10)543 M.C. IV

「何してんの。お前」


 施錠されている扉のほうを眺めつつ、どうしたものかと考えていたヴィダの背に、突然気の抜けた声が投げつけられる。肩越しに振り向くと、そこにいたのは呆れた顔のフォルセティだった。この男が神出鬼没なのは今日に限ったことではないが、近寄ってきていることにすら全く気がつかなかった少年は僅かに後ずさった。自分で思ったよりずっと動揺している。それを隠すように、彼はフォルセティを睨みつけた。

「何、じゃない。どうなってるんだよ、俺まで追われてるんだけど」

「嘘、ホント? そりゃあ悪いことしたな。巻き込むつもりはなかったんだけどなあ、まあ仕方ないよ。こんなところに来ちゃったんだもん」

 彼の口調は軽かったが、鮮やかな花紺青のマントには血飛沫が数え切れないほど飛んでいたし、拭った跡があるとは言え顔にもそれは残っていた。彼は人を斬ったのだろう。ヴィダは黙り込んだが、少しして顔を上げた。

「荷物、預かっておいた」

「お、いいね」

 あそこはバレないだろ? と彼は笑った。やはり知っていて王女を向かわせたのだ。どこまで考えているのか分からない男だった。


 それより、とフォルセティは呟いた。

「王妃を見て……は、ないよな」

「見てない」

 だろうねと気のない返事を返しながら、彼は後ろを振り返った。追っ手の来る様子は見て取れないが、ここは丁字路の突き当たりを閉じた、見通しの悪い袋小路だ。

「王女が確保できてるなら最低限は、まあ……」

 続きを何か言いかけて、やっぱりだめだとため息をついた彼は白い壁に耳を寄せた。

 石造りの床からは、軍人や訓練生に支給される靴の厚い底を通しては何も伝わってこなかったが、壁の中を反響する声と足音はずっと鮮明なはずだ。フォルセティは僅かに眉間に皺を寄せた。

 普段見せることのない表情はヴィダには不安感を与えるものだったが、フォルセティはすぐにその皺を解き、いつも通りまるで緊張感のない顔になる。そして彼は眉をひそめたままのヴィダに目を細めてから、その背の後ろにある錠のかかった扉を指差した。


「お前はあそこから逃げろ。早く、急げよ」

「無理だよ。開かないのはさっき確認した。俺、番号知らないし」

「それなら、いちにいさんしだ」

「なんて? 何で」

「帰って来た日に軒並み変えといた。めんどい番号は覚えられないから。いちにいさんし。全部それ」


 フォルセティは指で指揮でもするように、そして歌うようにリズムよく答える。一体どこまで手を回しているのか、底の知れない男だとヴィダは半ば感心しながらその顔を見上げたが、もうフォルセティは笑ってはいなかった。

 彼は後ろを見ている。振り返りはせず、ただ視線だけで。鋭い、あまりにも鋭い目。そうして相手を牽制したまま、彼は後ろを向き直った。 


 ヴィダを追ってきた連中は、はじめはせいぜい四人程度だったのに倍以上になっている。フォルセティを追っていた者らと合流したのだろう。特別広くはない廊下だ。そしてここは丁字路の先の袋小路。

 きっとヴィダがここに滞留することで追っ手を誘い込み、フォルセティの退路を絶ってしまったのだ。そして壁から伝わる音でフォルセティはそれを知った。

 下手を打ったと思っても、遅い。

 解錠されていない扉は、番号はわかったとは言っても、今はまだ行き止まりだった。


「ガキを追ってたら親玉が釣れた訳ね。良かったな」

 フォルセティは手でヴィダを下がらせながら、前に一歩踏み出した。ヴィダとの距離を開けるように、ゆっくりと、やや大股で。

 あまりに条件が悪すぎる。敵とフォルセティとを交互に見比べながら、ヴィダは圧されるままに後ずさった。

 フォルセティは挟まれていることを、音を聞いて知ったのだ。だから「早く、急げよ」と、そう言ったのだ。できるだけヴィダを不安にさせない方法で。

 思わず唾を飲み込む。後ろからではフォルセティの表情は窺えなかったが、彼の襟足が意外に長いのにヴィダは気がついた。それとも前からこうだったのか。ヴィダにはどうしても思い出せなかった。そんなことは場違いだともわかっていたが、思考がまとまらなかった。


