9)543 M.C. III

 国王の崩御を受け、シューレは臨時の休みに入った。もちろん喪に服すという意味もあったが、シューレは王立の機関であり、その運営に関する意思決定機関には国の中枢に関わるものも含まれた人員構成だったから、彼らがてんやわんやの状態ではまともな運営ができなかったのだ。

 そのためヴィダは退学届を出そうにも、規定の用紙を受け取ることすらできなかった。数日待ったが様子に変わりもなかったので、彼は仕方なく、閉ざされたままのシューレ運営部ではなく、王宮の担当者へ直接申し立てに行くことに決めた。先送りにするのは好きではなかった。

 彼の同期には十七歳以上の者が多かったが、入所の早かった彼は数えてまだ十五だった。それでも身長は父親譲りでそこそこ高く、彩りの少ない訓練生の服装を崩さず《きちんと》身につけた彼は、少なくとも後ろから見れば、いかにもな少年という風体でもない。

 それでもあの事件の直後、イザークに連れられて立ち入った時以来の王宮だ。しかも用件はシューレを辞めたいという話。国王崩御後のこのタイミングで歓迎される話題でないことは重々承知の上だったから、行くのはさすがに気が重かった。彼は大きなため息をついてから、部屋の扉を開けた。


 廊下の向こうから底の固い重い靴の足音がする。それは歩き回っているというよりは、探し回っている気配を感じさせるものだった。お世辞にも新しいとも堅牢だとも言えない寮の板張りの床を、無遠慮に痛めつけていくその音が、先日彼の部屋を捜索していった軍関係者を思い出させたから。

 ヴィダは眉をひそめた。前より人数が多い。

 あの時彼は協力的な姿勢を見せたし、文句ももちろん言わなかったが、いい気分ではなかったのも確かだった。もしあの時、丁寧にも床板が弱っている場所を教えていたら、その無礼な靴底は彼の部屋の床をぶち抜いていたかもしれない。彼自身その上はできるだけ通らないようにしていたのだ。他人が穴を空けた床の上で暮らすなどまっぴらだった。

 通路の向こうにちらりと見えた彼らの服装から判断するに、それは士官ではなく一般兵のようだった。

 しかし彼らが何だろうと関係がない。とにかく自分は王宮に行かなければならないのだ。ヴィダは気をとりなおすように再び大きく息をついてから、開いたドアを閉めようとし、その後ろに少女の影があるのに気がついた。


 少女の髪は薄いグレーで、その上瞳は淡く緑がかった金色をしていた――王族の色だ。五年前見た時に五歳程度だった王女、すらすらと挨拶の言葉を述べたあの王女は、今でも酷く華奢だった。父王が逝去して間もない今は尚更、こんなところにいるべき人間ではない。ヴィダは周りを見回したが、お付きのものがいる様子もなかった。

「何をなさっておいでです」

 彼は片膝を折り、王女と目の高さを合わせながら問うた。王女の膝や腕は擦り傷だらけだ。先の靴音といい、この王女の状態といい、そもそも王女がこんなところに一人でいることといい。異常事態が起きている。それも決して穏やかではない方向で。

「フィーが」

 口を開いた王女は怯えた目で後ろを振り向き、ふたたび前を向くと急き立てられるように言った。

「ここに逃げろと言ったんです。フィーが」

 その呼び名を聞いたことはなかったが、それでもヴィダは直感した。フォルセティだ。


 彼は周囲を見回して人がいないのを確認し、王女を部屋に入れてから絨毯をめくり上げた。先日の捜索時に言わず、そして見つからなかった場所。外れる床板、施設管理課には退学云々を悩んでいたので修繕依頼もまだしていなかった。

 そこを隠し場所として使っていたという経緯は(少なくともその部屋をヴィダが使い始めてからは)なかったが、王女程度の体ならばどうにか通り抜けることはできる。入ってさえしまえば、床下はそんなに狭くはないだろう。

「隠れて」

「ひとりで?」

「そう。急いで」

 フォルセティはその場所のことを知っていたのかもしれない。あれだけ「自分は前この部屋にいた」と匂わせて去って行ったのだから。

 絶対に声を上げないで、とヴィダは口元に一本指を立てた。頷いた王女が伸ばした手を一度握り、それを押し戻しながら彼は随分柔らかく笑った。

「安全が確保できたら必ず助けに来ます。それまで我慢して」


 嘘くさい笑顔だったと思う。けれども彼に、そんなことはどうでもよかった。

 彼は王女の行方を探す軍人がこちらにやってくるのを部屋の中で待った。靴音が近づくタイミングを狙って扉を開ける。そうしてヴィダは何も知らない顔で、むしろ少し不安げな色までのぞかせてみせながら、その軍人たちの質問にいけしゃあしゃあと答え、捜索者らの気配が消えるのを待って王宮へ走り出した。


