8)543 M.C. II
結局ヴィダはフォルセティのことを通報せず、彼がグライトに戻ったことすら誰にも言うことはなかった――イザークを除いては。
彼は一週間考えて、それでも考えあぐねて老人の許を訪ねた。少年の側から会いたいと言い出すことなど未だかつてなかったが、それでもイザークは戸惑った様子は一切見せなかった。彼もまたフォルセティの帰還を知っていたのかもしれない。
静かな夜。寮と同じ敷地内にある小さな石造りの建物を自宅としているイザークの部屋には、王宮の堀の上を走って来た水気を孕んだ風が吹き込む。それはその場の空気より僅かに冷たく、ヴィダは一度目を伏せ、言葉を選びながら口を開いた。
「僕は、何を期待されているのか……分かりません」
「フォルセティからか」
「それもありますが」
わずかに視線を上げたヴィダに、老人はフンと鼻を鳴らした。ヴィダはナイトたるイザークの「現場では受入れられない」という意見を、教官を通じて聞き知っている。その言葉は、いくらヴィダに士官になりたいという気持ちがないにしろ、彼がシューレにいる以上、彼を全否定するものと言っても良かった。
固い椅子を向かい合わせに並べ、老人は俯いたままの少年を目を細めてしばらく眺めていたが、彼がいつまで経っても顔を上げないのにため息をつくと、やれやれとばかりに立ち上がりながら口を開いた。
「お前が何も求められていないとしたらどうする」
顔を上げた少年の表情に肩をすくめ、老人は続けた。
「成績優秀であることが一番か? 『正解』をはじき出すことや表面ばかりが円滑な世渡りができればそれでいいか。自分で考えてみなさい」
「でも僕はそれを期待されてきました」
「本当か? 誰にかな」
伏せられたままとはいえ、少年の鮮やかな赤の目が一瞬
「自分が何のために生きているのか考えたことはあるかね」
「目的なんかありません。ただ期待を裏切らないことだけしか僕にできることはない。僕は運よく死ななかったに過ぎないし、特別な価値もない人間です。あのとき本当は、サプレマが生き延びるべきだった」
片眉を上げてみせた老人に、断言した少年はちらりと目を向けた。その後彼が視線を戻した真正面には誰も座っていない椅子。イザークは窓辺にいた。
「僕はあの時死ぬはずで、ここにも望んでいるわけじゃない。けれどここにいる以上は僕は優秀でなければ価値がない、それだけのことです」
「ならば出るか。そうしたいなら手続はしてやるが」
「それは――」
唇を噛んだ少年に、老人はそれまでの厳しい顔を緩めながら椅子まで戻ると座り直した。礼節を重んじる彼には珍しく、半ば斜めに。
「聞きなさい。お前を助けて亡くなられたサプレマだがな」
「……はい」
「フォルセティとは一番の友人だったよ。奴は言ってはおらんだろうがね」
ヴィダは眉を顰めて目を閉じた。やはりそうだったのだ。絡まっていたもの、あえてそのままにしておいたものが、手からこぼれ落ちるように勝手にするすると
フォルセティにとってヴィダの命は、亡きサプレマのそれと同じ重さを持つのだ。父母も伴侶も、子も持たない彼の「一番の友人」と引き換えに生かされた命。
少年は少しして、小さな息をついてから顔を上げた。
「
「それならそれで良かろう。辞めたくなったらいつでも言いなさい」
少年は立ち上がり、深々と頭を下げると老人の部屋を後にした。
堀をはさんだ王宮の向かい、水辺の草むらで鳴く虫の声が聞こえた。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
ヴィダはその後もシューレでは特に変わった様子は見せなかった。しかし寮に戻れば話しかけられても聞いていないことが増えたので、周囲では恋煩いだとか適当な憶測が飛んでいたが、彼はそれにすら全く関心を示さなかった。
老人がヴィダに求めるものとフォルセティのそれが同じなのかはヴィダにはわからない。ただ、フォルセティは老人より近くでヴィダを見ていながら「軍人として云々」という注文を直接にしろ間接にしろ、つけてきたことはなかった。だから彼がヴィダに求めるものは、老人よりシンプルなのだろう、と思う。
自分に求められているのは、生きることへの執着だ。どう生きるかは任されている。ヴィダはそう解釈した。
しかしどうやって執着しろというのだ。自分に生かされた価値を感じることもできないのに。サプレマが自分の命を犠牲にしてまで彼を生かした理由が、そこまでして守られなければならなかった彼の価値が、いくら考えてもヴィダには分からなかった。
そうしている間にもフォルセティは「
「ナイトか」
ヴィダは呟き、フォルセティが「裏にハナクソがついている」と
あの男は間違いなくナイトの称号に相応しいのだろう。それも「忠誠」、己の定めた正義を疑うことなく貫くナイト。その名を授けた国王の目に狂いはなかった。
彼は先日フォルセティが侵入して来た窓にちらりと目をやった。そこにはもちろんフォルセティの姿はなかったが、ヴィダはその見えない影に彼ばりの緩い敬礼をすると立ち上がった。
シューレを辞めたところで、どこへ行こうと同じだ。だがフォルセティと別れ、その上ああいった形でイザークの考えを聞いてしまった以上、シューレは今の彼にはどうしようもなく居心地が悪かった。ベッドの上で布団を広げ、彼はその中に潜り込んで目を閉じた。
「ああいう大人になりたい」と思った晩も、こうして布団の下で丸まっていた。
あの頃はもっと希望があったはずだった。こうありたいという希望が。
どこでなくしてしまったのだろうか。
それとも、しまった場所を忘れてしまっただけなのか。
国王イスタエフ急逝の報が駆け巡ったのは、その翌日のことだった。
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