(7)「決めた。お前を俺のものにする」
――ひどい、ゆめをみた。
薄らと眼を開けたイズキは、自嘲の笑みを浮かべた。
自分が見たのが過去の夢であることは、すぐに判った。いま以上にものを知らなくて、ちっぽけな子どもだった頃の記憶。
だってテディは、もういない。イズキに戦い方を、心構えを、学舎の勉強を、全てを教えてくれた少女は、もうどこにもいないのだ。
青い色の吸血鬼は、自分の契約者を守って死んでしまった。
「テディ、」
「他の吸血鬼の名前を呼ぶなんて随分だな」
ぞわっ、と全身の皮膚が粟立った。
知らない男の声だった。イズキは寝る前の状況を思い出す。
魔術の負荷と傷を受けて疲労困憊の体を引きずって庁舎まで戻って、それから。何の身支度も整えられないまま、意識を失うように眠りについたはずだった。
周囲を見回す。煤けたダマスク柄の壁紙に、テーブルには火が消えたままの燭台が置かれている。変わりない、庁舎の一室。
窓から差し込んだ月光が、薄らと部屋を照らし出している。イズキは息を飲んだ。
「……!」
カーテンは閉めていたはずだ。月の眩しさを覚えているから、それは確かなはずだった。
警戒とともに顔を逆に向ければ、窓際に影が佇んでいた。
逆光になって顔は見えない。白い髪だけが、開け放たれた窓から入り込む風に流れている。
誰だ、などとイズキは問わなかった。
「
「イズキ・ローウェル」
唱えかけたイズキの舌が、凍りついたように止まった。
縛られたのだ、というのはすぐに気づいた。名前を掴んだだけで相手を縛るほどの力を持つ存在は限られる。
混血貴族種、下手をすればそれ以上か。
あっという間に、イズキの口の中が干上がった。頼みの日本刀は、ベッドの脇に立てかけられている。
指が、動かない。魔器まで手が届かない。
「あんまり魔術を使いすぎるなよ。特に詠唱短縮は負担が大きい」
案じるような言葉を口にしながら、吸血鬼がゆっくりとイズキの顔を覗き込んでくる。
顔は見えなかった。ただ、眼が。
赤い、
眼が。
紅玉よりもなお鮮やかな瞳に魅入られて、頭が真っ白になる。顔が近づいて、吸血鬼が月に照らされる。
僅かに見えた整った半面は、すぐにぶれて見えなくなった。ぬるり、と頬を生暖かい何かが伝う。
「――ぁ、」
「……甘い」
何故かひどく、不機嫌げな呟きを落として。
彼を見上げるイズキは苦痛に顔を歪めている。魂ごと掴まれたせいで、呼吸すらうまくいかないのだ。
ややあって、男はイズキの様子に気づいたようだった。
「あぁ、悪いな」
「かはっ、……」
軽い謝罪とともに、あっさりと呼吸が楽になった。慌てて酸素を取り込むイズキの顔を、不躾に男が覗き込む。
「イズキ、お前は何だ?」
「なん――」
こちらの台詞だ。
噛みつこうとしたイズキはしかし、男を見上げて言葉を止めた。血に酔ったような表情だった。
吸血鬼はプライドが高い。貴族種であればなおさらだ。
血に酔って、血の匂いに振り回される姿など、通常であれば彼ほどの力を持つ吸血鬼が晒すはずがないのだ。
イズキは唇を舐めた。勝機があるとすれば、吸血鬼のプライドにこそ賭けるべきだった。
「よう、落ち着けよ吸血鬼。腹が減ってんのか?」
努めて常の調子を崩さずに声をかける。
「提供者はどうした。血液パックは? タブレットなら俺も持ってるぜ。腹の足しくらいにはなるだろ」
吸血鬼の指が、イズキの頬を撫でる。
次いで男が自分の指を舐めたことで、イズキは寝る前に頬に傷を受けたことを思い出した。先ほども、いまも、頬の血を舐め取っているのだ。
