第4話 足音

『年齢』はない。彼らの中に『時間』は存在しないから。

『名前』はない。彼らは区別する必要がないから。

彼らは人ではなく、獣ですらなかった。

彼らにとって、すべての『獣』が生きる世は、見下ろすべき箱庭なのだ。


「名前がない? 親はつけてくれなかったのか?」

 シャハーブは、なんとか茶を飲みこんで訊きなおした。親に名前をつけてもらえなかった人、あるいは名づけられる前に捨てられるか売られるかする人が世の中にはいる。決して多くはないが珍しくもない。シャハーブ自身、旅の中で、何度かそういう者たちと会ったことがある。

 だが、子どもは言葉を否定した。

「『親』はいない。僕らには『名前』という識別記号が必要なかったから、誰もそれを持っていない」

「何を言っているかはわからないが、言いたいことはわかった」

 この場合、親がいないというのは、孤児であるという意味ではないだろう。しかしそうなると、本当にこの子どもは人ではないのだな、と、シャハーブはなんともいえない虚無感にかられて子どもを見た。ひょっとしたら、獣でも魔物でもない、自分たちの知らない存在なのかもしれない。怖いと思うより先に、少し興味がわいた。

「しかし、それではおまえ、オーランにはなんと呼ばれていたのだ」

「確か、クチュと呼ばれていた」

「名前、というよりあだ名だな、それは」シャハーブは、肩をすくめる。

 それにしても、クチュ(チビ)はいくらなんでも安直かつひどすぎはしないだろうか。しかし、それを語る子どもはどこか懐かしそうでもあるし、大賢者に悪気はなかったのかもしれない。思いつつも、シャハーブは、自分の中のオーラン像が崩壊しはじめたのを感じた。

「気になるようなら、シャハーブ、君がつければいい」

 いきなり名前を呼ばれ、男は意外な心地になる。その後、提案をしゃくすると、形のよい顎に指をひっかけた。

「俺が? よいのか? 今度は赤ん坊ベベあたりになるかもしれないぜ」

「構わない。それが君にとっての、僕の『識別記号なまえ』だ」子どもは、にこりともせず言った。毒気を抜かれたシャハーブは、いつもよりまじめに考えこんだ。

「そういえば、おまえは男か? 女か?」

「性別はないよ。僕らにそういう概念はない」

 考え半分、口に出した質問に、すぐさま答えが返る。それも、また衝撃の事実ではあったが、ひとまずは、右の耳から左の耳へ流しておいた。視線を子どもの顔と絨毯の間で行き来させたシャハーブは、しばし経ってから、音の雫を卓上に落とした。

「フーリ、というのはどうだろう。女の名前ではあるが」

 どちらかというと少年に見えなくもない子どもに問えば、彼は長いまつ毛を瞬かせた。シャハーブは、緊張感などかけらもなく、茶に口をつける。少なくとも『チビ』よりはましだろう、と思いながら。

「嫌なら変えるぞ」

「いいや。シャハーブがいいなら、それでいい」

 淡々と言った子ども――フーリは、それから自分のグラスの表面を見下ろす。その瞳の奥に、はじめて感情らしきものが灯った。

「……不思議なものだね。自分が、人間になったみたいに、感じる」

 嫌な推測を裏付ける独白を、シャハーブは黙って聞いている。いや、言葉が出なかっただけだ。彼そのものに、なぜだか視線をひきつけられて。

 消えそうなささやきを落とす彼の姿は、まさしく妖精フーリのようであった。



     ※



 熱と乾きに支配された昼が終わると、寒冷が支配する夜がやってくる。暴力的なほどの輝きが西の地平へ沈み、月が静かな光を振りまく中でも、不自然に存在する森はその威容を、もこもことした影の形で見せつけていた。森に唯一の獣を恐れ、『叡智の館』を畏怖してか、人々は、昼夜問わずこの森に近寄らない。そのはずが、この日は妙に客が多かった。昼間には好奇心にかられた旅人が、そして夜半、今度は人目をはばかる影二つが、草木を分け入り森に入る。

 彼らは、うっそうと茂る木々を巧みに使い、自らの姿を隠しながら、森の奥を目指した。人がいないことはわかっている。だが、『叡智の館』の主が、森の動物を味方につけている可能性も考えていた。ゆえに、誰にも見られてはならなかったのだ。獣にさえも。

 ふたつの影は、走る。静かなる一陣の風となり、走る。

 やがて、やや前を行っていた影が動きを止めた。分厚い衣に身を包んだ人間の姿が、かすかな月光のもとに浮かびあがる。顔も体も見え泣きうなっているが、体の形からして、男だった。男は、後続のもう一人を手招いたのち、木々の下を指さした。二人は、そろって息をのむ。

 枝葉の下に見えるのは、茶色い屋根。そこにあったのは、大きな館。森の最奥、どう考えても人など住まなさそうな場所にぽつんと建つ館は不自然で、闇夜の中ではぶきみですらある。それを見下ろす二人の目に浮かんだのは喜色だった。

「見つけた」

 布の下から、ささやきが吐き出される。くぐもった音は、人々の間でアルサーク語と呼ばれる言葉。彼の声に反応し、もう一人がうなずいた。けれど、彼はすぐに顔をこわばらせ、背中に手を回した。

 地上から、狼がじっと二人を見上げている。狼が脚をたわめるより早く、人間の持つ弓矢がうなった。細い矢は、光となって飛ぶ。目と目の狭間に矢が吸いこまれると同時、狼が力を失ったように見えた。

