萬松寺南の廃墟

 亀嶽林きがくりん萬松寺は信秀が二十九才の時に建立した織田家の菩提寺である。開基に当たっては、尾張国山田郡の雲興寺うんこうじから八世住持の大雲永瑞だいうんえんずい大和尚を招いた。この和尚は信秀の伯父である。


「この寺を訪れるのは初めてではないものの、何度歩いても迷いそうになります」


 信長の後に付き従って歩く光秀は境内を見回した。萬松寺は那古野城の南、そして今は廃城となった古渡城の北にある。寺域は五万五千坪という広大なもので、境内には本堂を中心にして七堂伽藍が配されている。信秀が如何に極楽浄土を切望していたか、その思いの強さが伝わってくるようだ。


「こうして境内を歩いておりますと、松平家の若君が思い出されます。息災に暮らしておられましょうか」


「竹千代か。懐かしいな」


 岡崎城松平家の嫡男竹千代は、かつて織田家の人質として信秀の庇護下にあった。当初は熱田加藤家の屋敷に留め置かれたが、信長の兄信広との人質交換の前に、短い期間ながら萬松寺で過ごしたことがある。


 居城である那古野城の目と鼻の先ということもあって、信長は時折寺を訪れ八才年下の竹千代をからかったり、芋や餅を食わせたりして遊んだ。もちろんその折には必ず光秀が同行した。尾張に来て数年で信長の信頼を得た光秀は、あるじより六才年長ながら小姓に近い役回りを任されていたのだ。


「あの者がこの寺を去って三年余り。聞けば、岡崎へは戻れず駿府へ送られたとか。元服前の幼い身の上を考えれば哀れな話でございますな」

「哀れとは片腹痛い。竹千代は我らが敵だ。長ずれば今川勢と共に尾張へ攻め込んで来ようぞ。十兵衛、情にほだされるでない」


 信長の冷淡さはいつも通りだと光秀は思った。だが間違ってはいない。乱世を生き抜くために必要なのは時勢の読みを誤らぬことだ。

 人の持つ感情は時として正しい読みの妨げとなる。となれば極限まで情を捨て理による判断に身を委ねることが最上の策と言える。信長の人並み外れた無情さは、裏を返せば乱世の覇者たるべき並々ならぬ資質の現れだとも言える。


『やはりこのお方は只者ではない』


 信長に仕えられた己の幸運を光秀は深く噛み締めた。


 やがて二人は寺境の南端に達した。樹木の向こうには廃城となった古渡城の堀が見える。


「誰も近寄らぬ廃城か。魔が住み着くにはお誂え向きの場所かもしれぬな」


 信長は本堂で聞いた魔王の言葉を反芻した。

『寺の南に眷属を遣わしている』

 魔王はそう言っていた。向かうべきは境内の南側ではなく、寺境を越えた南の場所なのかもしれぬ。となれば古渡城址こそ、その地に相応しい。


「行くぞ、十兵衛」


 鬱蒼と茂る樹木を抜け、荒れ果てた廃城へ二人は向かう。外堀に架かる橋を渡り、内堀に架かる橋に足を踏み入れた瞬間、生温い風が吹きつけてきた。同時に二人の目の前に忽然と一人の女が姿を現わした。


何奴なにやつ!」


 それまで信長の後ろに付き従っていた光秀は、女の姿を認めるやすぐさま前に出て刀の柄に手を掛けた。このような廃城に人が、しかも女がたった一人で、見たこともない奇妙な装束を身に着けて立っているのだ。光秀が怪しむのは当然である。

 だが、信長は違った。気色ばむ光秀の肩に手を置き落ち着くように目で合図すると、橋の向こう側に立つ女に言った。


「おまえが魔王の眷属か」

「ああそうさ。あんたが信長かい」


 女の返答を聞いて再度光秀の頭に血が上る。


「そなた、口の利き方を知らぬのか。軽々しく殿の名を呼ぶでない」

「よせ、十兵衛。儂は構わぬ。魔王も信長と呼んでいたのだからな」

「魔王?」


 事情は知らぬ光秀は首を傾げる。信長は構わず話を続ける。


「眷属にしては随分と年増だな。魔の者でも年を取るのか」

「と、年増……」


 女はあからさまに顔をしかめた。光秀は改めて女の顔を眺めた。目尻に皺が寄り、肌の張りはなく、頬は幾分弛んでいる。どう若く見積もっても三十は超えていそうだ。


「ほほう、殿の仰せの通りだ。そなたは紛うこと無き大年増。いやいやひょっとすると四十を超えているのではないか。となればばあと呼ばねばならぬな」

「ば、婆!」


 女のしかめっ面がさらに歪む。魔王の眷属と名乗る割には妙に人間っぽい。


「十兵衛、からかうのはほどほどに致せ。人に非ずと言っても女子おなごには違いないのだからな。それで、婆よ。如何にすれば力を貸してもらえるのだ」


 女を気遣う振りをして呼び名を婆に確定させてしまった信長を見て、やはりこのお方にはまだまだ敵わぬと光秀は思った。


「ああ、はいはい、婆で結構じゃ。付いて参れ」


 女はすっかり開き直ってしまった。二人に背を向けて本丸の中心へと歩いて行く。歩きながら女は尋ねる。


「ところで信長よ。一緒に付いて来るその男は何じゃ。力を貸すのはおぬし一人のはずじゃったが」

「この者は儂が最も信頼を寄せる男。明智十兵衛光秀だ。たとえ魔王の力を借りたとて、この者なくして覇者となることはできぬ。それゆえ同行させた。儂を利用してこの国から仏門徒衆を追い払いたいのなら、この者にも同等の力を貸せ」

