4)539~541 M.C.
ヴィダはその日から、士官候補生として生活することになった。
王宮と同じ敷地の中に設置されているユーレの
その中にあって、ヴィダの十歳という年齢は異例だった。その年で入所を希望するものもないわけではなかったが、シューレでは従来、十二歳未満はまだ親許にいた方が良いという判断に基づき、原則として入所を許可しなかったし、仮に特殊事情があって年齢に目をつぶったとしても、入所試験にパスした者はこれまでなかったから。
それで彼は、シューレ生の中でもある種異端の存在だった。彼は年一回の試験の後とは全く違うタイミングで入所したので、シューレ生の間ではその入所経緯にもいろいろな憶測も飛び交った。とくに、相部屋を利用している低年次生の間では、放課に飛び交う噂は尾ひれはひれで、最近グライトで起きたと聞く凄惨な事故にひっかけ、あらぬ憶測も生まれる始末だった。
こうして彼は望まずして「時の人」となってしまっていたため、シューレ本部は彼にしばらく、寮に入らないようにと指示した。しかし彼にはもう帰る家はなかったので、彼を引き取ったのはイザーク――ではなくて、その教えを直に受けたナイト、フォルセティ=トロイエ・グリトニルだった。
彼を紹介する時にイザークは言った。「この男も孤児だったんだよ」と。
ヴィダは返事をしなかった。この男「も」、自分「も」孤児なのだということ。父も母ももう亡いこと。それを知ってはいたが、再確認させられたくなかったからだ。
そのとき母の遺品としてイザークが渡そうとした指輪さえ、彼は黙りこくって受け取りを拒否した。
そういう彼に、めまぐるしい生活の変化の中で少しでもつらいことを思い出す時間の少ないようにとのイザークの配慮も働いて、ヴィダは間髪入れずと言ってもいいほどすぐにシューレ流教育現場に放り込まれた。だから彼は他のシューレ生のように、形式ばった入所式を経ていない。それでも一応は国王直属の訓練生という扱いになるので、イザークの特別の計らいで彼は王妃と王女にだけは挨拶をしている。国王は多忙で彼に会うことはなかった。
王妃は見慣れた母などよりだいぶ年上に見えたが、王女デュートはヴィダよりも小さいようだった。あの少女くらいだろうか。だが王女は、彼女のように大人の背後に隠れたり、物怖じした目でこちらを見てくるようなことはなく、随分ませているように感じた。
王族が代々受け継ぐという、緑がかった金の目を真直ぐこちらに向け、王女がすらすらと述べる挨拶の言葉は、大人が聞けばなんと賢い子供だろうと賞賛するようなものだ。しかしヴィダはそれを聞きながら、あれだけ近所に住んでいたにもかかわらず、あの紫の瞳をした少女の声を聞いたのは最後の一言だけだったのだと気付いて、何故か少し後悔した。
彼が王妃や王女との対面で思ったことは、それだけだった。
読み書き計算といった基礎学力から戦略学、戦術学、軍事工学などの専門知識に、武術その他の鍛錬。ヴィダはそれをそつなく、というより理想的といえる成績でこなしていった。
彼のすることはひとつずつ丁寧で、それでいて無駄がなく、完璧で、迷いのないものだった。
周りのシューレ生は彼を気味悪がった。そもそもその年齢でそこにいること自体が彼らには受入れ難かったし(ヴィダの入所経緯は彼らには結局明らかにされないままだった)、黒い髪も赤い目も特異なものとしてしか受け取られなかったからだ。サプレマの衣装と同じ赤と黒。ヴィダがかつてそれに不吉さを感じたのと同じ感覚を、彼らも持った。
黙々と課題をこなす彼の頬に走る傷は、彼が落ち着いているからこそ酷く目立つ。しかし、放課は寮にいない彼に、そんな傷がなぜついたか軽々しく聞けるような者もタイミングもなく、シューレでの彼の周りはいつも、重苦しい緊張感と静寂が取り巻いていた。
ヴィダは黙々と知識、技術を吸収していく。同期が距離を置くのをよいことに、彼は周りの人間を黙殺し続けた。
彼の目は冷徹で、見ているのは自分の前だけ。実技訓練で彼と手合わせをすると、彼は情け容赦なく急所を狙ってくる。勝敗がついて手を差し出してくるときも、誇らしげでも、健闘を称えるでもなく、もちろん哀れみの色もなく、ただ無表情。それも彼が遠巻きにされるひとつの原因だった。
