3)538 M.C.
奇妙に静かな朝だった。
朝食を済ませると、ヴィダは父母について家を出た。今日はいつものように階段を飛び降りるなどという元気なことはしない。なりきりナイトも待ち構えてはいなかった。前もって「今日は無理」と伝えておいたのだから当たり前なのだが。
その日彼は両親に言われて、仕事の手伝いをすることになっていた。桟橋に着いた他所の船から彼の両親が所有する船へ、こまごまとした荷物を積み替えなければならない。桟橋を利用するのが彼らだけではなく、悠長にやっていられないのはいつものことではあったが、その日のスケジュールは特にタイトだったので、特別急がなければいけない以上、人手は多い方がよかった。
砂色のレンガでできた家々が囲む路地に軽やかな足音が響く。薄茶の髪をふたつにゆわえた少女が後ろから走って来て、彼らを追い抜いた。ヴィダが振り向くと、後ろには例のサプレマが控えている。彼はヴィダの一家に軽い会釈をした。
相変わらず
よく見ればそれは確かに赤地に目立たぬ同色ながら、一面に幾何学模様の刺繍をしてあったり、ごく薄く透けるほどの繊細な織物を重ねてあったりと、その辺の一般人が着ているものより手のかかったずっと上等なものだったが、随分ひらひらと動きにくそうだし――なにより、その色はどこか不吉だ、とヴィダは思った。
路地を抜けて通りまで一直線に走り出ていった娘を追いかけたサプレマがヴィダたちを追い抜くとき、その衣装の裾を風がめくっていった。内側にちらりと見えたものにヴィダは目を留めた。黒い筒状の、どこかで見たことのある金属、たぶんあのナイトが持っていた「剣」によく似た材質の、けれどもなんだかよくわからないもの。あれも武器なのだろうか。聖職者なのに?
人通りもそこそこ増えてくる時間帯だった。
運河沿いの通りを横切った先の桟橋には既に船が着いていて、父が積み降ろしの準備をする横で母がその船主と書類のやり取りをしている間、ヴィダは橋の手前の方で所在無さげにつっ立ったまま、周囲を見回した。
いずれここ、海の方へ少し下れば中州に王宮の見える運河は、今の父同様、自分にとっても仕事場になるのだろう。まだ実感はなかったものの、その未来に彼は何の疑問も持っていなかった。
道の真ん中、商店が日よけのため大きく生成りの布を張り出した軒先で、サプレマの娘がしゃがみ込んで蟻の行列を見つめている。一匹を目で追って、追いきれなくなると顔を戻し次の一匹を追う。それを何度も何度も、通行人が彼女を見下ろしながら何人も通り過ぎていく。十数歩離れたところから見ていたヴィダからは、そんなに繰り返して飽きないのだろうかと不思議に思うほどだったが、続けているのだから飽きないのだろう。
サプレマはその娘の真後ろで、こちらも飽きないのだろうかと思うほどだったがそれを見守っていた。だから彼が眉を顰め、軒に邪魔されないヴィダの隣まで歩いて来て空を見上げたのは飽きたからではない。もちろん、天気をネタに少年と話をしようという訳でもなかった。
ふいと日の光が
鳥が横切ったように見えた。だがそれは太陽を背にふわりと舞うとこちらに向かって真直ぐ降下してくる。
あの大きさは鳥ではない。
父の方へ走り出そうとしたヴィダは、何か固い棒――あるいはそれは脚だったのかもしれない、よく分からなかった――の大きな衝撃を背に受け、水中に叩き落とされた。
水面の向こう。あのサプレマが大声を上げるのを彼は初めて聞いた。
「上がって来るな!」
あとは、分からない。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
「名前は何というのかな」
「僕の」
「そう」
「僕の名前はヴィダ、ヴィダ・コンベルサティオです。父はパージュ、母はシビュラ。父方の祖父はイグゼ、ばあちゃんはサウレでお母さんの――」
はじめしっかりしているように見えた彼の言葉はみるみる早口になり、しまいには最早本人も何を言っているか分からないといった様子になってしまった。老人が少年の肩に両手を置きそのまま抱き寄せると、しばらく肩で息をしていた彼は大丈夫ですと呟いて身を捩り、老人も手を離した。
ヴィダの右頬には大きなガーゼが貼られている。三カ所色濃く血の滲むそれに彼はそっと手をやり、触ることなく下ろした。
見たことのない高い天井を持つ部屋。豪奢な内装と外の景色を見れば、来たことはなくてもそこは王宮の中なのだと彼にも分かった。
目の前の老人はイザークと名乗った。玄関で彼を軍人から受け取り、この部屋へ連れて来た男だ。聞いたことのある名前だった。イザーク=ジーガ・チェンバレン。最高齢のナイトだ。
少年が水面に顔を出した時、そこにはつかまれるはずの桟橋はなかった。ただ水面からすぐ上を引きちぎられたような橋脚が僅かに見えるだけで、その周辺にあったものは桟橋どころか船も積荷も、何も残っていなかった。周囲には粉砕された木切れが浮いている。水面は妙に赤く、その中には点々と油が浮いていた。
そうした障害物を避けながら岸に寄り、腕を伸ばして護岸に手をつくと右頬に痛みが走った。触れたそこに刺さっていたのは木の破片だ。彼はそれを抜き取り投げ捨てたが、傷から流れた血は放っておいた。というよりそんなものに気を配ることができなかったのだ。彼が破片を投げ捨てた水面には人間の腕が浮いていた。女性だ。見覚えのある指輪をしていた。
「お母さん?」
呟いて手を引いた彼は余りの軽さに思わずそれを払いのけた。腕の先には、あるべき体がなかった。
逃げるように岸に上がった彼が目にした地面も、水面と大差なかった。砂色のレンガの建物は酷く損傷して一部が崩れ落ちていたし、軒先に並べられた商品は散乱し、中には壁に叩き付けられて潰れているものもあった。
もちろん、そこにいた人間も難を逃れはしなかった。そこら中、おびただしい量の血が砂地を濡らしている。転がっている赤いものは肉塊だろうか。所々黄色いものや白い棒のようなものが飛び出ている。骨かもしれない。
映像の次に襲ってきたのは臭いだ。彼は催した吐き気を止めることができず、後ろに向き直ると地面に手をつき水面に朝食を全てぶちまけた。吐瀉物の下から、誰かの無表情な眼球だけが少年を見ていた。
口元を拭い、彼は立ち上がった。そして水の流れる音しかしない静かなそこで父親を捜そうとした。周りを見回すのは苦痛だったが、寄る辺を探すほうが大事だった。
しかしその周囲で動くものは自分と、あとひとり。蟻の行列を見ていた少女だけだった。
しゃがんでいたからだろうか。一つの汚れもなく、全くの無傷だった彼女は、ヴィダを見上げるなり尻餅をつくと、泣きそうな目をして口を開いた。
「おとうさんは」
彼は直後、事態の把握と収拾のため現れた十数人の軍人のひとりに保護された。
少女は、彼と一緒には来なかった。
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