川軍を相手に八百の兵を率いて初陣を果たした。

 が、十五才で婚姻が決まり、その翌年の三月に帰蝶を尾張に迎えて以後は、野人の如き自由気ままな日々を過ごした。やがて世間からは「尾張の大うつけ」と評され始めた。


『うつけにでもならねば織田家嫡男などやっておれぬわ』


「若、焼香にお立ちくだされ」


 隣に座る平手が小声で信長を促した。知らぬ間に役僧の読経は終わり、喪主の焼香を待つばかりとなっている。信長は無言で立ち上がると片肌脱いだ格好のままで仏前に立った。


「結構な置き土産を残していってくれたものだな、おでい


 信長は己が置かれた状況をよく理解していた。尾張に対する今川家の執着は衰えることはないはずだ。今、信長が居城としている那古野城は本来今川家の城だった。父信秀が奸計を弄して城を乗っ取り、城主今川氏豊を京に追い遣ったのである。少なくともこの城を奪還するまで今川勢は侵略の手を休めてはくれないだろう。


 北の斎藤家とは同盟関係にあるが、それは帰蝶の父である利政が存命なればこその話だ。すでに五十を超えている以上、いつ病に倒れてもおかしくはない。親類縁者や家臣団との不和を考慮すれば、謀反によって倒される可能性もある。そうなれば織田家との絆は完全に切れると言ってよい。


 対外関係だけでなく織田家家中にも火種は燻ぶっている。信秀が逝った今、弟信行との家督争いが起こるのはもはや避けられぬ。また清洲織田家との確執が再燃するのも必定。


 これだけの置き土産を残して逝ってしまった父の身勝手さを思うと、信長の身中には煮えたぎるような怒りが湧いてくるのである。その怒りに操られるかのように信長は右手を上げると、焼香台に手を伸ばした。


「な、何をなされます、若君!」


 平手が声を上げた。無理もない。焼香台に置かれた抹香は親指、人差し指、中指の三指で摘むのが正しい作法である。が、信長は握り飯を掴むかの如く手のひらを広げると、多量の抹香をむんずと引っ掴んだ。


 本堂に集う誰もが我が目を疑い言葉を失った。あろうことか信長は手に握った抹香を信秀の位牌に叩きつけたのだ。


「ふっ、この世こそ地獄よ」


 舞い上がる黄土色の粉塵の中で信長は己の絶望を見た気がした。四面楚歌を遥かに凌駕する逆境に立たされた今、この先に待っているのは修羅の道しかないように思われた。満身創痍になりながらも前のめりに倒れるまでこの道を進むしかない、信長がそう決断した時、その声はやってきた。


 ――力を欲するか、信長。


 それはにわかに降り始めた土砂降りの雨に似ていた。忽然として天から降ってきた声に驚く信長。いや、声とは言い難いものだった。耳から聞こえてくるのではなかった。頭の中に言葉が直接入力されている、そのように感じられた。


『……空耳か』


 初めはそう考えた信長であったが、さほどの時を経ずに再度同じ言葉が頭に響いた時、それは現実に聞こえている言葉なのだと認識せざるを得なかった。信長は返答した。声には出さず頭の中の言葉でその言葉に対峙した。


『力とは何だ。おまえは何者だ』


 ――我は第六天の魔王。欲界の最高位である他化自在天を統べる魔王なり。もしおまえが望むのなら、我が力を貸してやってもよい。


 信長は神も仏も信じてはいない。それらは死を恐れる人々が作り出した方便に過ぎぬと断じていた。だが父信秀はどちらも信じていた。伊勢の神宮に銭を献上し、自らの菩提寺も建立している。その父が僧から受けていた説話を幼少の信長も聞かされていたので、仏法に関する知識はある程度は持っていた。


『第六天魔王……仏道修行を邪魔する魔王であろう。仏を信じぬわしには似合いの魔王だな。だが、その魔王がどうして力を貸してくれるのだ』


 ――それは今おまえが言葉にしたであろう。仏を信じぬおまえが統治者となれば、この国から仏門徒衆は一掃される。それは我が望みにも叶うこと。


『ほう。つまりこの信長が覇者となるために力を貸してくれるというのか。その見返りに魔王、おまえは儂に何を望む』


 ――何も望まぬ。織田家の世となれば仏道もまた廃れているのだからな。


 悪くない申し出だと信長は思った。神も仏も信じぬ信長にとっては、仏教徒の弾圧など飛び回る小蠅を叩き潰すほどの罪悪感も抱かぬ行為だ。魔王の力を借りて己の置かれた逆境を切り抜けるのもまた一興である。


「若君、いかがなされた」


 平手が声を掛けた。抹香を投げつけた後、信長は仏前で仁王立ちになったまま微塵も動こうとしないのだ。


「……」


 信長は何も答えない。凍り付いたように立ち尽くしたままだ。

 本堂がざわつき始めた。いよいよ気が触れたか、そんな囁き声さえ聞こえてくる。一同には魔王の声は聞こえない。信長の声も聞こえない。今、信長が何をしているのか、理解できている者は一人もいないのだ。


『いいだろう、第六天魔王。おぬしの申し出、有難く引き受けよう。して、貸してくれるのはどのような力だ。どうすればその力を得られる』


 ――我がおまえに与えるのは先読みの法。後の世に残された記録に接触できる法である。この寺の南に我が眷属けんぞくを一人遣わしている。詳しくはその者に訊くがよい。信長、我を失望させるでないぞ……


「はっ!」


 魔王のその言葉が終わった途端、信長の五感は日常へと復元した。目に映るのは萬松寺本堂の仏前。耳に聞こえるのは参列者の騒めき。舞っていた抹香の粉塵は全て床に落ち、甘さと苦さが混じった香の匂いだけが微かに漂っている。先ほどまでの魔王との会話はまるで遠い過去の記憶のようだ。


「殿、ご気分でも悪くなされたか」


 光秀の声だ。信長は横を向いた。気遣うような表情で光秀がこちらを見ている。平手の呼び掛けにも応じようとしない信長を心配して座を立ち、信長の傍らに身を寄せたのだ。


「十兵衛……」


 幼少の頃から信長には心を許せる友はいなかった。戦国下克上の世とあっては、親兄弟の仲であってもいつ裏切りいつ裏切られるか知れたものではない。安易に人を信じるなど以ての外である。

 しかし帰蝶と共に尾張に来た明智十兵衛光秀と出会ってから、その考えは変わった。光秀とは不思議と気が合うのだ。ここまで気を許せる人物を信長は他に知らなかった。もしや二人の前世は、現世のみならず来世まで契りあった夫婦だったのではないか、そんな妄想に駆られることすらあった。信長は光秀の腕をしっかりと掴んだ。


「おまえも来い、十兵衛」

「ど、どこへ参られるのですか」

「寺の南だ」

「南? そこに何があるのです」

「知らぬ。行けばわかる」


 問答無用の勢いで信長は本堂を歩き始める。腕を掴まれている光秀は引きずられるように歩きながら抵抗を試みる。


「お待ちくだされ、拙者はまだ焼香を上げておりませぬ」

「おまえの焼香は儂が上げておいた。気にせず付いて参れ」


 こうなると逆らっても無駄である。光秀は覚悟を決めて信長に従う。

 本堂に集う参列者と役僧の呆れた眼差しを浴びながら、信長と光秀は本堂の扉を開けた。まだ肌寒い三月の風が本堂の中へ吹き付ける。その風に逆らうように二人は境内へ下りると、降り注ぐ晩春の陽光の中を南へ歩き始めた。



 


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