しかしそれはシューレ教官陣には関係がない。年齢から遅れを取っても良いはずの同期生たちの中で成績数値が抜群に高いヴィダのことを、彼らはフォルセティに嬉々として「今期きってのすばらしい逸材」と報告した。
フォルセティはシューレ事務局でその報告(と報告書)を受取り、自宅に戻ると斜めに目を通してからくるくると丸めてテーブルに置いた。手を離すとそれはすぐに広がった。
「ヴィダ」
彼はため息をつくと後ろを振り返った。
ナイトは大抵出仕に便利な、それ以上に緊急時にすぐ登城できるよう王宮のすぐ近くに住んでいたが、フォルセティはずっと独り身だったので部屋数はどう考えても家族向けではない。それで、彼の家は現在、振り向けばだいたい相手がそこにいる、という状態になっていた。
そしてそれに違わずヴィダも彼の後ろ、窓際のカウンターで課題を黙々とこなしており、そのままの姿勢で返事をした。
「なんですか」
「俺と話すときはこっちを向けよ。それにいい加減丁寧語やめろっつうの」
彼は素直に顔を上げた。表情はなく、渋々という感じでもなかった。しかしそれは却ってフォルセティを落胆させた。
「お前はさあ。いつになったら子供に戻るの」
「僕は今も子供です」
「
「数値が高いのは悪いことですか」
「ばっかりって言ってるでしょうが。揚げ足を取らない」
初めて見た時の印象を大きく裏切り、フォルセティは実に普通(ただしヴィダにとってそれは十分不真面目の域に達していた)の青年だった。
ヴィダを引き取ってから回数は減ったようではあるものの、彼は非番の前の晩には職場から直行した店をはしごして夜通し飲み明かして朝帰りすることもあったし、同僚とつるんで夜遊びに行くことも多く、時には明け方に、強烈に甘ったるい匂いを乗せてご機嫌にご帰館遊ばされたことすらあった。そこそこ整った容姿の持ち主だった彼は、望みさえすればその場限りの相手に事欠くことはないようだった。
そうした場で大っぴらにするほどの無分別さはさすがになかっただろうが、それでも彼に与えられていたのは、言わなければばれないという程ありふれた肩書きでもなかった。だからそんな生活をしていてもナイトの叙勲を受けたまま撤回もされていないということは、目に余るほど品位を損なうような行動はなかったのだろうし、あったとしても根回しは済んでいたのだろう。あるいはそれをカバーするほどにいい仕事をしていたのかもしれない。翌日の業務に支障を
しかしいずれにせよ、ヴィダが誇りにしていた大人とフォルセティとは明らかに一線を画していた。
「ナイト」という肩書きだけで盲目的に彼を尊敬することはヴィダにはできなかった。彼の生活態度はヴィダの父親に比べれば、ずっと不透明でいい加減な感じを与えるものだった。
だがヴィダは敢えてそういう比較をしなかった。父親とフォルセティとを比べることは、彼に何のメリットもなかったからだ。忘れたくはなかったが、思い出したくもなかった。
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ヴィダが他のシューレ生と同様の扱いで構わない年齢になったこともあって寮に移り、特に問題なく新しい生活を始めたので、青年と少年の足掛け二年の共同生活はそこであっさり幕を下ろした。
フォルセティは相変わらず彼の保護者として色々の報告は受けていたものの、生活そのものに干渉してくることはほとんどなくなった。彼自身忙しくなったのもひとつの要因だったのだろう。国境侵犯が頻繁になり、三十代半ばにして既に千人単位の軍人軍属を指揮する立場をあてがわれていた彼は、その二年の間に仕事で家を空けることがずっと多くなっていたのだ。これからも増えていくのかもしれない。
フォルセティから離れたヴィダは数多くの寮生の中で、人間関係を構築し円滑に維持する
色々な要素が
驚くべき速さで彼は異端から、非常に出来の良い「普通の」少年になっていった。
少なくとも、表面は。
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