5)542 M.C. I
その年、ヴィダが十四歳の誕生日を迎えてしばらくしてからのことだ。長らくグライトを留守にしていたフォルセティが戻ってきた。傷病兵として。
彼の怪我はそれでも待てば必ず回復する類のもので、ヴィダはイザークに言われるまでは、自分から見舞いにすら行こうとはしなかった。
足掛けとは言え二年間生活を共にしたにもかかわらず、彼は相変わらずフォルセティに尊敬できる大人としての要素を見出せずにいたし、それは彼を遠ざけたい理由としても十分だった。彼が何かしら下らない(とヴィダには思える)ことをする度に、ヴィダは一度でも「あんな大人になりたい」と思った自分に腹をたてることになるからだ。彼を認めることは、ナイトの称号を持つ者に人並には敬意を払っていた父を愚弄することになるような気もしていた。
フォルセティがシューレや王宮と敷地は違うがすぐそばにある、軍御用達の医療施設に収容されて一週間が過ぎた頃、渋々見舞いに現れたヴィダに彼は、よう、と随分軽い挨拶をした。
はじめ彼の個室を訪ねたものの、開いた扉の向こうに見えたベッドはもぬけの殻だった。無駄足だったとため息をついたヴィダがもと来た道を戻るため振り返りかけたとき、不意に悪寒がして彼は思わず半歩、身を引いた。後ろにいたのはフォルセティだ。振り向きざまに当たってしまえとでも言わんばかりに、松葉杖を構えて。
「……損した」
不機嫌な顔を隠さず帰ろうとしたヴィダに、フォルセティはにやりと笑った。
「かわいい嘘言うんじゃないよ。心配してなかったくせに」
「心配して損したんじゃない、来て損したと言ってる。もう戻る」
まあまあ、と肩を掴んだフォルセティのゆるんだ顔を、ヴィダは敵意むき出しで睨みつけた。それに肩をすくめ、フォルセティはしみじみ呟いた。
「この際さっさと死んだ方が楽だなってウサギみたいな顔してた奴がな。まるで敵だらけの荒れ地に一匹取り残されたヤマアラシみたいだぞ、威嚇すんのやめなさいよ」
「何だと」
「お。取り乱したほうが負けだぜ」
習わなかった? と笑う彼にヴィダはもう一度、しかし、かなり深いため息をついた。
「おちょくるのもいい加減にしろ。何が言いたいんだよ」
「言いたいことは、そうだな」
閉じようとする扉を脇目に、彼は廊下の先に目をやった。白い壁と床。誰もいない。それを確認して再び部屋の扉を開けながら、フォルセティは口元に人差し指と中指とを揃えて立てた。
シューレ出身者のみが利用するフィンガーサイン、声を立てることができない、あるいは口に出すべきではない時のために準備された言語だ。彼はそのまま指先を僅かに動かした。
『い・じ・い・が・な』
眉を顰めたヴィダに、ああ、と呟いてフォルセティは部屋に入った。後ろで扉が大袈裟な音を立てて閉まった。開いたままの窓の外へ、白いカーテンが一度大きくはためいた。
「知らないっけな。『イザーク爺さん』略して『イ爺』だよ。もう良い歳だしね」
「それが何だよ」
「まあ聞け……いや、違うな。まあ見ろ」
その後彼が語ったことはヴィダには到底受け入れられないことだった。彼は恥ずかしげもなくこう示したのだ。「自分はグライトに戻りたくてわざと負傷した」と。
聞かれてはまずいのは、この帰還がただの任務放棄だったからなのだ。ヴィダはがたんと音を立て、立ち上がった。椅子の脚が浮いた。
「お前はどこまでふざけるつもりなんだよ」
「だから取り乱したら負けだっつの」
「はぐらかすな」
まあいいや、と頭を掻いたフォルセティは座るように手で示したが、ヴィダはそれには従わなかった。
「もういっこ言っとくことがあるんだ。聞きなさい」
「これ以上ふざけたことを言ったら今すぐ帰るからな」
「はいはい」
テルトのことだよとフォルセティは切り出した。
ヴィダはその名前には聞き覚えがなかったが、それを察したようでフォルセティは少し面倒くさそうに、先代サプレマの名前だ、と付け足した。