 あとずさるにつれ近づく施錠された扉は、数字を合わせて鍵を外し、扉を開けるのにどれだけ早くても三秒はかかる。その時間すら、相手が息を合わせてくるなら捻出できるか怪しかった。あまりに状況が悪い。

 後ろ手にヴィダが錠を探り始めたその音を聞いたのか、フォルセティは深呼吸のようにも聞こえる大きなため息をつくと、じりじり間を詰めてくる相手に向かい、再び口を開いた。

「貴殿らの首魁を当ててみせようか」

「答えあわせにも応じましょう。卿もその愛弟子殿も、外には持ち出せますまい」

「愛弟子」

 フォルセティは繰り返した。そして笑った。さも楽しいとばかりに。

「うん、愛弟子だ。見くびるなよ。シューレきっての秀才だ、俺と違って」

「しかし外も包囲済でございますよ、ナイト・トロイエ・グリトニル卿。とは言え」


 その男は士官ではない。身を包んでいたのも地味な軍装だ。態度や言葉遣いが意図的なものかどうかはわからないが一兵卒、下士官より上には昇格できない立場であることはヴィダにも見れば分かる。

 軍の上層部が関わっているというフォルセティの言葉が真実ならば、相手側についている幹部もいるはずだった。その中では相変わらず下っ端でしかない彼らには、士官しかもナイトなどそれこそ予想外の、願ってもない獲物であるに違いない。何しろその教えを受けたというだけで、訓練生まで追い回すのだから――その上状況はどう見ても彼らに微笑んでいる。

「そもそもそこは開かないでしょう。いかがなさいますか、身の振り方を考えていただいても結構。あなたは我々にとっても価値がある」


 ヴィダは顔に出すのをどうにか抑えた。彼は鍵が開くことを知らないのだ。ならば彼の言う「包囲」もハッタリかもしれない。切り抜けられる可能性はある。ただしあくまで、ここを出られればの話だ。

 フォルセティは後ろ頭に手をやった。ぼり、と首筋を掻く。

 自分の反応も場違いだとは知りながら、ヴィダはその手に目を向けた。あの、少し細った長い指。父親に似ていると思ったこともある、手。

 その手が続けたのはフィンガーサインだ。シューレを卒業した者だけが習得している、つまり、前にいる男は知らない言葉。


『いいか ヴィダ』

 フォルセティと相手との口でのやりとりは、まだ途切れなく続いている。片手を後ろでそう示しながら、彼は空いた方の手を太腿にやった。

『おまえは なにがあっても』

 そこに巻かれた、飴色に使い込まれて染みも多いヌメ皮のベルトには、五年以上前のあの日にヴィダが触り損ねたフォルセティのウルティマ=ラティオが下がっている。鍔を持たない、かつての少年たちの「勇者の剣」。

 武器に手をやった相手を前に男らが半身引いて構えるが、フォルセティは意に介さず、慣れた様子でそれを定位置から外しながらも淀みなく喋り続けた。

 だがヴィダにその声は聞こえない。彼が聞いているのは手が示す言葉だけだ。


『死ぬなよ』


 それは、最初で最後の、彼が下した指示だ。

 フォルセティの手に収まった金属質のグリップが揺れた金具に当たり、小さな音がした。

 それを合図とばかり、振り上げられた敵先頭の刀を肘当てで防ぎ、振り向くことなく、しかし迷いもなく彼は手中の武器を後ろのヴィダに投げつけた。どうにか落とさずに受け取った少年が大声を上げる。