 フォルセティがいる。そこに。


‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥



 入城警備の者すらいない王宮に立ち入り、ヴィダはその異常事態がどの程度のものなのかを思い知った。

 しんと静まり返った正面階段には血痕が残っていたし、引きずられた跡を辿れば傷跡もまだ生々しい死体がある。格好を見れば一般人でないことは分かったが、それはまた軍人でもなかった。実際目にしたことはなかったが、統治のシステムは知っている。おそらくこれは「議員」だ。

 この国では国王が最終的な采配を下すとは言え、議会も無視できない程度には機能していた。そして軍部は基本的には彼らの、直接的には軍総司令を兼任している議員の判断を仰ぐ組織。


 少し冷静になって考えれば、いくらフォルセティが王女をヴィダのところによこしてきたとは言っても、ヴィダにはこの異常事態を圧してまでフォルセティに会わなければいけない理由などなかった。報告ならあとでもいいはずで、その場で彼に期待されていたのはきっと、王女を守りきることだった。

 期待されていたことは、きっと、そうだ。しかしヴィダは部屋に残らず、行き先を自分で選んだ。ほとんど衝動的に。


 とはいえここにきて、現状が彼の手に負える事態でないことは明白だった。彼は転がった死体を一度眺めおろしてから顔を上げた。一度戻ってこれからどうするかを考えた方がいい。そう思って振り返ったが、戻るのは無理だった。玄関ホールを囲むように半円形に配置された階段の中腹でたたずんでいた彼を、今入ってきたばかりの者たちが見つけたとばかりに指さしたからだ。また無関係のふりをして切り抜けられるだろうかと考えてみたが、彼らはヴィダを部外者と看做みなしてくれてはいないようだった。手にした武器を下ろす気配もなかったからだ。

 

 その中のひとりが声を上げ、ヴィダは思わず引きつった笑いを漏らした。彼らにとってヴィダはフォルセティの腹心であるらしい。以前後見を受けていたことを知ってか――むしろその期間は、ヴィダがフォルセティに反感を募らせるだけの時間だったというのに。

 あの連中は、大事なことは何も知らないのだ。ヴィダは内心毒づいた。


 とは言え、違うなどと申しひらきをしたところで、穏やかに切り抜けられそうな場でもない。まずは撒くしかない。彼はとりあえず踵を返すと走り出して曲がり角を適当に曲がり、いくつかは真直ぐ行って、北側の階段を二段飛ばしで下りきると扉を開けた。

 その先は玄関ホールなど比べものにならない状態だった。明るい大理石の床と壁とにはあちこちに血飛沫しぶきが飛び、誰のものともつかない体の一部が無造作に転がっている。

 その光景を見てもヴィダは眉を顰めすらしなかった。そしてその反応が普通ではないことも知っていた。だが彼は理由も考えなかった。わかりきっていたからだ。

 そんなものには慣れている。


 廊下の先で声がする。そちらに向かえば別の出口があるのかもしれない。

 撒けた気はするとは言え後ろに戻ることもできないし、仕方なく彼はそこに落ちていた見覚えのあるグローブ――誰かは分からないが肩から先だけの訓練生――が握っていた木刀を気休めに抜き取り、もうひとつ探したが見あたらないので、それだけをずるずると引きずりながら奥へ歩いて行った。


 一つ曲がり角を迎え、そこの奥に目をやった彼はようやく位置関係を少し把握した。その先の扉は裏からだが見たことがあった。

 外へ通じる出入り口もあるシューレの講堂だ。その広く薄暗い板張りの空間を抜ければ外、王宮の中庭にも出られるはずなのだが、今いる廊下からそこに続く扉はどうやら鍵が締まっているらしい。番号を合わせて解錠するタイプのものだったが、肝心の番号を彼は知らなかった。

 不自然に新しい鍵だった。最近取り替えられたのだろう。開かないのを念のため確認してため息をつき、先ほどの曲がり角まで戻って来たヴィダは、声と足音とが急に大きくなったのに息をのむと角から様子を窺った。


 その声は王妃を捜していた。語調からして、決して保護する気はないようだった。彼らは王女と王妃とを捕らえるつもりなのだ。そして殺すのかもしれない。

 国王は既にいない。むしろ崩御を待っていたかのような、この時期に。


 フォルセティがあの晩にした話を思い出す。

「すでにできてる癌」。

 彼は知っていたのだ。

 

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