12)550 M.C.
ヴィダはその後も目覚ましい成績を叩き出し続け、最低限必要な過程を終えた後は教官の補助を務めながら、二十二になった年に文句なしの首席でシューレを卒業し、そのまま士官として採用された。そして彼は間もなく、その少し前に国王として即位していたかつての王女デュートから「守護」のナイトとして叙勲を受けることになるのだが、それはまた別の話。
シューレの寮を出る前、イザークは彼の部屋を訪ねた。
もともと物の少ない殺風景な部屋ではあったが、きれいに片付けられたそこは既に新しい主を待っているように見えた。その部屋の中で、今日までの主は椅子の背を前にして腰掛け、中庭を眺めていた。開かれた窓から青々しい香りの乗った風が入る。
老人の来訪に気がついた彼は、立ち上がると窓を閉めた。次にそこを開くのは、新たにこの部屋に割り当てられたシューレ生になるはずだ。
老人はヴィダに餞別だと言って、あの日託された、フォルセティの得物を渡した。右手でそれを受け取ったヴィダに老人は、これもだと言って、同じものをもう一つ手渡す。老人自身が国王から貸与を受けているもの。翡翠の名を分かち織り込まれた銘を持つ、対をなすと言われている前時代の遺物。
「又貸しだからな。失くすでないよ」
ナイトの栄誉を受けているわけでもない、それどころか任官すらこれからという彼が持っていていいものではないはずだ。両手の中をそれぞれ目を白黒させながら見ているヴィダに一歩近寄り、イザークは手で屈むよう示す。在りし日のフォルセティの背をとうに抜いたヴィダに老人は「女王の許可は内々に得ているから安心おし」と耳打ちし、一歩引いた。
「それから。これを」
イザークが懐から取り出したのは指輪だ。ヴィダの母親の遺品。
「まだ持ってたんだな」
「処分できるわけがなかろう」
確かに、と苦笑を漏らし、それを受け取る。思っていたよりも小さかった。最後に彼がそれを見たとき、彼はまだ十歳かそこらだったから。父の背は広く、母の胸は深かった。今はなんとなくにしか、覚えていないけれど。
無言のまま手の中のそれを眺め、それから握って顔を上げたヴィダに、イザークは「最後に」と口を開いた。
「これは奴からの伝言でな。サプレマは固いと」
「固い?」
「詳しいことはよくわからんがね。まあ、確かめてきなさい。おそらくあの場を共有したお前にしかできんことだ」
そう言いながらイザークは肩をすくめた。ああ、とヴィダは呟いた。
「どうかな。相手が望むかどうか俺にはわからないよ」
彼があの薄暗い講堂で初めて光の刃を見た、その日まで彼が抜け出ようとすらしなかった暗い淵に、彼女はきっと、まだ囚われたままなのだ。とはいえ、彼女のことを彼はほとんど知らない。声を聞いたのもひとことだけだったはずだ。
その思いから出たヴィダの言葉は必ずしも前向きとは聞こえず、老人は意外とばかりに目線だけを上げた。ヴィダは老人の眉上の皺が深くなるのを見、そうじゃない、と手を振った。
「だから向こうから来るのを待つよ。たぶん長期戦。しかし俺は不敗」
たぶんねとヴィダは笑い、腰を屈めると受け取ったものを荷物にしまった。
その背中を見下ろしながら、老人は感慨深げに呟いた。
「お前はフォルセティそっくりになったな」
「やめろよ、あそこまで不真面目じゃないはずだ」
「どうかな」
不服げに答えるヴィダに老人は笑いながらベッドに腰を下ろし、その足下をとんとんと踏んだ。絨毯が敷かれている。とくに変わった音はしない。王女が救出された後しばらくして、施設管理課がきれいに修繕してくれたから。
フォルセティの守ったものは今、この国の頂点に真直ぐ前を見据えて立っている。
ユーレ国王、デュート=クライン・シュナベル。あの日、この床の下で震えながら、助けを信じ、声を押し殺して耐えた王女。
数時間後、ヴィダは後輩と教官とに見送られ、寮とシューレとを擁する王宮の敷地を後にした。今度来るときはもう訓練生ではなく、士官として出仕することになる。場所は変わらないのにまるで違うのは、経験のない不思議な感覚だった。
日の暮れかかる運河沿いを歩き、かつて自分の人生を変えたその場で立ち止まって空を見上げると、彼は薄く紫がかり始めた色に目を細めた。
あそこからもし、また何かが落ちてきたとしても。
今度はきっと自分は今の通り、変わらないでいられるだろう。
新しく作り直された桟橋に目をやる。あの日そこに父がいて、母がいた。
そして自分はここに、と。彼は地面を軽く踏み、水面に向かって姿勢を正してから、ごく自然な動作で右手を額まで上げ、敬礼をした。
「俺は生き抜きます。ありがとう」
十二年前、あの日のままの、自宅へ続く砂色のレンガの階段。それは変わらず彼を受け入れた。
そして、翌日やって来る「少女」をも。
月色相冠 / smalt 藤井 環 @1_7_8
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます