第四章 自由な者

第14話 変転

 武器にならない剣を収める箱は、一見してひつぎのようである。その箱をさまざまな色の淡い光が取り巻いているさまは、そんな印象をより強くするものだった。白髪の子どもが、光を操り、言葉を操り、力を操る。先ほどまで争いを繰り広げていた人々は一様に、不可思議な光景に見入っていた。不自然な地面の揺れがいつの間にか収まっていることにも気づかないままだった。ここがペルグ王国とアルサーク王国の争いの場とも思えない。

 その中でただ一人、ペルグ人でもアルサーク人でもない男だけは、奇妙な冷静さをもって子どもの背中を見つめていた。戦場へ来る前より、子どもから散々不思議な話を聞かされ、さらに非現実的な光景を嫌というほど見せつけられたおかげでもある。赤、青、黄色、緑、金色に銀色、さまざまな光が螺旋を描きながら上へゆくのを見ても「やっと始まったか」くらいにしか思わなかった。

「あ、あの、シャハーブ。これって……」

 震える声にすぐそばでささやかれ、シャハーブはそちらを見た。アルサーク軍人の攻撃を避けるため隠れていたはずのモナが、すぐ隣にいた。武器は手にある。油断しているつもりもないのだろう。だが、異常事態を前にしての動揺は、簡単に隠し切れるものではなかった。シャハーブも今はあえて咎めず、いつものように白い子どもを指さした。

「心配することではないだろう。あいつがしきりに言っていた『地の呪物じゅぶつ』の破壊とやらが始まっただけだ」

「で、でも、なんか変だよ。放っておいて大丈夫なの?」

「大丈夫じゃなければあいつがなにか言ってくるさ。天上人の常識は俺たちの非常識、おおかたそんなところだろうよ」

 光が強まって、剣の箱の中からうなり声のような音がする。光のおかげか、〈使者ソルーシュ〉の背中が先刻よりもぼやけていた。モナが、蒼ざめて後ずさる。それでもシャハーブは眉ひとつ動かさない。内心がどうであれ、動揺を表に出しはしなかった。

 間もなく、箱が震えだし、誰が持ちあげたわけでもないのに『あめつちの剣』が浮き上がって箱から出てきた。同時に、ぶ厚い書を持ったままの〈使者ソルーシュ〉――フーリが、シャハーブ達に理解できない言葉を紡ぐ。館の地下で『天の呪物』を覆っていた球と同じものが、剣を覆い始めた。

 後ろからうなり声がする。マフディのものだ。しかし気づいてなお、シャハーブもモナも、あえてそちらを見なかった。アルサーク側からすれば自分たちの所有物に手を出された格好になるのはわかる。だが、もともと、あの剣じたい、人間が手を出すべきものではなかったのだ。呪物が、世界が、あるべき形に還ろうとしているのを止められる人間などいない。シャハーブはそう確信していた。

 だが、その確信こそがこの男らしからぬ油断を生みだしたのだろう。フーリの方を注視していたせいで、彼とモナは、背後に迫る足音と気配に気づくのが少し遅れたのだ。

「ご苦労だった。どいていろ、マフディ」

 女の声とアルサーク語。それを聞きとり、シャハーブはすばやく振り返った。顔を布で覆った女が抜剣してる。シャハーブはとっさに剣をとったが、彼がその剣をふるう前に少女が女軍人の方へ飛び出した。

「モナ、よせ! おまえが敵う相手ではないぞ」

「あんたの方がフーリに近いでしょ! 行ってやって!」

「おまえがやられたら、どのみち俺が相手をしなきゃならんだろうが!」シャハーブは思わず母国語混じりに叫んだが、当然おてんば娘は聞いていない。シャハーブはしかたなく身をひるがえした。その間にも剣がいくども鳴り、そして最後に耳障りな擦過音が響いた。なにが起きたか確かめるまでもない。不幸中の幸いというべきか、エルハームはモナに長く構っていなかった。それどころかシャハーブにすら目をくれない。彼女が見すえているのは、光をまとった〈使者ソルーシュ〉の姿だけ。シャハーブは考えるより先に舌打ちした。

 人間に天上人は殺せない。フーリの言葉がふと耳の奥によみがえる。

 確かにそのとおりかもしれない。エルハームがあの剣をふるったところで、今のフーリには傷のひとつもつかないのだろう。

 だが。もしも、邪魔が入ったせいであの『儀式』が中断されたら、どうなるか。

 シャハーブたちにはわからない。おそらくそれを知るのは〈使者ソルーシュ〉たちだけだ。

 わからない、だからシャハーブは、わからないなりに、最善と思える行動をしなければいけなかった。

 両足を広げて踏みしめる。彼はそのまま手にした剣を勢いよく投げた。エルハームを狙った剣は、わずかに右へ逸れ、天幕の布を深ぶかと貫いた。布の裂ける音がする。エルハームの動きがわずかに鈍った。その瞬間、シャハーブは飛び上がるようにして、光のなかへ跳びこんだ。まぶしさのあまり半眼になりながらも、白い姿のすぐそばで体を反転し、女軍人と向かいあう。