「と、殿……」


 事情を知らぬ光秀には、信長のこの言葉もほとんど理解不能であった。だが、己に対する信長の気持ちだけははっきりとわかった。感激のあまり落涙しそうになる光秀である。


「ふん、そうかね。ならばそれで構わぬわ。一人も二人も大して変わらぬでな」


 女はさして気にも留めていないようだ。再びトボトボと歩き始める。ほどなくして三人は崩れた本丸櫓の前にやって来た。女の足が止まる。


「ここじゃ」

「ここ? 壊れた櫓があるだけではないか」


 信長は周囲を見回した。役立ちそうなものは何もない。ここにいる三人が場違いに思えるほどの廃墟だ。もし今何か事が起こったとしても、大勢の曲者くせものに襲われたとしても、誰も気付かず誰も助けには来られぬ場所、そこに己は立っている……信長の背筋に冷や汗が流れた。


「謀られたか!」


 信長は刀の柄に手を掛けた。ここに来るまで気が付かぬとは迂闊にもほどがある。何もかもが己を抹殺するための策略であったのだ。


「もしや、儂が聞いた声は僧たちが発していたのか」


 魔王などという絵空事を信じた己が愚かであった。本堂の僧たちも加担していたに違いない。力を貸すなどという甘い言葉で人気のない場所へおびき出し命を奪う、それが本来の目的であったのだ。

 企てたのは弟信行の家臣たちか、あるいは清洲織田家の者たちか。いずれにしても十兵衛を連れてきたのは不幸中の幸いだ。多勢に無勢でも二人いれば死地を切り抜けることもできるはず……信長は叫んだ。


「十兵衛、油断するな。我らは嵌められたぞ!」

「承知!」


 相変わらず事情の飲み込めぬ光秀であったが、ここまで取り乱した信長を見れば事の重大さは訊かずとも知れる。刀の柄の手を掛けたまま鋭い目付きで周囲に目を光らせる。


「やれやれ」


 いきなり殺気立った二人の様子を見て女は呆れ顔をした。


「猜疑心の強い男だと聞いてはいたが噂通りじゃのう。これ、刀から手を離せ。だまし討ちにされるとでも思っておるのか」

「このような何もない場所に連れてきて、まだそのような戯言たわごとを申すか」

「何もないとは何じゃ。よく見ろ、そこにあるじゃろうが」


 女は崩れた本丸櫓を指差した。信長と光秀は柄に手を掛けたまま指差す場所を見遣った。


「こ、これは……」


 二人の口から同時に驚きの声が上がった。六年間放置されて柱は折れ、壁は剥落し、屋根は傾いて地に落ち、朽ちた木材と割れた瓦が散乱する廃墟の只中に、乳白色の光を放つ幅五尺ほどの円環がぽっかりと浮いているのである。


「かくも面妖なる術は見たことも聞いたこともない……婆、おまえの仕業か」


 信長は妖怪変化を見るような目付きで女を睨み付けた。光秀はあり得ぬ光景を前にして言葉を失っている。奇妙な風采の女はニヤリと笑った。


「これは婆の仕業ではない。魔王の仕業じゃ。それにな、あの円環はいきなり現れたのではない。おぬしたちがここへ来る前からああして宙に浮いておったわ」


 女の言葉を聞いて光秀が夢から覚めたように喋り始めた。


「嘘だ。ここに足を踏み入れた時、目にしたのは崩れた本丸櫓のみ。あのような輪はなかったはず」

「あったのじゃ。おぬしたちには見えなかったのじゃな。道端の石ころも観ようと思わねば見えぬであろう。それと同じじゃ。ここにあるのは櫓の廃墟のみで他に何もあるはずがない、そんな思い込みがおぬしらの目を曇らせていただけじゃて」

「いやいや、待たれよ。まだ言い分がある」


 光秀が納得のいかぬ顔で女に詰め寄る。


「拙者は半年ほど前、この地を訪れたことがある。那古野城内の門扉修理に使えそうな材木を探しに来たのだ。その時、このような奇怪な輪はなかった。間違いない」

「当たり前じゃ。この円環が姿を現わしたのは今日が初めてじゃからな。円環が姿を現わす前にここへ来ても何もないに決まっておるじゃろう」

「ならば何故円環は今日現れたのだ。半年前に姿を現わさず、今日姿を現わした理由は何だ」

「従者は主人に似ると言うが、おぬしの猜疑心も相当なものじゃな。面倒な奴らじゃ」


  女はうんざりした顔で深い息を吐くと答えた。


「半年前のことは知らぬじゃ。全ては魔王の仕業なのじゃからな。ただし今日になったのには訳がある。婆の世では一日二回しか円環を開けぬ。正午と正子しょうしじゃ。その時刻はこの世における上弦の月の日になる。それ故に円環は今日開き、婆もここへ来たのじゃ」

「魔王、それに上弦の月だと……」


 確かに今日七日の月は上弦だ。女の言葉に矛盾はない。さりとて納得もできない。しかも先ほどから何度も聞かされている魔王とは何のことだ……言葉に窮した光秀は信長を見た。己の動揺とは裏腹に信長は平然としている。まるでこれが当たり前だと言わんばかりの表情だ。


『信長様は知っておられるのだ。何もかも承知しておられるのだ。でなければこのような奇怪なものを見せられて冷静にしていられるはずがない』


 こうなれば信長に訊くしかない。何故ここへ来たのか、何故己をここへ連れて来たのか、その真意を確かめたい、光秀はそう思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る