「無理だよ、こんなの使ったことが――」

「バカ野郎、無理でもやれ!」

 聞いたことのない声に彼は一瞬身震いした。

 けれども、もうそれ以上何か言っても聞いてはもらえないのはわかった。フォルセティはどこに隠し持っていたのかナイフを手に応戦している。その相手の数は三。うしろにも同じ数以上控えている。

 多少防御に長ける軍装を纏っていても、背後を守りながら防ぎきれる数ではない。

 彼らの目的はもうヴィダではない。


 ヴィダは唇を噛み、振り切るように頭を振ると番号を合わせ扉を開け放った。


 そこは白い廊下と違い、高い天井と重厚な木材で固められた広い床を持つ場所だ。

「包囲」、目の前にいる。二人、三人、四人。しかし武装は簡素。しかも予期していなかったのだろう、戦闘態勢はまだだ。

 これならなんとかなる。


 ヴィダは右手にあったフォルセティの黒いウルティマ=ラティオを握り直した。それは未だ沈黙を保っていたが、少年の目にはぎらりと光が宿る。

「死んでやるかよ」


 磨き抜かれた板敷きの講堂で、窓は高い位置から鈍い角度で向かいの壁に光を落とし、目線の高さは薄暗い。

 彼はダンと床を蹴り、敵に向かい真正面へ、迷うことなく走り出した。左には使い慣れた木刀を、右にはその柄を構えて。ふわりと優しい風が起こったかと思うと、空気の淀んだ講堂に疾風はやてが走る。

 右のそれはどうなっているのか、刃は出ているのか。それすらもわからなかった。こうすれば使えるなどというマニュアルは存在しない代物なのだ。だが彼はがむしゃらに柄を逆手に持ち直して前に構えた。

 一人目の首をめがけ左手で薙ぎ払った木刀は小気味よいほどに狙った箇所を捉え、骨のへし折れる嫌な音がした。

 まっすぐに伸びた右の刃は、二人目の心臓を正確に貫いた。

 鮮やかなほどの斬れ味だった。


 貫いた箇所から重力に抗わず、裂かれるように崩れ落ちた体を眺め下ろして顔を上げたヴィダに、残りの二人は恐怖の色をにじませた。

 少年の瞳は、鮮血の色をしている。


 息を吸い、刃を構え直す。そのとき不意に講堂の床を光が照らした。

 待ったの声に、ヴィダは我に返ったように顔を上げた。

 差し込む光を背負ったせいで輪郭しか判別できないが、その声の主、奥に見える外への出口にいたのはイザークと士官が二人だ。

 老人が目だけで指示をする。よく見ればまだ若い士官に、無傷で残っていた二人はいとも簡単に拘束された。戦闘になることなど、予期していなかったのかもしれない。改めて見るとその武装は簡素というより貧相だ。

 

 ヴィダの背後、開け放たれた扉の向こうから、やりすぎだ、と――呆れたような、半笑いのような、あの声で、そう言われたかった。

 そして、それが叶うはずもないことだと、わかっていた。

 ヴィダは俯いた。歩いてきたイザークのつま先が見えた。


「それはフォルセティのか」

「はい」

 返します、と、彼は光を失ったそれをイザークに渡した。

 受け取った老人は無言で彼の背を見送った。歩きながらグローブを外した少年は、血まみれのそれを投げ捨ててから、外へ出た。


 

 彼は直後軍人有志に保護され、クーデターはその後しばらくのうちに収束した。

 混乱そのものが落ち着くには更に数週間かかったが、寮の安全が宣言された日に少年が救出しに向かったので、シュナベル朝ユーレの正統後継者たる王女デュートはすべての落着を待つまでもなかった。

 犠牲者は把握されているだけで反体制アドラ派八十六人、国王派三十人弱。その中にはナイト、フォルセティ=トロイエ・グリトニルの名もあった。

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