「いやいやいや……」
もういっそ犬に噛まれたと思って多少の血を持って行かれるくらいは眼を瞑るか。――半分ほど理性を飛ばしたような吸血鬼に食われて、犬に噛まれたで済むだろうか。
「っつかマジで、なんで貴族種がこんなに飢え、て――」
ふと、
赤い眼と、――眼が、合った。
吸血鬼の薄い唇が薄らと開いて、真っ赤な舌が覗く。それから、白い牙。
吸血鬼に噛まれるなど、パートナーであったテディ以外に覚えがない。本能的な恐怖に、イズキはひくりと顔を引き攣らせた。
男がイズキの手を取ったのは、イズキの手に擦過傷があったからだろう。イズキから流れ出る血の匂いに誘われているのだ。
討伐対象を討伐したからと、治療を後回しにするべきではなかった。
手のひらをちろちろと舌が這って、血を舐め取っていく。慣れない感覚に背筋が震えた。「勘弁してくれ」
ひどく、端正な横顔だった。血に夢中になっている男の顔が腕を上がって牙が、
――首筋に、触れた。
「盟約を犯す気か、吸血鬼!」
イズキの一喝に、吸血鬼の動きが止まった。
吸血鬼は、人間の合意なく吸血を行わない。古く交わされた盟約を思い出させることは、貴族種にとってことのほか効果的だったらしい。
「……あ?」
呆然とした男の声とともに、体の拘束が解ける。瞬間、イズキは動いた。
「
のしかかる体を蹴飛ばし、日本刀を引っつかむ。半分ほど鞘から出した刃を、壁に叩きつけられた吸血鬼の首筋に当てた。
食われかけた恐怖に、手が震えている。かちかちと鳴る刃をそのまま、イズキは凶悪に笑った。
「お目覚めか、クソ吸血鬼。随分と寝相が悪いな」
自らに魔器を向けるハンターを、吸血鬼は座り込んだまま驚いたような表情で見上げていた。今度こそ完全に晒された顔は、彫刻めいて美しい。
呆れるほど吸血鬼めいた吸血鬼だった。ひとを惑わせ、堕とし、自らの意志で血を捧げさせる。
イズキの肌に、男が触れた牙の感覚がいつまでも残っていた。食われたら、――抗えただろうか。
なぜ、これほどの男が血に酔ったのか。
猜疑の眼を向けるイズキに対して男は怯える様子もなく、首筋に当てられた青い刃を指先でなぞる。次いで彼は小さく、嘆息した。
「……お前が悪いんだろう」
「ああん!?」
ひどい責任転嫁にガラの悪い声を上げたイズキの胸倉を、伸びてきた男の手が引っ張った。
イズキの右手が動きかけて、止まる。躊躇った僅かな隙で、男には十分だったらしい。
強引に唇が合わされた。
ばちりと、部屋の中を青い稲光が飛び散った。同時にイズキが飛びすさる。
「その刀、お前のパートナーか」
イズキを引き寄せた男の手が、黒く焦げていた。日本刀から放たれた守護の魔術が、彼の手を焼いたのだ。
吸血鬼が腕を一振りすれば、一瞬で再生される。
「過保護なことだな」
愉快げに言って、男は立ち上がった。イズキが彼の動きを認識したときには既に、吸血鬼は窓枠に佇んでいる。
「決めた。お前を俺のものにする」
「はあ!? テメー、なに勝手なこと言って――」
イズキが言い返そうとしたときには、男の姿は完全に消えていた。
後には開け放たれた窓と、はためくカーテンだけが残された。半端に膨らんだ月を睨んで、ちっと舌を打つ。
「……くそったれめ」
持て余した日本刀を何の気なく握り直したイズキは、不審げに自分の腕を見下ろした。利き手を開いて、月の光に翳す。
「――んだ、あいつ……」
確かにあったはずの傷が、跡形もなく消えていた。
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