 刹那、目の前が純白に染まった。



     ※



 どこからか鈴の音が響いた。

 連なって鳴り響く音色は、いっこうに小さくならず、静かに男の中へ入ってくる。

 意味のわからぬ音の羅列。

 それは人の声。

 知らない言葉をうたう声は、しだいに意味を帯びてゆく。

『人の子、人の子』

『我らと契りを交わす決意はあるか』

『天に遠く、地に近き者』

『天に近づく覚悟はあるか』

『変質を受け入れる、覚悟はあるか――』

 それは、彼らの、天上人アセマーニーたちからの、たった一度の問いかけだ。

 答えたのかどうかは、覚えていない。ただ導かれるままに、前へ進む。


 彼はそして、引き返せぬ領域に足を踏み入れた。



    ※



「シャハーブ!? そんな――」

 聞いたことがないような声を聞いた後。硝子がらす細工が地面に落ちて砕けるような、派手な音がした。シャハーブは音にひきつけられて、息をのむ。同時に、銀色の光が目の前を横切った。戦うことを覚えこんだ彼の体は、とっさに頭をななめに傾ける。本能から来るその行動が彼の命を繋いだ。

 顔を上げれば、目だけでも鬼の形相とわかるエルハームが、彼に剣をつきつけている。

「よくも、邪魔をしてくれたな」

 彼女の、シャハーブへ向けた第一声は、怒りのためか震えていた。シャハーブは腰へ手をのばし、そこで自分が武器を持っていないことに思い至った。かといって動揺するでもなく、いつもの調子で肩をすくめる。

「さすがの俺も、こんな展開までは予想していなかったぞ」

「そのまま大人しくしていろ。すぐに楽にしてやる」

 憤怒の言葉が終わらぬうちに、再び銀光がはしった。身をかがめたシャハーブは、低い姿勢のまま横へ駆けだす。とはいえ、天幕の中はそう広くない。彼の視界に何度も剣のきらめきが入りこんだ。

 男はなんとか天幕の際にたどり着いて、そこでもうひとふりの剣を見つける。彼自身の得物は、引き裂いた布の切れ端を刃にからませたまま転がっていた。その柄をつかんだ瞬間、空気が異様な音を立てた。

 背中に鋭い痛みが走った。シャハーブは顔をしかめる。だが、それだけだった。すぐさま体をひるがえし、立てつづけに振られた剣を受けとめる。交差する刃のむこうに、瞠目どうもくするエルハームの顔があった。黒い瞳には、驚愕と畏怖の色がありありと浮かんでいる。

「……貴様、いったいなんだ?」

「ん? 何を言っている? 言い間違えるほどヒルカニア語が下手なわけではなさそうだが」

「そうではない! 貴様はいったいなんなんだ! 私の剣は、確かに貴様の背をとらえたはずだ、それなのに……!」

 互いの剣が悲鳴を上げた。二人はほぼ同時に後ろに跳ぶ。本気で動転しているらしいエルハームを見やり、シャハーブは顔をしかめた。

 自分の剣をつかんだあのとき、確かに斬られたような痛みを感じた。だが、本当に一瞬だった。今は痛みどころか、違和感すらない。血が出ている気配も、もちろん、ない。

『自分』はいったい、なんなのか。考えたとき、耳の奥に異様な声がこだまする。

 変質を受け入れる覚悟はあるかと、声は問う。

「変質を受け入れ」たのならば、シャハーブという男は、もはや彼自身の知る存在ではない。

 ならば彼はいったい何者なのか。

「そんなの――俺が一番知りたいわな」

 こぼれ落ちたささやきを、聞きとったわけではないだろう。それでも対面にいたエルハームは両面に恐怖と怒りをたぎらせ、再び剣をにぎった。この危険な攻防をどう切り抜けようかと思いながらも、シャハーブも応じた。

 だが、二人が再び衝突することは、なかった。

 その前に、エルハームの頬に、白くとがったものがつきつけられた。それは太い針のようなもので、シャハーブが以前目にした、球体に覆われた「呪物」とよく似た空気をまとっている。それを操っているのは当然、白い子どもだった。

「そこまでだ。君たちが争う理由は、もうどこにもない」

「館主殿……」

 うめくエルハームの声には、複雑な感情がこもっている。右手に白い針を、そして左手に光るなにかを封じ込めた球体を浮かせるフーリは、相変わらず眉ひとつ動かさない。だが、彼の透明な瞳がシャハーブを見やったとき、その表面にはじめて、悲しげな色が浮かぶ。

「君は、こちらに来てしまったんだね。シャハーブ」

 思いがけないフーリの言葉に、シャハーブはなにも返せないまま固まった。

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