サプレマには便宜的に政治上の地位も与えられていたので、軍人には一般には卿付けで姓を呼ばれていた。ところがフォルセティはサプレマを何の敬称もつけずに名で呼んだし、ナイトである彼自身もフォルセティと名を呼び捨てされていたのだから、もしかするとふたりは単なる知り合いではなかったのかもしれない。ヴィダはフォルセティの顔色を窺ったが、彼に特別変わった様子はなかった――正確には、掴めなかった。
先代とは言うものの、今のサプレマをヴィダは知らない。その地位は竜の依り代たりうる紫の目の者が世襲すると聞くから、それが間違いなければおそらくあの少女が継いでいるのだろう。しかし彼の中で彼女は五歳かそこらのまま止まっているので実感がなかった。
とにかくテルトというのは「おっさん」のことなのだろう。先を促したヴィダに、フォルセティはベッドの端に腰掛けた脚を上げ、あぐらをかくと膝の上に頬杖をつこうとし、そこが負傷箇所であることを急に思い出したかのように大げさな身振りで肘を上げた。
本当に負傷しているのかとヴィダは
「俺はこの後あいつの娘に会いに行く」
「……なんのために」
「形見を返しに行くんだ」
フォルセティが白い枕の下に手を入れると、そこからは紙片がぱらぱらと落ちてきた。ユーレのシンボル、フクロウの翼を模したすかしが入る金縁の上質紙は、国王からの通達にのみ使われるものだ。書いてある文章が意味をなさないほどに刻まれたそれに目を落とし、彼は「ゴミだよそれは」と肩をすくめて目的のものを取り出した。
見覚えのあるガンメタリックの金属筒だ。だが走る白銀のラインやグリップ、ぱっと見の形もどうもフォルセティやイザークの得物とは様子が違う。少し長く、しかもそれは一つではなかった。同じものがもう一つある。あの日の朝、風に翻ったサプレマの裾の裏にちらりと見えたものだ。
眉間に皺を寄せたヴィダに彼はその片方を渡した。
「お前はこれでぶん殴られただろ?」
「覚えはないけど」
「背中だからね。でもお前が保護された後、俺はお前が応急処置受けてるとこを失礼ながらちょっと見せてもらったんだけどさ。お前の背中の痣とこいつのサイズは一致してたよ。高さもちょうど、こう、テルトが振ったくらいで」
あいつ俺よりちょっとタッパがなかったから。そう言いながらフォルセティは、自分の手にしていた方を薙ぎ払うように振った。金属が擦れ合う鋭い音がして、それは腕の長さを超えるくらいに伸びた。刃はまだなく、柄自体を短く縮めて収納しておくことができるようだ。便利だねと呟きながら、彼は伸ばしたそれを両手で握りしめた。
「こうやってな」
フォルセティは勢いよく横殴りにするようにヴィダに向けた――が、もちろん、それを当てはしなかった。寸止めしたそれを彼はそのまますとんと落とし、それは柔らかな木製の床を僅かに凹ませた。
ぼんやりと考えたことはこれまでにも何度かあった。しかし、自分を水に突き落としたのはやはりあのサプレマだったのだ。
彼は「上がって来るな」と言った。そして自分は水に守られ、その場にいた他の者のように無惨な姿にならずに済んだ。
少女は父親を失った。彼がもしヴィダではなく自ら水に逃れるという選択をしていれば、死んでいたのは自分のはずだった。少女も「おとうさん」を失わないはずだった。
ヴィダはその柄の先を見つめた。瞬きも忘れたかのように。
振った勢いで床に散った黒い粉状のものにベッドの上から手を伸ばし、それを指先に取って確認してからフォルセティは視線だけを上げた。
「何かわかるか」
「……血液」
「あたり」
少年の顔は蒼白で、渡した片方を彼の手から抜き取ったフォルセティは、よいしょと立ち上がると無言の少年を残し病室を出た。
「ついて来いとは言わないよ。お前もあの子も今はヤマアラシだからな。近寄っても、お互い怪我するだけだ」
影が次第に長くなる時間。開いた窓から吹き込んだ風が、乾いた四年前の匂いと細切れになった紙とを、かさかさと音を立てて部屋の隅へ運んで行った。
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