2)537 M.C.
その日もヴィダはいつも通り玄関先の階段を五段飛ばして鮮やかに着地したが、そこに毎朝必ずと言っていいほど彼を待ち受けていた正義のナイトたちはいなかった。
辺りを見回した彼を曲がり角から呼ぶ声がある。ヴィダが返事をしながらそちらを向くと、声の主は急いで来いとばかりに、声を張り上げながら路地の奥に消えていった。
少女の家の方向だ。「本物が見られる」とは何のことか。
見覚えのある赤い衣装はこの前の「マスター」こと「おっさん」(話し方にも一切の覇気がなかったせいで「おじさん」からさらに進んだ)、とは言え実年齢も見た目もまだ二十代後半そこそこのサプレマ。そしてもうひとり、ヴィダの仲間に群がるように取り囲まれていた軍装の男は、比較的小柄なサプレマに比べれば長身だった。
彼の身は、無造作に短く切られた、ややくすんだ金髪と、白が映える鎧、それからユーレ士官のトレードマークと言っていい
彼は敢えて言うならサプレマより少し上、どうにか三十路に手が届いている程度だろうか。彼は先日の叙任式でナイトの栄誉を賜った時、併せて国王から忠誠を意味するミドルネーム「トロイエ」を授かっている。
しかしサプレマは、彼をフォルセティと呼んでいるようだった。姓ではない。対して彼もサプレマに、ほかの大人のような距離を置いた言葉遣いはしなかった。その表情も言葉選びも、和やかそのものだ。
遅れてきたヴィダに穏やかな
彼が叙任式の際ウルティマ=ラティオを下賜されていることは、少年たちの間では一般で以上に話題に上っている。様々な形状を持つそれらの中でも、ナイト・フォルセティ=トロイエが与えられたと聞く剣の形をしたものは、少年らがもっとも好んでいたものだったからだ。事実なりきりナイトは大半が、見えない剣を毎日元気に振り回していた。
しかし彼が賜ったのは、少年たちの想像に反して
しかし、その片割れはずっと、少なくとも三十年くらい前にはすでに、イザーク=ジーガ・チェンバレンの手にあった。存命の中では最高齢のナイトで、今は老齢といってよい。王宮から出てこない老人の、しかもその賜った得物など市井で目にする機会はほぼ絶対にないから、少年らは「剣」でなおかつ「対をなす」という情報までは得ていても、ここまであっさりした色気のない形のものはまったく予期しておらず、だからこそ際限なく膨らむ妄想を楽しんでいたのだが。
とにかく、フォルセティの太腿に巻かれたホルダーに収まったウルティマ=ラティオは、少年たちの妄想に、大きく外れた正解を示すという形で、終止符を打つことになった。
とはいえ、それが本物であることには間違いがなく。
フォルセティに頼み込んで貸してもらったらしいそれを、半ば奪い合いながらべたべた触りまくっている少年たちは、好奇心と喜びの中に、少しの肩すかしをくらったような顔をしていた。
もっと洗練された(彼らにとって、という意味だが)ものを期待していたのに、
サプレマに会いに来た用はほとんど終わりかけだったのだろうか。フォルセティは最後、二言三言の言葉を交わすと、少年たちからそれを受け取った。
その手は、いつも重い荷物を運んでいるヴィダの父親の手によく似ている。顔立ちはフォルセティのほうが少し、いや、それなりに、というか、かなり涼やかではあるけれど――そんなことを考えながら、少し離れたところからその佇まいをしげしげと眺めていたヴィダと、名残惜しげに話しかける少年たちを残し、彼は王宮のほうへ戻っていった。
仕事中だったのだろうか。その刃を見ることができなかったのを残念がる少年らを後目に、ヴィダは少し大股気味にも思える彼の後ろ姿を見えなくなるまで見送った。
やや黄みがかった青空の下、迷いない瞳を頂く、すと伸びた背に青色が翻る。
あれがナイトの出で立ちなのだ。揺らぐ事なき信念と忠誠。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
「お父さん、オレ今日ナイトに会ったよ」
食卓についていたヴィダは、もぐもぐと口を動かしながら顔を上げた。
夫婦共働きで生計を立てている彼の家族が揃ってゆっくり食事を取れるのは夜だけだ。仕事の準備で忙しい朝や、とにかく時間のない昼には気を配れないものの、夕食の時に母はここぞとばかり、食べながら話すなと注意を促した。それにヴィダは口を尖らせてから、急いで残りを飲み込んだ。
「へえ、それで。格好良かった」
「うん、まあ、そうかな」
父親もまた、息子の仲間と同じような憧れを抱いた少年時代を経験している。だからヴィダのその返事の気のなさに彼は少し違和感を覚えた。
「今ひとつだった?」
「いや、格好良かったよ。皆は剣がダセーって言ってたけどオレは触った訳じゃないし、よくわかんないけどああいうのって、使いやすさが一番問題なんだとも思うしさあ……」
食べながら話すな、を律儀に守った彼は今度は話しながら食べ始めたので、語尾はやはりもごもがと聞き取りづらかった。向かいに座る母親は諦めたようにため息をつき、肩をすくめて夫に目をやった。
「
少年がそういう話を始めると、大抵父親はこの質問をした。そしてそれにヴィダははっきりと頭を横に振って答えるのだ。「いいや、入りたくない」と。
彼は他の少年たちより、ある意味で、とても現実的な考え方をする。シューレに入った所で全員が士官になれはしないし、なれたところでフォルセティのように昇進が確実な訳でもなかった。だが彼が気にしていたのはそういうことではない。
彼にはそもそも「自分の職業としての軍人」に憧れがなかったのだ。彼にとっては家業を継ぐことが当たり前で、他は考えるにも値しないことだった。空想に遊ぶならともかく、自分が生きる道はひとつ。運河のほとりで生まれ、風に育まれ、水と共に生きる。彼の祖父も曾祖父もそうして死んでいった。きっと父もそうなるのだろう。その生き方に彼は誇りすら感じていた。自分と同じ色の目を持っていた祖父の生き様、そして死に様は立派だった。
「オレは父さんのあとを継ぐんだ」
そう言い切るヴィダに決して「夢がない」などと言うことはなかったが、歳の割にあまりに遊びのない将来像に父親は少し寂しげにも見える笑いを返し、例によってその話は終わった。
憧れを全く感じていないというと嘘になるのだろう。しかしそれは父のあとを継いでもできる。「ああいうナイトになりたい」ではなく「ああいう大人になりたい」だけだ。少年は布団の下でもぞもぞ位置を変え、いつもより三十分遅く眠りについた。
少年の世界ががらりと色を変える、事件からおよそ一年前のことだ。
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