一章 真昼の黒百合
(1)「イズキ。イズキ・ローウェル。《黒百合》所属の――、イズキ・ローウェルだ」
引き攣れた喘鳴が響く。
夕闇を、少年は走っていた。
森の中だ。僅かな残照が薄らと周囲の木々を浮かび上がらせている。
車で踏みならされた坂道を、少年は走る。街から離れるように、一心不乱に駆け上がっていく。
布靴はよれて、足取りは今にももつれそうだ。木の根に足を取られて転びかけ、少年は辛うじて踏み止まった。
すぐにまた走り出す。
呼吸を繰り返すたびに、喉の奥から笛のような音が漏れた。暗がりに、凍りついた息が仄かに白む。
幼い横顔は苦痛と恐怖に歪んでいた。
「たす、けっ、」
少年は目指す先を見上げた。坂道を上がりきった高台には、城か砦めいた巨大な建築物が聳えている。
国内唯一の政府直属吸血鬼対策機関《ネビーリリア吸血鬼対策教会》。紋章の形から、通称《黒百合》と呼ばれている。
吸血鬼向けの血液パックの製造から販売、ハンターの使用する魔器の製造など、様々な事業を行っている。中心となる活動は、吸血鬼ハンターの育成と派遣。
あそこまで行けば、誰かしらハンターがいるはずだ。
きっと、助けて貰える。
希望だけを頼みに、少年はひたすら足を動かした。今にも疲労で爆発しそうな心臓に気づかないふりをして。
そして、彼の後ろ。
走り続ける少年を、追いかける影がある。
「のど、のど、」
虚ろに、ぶつぶつと言葉を零しながら。
細い体躯の男が、子どもの姿を追いかける。足取りは少年以上に覚束ないのに、異様な速度で坂道を駆け上がっていく。
「かわいた、」
眼の焦点はぼんやりと拡散し、けれど血走っている。乾ききった頬は白い。
ひび割れた唇が、にいと吊り上がる。
先を行く少年の速度が僅かに上がった。振り向くことすらしないまま足を前後に動かす。
すぐ後ろに近づく男の気配を感じたのだ。
吸血鬼と呼ばれる死の香りを嗅いだのだ。
「まっ、」
少年のすぐ後ろに、男が迫る。手が伸びる。
瞬間、
「待つのはテメーだ、クソ吸血鬼!」
若い青年の声が、事態を切り裂いた。
ざんっ、と鈍い音を立てて、吸血鬼の腕の半ばから先が飛んだ。鋭い武器が腕を断ち切ったのだ。
「ぁ、あ……?」
突然のことに理解が追いつかなかったのか、男の口から混乱した声が漏れる。
同時に、驚きのためか体力の限界か、少年が勢い良く転んだ。短く悲鳴を上げ、すぐにがばりと体を起こす。
引き攣った幼い顔が、時を置かず驚愕に変わる。
「え、何――」
振り返った少年の眼に、腕を抑えて座り込む吸血鬼と、血の滴る日本刀を携えて佇む青年の姿が飛び込んだ。
ただの日本刀ではない。僅かな光を弾く刀身は、青い――。
呆然と見上げる。青年は愛想のない表情で少年をちらりと見やった。
冷たい横顔に、燃えるような瞳の青年だった。特徴的な肌色は、恐らく東洋の血筋だ。
「おい、クソガキ」
クソ吸血鬼に、クソガキ。
F用語の多い青年だ。混乱した少年の頭に、どうでも良い考えが浮かぶ。
青年がチッと舌を打った。手本のような舌打ちだった。
「《黒百合》まで走れるか」
「……!」
慌てて頷けば、フンと鼻を鳴らす。
「上等。俺が引きつけておいてやる」
「引きつけて、って……」
少年は青年から眼を逸らして、吸血鬼を確認した。
吸血鬼は失った片腕を押さえて、途切れ途切れに唸りながらゆらりゆらりと体を揺らしている。今にも倒れそうだ。
「倒したんじゃないんですか」
青年は恐らくハンターだろう。吸血鬼の腕を切り落とすなんて、普通の人間にはできない。
手に持つ日本刀は、きっと魔器だ。対魔物用に特化した、魔術を込められた武器。
青い、日本刀。
「お兄さん、ハンターですよね」
そういえば、パートナーはどこだろう。気づいて、少年は周囲に視線を走らせた。
吸血鬼ハンターは基本的に、吸血鬼(稀に別の魔物であることもあるらしいけれど)のパートナーとツーマンセルで行動すると聞いたことがある。
「ハンターかっこ仮だ」
「かっこ仮……」
ハンターに助けられたことで落ち着いていた心が、また不安になってくる。大丈夫だろうか、この青年。
「それから一つ覚えておけ」
いつの間にか、吸血鬼の低い呻きが止まっていた。
少年が気づいたのは、青年の視線を追ったからだ。吸血鬼が動きを止めて、俯いている。
表情の見えない、影になった顔に、ぞっ、とした。
「吸血鬼はちょっとやそっとじゃ死なない。《黒百合》で俺の名前を使え」
「名前、」
「イズキ。イズキ・ローウェル。《黒百合》所属の――、イズキ・ローウェルだ」
イズキ・ローウェル。
それが青年の名前で、彼は《黒百合》の所属なのだ。事実を、少年はしっかりと胸に刻んだ。
きっと、日本刀には《黒百合》の紋章が刻まれているのだろう。
黒百合に、いびつの月。この国で知らない者のない紋章だ。
「立て」
短く命じて、イズキが少年に背を向けた。吸血鬼に向き直る。
ピッ、と日本刀を振るって血を落とす。いよいよ最後の一筋になろうとしている陽光を受けて、輝きが翻る。
少年は立ち上がった。
やはり、パートナーは現れない。イズキは一人なのだ。
ちょっとやそっとじゃ死なない化け物を前に、イズキは一人で戦おうとしている。
思い出したように萎えそうになる足を無理矢理に動かした。イズキに背を向ける。
自分の、やるべきこと。
イズキの足を引っ張らないために、この場から離れること。それから、《黒百合》にイズキの援護を依頼することだ。
「行け!」
鋭い声に突き動かされるように、少年は走り出した。
「おっと、行かせねえぜ」
半ば本能的にか、吸血鬼が子どもを追おうとする。男の行く手をイズキは遮った。
眼の前の吸血鬼を、とっくりと観察する。
血走った眼は、完全に狂気に呑まれている。理性という理性を根こそぎ失った吸血鬼の顔だった。
転化種だろう、と当たりをつけた。人間から転化した吸血鬼は、自分を転化させた吸血鬼である主に見捨てられると容易に発狂し、暴走することが多い。
元からの吸血鬼である貴族種や、一般種とは違うのだ。彼らは各機関製造の血液パックを購入するか他の方法で血液を得ているし、特に貴族種は飢えに耐性がある。
吸血鬼に、傷を負った腕を魔術で治療する様子はない。
治療する頭もないのか、魔術が使えないのか。転化種にはもともと、魔術を使えない個体も多い。
いずれにせよ、たった一人で増援を待たなければならないイズキにとっては幸運なことだった。
イズキのパートナーは、もういないのだから。
青年の前で、ふらりと男が立ち上がる。
不意打ちだからこそ通じた攻撃は、二度目は簡単には通らないだろう。指先に引っかけていた愛用の魔器を、イズキは握り直した。
視界の端に青い蝶が踊った気がして、首を振る。
願いが見せた遠い幻影だった。
「おら、来いよクソ吸血鬼」
指先でくいと手招いて、イズキは笑った。
「俺に倒される幸運をくれてやる」
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