 二人は顔を見合わせうなずくと、すばやく身をひるがえす。

「急ぐぞ。エルハーム様に報告せねば」

「ああ」

 短い応酬をしたきり二人は黙った。再びその身を風に変え、奇妙な森を駆け抜ける。

 二人はだから、知らなかった。眉間に矢を受けた狼の体が溶け、光となったことを。その光が、館の方へ飛んでいったことを。


 森を出た二人が向かったのは、荒野の中でも岩が多く、人目につきにくい一角だった。ほんのわずかな火の明かりを見いだして、二人は駆ける。馬でも駱駝でもなく、徒歩かち。動物に乗っていては、いくら夜とはいえ、目立つからだ。

 岩と岩の間を器用に抜け、跳びこえながら短い合図を送る。同時、眼下に見えた人の集団の中から、二、三人が出てきた。

 合図が返ってくる。二人は顔を見合わせうなずくと、一気に人の群の前まで飛び降りた。

 夜の闇と、とうの下に砂塵が舞う。三人のうち、先頭に立っている一人は、砂をわずかに浴びても怒らなかった。それどころか、尊大に、満足そうにうなずいている。

「偵察ご苦労」

 くぐもった声を受けとめて、二人はその場でひざまずいた。すぐ、顔を上げるよう指示されて、従う。

 彼らの指揮官たるその者の顔は、見えない。夜だからではなく、顔を大きな布で覆い隠しているからだった。二人にうかがえるのは、鋭く光る、大きな黒い瞳だけ。

「報告を」

「はっ」一人が応じて、続ける。

「『叡智の館』を発見いたしました」

 一言が落ちたとたん、その場がざわめきに包まれた。指揮官も、太い眉をわずかに上げる。

「よくやった。周囲に人はいたか、見張りは?」

「人気はありませんでした。番犬らしき獣が配置されていましたが、退けることは可能でございます」

「……ふむ」部下の報告に、指揮官は思案顔になる。だが、それもわずかなことであった。どこか楽しげにうなずくと、いきなり、身をひるがえしたのである。

「詳しい場所を教えろ」

 驚いている二人に命令が飛んだ瞬間、向こうの闇のなかから声がした。

「まさか赴かれるおつもりですか!?」

 太く張りのある男の声だが、少々ひきつっているせいか、迫力に欠ける。指揮官は、うんざりした様子で、そちらをにらんだ。

「当然だ。敵地にあるとはいえ、神聖なる『叡智の館』ぞ。私が行かなくてどうする」

「し、神聖なる館とは言われてはおりますが、何がいるかもわからぬ場所です。いくらなんでも危険すぎる……!」

「先発隊が危険を恐れてどうするか。そんなに心配なら、マフディ、おまえもついてくればよい」

 言い合う声を聞きながら、森の偵察を終えたばかりの二人は、互いをうかがい苦笑する。マフディ殿も大変だな、と、それぞれの声なき声が語っていた。その間にも、言い合いは過熱し、沈静していった。結局、彼らの指揮官は補佐役の男をともなって、『叡智の館』へ向かうことになりそうである。



     ※



 シャハーブは、闇の中で目を開く。

 やけにきれいな天井が見えて、一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。だが、それも一瞬のこと。『叡智の館』とそこで出会った奇妙な子どものことを思い出した。例の子どもに名前を付けたあと、気づいたら一晩泊めてもらうという話になったのだった。記憶をなぞれば、生ぬるい笑声がこぼれる。

 シャハーブは静かに起きあがった。かたわらに置いていた剣に手を伸ばす。同時、扉が控えめに叩かれた。念のため、黙っていると、「シャハーブ、僕だ」とくぐもった声がした。

「入っていい?」

「お好きに、あるじ殿」シャハーブがおどけて言うと、扉が静かに開かれる。一筋の光が入って、その端で子どもの影が揺れた。広間の方は夜だというのに明かりを灯しているらしい。少しそちらに興味を持っていかれかけたが、シャハーブはすぐ目もとをひきしめた。『叡智の館』の主が、ずいぶんと険しい表情をしていることに気づいたからだった。

「何かあったのか、フーリ」

 確信を抱きながら尋ねる。フーリは小さくうなずいた。

「森に悪意を持った者が、館に近づいたみたいだ。『彼ら』から知らせがあった」

「あの番犬?」

「そう」

 フーリが首を縦に振る。白い髪の毛がさらりと流れた。

 シャハーブは、返答を聞くやいなや、掛布をはぎ取り、上着をはおった。そこへ、無感情な声がかかる。

「シャハーブ、君は隠れていてほしい。相手の目的は知らないが、ここに僕以外がいると知れたら、間違いなく巻き込まれてしまう」

「それは困るな。では、大人しくしているとしよう」あっさりフーリの言葉を受け入れた男は、わずかに驚いている彼を見返し、つけ足した。

「面倒そうだと思ったら逃げさせてもらうからな」

「――うん。そうしてくれると、助かる」

 幼子のなりをした人外は、安堵したように笑うと、静かに扉を閉めた。遠ざかる足音を聞きながら、シャハーブは寝台を下り、扉の前に座った。

「あんな顔をするとは、思わなかったな」

 薄い笑みを刷き、シャハーブはひとりごつ。

 厄介なだけの面倒事は嫌いだが、『悪意ある者』の素性には興味がある。鉄壁の無表情を崩した、ぶしつけな客人の顔を拝んでやるくらいはしたかった。

 悪童の心を持った男が、背を丸めて待っていると、やがて、フーリ以外の声がした。

 少しの期待を抱えながらその声に耳を澄ませたシャハーブは――しかし、じょじょに顔をこわばらせ、最後には扉に耳をつけて息をのむ。分厚い扉越しに聞こえた声は、女と、男。そのどちらもが、シャハーブにはあまり馴染みのない言葉を話していた。

 馴染みはない。だが、知っている。

「アルサーク人か!」

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