(2)「ご機嫌よう。ミズ・カナール。娘さんの血は美味しかったかい?」
「ここだ」
とある一軒家の前。青い顔でガスが振り返る。
イズキは家を観察した。煤けた煉瓦造りの、周囲の比べるとやや大きな家だ。
家の周りには花壇が据えられていたが、冬のためか何も植えられていなかった。春先には、おそらく花が咲くのだろう。
気配は、なかった。
静かだった。息を潜めるように、何かを隠すように。
不自然な静寂に、逆にイズキは確信した。
「いるね」
ごくあっさりとラリーが断定する。軽やかな、いっそ楽しげな口調で。
「はいはい、案内ご苦労様」
ラリーがまたガスの首根っこを掴んでひょいと動かした。
吸血鬼が躊躇いなく扉に手をかける。イズキは素早く違いの位置関係を確認した。
イズキとラリーの間にはやや距離があるから、開けて何かが起こってもラリーが対処できるだろう。しかし、ラリーのすぐ近くにガスが無防備に立っている。
「ラリー、待て」
青年の制止を、ラリーは聞かなかった。
「お邪魔しますよ」
イズキは咄嗟に日本刀に手をかけた。
警戒するハンターをからかうように、あっさりと扉が開いた。攻撃は、こない。
ただ、血臭が。
噎せ返るような、血の香りが。
煮込んだ鍋の蓋を開いたように、
熟れきった果実を潰したように、
むわりと広がった。
「……良い匂いだね」
眉を寄せるイズキの前で、ラリーが呟くように言った。
「なんだかお腹がすいてきちゃうなあ。アーシュリーに来る前にリズノワールに寄れば良かった」
心なしか声が弾んでいるのは、ティモシーの血の味を思い返しているからだろうか。イズキはラリーに近づいた。
「タブレットは持ってるだろ」
イズキの声かけに、吸血鬼は振り返って頷く。
「もちろん。紳士の嗜みだもの」
纏わりつく匂いを押しのけるように、ラリーが完全に扉を開け放った。風の谷間に血の匂いが滞る。
やはり気負いなく家に足を踏み入れて、ラリーは言った。
「おはよう。地獄を届けに来たよ」
入ってすぐは、少し広めの空間になっていた。
真ん中に長方形のテーブルがあって、幾つかの椅子が並んでいる。食卓兼、社交場といったところだろう。
部屋の角に観葉植物と、右側の壁に暖炉。逆の壁は本と装飾品が並んでいる。
床には臙脂色の絨毯が敷かれていた。臙脂を汚す赤も。
イズキは赤色を見つめて、視線を動かした。投げ出された小さな体と、その横に座り込むもの。
「ミスター・カナール」
ひょいと、ラリーが無遠慮にそれを示した。
「そちらに転がっているのはミス・カナール、そちらで座り込んでいるのはミズ・カナールの認識で問題ない?」
がたりと、イズキの後ろで音がする。二人に続いて家に入ったガスが勢いよく扉に寄りかかったのだ。
「あ、あぁ……」
ラリーへの返事、というよりも。
その喘鳴はただ、絶望を吐き出しただけの呻きのようだった。
「ドロシア……イザベル……」
娘の名前は、イザベルか。イズキは頭の中で情報を更新して、イザベル・カナールを確認する。
イザベルは、もはや確認する必要もないほど徹底的に死亡していた。首から肩にかけてがごっそりと抉れて、体のほとんどが真っ赤に染まっている。
年の頃は五歳か、もう少し上だろうか。流れ出た少女の血が、絨毯の色を深くしているのだ。
見開いた眼が、驚愕と恐怖を生きていた当時のまま止めていた。
嘆息して、イズキは胸の中で祈りを呟いた。吸血鬼の前で、人間はあまりに無力だ。
「……あぁ、いやだな」
吐き出して、イズキは口元を歪めた。子どもが食われるのは、どうしたって苦手だ。
ちらつく、青。
沈黙する、人間二人に斟酌することなく――。
「ご機嫌よう。ミズ・カナール。娘さんの血は美味しかったかい?」
悪意も敵意もない声で、問いかけたのはラリーだった。
ゆらり、と。
人形じみた仕草で、イザベルの前に座り込んでいた女性が顔を上げた。口から胸元にかけてが、イザベルの血で真っ赤に染まっている。
「派手に食ったねえ。《盟約》を破った以上――」
指揮者のように指を振って、歌うように。
「話が通じるならひとまず収容所、通じないままこのまま討伐対象だ。どうする、ミズ・カナール?」
「こ、殺すのか!」
背後で、引き攣った声を上げたのはガスだった。イズキが低く説明する。
「一度暴走した吸血鬼は、際限なく人間を襲い始めますよ。被害者を増やすわけにはいきません」
「待ってくれ、彼女は、ドロシアは――」
ひくり、と喉を引き攣らせて。
「わたしの、妻だぞ……!」
「あなたの娘さんを殺したのも、あなたのお嫁さんだけどね。良いよ、僕たちの邪魔をする?」
振り返って、ラリーはにこりと愛想良く笑った。
「だったら僕たちは、君が食べられるのを黙って見ているだけだ。そのあとに、僕たちはミズ・カナールを殺す。家族三人、仲良くあの世に行くかい?」
「ラリー、言い過ぎだ!」
堪らず、イズキはラリーを叱責した。
「ガス・カナールは被害者だぜ。いかなる理由だろうが被害者を追い詰める行為は正当化しない!」
「……君って本当に、」
小さく、
ほんの小さく、ラリーが笑った。
「テディの契約者だよねえ。ときどきびっくりするくらい、妹にそっくりだ」
その声が思いの外柔らかくて、イズキはラリーから視線を逸らした。
座り込んだドロシアを見下ろす。女は闖入者と、自分が殺した娘を交互に見比べている。
明らかに、知能が落ちている。恐らくもう言葉は通じない。
彼女は、討伐対象だ。
「あいつは、」
心の中で方針を固めて、日本刀を握る。じり、と足を動かす。
「俺の、」
言葉が止まった。
何と称するのが正しいのだろう。契約者か、家族か、友か。
ふ、と――。
視線の先で、はたと。
我に返ったみたいに。
ドロシアが瞬いた。瞬いて、きょとりと娘を見下ろして、瞳が赤く染まって、
かぱり、と冗談のように口が開く。
「ひっ、」
ガスの小さな悲鳴。
イザベルにさらに噛みつこうとするドロシアに、イズキは踏み出した。同時に日本刀が鞘を走る。
ラリーを追い越しざま、ハンターは言った。
「――パートナーだからな」
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